吉田秋生
1981
吉田秋生の初長編作品で、1978年から1981年にかけて別冊少女コミックで連載された作品。1978年頃というと日本が高度成長期だったが第1次オイルショックやドル円関係が大きく変動していた時期である。海外旅行ブームははじまっていてバッグパッカーも生まれていた。若者の文化はほぼすべてアメリカから。そんな時代にまだ大学生だった吉田秋生がカリフォルニアとニューヨークを舞台に描いた作品である。
私の吉田秋生作品との出会いは1985年、大学生の頃、「河よりも長くゆるやかに」からである。こちらは高校生が主人公で舞台は米軍基地の街・横須賀。オムニバス形式の作品で単行本2冊にまとめられていた。それから当時出ていた作品を一通り読み、その後連載がはじまった「BANANA FISH」を基本的には単行本ベースで追いかけることにしていた。さらにバブル期の雑誌「HANAKO」に連載されていた「ハナコ月記」をほぼリアルタイムでおいかけていたものである。今日まですべての単行本作品(再録集は除く)を読んでいる。つまり吉田秋生の作品群が好きなのだろう。
十数年あるいは何十年ぶりか本作をひっぱりだしてみた。はじめて読んだのは、ちょうど主人公のヒースと同年代の頃だった。もう40年近く前の話である。まさに「夢みる頃を過ぎても」。
「カリフォルニア物語」の舞台は1975年からの数年間。カリフォルニアとあるが、ほとんどの舞台はニューヨークを中心に繰り広げられる。主人公はヒース・スワンソン。カリフォルニア州サンディエゴでの高校生活を捨て、ニューヨークの下町で新たな人々と出会い、青年から大人へとなっていく。
あらためて作品を読んでみて、吉田秋生という作家は、人の心の苦しみや痛みと、それに対する許容と心の癒やしを書き続けてきたのだなと思い至った。誰にでもさまざまな心の傷があり、その傷の深さは他者には推し量れないものがある。心の傷は抱えながら生きるしかないが、その苦しみ、痛みをやわらげたり、散らすことはできる。他者との関わり、時間、風景、笑い、日常、そういった癒やしがどこでどのように現れるか、それもまた他者には推し量れないひとりひとりのものである。
吉田秋生は登場人物の心の傷をはっきりと示し、そして、それを抱えて生きる姿を示す。それが共感をもたらすのだと思う。
長編デビュー作の本作から「BANANA FISH」シリーズともいえる「イヴの眠り」までは、このひりひりした心の内側を描くのに暴力が重要な役割を占めていた。しかし「海街diary」からは直接的な暴力の要素が姿を消し、より日常性の中にある心の傷に触れるようになっている。著者の変化を感じるが、「海街」と「カリフォルニア物語」を読み合わせることで、そのテーマの一貫性を深く思い知ることになった。
本作では、まず主人公ヒースの心の傷がある。もっとも深い傷は家族との関係である。大学で教鞭をとり米国有数の弁護士である父、その父の期待に応えエリートコースを歩む年の離れた兄、夫の厳格さに疲れて子どもを置いて去った母。ヒース自身も有能な子どもだったが、母に似て好き嫌いがはっきりした個性の強い性格は、父との確執を生み、父の期待に応えられないこと、兄への劣等感から心に傷を負って育つ。
そんなヒースは悪友たちとのトラブルを機に家を出てニューヨークに向かう。ニューヨークの下町では若者たちがそれぞれの理由から集まり、日々の暮らしをなんとか立てていた。ヒースは旅の途中で出会ったヒースよりも若い青年のイーヴと出会い、ともに暮らすことになる。イーブもまた家族との関係から深い心の傷を負った孤独な青年だった。
元海兵隊でゲイのアレックス、アレックスと海兵隊仲間だったリロイ、イーヴと旧知で後にヒースたちの前に現れるトラブルメーカーのブッチと、その妹でヒースに恋するスウェナなど登場人物の多くが何らかの心の傷を負っており、それが物語に深みを与えていく。
ヒースはニューヨークでの日常の中で心の傷をみつめ、癒やし、一方で新たな傷を負っていく。そしてたとえばイーヴの心を癒やし、同時に苦しめることになる。
そのなかで皆の心の支えになるのがインディアンと通称される大人の男である。彼の存在なしには救いのない物語となっただろう。名前が示すように彼は抽象的存在であり、精神のバランスの取れた、自分の心の傷をみつめ許容しともに生きることのできる人間である。だからこそ他者の心の傷に敏感であり、適度にやさしく、自分を見失わず、周りに信頼される。ヒースもまた、高校時代にカリフォルニアを訪れていたインディアンに救われ、彼を頼ってニューヨークに行き、暮らすことになる。最初から最後までインディアンの物語でもあるのだ。
本作には時代を反映したように麻薬があり、暴力があり、ベトナム戦争帰還者があり、貧困と差別が存在している。身近な者の壮絶な死もある。ハードボイルド小説のような世界である。主人公のヒースもインディアンも、しかし、特別な才能の持ち主ではない。事件を解決するわけでも、誰かを積極的に救うわけでもない。ヒースは時に流され、時に自暴自棄になり、時にやさしく、時に理由なく暴れる、どこにでもいる青年である。ただ本来恵まれた生活環境だったこと、顔もスタイルも良く、根っこがとても優しい青年だったこと、そして周りにさまざまな人たちがいる。それだけである。その点では「海街」やその続編で現在も連載が続いている「詩歌川百景」の主人公たちと変わらないのかも知れない。
吉田秋生の視点は変わっていない。たぶん時が絵柄と物語をより優しくしているだけなのだろう。もっとも、今後の作品は分からないが、老成してきた作者の、それもまた楽しみである。
では久々にもっとひりひりする天才的主人公が出会った日本人青年によって救われる「BANANA FISH」を読み直すとするか。あ、そうか。アッシュと英二の関係性はヒースとイーヴの相似なのか。