祈りの海
OCEANIC AND OTHER STORIS
グレッグ・イーガン
2000
日本で編纂されたグレッグ・イーガンの第一短編集である。最初の短編集とあって、イーガン初期のバラエティに富んだ作品が並べられている。意外と言ってはなんだが、ちょっとホラーめいた話が多い。再読。
目が覚めるたびに住んでいるエリアの別人に憑依してしまう「貸金庫」。
子どもが欲しくてしかたがない男が数年で寿命を迎える人間そっくりの疑似人間を出産し愛する「キューティ」。
脳にバックアップの宝石を持ちやがて宝石に自己をスイッチするのがあたりまえになった世界で、「ぼくになることを」。
同性のパートナーを持つ主人公がバイオ企業へのテロ事件を捜査し、人間の多様性を否定する企てに巻き込まれることになる「繭」
ある天体現象を利用して未来のできごとを過去に情報として送れるようになった。日記を書いておけばいくつかの出来事は明確にあらかじめ知ることができる。データは秘匿されるから私の日記は過去の私しかみることができない。そんな世界はどうなるの?「百光年ダイアリー」。
現実世界の妻ではなく仮想世界にバックアップされた妻が誘拐されたら。現実世界の妻は気にしないが、夫は「誘拐」。
とどまっているとその周辺にいる人の思想に捕らわれてしまい人が増えるとその思想の力が強くなる世界で、自分を守るために歩き続ける「放浪者の軌道」。
人類の歴史を辿るだけでなく出自まで言及し始めたミトコンドリア・イヴに対し男性優位主義者らは「ミトコンドリア・イヴ」。
パラレルワールドで複数世界に影響を及ぼす超能力者の存在は、各パラレルワールドにとっての災厄だ。それを食い止めるために闘う男は、しかし「無限の暗殺者」。
情報技術と医療技術の進展は、パーソナル医療に向かった。しかし、それを得られるのは世界のごく一部の恵まれた人達だけ。なんとかならないのか、その若く、正義感に溢れた医師は、「イェユーカ」。
そして、表題作「祈りの海」。イーガンらしく、イーガンらしからぬ作品。
はるかな未来、人類は仮想空間の中で情報的存在として生きていたらしい。しかし、その一部が実体化を望み、ある惑星をテラフォーミングして限りある生を過ごすために実体化して移住したらしい。それから時が流れ、その技術も知識も失い、多くの人々は宗教を持ち、海の人、町の人などいくつかの属性を持ち暮らしていた。実体化した人類といっても、改良を加えられた存在である。主人公は海に生きる少年。ある日、宗教的体験を得るため兄に連れられて海に出て、海中で神の存在の啓示を得る。神と共にある幸せ、幸福感が彼の精神的支柱となった。いくつもの経験を経て、彼は海洋生物学者となり、そして、この惑星と彼らの秘密を知ることとなる。
人類の変容、宗教と精神、神や愛や感情がどこで発生するのか、大胆に迫るイーガンの中編である。この20世紀終わりから21世紀初頭にかけてのSFには、脳の情報処理や五感といった情報受容体、それに、体内の化学的、電気的機構との関わりと、世界認識のありようについて語る内容のものがでてきている。イーガンは、自己、自己認識、世界認識、情報処理、感情、動機といったものを現実と認知の間の様々な段階、スキマ、機構をめぐって思考を深め、物語を紡ぐ。
それは時に冷たく感じられ、時に、それを超えた自己認識を持つ存在への限りない信頼を感じることができる。それもまた、イーガンの作品の特徴だと思う。
(2021.8.16)