ヴァルカンの鉄槌


VULCAN’S HAMMER
フィリップ・K・ディック
1960

 ディック作品群最後の長編翻訳だそうだ。2015年に翻訳出版されている。初出は1960年。55年の時を経ての初翻訳。どうしてかというと、ディックだからだ。ディックは多作で、どうしようもない作品から名作と呼ばれる作品まで主にSFを書いてきた。とくに日本とフランスで評価されている作家だが、作品によっては設定が破綻していたり、ストーリーが破綻していたり、登場人物の人物像が破綻していたり、まあひどい。それほどひどくても読ませる力を持つのがディックである。とくに気持ちがざわついていたり、落ち着きどころがないときに、「現実」を考えたり、「世界」を考え、「生きる力」を思い出させてくれる。
 それだけではない、チープなSFガジェットを使いながら、誰にも思いつけないストーリーを展開する。仮想空間やシンギュラリティ、AI、人格の仮想化など、現在のネット社会になってようやくその概念や可能性、そこから派生する諸問題について、ディックは1960年代から深く掘り下げていた。もちろん、上記のような用語は明示されず、当時の科学、SF用語を使ってである。思想、宗教、社会、ディックの関心は幅広く、それらはディックの頭の中で解釈され、再構成されて物語となる。

 その作品群は、短編も長編も映像化されたり映像化の原作、あるいはヒントとなっている。もっとも有名なのは、原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」である。言うまでもない「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督 1982)がある。「ブレードランナー」はもちろん過去のSF作品の影響も受けているが、公開から40年経った現在でも映画史に残る名作であり、ディック作品が映像化された初の作品でもある。残念ながらディック自身は楽しみにしたこの映画の完成を待つことなく亡くなってしまった。
 その後も、「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」「スキャナー・ダークリー」といった映画化、あるいは「高い城の男」「エレクトリック・ドリームズ」といったドラマ化もされているし、おそらく今後もされることだろう。

 そういった背景があるので、この多作の作家の作品は、そのすべてが翻訳されたのである。はっきり言えば、その作品の中には二番煎じや粗い作品もある。だいたい、初期のディックの作品の多くは2作品抱き合わせのチープな小説として売られていたもので、決して人気作家とは言えなかった。ディック自身、食べるために書くといった状況だったのだ。
 そんな初期の作品の中でも見過ごされてきたのが本書「ヴァルカンの鉄槌」である。

ヴァルカンの鉄槌」の世界は1960年代終わりに第一次核戦争がはじまり1992年に終わったあと、世界連邦政府が誕生し、1993年からはアメリカ・ソ連(いまのロシア連邦の前身)・イギリスが共同で開発したスーパーコンピュータの「ヴァルカン3号」が重要政策の意思決定を行なうことに世界が合意したのである。人間では間違う選択を避けるため、コンピュータに人類の行く末を託したのである。
 ヴァルカン3号は連邦において世界各地の政治を行なう弁務官のリーダーである統轄弁務官ひとりがアクセスすることになっていた。
 そして現在は2029年。2年前にできた「癒やしの道」教団がヴァルカン3号を壊し、世界を変えようと画策していた。能力主義の格差社会と思想管理社会に辟易として、「癒やしの道」に参画する者も多くいたのである。

 ほら。21世紀を予感させるでしょ。もちろん、世界は統一されていないし、核戦争もなんとか回避されて現在まで来た。超大型コンピュータのようなシステムに収斂しなかった替わりに、ネットワーク社会における意志決定の仕方は人間の能力の範囲を超えて行なわれるようになってきた。格差は広がり、思想や行動は結果的に管理されるようになっており、レイシズムをはじめ差別的な排除思想が力をつけている。
 ちょっとストーリーの設定を置き換えれば、今に通じる物語である。
 読み方によっては「ターミネーター」みたいな感じもあるが、なんといっても本作品は1960年に発表されたものなのだ。
 すごくないですか。(いや、まず読んでください)。
 量的には長編というより中編ぐらいのボリュームで、ストーリーもそれほどひねっていないので、素直に読めます。ご都合主義的なところはありますが、気にしないこと。そんなことを初期のディックに求めてはいけません。