リングワールドの子供たち

RINGWORLD’S CHILDREN

ラリイ・ニーヴン
2004

 2006年邦訳、早川書房からハードカヴァーで発行され、文庫化されることのなかったリングワールドシリーズ最後の作品である。手に入れ損ねたため長く読む機会を逸していた。20年ぶりに少しまとまった在宅時間がとれ、国立国会図書館や近隣の図書館を調べ物で利用することがあり、ついでに入手できなかったSF作品の収蔵について調べてみると、近くの図書館になぜか入っていたので、借りて読むことにした。学業や仕事以外で「図書館で本を借りる」のは高校生の頃以来ではなかろうか。大学でも図書館を利用したことはあるが、読書のために使ったことはなかった。社会人になっても同じである。本は買って読むものだった。図書館が嫌いなわけではない。小中学校のころは図書委員だったし。手許に本を置いておきたい、時間に縛られずに本を読みたい。積ん読したい。そういう気持ちが大きかったのだ。
 所有欲と読書欲と外部記憶装置としての背表紙や表紙、本棚の羅列だったわけである。
 それを推して、どうしても読んでおきたかった作品のひとつだ。
 読めてよかった。もう一度、ノウンスペースシリーズとリングワールドの世界を最初から堪能したいと改めて思ったよ。

 リングワールドは壮大な装置である。
 まず、太陽系を思い浮かべようか。真ん中に太陽がある。太陽を中心に、太陽の重力によって惑星が太陽の周りをぐるぐる回っている。水星、金星、地球、火星、小惑星帯、木星、土星…。
 木星あたりの軌道を想像する。太陽と木星だけにして、木星の公転軌道を太線で書いてみよう。その太線がリングワールドだ。太陽が天頂にあって、公転方向に身体を向けて右と左を見るとすごーく遠くに高い高い壁が存在する。公転(自転)速度のおかげで足下に遠心力による仮想の重力が感じられる。
 リングワールドは、地球の表面積の300万倍の居住世界である。
 永遠の生命と体力があれば、300万世界を旅することもできるかもしれない。
 そして、リングワールドには、30兆を超える人類亜種がそれぞれの場所で生態的ニッチを埋めるように進化し、変容し、繁栄し、暮らしていた。
 たとえば他の種族を食べる夜行性の腐肉食い、例えば吸血種、樹上生活を得意とするが知性を失った種、長身種などなど。もちろん、知性のある人類種も多くいるが、世界が広大であるがゆえに、多くがひとつの大陸レベルで言語が異なり、生活文化習慣も異なる。
 リングワールドを含むノウンスペースには、プロテクターと呼ばれる高度に知性を持ち、生殖能力を失ったが、生命の最終段階ともいえる状態に変容した生命体がいる。プロテクターはそれ以前の存在のとき繁殖して残した子孫を守ることが本能となる存在である。プロテクターは、ほかのプロテクターと常に争っている。自分の子孫たちを守るという本能ゆえに、他のプロテクターの子孫が脅威に思えるのだ。ときにプロテクターは他のプロテクターの下で働くこともある。自らの子孫を庇護下に入れてもらうために。
 弱肉強食の宇宙を象徴するような存在である。
 そして、プロテクターの存在が、リングワールドにとってきわめて重要だ。それが前作「リングワールドの玉座」で繰り広げられる物語で解き明かされた謎のひとつだ。
 しかし、大きな謎は解かれていなかった。
 いったい誰が、どのようにして、なんのためにリングワールドをつくったのか。
 リングワールドは誰が、どのようにして、その保全と危機回避を行ってきたのか。
 そもそもリングワールドは安定して存在し続けられるのか?
 ようやくすべての問いが解き明かされる。
 主人公はルイス・ウー。出生年齢主観時間240歳。ずっとリングワールド上での主人公だった人物の最後の冒険がはじまる。ルイス・ウーは、ノウンスペースシリーズでもたびたび登場する長命の人間である。前作で傷ついたルイス・ウーが治療再生の機器からめざめたとき、かつて彼が壊したはずの宇宙船のハイパードライブエンジンが修復されていた。リングワールドを離れて、故郷に帰れるかもしれないという希望がわき上がる。しかし、そのエンジンを積んでいた宇宙船ホット・ニードル・オブ・インクワイアリー号が3枚に卸されていた。新たなプロテクターがエンジンを修理するとともに、宇宙船やルイスが繋がれていた医療機器を分解、探査していたらしい。分解しながらも、ルイスの治療が続いていたのでこのプロテクターは天才的技能を持っていることは間違いない。
 医療機器によって若返ったルイスは、リングワールドを離れ、故郷に帰る希望と、新たなプロテクターの手の内にいるという絶望のふたつを同時に感じた。
 そうして物語が再開する。

 今回は、リングワールドのすべてを見せるため、星系でリングワールドへのアクセスと情報収集を求めて集まってきた地球種族やいくつかの異星人種族による「周辺戦争」を詳しく描くことで、リングワールドを系内、系外からみた世界が描かれるとともに、リングワールド上での表の世界、地表の下の世界、その間の世界、その補修恒常機構などに焦点があてられている。物語の展開も壮大だが、むしろそういう光景を読者に展開するための作品だ。
 同時に、1970年の「リングワールド」からずっとずっと多くの人々を魅了してきた世界の物語、ノウンスペースシリーズとルイス・ウーの冒険の集大成とも言える物語である。

 アシモフがファウンデーションシリーズとロボットシリーズの集大成を書き記し、ファンから指摘されてきたアシモフ世界への「問い」にひとつの答えを出したように、ニーヴンはリングワールドへ向けられた「問い」に答えたのである。
 謎に答えが出るということは、謎を想像する読者にとっては答え合わせであると同時に、謎が謎ではなくなるさみしさも生まれる。それを是とするか、否とするかは、読者次第。
 しかし、たいていの場合、最終巻は、それまで読んできた読者へのプレゼントだ。
 そして、主人公への作者からのプレゼントでもある。
 お疲れ様、ニーヴン、お疲れ様、ルイス・ウー。

宇宙ねこの金星たんけん

Space Cat Visits Venus

ルースブン・トッド
1955

 旺文社ジュニア図書館(小学校3年、4年以上)黄色背表紙として1971年に発行されたボックスシリーズの中の1冊。中学国語教師だった父が、赤背の小学1・2年向きのボックスに続き買ってきてくれたボックスに入っていたSF作品である。
 黄背のボックスにはタゴールの「カブールからきたくだもの売り」、カッシイリーの「もえる貨物列車」、トルストイの「イワンのばか」、中国童話の「みかんぢょうちん」のような世界の物語が含まれていて、なかでも「カブールからきたくだもの売り」は中東、南アジア世界へのあこがれをいだかせるものであった。

 このボックスの中で唯一の「宇宙」をテーマにしていたのが、本作「宇宙ねこの金星たんけん」である。
 あらすじは、
 月基地唯一の猫であるフライボールは、宇宙飛行士のストーンさんのかけがえのないパートナー。
 いま、月基地では金星探検に向けてのロケット製造が佳境を迎えていた。初の金星探検はどんな危険があるかわからないので、ストーンさんとフライボールだけで行くことになったのだ。金星ロケットの中は無重力。フライボールは足に磁石の靴を付けて宇宙船を自由に歩き回れる。金星に着いたら地球に近い重力で苦労するんだけど。
 金星の厚いアンモニアの大気を抜けて、地上の下りると、不思議なことに酸素に満ちて呼吸可能な空間が広がっていた。そこは動くことができる植物たちの世界だった。ストーンさんとフライボールの金星での探検がはじまる!
 ということで、きちんとSFしている。
 この時期の子ども向けSFといえば、たいていが翻訳者による「超訳」で、独自の解釈を加えながら子ども向けに読みやすく、かつ、ページ数の制限に合わせて書かれているので、果たしてこれが原著通りの訳なのかどうか、わからない。
 子供心に、月基地の低重力の環境や水耕栽培プラント、じゃがいもの水煮缶詰を開けるシェフたちという風景にはわくわくしたし、金星の不思議な植物との交歓や恐ろしい敵との戦いにもときめいたものだ。
 すでに手許には残っていないが、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができたので、当時を思い出しながら楽しく読み返すことができた。うれしい。
 さらに、ネット時代。ちょっと調べてみたら、著者のルースブン・トッドは50年代に、この「宇宙猫」シリーズを4冊と、その他の児童書数冊を書いているが、それ以外は作家、編集者などとして活躍した人だということも分かったし、本書の執筆時期や原題も知ることができた。
 以下が、関連作品。

1952年に Space Cat(宇宙ねこ)
1957年に Space Cat Meets Mars(宇宙猫火星へ)
1958年にSpace Cat and the Kittens(宇宙猫と子猫たち)

 元が児童書なので、翻訳もそう原著とずれていないだろう。翻訳は白木茂、絵は渡辺三郎。
 いまでも4作品とも英語版で出版され続けているので児童SFの古典なのかもしれない。

国立国会図書館デジタルコレクション
宇宙ねこの金星たんけん
https://dl.ndl.go.jp/pid/12929785
 

ぽんこつロボット

作:古田足日、絵:田畑精一
1975

 初版1970年1月15日、定価480円、岩崎書店発行。
 私のSF人生は、ここからはじまった。5歳の頃、父が買ってきた1冊の絵本。それまで、昆虫図鑑が大好きで、テレビのウルトラマンやウルトラセブン、キャプテンウルトラやマグマ大使を真剣に見ていた私は、本の中でもロボットが登場したり、宇宙に旅行したりできることを知った。
 しかも、少年が、ジャンク屋で部品を集めて、自分でロボットを組み立てる。
 すごい。かっこいい。ぽんこつだけど、かっこいい。
 もう、何十回読んだか覚えていない。
 国立国会図書館デジタルコレクションで発見して、初読から55年目の再読をした。
 あらすじはすでに頭に入っていたが細かいところは覚えていない、はずだった。
 しかし、ページをめくる度に、この絵も、この文も、ぜんぶ心にたたき込まれていたことを思い出した。
 私は、ここで作られたのだ。

 ストーリーを要約すると、タローくん家の家庭用お手伝いロボットが壊れてしまった。1台目は市役所から配給されるが2台目は買わなければならない。ボーナスで火星旅行を楽しみにしていたお母さんは悲しんでいる。毎日お手伝いに買い物に行かされていたタロー君は遊んでいる友達の前で宇宙一のロボットを作るんだと宣言。貯金箱とお年玉を持ってロボット部品のジャンクショップに行き、最高のロボットを作りたいと言って、壊れたロボットの部品を用意してもらう。お金は足りなかったが、友達の協力や運もあってなんとか部品を買うことができたタロー君。とはいえ壊れているので、パーツの修理や買い足しをしながら長いことかかって組み立て上げなければいけない。おうちではやむなく2台目のお手伝いロボットを購入してしまった。火星旅行は取りやめ。やがてロボットが完成してスイッチを入れたら、「ぼくは人間のタローで、君はぼくが作ったロボットのジローだ」と自分自身を人間と信じ込んだロボットができてしまう。いろんな事件が起きるが、ある大事件を解決して、ごほうびに家族と友達とロボットが火星旅行に招待されることになる。そこで起きた事件を通してロボットのジローは自分がロボットであることを自覚する。そして大団円。

 好きな要素満載である。アトムは天馬博士やお茶の水博士のような天才科学者が作ったけれど、ぽんこつロボットは、ふつうの小学生ががんばって部品を集めて修理して組み立てた。やればできるって思わせてくれた。そして、何かに夢中になると、そこから冒険がはじまるってことも。
 そう信じて大人になった。技術者にも科学者にも発明家にもならなかったけれど、魂はいつもそこにある。

 そして、その絵本を、国立国会図書館デジタルコレクションというアーカイブで振り返ることができる。未来が来ていた。
 宇宙開発はまだまだ遠くて、戦争している人類だけれど、人類のスピリッツはこんなもんじゃないはずだ。

国立国会図書館デジタルコレクション(ぽんこつロボット)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12929536

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伝説とカフェラテ 傭兵、本屋をたてなおす

BOOKSHOPS AND BONEDUST

トラヴィス・バルドリー
2023

 ファンタジー「伝説とカフェラテ」の主人公ヴィヴの前日譚である。前作ではオークの女性ヴィヴが傭兵稼業を引退し、小さな町テューネでカフェを開くという夢を実現する物語であった。読書好きで、おいしいパンには目がなく、好奇心に満ち、交渉上手だけど、深い人間関係には慎重でちょっと臆病な力強い比類なきキャラクター。
 本書は、そのヴィヴが傭兵としては新人のころのできごとである。有名なラッカム大鴉団に新人として入り、戦闘で傷つき、港町マークに治療のため置き去りにされたヴィヴ。迎えに来るとは言われたものの、もしかしたら足手まといとして見捨てられたのかもしれない。そういう不安と焦燥に駆られながらも、自由が完全には効かない身体を抱え、退屈を紛らわすために町を散策していたところで出会ったのは、やる気のないぼろぼろの本屋。薊の棘書店という名のその本屋を切り盛りしているのはラットキンのファーン。無類の本好きではあるが、死んだ父親の後を受けた店は、明日にもつぶれそうだが、どうしていいか分からない。退屈しのぎに入ってきた本には興味のなさそうなヴィヴに1冊の物語を勧める。「鎖の十個の輪」、脱獄の話である。そうしてヴィヴは読書の沼にはまっていくのだ。オークの大工ピッツ、ドワーフのパン屋のメアリー、蛇人の門衛長イリディア、海妖精の宿屋の主人のブランドなど、港町マークでの出会い。日を追うごとに、人とのつながりは深まっていく。ヴィヴは本屋にいりびたり、読書の喜びに目覚め、やがて本屋をたてなおすことに夢中になっていく。それだけではない。事件の予感もある。ラッカム大鴉団が追っていたネクロマンサーのヴァリンの手下達の気配が静かな港町マークにも感じられたのだ。戦っていたヴィヴはそのことに気がついていた。ひとりでは戦いきれないことは十分に分かっている。
 カフェを経営したいという思いを描き、実現させたヴィヴは、どうやっていまのヴィヴになったのか。人には過去があり、人には未来がある。物語はいつもそのどこかを切り取った濃密な時間のみを描ている。

 濃密な物語の前日譚、後日譚は、その物語をかみしめた読者への著者からのささやかなプレゼントである。しかし、時として、そのプレゼントは、空想の羽を広げていた読者の期待を裏切り、失望させ、物語すら色あせさせることがある。別の作家やファンが二次創作として前日譚、後日譚、サイドストーリーを書くこともある。それはやはり別の作家、別の著者の物語であって、気に入らなければ心の中でリセットしたり、別の箱に入れたり、忘れることもできるが、著者自らがそれをした場合には、心の奥底に澱のようなものが残ってしまう。だから、前日譚、後日譚、サイドストーリーは、オリジナルの物語よりも重要だと思っている。
 シリーズ物もおなじことが言える。
 だから、知っている主人公や登場人物達の新しい物語はいつも楽しみだけれど、かすかな不安をいだきながら読むことになる。
 読んで良かったと思えるだけでなく、読んで元の作品が読みたくなるとすごく嬉しくなる。本書はすごく嬉しくなる作品だ。
 そうだよね、若きヴィヴはヴィヴらしいけれど、若きヴィヴをヴィヴにしていった出会いや周りの人達がいたからだよね。

異星人の郷

EIFELHEIM

マイクル・フリン
2006

 アメリカの作家マイクル・フリンによるファーストコンタクトSFである。ジャンルとしては。原題のアイフェルハイムは中世以降永遠に完全に失われたヨーロッパの町(村)の地名である。そう、ファーストコンタクトの舞台は中世ヨーロッパの辺境の町。シュヴァルツヴァルトの森の中。1348年8月のその日、後にアイフェルハイムと呼ばれ、そして完全に忘れ去られることとなる上ホッホヴァルトの町外れの森で桁外れの雷のような音がした。それがすべてのはじまり。領主マンフレート・フォン・ホットヴァルトが遠くの戦争の出兵による不在の中、上ホッホヴァルトの聖カタリナ教会主任司祭のデートリッヒ神父は、城の駐屯責任者であるマックス・シュヴァイツアーとともに、現場に向かい、そこで、人ならぬ者達と、突然そこに現れたかのような不思議な構造物を目にするのだった。
 巨大なバッタのようなその姿。彼らは悪魔なのか、それとも遠い異国の変わった人々なのだろうか。明らかに怪我をしたり、なかには小さな子供とみられる存在もいる。逃亡者なのか、盗賊なのか。しかし、聖職者として困っている人達を見過ごすわけにはいかない。敬虔なるキリスト教への信仰の深さとともに合理的精神、科学と哲学を学ぶデートリッヒ神父は恐れを持ちながらも、彼らクレンク人との接触と交流をはじめるのである。

 さて、時は現代。統計歴史学者のトム・シュヴェーリンは、宇宙物理学者のシャロン・ナギーと長年ともに暮らしてきた。シャロンは宇宙の性質、光速度と時間と空間について新たな仮説と探求をし続けていた。そして、トムは、統計歴史学という地理地形や環境と人間の生息地(町や村や都市)の歴史的継続性を調べていた。そして、理論と外れて理由なく突然完全に失われた町アイフェルハイムの不在を発見する。中世に失われ、人間の生息適地であるにも関わらず現代に至るまで人が住まない場所。その理由や背景を調べるために過去の記録を集め始めるトム。やがてそこはかつてホッホヴァルトとしてあった場所だということが分かった。
 13世紀半ば、それはヨーロッパを黒死病ペストが蔓延していた時である。ペストにより一度は完全に消えた町や村は多い。しかし、いずれも人口の復活によって再生している。アイフェルハイムだけはペスト禍のあともその地名さえ忘れ去られていったのである。
 なぜそうなったのか。トムは少しずつ真相に近づいていく。
 平行して、たまたまシャロンの研究も深まっていく。

 物語は、1348年8月のファーストコンタクトから1349年7月までのわずか1年間。最初の交流にはじまり、領主の帰還、新たな交流、信仰と科学、戦争と疾病など、中世ヨーロッパの日常を織り込みながらクライマックスへと進む。

 決して交わることのない中世と現代の物語。
 異星人の登場するSFであるが、それ以上に、丁寧に書き込まれる中世社会の日常風景や現代と中世の価値観、行動規範の違いに引き込まれる。圧巻は、後半のペストの描写である。いやあ怖い。ペスト怖い。
 中世は決して蒙昧な暗黒時代というわけではなかった。
 その当時の知識や探求の中で、たとえ現代では荒唐無稽であっても、合理的で科学的な行動をしようとする人達もいたわけである。
 外部者であるクレンク人がクレンク人の価値観を通してみた中世社会。
 現代人がはるか時間を超えて残った資料からみいだした中世社会。
 一気読みはできないけれど、じっくり堪能した小さくても壮大な物語だった。

ロボット・イン・ザ・ファミリー


A ROBOT IN THE FAMILY

デボラ・インストール
2020

「ロボット・イン・ザ・ガーデン」「ロボット・イン・ザ・ハウス」「ロボット・イン・ザ・スクール」に続く第4作である。というより「ロボット・イン・ザ・スクール」と合わせて1作品と考えても良いかもしれない。
 扱われているテーマは3作目と引き続いている。すなわち、同質を求める社会関係の中でそもそも同質にはなれない属性を持つマイノリティと社会の関係性と問題、矛盾、あるいは差別、あるいは無知をめぐる問題である。それにもうひとつ、そのような同質性を求める社会における最大のマジョリティであるはずの中年男性が持つ「大人になることができない」問題である。後者は1980年代にさかんに登場した「ピーターパン症候群」をどう克服するかという問題と言い換えても良い。
 さて、物語は進む。いろいろあって東京のロボット専門家の元に残ることになったジャスミンを置いて日本からイギリスに戻ってきたベン、エイミー、タング、ボニーの家族。ベンは相変わらず、ジャスミンを置いてきてよかったのかどうかとうじうじしているが、家に着いてみるとそこには「捨てロボット」のフランキーが。どうやら扱いに困った所有者が記憶(メモリー)を消して、ベンに勝手に託したらしい。元の機能に改造を加えていた形跡はあるし、はっきりしないがタングやジャスミンのように自我を持つAIであると思われる。ベンがジャスミンを東京に置いてきたことに怒っていたタングは、フランキーを受け入れることでその心の傷を癒やそうとするかのようにフランキーの世話をはじめてしまう。ベンもエイミーも、それを受け入れ、ふたたび一家は大人ふたり、人間の子どもひとり、子ども状態の(成長過程の)ロボットひとり、よくわからないロボットひとりの5人家族として新たな関係性を生み出そうとする。ベンの仕事の環境、エイミーの仕事の環境も大人としての社会的成長とともに変化していく。タングは学校という新たな場で持ち前の(子どもらしい無垢な)積極的コミュニケーション能力を生かして人気者になっている。しかし、ボニーは幼少期から別の個性を持ち、人とのコミュニケーションはとりたがらないが冷静な観察力、集中力、そして描写力を持つ子どもに育っていく。ボニーの唯一の友人のイアンが家族の判断で学校に行くのではなく家庭での学習に切り替えることを知ったベンとエイミーは、そもそも学校に行きたがっていないボニーのことを考え、イアンの両親とも相談して同じように家庭学習に切り替えることを選択する。イギリスでは、義務教育は必要があれば家庭教育に切り替えることも制度として認められているからである。
 そうして家族関係は変化していく。そこに、記憶を失った捨てロボットフランキーとの新たな家族構築の物語も挿入されていく。
 それだけではない。ベンの姉であり、弁護士仲間としてベンとの出会い以前からのエイミーの親友であるブライオニーとその夫、息子、娘の家族問題、ふたつの親戚間の問題、姉弟関係と友情関係、さらには、人間とロボット間の恋愛関係の問題、性的マイノリティの問題と社会関係性にまつわる問題大噴出である。
 次々と起きる日常の中の問題は、多かれ少なかれ誰でも目や耳にするし、自覚があるなしにかかわらず身近なところに存在する。
 大人になりきれないベンは、しかし、悩みながらも他者を大切にし、自分も他者もできるだけ息がつけて楽になる道を考え続ける。
 今日のマイノリティ、差別問題と直結する課題である。

 付録として、短編「ロボット・イン・ザ・パンデミック」が収録されている。COVID-19(新型コロナウィルス)パンデミック初期の隔離と自粛の時期、それを目の当たりにした生体ではないタングの選択とは? 小さな勇気と小さな希望の物語。

ロボット・イン・ザ・スクール

A ROBOT IN THE SCHOOL

デボラ・インストール
2019

 中年だめ男ベンがお送りする日常右往左往ロボット物語第3弾である。「ロボット・イン・ザ・ガーデン」で、庭に現れたぽんこつロボット・タングの出自と中年男の失われた青春をさがす旅を行い、「ロボット・イン・ザ・ハウス」では、よりを戻した妻エイミーと生まれたばかりの子どもボニーに、成長期にはいりはじめたばかりでお兄さんになってしまったタングとの日々変化する4人暮らしが舞台。日常とは小さなトラブル、突発的出来事、予想もつかないできごとの繰り返し。人はそうやって生きていく。ところが、そこに突如乱エレガントなロボット・ジャスミンが登場し、ふたたび大きなトラブルに見舞われてしまう。
 それから約4年、ベンとエイミーの夫婦、幼稚園から小学校に上がったボニー。ボニーだけが学校に行くのはおかしいと主張するタング、そして「家族」として迎えられたものの、その意味や位置づけ、人間との関係性をいまひとつ理解できないままに読書に夢中になっていく物静かなジャスミン。そんな5人の家族の物語が、第3弾「ロボット・イン・ザ・スクール」である。
 人は社会的動物である。つまり、個と個の関係性だけでなく、家族、地域、学校、職場、友人、通りすがりの人、さまざまな場面で関係性を構築、あるいは関係性に応じたふるまいを求められ、それに対する応答の方法でまた新たな関係性(あるいは関係の断絶)が生まれていく。そういう関係性の波の中で生きていく自我のある動物なのである。ロボット、すなわち自律的思考を持ち行動する能力をもつ存在もまた、人に近い社会的存在として存在するが、ロボットを生み出した人間にとって必ずしもロボットは(あるいはAIは)同等とは位置づけられない。自然人と法人(企業とか非営利団体とか)が異なるように、ロボットと人間は人間社会において大きく位置づけが違っている。
「学校に行きたい」という強い願いを持つタングを前に、ベンとエイミーにはその問題が現実として突きつけられる。もちろん、それは学校側や保護者、他の子どもたちにとっても、タングの「妹」である人間のボニーにとっても同じである。
 この問題は、「ロボット」という概念が登場し、物語に位置づけられてから長く問われてきた。日本で有名な例は手塚治虫の「鉄腕アトム」と「火の鳥~未来編」であろう。「アトム」は失われた息子の代わりとして生み出され、その親である博士に捨てられ、ロボットしての家族を求め、人間社会とロボット社会の軋轢に苦しみながら人間に寄り添おうとする。「火の鳥~未来編」では人の人格の一部を行動設計に取り入れられたロビタが人との関係性を遮断されたときに、他のロビタが一斉に自殺行為に走っていく。手塚は異質な者であるロボットと人間の社会的関係性がその存在において同等に構築される可能性と、同等には決してなり得ない可能性のどちらに対しても悩み、それを読者に提示したのではないか。
 さて、本書「ロボット・イン・ザ・スクール」でも、その問題が複層的に登場してくる。とりわけボニー、タングという常に成長という状況を抱えた「子ども」ならではの社会的関係性に、マイノリティ的な特徴を持つボニーと、そもそも人格を持ったAIで子どもと同様の成長期を持つ異例なタング、ほんとうは大人になりたくないベンという存在が、現代社会の諸相を物語に浮かび上がらせる。もちろん、いまのところ人間と共生する自我を持つロボットという存在はないが、同質のようにふるまうことが求められる社会における属性として同質にはなり得ないマイノリティの問題は本質的には同じである。
 親子、兄姉、家族、親族、友人、先生と生徒…。
 ボニーも、タングも、ベンも、エイミーも、そして、ジャスミンも、様々な現実と困難にあたり、それを少しだけ乗り越えたり、乗り越えられなかったりしながら、日常を生きていく。喜びもあれば、悲しみもある。出会いがあれば、別れもある。
 家族5人、休み期間中にエイミーの仕事で日本に行くことになるので、1巻で登場してきた人物との再会や日本珍道中も楽しめる一作である。
 ロボットものではあるが、もはやジュブナイルとは言えなくなっていて、中年男性の大人になるための悩める物語になっている。次巻の「ロボット・イン・ザ・ファミリー」は、本巻のエンディングからの続きになっているので合わせて読むとよいのではなかろうか。

伝説とカフェラテ

LEGENDS AND LATTES

トラヴィス・バルドリー
2022

「指輪物語」の「中つ国」のように人間以外の多種族がおのおのの特徴や特性の中で生きる世界はファンタジーの王道とも言える。ごく当たり前のように舞台設定として使われるようになったがそういう読者の「常識」に甘えてしまい、世界設定が甘いと感じる作品もある。そうなると二次創作的印象が濃くなってしまい、オリジナリティが薄れてしまう。こういう舞台設定をする場合には、どこにオリジナリティを発揮するか、舞台設定とのバランスが求められると思っている。
 本書「伝説とカフェラテ」もまた、エルフ、オーク、ノーム、サキュパス、ドワーフ、ラットキン、パック(ホブ、ホブゴブリン)、ストーンフェイに人間など多様な種族で構成された世界が舞台である。
 主人公のヴィヴはオーク。スカルヴァートを退治するという仕事を終え、チームから離れて傭兵を引退したばかり。読書好きで、引退した理由は長年の戦いによる腰などの身体の不調もあるが、なによりも「やりたいこと」があったからだ。
 かつてノームの街で出会ったコーヒーという変わった飲み物。紅茶とも違う独特の香りと味と、それを口にするときの不思議な落ち着いた気持ち。落ち着くし、目も覚める。「コーヒーを出す店をやりたい」そう思ったのだ。
 ヴィヴはスカルヴァートの戦いで手に入れた「石」の幸運をもたらすという力を信じ、慎重に見定めてテューネの町の古い元馬貸し屋に場所を定め、そこを持ち主から手に入れた。この場所で店を作り、道具をそろえ、従業員を雇い、カフェを開くのだ。
 期待と、不安のなかで、ヴィヴは新たな道を切り開き始める。

 いやあ、身につまされます。10年ほど前、それまでの現代の傭兵的な「フリーランス」の仕事から身を引き、自宅を改装して小さなテイクアウトの飲食店をはじめた身としては、構想し、店をつくり、準備し、開店し、宣伝し、メニューや運営方法を工夫しながら変化していくというのを思いっきり追体験しているような気持ちにさせられたからだ。
 心からヴィヴを応援してしまう。わかるー、その気持ちってやつだ。

 さて、それは置いておいて、新しい町で、新しい仕事をはじめる。これまでの知識と経験をフル動員しながら、パートナーとなる新しい仕事仲間を探し、働き、出会い、新しい関係性が生まれ、広がり、深まっていく。そういう物語だ。
 ヴィヴは力強い、そして、見る者からすれば怖いとも感じられる、いかにも傭兵といった存在。しかし、その内側には繊細な心が宿り、深い探究心もある。総じて言えばやさしさや公平さを持っている。しかも、よく読めばわかるが、女性である。すっと読み飛ばすと、元傭兵のオークとあるだけで男性だと錯覚しがちになる。しかも途中からサキュパスが登場して主人公のヴィヴと絡んでくる。サキュパスといえば男性を虜にする性的魅力のある女性的存在である。ますますオークのヴィヴは男性と見えてしまう。このサキュパスもみためとサキュパスという固定観念とはまったく違って冷静なマーケティングやデザインの才能を発揮したりする。
 同じように、ホブ(妖精)が優秀な大工だったりもする。
 そういう現代的な固定観念にとらわれない「多様性」を全面に押し出しつつ、それを意識させない物語展開となっている。

 無事店を開店させたヴィヴ、しかし、それだけでは物語にならない。地元の「用心棒」によるみかじめ料の要求があったり、ヴィヴの「過去」が追いかけてきたりする。元傭兵のヴィヴ、暴力で解決する方法もあるが、新しい環境で、適応し、成長していく。
 どう読んでも魅力的な主人公である。その周りの仲間たちもまた。

 こういうカフェに行ってみたい。
 上質な現代的ファンタジー&フード小説であった。

月世界へ行く


AUTOUR DE LA LUNE

ジュール・ヴェルヌ
1869

 月は地球上の生命にとって実に不思議な存在だ。もちろん人間にも。満月に空を見上げる。空に上りはじめた月のなんと大きく見えることか。写真を撮ると、なぜか見たように大きくは写らない。錯視である。それでも不思議だ。まるで手に届くような月。月の陰影もまた人の想像力をかき立てる。20世紀後半、天体望遠鏡を手にした多くの子どもたちはまずまっさきに月を探す。もちろん私もそのひとりだ。月のクレーターのくっきりした姿を見て、えもいえぬ郷愁と満足感を得るのだ。その体験は実に神秘的であり、好奇心をかきたてるものであった。
 4歳の頃、白黒テレビから月に降り立つ宇宙飛行士のぼんやりした姿を見た。人類は月に降り立った。それは人が待ち望んだ瞬間だった。月世界人はいない(知っている)、月に大気はない(知っている)。それでも、月は手に届きそうで届かない特別な場所、人類を宇宙に引きつける原動力となった存在なのである。
 19世紀、フランスのヴェルヌが月旅行を科学的に小説にした。「月世界へ行く」である。大きな大砲をこしらえ、それに乗って大砲クラブ会長のバービケーン、装甲板鋳造家のニコール大尉のふたりのアメリカ人と、芸術家で冒険家のフランス人ミシェル・アルダンの3人が月へ旅立つのである。186×年12月11日、ロッキー山脈山頂に設置された大砲に、3人の搭乗者と2匹の犬、1年分の食料、数カ月分の水、数日間のガスなどが積み込まれた。
 はじめての宇宙船(砲弾)、はじめての地球圏脱出、はじめての宇宙空間。1800年代後半の科学知識を動員してくみ上げられた砲弾の中の冒険譚、ドラマが繰り広げられる。はたして彼らは月にたどりつくことができるのか、月に降り立つのか、そして地球に帰ってこられるのだろうか。
 真空ではなく、エーテルに満ちた宇宙を想定されていた時代の物語である。
 21世紀の科学的知識からみれば、突っ込みどころは満載だが、当時の科学、技術、産業をふまえて読めば、これぞサイエンスフィクションであろう。
 そして、SF小説が未来を予見する人類の想像力の結集であることを、近代SFのはじまりから明らかにしてくれるのだ。
 いまの宇宙ロケットだって、ある意味で大砲の派生物である。とても大きな大砲の砲弾に入って宇宙に飛ぶというのは、ロケット/ミサイルから生み出された宇宙ロケットの概念そのものだ。ファンタジックな手法ではなく、科学、技術にもとづいた発想の展開なのである。
 読んで良かった。古典は大事だ。

100%月世界少年


ONE HUNDRED PERCENT LUNAR BOY

スティーヴン・タニー
2010

 人類が月にはじめて降り立ってから2000年、月はテラフォーミングされ、人類のもうひとつの生存圏となっていた。ネオンライトまたたくバロックゴシックな月の世界で、100%月世界少年のヒエロニムスは地球から来た「スズメの上に落ちてゆく窓」という少女に出会い、恋に落ち、そして法で固く禁じられた彼の目を彼女に見せてしまう。
 100%月世界少年・少女とは、瞳に第四の原色と言われる色をたたえ、肉眼で世界を見れば「時間の航跡」を目にすることができるのである。そして、100%月世界少年・少女の目を直視した人は精神が一瞬ショートし、錯乱状態に陥ってしまう。そのため、月世界で希に生まれる100%月世界少年・少女は生まれたときから専用のゴーグルをつけて生きることが義務づけられている。もちろん、意図的に他の人に目を見せることは重犯罪となっているのだ。そして、時間の航跡が見えるだけでなく、ほかにも100%月世界少年・少女の目には特別な力を持っていたのだ。為政者は、人々は恐れていた。
 ヒエロニムスは「スズメの上に落ちてゆく窓」の求めに結果的に応じてしまい、彼女を傷つけ、そして、100%月世界少年・少女を逮捕することに人生をかけているシュメット警部補に追われることになるのだった。

 萩尾望都のSF漫画に「スターレッド」という作品がある。火星で生まれた子どもは世代を重ねるごとに瞳が赤くなり、超能力を増していくのである。その能力を恐れ、地球政府は人類の子孫である火星人を迫害する。存在しないと考えられていた唯一の第六世代の主人公の少女レッド・星(セイ)が地球で生きていた。火星人を極端に嫌う地球の司政官の執拗な追跡から逃れながら、レッド・セイは火星と人類を巻き込む大きなできごとに関わっていく。超能力ものであるが、とても芯のしっかりした読み応えのある作品である。
 なんども読み返している。壮大なビジョンがそこにあるからだ。いい作品だ。

「100%月世界少年」も同様に人類が変異し、変異しない人類との間に起きる軋轢の物語である。同時に、少年と少女が出会い、事件が起きるなかでの恋愛や感情が描かれるヤングアダルトの作品でもある。だから構成はわかりやすく、種明かしも少しずつ物語とともに深められていく。もちろん本作は警察権力に追われる話であるが推理小説ではないので最後に読者にも隠されていたしかけで種明かしされるというタブーは関係ない。
 SFファンタジー風味のあるヤングアダルト小説だと思って読めば間違いない。