緑の星のオデッセイ

THE GREEN ODYSSEY

フィリップ・ホセ・ファーマー
1957

 65年前の作品かあ。初訳が1970年、52年前。それだけ前の作品だと言葉や訳語にも現在では使われなくなった単語なども入ってくる。古い作品を読む際には、その時代背景などもある程度頭に入れておかないとそもそも読めなくなってしまう。

 はるか未来の物語。宇宙船の事故により地球人アラン・グリーンは見知らぬ惑星に不時着し、そこで捉えられ、支配者である貴族の妻の奴隷として多忙な日々を過ごしていた。奴隷頭としての多忙な仕事、貴族の妻に要求される夜のお相手、さらに、自由奴隷となっている美貌で商才を持ち、嫉妬深い妻アムラとの楽しくもうっとうしい暮らし。
 そう、宇宙で人類型の種族は決してめずらしくなかった。おそらくはるか昔、高度な科学文明を持つ人類の祖先が各星系に植民し、そして何らかの理由でそれぞれが孤立して科学文明を失い、いくつかは再興したのであろう。
 地球は、アランが落ちた惑星よりも一足先に再興していたのである。
 この惑星は、草の海の惑星であった。水の海もあるが、大陸はおよそ平たくそろっており、草の海となっている。雨も規則正しく降り、アランにとっては不思議な惑星であった。
 しかし、それを調べることもできない立場にあった。
 この惑星の人々は、中世都市国家ごとの支配が確立しており、草の海を風を受けて「船」が行き交い、貿易を行なってきた。そのような世界ゆえに伝説や怪異な言い伝えにも満ちていた。
 ある日、不思議な人間がアランがいる都市とは別の都市に空から2人降りてきたという。その怪しさ故に捕縛され、殺される可能性があるという。しかし、アランは気がついた。このふたりは地球の宇宙船に乗ってきた人たちであろうと。それは、アランがこの未開の星を離れ、地球に戻るための希望だった。
 アランはこのふたりを救い出し、自分自身が地球に戻るため、草の海に冒険の旅に出るのだった。

 壮大な宇宙史のひとつのエピソードみたいな物語なのだが、単発の小説である。草の海のある異世界での冒険ファンタジーといったところで、草の惑星、そこを疾走する帆船という絵になる設定を除けばSF要素は少ない。しかし、「この惑星の謎」が物語の後半を盛り上げてくれる。50年代SFのひとつの頂点であるのだろう。

「人類」の祖先種族がいて、生殖可能な「人類」にみちた宇宙という設定は、かつてのSFには多く見られている。それは、一方にベム(怪物)的な宇宙種族と人類との闘いという設定があり、その荒唐無稽さに対する「大人の小説」指向でもあったのだろう。
 実際、ファーマーは当時のSFのタブーとされた性表現を取り入れたことでも知られている。本作は性表現こそはほとんどないが、貴族の妻とその奴隷としての性関係に、自由奴隷として貴族、別の都市国家の王子、商人の子どもを育て、アランとの間にも子どもを産んで育てている妻が登場し、そのアランと彼女の社会的な制約の中での性的な奔放さを伺わせている。SFに一歩大人の階段を上らせたのがファーマーだと言える。
 再版されることはないと思うが、できればファーマーをまとめて読んでみたいものだ。

 なお、本作はあとがきによると1957年当時「裸の太陽」(アシモフ)、「夏への扉」(ハインライン)と並んで評価されていたSFとのこと。

(2022.9.26)

ヘリックスの孤児

WORLD ENOUGH & TIME

ダン・シモンズ
2002

「ハイペリオン」シリーズで著名なダン・シモンズの中短編集。ダン・シモンズはとてもストーリーを語るのが上手で、でもってちょっと苦手な作家でもある。もちろん「ハイペリオン」4部作は何度も読み返したくなる素晴らしい作品だし、20世紀SFの頂点のひとつと言ってもいい。それ以外の作品は実はほとんど読んでいなくて、いつか機会があれば読むのかも知れないけれど優先度は低かったりする。あくまで個人的嗜好の問題で、シモンズに何か問題があるわけではない。
 この作品集には、なんと作品ごとに著者による解説序文が付いている。しかもたっぷりと。良いか悪いかは別として、ついている。作品とは関係ないエピソードもたっぷりだが、それもまた「全体を見よ」とささやく(いや、叫ぶ)ダン・シモンズの思いの表出なのだろう。もしかするとそういう圧力を感じるのがちょっと苦手なのかも知れない。

 さて、読み終わってから気がつくのはいつものことで、表題作「ヘリックスの孤児」はハイペリオンシリーズの番外編、その後を描いた作品である。これはロバート・シルヴァーバーグが人気SFシリーズの番外編をその作家に書いてもらう企画によるもので、「SFの殿堂 遙かなる地平」の2巻に収められている。だから一度読んでいる。
 本作品は4部作を読み終わり、その最後の鍵である「共感の刻」を理解していないと設定がよく分からない。そもそも遠未来で人類は変容しているので、それを知らなくても読めるが理解に及ばない。だから、まず「ハイペリオン」シリーズを読んで欲しい。絶対。おもしろいから。
 以下、簡単に作品について。

ケリー・ダールを探して…かつての教え子だったケリー・ダールを探す主人公。不思議な時間と空間のゆがみに捉えられてしまう。ちょっとブラックなファンタジーであり社会風刺でもある。そしてテーマのひとつが「共感」

ヘリックスの孤児…遠い未来、新たな居住地を求めてAIが操船する宇宙船に眠る人々。AIが数人のクルーを起こすのは対処が必要なときだけ。その星系には人類の末裔がいて、そして問題を抱えていた。

アヴの月、九月…イリアムシリーズの前日譚で、古典的人類がポスト・ヒューマンによって実体的な絶滅を定められた最後の日々を描く作品。一方で過去のユダヤ人排斥(虐殺)をモチーフにした作品でもある。

カナカレデスとK2に登る…登山家のお話。3人の登山家がK2をめざす。ある出来事があり、国連から南極を居留地としている異星人のひとりを同行させるよう求められる。カマキリ型の異星人カナカレデスと3人がひたすら真剣にK2登頂をめざす。

重力の終わり…元は映画シナリオとして発案された作品。アメリカの作家兼ライターがロシアの宇宙開発の実際を取材する。通訳には現地の元(宇宙)航空専門医の女性がつく。そして新年を迎える。どことなくタルコフスキーの「ソラリス」的世界で、「ノスタルジア」的映像を感じる独特な小品。

 全体を通して、シモンズがテーマにしているのが「痛み(喪失)と共感」であることがはっきりする。とりわけ最後の2篇にはその要素が強い。そして、主人公たちは、意図せず結果的に「共感」を得るのだが、その過程である自覚はなく、ただ内面的・外面的に苦しみを自らに課していくのである。

ウォー・サーフ

WAR SURF

M・M・バックナー
2005

 悪夢のような世界の、悪夢のようなエンターテイメント小説である。
 舞台は2253年の地球。
 主人公のナジールはすべてを生き抜いてきた男性。2005年生まれの248歳。推定余命50年。
 ナジールはすべてを持つ男。大企業の重役で資産家。すべてに贅をつくしており、それ故にすべてに飽きていた男。
 このナジールが、2233年頃に生まれた20歳の女性シーバに出会い、入れ込みすぎて、すべてが狂い、救済される物語。

 むかつく物語である。なぜなら、読み手である私は他のほとんどの人間たちと同じく奪われる側の人間だから。それでも、SFだから読む。悪夢のような世界について知るために。

 この2253年、すなわち23世紀中盤の地球は最悪の環境にある。地球の大気は呼吸に不適切なほど汚染され、海もまた気候変動の結果陸上から流れてしまった様々な汚染物質で汚れていた。しかし、地球人口は120億人、年2%の人口増加。年4%の天然資源不足。
 世界の通貨はドイッチェ。株式市場や金融市場は健在。世界秩序は国連、とりわけWTOがになっているが、実際に世界を動かしているのは少数の大企業である。世界は大企業の経営者-被雇用者、それ以外の人間で成り立っていた。企業は正社員となっている従業員を原則的に終身雇用しその子孫も支えることになっているが、その結果として企業は疲弊するため「削減を余儀なくされる」のであった。社員を辞めさせられず、「削減」するためにはどうすればいいだろうか?考えてくれたまえ。
 このような社会になった背景には、2057年の「クラッシュ2057」がある。200年前のできごとだ。気候変動による壊滅的で急激な気象災害が発生し、それを引き金に世界的な金融恐慌が起こり、すべてが失われたのである。
 ナジールは当時52歳、資産、家族、すべてを失った後、世界を再建し、企業を、市場を、経済を安定させるために全力を尽くして働いた。その成果が2253年の今である。
 退屈な日常の中で、同世代の5人の長命男女は「苦悩組」と自らを名乗り、「ウォー・サーフ」にのめり込み、世界トップの座を守り続けていた。
 ウォー・サーフ。それはこの世界で人間が起こす戦争に最も近い形、企業従業員によるストライキを使って行なう肝試しである。企業従業員は何らかの理由で企業に対しストライキをしかけることがある。企業側はあらゆる手段でストライキを解決しようとするが、それは企業の警備機構と組合側の武力闘争となることも多い。つまり内戦のようなものである。そのエリアは近接、立ち入り禁止になるのだが、「苦悩組」をはじめとするウォー・サーファーたちは、そのエリアに近接、侵入し、自らが宣言したタスクをこなし、無事脱出することを競う。そして、自ら撮影したその動画の再生回数や内容が裏ネットのランキングとして評価されるのである。
「苦悩組」はナジールを中心とした資産と情報力に裏打ちされた装備と計画で常に最高のサーフをこなしていたのだ。もちろん違法サーフであり、「苦悩組」の中の正体は匿名化されている。
 ここまででも結構醜悪な話である。持たざる人々は企業従業員という地位を確保するのが生存の死活問題になるが、それは企業に生存のすべてを従うことを意味する。そして企業に要求を求めることは、内戦と同じようなものであり、絶望の闘いでもある。
 ウォー・サーフとは、それを自分達のアドレナリン興奮のための遊び場にするのだ。
 すべてに飽きた者が、命をかけることで得られるぎりぎりと快感のための遊び。
 物語の視点は、ナジールである。持てる者の視点。

 しかしナジールはシーバに夢中である。執着という言葉がぴったりである。本書の半分はナジールによるシーバへのストーカー的な執着である。
 そのシーバにいいところを見せたいがためにシーバが関心を示したウォー・サーフにシーバを参加させ、当然のことだがサーフを失敗する。
 失われた「苦悩組」の評価と、傷つけられたプライドがナジールを追い詰め、「天国」へのサーフに向かわせる。
「天国」、それは軌道上にある人工衛星A13の俗称。食料製造に欠かせない糖たんぱく合成品を製造する企業衛星だが、長年にわたりストライキにより立ち入り禁止措置がとられている。具体的な情報は企業から出されておらず企業の警備宇宙船が出入りする者がないかを監視し続けており、近接する者は無条件で攻撃を受けることになっている。
 世界最高のサーフポイントとして位置づけられるが、軌道上にあることを含め、誰もサーフに挑戦していない憧れのポイントである。
 ナジールはシーバらとともに、「天国」をめざし、そして…天国の中には、地獄が待っていた。

 ここから先は書かないでおく。物語の本編はここからである。
 本書に登場するガジェットは様々あるが、地上、海中、軌道上の構造物の描写、長命を維持させるための様々なバイオIT技術などの描写はていねいであり、物語に迫真性を与えている。とりわけ、天国における人工重力のつくりかたとそれゆえの行動の特殊性は他にはない魅力かも知れない。これまでも恒星船やスペースコロニーでの人工重力とその勾配にともなう物語はあったが、本書のそれは結構複雑である。
 大オチに向かっては、「それはないわあ」というご都合的なところもあるが、ご都合的なものあってのSFでもあるのでご愛敬だ。

 さて、むかつきに戻って。たしかに21世紀初頭のいまでも世界は単純に言えば二極化している。「持てる者」と「持たざる者」である。もちろん、二極化したと言っても、その階層は複雑ですごく持てる者とそれ以外、ちょっと持っている者と、それよりは持っていない者など線引きは単純ではない。先進国と後進国、北半球と南半球、資本家と労働者、政治家と有権者、大国と小国、大企業と中小企業、大人と子ども、男性とそれ以外、老人と若者、金持ちと貧乏人、指揮官と兵卒…。
 問題は、世界のあらゆる局面で平準化する方向に動くのではなく、格差を拡大する方向に動く力が大きいということである。平時でも、災害が起きても、戦争が起きても、経済危機があっても、常に格差を縮めるのではなく、広げているのだ。
 そのなかで、資源を食い潰し、環境を汚染し、環境に依存する資源を失わせ続けている。
 そのことを「持てる者」の視点で強烈にぶつけてくるのが本作の力である。
 後味は悪いが、小説としては優れた力を持っているのだろう。
 フィリップ・K・ディック賞を取っているのもうなづける。

2022.9.4

孤児たちの軍隊 ガニメデへの飛翔


ORPHANAGE

ロバート・ブートナー
2004

 西暦2037年、人類は滅亡の危機に瀕した。突然宇宙から地上に無差別に爆弾が落ちてきたのだ。木星の衛星ガニメデに太陽系外の存在が前線基地をつくり、そこを拠点に地球を壊滅させようとしている。ガニメデの温度は最低気温摂氏マイナス18度まで上昇し2%の酸素を含む薄い大気ができていた。そして、異星の侵略者は地球を同様に作り替えたいらしい。
 宇宙開発が停滞していた地球では、なんとかして人類滅亡を防ぐための方策を考えていた。まずは、爆弾が落下する前に宇宙空間で破壊する、そしてガニメデの基地を破壊する。
 古いスペースシャトルをはじめ、地球の資源をつかっての先の見通せない闘いがはじまった。

「さらばーああああちきゅうよおおおおーたびだーーーーつふねはああああーーー」ってなもんである。アメリカの生んだ21世紀のミリタリーSFは、どことなく「宇宙戦艦ヤマト」を彷彿させる設定の物語。
 そして正統派のミリタリーSFである。
 18歳の少年ジェイソン・ワンダー君が、最初の爆弾で都市ごと母親を殺され、歩兵として軍に入ってから新兵訓練、任官、いろんなことがあって兵士として成長し、ガニメデの地上戦に突入して…。というわけで、王道のミリタリーSFである。
 そして、急な宇宙からの攻撃に、最初はなすすべもない人類。手持ちの古いスペースシャトルや、あろうことかアポロ計画の設計図、放置されたジャンボジェット機、ベトナム戦争の頃の陸軍資材まで持ち出して、兵士を育て、戦略を練り…。
 つりがきは“21世紀の「宇宙の戦士」”。まあ、たいていのミリタリーSFが“●●の「宇宙の世紀」”と書くのだが。
 ちょっと調べてみると「911」とその後のアフガン、イラク侵攻なども踏まえたアメリカの視点で書かれた作品らしい。

 ミリタリーSFはSFのサブジャンルとしてこのように兵士が何らかの軍に入り、成長していきながら事態を解決し、同時に昇進していくというのが典型であり、お約束だ。滅多に読まないのだが、たまたま手に取ってしまった。特にひねりもないのでするすると読める作品でもある。人はたくさん死ぬが…。
 調べると5巻シリーズになっている。ほほほう。機会があったら読もう。

 さて、1970年代、日本では「宇宙戦艦ヤマト」が大ブームになった。宇宙SFアニメとしても先駆けとなる作品であるが、ロボットものではないところが特徴である。1970年代というのは、1945年に第二次世界大戦で枢軸国の大日本帝国が敗戦し、アメリカの占領をへて再独立してから20年後ぐらいにあたる。大人たちにとって戦争はまだ記憶に新しい頃で、大日本帝国が総力をかけて建造し、出航しながらもあっさり撃沈した戦艦大和は悲劇のひとつとして心に刻まれていた。「宇宙戦艦ヤマト」は、戦後の高度成長期を迎え「日本はすごい技術力をもっていたし、いまもその技術力は失われていない」という再生を誇る象徴のようなアニメだったのだ。
「孤児たちの軍隊」の気配が「宇宙戦艦ヤマト」っぽいと感じたのは、古いガジェットを新しい技術とミックスさせながら得体の知れない巨大な敵に立ち向かうという設定と、その背景にある「誇りの復活」のあたりにある。アメリカは「911」ではじめて本土攻撃を経験した。それまでは日本軍によるハワイ州のパールハーバー(真珠湾)奇襲攻撃がもっとも直接的な他国からの攻撃だったのだ。「911」の衝撃はいかほどだったろう。
 本作はアメリカで人気作になったという。同録の著者インタビューや解説では、本作の背景について詳しく書かれているので気になる方はどうぞ。

エラスムスの迷宮

BITTER ANGELS

C・L・アンダースン
2009

 読み終わって解説に目を通すと本書の作者は「大いなる復活のとき」のサラ・ゼッテルの別名義であることを知る。「大いなる復活のとき」はゼッテルのSF第1作で1996年に発表されている。遠未来、人類、非人類を交えての宇宙史的物語であった。
 内容についてはずいぶん前に読んでいるのでほとんど覚えておらず、2006年の感想を読んで、そのときの感想が本書の感想と近いことに気がつく。「とっつきにくい」「みんな変化してしまっていて、感情移入がしにくい」「それでも、おもしろいと言えるのは、その設定の緻密さによるところが大きい」と書いていた。
 本書「エラスムスの迷宮」はたぶん「大いなる復活のとき」よりははるかに読みやすいと思う。章立てごとに登場人物の名前が書かれていて、基本的にその人物の視点で物語が進み、同じ出来事を複数の登場人物が語ることで分かりやすさが増す。

 かなりの未来、人類の世界である。地球を中心とした世界はパクス・ソラリスとそれ以外の辺境星系で成り立っている。本書の舞台はエラスムス星系。ガス惑星系でそのいくつかの月とスペースコロニーで成り立っている。支配者はエラスムスを姓に持つファースト・ブラッドの一族。星系でもっとも不足する「水」が権力の源であり、負債奴隷化による格差社会ができあがっている。軍と警察を併せたような保安隊と、徹底した情報管理と監視、法規制を担う事務局(事務官)という官僚機構による恐るべき「警察国家」である。ジロー・アメランド大尉はかつて崩壊した故郷の月世界オブリビオンからの難民として育ち、保安隊に入った青年である。難民仲間のエミリアは月世界ホスピタル(病院)で医師として働き、同じ難民仲間のカパは裏社会に入って水の密輸などを手がけていた。この3人はそれぞれエラスムス星系で起きようとしている大いなる陰謀に巻き込まれていく。

 一方、ソラリス世界である地球ではテレーズ・ドラジェスク元野戦指揮官が原隊復帰を求められていた。30年前円満に退役し、いまでは地球で夫と子どもたちと穏やかな日々を暮らしていたテレーズの元に、かつての部下であり命の恩人でもあるビアンカがエラスムス星系で殺され、死の前に後継者としてテレーズを指名したというのだ。地球統一世界政府治安維持省特殊部隊部門はパクス・ソラリスの理念に縛られている。いかなる理由があっても人を殺してはいけない。殺人も、戦争も起こしてはならない。もし、パクス・ソラリスの人間が人を殺したら、その被害者に自ら謝罪し、その罪を購わなければならない。なぜなら、ひとりの殺人が、その憎しみがやがて戦争を生むのだから。
 ソラリス世界における「守護隊」の役割は戦争抑止である。テレーズは、ビアンカの願い、ビアンカの死の真相、さらに、ビアンカが調査していたエラスムス星系がソラリス世界に戦争をしかけようとしているという危機、それらの前に、夫との誓いを破り、原隊に復帰するのだった。
 エラスムス星系を部隊に、ソラリス世界の価値観と、エラスムス星系の現実の狭間で、ジローとテレーズの連携なき結びつきが真実を明らかにしていく。

 パクス・ソラリスとエラスムス星系、いずれもある意味での管理社会である。しかし、方や裕福で生を謳歌し、方や持てる者の権力闘争と持たざる者の飢えと欲望で成り立つ社会。ふたつの人類社会はそのまま現在の新南北問題を象徴しているようである。残念ながら現実の「守護隊」は戦争抑止よりも戦争拡大に熱心であるのだが。

 さて、C・L・アンダースンことサラ・ゼッテルの作風はそれほど変わっていないと思う。緻密な設計をするあまり、読み手には記憶力を求められるのだ。いや、読者たる私の記憶力が年々落ちているのもあるのだが、「これ、誰だっけ?」「ここ、どこだっけ?」が多くなる。理由を考えたのだが、風景描写や個人の心理描写が細かくて、それはそれでいいことなのだが、大きな流れをちょっと見失ってしまうのだ。なんか独特なんだよね。本作はフィリップ・K・ディック賞を受賞しているのだが、描くディストピア世界がディック的なのか、小説の「惑わし感」が結果的にディック的なのか、考え込んでしまった。
 タイトルやリード文、あらすじを読むとなんだかミリタリーSFっぽいけれど、なんといっても「人を殺してはいけない」けど、登場する世界の中ではもっとも高度な科学技術、武力を持つ守備隊の「野戦指揮官」が主人公なのだ。ミリタリーSFではない。それだけは間違いない。

落下世界

FALLER

ウィル・マッキントッシュ
2016

十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」とかのクラーク大先生は喝破した。そして、私達は確実に魔法世界に近づきつつある。そのような時期にSFは科学的背景を構築するのがいよいよたいへんになってきている。
 本書「落下世界」をタイトルだけ読んで「落ち続ける世界」と理解し、落ち続けるってどういうことだろうかと頭をひねったのだが、実際に読んでみると原題である「FALLER」を自分の名前とした男がひたすら落ち続ける世界であった。読み終わっていて、本書の内容とはまったく関係ないのだが、延々と落ち続ける生活ってどうなるだろう。なんだかとり・みきさんが漫画に書いてそう。落ちながらごはん、落ちながら睡眠、落ちながら入浴、落ちながら恋愛、落ちながら喧嘩、落ちながら子育て…。
 もちろん、本書「落下世界」はそういう話ではない。たしかに主人公はよく落ち続けているが。
 本書はふたつのパートが交互の章立てとなりながらそれぞれに話が進む構成で、Aパートは落下世界。Bパートは私達がよく知る世界の未来。
 AパートのSF的なガジェットを抽象化すると、パニックSFにありがちな、気がついたら自分を含め周りの全員がある種の記憶喪失になっている世界という設定がひとつ。次に、その世界は宙に浮く「島」になっていて、飛ぶことができれば他の島に移れる可能性がある。だから、パラシュートを持って落ちれば、少なくとも下の世界に行けるかも。問いとしては当然ながら「自分は誰?」「写真に自分と映っている女の人は誰?どこ?」である。そしてもうひとつ、中盤以降に出てくるのだが「同じ顔・声・年の頃・背格好」の人。一卵性双生児のような人たちの存在が、記憶喪失に加えて謎を深めていく。
 Bパートはふたりの天才科学者夫婦の話。ひとりは主に理論・応用物理学のなんでも天才科学者、もうひとりは主に化学・バイオテクノロジー・薬学の天才科学者。友人であり、研究パートナーであり、互いの配偶者が姉妹であるため義兄弟でもある。限られた資源をめぐり世界の緊張は高まっている。そのなかで急激なBSEのような症状のウイルス兵器が拡散しつつあった。なんとかしてこのウイルスを治療あるいは無効化できないか、ふたりは共同で研究を続けている。
 当然だがAパートとBパートは後半になると次第につながりのベールを明かすのだが、そこはそれ、読んで欲しいところでもある。

 読んでいて、最初はAパートを仮想空間の特殊な設計の世界なのかとも思ったりもした。そのあたりは作者が「謎解き」感を出すのにいろいろ苦労して構築したストーリー展開だったのだろう。

 さて、Bパートで「世界の危機に天才科学者が解決策を模索する」といえば、思い浮かぶのは「創世記機械」(ジェイムズ・P・ホーガン)である。若き天才科学者が核戦争の危機を救うのである。「科学の力で世界を平和に」の典型だ。本作も似たようなテイストだが、そこはねじれきった21世紀、一筋縄ではいかない。
「本当に救ったの?」「それで救えたと言えるの?」「救済や平和ってどういうことだろうみたない疑問が読後に湧いてきてしまう。それでも、安心して欲しい。ハッピーエンドだ。たぶん。

 落ちる夢って見るよね。

6600万年の革命

The Freeze-Frame Revolution

ピーター・ワッツ
2018

 真夏の早朝、夜明け頃には目が覚めてしまった。年のせいだろうか、それとも2日間の長時間運転や比較的短い睡眠時間で身体が興奮していたからだろうか。ほんとうは長く長く眠りたいのに。しかたがないから朝日の明かりを頼りに布団の中で本を読むことにした。ピーター・ワッツ。「ブラインドサイト」「エコープラクシア」には難渋したのだが、本書は実に読みやすく結局朝のうちに読み終えてしまった。
 Sunflowers cycleシリーズとして既訳の中短編と同じ舞台の物語ということもあるからか。短編集「巨星」の中に入っている「ホットショット」の後、「巨星」「」の前に位置付く作品である。もちろん、本書だけを読んでも何ら問題がない。

 舞台はワームホール構築船「エリオフォラ号」の中。小惑星を改造してワームホールを利用して銀河系を孤独に飛び続け、ワームホールのゲートをつくっていく。それは人類の離散(ディアスポラ)の高速道路であり、ワームホールネットワークは人類の末裔あるいは他の知性種族の道となるものである。地球を離れ6600万年の歳月が過ぎた。操船とワームホール構築は基本的にチンプと呼ばれる船内システムが自律的に行なっているが、チンプでは判断ができない事象やリスクが生じると、人類のメンバーが対応することになっている。船内で冬眠させられている人類のメンバーが数人から数十人覚醒させられるのだ。
 数百年、数千年に1度、目ざめる。知っている人と一緒だったり、知らない人が混ざっていたり。基本的には文化的背景が同じ人たちがチームとなって起こされるが、状況によって、あるいは何らかの社会的意図を持って知らない人たちのところで起きることもある。
 すでに銀河円盤をいびつに32回まわり、10万個以上のゲートが構築されている。しかし、人類はおろか他の知性種族の接触はない。ときおり構築したてのゲートから「グレムリン」が出てきて、「エリオフィラ号」を襲おうとするが、成功したためしはない。グレムリンが何者なのかも分からないのだが、分からないから「グレムリン」と呼んでいるにすぎない。
 主人公のサンディは中でも比較的頻繁に起こされることが多いメンバーの一人。あるゲートの構築の際にグレムリンが飛び出してきた。起きていたメンバーの一人、リアンはとてもおびえてしまう。リアンに何があったのか?船のAIであるチンプは何を隠しているのか、あるいは何に「気がついていないのか」。
 出発当初はワームホールネットワークがある程度できたら進化した人類が迎えに来てミッションは終わるものと思っていたのに、すでに6500万年を過ぎて、迎えどころか、誰からも声がかけられないなかで、チンプはひたすらミッションを遂行しようとし、人類のメンバーたちは次第に状況を把握し始める。それは100万年に渡るゆっくりとした革命のはじまりであった。

 ピーター・ワッツの作品のテーマは決まっていて「自律意識」の問題が中心にある。
 チンプにはあるのだろうか。サンディにはあるのだろうか。私にはあるのだろうか、あなたにはあるのだろうか。
 なぜ私はこの本を読み、そしてこうして文章を綴っているんだろうか。
 それでも日々は過ぎ、物事は起きていく。私は誰かにとっての「マダガスカル島のトガリネズミ」に過ぎないのかも知れない。

 寝ている間に数千年経っていたら、たとえば2022年8月16日の今日眠りについて、3022年の8月に目ざめたら、一体どんなことになっているだろうか。想像もつかない。しかし、エリオフィラ号での目ざめは、チンプには対応できないことであっても、人の想像の範囲をそれほど超えることはない。ほんとうは、どちらの目ざめも1000年オーダーでのタイムトラベルなのだが。たとえば、平安時代の1022年に眠りについて2022年に目ざめたら、果たして適応できるだろうか。そして、人類の変容は過去の千年よりはるかに早くなっており、次の千年はものすごい変化になっているだろう。さあ、これを書いたら眠りにつこう。
 それが4時間半の眠りになるのか、1000年を超える眠りになるのか、本当のところは誰も知れないけれど。

究極のSF

FINAL STAGE

アンソロジー
1974

 1970年代にはいり、ふたりのSF編集者バリー・N・マルツバーグとエドワード・L・ファーマンは大胆な企画にとりかかる。13人のSF作家にそれぞれひとつずつのテーマを与え、そのテーマについての「決定版」を書くよう依頼したのである。それだけではない。作品とともに、そのテーマへの感想、作品リスト(テーマの古典、作品を書く上で影響を受けたもの、なお、1篇以上は自作を含むこと)の提出も求めたのである。
 頼まれて引き受けた作家も大変だったろう。
 結果的に、70年代の時代的雰囲気をたっぷりふくませて、ちょっと理屈っぽい作品がそろった。ひとつひとつを語るのは野暮である。まず、目次を転載。

ファースト・コンタクト
「われら被購入者」フレデリック・ポール
宇宙探検
「先駆者」ポール・アンダースン
不死
「大脱出観光旅行?」キット・リード
イナー・スペース
「三つの謎の物語のための略図」ブライアン・W・オールディス
ロボット・アンドロイド
「心にかけられたる者」アイザック・アシモフ
不思議な子供たち
「ぼくたち三人」ディーン・R・クーンツ
未来のセックス
「わたしは古い女」ジョアンナ・ラス
「キャットマン」ハーラン・エリスン
スペース・オペラ
「CCCのスペース・ラット」ハリー・ハリスン
もうひとつの宇宙
「旅」ロバート・シルヴァーバーグ
コントロールされない機械
「すばらしい万能変化機」バリー・N・マルツバーグ
ホロコーストの後
「けむりは永遠に」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
タイム・トラベル
「時間飛行士へのささやかな贈物」フィリップ・K・ディック

 実は、本書は個人的にやらかした1冊である。たぶん2回。都合3回購入していると思われる。最初は、個人的ディックブームの時に買って、その後、同作品が別の作品集に載っていたので手放した(と思う。すでに忘却の数十年前)。
 次に、表紙がリニューアルされていて、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの名前に惹かれて買ってしまった。そして読んでいる。本棚にあった。
 そして、最近、古書店で売られていて、「お、なつかしい表紙、でも読んでいなかったな」と思って買ってきて読んで、いまここにいる。
 これから増えていくんだろうなあ。そのための備忘録としての読書録であるのだが。
 ひとは忘れる。老いる。そして、死ぬ。
 死んだら、もう、読むことはできない。忘れることもない。書くこともないが。

 それはともかく、「究極」と問われると、「死」を連想するものであるのだろうか。そういう構成の作品も多い。
 ひとつだけ紹介するならば、死を乗り越える短編としてハリー・ハリスンの「CCCのスペース・ラット」を推したい。テーマは「スペースオペラ」であり、実際にスペースオペラであるが、ドクターE・E・スミスをはじめとするスペースオペラの古典を徹底的に笑い飛ばすのが70年代の古典スペオペへの敬意と決別宣言なのであろう。ちなみに、ジョン・スコルジーが2012年に発表した長編「レッドスーツ」も同じテーマである。スペースオペラは古典ゆえにパロディ化しやすいのだ。

ドラマ エクスパンス 巨獣めざめる

 人類が太陽系に進出して200年。人類は、地球、月、火星、小惑星帯から木星系、土星系とその生存圏を広げ、「人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった」のである。
 このドラマは、分かりやすく言えば、モビルスーツが存在しない「機動戦士ガンダム」である。
 低重力の小惑星や宇宙船での暮らし、戦闘宇宙船同士の戦闘などが劇場公開映画さながらの映像で繰り広げられるのである。「スター・ウォーズ世界」のような派手さはないが、映像のリアリティはとても高い。実におもしろい作品である。最近の海外SF映画のしっとりした宇宙の映像と同じぐらいの品質がある。長いドラマだから描写もじっくりとしていてとても良い。良作である。

 まず、背景。
 地球-月圏は国連が統治、火星はテラフォーミング途中だが自治権を持つ共和国となり、地球圏と資源や権力をめぐる闘争とそのための軍拡競争を続けている。小惑星帯の人々は「ベルター」と呼ばれ、主に準惑星のケレスの内部、地球近傍小惑星のエロスの内部、土星の衛星フェーベの内部、木星の衛星ガニメデ、宇宙船建造用大型宇宙ステーションのティコを生存の拠点とし独立と自治を模索していたが、現実には地球および火星の支配と搾取にあえいでいた。
 地球圏は人口増加と環境悪化に苦しんでおり、資源調達の上でも小惑星帯を管理下に置きたかったし、火星はテラフォーミングのために小惑星帯が調達する水などが欠かせない。
 ベルターの内惑星系(火星と地球圏)への不満は高まり、外惑星同盟(OPA)という非公式軍事組織が地球、火星双方に対しテロや資源調達宇宙船の海賊行為をくり返していた。
 地球と火星は戦争になるのか。ベルターたちは漁夫の利を得て独立できるのか。事件と陰謀、政治家や軍人の思惑の中で、物語は複雑に進んでいく。氷運搬船の副長でしかなかった主人公のジム・ホールデンは、その優しくまっすぐな性格ゆえに、事件に巻き込まれ、を自らも戦い、傷つきながら、身近な人たちを守るため、人々を破滅から救うため、自分にできることに取り組み続けるのであった。まるで、「ガンダム世界」のブライト・ノア艦長やアムロ・レイ君のように…。

 いろいろ語る前に、このドラマの制作上の話を整理しておこう。「エクスパンス」の原題は「THE EXPANSE」であり、意味としては「ひろがり」すなわち、人類が宇宙に拡張していく姿といった意味を持つ。日本語タイトルは「エクスパンス 巨獣めざめる」となっているが、これは第一部の原作小説「Leviathan Wakes」の邦訳タイトル「巨獣めざめる」から来ている。小説はジェームズ・S・A・コーリー名義で書かれているが、ドラマ「エクスパンス」のプロデューサーふたりの合作ペンネームであり、小説とドラマの親和性は高い。
 小説としては現在までに9巻まで出版されているが、邦訳はこの第一部「巨獣めざめる」のみである。第一部の邦題が「巨獣めざめる」だったがためにちょっとややこしいことになっている。実は「巨獣」などいない。本書で出てくる「Leviathan=巨獣」はティコ・ステーションで建造中の超巨大恒星間世代船の名前であり、ある宗教団体が新天地を目指して旅立つためのものである。この世代船は第一部の後半で動くのだが、物語全体にとってはひとつのエピソードに過ぎない。「巨獣めざめる」はこのドラマにとってはぜんぜん実態をしめさないのである。残念ながら。
 ちなみに「巨獣めざめる」はSF小説としても傑作である。あいにく続編は翻訳されていないが。
 ドラマに戻ろう。wikiなどに整理されているが、シーズン1~3はアメリカのSF・ファンタジー専門チャンネルsyfyで2015年から2018年にかけて放送された。2018年5月にsyfyがシーズン4の製作中止を発表。日本ではNetflixがシーズン1、2を独占配信したがシーズン3は配信せず2018年9月に配信AmazonPrimeビデオを停止。そしてAmazonPrimeビデオがシーズン4の継続を発表し、シリーズ1からの独占配信をスタートした。シーズン6は2021年12月~配信され全62話で制作を終了した。
 ドラマと原作小説はシーズンと各巻の内容がほぼ一致しており、第7巻は1~6シリーズの約30年後からの舞台設定となっている。現在は9巻まで刊行。シーズン7以降が製作されるかどうかは未定である(終了とみられている)。
 興味深いのはAmazon社の戦略としてベースは英語ながら、日本語吹き替え版をはじめ、中国、韓国、イタリア、ブラジル、スペイン、フランス、ポルトガル、アラビア語などなど、ものすごく多言語に対応しているのである。字幕も各国語があり、そういう遊び方も用意されている。これはとても勉強になるなあ。余談だけど。

 物語の話に戻そう。
 シーズン1は導入であるが、ちょっとだけややこしいミステリー仕立てになっている。最初のうちは鍵となる設定が匂わせてあるだけで隠されており意味分かりにくいのでとっつきにくいかもしれない。可能ならば小説版を読んでから見ると「おおおっ」ってなるのだが。ここはがまんして最初の5話ぐらいまで見続けて欲しい。後悔しないから。
 注目して欲しいのは登場人物である。
 何人かの登場人物を鍵として物語はすすむ。
 シーズン1では主人公はふたりいる。
 ひとりは全体の主人公であるジム・ホールデン、もうひとりは準惑星ケレスの治安機関である地球の警備企業(民間警察)のジョー・ミラー警部。ケレス生まれのベルター。彼が上司から地球の富豪の娘で家出しているジュリー・マウを親元に帰すために捜査・誘拐するよう求められる。ジュリーを追う過程でミラーは小惑星帯を巻き込む大きな謎につきあたっていく。このミラー警部パートがいまひとつ分かりにくいのだが、抑えておくポイントは、ミラーはほとんど宇宙に出たことがないケレス生まれのベルターであり、なおかつ、地球資本の民間警察に雇われている「ベルターの敵」とみられていることだ。そういう複雑な立場のなかで、彼は捜索対象のジュリー・マウに執着していく。これが後のストーリーの重要な鍵となる。

 次に、ジュリー・マウとその父親や家族。すなわちマウ家。ジュリー・マウはシーズン1冒頭に登場している。唐突に登場し、それから物語がちょっと飛ぶのでこの冒頭部分はできれば覚えておくといい。エクスパンスの真の意味に通じる鍵は「マウ家」がにぎっている。それは、プロト分子。どうやら人類発のものではなく、高度な異星文明が関わっている物質らしいのだ。プロト分子は、エクスパンスシリーズが太陽系と人類の物語を超えていくことを示唆する。物語のひとつの方向性に、「高度な異星文明との邂逅」があることが物語を楽しくしてくれる。ただ、「エイリアン」や「スターウォーズ」「スタートレック」にはならない。あくまで正統派のSF設定はくずされていない。

 ジム・ホールデン。不思議な主人公である。太陽系をのろのろと長い月日をかけて往復する氷運搬船の副長。地球生まれの元兵士で、人が傷ついたり殺されることが大嫌い。曲がったこと、隠しごとも嫌い。兵士を辞めたのも、そんな性格故。流れ流れてベルターの場末の輸送船に乗っている。しかし、乗っていた宇宙船カンタベリー号がテロで爆破され、その直前に出されていた難破船によるSOS確認のため離船していたために少数のクルーとともに生き残り、火星軍の反抗を疑い、それを全世界の放送し、火星軍に追われ、やがて火星軍の最新鋭AI搭載小型戦艦タチ号を(結果的に)盗み、ロシナンテ号と名付けて船長になる。そうして、地球圏、火星圏、小惑星圏において時にヒーロー、時に裏切り者、時に名もなき戦士、調停者として物静かに活躍することになる。
 ジム・ホールデンの主な仲間には、ベルターでOPA親派だった天才メカニックエンジニアのナオミ・ナガタ、元火星軍兵士でロシナンテ号のパイロットとなるアレックス・カマル、地球人でナオミをボスと決めて従うちょっとヤバい感じの地球人エイモス・バートン。つまり、ロシナンテ号は、地球人、火星人、ベルターが出自や立場に関わりなく動き回る特殊な存在になるのだった。

 そのほか、たくさんの登場人物が主要登場人物ばりに出てくるが、鍵となり、その発言や行動を覚えておいた方がいい人物があと3人いる。いずれも女性である。
 ひとりは、地球人のクリスジェン・アヴァサララ。国連事務次長としてシーズン1から登場する。かつて軍人の息子を失い、自らも紛争を調停する力を持ちながら、たくみに動いては戦争回避を模索する政治家。若い頃はものすごい美人だった感じで、歳を重ねても美しさがやどる。出自はインド系とみられ、ハスキーボイスで交渉し、策謀し、物語をぐいぐいと動かしていく。
 次に、ボビー(ロベルタ)・ドレーパー。火星人で火星海兵隊の下士官。純粋な国粋主義者(火星第一主義者)で、それ故に地球を憎み、早く敵と戦いたくてうずうずしている若い兵士である。火星の先端技術で開発されたアーマースーツを着こなして闘うが、やがて大きな秘密に触れ、ひとつの鍵を握る存在になる。シーズン2から登場。
 最後に、カミーナ・ドラマー。ティコ・ステーションの保安責任者として登場するベルター。大物たちの副官的な存在としてキャラクターは立っていても見過ごしそうだけれど、初登場のシーズン2以降、折に触れ登場し、重要な役割を担うようになる。心に大きな傷を持つが力強い女性でもある。

 物語は、地球と火星は戦争をするのか。小惑星帯はどっちにつくのか、あるいは独立するのか。太陽系での戦争とはどういうものか。まさしく直球のスペースオペラが繰り広げられる。それは陰謀と策謀と議論であり、政治闘争でもあるから舞台劇の様相もあるし、宇宙戦争という映像表現もある世界だ。

 しかし、人々は日常に生きている。気候変動と環境汚染、人口爆発の中で苦しむ地球の姿。地球に近いという地の利を活かして開発された月。テラフォーミングが可能だからと移住し、火星を故郷とする火星人の思考、生活。さらには、小惑星帯の様々な生活形態。窮乏するなかで思想が生まれ、行動が生まれてくる。そして、日常は続くのだ。大きな宇宙船、小さな宇宙船、準惑星の内部、巨大宇宙ステーションの内部、ガニメデの表面…。その姿。

 もうひとつ、未来の物語、SFとしての「高度な異星文明」の産物プロト分子をめぐる人間たちの欲望と熱望。何に使えるのか、どう使えるのか、果たして「使いこなせるのか」。それは武器になるのか、エネルギーになるのか、救済になるのか。そして、プロト分子を生み出した存在とは? 物語はそこから展開する。

 とはいえ、シーズン6まで主要な舞台のほとんどは太陽系内であり、その中での人間と人間の物語である。恋愛もある、友情もある、死もあれば生もある。政治もあれば、精神世界もある。出自による差別もある、心の傷もある。そして、赦しも、救いもある。
 なんといっても、主人公が追われたり、殺されそうになるのにもかかわらず、「殺したくない、傷つけたくない、多くの人たちが苦しんだりするのを見たくないし、それを止めたい」という、個人では手に余る欲望・性格・性質の持ち主だからやっかいだ。なのに、そんなジム・ホールデンしか船長としてみんなをまとめられないし、みんなもそんなホールデンだからいろいろあっても最終的には信頼しているし、他の多くの人たちも結果的にそうなる。
 まあ、ホールデンの元で戦闘に巻き込まれる登場人物からすると「命、いくつあっても足りない」感じはするだろうが。

 とにかく、舞台は23世紀。一部の特権階級を除き、個々人にとってはとても厳しく、辛い人生を送る世界だけれど、でも、人類はすくなくとも太陽系まで生存圏を伸ばした。
 できれば、見てみたい。本当の未来の宇宙世紀を。

ヴァルカンの鉄槌


VULCAN’S HAMMER
フィリップ・K・ディック
1960

 ディック作品群最後の長編翻訳だそうだ。2015年に翻訳出版されている。初出は1960年。55年の時を経ての初翻訳。どうしてかというと、ディックだからだ。ディックは多作で、どうしようもない作品から名作と呼ばれる作品まで主にSFを書いてきた。とくに日本とフランスで評価されている作家だが、作品によっては設定が破綻していたり、ストーリーが破綻していたり、登場人物の人物像が破綻していたり、まあひどい。それほどひどくても読ませる力を持つのがディックである。とくに気持ちがざわついていたり、落ち着きどころがないときに、「現実」を考えたり、「世界」を考え、「生きる力」を思い出させてくれる。
 それだけではない、チープなSFガジェットを使いながら、誰にも思いつけないストーリーを展開する。仮想空間やシンギュラリティ、AI、人格の仮想化など、現在のネット社会になってようやくその概念や可能性、そこから派生する諸問題について、ディックは1960年代から深く掘り下げていた。もちろん、上記のような用語は明示されず、当時の科学、SF用語を使ってである。思想、宗教、社会、ディックの関心は幅広く、それらはディックの頭の中で解釈され、再構成されて物語となる。

 その作品群は、短編も長編も映像化されたり映像化の原作、あるいはヒントとなっている。もっとも有名なのは、原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」である。言うまでもない「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督 1982)がある。「ブレードランナー」はもちろん過去のSF作品の影響も受けているが、公開から40年経った現在でも映画史に残る名作であり、ディック作品が映像化された初の作品でもある。残念ながらディック自身は楽しみにしたこの映画の完成を待つことなく亡くなってしまった。
 その後も、「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」「スキャナー・ダークリー」といった映画化、あるいは「高い城の男」「エレクトリック・ドリームズ」といったドラマ化もされているし、おそらく今後もされることだろう。

 そういった背景があるので、この多作の作家の作品は、そのすべてが翻訳されたのである。はっきり言えば、その作品の中には二番煎じや粗い作品もある。だいたい、初期のディックの作品の多くは2作品抱き合わせのチープな小説として売られていたもので、決して人気作家とは言えなかった。ディック自身、食べるために書くといった状況だったのだ。
 そんな初期の作品の中でも見過ごされてきたのが本書「ヴァルカンの鉄槌」である。

ヴァルカンの鉄槌」の世界は1960年代終わりに第一次核戦争がはじまり1992年に終わったあと、世界連邦政府が誕生し、1993年からはアメリカ・ソ連(いまのロシア連邦の前身)・イギリスが共同で開発したスーパーコンピュータの「ヴァルカン3号」が重要政策の意思決定を行なうことに世界が合意したのである。人間では間違う選択を避けるため、コンピュータに人類の行く末を託したのである。
 ヴァルカン3号は連邦において世界各地の政治を行なう弁務官のリーダーである統轄弁務官ひとりがアクセスすることになっていた。
 そして現在は2029年。2年前にできた「癒やしの道」教団がヴァルカン3号を壊し、世界を変えようと画策していた。能力主義の格差社会と思想管理社会に辟易として、「癒やしの道」に参画する者も多くいたのである。

 ほら。21世紀を予感させるでしょ。もちろん、世界は統一されていないし、核戦争もなんとか回避されて現在まで来た。超大型コンピュータのようなシステムに収斂しなかった替わりに、ネットワーク社会における意志決定の仕方は人間の能力の範囲を超えて行なわれるようになってきた。格差は広がり、思想や行動は結果的に管理されるようになっており、レイシズムをはじめ差別的な排除思想が力をつけている。
 ちょっとストーリーの設定を置き換えれば、今に通じる物語である。
 読み方によっては「ターミネーター」みたいな感じもあるが、なんといっても本作品は1960年に発表されたものなのだ。
 すごくないですか。(いや、まず読んでください)。
 量的には長編というより中編ぐらいのボリュームで、ストーリーもそれほどひねっていないので、素直に読めます。ご都合主義的なところはありますが、気にしないこと。そんなことを初期のディックに求めてはいけません。