第二進化


THE ATLANTIS GENE

A・G・リドル
2013

 原題「アトランティス遺伝子」の名の通り、プラトンが記述した「アトランティス」をモチーフにした作品である。アトランティス(アトランティス大陸、アトランティス島)は、ジューヌ・ヴェルヌをはじめ多くの小説、言説、オカルト、疑似科学などで取り上げられている。楽しく遊んでいる範囲ではいいのだが、「ほんとうの歴史」「隠された真実」のような反知性主義の象徴的存在にもなっているので、アトランティスをモチーフにしている作品にはどうしても警戒感がある。とはいえ3部作まで翻訳されているのだし、ハヤカワさんが文庫SFに並べるのだからそこは信頼して読むことにした。釣り書きには「全米100万部突破」とあるが、日本での100万部とアメリカでの100万部ではずいぶん意味が違ってくるよなあ、と、読む前から眉につばをつけてしまいそうになる。

 さて内容だが、多発する多国籍テロリズムに対抗するため、世界規模での対テロリズム組織が秘密裏に構築されていた。各国の限られた要人などにしか知られていないその組織の名はクロックタワー。デヴィッド・ヴェイルはそのインドネシア・ジャカルタの支局長である。いま、クロックタワーは謎の組織から攻撃を受けていた。しかも、クロックタワーのメンバーに謎の組織は浸透しており、クロックタワーの組織そのものが謎の組織に乗っ取られようとしている。ヴェイルは早々にその危険を察知したが、敵の動きは速く、ただ逃げるしかなかった。
 一方、ケイト・ワーナーはインドネシアで自閉症研究センターの主任研究員として症状を持つ子供たちを被験者とした研究を続けていたが、謎の組織に被験者のふたりの子供をさらわれ、逆に警察に嫌疑をかけられてしまう。
 やがてデヴィッドによってケイトは救出されるが、それがふたりの長い果てしない物語のはじまりであった。
 南極ではナチス時代に一度発見された巨大な構造物が再発見され、突入がもくろまれていた。
 チベットではケイトの元から誘拐された子供たちを含め、多くの人たちがベルと呼ばれる装置にかけられ命を削っていた。生き残ったのはふたりの子供たち。それは「アトランティス遺伝子」が活性化したせいではないかと謎の組織は考えた。いったいキャサリンはどんな治療を行なったのか?
 クロックタワーを襲った組織、子供たちを誘拐し、南極での構造物調査を行なっていた組織、それこそが世界規模での民間警備(軍事)会社を経営し、様々な多国籍事業を行なっているイマリグループであった。その代表のドリアン・スローンがすべての中心にいたのである。
 そして、ドリアンは今まさに「人類を救うため」という名目で感染症による人類の大量虐殺をもくろんでいるのだった。それは生き残った者の「アトランティス遺伝子」を活性化させ、人類をもう一段進化させるとドリアンは考えていた。

 デヴィッドとケイトは様々な危機に遭遇しながら少しずつその謎に近づいていく。果たしてドリアンの陰謀は止められるのか。
 南極にある構造物とはなにか? 人類の隠された真実の歴史とは。
 アトランティスとはいったいなんだったのか? さらに約7万年前に起きたとされる大規模噴火による気候変動(寒冷化)と人類絶滅の危機、いわゆるトバ事変をどうやって人類は乗り越えたのか、いまその秘密が明らかになる!
 ということで、アクションと謎解きの第一部である。
 2013年の物語を軸に、数万年前、1万年前、1917年、1938年、1985年と過去と現在が錯綜しながら人類とアトランティス遺伝子の秘密が明らかになっていく。

 SFではある。パンデミック、人類の進化の秘密、歴史の背景にある秘密組織の存在…。サスペンス要素たっぷりだが、疑似歴史や疑似科学、陰謀説、陰謀論など、ネット時代に表面化した「それを真実と思い込む人たちと、そういう人たちを利用する人たち」とは一線を画そうという抑制的努力は感じる。それでぎりぎり読める作品に仕上がっている。そういう危なっかしさは感じるのだが、そのあたりが作品の魅力でもあるのだろう。
 少なくともデヴィッドとケイトはそれぞれに特殊能力的なものは持っているが、ある意味でごく普通の人として描かれており、主人公に権力志向がないことも、この作品のバランスの良さだと思う。
 すでに3部作は完結しているので、話はここまで。
 第2部、第3部は主人公は変わらないもののおもいっきりぶっとんでいくので、第1部を読んだならこの先まで読むことを強くお勧めしたい。

最終人類


THE LAST HUMAN

ザック・ジョーダン
2020

 読み始めて真っ先に思ったのは、シュライクに育てられている人類の娘、というもの。シュライクは「ハイペリオン」(ダン・シモンズ、1989)に登場する時を超越する殺戮者。真っ黒い外骨格を持つカマキリのような異星生命である。主人公のサーヤは、異星種族のウィドウ類のシェンヤによって育てられている人類の娘。ウィドウ類はシュライクにそっくりなのだ。もちろん、殺戮者ではなく、ネットワークを形成する知的種族のひとつであるが、その闘争本能は強力である。このウィドウ類のシェンヤが人類であることを隠すため希少なスパール類として登録し、守り育っているのがサーヤである。

 読み進めるうちに感じたのは「百億の昼と千億の夜」。光瀬龍が1965年~1966年に雑誌連載し1967年に単行本化されたSF小説である。そして萩尾望都が光瀬作品を原作に1977年~1978年に雑誌連載した同名の漫画作品である。
 本作「最終人類」には「神」は出てこないが、その世界観や雰囲気は萩尾版ときわめて似ていると感じたのだ。生命の躍動と空しさ、仏教用語的には色即是空空即是色のようなことだ。

 読み終わってよくよく思い返してみると、後半に出てくる主人公サーヤの「仲間たち」の構成が「オズの魔法使い」(ライアン・フランク・ボーム、1900)の主人公ドロシーの仲間たちとそっくりだということに気づく。すなわち、ブリキの木こり、臆病なライオン、案山子である。気がついてちょっとほのぼのする。サーヤもドロシーがそうであったように魔法使いではないが高次の存在にだまされたり、裏切られたりしながら選択するしかなかったのだ。

 さて、印象はともかく、作品についてまとめていこう。本作「最終人類」はザック・ジョーダンのデビュー作であり、最終刊行まで4年半、執筆数250万語を経て約13万語の作品として発表されるに至った。
 物語の世界は銀河系のネットワーク世界。10億以上の星系、140万以上の知的種族のほとんどすべてが参加している巨大な社会である。第二階層以上の知性があれば法的人格権が認められ、それ以下であれば法定外の人格となる。それは自然生物、人工物に関わらず、知的レベルのみで判断される。運搬ドローンにも衛生施設にも知性はあるが法定外、というわけだ。そして、この世界で人類はネットワーク世界の許されざる敵であり、遠い昔に絶滅した種族である。
 しかし、人類にも生き残りがいて、主人公のサーヤは自分が人類であることを知っていた。人類だと知られた途端に狩られる存在になることも。そのために、ネットワーク社会の基本であるネットワークに全感覚で入るためのインプラントも入れられず、間接的なコミュニケーションツールでの限定的ネットワーク利用しかできずにいた。知的にも法定人格は認められても最底辺の仕事しか与えられない、そんな未来がすぐそこにあった。仲間を探したい、自由にネットワークにアクセスしたい、人類と名乗りたい、サーヤの思いは募る。
 母であるシェンヤはサーヤを娘として認識し、そのすべてをかけて守ることを本能的に誓っていた。
 やがて事件は起こる。そして人類としてのサーヤが発見され、彼女は生きるための戦いに巻き込まれるが、それは大きな大きな大きな壮大な陰謀の幕開けでもあったのだ。
 このネットワーク社会は、階層社会である。サーヤを含む第二階層の知的存在には第三階層の思考の早さ、深さは想像も付かず、ネットワークでの「みえる」「できる」レベルも格段に異なっている。ましてその上の第四階層、ネットワークそのものは時空への操作も含めてその能力や行動の意味は第二階層にとって想像することさえ難しい。外で走り回る蟻は気にならないが、家の中でうろうろしてきたら殺すか外に出してしまう。その蟻にとっては人間のそういう気まぐれは理解も想像もできないだろう。そういうことだ。
 そして、サーヤはネットワーク宇宙のひとつの役割を負わせられる。報酬は「人類」。

 ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」にも似ているかな。
 好きです、こういう話。でてくる集合知性オブザーバ類にはちょっと閉口するけれど、どこかで似たようなやつ(ら)を見たり読んだりした記憶があるのだけれど、オリジナルがどれか分からないので、これは実際に読んだ人への宿題ということで。

漫画 星の時計のLiddell

漫画 星の時計のLiddell (あるいは遅くなったラブレター)

内田善美
1986

 内田善美の作品と出会ってからもうまもなく40年になる。「星の時計のLiddell」は大学生時代の後半に出会い、その知性と感性に衝撃を受けた。社会に出て右往左往、好き勝手と言えば好き勝手、風まかせと言えば風まかせ、親には「何をしている人と言えばいいのか?」と問われることしばし、それでもそれなりに生きてきたが、辛いとき、判断に迷うとき、喪ったとき、支えてくれたのがこの作品である。
 数年ぶりにページをゆっくりとめくり、そこに1980年代の未来への希望と絶望のないまぜになった世界のありようと「予感」をあらためて見つけ、いまの自分の立ち位置と、ここからの未来と過去の光円錐を思い描くことができた。
 歳を重ねてよいことは、老眼も進み、ゆっくり、じっくり絵を見つめ、ページをめくるようになったことだ。若い頃は絵は全体で把握し、言葉を流し、読みながら、その世界に入り込みつつも自分の頭の中の思考を転がすのに忙しかった気がする。性格的なものだろう。一枚一枚の絵に描かれた風景、情景、表情、動き。絵と絵の間の動き、言葉の間、そういうものを気にするようになった。そうすることで物語にさらなる深みが増し、心に満ちていく気がする。そして気がつく。まだまだこの作品を読めていない、と。

 さて、絶盤になり、再版の見通しもない作品故、ネットではあらすじが紹介され、おおまかなことは書かれている。一言で言えば、幽霊になった男と、幽霊になった友が幽霊になるまでを見つめる、心に穴の空いた男の話である。舞台は1980年代初頭。レーガンが暗殺されかけ、スペースシャトルが2回目のフライトを行なうそんな時代。風と湖の町シカゴにユーリ・ウラジーミルが2年ぶりに帰ってくる。親友のヒューと再会し、ヒューが時折睡眠中に呼吸も心臓も動いていないことに気がつく。ヒューは夢を見ているだけだという。古いヴィクトリアンハウスとそこにいる少女、金木犀、バラ園。ヒューの「夢」が気がかりになり調べ始めるユーリ。シカゴで少し変わった知的なグループと出会い、彼らとの会話をくり返す。人間のありよう、世界のありよう、この先の未来と人類のありよう。人口増加、戦争、自然破壊、人間の欲望と適応能力、不安と悲しみ。それはユーリの探している答えの方向ではなかったが、にいくつもの示唆を与えてくれる。やがてヒューは「夢」の「家」を探して全米を旅することを決める。ユーリは黙ってそれに同行する。ふたりの旅がはじまる。そして「家」が見つかり…。
 帝政ロシアの時代にロシアを離れた旧ロシア貴族の孫であるユーリは、心の中に「存在しないロシアという故郷」をはじめから喪っていた。喪失感だけをかかえて生きていた。人と深く関わらず、心の赴くまま、知的好奇心のままに世界を旅して生きてきたユーリが、はじめて深く人と関わり、友としたヒュー。ユーリにはヒューの心の動き、ありようはずっと分からずにいた。それ故にユーリはヒューに惹かれたのだろうか。ヒューが見ていた先、それは時空のはるか遠くにあったのだ。

 21世紀、人口まもなく80億人のいまとなって読めば、いくつかの内容的な粗も出てくる。たとえば日本語ネイティブの脳と非日本語ネイティブの脳では音の捉え方が違うとかいう記述はあるが、確かに80年代にはそういう学者がいたし、ブームがあった。作者がそれを採用したとしても何も問題はないだろう。
 一方で、後半に向かって示唆される人類と地球の行き詰まり感についての登場人物の議論は形而上的ではあるが今日においても必要な議論だと思う。当時から言われたことだが、40年経って、この作者の問いかけはますます重要だ。
 もちろん、本作はファンタジーである。なにより登場人物が幽霊になるのだから。それでも時代を反映し、先読みし、希望と絶望を内に秘めながらも、一枚一枚の絵に込められた思いと願いの美しさは深く心を打つ。

 物語の最後の方で、この「家」ヴィクトリアンハウスに暮らしていた老婦人が初対面のユーリ対し「この世のものの美しさをみんな愛することができた私どものために…、私どもはこの世のものでないものさえも愛することができました。あなたは父の幸福な生涯を真に幸福なものにしてくださいましたわ。父はあなたにお会いできたのですもの」と語る。
 家が見せてくれた美しい夢=幽霊と、その幽霊が待ち望んでいたウラジーミルの訪問。こうして夢は結実する。
 私は、この老婦人の台詞を内田善美に対して言いたい。もちろん、この作品だけがすべてではないが、この作品があったからこそ、私は私の内側の醜さを自覚し、世界を美しく見るための目を養い、これまで心折れずに生きてこれたのだと。自分が幸福であるための鍵のようなものがこの作品の中に込められていたのだと。

 40年近く遅くなったけれども、内田善美氏と、内田善美作品を教えてくれた友人には感謝しても感謝しきれない。ありがとう。私が死ぬまでずっと感謝しています。

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量子魔術師

THE QUANTUM MAGICIAN

デレク・クンスケン
2018

 超未来を舞台にした「ミッション・インポシブル」だ!
 ワームホールで拡がった人類世界。人類よりはるか以前に宇宙にワームホールネットワークを築いた先駆者たちがいた。人類世界はこのワームホールを利用し、版図を広げていた。ワームホールを持つ政治体制をパトロン(国家)、それを利用するだけの政治体制をクライアント(国家)と呼び、その力関係は絶対的である。
 出自たる地球の政治体制、経済体制の延長上に世界は組み上がり、拡がっていた。
 そんな世界で、新人類ホモ・クアントゥスのベリサリウス・アルホーナは、サブ=サハラ同盟のアイェン・エカンジカ少佐を通じて仕事の依頼を受けることになった。それは絶対に不可能な仕事であり、政体を相手にした軍事的詐欺行為である。ベリサリウスは、この仕事を成功させるために人類とその親族ともいえる複数の改変された新人類種族のプロを集めて「しかけ」にかかるのだ。

 ことのおこりはこうだ。40年前、パトロン国家の金星コングリゲートがクライアント国家のサブ=サハラ同盟に対し、中華王国領への武装偵察ミッションを指示した。その生還は想定されておらず、言ってしまえば大国間のちょっかいのかけあいでしかなかった。
 そのサブ=サハラ同盟の第六次遠征隊は作戦中に新たな宇宙航行機構技術を見いだし、深宇宙に隠れて新ドライブ機構を設計、戦闘船団に搭載した。このドライブ機構があればコングリゲートから独立することが可能になる。そこで第六次遠征隊はサブ=サハラ同盟に秘密裏に戻るため、パペット神政国家連盟のパペット・ワームホールを通過しようとしたが、パペット神政国家連盟側は、その戦闘船団の半分を通過費用として要求したため、第六次遠征隊は詐欺師のベリサリウスにそれなりの報酬をみせてうまく通過させるための詐欺的仕事を依頼したのである。
 この難題を引き受けたベリサリウスは自身とエカンジカ少佐を含め9人のチームを組むことにした。
 彼らを紹介しよう。
 まず、登場する新人類は3種族。

 ホモ・クアントゥスは、アングロ=スパニッシュ金権国にある銀行の計画により生み出された新人類。超天才的な数学能力をもち、一時的に自己を量子知性体に変容させる量子フーガと呼ぶ能力を持つ。

 ホモ・エリダヌスは、自らをモングレル(雑種)族と称し、水圧の高い深海でしか生きられない新人類。その特殊能力からコングリゲート航宙軍の準傭兵パイロットとして高度な反射運動能力を発揮する。

 ホモ・ブーバは、通常パペット族と呼ばれる。創造主であるヌーメンを崇拝するように生化学的につくられた奴隷種族であり、ヌーメンによる人類の最悪の犯罪の結果である。ヌーメンは奴隷種族を恐れ、ミニチュアサイズの新人類としてパペットを設計した。パペット属はヌーメンなしには生きられないが、反乱を起こし、ヌーメンを支配下に置き、パペット神政国家連盟となった。なお、ヌーメン自体はパペット族が感応するフェロモンを出すほかはオリジナルの人類と変わらない。

ベリサリウス・アルホーナ 新人類ホモ・クアントゥス、詐欺師。量子フーガ状態を持続できずクアントゥスとしては能力が不安定。他の同属よりも社会性を持つ故に故郷を離れ、ひとり暮らしていた。

カサンドラ・メヒア ホモ・クアントゥス。ベリサリウスの幼なじみ。他の同属と同じく計画の拠点である小惑星ギャレットから離れずに暮らしていた。

ウィリアム・ガンダー 人類。65歳ぐらいの詐欺師。ベリサリウスの師匠である。現在犯罪で収監中。治療不能の病気で余命わずか。娘の将来のためにベリサリウスの依頼を引き受ける。

マンフレッド・ゲイツ=15 ホモ・ブーバ。生理的にヌーメンの神格性を認識できないがゆえにパペット世界から追放されて生活しているホモ・ブーバ。

セント・マシュー アレフ級と呼ばれる超一級のAIのひとり(ひとつ)。自律行動可能なロボット態。アングロ=スパニッシュ金権国の銀行が開発したが自らを転生した聖マタイだと考え、業務に使えないため幽閉されていた。ベリサリウスを雇って自らを解放させた過去があり、現在はキリスト教会を運営している。

アントニオ・デル・カサル 違法天才遺伝学者。ギャンブルと金に目のないマッド・サイエンティスト。

ヴィンセント・スティルス ホモ・エリダヌスのトップパイロット。トップの深海ダイヴァーとして他者に勝ち続けている。

マリー・フォーカス コングリゲートの元航宙軍下士官、現在収監中の爆発物のプロ。かつてベリサリウスとともに仕事をした。

 それぞれの能力を発揮し、ミッション・インポシブルを成功に導けるのか、信頼、反目、裏切り、そして、彼らを追うコングリゲートの秘密組織…。二重三重のだまし合い。最後に笑うのは? そして、泣くのは?

 物語の書き出しはこうだ。
「おそらく、ベリサリウス・アルホーナは詐欺の計画と量子世界に類似性を認めたこの世でただ一人の詐欺師だろう」

 ハードSF、サスペンスSF、アクションSF、ミリタリーSF…。ザッツエンターテイメント。取っつき悪そうだけど、おもしろい作品だ。

漫画「プリニウス」

PLINIVS

ヤマザキマリ&とり・みき

 10年全12巻にわたり連載されていた「プリニウス」が完結した。
 プリニウスとは、後のキリスト歴(西暦)79年のヴェスヴィオ火山噴火によるポンペイ壊滅で亡くなったことが知られている古代ローマの博物学者、軍人、政治家であり「博物誌」を記したことで知られるガイウス・プリニウス・セクンドゥスのことである。
 世界史などでその名は知っていたし、澁澤龍彦の「私のプリニウス」など80年代後半にちょっとしたブームにもなっていたが、自然科学と伝承や伝奇がまざった博学の人といった程度の知識しかなかった。
 そこに登場したのが、古代ローマを舞台にあるときはコミカルに、あるときは人間の欲や真理にするどく切り込む漫画家ヤマザキマリと、基本はギャグ漫画家でありつつも時に「はずかしい」作品を発表、希代の映像収集家であり、吹き替え研究家であり、伝奇物語も得意とする異能の漫画家とり・みきの共作による漫画「プリニウス」である。
「博物誌」を編纂するために世界の万物事象を収集するプリニウスと同時代の「暴君」ネロを中心に、さまざまな人物が登場する。プリニウスの周辺にはプリニウスが「博物誌」に再録している摩訶不思議な動物、植物、異種族の姿もある。
 本作の「プリニウス」が旅する世界は、「博物誌」の世界であり、ネロを中心とした歴史物語の世界でもある。そのどちらにも虚実がまざりあい、世界の奥深さ、人間の業の深さが描かれる。
 本作はヤマザキマリがとり・みきに声をかけてはじまったそうだが、人物はヤマザキマリ、背景はとり・みきを基本にしつつ、ストーリー、台詞、コマ割りなど時に役割を変わりながらまさしく「合作」として融合した作品となっている。たしかに、細かく見ていけば、ここはとり・みき、ここはヤマザキマリと明らかにタッチが異なったり、得意不得意が出てくる場面はあるが、そもそもとり・みきは若い頃に「○○先生風」漫画を書くなど器用なところがあるのでほんとうのところは分からない。むしろ、「ヤマザキマリ&とり・みき」という複雑な精神を持った作家がいると思って読んだ方が良いかも知れない。

 さて、物語であるが、第1巻の冒頭で79年のクライマックス直前、大噴火が起き地震活動が活発に起きている場面にはじまる。そして一旦暴君ネロの治世に戻り、ポンペイからローマ、アフリカ、中東と旅するプリニウスが描かれる。並行して時の世界の支配者である古代ローマ帝国の若き帝王ネロとローマの姿が対比的に描かれる。ローマから見た世界の周辺でプリニウスと、その筆記者であるエウクレス、護衛のフェリクスの3人の一行はあたかもテレビドラマの水戸黄門一行のような珍道中を続け、半魚人、象、大蛸、古代遺跡、頭部がなく胴に顔のある人種などに出会ったり、出会わなかったりすう。ときにプリニウスはネロに呼びつけられ、空気が悪く自然の少ない大都会ローマに帰っては、持病のぜんそくを悪化させ、ローマの政治、人間関係の業と欲に辟易としてローマを脱出するのである。すべては79年のクライマックスに向かって。物語は、ネロの死をもって一段落し、一度プリニウスの子ども時代、青年期を描いた上で、最後のシーンへと向かう。
 なんということだろう。この物語ははじまったときから最後が決まっていたとも言えるのだ。そう、プリニウスの死に向かってすすむ物語だったのである。
 しかし、その終わり方はいかようにも描ける。
 なんといっても2000年ほど前の歴史なのだから。

 各巻にはふたりの作者の対談が載せられている。ちょっとした種明かしでもあるし、楽屋話でもある。最終巻では、最後のシーンに向かって、ヤマザキマリの中にいるプリニウスととり・みきの中にいるプリニウスの姿がずいぶん違ったことを明らかにしている。そこでも述べられているが、それこそがまさしくプリニウスの多面的な姿の表れでもあったのだろう。フィールドを歩く研究者であり、軍人であり、政治家でもあるのだ。そう聞くと三國志の「曹操」を思い出すが、曹操がまず政治家であり軍人であったのに対し、プリニウスはなにより研究者であり、古代ローマの市民の義務として政治家、軍人であったに過ぎない。ただ万能であっただけである。
 著者らも述べているが、日本で19世紀から20世紀にかけてフィールドを駆け回り、万物を収集せんとした南方熊楠がもっともイメージ的には近いのだろう。ただ、熊楠よりもコミュニケーション能力は高かったようであるが。

 物語に印象的なシーン、台詞はたくさんあるが、最終巻に掲載されているなかでは「17年かけて元通りにしてきたのに」という水道技師の一言のコマが心に残った。
 これはプリニウス一行がこの物語での旅の最初の頃にポンペイの大地震に遭遇するのだが、その地震のあと水道設備を修理するためにローマから派遣された技師の台詞である。
 この一言で、プリニウス一行の旅、すなわちこの物語が17年の長さであったことをあらためて読者に感じさせるとともに、技師として17年かけてようやく完全復興を遂げた新たな水道施設が、最後の大噴火で壊滅を避けられないと悟ったときの絶望の一言でもある。
 本作は啓蒙的な作品ではないが、人間が時の欲のままに自然を破壊し、未知を既知として自然のありさまを蹂躙することについてときおり描いている。同時に、時間の流れが、人間がくみ上げたものをいとも簡単に無に帰すことも描いている。
 そんな人間の相克のようなものを人間サイドに立って語ったのが上記の水道技師の一言である。この台詞に魂が籠もるためには、その間のネロの治世の時代があり、プリニウスの旅の時間が必要だったのである。なんとまあよくできた作品である。

 とり・みきは、いまや幻となったデビュー作以来のファンとして、ほぼすべての単行本を所有し、ときに繰り返し読んでいるが、80年代以降の作品の多様さはもっと注目を集めてもいいと思う。本書にも通じる「石神伝説」は未完であり、どこかの出版社にはあらためて執筆を求めてくれないものだろうか。
 

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