TAP


TAP

グレッグ・イーガン
1995

 グレッグ・イーガンの日本版オリジナル編集中短編集第4弾で河出書房新社からでている1冊。編訳者は他の作品と同じく山岸真なので他の中短編集との重なりなどはない。
 本書は、80年代~90年代半ばまでの初期作品が多く、また、SFというよりホラー、サスペンス領域といってもいい作品も多い。イーガンファンからするとちょっと意外性のある作品群である。

新・口笛テスト(1989)
「七色覚」(短編集「ビット・プレイヤー」所収)は人間の色認識能力を高めた人達のみる世界の物語だったが、こちらは人の脳に作用するメロディの話。1度聞くと忘れられなくなるメロディがあったらCMにはもってこい。だけど、その結果、思考まで左右され…。ちょっとしたホラー。

視覚(1995)
 臨死体験すると寝ている自分を空中から見ている自分(意識)という話は、オカルト系の物語の定番。イーガンがオカルトやってます。めずらしい。でも、その状態で生活を送るとするとどうなるのだろう。イーガン、語ります。

ユージーン(1990)
 宝くじで高額の賞金を得た夫婦は、それぞれ身体的精神的に苦労した生活を送ってきた。彼らは子どもを作ろうと考え、遺伝子操作によって子どもがさまざまなリスクを負わないようにしようと考えた。しかし、彼らが大金持ちだと知った医療コンサルは、彼らにささやきかける。天才を生みませんか?と。バイオ技術により徐々に優生学的思想、すなわち良質の遺伝子、形質をもった人間こそ優れているというナチズム・ファシズムに直結する思想が再び台頭しかねない現在において、イーガンは物語る。イーガンのまなざしとユーモア溢れる作品。

悪魔の移住(1991)
 一人語りのホラーです。医療関係の職場で働いていただけあって、医療関係の記述が上手。もともとは数学に関心が深く、そこからハードSFの作品を生み出し、人々を驚愕させているイーガンだが、初期はバイオ関係のストーリーも多い。バイオ関係はSF以上にホラーやオカルトと相性がいいらしい。バイオホラーの短編です。あとは何を書いてもネタバレになるので、バイオホラー好きな人、読んで。

散骨(1988)
 これは、ホラー。SF要素はない。途方もない殺人鬼が出てきます。カメラマンが出てきます。殺人現場を撮影します。殺人鬼とカメラマンが出会います。さて。

銀炎(1995)
 パンデミックのさなかに読むのがぴったりの作品。極めて死亡率が高く、それ故に感染拡大がかろうじて抑えられているが、それでも世界全体で40万人が感染し90%が死亡しているウイルス性の病気・銀炎。ワクチンもなく、治療法も成功していない。生存する1割の患者も、昏睡状態でただ生命を保つのが精一杯。アメリカではときおり発生するクラスターを先手先手で止め、拡大するのを防ぐしかない。ところが、統計上異常な患者のクラスター発生が起きはじめた。その原因を依頼を受けて追求し始めたドクター。そこには。ということで、バイオホラーであり、バイオSF。現実世界では、このようにもっと死亡率が高いパンデミックの発生を想定していたと思う。でも、本当のパンデミックは、今回のCORVID-19のように、ほどほどの死亡率だが、ランダムに見える予後不良、そして死亡率が低いかわりの高い感染率の形で世界を席巻してしまった。ワクチンはできたが、ウイルス変異との時間競争ははじまったばかり。こういう作品は、現実を振り返る上での思考材料になる。
 とはいえ、エンターテイメント性の高いホラーです。銀炎、こわ。

自警団(1987)
 ホラーです。ある契約により、夜の時間、契約に書かれた犯罪を犯した者のみを食べることができる悪魔(?)のお話し。「火の用心」と集団で夜回りするぐらいならともかく、「自警団」を組織して、法にしばられず、「美しい町」をつくろうとし始めると、たいていろくなことにはならない。法治は大事だねえ。

要塞(1991)
 のちの長編「万物理論」(1995)にも登場してくるSF的アイディア。「ユージーン」では遺伝子操作で天才をつくれるという話だが、もっと複雑で高度なバイオ技術のお話し。そして、やはり優生学的発想と差別主義の話が織り込まれている。富と権力を持つ者たちが(ひっそりと)世界を支配し、一方で持たざる者たちは、もっと弱い持たざる者たちを追い落とそうとする。この短編が書かれた当時以上に、「環境難民」は現実となっているが、その難民たちに対する排斥主義的差別思想は、社会に確実に存在する。

森の奥(1992)
 組織によってつかまり殺されるために森の奥に歩かされる主人公。だまって歩けと静かに脅す殺人者。命乞いをする主人公。殺人者は主人公に神経インプラントを渡す。怖くなくなるから、と。これもまたSFホラー。皮肉がたっぷり効いている。

TAP(1995)
 表題作。TAP=総合情動プロトコル(トータル・アフェクト・プロトコル)。脳内インプラントの名称。1か月前、詩人のグレイス・シャープが詩作中に亡くなった。TAPによる事故が疑われていたが、娘は殺人を確信し、私立探偵の「わたし」に調査を依頼してきた。TAPは言語化できないあらゆる概念、情動、精神状態などを言語化してくれる。それは同時に、ユーザーの概念、情動、精神情動などをある言葉で再現しうることでもある。例えば、「玉ねぎの傷んだ匂い」という言葉は、それを記憶している人には、あの悪臭を想起させるだろう。それが実際に知覚できるほどに言葉が力を持つことになる。では、ある人に死をもたらすような言葉はあるのだろうか? もちろん、TAPの開発企業は、様々なリスクに対する備えはとっているだろう。しかし。グレイスは本当に殺されたのか? 殺されたとしたらどうやって。彼女はひとりで詩作をしていたのだ。やはり事故死ではないのか? TAPが社会の中で大きな地位を占めたら、社会は、人間の思考は、コミュニケーションはどうなるのだろうか。
 探偵ものでミステリーカテゴリーに入れてもいいけれど、イーガンらしいSFの中編。最後にSFを読んだという気持ちを取りもどして終わる1冊であった。