プランク・ダイヴ(再)
THE PLANK DIVE
グレッグ・イーガン
2011
イーガンの短編集、日本オリジナル5冊目、ハヤカワで4冊目となる。編訳者は同じく山岸真。ばりばりのハードSF集である。ある意味ほっとする。
「クリスタルの夜」Crystal Nights (2008)
「エキストラ」The Extra (1990)
「暗黒整数」Dark Integers (2007)
「グローリー」Glory (2007)
「ワンの絨毯」Wang’s Carpets (1995)
「プランク・ダイヴ」The Planck Dive (1998)
「伝播」Induction (2007)
「クリスタルの夜」は、21世紀初頭の現在、世界で繰り広げられているAI開発競争がテーマ。「順列都市」ともつながる作品だが、より先鋭化されている。
最速のプロセッサを開発した男、彼の夢は神に並ぶようなAIを誕生させ、その創造主となること。コンピュータ内にヴァーチャルな世界をつくり、競争空間で知性ある人工知能生命体を生み出せ、進化させる。急速に進化させるために、男は次々と厳しい条件を彼らの世界に導入する。それは猛烈な進化をもたらし、知性が誕生し、世界を理解し、そして、AIは「外」すなわち実世界の存在を知り…。表題は、ナチス・ドイツが先導し、ユダヤ人の迫害、虐殺が行なわれた1938年11月9日の夜のことを意味するのだが、プロセッサの「結晶」ともかけてある。さて、その表題に込められた意味は。
「エキストラ」、クローンと生体移植がテーマ。「先天的に脳損傷を負わせた自分自身のクローンの一群」を「エキストラ」と呼び、世界の極めて限られた富裕層の一部が所有する自分自身の移植用整体である。主人公の男は、エキストラを大勢所有し、生体移植を超えて、いずれ脳移植先として、エキストラを使い、若い肉体を取りもどそうと考えていた。そして…。漫画・アニメの「攻殻機動隊」ではアンドロイド化だが、こちらは生体。しかも、クローンとの関係である。ドナーに(魂)はあるのか?
「暗黒整数」は、「ルミナス」の続編。「ルミナス」は短編集「ひとりっこ」に収録されている。オリジナル短編集ではよくあることである。先に「ルミナス」を読んでいた方が分かりやすい。長編「シルトの梯子」のアイディアと同じように、違う数学体系をもつ別宇宙と接点をもったことで、両世界は相互確証破壊のような状態に陥ってしまった。しかも、こちらの世界ではこの重要な情報は共有されず、数人の人達が秘密を守っていた。もしこの情報が人類世界に伝われば、おそらく猜疑心と恐怖心から相手の世界に攻撃をかけ、その結果悲惨なことになるだろうから。しかし、コンピュータ科学と数学の発展で、無自覚に相手世界を攻撃する可能性が出てきた。同時に、科学の進展している相手世界でもまた、こちらの世界に対する不信がつのる。さてさて。
「グローリー」は、「融合世界」関係の作品群のひとつ。融合世界の初期の頃の話のようである。まだ惑星系から出ることもできず、大きく2つの国が激しく対立している惑星ヌーダーには、現在のヌーダー人よりはるか以前、3百万年に続く文明を築いてきたニア人の存在があった。彼らの遺跡は存在していたがヌーダー人はニア人を宇宙にも進出しなかった愚か者としかみておらず、遺跡は次々の失われつつあった。しかし、融合世界のアンとジョーンは、ニア人が残したであろう数学の偉業を確かめたいと、本来接触が禁じられている未発達のヌーダー人に、融合世界のことが分からないよう慎重に慎重な計画をもって、彼らの世界に「彼らの似姿を借りた異星人」としてふたつの国にひとりずつ姿を現し、その目的を告げた。激しい戦争状態にある2国は、それぞれに、その異星人が持つ隠された高度な科学文明を知りたいと、その背景にある「武力」を疑いながら、ヌーダー人の論理で彼らと接する。それは。
高度な異文明と接したとき、われわれはどうするのだろうか。
「ワンの絨毯」、長編「ディアスポラ」の4章に改変された組み込まれた作品。つまり「融合世界」関連作品のひとつ。イーガンの世界についての思考が端的に表れている作品かもしれない。「クリスタルの夜」とも似ているが、ある数学体系で計算と記録が可能なじゅうぶんな空間が存在すれば、そこには「世界」が誕生し、生態系ができ、場合によっては知性が生まれるのではないか。もしかすると、私達が存在する現実の宇宙もまた、そのような計算と記録の場で、そのなかの知性のひとつとしての人類ではないのか。
「プランク・ダイヴ」、こちらも「ディアスポラ」と同じ世界の作品。難しいぞう。ブラックホールの事象の地平線に分離した人格で飛び込み量子力学からみての究極の疑問を調べようという人達のもとに、人間的伝統を重んじる親子が移送してきた。子は、物語が重視される世界の中で物理学に惹かれていたが、親は、物語化こそが人間の文化だという信念のもとにいた。彼らはその親にうんざりしながらも、子の知的好奇心をていねいに満たしつつ、自らのプロジェクトをすすめていく。それは、「行った者たちにしか知ることのできない科学的真実」への旅だった。遠い未来、人間は何を考えて生きていくのか。「好奇心」は、イーガンの著書の多くに潜む重要なキーワードである。
「伝播」、未来のお話し。宇宙はひろくて、光速の壁はおおきくて、そこに相対性理論による主観時間の問題があって。はるかかなたの星系でも、十分な時間をかければ物質を送ることはできる。それがナノロボットであれば、到着後、受信機を設置することも可能だ。10光年先を、平均して光速の10分の1で送れれば、送り手から見て100年後には到着し、それからしばらくすると受信機が完成する。たとえば10年。そうしたら、ちょうど到着したと思われる頃に、10年後にできるはずの受信機に向けてデータを送る。それが人格データで、受信側は、その人格を入れるアンドロイドをつくっておけば、ダウンロードした人格はそこで調査などの活動ができる。では、その先には。タイトルが語る意味深な展開。
これから先、人間という知的生命体は、肉体と精神の不可分な状態からどのように変わっていくのだろう。仮想化されていくのだろうか。そのとき、世界は仮想化された内なるものと、広大な実宇宙という外なるものの大きくふたつの窓を持つことになる。内なる世界にこもるのか、実宇宙の時空に向かっていくのか。イーガンの問いと思考は、深く深く考えさせられる。「好奇心」こそが、外への鍵だったりするのかな。
(2021.10.1)