映画 月のキャットウーマン

Cat-Women of the Moon
1953

 1953年にはロケットはあったけれど人類は宇宙をまだ知らない。初の人工衛星は1957年のスプートニク1号(ソ連)、人間が宇宙飛行をしたのは1961年のボストーク1号、ソ連のユーリ・ガガーリンである。
 だから1953年の月旅行は想像の世界である。技術的にも科学的にも。

 人類発の月探査ロケットは5人のメンバーが乗り込んでいた。そのうちひとりが女性のヘレン。彼女は月着陸エリアを月の裏側にすべきだと判断。裏側はもちろん誰も見たことのない世界である。ヘレンは洞窟を発見したとメンバーに告げ、5人は洞窟を探検する。なんとそこは酸素があり、文明の痕跡があった。宇宙服をはずして調査する5人の前に、美しい女性たちが黒タイツ姿で現れる。女性たちは月世界の文明の生き残りであり、すでに男性は絶滅していたという。地球人をもてなしながらも、宇宙船の秘密を得ようとする。そう、宇宙船を乗っ取って地球を侵略しようと考えていたのだ。

 なぜ「キャットウーマン」かって?「キャットウーマン」は1940年、バットマンで登場した黒ずくめの悪役だ。この映画はバットマンとはまったく関係がないけれど、「キャットウーマン」は「キャットウーマン」なのだ。おお、権利関係の薄いすばらしい時代よ。
 ということで、ハリウッドのキャットウーマンたちが闘ったり、踊ったりします。

 宇宙船、月の描き方については、だから、笑って見て。

 映画「怪物宇宙船」のところでも書いたけれど、「女だけの世界」あるいは「男が滅んでしまった世界」で初めて出会った男性と恋に落ちるというパターン。あるんだね。

 カラーではなくモノクロ映画です。

映画 怪物宇宙船

Ship of Monsters

1960

 メキシコのモノクロ映画。「La nave de los monstruos」。
 コメディ、SF、パニック、お色気映画かな。
 金星では男性が絶滅し、女性の星となっていた。そのため他の星々から男性を連れてくるように女王に命じられ、ガンマとベータのふたりの若い女性が宇宙船で出発する。ベータはガンマとともに育ったのだが金星人ではないらしい。ミッションをこなし、途中で知的生命が滅んだ星に残っていたロボットを救出、ロボットの助けもあり、故障してしまった宇宙船で地球に不時着。宇宙船の中には、ふたりの金星人の女性、ロボットに加え、「怪物」のような火星人などの4人の男性体が捕らえられ、凍らせられていた。
 一方の地球。牧場主で「ほら吹き男爵」的なラウリアーノが登場。ラウリアーノとガンマは恋仲になり、ベータはラウリアーノに片恋する。金星人のガンマとベータは「愛」を知らず、実は自らの感情も理解できていない。ベータの片恋はもちろん果たせず、怒りのあまり人間態から変身して吸血鬼態になり、4人の異星怪物男性を解放して地球侵略に乗り出す。

 女性だけの国から来た若いヒロインがはじめて出会った男性と恋に落ちる、というのは永遠の安直なSF映画パターンなのかな。実はこの映画の後、偶然にも「月のキャットウーマン」(1953)「ワンダーウーマン」(2017)と「女だけの国から」映画を見てしまった。
 もちろん、1950年代、60年代、20世紀の間の女性の描き方と21世紀の女性の描き方はずいぶんと異なってきている。でも、パターンは一緒だ。ついでに言うと、女性の衣装はかなり露出が高い。もちろん、男性ヒーローものでは上半身裸でムキムキというのが定番だから露出が高くていけないことはないのだが、男性向け娯楽映画だなあと思う次第。もっとも、21世紀の「ワンダーウーマン」は必ずしも男性向けとは言えないが。

 おばか映画です。

未踏の蒼穹

ECHOES OF AN ALIEN SKY

ジェイムズ・P・ホーガン
2007

 私はこの読書感想とも評論とも日誌ともつかない文章作成をはじめるにあたって決めたことがひとつだけある。どんな著作も執筆者がいて、編集者がいて、それを商業販売にまでこぎつけさせた経営者やさまざまな人がいる。とくに訳書となると、著作を見いだし、訳したいと願い、一連の出版にかかわるあれこれを二重以上に繰り広げなければならない。だから決してマイナス評価だけにはせず、原則としてプラス評価で書こう、と。
 どうしてもマイナス評価しかできないのならば、書かなければいいだけだから、と。

 ホーガンは好きな作家だった。高校生の頃、「創世記機械」や「星を継ぐもの」が邦訳され、科学の力を信じるまっすぐな作品を繰り返し読んだものである。
 しかし徐々にその熱は薄れ、「量子宇宙干渉機」(1997)を最後に読まなくなっていた。 
 話は変わるが、先日、数年ぶりに渋谷の駅に降りた。パンデミックの規制が3年ぶりに解除され、その間にも再開発が進む渋谷はすっかり様変わりしていて、夕闇の頃の町は若い人たちと大音量の宣伝文句に溢れていた。人と待ち合わせしていたので、時間つぶしに歩き回ろうとしたがその喧噪に耐えかねて、繁華街の入口に残る書店に入り、息をすることにした。小さな書店に置いてある文庫本は限られている。まして、ハヤカワや創元のSFなどは人気のある十数冊が置かれていたが、それさえ奇跡に感じる。その並んでいる作品の中で所持していなくて読めそうな本が本書「未踏の蒼穹」である。2010年に亡くなったホーガンの最晩年の作品である。
 釣り書きには「『星を継ぐもの』の興奮再び! ハードSFの巨匠が放つ傑作」とある。そんなことはないと分かっていたが、何も買わずに店を出るのも申し訳なく、本書を手に取って読むことにした。そういういきさつがある。

 どうしてホーガンを避けるようになったのだろうか。
 読んでみて、そして、解説で「違和感」の正体をあらためて知って、少しだけ悲しくなった。ホーガンはあるひとつの疑似科学の虜になっていたのである。そして、その疑似科学の説を自明のものとして作品を構築していたのだ。
 考えてみて欲しい、SFには様々な種類がある。その中には現在の科学や技術では解明または達成されていないものをその世界に外挿することがある。その外挿した内容により人間や社会がどう変わり、人がどう動くのか、物語が生まれる。それこそSFの醍醐味と言える。読者はその知識レベルに応じて外挿された理論や思想、技術と現実世界の違いを認識し、作品を楽しむ。作品に刺激を受けて新たな理論や仮説、あるいは技術が現実になることもあるが、あくまでも作品はフィクションである。
 SFの中には、ファンタジーと融合したものもある。神様が出てきたり、宗教的世界観に基づいて書かれたものだ。しかしそれも、真実・事実ではなく、モチーフであり、作品のフィクション性は書き手、読み手とも十分に理解している。
 気をつけなければならないのは、世の中にはフィクションあるいは仮説をあたかも事実・真実かのように論を構築し、一定の支持を集める者が後を絶たない。人間は目の前のできごとに惑わされる生きものなのだ。
 だからSFの書き手・読み手はそのような疑似科学からは距離を置きたがる。
 もちろん、疑似科学を基にして組み立てられたSF小説もまた、作品であり、フィクションとして読む限りにおいては問題ないであろう。しかし、疑似科学は現実の人間社会をたぶらかし、混乱させる。非常に悪質なものなのである。
 ホーガンは、その疑似科学に心を寄せ、晩年にはそれを踏まえて数作の作品を残している。本書「未踏の蒼穹」もまたそのひとつにある。
 正直言って気持ち悪い。

 さて、簡単にストーリーを。遠き未来の金星では人類の末裔である金星人が独自の科学を発展させていた。そして、太陽系探査の過程で地球(テラ)に到達し、そこに金星人とそっくりのテラ人がかつて存在し、相互に殺し合ったあげく絶滅していたことを知る。古い遺跡を発掘しながらテラ人の思考、文化、社会、科学技術を調べる金星人たち。同時に、地球が金星よりも住みやすい惑星であることも実感し、基地の拡大も進んでいた。
 その調査チームの中での人間関係と、金星の中で地球の思想に触れる中で拡大してきた「進歩派」と呼ばれる人々の動きをめぐり小さな事件と大きな事件が起きる。そして…。

 ということで、滅ぶ前の我々読者は早いうちに金星人=地球人の末裔であることを前提にするのである。その点では、数万年前の人間を月で発見したその謎を探る「星を継ぐもの」とパターンは似ているが、あちらはSFミステリぐらいの謎解きだったが、こちらはSFミステリとまでは言えない。そういう点でも、釣り書きほどわくわくする物語でもない。

 しかも、疑似科学臭。
 同じサイエンス・フィクションでも、これはいただけない。
 まず最初に巻末の大野万紀氏の解説を読んでから読むかどうか決めていただき、読む際にはあくまでもフィクションであることを忘れずにいたい。

天の十二分の五

FIVE-TWELFTHS OF HEAVEN

メリッサ・スコット
1985

 ファンタジー系スペース・オペラとでも言おうか。釣り書きには「錬金術的スペース・オペラ」と書いてある。主人公の名を取って「サイレンス・リー」三部作とされる第1作目である。
 はるか未来、遠い宇宙。ヘゲモニー(覇国)が多くの星系の人類世界を武力平定していく時代の物語。リー一族経営の貿易船メインパイロットであるサイレンスは窮地に立たされていた。経営者たる祖父ボデュア・リーがヘゲモニーの惑星セカシアで急死。女性の公人としての権利がほとんど認められないヘゲモニーでは、サイレンスがパイロットとして生きていく道はない。リー一族の宝ともいえる宇宙船黒イルカ号も取り上げられたが、星界の航行に欠かせない星図だけは守り抜いた。そして、宇宙船のパイロットを探していた宇宙船サン・トレッダーのオーナー船長デニス・バルサザーの助けを得て、同船のパイロットの口を見つけ、セカシアを脱出する。ほとんどすべてをなくし、己の才覚だけをたよりとするサイレンスの希有な旅がいま始まる。
 サイレンスは願う、いつか黒イルカ号を取りもどすことを。しかし、ヘゲモニーの各星系侵攻に対するゲリラ的な戦いに巻き込まれる中で、サイレンスの運命は二転三転するのであった。

 大筋をみれば、若い女性パイロットが幾多の危機を乗り越えながら成長する物語である。さらに、ヘゲモニーが人類宇宙を飲み込もうとしている中での陰謀と抵抗といういわゆる「帝国もの」のスペース・オペラである。
 しかし、「サイレンス・リー」の本筋はそこではない。これはれっきとしたファンタジーであり、「魔法」世界の物語なのだ。宇宙には「階層」があって天上物質ハルモニウムを用い、「その音と天上音楽の親和性のおかげで、航行が安定する」のである。パイロットは星図から星々の声と天の声を読み取り、天のの煉獄を抜け、階層を上がり、航路を辿って別の星系へと船を誘う仕事をするのである。
 そのような特殊能力はパイロットに限ったことではない。パイロットは星と星を抜けるための専門職のようなもので、人類世界にはより高度な天の声を聴き、技を扱う魔術師(マギ)が存在する。離れた空間を結びつけてメッセージは人を移動させる力さえ持つ超能力者と言える。より深く天界の声を聴く者と呼んでもよかろう。
 そう、ファンタジーなのだ。
 あとがきの中村融氏解説によると、本書は「十七世紀の新プラトン主義に基づくヘルメス学的知」という「異なる世界観」を前提に書かれているそうである。
 そういえば1980年代なかば、日本でもオカルティズムがはやり、このあたりの神秘主義的な著作が数多く出版されていた。「工作舎」などからいろんな本が出ていたものである。何冊か楽しく読んだが、面倒くさがり屋だったのでそういう「体系」を自分の教養の中に取り込むまでにはいたらなかった。
 背景的世界観がある程度理解できているともっと楽しめるのだろうけれど、そういう歴史ある背景がなくても、SFは「ワープ」とか「エスパー」とか手軽な技を開発してきたのであり、そういうものだと頭の中で読み替えれば著者の意図とは異なるだろうが読むのには差し支えない。世界観が異なれば、表現は変わる。別の世界観にどっぷりとはまるのはいかがなものかと思うが、別の世界観を楽しむのにはよい作品である。続巻も翻訳されているので近々読んでみよう。

アストロ・パイロット


ASTOROPILOTS
ローラ・J・ミクスン
1987

 1989年にハヤカワSF文庫から野田昌宏(宇宙軍大元帥)の翻訳にて出版されたヤングアダルロ系のスペース・オペラである。著者のローラ・J・ミクスンについては本書ではほとんど情報がなく、調べてみると、本書「アストロ・パイロット」が第一長編で30歳の頃の作品である。その後も、SF、ファンダムなどでも活躍しているし、本職は別にあるようである。またSF作家のスティーヴン・グールドと結婚し、共作もあるとのこと。
 どういういきさつで本書が翻訳されるに至ったかは不明だが、野田昌宏は1960年代から80年代にかけての「スペオペ」翻訳の大家であり、多くの作品に名を連ねている。独特の訳語で野田節と呼んでもよいくらいの癖もある。本作の場合、スペオペ密度とヤングアダルト密度のどちらが濃いかと言われれば「ヤングアダルト」が濃いので、今読むとちょっと訳語とストーリーが合わないかなと思わないでもない。でも、おそらく野田昌宏しか本作を訳そうという人はいないだろう。若い作家のデビュー作で、さほど評価も付いていない作品だからだ。だから、これは難しい問題だ。野田昌宏には、「キャプテン・フューチャー」「ジェイムスン教授」「銀河辺境」など中高時代に大変お世話になったのだ。

 さて、時は2110年。人類は太陽系の火星、木星、土星、小惑星帯に居住空間を広げ、さらには系外のエリダニⅡ星系などでの植民にまで行なうようになっていた。
 しかし、地球の政府、企業による太陽系の植民地への支配、圧力は激しく、火星植民地との長い戦争も記憶に新しいところであった。現在、火星を中心にした連邦と地球との間には戦争になりかねない緊張が高まっていた。そんな時代。
 舞台は小惑星帯にある唯一の宇宙技術学校・宇宙技術学寮。そこは、地球、連邦、系外のどこからでも学生を受け入れるが、入れるのは極めて高い知能と運動能力を持つ限られた少年少女である。
 アンドレア伊藤は最高学年で最優秀のパイロット候補生として、学寮への入学希望者を選別するテストを任されていた。今回の選別テストには、エリダニⅡ星系から来た16歳のジェイスンという少年が含まれている。大抵は11歳から15歳なのにアンドレアよりも年上なのだ。しかも、ジェイスンはテストを難なくこなした。ジェイスンの能力や態度にとまどうアンドレア。
 もちろん、ジェイスンには秘密がある。大きな秘密は、彼は現学寮長のトラメルデンと深い因縁があったのである。もうひとつの秘密は、彼が連れているエリダニⅡ星系の生物ススレイである。ジェイスンはススレイを絶滅危惧の生物であり、ペットとして連れているというが、ススレイは高度な知性と特殊な能力を持っていたのだった。
 ジェイスンの秘密が気になるアンドレア。いや、むしろジェイスンが気になるアンドレア。
 トラメルデンの野望を止め、復讐を果たすためトラメルデン学寮長の動向が気になるジェイスン。いやむしろアンドレアの方が気になるのか?ジェイスン。
 そんなことを言っていられないぐらい、地球と連邦の開戦の危機は迫る。
 学寮にも不穏な気配が漂う。アンドレアは両親から学寮からの脱出と系外惑星へ両親とともに移住することを進められるが、そうなると彼女の望みである高級パイロットの道は絶たれてしまう。どうするアンドレア、どうなるジェイスン。
 学内でのトラブル、開戦危機の中で広げられる学長の壮大な陰謀、太陽系外から来た青年の秘密、努力型天才少女の悩みと活躍。
 ね、ヤングアダルトでスペオペでしょ。王道です。

 ちょっと2022年公開の「機動戦士ガンダム 水星の魔女」(この時点で前半のみ放映)を思い出してしまった。こちらの学校は思いっきり企業の思惑のドロドロの中にあるのだけれど、紛争の危機とか、その中の学生生活とか、方向は違うけれどヤングアダルトでスペース・オペラだね。悪くない。