THE FIRE SERMON
フランチェスカ・ヘイグ
2015
私ごときがSFのなかの「文学」を語るのを身の程知らずと呼ぶのだろう。カズオ・イシグロさえ読んでいないのだから。
本書「アルファ/オメガ」は仮想の未来を設定したSF的表現を持つ文学作品である。「SF」小説とはとても一言では定義できない。定義できないものをジャンル分けすることに意味があるとは思えない。それに「文学」とは広い意味で言えば言語表現をする芸術すべてであり、すべての小説は文学である。すべてのSF小説もまた文学である。
じゃあ、ここでいう「SFのなかの文学」作品とはなにか?大胆にも私なりに定義するならば人間と人間社会の本質に迫り、深く思考や感情を揺さぶられ、時を超えて読み継がれる力を持つ作品ということにする。
本書「アルファ/オメガ」はそういう作品性を持つ。日本では「SF」というカテゴリーに納めてしまうと読者層が限られてしまう傾向にある。そして、原題の「THE FIRE SERMON」は非キリスト教社会の日本では理解しにくいので邦題が「アルファ/オメガ」となったことも「日本のSFカテゴリ的」な意味ではしかたがない。
本書は、人間とは何か、社会にはどんな問題があるのか、人間と社会の関係性についてSF的な要素を使い、戯画的に描き出した優れた作品だと思う。
まず、簡単に設定を紹介しよう。
かつて地球上で大規模な核戦争と思われる世界大戦が起きた。それから400年、人々は電気エネルギーをはじめほとんどの科学技術を放棄し、前近代的な階級社会の中で暮らしていた。
人間のあり方にも大きな変化が生まれていた。夫婦となった女性は出産に際し必ず双子を産む。双子のうちひとりはアルファであり、ひとりはオメガである。アルファが男ならオメガは女、アルファが女ならオメガは男。アルファは健康で五体満足な人間であり、「人間」として教育を受け、社会に受け入れられる。オメガは生殖能力を持たずその多くが身体的欠損を持ち、生まれた両親をはじめ社会から追われ、オメガだけの村で貧しい暮らしを強いられる。ときにオメガの中には一見アルファと見分けが付かず予知や幻視といった特殊能力を持つものもいる。そのようなオメガの場合、アルファと区別がつきにくく、アルファとオメガの分離まで長い時間がかかる場合もあるという。
このような社会で最も重要な要素は、アルファとオメガの双子の特別な結びつきである。幼い頃に分離された双子だが、どちらかが死ねばもう片方も死ぬ。どうしてなのかは明らかにされないが、確実に双子は結びついており、片方が病死すれば片方も弱って同時に死ぬ。片方が槍で殺されれば、もう片方はただその場で崩れ落ちて死ぬ。
だから、アルファ社会はどんなにオメガが疎ましくても、オメガを殺すわけにはいかない。一方、たとえばアルファ社会の権力闘争で競争相手を殺そうと思ったら、その双子のオメガを探し出して殺すという暗殺方法も成り立つ。
これが、作者フランチェスカ・ヘイグが生み出した世界のルール。
この単純化された世界で、格差、差別、信頼、愛、肉親の愛憎といった人間と人間社会につきものの古くて新しい問題の数々が読者に提示され、迫ってくる。
もちろん、難しい話ではない。
そもそも、最終戦争後の社会という設定はSF小説のディストピア小説カテゴリーナンバーワンの称号を与えたいぐらいありふれている。
最近読んだ「星々からの歌」(ノーマン・スピンラッド 1980)も核戦争後の地球を描き、戦前の科学技術のなかで原子力などの科学技術を放棄した社会を描いた作品だった。
本作「アルファ/オメガ」の最大の特徴は、邦題通りの双子アルファとオメガという設定である。この部分は背景が説明されておらず、現段階ではファンタジーとしか言えないものであり、ハードSFとは言えない必ずしもSFとは言えない設定である。この点のアラを掘り出すとキリがない。科学的背景があるならば、双子の結びつきはどうやってできたのか?そもそも双子のうちひとりしか生殖能力がなければ少なくともアルファの女性は生涯に最低でも2回以上の出産を行なわないと人口が減ってしまう。わずか400年ですべての人類がアルファ/オメガ関係に進化?するには…などなど。
だから、この部分はファンタジーとしておいておくしかない。
その上で、もしこのような社会だったらどんなことが起きるのか?
それは、いまの私たちと違うのか?
物語は主人公のオメガの女性の一人称で語られる。彼女は幻視者であり、その双子のアルファであるザックは長じてアルファ社会の支配組織であるカウンシルの重要メンバーとなっている。ザックによって捉えられた「わたし」が幽閉から逃げ出し、オメガが自由に生きられる「島」を求めて旅をする物語である。その旅の中での出会い、明かされゆく社会の実相、自由への希求。それらがていねいに語られていく。
人の属性をもって差別し、迫害し、日本語的に言えば「いじめ」という犯罪行為を行ない、言葉で、態度で、暴力で傷つけていく。本書では属性によっては他者を見ない主人公が救いとなる。主人公の「わたし」がいなければ、人間の悪い面ばかりを見ることになる。もちろん、「わたし」を助ける人たちに人間の善き面を見ることもできる。しかし、それも「わたし」あってのことだ。「わたし」の行為と選択をともに冒険しながら考えて欲しい。
旅の終わりに彼女が得たものとは。物語はひとつの区切りを迎えるが、その余韻は大きい。そう、本作品は3部作なのだ。とはいえ、2015年の翻訳時点では未発表ではあるが、2022年現在3部作はすべて発表済みである。
映画化の話もあったようだが、現段階では進んでいないようである。
できれば3部作、出して欲しいなあ。英語で読むしかないですか?
2022.10.16