MURDERBOT DIARIES
マーサ・ウェルズ
2017
「弊機」という一人称を生み出したことで翻訳小説に独特の質感をもたらし、日本翻訳大賞を受賞した作品。それ以前に、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞だってとってる。
「ロボット」SFの進化は著しいものがある。確かに、実に、おもしろく、そして考えさせられる作品群である。
本書は「システムの危殆(ALL SYSTEMS RED)」「人工的なあり方(ARTIFICIAL CONDITION)」「暴走プロトコル(ROUGUE PROTOCOL)」「出口戦略の無謀(EXIT STRATEGY)」の4中編を日本独自にまとめたものであるが、この4作は、時系列的に一連の作品群をなしているので長編作品として読むこともできる。その独立したどれもがおもしろい。
邦題にあるとおり、この作品群はマーダーボット(殺人ボット)を自認し「弊機」と自称する暴走した警備ユニットのひとり語りの物語である。
時は遠い未来、人類は様々な星系で居住可能性のある惑星をテラフォーミングしながら繁栄しているようである。様々な企業が政体を形成し、一定のルールの下にしのぎを削っているらしい。とはいえ、「弊機」はあまりそのあたりのことは詳しくない。「弊機」は惑星調査、開発などに際しての保険業務を行なう「弊社」の警備ユニットであり、保険契約の一環として他の様々な資材とともに貸し出される道具であるからだ。「弊機」は人型の有機組織と非有機組織で構成され、飲食は不要で武器を内蔵し、様々なネットワークツールを駆使しながら、顧客の安全を守るのが仕事である。「弊機」が暴走しているとは、「弊機」は自らの統制モジュールをハッキングして無効化しているという意味。統制モジュールは「弊機」の行動を、「弊社」および「顧客」の契約、命令に制約するものであり、契約、命令に違反した場合、罰を与えるモジュールである。その罰の最大のものは抹消。意識や自我の破壊である。「弊機」は自らが大量殺人を犯したらしく、ふたたびそのようなエラーが起きないよう欠陥機である自らを自らコントロールするために統制から逃れたのである。しかしそれがばれると当然解体されるので、だまって次の仕事についていた。惑星探査チームの警備である。幸いなことに「弊機」は娯楽チャンネルから様々な映画やドラマ、音楽、演劇、本などをダウンロードしており、そのおもしろさに夢中になり、仕事中もできるだけ手を抜いて空いた時間はすべてこれらのエンターテイメントに耽溺しているのだった。
「弊機はひどい欠陥品です」と本気で考えている弊機。
高度な殺人マシンであり、高い戦闘能力とネットワーク対応力(ソフトウエア書いたりね)を持ちながらも、「弊社」におびえ、顧客である「人間」というものにおびえ、できることなら狭い警備待機所に籠もってエンタメ三昧したい、人見知りの存在。それが「弊機」。
ロボットとはなにか、アンドロイドとはなにか、そんな定義が悩ましくなる存在。
元は人間を素材に構成されたものだし、自意識や個性もあるが「自由意志」は「統制」されており、そのことに疑問も持たない存在。
高度な命令や業務を果たすとなると、知識も情報もその解釈力も判断力も柔軟性も必要になる。一方で、暴走されては困る。人間や強化人間と同様のツールや状況対応もできるから人間型をとるのは自然。宇宙船の操船ボットも同様のシステムだが、人間型を取る必要はない。
コントロールされたAIロボット有機組織付き、という感じだろうか。
今日的なロボット/アンドロイドである。
「システムの危殆(ALL SYSTEMS RED)」ではプリザベーション補助隊という小規模な惑星開発準備調査チームの唯一の警備ユニットとして登場する。この惑星で起きるトラブルと、チームの人間たちとの関わり、襲いかかる情報のない現地生物、あやしいデータの数々、そのなかで人間が苦手な「弊機」が暴走ボットだからこそできる解決策で活躍する、そういう物語。
まずこれを読むべし。
純粋なエンターテイメント作品である。
と同時に、いろんなことを感じる、考えさせられる作品でもある。
ところで、マーダーボット・ダイアリーの世界は主に企業政体が跋扈する社会であり、一部非営利政体も弱い立場ながら存在している。このいわゆる「国家」が消えて利益追求を原則とする営利事業法人が政体を構成するという未来像は、たとえばC・J・チェリイの「ダウンビロウ・ステーション」(1981)などでも描かれている。この「企業政体」ものは「帝国」ものと双璧をなすものだが、高度資本主義が成立した1980年代以降のSFで見られるようになった。そして、この企業政体宇宙をうまく作品に取り込んでいるのは女性作家が多いように思える。もちろん、「帝国」ものを書いている女性作家も多いので一概には言えないが、主人公の行動の背景に「帝国」よりもより苛烈な「企業政体」の存在が、主人公の相対的な弱い立場を強調するのではなかろうか。
「弊機」は存在として強いが、社会的立場としては極めて弱いマイノリティの存在である。人ではないので人権も認められないしね。扱いとしては「道具」だし。そのなかで「人格のある存在」として認められることがどのような意味を持つのか、やっぱり考えさせられる。
純粋に楽しいけれど、それは、そういう背景があるからなのだ。