宇宙飛行士ピルクス物語

OPOWIESCI O PILOCIE PIRXIE

スタニスワフ・レム
1971

 とてもとても長いこと本棚にあって、「お前、レム好きなくせに、いったいいつ読むんだよ」状態で私をぼんやりと悩ませ続けていた作品。2025年、とうとう読んだぜ。
 ポーランドで発表されたのが1971年(調べると1968年という記載もあるが、出版本の記載に準拠)。いまから54年前である。日本では1980年に単行本、2008年に文庫本として翻訳出版されている。レムは2006年に亡くなっている。
 そして、この本を買ったのは2008年だと思う。長い時間積んで置いてしまった。
 2025年のいま、読んで良かったと感じている。ここ数年で急速に進化し、また、使われるようになったAIについて深く考えさせられる作品だったからだ。
 レムといえば、1960年代に発表された「ソラリスの陽のもとに」を筆頭に、「エデン」「砂漠の惑星」のように、人間とは違う「知性」について洞察した作品群が初期の代表作になっている。
 また、サイバネティックス論に深く、ロボットを題材にした作品もあり、「宇宙創世記ロボットの旅」はとても面白かった印象がある。とはいえ、はるか昔に読んだので作品について内容は思い出せていない。
 だから、読めばおもしろいのだろうな、と、思いながら、なぜだか読まずにいた。
 体裁としては宇宙飛行士のピルクスを主人公にした連作短編の形式を取っており、ひとつひとつの作品はほぼ独立して描かれている。また、ピルクスも若く宇宙飛行士の最終選抜試験を受けるころの話しから、老成して引退を考える時期まで書かれているが、その時系列は特に全体にはあまり影響しない。
 出てくるエピソードのひとつには、太陽系に入ってきた恒星間天体の話がある。そう2017年のオウムアムアみたいな話である。この恒星間天体が自然由来のものか太陽系外知性体の影響を受けたものかという議論はいまも一部に残っているが、そういうテーマをうまく扱っている。
 それから、やはり近年情報公開された地球での未確認飛行物体の戦闘機によるレーダー確認のいくつかが機械上のバグであったという問題、これはコンピューターによる解析や人間が自然状態では認識できない情報を袖手する高度な情報入出力装置(レーダーなど)が、意図しない挙動をすることで人間側が認識を誤るという問題なのだが、これもうまく考えさせられる作品があったりする。
 とりわけ、人工知性体(ロボットや自動操縦装置みたいなもの)と人間の近くや判断、行動規範の違いについても、宇宙飛行という極限状態で広い視野を持つピルクスという主人公の存在により題材としておもしろくかつ辛辣に描かれている。
 AIへの依存を高めているいまこそ、こういう作品は読む価値があるのだ。

 ところで、私が手にしている文庫本は1980年単行本から、翻訳時の用語などを整理し、コンピューター時代らしく元の含意に沿った用語に置き換えられている。この作業をされたのは、原翻訳者の深見弾氏ではなく、深見氏の死後、大野典宏氏の手によるものであり、おそらく読者にとってはより深く原著を理解する手助けになったものだと思う。それだけレムが時代の先をいっていたのだろう。
 一方で、2008年の時点ではコンピュータ(というよりAI)が自意識を持つ可能性については強く否定されており、あとがきの解説で大野氏もレムが「強いAI」について実現性を否定していたが、2025年の今日、その実現可能性は日に日に高まっている。そのあたりの時代変化も、いまだから読み取れる。

 多くのSF小説は書かれた時代と読まれる時期によってその価値やきらめきを失っていく。それはSF小説の宿命的なものであるが、その中でも、長い時間生き残る小説、作品はある。1971年に発表された本作を、2025年のいまはじめて読み、その設定や表現に「古さ」や「ありえなさ」はあるものの、書かれている本質的なことについては、いまこそ読むべき作品のひとつだと思った。レム、おそるべし。

 あ、でも、レムだから、ユーモアたっぷりだし、ちょっとミステリ要素もあって純粋におもしろいよ。

ダーウィンの使者

DARWIN’S RADIO

グレッグ・ベア
1999

 2000年にソニー・マガジンから大森望さんの翻訳で出版された単行本「ダーウィンの使者」。当時、買って読んでいたのだが、「丸目はるのSF」をはじめたのが2003年末なので、すっかり忘れていた。調べてみると続編の「ダーウィンの子供たち」はヴィレッジブックスから2010年に出版されている。この時期は仕事でばたばたしていたのでハヤカワや創元以外はほとんど目に入っていなかった。すでに続編は入手困難になっているではないか。がーん。とはいえ、「続編もあるかもね」という終わり方の作品なので、とりあえず良しとしよう。
 舞台は21世紀初頭の地球。コンピュータサイエンス、バイオサイエンス、通信技術が急速に発展しつつある世界である。書かれた当時の近未来なのだが、それから25年以上経ち、SF作家の予想を上回る発展のしかたに少々驚きながら、すこし懐かしい未来と思って再読する。
 テーマは、パンデミックと人類の進化。
 登場人物はものすごく多いが、主要登場人物として3人が挙げられる。
 ミッチ・レイフェルスン。悪名高く学会から事実上追放されている古人類学者。アルプス山中でネアンデルタール人の成人男女と現生人類の新生児の遺骨を発見したことから、さらなるトラブルに巻き込まれ…。
 ケイ・ラング。分子生物学の天才科学者。グルジア(現ジョージア)共和国でのバクテリアファージウィルスの研究のために滞在していたところ、国連平和維持活動本部から非グルジア人で法医学のキャリアのある唯一の科学者として調査に同行するよう強い要請を受ける。妊婦の大量遺骨が発掘されたため、その時期や背景を判断することを求められたのだ。一時的な任務だったが、それはのちにケイ・ラングの選択に大きな影響を与えることとなる。
 クリストファー・ディケン。アメリカ国立感染症センター(NCID)のウイルスハンター。アメリカ疾病対策予防センター(CDC)の下部機関で、世界中の感染症を調査し、パンデミックの兆候を調べるための専門調査官である。グルジアの現場でケイ・ラングと接触。アメリカに帰国後も、アメリカや各国ではじまっていたパンデミックの原因と対策について政治的、医学的に奔走することになる。

 そして、起きているパンデミックは「流産」。ヘロデ流感と名付けられたそれは、ヒトの遺伝子に含まれる内在性レトルウイルスがなぜか活性化し、SHEVA粒子を生み出し、それが原因となって流産を引き起こすのである。そして、さらに、驚くべきことがおきはじめる。
 公衆衛生上の危機、生殖上の危機、男女の関係性の危機が一度に押し寄せてくる。
 原因究明、政治的な対応、ワクチンの開発、感染源の隔離…。次々に変化する情勢に翻弄される登場人物たち。とりわけ、その対応の中心近くに居て巻き込まれてしまうケイとクリストファー。対応の辺縁にいて悩むミッチ。
 この感染症の鍵はどこにあるのか。ワクチンや隔離、対策は成功するのか。
 人類はどうなる。そして、タイトルに秘められた「ダーウィンの使者」とは。
 進化論の解釈もひとつの鍵となる。

 物語としてはバイオスリラーみたいな感じかな。でも、人工ウイルスとか、ワクチンによる人類改造といった、現実世界で起きたパンデミックに流布した陰謀論やトンデモ仮説みたいな雑な話しではない。自然は、生物界は、進化をどのように成し遂げていたのかという壮大な風呂敷広げる物語なのである。そして、人は右往左往するしかないのだ。

 執筆から25年、バイオサイエンスは飛躍的に発展し、基礎知識も、応用技術も新たなステージに向かおうとしている。その意味ではちょっと古いかも知れないが、久しぶりにおもしろく読ませてもらった。

 続編は「ダーウィンの子供たち」。
 そう、本作で生まれた「新人類」はどうなるのか。

テレビアニメ「まんが日本史」

製作 土田プロダクション、脚本 田代淳二

 日本テレビ系列で1983年から1年間、全52話放送のテレビアニメで、小学館の学習漫画「少年少女日本の歴史」を参考に制作された作品。
 配信で流れていたので数年前の今年2025年の2回流し見しました。今年は参議院議員選挙で歴史認識がめちゃくちゃな政党、候補者があってぐったりしたので、「まんが日本史」で気持ちをリセットしようと思ったのだ。
 夫婦別姓なんて日本の長い歴史で支配階級では当たり前のことだったし、言語も文化も大陸からやってきていたし、歴史の初期から外国からの人との交流によって発展してきたんだ。なにをいまさらそんなことを強調しなければならないんだ、と。
 もっとも、日本列島の有史以前、その後の歴史学、人類学、遺伝学などの研究により「日本人」と呼ばれる民族のルーツが一方向からだけではなく、様々なルートを辿って混交して形成されたことが明らかになっているし、有史後の歴史も新たな研究により制作時よりも深まっているから、このアニメを歴史の教科書としてお薦めすることはできないが、歴史に関心を持ったり、歴史をきちんと学んだ上で見ると、それはそれでおもしろい。
 とくに、このシリーズの特徴は、本編の後に「おねえさん」が「男の子」と「女の子」の兄妹にワンポイントで追加説明するのだけれど、この「おねえさん」が実に良い。すっとぼけた顔をして現代的視点から為政者をぶったぎり、現代的価値観の大切さを子供たちに伝えていく。後半になると、日本が米英仏などの植民地化されなかった時間軸に触れて、「単に運が良かったのね」と、幕末、維新期の日本の政治的、軍事的実力ではなかったことをすっぱり切る。いいぞ、おねえさん。
 さらにおもしろいのは、同時期の東アジアやヨーロッパ、中東の歴史を短く紹介している。島国であり、人類史上は比較的後期に集団形成されてきたことから、日本の歴史が中国や中東、ヨーロッパに対して、文明的には後追いであることがよく分かる。もちろん、その中でも島国として徐々に独自性をもってくるのだが、それもふくめて人類史の中のひとつであることも見えてくる。
 台所仕事しながら流し見るにはちょうどいい作品なのだ。
 類似の作品に「ねこねこ日本史」もあるが、こちらはもっと歴史をデフォルメしているのである。大長編なので、見流しするにはいいぞ。

ロボット・イン・ザ・ハウス

A ROBOT IN THE HOUSE

デボラ・インストール
2017

「ロボット・イン・ザ・ガーデン」の続編である。前作はぽんこつロボットとぽんこつ青年の珍道中、大人のためのジュブナイルだった。今回はふたりのロボットの青春?とふたりの人間の中年の危機の物語、なのかな。
 さて、前作でぽんこつ青年・ベンとぽんこつロボット・タングは長い旅を終えて、とりあえずイギリスのベンの家に戻ってきた。ベンの元妻エイミーにはベンと別れた後に妊娠が発覚、女の子のボニーが誕生し、ベン、ベンの元妻(のままの)エイミー、気持ちは少年のタング、生後9カ月のボニーという家族とも同居人ともつかない暮らしが続いていた。ある日、庭に、ロボットがひょっこり現れた。「黒い球体で、頭から針金ハンガーのフックや型の部分に似た金属が勝手な角度に突き出している」名前をジャスミンというロボットである。彼女はタングの製作者であり、マッドサイエンティストのボリンジャーによってタングを取りもどすためタングとベンの居場所を特定し位置情報を発信することだけをミッションとして作られ、送り込まれてきた新たなロボットだったのだ。

 で、そこから、ジャスミンをめぐる騒動がはじまる。
 ジャスミンと人間たちの関係性、ジャスミンとタングの関係性。タングとボニーの関係性。タングとベン、タングとエイミー。さらには、エイミーとよりを戻したくてしかたないけど、これ以上嫌われたくないベンと、子どもを抱え、弁護士事務所から解雇されてしまったエイミーの複雑な気持ち。
 物語はベンの視点から描かれる。中年だめ男性の関係性再構築の物語だ。しかし、関係性は日々変わっていく。赤ん坊のボニーは育つ。ロボットのタングだって、これまでも内面は成長してきたし、成長を続けている。タングと同じく作られたジャスミンはやはりミッションには不必要な自我と意識を持っており、関係性の変化は双方向に起きてくる。
 自我と意識は、他の自我と意識と接すると変化するのだ。それは成長であったり、成熟であったりする。
 ベンも、エイミーも、中年だって成長するし、変化する。
 日常の中の小さな出来事の繰り返しが5つの自我(というにはボニーはまだ早いけれど)を成長させ、変化させていく。
 そういう「半分家族」の物語だ。
 とくにタングとジャスミンの関係性は、アニメ「WALL・E」によく似ている。ぽんこつのロボットと高性能な無口なロボットの出会い。さてさて。老境に差しかかったおじさん、ほのぼのしちゃったよ。

くらやみの速さはどれくらい

THE SPEED OF DARK
エリザベス・ムーン
2003

 エリザベス・ムーンといえば、「若き女船長カイの挑戦」の5部作中3作がすでに訳されている。続編を楽しみにしていたのだが、その後翻訳される気配はない。残念。こちらは同時期に訳されたネビュラ賞受賞の作品だが、エンターテイメント色の強い宇宙もののミリタリーSFである「若き女船長カイの挑戦」とはまったく趣の異なる作品である。
 長いこと自分の中での課題図書であった。だって「感動の21世紀版アルジャーノンに花束を」なんて釣り文句が書かれているのだから、心が落ち着いているときでないと読みにくいではないか。年齢を重ねるにつれて「重たい」話に弱くなってくるし、少し避け気味になってしまっている。

 そうはいっても、課題図書。読みました。もちろん、読んで良かったです。良いことは分かっているのですから。どうして良いことと分かっているのに、そうやって理由をつけて避けてしまうことがあるのでしょうか。自分ではままならないのでしょうか。そうして今読む選択とはなんでしょうか。その動機は?わかりません。60年生きてきても、自分の選択の動機や理由などは分からないものです。分からないなりに、選択し、それはなるべく後悔しないで済むように心がけているだけです。難しいですね。

 さて、本書の舞台は近未来、自閉症(こんにちでいう「自閉スペクトラム症」)が出生前に「治療」できるようになった社会である。とはいえ、比較的新しい技術であり、出生前治療ができる前に生まれたのだが、一定の治療を踏まえて支援体制があれば、その知的特徴を生かした高度な知的労働を行なうことで、「ノーマル」な人たちと変わらない収入を得ることができる人たちもいる世界である。ちなみにここで「治療」とか「ノーマル」とか表現をかっこつきで表現しているが、21世紀初頭の現実の世界では障害のあり方や程度も様々であり、支援の必要性の幅も異なる。また障害であっても一方でそれは個人の特質という面もあるので、小説の中の表記を、その全体像抜きにここで記載すると違和感や誤解につながるかもしれない。
 作者のエリザベス・ムーンは時間をかけて執筆当時での当事者や支援者、研究者などとの長いやりとりを行い、本作を書き上げている。
 その成果はていねいに自閉症と社会のあり方や、主人公のルウ・アレンデイルという魅力的な主人公に現れている。

 自閉症のルウ・アレンデイルは、製薬会社で持ち前のパターン解析能力を生かして働いている青年である。中級クラスのアパートメントで一人暮らしを満喫中。クラシック音楽を聴き、車を運転し、趣味は古典的スタイルのフェンシング。対人関係には困難はあるが、自分のライフスタイルを変えなければさほど問題はない。最近はフェンシングの仲間の女性とそこはかとない相思相愛になりつつある。
 しかし、ルウの周りが少しずつ騒がしくなる。直属の上司はルウたち自閉症のチームに理解があるが、新しく転任してきたさらに上のボスは経費の無駄だとして彼らを排除しようと考えた。動物実験ベースで出生前ではなく成人後に脳を薬剤等でいじることにより自閉症の対人関係困難な状況を改善するという治療法を彼らに試そうと画策する。
 一方、フェンシングの仲間の女性との関係は少しずつ縮まり、また、大会に出てそのパターン解析能力によるフェンシングの能力の高さを披露した結果、陰湿な犯罪被害を受け始めることになる。いやおうなく新しい状況と新しい対人関係にさらされていくルウ。
 ボスが強制的に進める治験について詳しくなるためルウは苦手だと思っていた生化学について独学をはじめる。そしてルウは少しずつ「変わり」はじめる。そんなルウの選択とは。

 タイトルの「くらやみの速さはどれくらい」とは、光と光のない「くらやみ」についての話である。くらやみは光より常にその先にあるということは、くらやみはもしかしたら光よりも早いのではなかろうか、という問い。含蓄深いね。

 これは全体を読んでからの話だけど、文庫版で503ページからの第18章のおわり、「ピザにのせたアンチョビ」をめぐる自己認識についてのルウの自問自答がある。2ページ以上にわたり、アンチョビが好きな自分とアンチョビが嫌いな自分をめぐり、実に、実に、実に読み応えがある。もうこれを書きたかったのではないかと思うぐらいによい文章だ。

 実はここにいたるまで、一章一章ゆっくりとしか読み進められなかった。激しい展開があるわけでなくSFではなく状況描写的な普通小説としても読めるので夢中に読み進めるというより一章読んではちょっと頭で整理を付けて、という感じだったのだ。でも、途中でやめずに良かった。良作。「アルジャーノン」も名作だけど、全然違う。これは人格、自己認識と「選択」の物語だ。

 余談。本書は古本店で手に入れたのだが、都心のホテルの案内図をプリンタで打ち出したA4の紙とその裏にボールペンで書かれた女性の漫画的スケッチが2枚描かれていた。古本を手に入れるとときおりこういうことが起きる。多いのは航空券の半券や本のレシート、本屋さんのしおりなどだが、ときにはメモのようなものがはさまっていることもある。本への書き込みはちょっと困るが、こういうのは少し楽しい。この人は、この本を持ってどこかから都心の(ちょっといい)ホテルに泊まったのだろうか。そうして一人でこの落書きをしたのか、それとも誰かが書いたのか。この本はどこで手放したのだろうか…。どんな気持ちでこの本を読んだのだろうか。考えるのも少し楽しい。

映画 侍タイムスリッパー

2024年、安田淳一監督作品。

 公開中友人らからとてもおもしろい映画だと絶賛されていた。
 残念ながら映画館で見られなかったのが配信に入ったのでおくればせながら見た。
 とてもよい映画だった。舞台は現代だが、時代劇愛がこぼれんばかりにあふれていた。
 もともと時代劇とは縁のない生活をしていたのだが、連れが時代劇にくわしく、その縁でここ20年ほど読んだり観たりしていたのが幸いした。
 池波正太郎の「剣客商売」も一通り読み、ドラマの藤田まこと版などはほぼ全作見ていたので、その際主人公の息子「大治郎」役をしていた若き山口馬木也が良い感じに歳を重ねていて、本作では主役としてよい演技をしていた。
 私自身も子どもの頃、体力増進のために剣道をすこしだけやっていたので、こういうチャンバラには一言、二言ある。剣道と「殺陣」はもちろん違うものだが、一対一の練習シーンなどには釘付けになってしまう。

 さて、話は簡単で、江戸末期の侍が決闘中に雷に打たれて21世紀の現代にタイムスリップしてしまうが、場所が京都の時代劇撮影所であった。エキストラの切られ役と間違えられたり、まわりの人たちに優しくされ、記憶早々の役者の卵として扱われて、時代劇の「切られ役」として生きる道を模索する。しかし、21世紀の現代は時代劇冬の時代。テレビでも映画でも時代劇はほとんど作られていない。「切られ役」「殺陣」の需要も激減している。そんななかでも筋の良い、礼儀正しい中年切られ役として重宝される主人公。しかしそこに思わぬ人物が現れ…。
 というもので、タイムスリップではあるが、SFというよりコントの「もしも」シリーズの映画化みたいな感じ。笑いあり、人情あり、チャンバラありの手に汗握る一大エンターテイメントであった。
 「カメラを止めるな!」に続き、インディーズの低予算エンタメはときにすごい映画ができるね。
 映画の後味もよくて、みんな楽しく映画を作っている感じがして、よい。
 注目すべきは「音」の使い方。剣が打ち合うときの効果音がシーンごとにうまく当てられていて、それがちょっとした感動を生んでしまう。
 全力でお勧めしたい。

時に架ける橋

A BRIDGE OF YEARS

ロバート・チャールズ・ウィルスン
1991

 すっかり忘れていた。好きな作家なのに。ごめん、ロバート・チャールズ・ウィルスン。「時間封鎖」「無限記憶」「連環宇宙」の作家じゃないか。タイムトラベルものを敬遠する傾向があるからといって、なんでこの作家の長編を読み損ねていたのだろうか。反省。やっぱりおもしろいじゃないか。わかりやすくて、おもしろくて、読みあきさせない。しかも、後の「クロノリス」や「時間封鎖」三部作、「楽園炎上」にもつながるような小道具としての「時間」の使い方と、登場人物の受け止め方がじつにすばらしい。

 舞台は、1989年のベルタワー。アメリカ北西部の太平洋岸にある霧の多い小さな町である。主人公のトム・ウインターは生まれ育ったこの町に戻ってきたところだった。妻と別れ、仕事を失い、兄夫婦の暮らすこの町へ。そこで、トムは森の中の古い一軒家を紹介されて購入する。物語はそこから動き出す。
 さかのぼって1979年。その家に住むタイムトラヴェラーのベン・コリアーは21世紀末から来たとおぼしき襲撃者によって殺され、森の奥の小屋の中にうち捨てられた。それ以後、誰も住むものなく、公売にかけられ、トムがその家を買ったのである。10年の間だれも住んでいなかったのに、家の中はとてもきれいで塵ひとつなく、そして。
 もうひとつの舞台は1962年のニューヨーク。トム・ウインターは時と空間を超えてきた。そこで彼はおせっかいで声の美しい女性のジョイスに出会う。妻のことを忘れられないでいたトムにとって、ジョイスは輝いていた。

 ということで、1979年の凄惨な襲撃事件をプロローグとして、「自分探しさえもできていない、少年の頃に時間を置き忘れてしまったかのような迷える青年トム」の物語がはじまる。1989年の田舎町の郊外と、1962年の発展する大都市ニューヨークのはざまでトムが他者とどのように接しふるまうのか。それを基軸にしながらも、タイムトラヴェラーの秘密、襲撃者の謎、そこから垣間見える時間をあやつる未来の姿。いく人かの人生が交差し、変わっていく。それは必然なのか、それとも時を行き来したことによる改変なのか。
 主人公の1989年を生きるトムは、時間移動技術に偶然遭遇しただけであり、「そこにあるから使う」だけの存在である。その技術的な内容やタイムパラドックスについてはトム自身は知りようがない。知らなくて使っているから、トラブルにも巻き込まれるが、そもそも何かのスイッチを押したり制御したりできるものでもないから、トラブルも極めて人間的なものだったりする。そういう「状況に置かれた」というのがポイントなんだろう。

 背景に未来の世界、未来の人類、未来の技術という大きなものを予感させながら物語は、80年代末と、1960年代初頭の独特の空気感をまとって進んでいく。このバランス感覚が作者のお得意とするところで、のちの作品群に昇華されていくのである。

アルベマス

RADIO FREE ALBEMUTH

フィリップ・K・ディック
1985

 SNSでつい最近「アルベマス」の世界のようだという投稿をみかけて、再読することにした。40年近くぶりの再読のような気がする。

 手元にあるのは1987年に大滝啓裕訳、サンリオSF文庫版である。手に取ったのは社会人なりたての頃。本書はサンリオSF文庫の最終刊となった作品でもある。いろいろ思い出深い1冊だ。大学生の頃、ディックに没頭した時期がある。時は情報化がブームになった頃で、ワープロ、パソコン、INS(総合デジタルサービス)なんていう言葉が踊り、情報の双方向化と集約・分散化がもたらす未来が盛んに議論されていた頃である。ディックはいち早く「仮想」「情報化」がもたらす社会の変化や、権力・支配との関連について、様々な作品で可能性と問題点を示唆していた。それは明確な未来ヴィジョンとまでは言えないが、人間の思考と行動パターンが社会を作り、技術もその延長にしかないことから敷衍したディックならではの思索の結実でもあった。そして、ディックは、初期のくだらないガジェットたっぷりの作品群から後期のもうなにがなんだか分からない世界にいたるまで、ずっとこのテーマを内側に秘めていたのだと私は思っている。

 本書は、ディックが正式に発表した最後の3作品「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」のいわゆる「ヴァリス三部作」の準備稿のような作品である。死後発表されたものであり、ディック本人が発表する気があったのかどうかは分からない。またこの作品の執筆時期や「ヴァリス」に連なる位置づけについても、私が知るのは、このサンリオ版の訳者による解説までである。その後も、ディックをめぐる文学的研究は、日本やフランスを中心に行なわれているはずであり、理解は深まっているのかも知れないが、ここでは置いておこう。

 本書は、第一部「フィル」第二部「ニコラス」第三部「フィル」の3部構成からなっている。「フィル」とは、作者本人、すなわちフィリップ・K・ディックのことである。若い頃からSFを書いて生計を立て、やがてそれなりに成功した本人そのものである。ニコラス・ブレイディはフィルの親友で若い頃はレコードショップに勤め、やがてプログレッシブ・レコード社のプロデューサーのような職を得る。
 アメリカは、フェリス・F・フレマント大統領の下、急速に警察国家化していた。彼は政敵を噂と誹謗中傷と陰謀論で貶めながら政界をのし上がり、やがて「アラムチェック」という本当にあるかどうかも分からない陰謀によりアメリカが共産化されつつあるとして、密告と監視と統制による支配体制を確立していた。その当時、世界の敵は共産化の親玉であるソヴィエト連邦であり、当然アメリカの敵はソヴィエトのはずであるが、共産化を憎むというフレマントは、ソヴィエトと必ずしも対立しているとは言えなかった。ふたつの大国が同じような社会になりつつあったのである。
 そこに、ニコラスに啓示をもたらす「VALIS」がからんで、SFなのか、神学なのか、妄想なのか、というディック後期の表現がくり返されるのだが、その、神学や妄想といった部分をすっぱりと差し引いてみれば、アルベマスの世界は、とても今に似ている。
 本作のフェリス・F・フレマント大統領は明らかにニクソン大統領を指しているが、むしろ第2次政権となった2025年のトランプ大統領のふるまいだ。

 本書でも、ディックは主人公たちを散々な目に合わせる。登場人物作者本人であっても容赦ない。そして読者を鼓舞するのだ。最後にすべてを失い絶望したフィルが強制労働の最中に出会ったレオンに言われる。
「それなら、おまえが聞きたくもないかもしれないことをいわなきゃならないな。おまえのアラムチェックの友達がここにいたら、そいつらにもいってやる必要がある。それじゃだめなんだぞ、フィル。この世界でなきゃいけないんだ」「まずこの世界でやらなきゃならないんだぞ、フィル。ほかの世界でうまくいっても駄目なんだ」「それはな」「苦しんでいるのはこの世界だからだ。不正や監禁が横行しているのはこの世界だからだ。おれたちのように、おれたちふたりのようにな。この世界に必要なんだぞ。それもいま」

 絶望的な状況の中で、希望をもつことを忘れるなと繰り返し告げる。
 妄想としての希望ではなく、現実につながる、変えられる未来についての希望だ。
 そして、未来はつねに今の先にある。

 さて、SF的なガジェットとしては数千年前には地球軌道に届いていたと考えられる高度な異星知性による人工衛星の存在ぐらい。この人工衛星から発せられる「情報」と、ラストシーンの「情報」。原題は「自由アルベマス放送」といったところだ。こちらにも二重の意味が込められている。

終末のプロメテウス

ILL WIND

ケヴィン・J・アンダースン、ダグ・ビースン
1995

 大型タンカー座礁による原油流出事故といえば、1989年のバルディーズ号事故がまっさきに上げられる。アラスカ湾沖で発生し、世界中に衝撃を与えた。この事故をきっかけにバルディーズ原則がCERESによって打ち立てられ、企業・団体等における環境保全順守事項の基礎として知られるようになる。すなわち、生活圏の保護、天然資源の持続可能な活用、廃棄物の処理と削減、エネルギーの賢明な利用、リスク削減、安全な商品やサービスの提供、損害賠償、情報公開、環境担当役員及び管理者の設置、評価と年次監査である。
 日本では、1997年のナホトカ号事故が日本海側の福井県の海岸を汚染したことでよく知られている。その後も世界各地ではタンカー座礁、沈没事故が起きている。そのたびに、海洋環境は悪化し、多くの生物や生態系に影響を与えている。

 本書では、サンフランシスコ湾近くで大型タンカー・ゾロアスター号がゴールデンゲートブリッジにぶつかり、大量の原油を流出させてしまう。この解決策に、まだ承認されていない原油を分解する細菌プロメテウスの投入が強行される。それは文明の崩壊のはじまりとなってしまった。当初は原油のオクタンのみを分解するとしていたが、実際には炭化水素の多くを分解し、なおかつ、驚異的なスピードで拡散していったのである。アメリカから世界へ。ガソリン、ほとんどのプラスチック製品などがプロメテウスによって分解されていった。そして20世紀にはじまった「石油文明」が終わりを告げた。
 自動車も、飛行機も、アスファルトも、プラスチック容器もない。あらゆる電子機器も、生活用品も、病院も、食品企業も、日常生活のあらゆるところで、いかに石油製品に依存していることか。そのすべてが使えなくなってしまう。電気もない。音楽さえ流せない。
 馬と、木と、陶器と、鉄の時代への逆行がはじまったのだ。
 タンカーの船長、乗組員、事故の原因を招いた人物、石油企業の役員、危機管理対応のスタッフ、環境活動家、米軍の基地司令、戦闘機乗り、開発した石油企業の研究者、出世欲にとりつかれた元研究者、監査のために派遣された科学者、衛星軌道上から太陽エネルギーを電力に変えるための実験を繰り返す研究チーム、自動車保険会社のスタッフ…。さまざまな登場人物の視点から物語が展開する「破滅SF」である。

 この種の作品は、SFのジャンル的に扱われるものと、現代に実際に起きる可能性のある社会、経済、パニック小説的に扱われるものがあり、おそらくその境界は明確ではない。明確ではないのだが、日本では読者層の違いとして現れたりする。いわくSFだったら読まないけれど、現代パニック小説なら読む、あるいはその逆といった具合である。出版社の傾向にもよるだろう。ハヤカワや創元からSFとして出されていたら、SFだし、新潮社や講談社からだされていたら一般的な「小説」の範疇に含まれてSFと思わずに読むだろう。印象は大事だ。

 さて、発表されたのは1995年で翻訳出版は1998年と割とすばやく出されている。この作者たちの作品が比較的売れているというのもあるだろうし、テーマとしても1997年のナホトカ号事故などもあるし、このころは、遺伝子組み換え技術が商業的になりはじめて、バイオテクノロジーについて関心が高まっていた時期でもあったので、そういうこともあるのかもしれない。
 実際のところ、原油流出事故のようなことはその後も起きていたし、これからも起きる可能性はある。また、本作品では暴れ回った細菌のプロメテウスだが、現実の世界では、原油を分解するために必要な他の栄養素の問題や環境要因によってその分解性能、すなわち細菌の増殖は大きく左右される。それでもバイオレメディエーションは現実には一定の効果を上げており、メリットとともに、使用や分解物による他の生物や生物群、生態系への影響もデメリットやリスクとして指摘されている。
 本書のような世界的なバイオハザードが起きることは極めてまれではあるが、例えばNITE(製品評価技術基盤機構)では、バイオレメディエーションのデメリットとして、

・浄化に時間がかかる(浄化期間の不確定さ)。
・高濃度汚染には不向き。
・複数の汚染物質が含まれる場合の浄化が難しい。
・浄化の過程で、有害な物質が生成する可能性がある。
・環境中での微生物利用に対する社会的受容性の低さ(安全性への不安)。
(https://www.nite.go.jp/nbrc/safety/bioremediation.html)

 を上げているように、社会的受容性は低く、バイオハザードはいつも心配されている。それに対しては、ていねいな検証と情報公開が必要だろう。

 おっと、話がずれてきた。
 作品に戻ると、単純に「石油製品が世界から一掃されたら」どうなるの、という話である。新型コロナウイルス感染症パンデミックで「世界が急に一変する」ことを経験した21世紀前半、具体的な想像ができておもしろいのではなかろうか。
 未来の、次の世界的パニックに備えるためにも。

サイオン

PSION

ジョーン・D・ヴィンジ
1982

 遠未来宇宙時代の超能力ものである。
 はるか未来、惑星アルダッテーは地球に替わる交易と経済と文化の中心地である。人類世界はいくつもの星間企業連合と宇宙の交易を仕切る宇宙連邦輸送機構がその権力の中心を担っていた。そして惑星アルダッテーの首都クァロは太陽を見ることのない最下層部の旧市と、上層にきらめく新市とに明確に分かれ、人々もふたつの明確な階級の中で生きていた。主人公はそんな旧市で公安警察や労務者徴募局の目を避けながら生きてきた青年キャットである。キャットの由来は猫のように夜目がきき、抜け目なく路地から路地をさまよって野良猫のような存在だからだ。
 しかし、キャットは公安警察に捕らえられ、上層の新市に連れて行かれ、「超能力開発プロジェクト」に志願するならば仮釈放するともちかけられる。キャットの人生の転機である。キャットにはサイオンとしてテレパシストの素養があったのだ。
 さて、話は変わって惑星シンダー。ここは宇宙連邦輸送機構が支配する鉱物テルハシウムの採掘惑星である。テルハシウムは人類が光速を超えて宇宙を航行するのに不可欠な鉱物であるが、惑星シンダーなど限られた場所でしか取れないものであった。寒冷な惑星シンダーには実質的な奴隷労働者が送られ、そして次々と死んでいった。下級階層の犯罪者はいくらでも代わりがいるのである。
 もうひとつ話がある。あまり知られていないが、人類は別の知的種族とかつて遭遇していた。ヒドラ人である。彼らは人類とほぼ同じ形態をしているが、何より違うのは全員がサイオンだということである。そして、これも大いなる秘密だが、人類とヒドラ人は生殖可能なのであった。人類の中にはヒドラ人との混血もいるということだ。

 いま、宇宙連邦輸送機構やいくつかの星間企業連合があわててサイオンを探索、育成しているのには理由がある。現行の政治経済体制に対し、クイックシルヴァーというリーダーを中心にしたテロ組織が暗躍しているのである。クイックシルヴァーは巧みに姿を隠しながらテルハシウムを狙っているとみられている。そして、彼はサイオンのチームを抱えており、彼自身もサイオンであろうと。
 キャットは、超能力開発プロジェクトのリーダーであるジーベリンク博士の恋人であるサイオンのジュールに恋心を抱いていた。キャットは、その才能と若さ故の感情の不安定さ故に、人類社会のこれからを左右する陰謀の中心に巻き込まれてしまうのだった。

 作品としては、青年の成長譚という感じでもなく、主人公の性格にいまひとつ乗り切れないところもあるのだが、全体を通しての展開は派手である。想像の外側にいく。ひとつ言えるのは、キャット、悪いやつじゃない。むしろいいやつ。周りが結構悪いやつが多いけれど、キャット、いいやつ。そしてキャットを利害なしに助けるおっさん、いいやつ。そんなところかな。超能力ものの派手さはないから、それを期待すると裏切られるかも。

 80年代作品を印象づけるのが政治体制であろうか。こんにちのような「政府」組織が経済力と組織力を持つ企業連合に取って代わられ、交通と交易のネットワークを持つ機関が世界政府的な役割を持つ秩序体制となっている。このような政体がSF作品でみられるようになったのは80年代になってからではなかろうか。
 21世紀前半のいま、従来の「政府」組織は「国」という形で20世紀に続いて存続しているが、かつての帝国主義時代と同様、徐々に経済・技術集団である企業が力をつけ、政治力を陰に陽に発揮するようになっている。「GAFA」と代表的な企業の頭文字がつけられているが、もちろんこの4社だけではない。
 これから100年後もいまの政治体制が続いているとは限らないのだ。
 ただ、残念ながら自然能力としてのサイオン=超能力の開発はのぞめないだろう。その代わりを良しにつけ悪しきにつけ技術が実現していくのだろうけれど。