くらやみの速さはどれくらい

THE SPEED OF DARK
エリザベス・ムーン
2003

 エリザベス・ムーンといえば、「若き女船長カイの挑戦」の5部作中3作がすでに訳されている。続編を楽しみにしていたのだが、その後翻訳される気配はない。残念。こちらは同時期に訳されたネビュラ賞受賞の作品だが、エンターテイメント色の強い宇宙もののミリタリーSFである「若き女船長カイの挑戦」とはまったく趣の異なる作品である。
 長いこと自分の中での課題図書であった。だって「感動の21世紀版アルジャーノンに花束を」なんて釣り文句が書かれているのだから、心が落ち着いているときでないと読みにくいではないか。年齢を重ねるにつれて「重たい」話に弱くなってくるし、少し避け気味になってしまっている。

 そうはいっても、課題図書。読みました。もちろん、読んで良かったです。良いことは分かっているのですから。どうして良いことと分かっているのに、そうやって理由をつけて避けてしまうことがあるのでしょうか。自分ではままならないのでしょうか。そうして今読む選択とはなんでしょうか。その動機は?わかりません。60年生きてきても、自分の選択の動機や理由などは分からないものです。分からないなりに、選択し、それはなるべく後悔しないで済むように心がけているだけです。難しいですね。

 さて、本書の舞台は近未来、自閉症(こんにちでいう「自閉スペクトラム症」)が出生前に「治療」できるようになった社会である。とはいえ、比較的新しい技術であり、出生前治療ができる前に生まれたのだが、一定の治療を踏まえて支援体制があれば、その知的特徴を生かした高度な知的労働を行なうことで、「ノーマル」な人たちと変わらない収入を得ることができる人たちもいる世界である。ちなみにここで「治療」とか「ノーマル」とか表現をかっこつきで表現しているが、21世紀初頭の現実の世界では障害のあり方や程度も様々であり、支援の必要性の幅も異なる。また障害であっても一方でそれは個人の特質という面もあるので、小説の中の表記を、その全体像抜きにここで記載すると違和感や誤解につながるかもしれない。
 作者のエリザベス・ムーンは時間をかけて執筆当時での当事者や支援者、研究者などとの長いやりとりを行い、本作を書き上げている。
 その成果はていねいに自閉症と社会のあり方や、主人公のルウ・アレンデイルという魅力的な主人公に現れている。

 自閉症のルウ・アレンデイルは、製薬会社で持ち前のパターン解析能力を生かして働いている青年である。中級クラスのアパートメントで一人暮らしを満喫中。クラシック音楽を聴き、車を運転し、趣味は古典的スタイルのフェンシング。対人関係には困難はあるが、自分のライフスタイルを変えなければさほど問題はない。最近はフェンシングの仲間の女性とそこはかとない相思相愛になりつつある。
 しかし、ルウの周りが少しずつ騒がしくなる。直属の上司はルウたち自閉症のチームに理解があるが、新しく転任してきたさらに上のボスは経費の無駄だとして彼らを排除しようと考えた。動物実験ベースで出生前ではなく成人後に脳を薬剤等でいじることにより自閉症の対人関係困難な状況を改善するという治療法を彼らに試そうと画策する。
 一方、フェンシングの仲間の女性との関係は少しずつ縮まり、また、大会に出てそのパターン解析能力によるフェンシングの能力の高さを披露した結果、陰湿な犯罪被害を受け始めることになる。いやおうなく新しい状況と新しい対人関係にさらされていくルウ。
 ボスが強制的に進める治験について詳しくなるためルウは苦手だと思っていた生化学について独学をはじめる。そしてルウは少しずつ「変わり」はじめる。そんなルウの選択とは。

 タイトルの「くらやみの速さはどれくらい」とは、光と光のない「くらやみ」についての話である。くらやみは光より常にその先にあるということは、くらやみはもしかしたら光よりも早いのではなかろうか、という問い。含蓄深いね。

 これは全体を読んでからの話だけど、文庫版で503ページからの第18章のおわり、「ピザにのせたアンチョビ」をめぐる自己認識についてのルウの自問自答がある。2ページ以上にわたり、アンチョビが好きな自分とアンチョビが嫌いな自分をめぐり、実に、実に、実に読み応えがある。もうこれを書きたかったのではないかと思うぐらいによい文章だ。

 実はここにいたるまで、一章一章ゆっくりとしか読み進められなかった。激しい展開があるわけでなくSFではなく状況描写的な普通小説としても読めるので夢中に読み進めるというより一章読んではちょっと頭で整理を付けて、という感じだったのだ。でも、途中でやめずに良かった。良作。「アルジャーノン」も名作だけど、全然違う。これは人格、自己認識と「選択」の物語だ。

 余談。本書は古本店で手に入れたのだが、都心のホテルの案内図をプリンタで打ち出したA4の紙とその裏にボールペンで書かれた女性の漫画的スケッチが2枚描かれていた。古本を手に入れるとときおりこういうことが起きる。多いのは航空券の半券や本のレシート、本屋さんのしおりなどだが、ときにはメモのようなものがはさまっていることもある。本への書き込みはちょっと困るが、こういうのは少し楽しい。この人は、この本を持ってどこかから都心の(ちょっといい)ホテルに泊まったのだろうか。そうして一人でこの落書きをしたのか、それとも誰かが書いたのか。この本はどこで手放したのだろうか…。どんな気持ちでこの本を読んだのだろうか。考えるのも少し楽しい。

映画 侍タイムスリッパー

2024年、安田淳一監督作品。

 公開中友人らからとてもおもしろい映画だと絶賛されていた。
 残念ながら映画館で見られなかったのが配信に入ったのでおくればせながら見た。
 とてもよい映画だった。舞台は現代だが、時代劇愛がこぼれんばかりにあふれていた。
 もともと時代劇とは縁のない生活をしていたのだが、連れが時代劇にくわしく、その縁でここ20年ほど読んだり観たりしていたのが幸いした。
 池波正太郎の「剣客商売」も一通り読み、ドラマの藤田まこと版などはほぼ全作見ていたので、その際主人公の息子「大治郎」役をしていた若き山口馬木也が良い感じに歳を重ねていて、本作では主役としてよい演技をしていた。
 私自身も子どもの頃、体力増進のために剣道をすこしだけやっていたので、こういうチャンバラには一言、二言ある。剣道と「殺陣」はもちろん違うものだが、一対一の練習シーンなどには釘付けになってしまう。

 さて、話は簡単で、江戸末期の侍が決闘中に雷に打たれて21世紀の現代にタイムスリップしてしまうが、場所が京都の時代劇撮影所であった。エキストラの切られ役と間違えられたり、まわりの人たちに優しくされ、記憶早々の役者の卵として扱われて、時代劇の「切られ役」として生きる道を模索する。しかし、21世紀の現代は時代劇冬の時代。テレビでも映画でも時代劇はほとんど作られていない。「切られ役」「殺陣」の需要も激減している。そんななかでも筋の良い、礼儀正しい中年切られ役として重宝される主人公。しかしそこに思わぬ人物が現れ…。
 というもので、タイムスリップではあるが、SFというよりコントの「もしも」シリーズの映画化みたいな感じ。笑いあり、人情あり、チャンバラありの手に汗握る一大エンターテイメントであった。
 「カメラを止めるな!」に続き、インディーズの低予算エンタメはときにすごい映画ができるね。
 映画の後味もよくて、みんな楽しく映画を作っている感じがして、よい。
 注目すべきは「音」の使い方。剣が打ち合うときの効果音がシーンごとにうまく当てられていて、それがちょっとした感動を生んでしまう。
 全力でお勧めしたい。

時に架ける橋

A BRIDGE OF YEARS

ロバート・チャールズ・ウィルスン
1991

 すっかり忘れていた。好きな作家なのに。ごめん、ロバート・チャールズ・ウィルスン。「時間封鎖」「無限記憶」「連環宇宙」の作家じゃないか。タイムトラベルものを敬遠する傾向があるからといって、なんでこの作家の長編を読み損ねていたのだろうか。反省。やっぱりおもしろいじゃないか。わかりやすくて、おもしろくて、読みあきさせない。しかも、後の「クロノリス」や「時間封鎖」三部作、「楽園炎上」にもつながるような小道具としての「時間」の使い方と、登場人物の受け止め方がじつにすばらしい。

 舞台は、1989年のベルタワー。アメリカ北西部の太平洋岸にある霧の多い小さな町である。主人公のトム・ウインターは生まれ育ったこの町に戻ってきたところだった。妻と別れ、仕事を失い、兄夫婦の暮らすこの町へ。そこで、トムは森の中の古い一軒家を紹介されて購入する。物語はそこから動き出す。
 さかのぼって1979年。その家に住むタイムトラヴェラーのベン・コリアーは21世紀末から来たとおぼしき襲撃者によって殺され、森の奥の小屋の中にうち捨てられた。それ以後、誰も住むものなく、公売にかけられ、トムがその家を買ったのである。10年の間だれも住んでいなかったのに、家の中はとてもきれいで塵ひとつなく、そして。
 もうひとつの舞台は1962年のニューヨーク。トム・ウインターは時と空間を超えてきた。そこで彼はおせっかいで声の美しい女性のジョイスに出会う。妻のことを忘れられないでいたトムにとって、ジョイスは輝いていた。

 ということで、1979年の凄惨な襲撃事件をプロローグとして、「自分探しさえもできていない、少年の頃に時間を置き忘れてしまったかのような迷える青年トム」の物語がはじまる。1989年の田舎町の郊外と、1962年の発展する大都市ニューヨークのはざまでトムが他者とどのように接しふるまうのか。それを基軸にしながらも、タイムトラヴェラーの秘密、襲撃者の謎、そこから垣間見える時間をあやつる未来の姿。いく人かの人生が交差し、変わっていく。それは必然なのか、それとも時を行き来したことによる改変なのか。
 主人公の1989年を生きるトムは、時間移動技術に偶然遭遇しただけであり、「そこにあるから使う」だけの存在である。その技術的な内容やタイムパラドックスについてはトム自身は知りようがない。知らなくて使っているから、トラブルにも巻き込まれるが、そもそも何かのスイッチを押したり制御したりできるものでもないから、トラブルも極めて人間的なものだったりする。そういう「状況に置かれた」というのがポイントなんだろう。

 背景に未来の世界、未来の人類、未来の技術という大きなものを予感させながら物語は、80年代末と、1960年代初頭の独特の空気感をまとって進んでいく。このバランス感覚が作者のお得意とするところで、のちの作品群に昇華されていくのである。

アルベマス

RADIO FREE ALBEMUTH

フィリップ・K・ディック
1985

 SNSでつい最近「アルベマス」の世界のようだという投稿をみかけて、再読することにした。40年近くぶりの再読のような気がする。

 手元にあるのは1987年に大滝啓裕訳、サンリオSF文庫版である。手に取ったのは社会人なりたての頃。本書はサンリオSF文庫の最終刊となった作品でもある。いろいろ思い出深い1冊だ。大学生の頃、ディックに没頭した時期がある。時は情報化がブームになった頃で、ワープロ、パソコン、INS(総合デジタルサービス)なんていう言葉が踊り、情報の双方向化と集約・分散化がもたらす未来が盛んに議論されていた頃である。ディックはいち早く「仮想」「情報化」がもたらす社会の変化や、権力・支配との関連について、様々な作品で可能性と問題点を示唆していた。それは明確な未来ヴィジョンとまでは言えないが、人間の思考と行動パターンが社会を作り、技術もその延長にしかないことから敷衍したディックならではの思索の結実でもあった。そして、ディックは、初期のくだらないガジェットたっぷりの作品群から後期のもうなにがなんだか分からない世界にいたるまで、ずっとこのテーマを内側に秘めていたのだと私は思っている。

 本書は、ディックが正式に発表した最後の3作品「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」のいわゆる「ヴァリス三部作」の準備稿のような作品である。死後発表されたものであり、ディック本人が発表する気があったのかどうかは分からない。またこの作品の執筆時期や「ヴァリス」に連なる位置づけについても、私が知るのは、このサンリオ版の訳者による解説までである。その後も、ディックをめぐる文学的研究は、日本やフランスを中心に行なわれているはずであり、理解は深まっているのかも知れないが、ここでは置いておこう。

 本書は、第一部「フィル」第二部「ニコラス」第三部「フィル」の3部構成からなっている。「フィル」とは、作者本人、すなわちフィリップ・K・ディックのことである。若い頃からSFを書いて生計を立て、やがてそれなりに成功した本人そのものである。ニコラス・ブレイディはフィルの親友で若い頃はレコードショップに勤め、やがてプログレッシブ・レコード社のプロデューサーのような職を得る。
 アメリカは、フェリス・F・フレマント大統領の下、急速に警察国家化していた。彼は政敵を噂と誹謗中傷と陰謀論で貶めながら政界をのし上がり、やがて「アラムチェック」という本当にあるかどうかも分からない陰謀によりアメリカが共産化されつつあるとして、密告と監視と統制による支配体制を確立していた。その当時、世界の敵は共産化の親玉であるソヴィエト連邦であり、当然アメリカの敵はソヴィエトのはずであるが、共産化を憎むというフレマントは、ソヴィエトと必ずしも対立しているとは言えなかった。ふたつの大国が同じような社会になりつつあったのである。
 そこに、ニコラスに啓示をもたらす「VALIS」がからんで、SFなのか、神学なのか、妄想なのか、というディック後期の表現がくり返されるのだが、その、神学や妄想といった部分をすっぱりと差し引いてみれば、アルベマスの世界は、とても今に似ている。
 本作のフェリス・F・フレマント大統領は明らかにニクソン大統領を指しているが、むしろ第2次政権となった2025年のトランプ大統領のふるまいだ。

 本書でも、ディックは主人公たちを散々な目に合わせる。登場人物作者本人であっても容赦ない。そして読者を鼓舞するのだ。最後にすべてを失い絶望したフィルが強制労働の最中に出会ったレオンに言われる。
「それなら、おまえが聞きたくもないかもしれないことをいわなきゃならないな。おまえのアラムチェックの友達がここにいたら、そいつらにもいってやる必要がある。それじゃだめなんだぞ、フィル。この世界でなきゃいけないんだ」「まずこの世界でやらなきゃならないんだぞ、フィル。ほかの世界でうまくいっても駄目なんだ」「それはな」「苦しんでいるのはこの世界だからだ。不正や監禁が横行しているのはこの世界だからだ。おれたちのように、おれたちふたりのようにな。この世界に必要なんだぞ。それもいま」

 絶望的な状況の中で、希望をもつことを忘れるなと繰り返し告げる。
 妄想としての希望ではなく、現実につながる、変えられる未来についての希望だ。
 そして、未来はつねに今の先にある。

 さて、SF的なガジェットとしては数千年前には地球軌道に届いていたと考えられる高度な異星知性による人工衛星の存在ぐらい。この人工衛星から発せられる「情報」と、ラストシーンの「情報」。原題は「自由アルベマス放送」といったところだ。こちらにも二重の意味が込められている。

終末のプロメテウス

ILL WIND

ケヴィン・J・アンダースン、ダグ・ビースン
1995

 大型タンカー座礁による原油流出事故といえば、1989年のバルディーズ号事故がまっさきに上げられる。アラスカ湾沖で発生し、世界中に衝撃を与えた。この事故をきっかけにバルディーズ原則がCERESによって打ち立てられ、企業・団体等における環境保全順守事項の基礎として知られるようになる。すなわち、生活圏の保護、天然資源の持続可能な活用、廃棄物の処理と削減、エネルギーの賢明な利用、リスク削減、安全な商品やサービスの提供、損害賠償、情報公開、環境担当役員及び管理者の設置、評価と年次監査である。
 日本では、1997年のナホトカ号事故が日本海側の福井県の海岸を汚染したことでよく知られている。その後も世界各地ではタンカー座礁、沈没事故が起きている。そのたびに、海洋環境は悪化し、多くの生物や生態系に影響を与えている。

 本書では、サンフランシスコ湾近くで大型タンカー・ゾロアスター号がゴールデンゲートブリッジにぶつかり、大量の原油を流出させてしまう。この解決策に、まだ承認されていない原油を分解する細菌プロメテウスの投入が強行される。それは文明の崩壊のはじまりとなってしまった。当初は原油のオクタンのみを分解するとしていたが、実際には炭化水素の多くを分解し、なおかつ、驚異的なスピードで拡散していったのである。アメリカから世界へ。ガソリン、ほとんどのプラスチック製品などがプロメテウスによって分解されていった。そして20世紀にはじまった「石油文明」が終わりを告げた。
 自動車も、飛行機も、アスファルトも、プラスチック容器もない。あらゆる電子機器も、生活用品も、病院も、食品企業も、日常生活のあらゆるところで、いかに石油製品に依存していることか。そのすべてが使えなくなってしまう。電気もない。音楽さえ流せない。
 馬と、木と、陶器と、鉄の時代への逆行がはじまったのだ。
 タンカーの船長、乗組員、事故の原因を招いた人物、石油企業の役員、危機管理対応のスタッフ、環境活動家、米軍の基地司令、戦闘機乗り、開発した石油企業の研究者、出世欲にとりつかれた元研究者、監査のために派遣された科学者、衛星軌道上から太陽エネルギーを電力に変えるための実験を繰り返す研究チーム、自動車保険会社のスタッフ…。さまざまな登場人物の視点から物語が展開する「破滅SF」である。

 この種の作品は、SFのジャンル的に扱われるものと、現代に実際に起きる可能性のある社会、経済、パニック小説的に扱われるものがあり、おそらくその境界は明確ではない。明確ではないのだが、日本では読者層の違いとして現れたりする。いわくSFだったら読まないけれど、現代パニック小説なら読む、あるいはその逆といった具合である。出版社の傾向にもよるだろう。ハヤカワや創元からSFとして出されていたら、SFだし、新潮社や講談社からだされていたら一般的な「小説」の範疇に含まれてSFと思わずに読むだろう。印象は大事だ。

 さて、発表されたのは1995年で翻訳出版は1998年と割とすばやく出されている。この作者たちの作品が比較的売れているというのもあるだろうし、テーマとしても1997年のナホトカ号事故などもあるし、このころは、遺伝子組み換え技術が商業的になりはじめて、バイオテクノロジーについて関心が高まっていた時期でもあったので、そういうこともあるのかもしれない。
 実際のところ、原油流出事故のようなことはその後も起きていたし、これからも起きる可能性はある。また、本作品では暴れ回った細菌のプロメテウスだが、現実の世界では、原油を分解するために必要な他の栄養素の問題や環境要因によってその分解性能、すなわち細菌の増殖は大きく左右される。それでもバイオレメディエーションは現実には一定の効果を上げており、メリットとともに、使用や分解物による他の生物や生物群、生態系への影響もデメリットやリスクとして指摘されている。
 本書のような世界的なバイオハザードが起きることは極めてまれではあるが、例えばNITE(製品評価技術基盤機構)では、バイオレメディエーションのデメリットとして、

・浄化に時間がかかる(浄化期間の不確定さ)。
・高濃度汚染には不向き。
・複数の汚染物質が含まれる場合の浄化が難しい。
・浄化の過程で、有害な物質が生成する可能性がある。
・環境中での微生物利用に対する社会的受容性の低さ(安全性への不安)。
(https://www.nite.go.jp/nbrc/safety/bioremediation.html)

 を上げているように、社会的受容性は低く、バイオハザードはいつも心配されている。それに対しては、ていねいな検証と情報公開が必要だろう。

 おっと、話がずれてきた。
 作品に戻ると、単純に「石油製品が世界から一掃されたら」どうなるの、という話である。新型コロナウイルス感染症パンデミックで「世界が急に一変する」ことを経験した21世紀前半、具体的な想像ができておもしろいのではなかろうか。
 未来の、次の世界的パニックに備えるためにも。