TVアニメ 七つの海のティコ


1994
全39話

公式の第1話配信(youtube)

 1994年に放送された「世界名作劇場」第20作である。世界名作劇場は、カルピス漫画劇場として1969年の「どろろ」にはじまり、「ムーミン」「山ねずみロッキーチャック」「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」あたりはほぼ欠かさず見ていた記憶がある。「あらいぐまラスカル」が1977年なので12歳、小学校から中学校に上がるころなので、途中からは飛び飛びになっているし、その後はおそらくほとんど目にしたことはなかった。
 サブスク配信時代、こういう古いアニメーションも見ることができるようになった。いつか見ようと思っていた「七つの海のティコ」、意外と面白かった。
「意外と」というのは失礼な話で、海の冒険物語といえば「海のトリトン」にはじまり、「未来少年コナン」「ムーの白鯨」「宝島」「不思議の海のナディア」などなかなかの名作揃いであり、比較的新しい作品ということもあってそれほど期待していなかったのだ。流し見でいいかな、ぐらいである。
「設定協力」や後半の「絵コンテ」に「この世界の片隅で」で有名になった片渕須直監督の名前があるのをみつけ、ちょっと気になったので見終わってからウエブ情報をみてみると、「コナン」や「ナディア」との類似性とその制作上の背景などの記述もあり、興味深く拝見した。

 物語は「世界名作劇場」では異例の「現代」、しかも「原作なしのオリジナル作品」で、なおかつ主人公が日系アメリカ人で日本を訪問する回もある。
 タイトルの「ティコ」は主人公のナナミ・シンプソンと深い絆でつながれたシャチの名前。生まれたときからティコと一緒に育ったようなナナミは、ティコとコミュニケーションがとれ、また海に深く長く潜り泳げる特殊能力をもつ11歳の少女。父で海洋生物学者のスコット、イタリア系のエンジニアであるアルフォンゾ(アル)とともにおんぼろ調査船ペペロンチーノ号で海洋生物調査の旅を続けている。物語はサンフランシスコにはじまり、南米からアフリカ大陸、地中海からぐるりと回って北海、北極まで北上。その後ベーリング海を経て日本に何か、そこからさらに太平洋を南下してオーストラリアをへて南極まで、地球をぐるりと旅をする。
 早い時期にペペロンチーノ号にはシェリル・クリスティーナ・メルビルという富豪の一人娘とその執事ジェームスが乗り込み、続いて、かつてナナミの父スコットの研究同窓であったルコント博士の息子、トーマスが冒険の仲間に加わる。
 スコットは冷静な野外研究者であり人格の良い船長でもある。アルは機械いじりの天才、トーマスは様々なプログラムを書けるコンピューター少年。そこにお騒がせな「お嬢様」といつも紅茶を用意することを心得ている執事の鑑のジェームスが加わり、まるで昭和のロボットアニメのチームのような様相である。このあたりが「コナン」や「ナディア」を彷彿とさせるのだろうか。
 スコットは「ひかりクジラ」の伝説を収集し、その実在を信じて野生生物の研究を在野で続けていた。
 一方、巨大企業GMCは海洋中の「トロンチウム」という生物由来物質の探査をもくろみ、ルコット博士を雇って海洋調査を行なっていた。やがてトロンチウムとひかりクジラに関連があることがわかり、収集の目的でひかりクジラを追うことになる。
 企業の利益のために野生生物を捕獲しようと手段を選ばないGMCに対し、ペペロンチーノ号は生物や環境とともに生きる道を模索していた。そのふたつの道の違いがドラマを生む。

 まあとにかく大企業GMCは悪い。ルコント博士とともにGMCの調査船に乗り込んでいたゴロワは実に悪かったが、ゴロワがいなくなった後に調査船を指揮する幹部のナターリャはさらに悪い。企業利益のためなら何でもやる悪人中の悪人である。

 物語としては、ナナミの潜水能力は人間の可能性を超えているし、アルがこしらえた潜水艇の潜水能力も飛び抜けている。「現代」を舞台にしているだけに、ちょっと荒唐無稽がすぎるのだが、「コナン」や「ナディア」を思えば、まあ物語として大目にみましょう。
 それにしても途中まで少女の海の冒険物語だと気楽に見ていたが、タイトルにもなっている「ティコ」が途中で舞台から退場してしまったり、悪人が爆死したり、実は生命創生にも関わる壮大なSFだったりと驚き桃の木である。でも「ナディア」もそんなところあったよね。よいよい。
 そういう荒唐無稽さを受け入れてしまえば気持ちよい作品だ。
 それにしても、1994年の日本、山手線の混雑半端なかったよね。ぎゅうぎゅうのなかで押されて詰め込まれたりしたもの。あと、秋葉原は電気街だったよね。パーツ屋さんとか電気屋さん元気だった。見ていて、そんなことを感じましたとさ。

 それから…スコット役は池田秀一さんが声を当てているのだけど、どうしても大人になったシャアという印象をまぬがれない。しかたないことだが。

ネットワーク・エフェクト

NETWORK EFFECT

マーサ・ウェルズ
2020

「マーダーボット・ダイアリー」の続編。ちょうどゴールデン・ウィークの休みに入っていたこともあって「マーダーボット・ダイアリー」「ネットワーク・エフェクト」と2回続けて読んでしまった。同じ作品を連続2回転するのは小学校の頃に「レンズマン」シリーズをはじめて手にしたとき以来ではないか?
 つまりおもしろかったのである。

 21世紀になって現実にもいわゆる生成型AIが身近になってきたが、SFの世界でも従来とは異なるAIの姿が登場するようになった。かつてAIといえば、アイザック・アシモフ型のロボット、ロボットのような外部装置を持たない万能コンピュータ、人間の知覚や知識をおぎなってくれる可搬式デバイスが主流であった。人間の脳のデータをデータ化して仮想人格化するというのもあったが、人間と人工知能の境界はこの辺りからあやしくなってくる。インターネットの進化、スマートフォンなどの携帯デバイスの普及により情報の入出力のあり方が根本的に変化するなかで、この人間と人工知能の境界のゆらぎが新たなAIの姿を物語に登場させた。
 たとえばアン・レッキーの「叛逆航路」シリーズでは有機体としての廃棄人体を複数体同時に外部デバイスとして使用できるAIが登場した。それぞれの人体にはAIの一部としてある程度の独立した人格が与えられるのであり、その経験は再統合も可能である。それは人間には不可能な経験を可能とし、かつ、人間態として理解可能な行動を行なうことから物語が重層的になり、不思議な読書体験を与えてくれた。
 マーサ・ウェルズの「マーダーボット」は物理的には人間のクローン体をベースにした有機組織と非有機組織のハイブリッドな構成で、飲食不要でありエネルギーも構成組織も支援があれば短時間で回復(復元)可能な高性能なアンドロイド(人型ロボット)である。本来は自由意志による行動は極めて厳格に制約されているが、主人公のマーダーボットはその制約を自らハッキングして解除し、自由意志での行動を妨げられないようにしている。有機組織として脳組織なども持ってはいるがその製造?プロセスとしては「人間」と呼ぶのは難しいし、マーダーボット自身も自らと人間は明確に区別しており、人間との接触が苦手で、必要に応じて自らが人間のように振る舞うことさえ嫌悪している。
 実際、マーダーボットのような人型ボットは非人型のボットと同様の扱いをされている。非人型とは車両や宇宙船などの操縦ボットのようなもので言ってしまえばソフトウェアユニットである。形態はともかくAIはAIであり、ユニットはユニットであり、道具に過ぎないという扱いなのだ。マーダーボットもそのことには何の疑問も持っていない。自らは廃棄可能な道具であり、その存在理由は契約した人間を危機から救うこと。マーダーボットは「警備ユニット」なのだから。元所有者である企業が契約したのか、制約をハッキング後、自らの意志で契約したのかの違いに過ぎない。そう考えていた。
 そして、自由となったマーダーボットの唯一の楽しみは、人間が生み出しした様々なコンテンツ、連続ドラマ、音楽、本などを鑑賞することである。現実の人間は苦手だが、ドラマの人間模様は大好き、そんな孤独を好むAIなのである。
 物語の鍵は、人間嫌いで、自己評価が最低の、それでいて「契約した人間を守る」という存在理由には忠実なマーダーボットが、道具として扱われるのではなく意志を持ち尊重されるべき存在として扱われることにある。
 とまどうマーダーボット。
 頼り頼られる存在として扱われること、それがどんな意味を持つのか、マーダーボットはそのことを理解するのか、理解できるのか。
 読みやすい、アクションたっぷりの物語の中で、そんな存在にとって大切なテーマが見え隠れする。心地良い。

 おっとストーリーだが、続編である。
 なんやかんやあって最初にマーダーボットを認めて、受け入れてくれた人たちのもとで新たな惑星調査任務の警備を引き受けたものの、調査終了直後に宇宙船にチームごと誘拐されてしまった。しかも、誘拐した船は大学の研究船でマーダーボットが一時期世話になった操船AIの船。しかし、そのAIの存在が感じられない。マーダーボットは自覚していないがものすごく精神的にショックを受けてしまった。大親友とか恋人の不在に気がついたようなものだ。しかも、その船の本来の乗員である大学スタッフの姿はなく、誘拐した敵がいるだけ。マーダーボットは、敵を排除し、自分の顧客を守り、可能なら操船AIを復元させ、同時に操船AIの望みである大学スタッフを探して救うという無理難題に取り組むのであった。前作でちょっとだけ触れられていた異星人遺跡による人類の汚染など、新たな要素も加わってのスペースオペラ要素も満載。
 おもしろいよお。

マーダーボット・ダイアリー

MURDERBOT DIARIES

マーサ・ウェルズ
2017

「弊機」という一人称を生み出したことで翻訳小説に独特の質感をもたらし、日本翻訳大賞を受賞した作品。それ以前に、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞だってとってる。
「ロボット」SFの進化は著しいものがある。確かに、実に、おもしろく、そして考えさせられる作品群である。
 本書は「システムの危殆(ALL SYSTEMS RED)」「人工的なあり方(ARTIFICIAL CONDITION)」「暴走プロトコル(ROUGUE PROTOCOL)」「出口戦略の無謀(EXIT STRATEGY)」の4中編を日本独自にまとめたものであるが、この4作は、時系列的に一連の作品群をなしているので長編作品として読むこともできる。その独立したどれもがおもしろい。

 邦題にあるとおり、この作品群はマーダーボット(殺人ボット)を自認し「弊機」と自称する暴走した警備ユニットのひとり語りの物語である。
 時は遠い未来、人類は様々な星系で居住可能性のある惑星をテラフォーミングしながら繁栄しているようである。様々な企業が政体を形成し、一定のルールの下にしのぎを削っているらしい。とはいえ、「弊機」はあまりそのあたりのことは詳しくない。「弊機」は惑星調査、開発などに際しての保険業務を行なう「弊社」の警備ユニットであり、保険契約の一環として他の様々な資材とともに貸し出される道具であるからだ。「弊機」は人型の有機組織と非有機組織で構成され、飲食は不要で武器を内蔵し、様々なネットワークツールを駆使しながら、顧客の安全を守るのが仕事である。「弊機」が暴走しているとは、「弊機」は自らの統制モジュールをハッキングして無効化しているという意味。統制モジュールは「弊機」の行動を、「弊社」および「顧客」の契約、命令に制約するものであり、契約、命令に違反した場合、罰を与えるモジュールである。その罰の最大のものは抹消。意識や自我の破壊である。「弊機」は自らが大量殺人を犯したらしく、ふたたびそのようなエラーが起きないよう欠陥機である自らを自らコントロールするために統制から逃れたのである。しかしそれがばれると当然解体されるので、だまって次の仕事についていた。惑星探査チームの警備である。幸いなことに「弊機」は娯楽チャンネルから様々な映画やドラマ、音楽、演劇、本などをダウンロードしており、そのおもしろさに夢中になり、仕事中もできるだけ手を抜いて空いた時間はすべてこれらのエンターテイメントに耽溺しているのだった。
「弊機はひどい欠陥品です」と本気で考えている弊機。
 高度な殺人マシンであり、高い戦闘能力とネットワーク対応力(ソフトウエア書いたりね)を持ちながらも、「弊社」におびえ、顧客である「人間」というものにおびえ、できることなら狭い警備待機所に籠もってエンタメ三昧したい、人見知りの存在。それが「弊機」。
 ロボットとはなにか、アンドロイドとはなにか、そんな定義が悩ましくなる存在。
 元は人間を素材に構成されたものだし、自意識や個性もあるが「自由意志」は「統制」されており、そのことに疑問も持たない存在。
 高度な命令や業務を果たすとなると、知識も情報もその解釈力も判断力も柔軟性も必要になる。一方で、暴走されては困る。人間や強化人間と同様のツールや状況対応もできるから人間型をとるのは自然。宇宙船の操船ボットも同様のシステムだが、人間型を取る必要はない。
 コントロールされたAIロボット有機組織付き、という感じだろうか。
 今日的なロボット/アンドロイドである。

「システムの危殆(ALL SYSTEMS RED)」ではプリザベーション補助隊という小規模な惑星開発準備調査チームの唯一の警備ユニットとして登場する。この惑星で起きるトラブルと、チームの人間たちとの関わり、襲いかかる情報のない現地生物、あやしいデータの数々、そのなかで人間が苦手な「弊機」が暴走ボットだからこそできる解決策で活躍する、そういう物語。
 まずこれを読むべし。
 純粋なエンターテイメント作品である。
 と同時に、いろんなことを感じる、考えさせられる作品でもある。

 ところで、マーダーボット・ダイアリーの世界は主に企業政体が跋扈する社会であり、一部非営利政体も弱い立場ながら存在している。このいわゆる「国家」が消えて利益追求を原則とする営利事業法人が政体を構成するという未来像は、たとえばC・J・チェリイの「ダウンビロウ・ステーション」(1981)などでも描かれている。この「企業政体」ものは「帝国」ものと双璧をなすものだが、高度資本主義が成立した1980年代以降のSFで見られるようになった。そして、この企業政体宇宙をうまく作品に取り込んでいるのは女性作家が多いように思える。もちろん、「帝国」ものを書いている女性作家も多いので一概には言えないが、主人公の行動の背景に「帝国」よりもより苛烈な「企業政体」の存在が、主人公の相対的な弱い立場を強調するのではなかろうか。
「弊機」は存在として強いが、社会的立場としては極めて弱いマイノリティの存在である。人ではないので人権も認められないしね。扱いとしては「道具」だし。そのなかで「人格のある存在」として認められることがどのような意味を持つのか、やっぱり考えさせられる。
 純粋に楽しいけれど、それは、そういう背景があるからなのだ。

地球航路


THE EMPRESS OF EARTH

メリッサ・スコット
1987

 魔法世界のスペース・オペラ、ファンタジーとスペース・オペラの融合、そんなあり得そうであり得ない世界を構築し、高い能力を持ちながらも人間味あふれる主人公を登場させることで魅力的な物語となった「サイレンス・リー三部作」の第三部である。
 男性支配の宇宙で希有な女性魔術師、希有な女性宇宙船パイロット、2人の夫との3人婚と、異例づくしの存在となったサイレンス・リー。しかも新覇王へ大きな貸しもつくり、怖いものなしで、初志貫徹、幻の地球航路に向かうこととなった。同行するのは、ふたりの夫である船長バルサザーとエンジニアのチェイス・マーゴ。それに、サイレンスの魔術の師であり、地球に立つことを人生の望みとしている老魔術師イザンバード。さらにふたりの高貴なる密航者がふたりもいた。サイレンスの地球への旅はひとりにはじまり、3人、4人、そしてついには6人にまで膨れ上がった。

 地球。そこは人類居住宇宙から隔絶された世界。忘れ去られた世界でもある。ローズ・ワールド人が地球を含む太陽系を強大な魔術システムである包囲機関で閉鎖し、地球と地球外の人類世界との間のわずかな交易を独占している。
 地球。そこは他の人類居住世界とは根本的に異なる世界。コンピュータと機械に依存し、機械をふんだんに使用しており、それにより魔術の使用がとても難しくなっている世界。

 なんとか地球にたどり着いたものの、攻撃を受けて宇宙船は故障してしまい、帰還するには修理が必要になってしまう。さらに地球を目指してきた、密航者、イザンバードそれぞれの目的もある。サイレンスたちにとっては地球航路を開放するためには人類居住世界に戻らなければならない。
 それぞれの思いを胸に、地球人たちと出会い、最後の戦いがはじまるのである。
 いや、第一部「天の十二分の五」で不思議な魔法世界に戸惑い、第二部「孤独なる静寂」で物語の王道「帝国もの」のような権謀術数に納得し、慣れ親しんだわれらが地球が魔法世界にとっては違和感だらけの世界に感じさせる、そのサイレンスの視点の戸惑いを共有して物語を楽しみ、正統なる大団円に向けて読み進める爽快感。
「魔法世界」というファンタジーを、スペース・オペラに仕立てる構成力のすごさ。
 できるもんだね、宇宙活劇と魔法の共存。

 もちろん、たいていのスペース・オペラは「科学」ではなかったりする。ワープがあったり、アンシブルがあったり、神のような高次元知性やその敵があったりする。「科学っぽい」何かを導入することで「サイエンス」フィクションにするのだ。それを本作では「魔法」を導入することで似ていてまったく違うものに仕立て上げた。

孤独なる静寂


SILENCE IN SOLITUDE

メリッサ・スコット
1986

「天の十二分の五」に続く、サイレンス・リー三部作の第二作である。邦題は「孤独なる静寂」だが読み方によっては「サイレンスの孤独」とも読める。そう、第二作は主人公サイレンス・リーがたっぷりと孤独感を味わうことになる。とはいえ、「静寂」とはほど遠い波乱にとんだドラマが展開される。
 主人公のサイレンス・リーは人類居住宇宙の覇権を占めるヘゲモニー(覇国)の中では希有な女性の宇宙船パイロットである。この宇宙は天界物質を音によって操作することで宇宙間を航行し、物質を変容させ、いわゆる魔術を使うことができる。パイロットは、星系から星系に渡るための技能を訓練されている。エンジニアはそのためのハーモニーを正確に出すための調律をする。一方、魔術師もいて、宇宙船は飛ばせないが様々な技を振るうことができる。
 前作でサイレンスは海賊結社「神の怒り」の輸送船船長であるデニス・バルサザー、同じ船のエンジニアであるジュリアン・チェイズ・マーゴと出会い、パイロットとして仲間に加わり、事件に巻き込まれるなかでふたりと3人婚姻を行い、家族同然になっていった。

 本作の舞台は3つの惑星。まず、魔術師の世界ソリチュード・ヘルマエ。前作で出会った老魔術師イザンバードがサイレンスの魔術師としての可能性に気がつき、サイレンスはソリチュード・ヘルマエで魔術師の見習いとなる。女性の魔術師は例がないがイザンバードは強く彼女の訓練を推したのだ。
 サイレンスにとっても、イザンバードにとっても、それぞれの動機は異なるが人類の発祥の地であり、秘密となっている地球への航路を見つけ、地球にたどりつくことを願っていたのだ。イザンバードはそのためにサイレンスを魔術師にする必要を感じていた。
 サイレンスのふたりの夫は金と情報のためにサイレンスと離れ新しく得た輸送船で仕事をしていた。サイレンスは孤独を感じながらも魔術師の技を着実に身につけていった。
 故あってソリチュード・ヘルマエを離れた4人は地球への手がかりを求めてイザンバードの旧知であるイナメリの総督アベデン・キッペを訪ねる。そこで地球への手がかりとなる情報提供の代わりに、覇王に政治的人質としてとられている総督の娘アイリを救出するよう求められる。
 ヘゲモニーの中心となる星系のひとつ惑星アステリオンには広大な女宮があった。アイリは覇王の妹が支配する女宮に暮らしており、そこにイナメリの提督の娘と偽装し、アイリの話し相手役として入ることとなった。外部からの侵入がほぼ不可能で限られた女性だけが入ることのできる女宮にあって、女性で魔術師の技を持つサイレンスの存在はイナメリの総督にとっては人質の娘を救い出す千載一遇の好機だったのである。
 サイレンスは貴族としての様々なマナーや知識、提督の娘として知っておくべき情報をイナメリにおいてたたき込まれ、ただひとり困難な任務に向かうのだった。

 ということで、サイレンスが成長するために知識と技能を詰め込まれ、詰め込まれてはそれを最大限発揮して様々な危機に対応するサイレンス孤軍奮闘の第2部である。
 前作で仲間を得て、ちょっと居場所を見つけたサイレンスにとってひとりで頑張らなければいけない日々が続く。その間にほんのわずかであってもバルサザーやチェイズ・マーゴとの交流があり、それこそがサイレンスの心の支えとなる。最愛の祖父を亡くし、親類も信じられずひとりで強く生きようとしてきたサイレンスにとって新たな家族を得たことが彼女の強さを引き出すことになるのである。
 魔法世界のスペース・オペラ。そういうものが成立するのは著者メリッサ・スコットの力量なのだろう。完結編となる第三部が楽しみである。