アルベマス

RADIO FREE ALBEMUTH

フィリップ・K・ディック
1985

 SNSでつい最近「アルベマス」の世界のようだという投稿をみかけて、再読することにした。40年近くぶりの再読のような気がする。

 手元にあるのは1987年に大滝啓裕訳、サンリオSF文庫版である。手に取ったのは社会人なりたての頃。本書はサンリオSF文庫の最終刊となった作品でもある。いろいろ思い出深い1冊だ。大学生の頃、ディックに没頭した時期がある。時は情報化がブームになった頃で、ワープロ、パソコン、INS(総合デジタルサービス)なんていう言葉が踊り、情報の双方向化と集約・分散化がもたらす未来が盛んに議論されていた頃である。ディックはいち早く「仮想」「情報化」がもたらす社会の変化や、権力・支配との関連について、様々な作品で可能性と問題点を示唆していた。それは明確な未来ヴィジョンとまでは言えないが、人間の思考と行動パターンが社会を作り、技術もその延長にしかないことから敷衍したディックならではの思索の結実でもあった。そして、ディックは、初期のくだらないガジェットたっぷりの作品群から後期のもうなにがなんだか分からない世界にいたるまで、ずっとこのテーマを内側に秘めていたのだと私は思っている。

 本書は、ディックが正式に発表した最後の3作品「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」のいわゆる「ヴァリス三部作」の準備稿のような作品である。死後発表されたものであり、ディック本人が発表する気があったのかどうかは分からない。またこの作品の執筆時期や「ヴァリス」に連なる位置づけについても、私が知るのは、このサンリオ版の訳者による解説までである。その後も、ディックをめぐる文学的研究は、日本やフランスを中心に行なわれているはずであり、理解は深まっているのかも知れないが、ここでは置いておこう。

 本書は、第一部「フィル」第二部「ニコラス」第三部「フィル」の3部構成からなっている。「フィル」とは、作者本人、すなわちフィリップ・K・ディックのことである。若い頃からSFを書いて生計を立て、やがてそれなりに成功した本人そのものである。ニコラス・ブレイディはフィルの親友で若い頃はレコードショップに勤め、やがてプログレッシブ・レコード社のプロデューサーのような職を得る。
 アメリカは、フェリス・F・フレマント大統領の下、急速に警察国家化していた。彼は政敵を噂と誹謗中傷と陰謀論で貶めながら政界をのし上がり、やがて「アラムチェック」という本当にあるかどうかも分からない陰謀によりアメリカが共産化されつつあるとして、密告と監視と統制による支配体制を確立していた。その当時、世界の敵は共産化の親玉であるソヴィエト連邦であり、当然アメリカの敵はソヴィエトのはずであるが、共産化を憎むというフレマントは、ソヴィエトと必ずしも対立しているとは言えなかった。ふたつの大国が同じような社会になりつつあったのである。
 そこに、ニコラスに啓示をもたらす「VALIS」がからんで、SFなのか、神学なのか、妄想なのか、というディック後期の表現がくり返されるのだが、その、神学や妄想といった部分をすっぱりと差し引いてみれば、アルベマスの世界は、とても今に似ている。
 本作のフェリス・F・フレマント大統領は明らかにニクソン大統領を指しているが、むしろ第2次政権となった2025年のトランプ大統領のふるまいだ。

 本書でも、ディックは主人公たちを散々な目に合わせる。登場人物作者本人であっても容赦ない。そして読者を鼓舞するのだ。最後にすべてを失い絶望したフィルが強制労働の最中に出会ったレオンに言われる。
「それなら、おまえが聞きたくもないかもしれないことをいわなきゃならないな。おまえのアラムチェックの友達がここにいたら、そいつらにもいってやる必要がある。それじゃだめなんだぞ、フィル。この世界でなきゃいけないんだ」「まずこの世界でやらなきゃならないんだぞ、フィル。ほかの世界でうまくいっても駄目なんだ」「それはな」「苦しんでいるのはこの世界だからだ。不正や監禁が横行しているのはこの世界だからだ。おれたちのように、おれたちふたりのようにな。この世界に必要なんだぞ。それもいま」

 絶望的な状況の中で、希望をもつことを忘れるなと繰り返し告げる。
 妄想としての希望ではなく、現実につながる、変えられる未来についての希望だ。
 そして、未来はつねに今の先にある。

 さて、SF的なガジェットとしては数千年前には地球軌道に届いていたと考えられる高度な異星知性による人工衛星の存在ぐらい。この人工衛星から発せられる「情報」と、ラストシーンの「情報」。原題は「自由アルベマス放送」といったところだ。こちらにも二重の意味が込められている。

終末のプロメテウス

ILL WIND

ケヴィン・J・アンダースン、ダグ・ビースン
1995

 大型タンカー座礁による原油流出事故といえば、1989年のバルディーズ号事故がまっさきに上げられる。アラスカ湾沖で発生し、世界中に衝撃を与えた。この事故をきっかけにバルディーズ原則がCERESによって打ち立てられ、企業・団体等における環境保全順守事項の基礎として知られるようになる。すなわち、生活圏の保護、天然資源の持続可能な活用、廃棄物の処理と削減、エネルギーの賢明な利用、リスク削減、安全な商品やサービスの提供、損害賠償、情報公開、環境担当役員及び管理者の設置、評価と年次監査である。
 日本では、1997年のナホトカ号事故が日本海側の福井県の海岸を汚染したことでよく知られている。その後も世界各地ではタンカー座礁、沈没事故が起きている。そのたびに、海洋環境は悪化し、多くの生物や生態系に影響を与えている。

 本書では、サンフランシスコ湾近くで大型タンカー・ゾロアスター号がゴールデンゲートブリッジにぶつかり、大量の原油を流出させてしまう。この解決策に、まだ承認されていない原油を分解する細菌プロメテウスの投入が強行される。それは文明の崩壊のはじまりとなってしまった。当初は原油のオクタンのみを分解するとしていたが、実際には炭化水素の多くを分解し、なおかつ、驚異的なスピードで拡散していったのである。アメリカから世界へ。ガソリン、ほとんどのプラスチック製品などがプロメテウスによって分解されていった。そして20世紀にはじまった「石油文明」が終わりを告げた。
 自動車も、飛行機も、アスファルトも、プラスチック容器もない。あらゆる電子機器も、生活用品も、病院も、食品企業も、日常生活のあらゆるところで、いかに石油製品に依存していることか。そのすべてが使えなくなってしまう。電気もない。音楽さえ流せない。
 馬と、木と、陶器と、鉄の時代への逆行がはじまったのだ。
 タンカーの船長、乗組員、事故の原因を招いた人物、石油企業の役員、危機管理対応のスタッフ、環境活動家、米軍の基地司令、戦闘機乗り、開発した石油企業の研究者、出世欲にとりつかれた元研究者、監査のために派遣された科学者、衛星軌道上から太陽エネルギーを電力に変えるための実験を繰り返す研究チーム、自動車保険会社のスタッフ…。さまざまな登場人物の視点から物語が展開する「破滅SF」である。

 この種の作品は、SFのジャンル的に扱われるものと、現代に実際に起きる可能性のある社会、経済、パニック小説的に扱われるものがあり、おそらくその境界は明確ではない。明確ではないのだが、日本では読者層の違いとして現れたりする。いわくSFだったら読まないけれど、現代パニック小説なら読む、あるいはその逆といった具合である。出版社の傾向にもよるだろう。ハヤカワや創元からSFとして出されていたら、SFだし、新潮社や講談社からだされていたら一般的な「小説」の範疇に含まれてSFと思わずに読むだろう。印象は大事だ。

 さて、発表されたのは1995年で翻訳出版は1998年と割とすばやく出されている。この作者たちの作品が比較的売れているというのもあるだろうし、テーマとしても1997年のナホトカ号事故などもあるし、このころは、遺伝子組み換え技術が商業的になりはじめて、バイオテクノロジーについて関心が高まっていた時期でもあったので、そういうこともあるのかもしれない。
 実際のところ、原油流出事故のようなことはその後も起きていたし、これからも起きる可能性はある。また、本作品では暴れ回った細菌のプロメテウスだが、現実の世界では、原油を分解するために必要な他の栄養素の問題や環境要因によってその分解性能、すなわち細菌の増殖は大きく左右される。それでもバイオレメディエーションは現実には一定の効果を上げており、メリットとともに、使用や分解物による他の生物や生物群、生態系への影響もデメリットやリスクとして指摘されている。
 本書のような世界的なバイオハザードが起きることは極めてまれではあるが、例えばNITE(製品評価技術基盤機構)では、バイオレメディエーションのデメリットとして、

・浄化に時間がかかる(浄化期間の不確定さ)。
・高濃度汚染には不向き。
・複数の汚染物質が含まれる場合の浄化が難しい。
・浄化の過程で、有害な物質が生成する可能性がある。
・環境中での微生物利用に対する社会的受容性の低さ(安全性への不安)。
(https://www.nite.go.jp/nbrc/safety/bioremediation.html)

 を上げているように、社会的受容性は低く、バイオハザードはいつも心配されている。それに対しては、ていねいな検証と情報公開が必要だろう。

 おっと、話がずれてきた。
 作品に戻ると、単純に「石油製品が世界から一掃されたら」どうなるの、という話である。新型コロナウイルス感染症パンデミックで「世界が急に一変する」ことを経験した21世紀前半、具体的な想像ができておもしろいのではなかろうか。
 未来の、次の世界的パニックに備えるためにも。

サイオン

PSION

ジョーン・D・ヴィンジ
1982

 遠未来宇宙時代の超能力ものである。
 はるか未来、惑星アルダッテーは地球に替わる交易と経済と文化の中心地である。人類世界はいくつもの星間企業連合と宇宙の交易を仕切る宇宙連邦輸送機構がその権力の中心を担っていた。そして惑星アルダッテーの首都クァロは太陽を見ることのない最下層部の旧市と、上層にきらめく新市とに明確に分かれ、人々もふたつの明確な階級の中で生きていた。主人公はそんな旧市で公安警察や労務者徴募局の目を避けながら生きてきた青年キャットである。キャットの由来は猫のように夜目がきき、抜け目なく路地から路地をさまよって野良猫のような存在だからだ。
 しかし、キャットは公安警察に捕らえられ、上層の新市に連れて行かれ、「超能力開発プロジェクト」に志願するならば仮釈放するともちかけられる。キャットの人生の転機である。キャットにはサイオンとしてテレパシストの素養があったのだ。
 さて、話は変わって惑星シンダー。ここは宇宙連邦輸送機構が支配する鉱物テルハシウムの採掘惑星である。テルハシウムは人類が光速を超えて宇宙を航行するのに不可欠な鉱物であるが、惑星シンダーなど限られた場所でしか取れないものであった。寒冷な惑星シンダーには実質的な奴隷労働者が送られ、そして次々と死んでいった。下級階層の犯罪者はいくらでも代わりがいるのである。
 もうひとつ話がある。あまり知られていないが、人類は別の知的種族とかつて遭遇していた。ヒドラ人である。彼らは人類とほぼ同じ形態をしているが、何より違うのは全員がサイオンだということである。そして、これも大いなる秘密だが、人類とヒドラ人は生殖可能なのであった。人類の中にはヒドラ人との混血もいるということだ。

 いま、宇宙連邦輸送機構やいくつかの星間企業連合があわててサイオンを探索、育成しているのには理由がある。現行の政治経済体制に対し、クイックシルヴァーというリーダーを中心にしたテロ組織が暗躍しているのである。クイックシルヴァーは巧みに姿を隠しながらテルハシウムを狙っているとみられている。そして、彼はサイオンのチームを抱えており、彼自身もサイオンであろうと。
 キャットは、超能力開発プロジェクトのリーダーであるジーベリンク博士の恋人であるサイオンのジュールに恋心を抱いていた。キャットは、その才能と若さ故の感情の不安定さ故に、人類社会のこれからを左右する陰謀の中心に巻き込まれてしまうのだった。

 作品としては、青年の成長譚という感じでもなく、主人公の性格にいまひとつ乗り切れないところもあるのだが、全体を通しての展開は派手である。想像の外側にいく。ひとつ言えるのは、キャット、悪いやつじゃない。むしろいいやつ。周りが結構悪いやつが多いけれど、キャット、いいやつ。そしてキャットを利害なしに助けるおっさん、いいやつ。そんなところかな。超能力ものの派手さはないから、それを期待すると裏切られるかも。

 80年代作品を印象づけるのが政治体制であろうか。こんにちのような「政府」組織が経済力と組織力を持つ企業連合に取って代わられ、交通と交易のネットワークを持つ機関が世界政府的な役割を持つ秩序体制となっている。このような政体がSF作品でみられるようになったのは80年代になってからではなかろうか。
 21世紀前半のいま、従来の「政府」組織は「国」という形で20世紀に続いて存続しているが、かつての帝国主義時代と同様、徐々に経済・技術集団である企業が力をつけ、政治力を陰に陽に発揮するようになっている。「GAFA」と代表的な企業の頭文字がつけられているが、もちろんこの4社だけではない。
 これから100年後もいまの政治体制が続いているとは限らないのだ。
 ただ、残念ながら自然能力としてのサイオン=超能力の開発はのぞめないだろう。その代わりを良しにつけ悪しきにつけ技術が実現していくのだろうけれど。

旋舞の千年都市

THE DERVISH HOUSE

イアン・マクドナルド
2010

 2014年に東京創元社から創元海外SF叢書の第一段として翻訳出版されたのが本書「旋舞の千年都市」である。2027年のトルコ、イスタンブールを舞台に月曜日から金曜日までの5日間の濃密な群像劇が展開する。長年の懸案課題図書をようやく手にする。
 イアン・マクドナルド。「火星夜想曲」(1988)も手強いSFだった。たくさんの登場人物、しつこいばかりの細部の描写、途中なんども投げ出しそうになるが読み終わって後悔のない旅路。2025年最初の1冊にふさわしい重厚な作品である。
 まず本書が上梓されたのが2010年というのがポイント。本書の中で2027年にはトルコはEUに正式加盟したばかりとなっている。2025年の現実では、実際のところ2027年にトルコがEUに正式加盟する可能性はまったくない。一時は実現可能性さえ危ぶまれたが、ロシアのウクライナ侵攻などの情勢を受けてトルコとEUの関係改善に向けた政治的模索は続いている。しかし、2000年代後半は、いずれトルコはEUに正式加盟できるのではないかと楽観視する見方もあった。作者のイアン・マクドナルドは少しだけ好意的な舞台設定をしたと言える。また2010年当時はまだスマートフォンが広がりをみせはじめた時期である。本書に出てくるジェプテップ(携帯)の機能は2025年のスマホよりもより高性能であり、ナノテクやバイオテクに関しては本書の2027年は現実よりはるかに先を行っている。
 まあ現実との比較はその程度にしておこう。

 舞台はイスタンブールである。実は1990年、すなわち35年ほど前、私はトルコを旅していて、玄関口であるイスタンブールには行き帰り合わせて2週刊ほど滞在した経験がある。主に滞在したのは当時バックパッカーが泊まる安宿の多いヨーロッパサイドの旧市街側であったが、イスタンブールの新市街側やアジア側にも行く機会を得た。それからトルコはいくつかの政治的危機やはげしい経済的動乱、そして発展をするのだが、イスタンブールという都市の歴史的積み重ねは35年ぐらいではびくりとも揺るがない。だから登場する町や歴史的建造物などには記憶にあるものもあって、読んでいて私の記憶の奥底をかき回されるような気持ちにもなった。もちろん、実際にイスタンブールを訪れたことがなくても、本書を読む価値はまったく減じることがない。
 人類世界の中心のひとつ、それがイスタンブールであることは間違いないからである。ちなみに、トルコの首都はアジア側のアンカラである。イスタンブールは首都ではない。それでもイスタンブールはアジアとヨーロッパの結節点にあり、イスラム教とキリスト教に代表される文明の衝突と混交の地であり、人と物と文化の交差点である。
 主要登場人物は6人。このうち5人は旧市街の古い古い修道僧(ダルヴィーシュ)の館を改装したアパートの住人である。
 ある事件をきっかけに宗教的存在を見ることができるようになった若い男性。心臓に障害を持ち「大きな音」を避けるために常に耳栓をつけて暮らす利発な9歳の少年。その少年にナノテクの玩具のプログラム方法を教えたりしているギリシャ系の引退した経済学者の老人。田舎町から親戚を頼って出てきてマーケティングの学校を卒業し就職活動をしている若い女性。ダルヴィーシュの館の一角で歴史的宗教的美術品の画廊を営むやり手の女性。その夫は天然ガス商社で先物トレーダーとして成り上がろうとしている野心家。
 この6人のそれぞれが、それぞれの場所でさまざまな人と絡み合いながら物語は進展していく。濃密な5日間。
 最初に起きるのは自爆テロ。トラム(路面交通機関)で自爆した女以外に誰も死ななかったが、月曜日の朝、それは激しい交通渋滞を引き起こしただけだった。9歳の少年はその事件現場にナノテクのおもちゃを自分の「目」として送り出し、そこに「少年探偵」として「事件」を見いだしてしまう。画廊の女の元には、はるか昔から伝承として伝わる「蜜人」を見つけて欲しいとの依頼が舞い込み。その夫は自分の仕事を舞台にした大がかりな詐欺の計画を実行しようとタイミングを計っている。老経済学者の元にはトルコ政府のの秘密組織から研究会への参加を求められる。若い女性は親類の男とクルド人の研究者が開発したバイオコンピューターテクノロジーのスタートアップ企業を手伝うことになり。金が絡み、政治が絡み、欲が絡み、テクノロジーが絡み、宗教が絡み、そしてイスタンブールという千年の都市の歴史がまとわりついてくる。
 6つの視点の物語はまるでイスタンブールの歴史のようにやがて少しずつ交錯し、金曜日を迎えることになる。
 SFとしての「外挿」は近未来の予測としてさほど突飛なものはない。近未来を舞台にした普通のエンターテイメント小説と言ってもいいかもしれない。それほど新しいテクノロジーをうまく物語に取り入れてあるからだ。だからSFとしては特筆すべきものではないかもしれないが、過去と未来が交差するなんとも言いがたいあじわい、趣がある。
 イアン・マクドナルド、読後に後悔なし。

 追記 主人公の老経済学者はギリシャ系である。トルコのギリシャ系の人々は、かつて非イスラムの少数民族として迫害を受け、多くの人たちがギリシャに逃れ、ギリシャでも苦難の暮らしを続けていた。トルコに残っても少数のコミュニティとなり差別的な待遇となっていたのだ。また、登場人物の一人にクルド人の研究者が登場するが、トルコ人の若い女性がクルド人が研究者であることに初対面でとまどうシーンもある。
 トルコは本来多民族他宗教の混交する地であり、第一次世界大戦後ケマル・アタチュルクによってトルコ共和国は独立し、イスラム教主体だがアラビア語表記を廃し、アルファベット表記に変え、政教分離をはかるなど西洋との接点を築こうとしたのだ。しかし、内実はイスラム原理主義と世俗主義の間に揺れ動き続けているし、ギリシャ系への迫害、トルコ、イラン、イラクなどの山岳地帯に生きるクルド人に対する迫害など、多くの問題を抱えている。
 本書では、さりげなくそういう差別の視点と、そうではなく人と人との関係性の構築という当然のあり方を作品に織り込んである。
 トルコのことだけではない、日本でもそういう差別は多い。心して読んでおきたい。

戦いの子

WARCHILD

カリン・ロワチー
2002

 2008年に邦訳された作品。2000年代に入ってからだろうか、売れるSFなのか宇宙ミリタリーものの翻訳が増えてきた気がする。たしかにおもしろいのだろうがシリーズものはなかなか食指が伸びなかったりする。食わず嫌い大王だからな。
 釣り書きには「エンダーのゲーム」を彷彿させる少年の成長譚、傑作戦争SF巨編、などとある。「エンダーのゲーム」を言うのならば、続編全部訳してよ、とか思ってしまう食わず嫌い大王である。
 それでも、つい手を取ってしまうこともある。そして当たりだと嬉しくなる。

 当たりだ。

 とっつきは主人公を2人称で語るので心配したが、やがて主人公視点ながらも3人称で語られるようになる。成長に合わせて、ということかも知れない。

 舞台は遠い未来。人類は地球を中心に遠宇宙まで進出していた。辺境の星域で有望な資源惑星を発見したがそこにはすでに異星種族ストリヴィイルク=ナがやはり資源を求めて進出しており、人類側からの戦争が勃発する。人類側にはストリヴィイルク=ナに協力する一派も現れ、彼らは人類のメインサイド政体であるアースハブからはシンパサイザーと呼ばれ、異星種族同様の敵とされている。
 主人公のジョスは巨大な商業宇宙船に生まれ育った少年、その宇宙船が人類の海賊船に襲われ、ジョスはさらわれて海賊船の船長ファルコンのペットとして躾けられていく。芯がしっかりしていて、美形で、頭がよくて、体力の可能性を持つ、見込みのある少年だったから。
 のちに海賊船が立ち寄った辺境のステーションで、異星種族の襲撃のどさくさに紛れてジョスはファルコンから逃げ出すが、結果的にシンパサイザーのリーダーの一人に捉えられてしまう。そして、アースハブとはまったく異なる世界で彼は新たな教育と技能訓練を受けることになる。やがてジョスは使命を帯びてアースハブ軍に潜入することになる。そこでジョスは…。
 ということで、大人たちの、世界の都合で少年は翻弄されながらも知恵を付け、技能を身につけ、そして、たくましく生きていくことになる。

 この物語にはふたつの視点がある。ひとつは現代社会で世界の主流となっている西洋文化と、それ以外の「異文化」との対話の物語である。人類主流のアースハブはまんま現在の西洋文化を体現しているし、異星種族の文化的影響を受けているシンパサイザーは古い東洋やアフリカ、中東の文化から混交したもののようである。ジョスを通じて、異文化間の齟齬と対話の可能性を模索する。もうひとつが今日的な児童虐待や性的虐待、暴力による精神的支配などとそのトラウマ、そしてそこからの回復といった視点である。ジョスは「強い子」ではあるが、いくつものレイヤーで本人には気づくことができないトラウマを抱えている。その救済とは何か、である。本人というよりこれは周りのあり方の問題となる。
 物語の展開は、まさしくミリタリーSFそのものであり、エンターテイメント作品ではあるが、きちんと深読みできる構成になっていて好感が持てる。

 ジョス、君は君なりによくやっているよ。