星々からの歌
ノーマン・スピンラッド
SONGS FROM THE STARS
1980
1970年代は、戦争や核、あるいは環境汚染、高度で強大な科学技術産業に対する忌避感と抑圧から解放されたいという思想、運動が盛んであった。自給自足的なコミューン、従来の価値観に制約されない自由恋愛、新たな生き方を模索する人々。それはアメリカでも、日本でも存在した。その価値観から多くの小説や映画、音楽などの芸術も生まれてきた。
この時代、第二次世界大戦の記憶がまだ色褪せておらず、米ソ冷戦、ベトナム戦争、中東戦争など、第三次世界大戦にいつ発展してもおかしくない世界状況でもあり、それは同時に全面核戦争への恐怖でもあった。
そして、1960年代以降、核戦争後の地球を描く小説がSFの一部を占めることになった。
本書「星々からの歌」は、核戦争後の地球と、オルタナティブな思想を融合させた作品のひとつである。
本書の世界は核戦争後の地球。放射能に汚染された世界で人類は生存可能なごくわずかな土地で暮らしていた。原子力などの「黒い科学」から決別し、いくつかのギルド的グループが専門的な役割を果たしつつ交易をして過ごす社会。精神的な自由を大切に生きることを選んだ人々。「太陽と筋肉と風と水の掟」である。
しかし、実際には太陽電池や無線など科学の力は彼らの生活に欠かせないものとなっていた。それらの出もとが黒い可能性には気づきながらも自分も他人もごまかして生きる社会でもあったのだ。
いま、通信を担うサンシャイン族が扱っている無線通信設備が「黒い」技術であるとの告発があった。いままでであればそのような告発は行なわれなかった。それが原因で交易の中心地であるラ・ミラージュは混乱していた。誰かがこれまでの社会のありようを変えようとしているのだ。
正義の審判者として、黒い噂の真偽を見極め審判を行なうよう招聘されたのは、クリアー・ブルー・ルー。イーグルと呼ばれる太陽電池を積んだ自家用グライダーで空を飛ぶことが好きで、人好きのする若き審判者である。
彼は、サンシャイン族のリーダーで世界規模の情報ネットワークの構築をもくろむサンシャイン・スーとともに、その謎を解き、「正義の」審判を下すために新たな道を模索するのだった。
それだけであれば閉ざされた地球の再生の物語となるのだが、ここに「星々からの歌」が挿入されてくる。手に届かない宇宙からのメッセージ。それがどんな意味を持つのか。
ということでやがて話は地球軌道上に残された核戦争前の衛星と、そこに残されたメッセージにまでたどり着く。
果たして人類はどのような道を選ぶのであろうか。
私は、核なき世界、「太陽と筋肉と風と水の掟」の思想に共感を持つ。一方で、科学技術の進化も好きだ。しかし、原子力技術・兵器の存在と壊滅的放射能汚染の危機、人工化学物質の氾濫、開放系でのバイオ技術の暴走、生命特許などの社会的抑圧は地球と人類にとって決してよい方向にあるとは言えない。そのバランスをとるのは実に難しい。
「正しさ」ではなく、思想と志向の共有が問われるからだ。
だから、本書のような作品はちょっとむずがゆいような感じを受けてしまう。
なぜならば主人公のルーとスーの思想と志向が、選択をしてしまうからだ。
たとえば宮崎駿の漫画・映画「風の谷のナウシカ」にもそういう側面があった。
映画と漫画は同じ作者とは思えないほど正反対の選択をナウシカに与える。しかし、どちらにせよ「ナウシカ」が選択者となってしまう。ナウシカは直接的には人類を変えないが、ナウシカの存在がやがて人類の思想・志向に変容をもたらす。
「太陽と筋肉と風と水の掟」も、「黒い科学」も、集約された個人や小集団が選択権を持ってしまうのだ。果たしてそれはバランスの取れた世界のあり方と言えるだろうか。
確かに人類はリーダーが存在するとそれに従属してしまいたがる特徴がある。だが、それでいいのか?
そうならない思想・志向を模索すること。
エンターテイメントの小説である本書を読みながら、ついそんなことを思ってしまった。
ピース。