地球最後の日

地球最後の日
WHEN WORLDS COLLIDE
フィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマー
1932
 私がSFを深く心に染みつかせたのは小学校の頃、図書館で借りた「地球さいごの日」だった。小学校に上がる前からSFの絵本や童話などが好きだった私は、小学校で図書館という存在を知り、喜び勇んで本を借りては読んでいた。その頃、小学校1、2年生は直接図書館に入ることが許されず、小学校3年生以上でなければ自分で本を選ぶことも許されなかった。だから、本書を読んだのは小学校3年生以降のことであろう。
 九州の山の中の町に暮らしていた私は、夜、2階の自室のベッドで本書を読みながら、時折遠くに聞こえる長距離トラックのエンジン音に、私を残して地球から人が逃げていなくなっているのではないかと恐怖を覚えたものだ。  思えば、私は何にでも怖がっていた。今も、いろんなことが怖い。
「地球さいごの日」はいったい小学校の頃に何度借りて読んだことだろう。
 記憶の中にしっかりと話は刻み込まれている。
 1998年に、創元SF文庫として本書の完訳版がはじめて登場した。それまで出ていなかったのである。映画「ディープ・インパクト」がなければ、この完訳版を見ることはできなかったであろう。
 完訳版を読んだ後、幸いなことに古書店で集英社のジュニア版・世界のSF「地球さいごの日」(矢野徹訳)を入手することができた。私が読んでいたのは集英社版か、講談社版か、それともどちらも読んだのか、今となっては定かではない。
 しかし、大体において、ジュニア版と完訳版には大きな違いがある。
 それは、社会制度や宗教、金融、恋愛、結婚といったものをジュニア版では描いていないことだ。子どもにはなじみのない部分を大胆にカットすることで、「地球さいごの日」は、子どもにとって深い印象を直接的に与えることができたのだ。
 ジュニア版といえば、他にも、A・A・スミスの「レンズマン」なども印象深かったが、こちらは、シリーズを1冊にまとめる都合上、ずいぶんとストーリーを「創作」してあった。それに比べると、「地球さいごの日」は意外に忠実にストーリーを追いかけていた。それだけ物語としてよくできていたのだろう。
 さて、ストーリーはというと、破滅ものの典型である。地球への直撃軌道をとった放浪惑星を発見した科学者たちは、しばらくの間秘密を守り、ある時期になって発表する。地球がこなごなにくだけるというのだ。しかし、放浪惑星は2つあって、直撃する大きな惑星と、地球サイズの惑星のうち、小さい方は、もしかすると地球軌道に入れ替わるように入るかも知れないというのだ。科学者たちは、秘密裏に原子力ロケットを建造し、少数の男女による人類の生き残り計画を立てる。
 というもの。
 本書は、第二次世界大戦以前に書かれたものであり、そこに出てくる科学技術と科学知識はさすがに古びてしまっている。しかし、本書の凄みは、その崩壊の描き方にある。地球が壊れ、人類が滅び行く様を、「生き残るかどうか分からないけれど、生き残るつもり」の人たちが見つめ続けるのだ。
 そして、かすかな希望である「生き残れるかどうか分からないけれど、生き残るつもり」の人たちが描かれていて、その絶望と希望のないまざった表現が、かえって破滅ものとしての迫真性を増している。
 もちろん、今読むと、本当に古い。また、それゆえに、ご都合主義である。
 それでも、人類や地球が、宇宙的な動きの中ではほんとうにもろく、弱く、淡い存在であることを強く印象づける作品であり、人類と地球の奇跡を心に刻み込ませることに成功している作品でもある。
 ゆえに、本書はSF史に残る傑作である。
 本書は、映画化され、ジュブナイル化され、その後の多くのSFや映画に影響を与え続けている古典である。
 話は古いが、SF読みならば一度は手に触れて欲しい1冊である。
(2005.5.4)