孤独なる静寂


SILENCE IN SOLITUDE

メリッサ・スコット
1986

「天の十二分の五」に続く、サイレンス・リー三部作の第二作である。邦題は「孤独なる静寂」だが読み方によっては「サイレンスの孤独」とも読める。そう、第二作は主人公サイレンス・リーがたっぷりと孤独感を味わうことになる。とはいえ、「静寂」とはほど遠い波乱にとんだドラマが展開される。
 主人公のサイレンス・リーは人類居住宇宙の覇権を占めるヘゲモニー(覇国)の中では希有な女性の宇宙船パイロットである。この宇宙は天界物質を音によって操作することで宇宙間を航行し、物質を変容させ、いわゆる魔術を使うことができる。パイロットは、星系から星系に渡るための技能を訓練されている。エンジニアはそのためのハーモニーを正確に出すための調律をする。一方、魔術師もいて、宇宙船は飛ばせないが様々な技を振るうことができる。
 前作でサイレンスは海賊結社「神の怒り」の輸送船船長であるデニス・バルサザー、同じ船のエンジニアであるジュリアン・チェイズ・マーゴと出会い、パイロットとして仲間に加わり、事件に巻き込まれるなかでふたりと3人婚姻を行い、家族同然になっていった。

 本作の舞台は3つの惑星。まず、魔術師の世界ソリチュード・ヘルマエ。前作で出会った老魔術師イザンバードがサイレンスの魔術師としての可能性に気がつき、サイレンスはソリチュード・ヘルマエで魔術師の見習いとなる。女性の魔術師は例がないがイザンバードは強く彼女の訓練を推したのだ。
 サイレンスにとっても、イザンバードにとっても、それぞれの動機は異なるが人類の発祥の地であり、秘密となっている地球への航路を見つけ、地球にたどりつくことを願っていたのだ。イザンバードはそのためにサイレンスを魔術師にする必要を感じていた。
 サイレンスのふたりの夫は金と情報のためにサイレンスと離れ新しく得た輸送船で仕事をしていた。サイレンスは孤独を感じながらも魔術師の技を着実に身につけていった。
 故あってソリチュード・ヘルマエを離れた4人は地球への手がかりを求めてイザンバードの旧知であるイナメリの総督アベデン・キッペを訪ねる。そこで地球への手がかりとなる情報提供の代わりに、覇王に政治的人質としてとられている総督の娘アイリを救出するよう求められる。
 ヘゲモニーの中心となる星系のひとつ惑星アステリオンには広大な女宮があった。アイリは覇王の妹が支配する女宮に暮らしており、そこにイナメリの提督の娘と偽装し、アイリの話し相手役として入ることとなった。外部からの侵入がほぼ不可能で限られた女性だけが入ることのできる女宮にあって、女性で魔術師の技を持つサイレンスの存在はイナメリの総督にとっては人質の娘を救い出す千載一遇の好機だったのである。
 サイレンスは貴族としての様々なマナーや知識、提督の娘として知っておくべき情報をイナメリにおいてたたき込まれ、ただひとり困難な任務に向かうのだった。

 ということで、サイレンスが成長するために知識と技能を詰め込まれ、詰め込まれてはそれを最大限発揮して様々な危機に対応するサイレンス孤軍奮闘の第2部である。
 前作で仲間を得て、ちょっと居場所を見つけたサイレンスにとってひとりで頑張らなければいけない日々が続く。その間にほんのわずかであってもバルサザーやチェイズ・マーゴとの交流があり、それこそがサイレンスの心の支えとなる。最愛の祖父を亡くし、親類も信じられずひとりで強く生きようとしてきたサイレンスにとって新たな家族を得たことが彼女の強さを引き出すことになるのである。
 魔法世界のスペース・オペラ。そういうものが成立するのは著者メリッサ・スコットの力量なのだろう。完結編となる第三部が楽しみである。

映画 月のキャットウーマン

Cat-Women of the Moon
1953

 1953年にはロケットはあったけれど人類は宇宙をまだ知らない。初の人工衛星は1957年のスプートニク1号(ソ連)、人間が宇宙飛行をしたのは1961年のボストーク1号、ソ連のユーリ・ガガーリンである。
 だから1953年の月旅行は想像の世界である。技術的にも科学的にも。

 人類発の月探査ロケットは5人のメンバーが乗り込んでいた。そのうちひとりが女性のヘレン。彼女は月着陸エリアを月の裏側にすべきだと判断。裏側はもちろん誰も見たことのない世界である。ヘレンは洞窟を発見したとメンバーに告げ、5人は洞窟を探検する。なんとそこは酸素があり、文明の痕跡があった。宇宙服をはずして調査する5人の前に、美しい女性たちが黒タイツ姿で現れる。女性たちは月世界の文明の生き残りであり、すでに男性は絶滅していたという。地球人をもてなしながらも、宇宙船の秘密を得ようとする。そう、宇宙船を乗っ取って地球を侵略しようと考えていたのだ。

 なぜ「キャットウーマン」かって?「キャットウーマン」は1940年、バットマンで登場した黒ずくめの悪役だ。この映画はバットマンとはまったく関係がないけれど、「キャットウーマン」は「キャットウーマン」なのだ。おお、権利関係の薄いすばらしい時代よ。
 ということで、ハリウッドのキャットウーマンたちが闘ったり、踊ったりします。

 宇宙船、月の描き方については、だから、笑って見て。

 映画「怪物宇宙船」のところでも書いたけれど、「女だけの世界」あるいは「男が滅んでしまった世界」で初めて出会った男性と恋に落ちるというパターン。あるんだね。

 カラーではなくモノクロ映画です。

映画 怪物宇宙船

Ship of Monsters

1960

 メキシコのモノクロ映画。「La nave de los monstruos」。
 コメディ、SF、パニック、お色気映画かな。
 金星では男性が絶滅し、女性の星となっていた。そのため他の星々から男性を連れてくるように女王に命じられ、ガンマとベータのふたりの若い女性が宇宙船で出発する。ベータはガンマとともに育ったのだが金星人ではないらしい。ミッションをこなし、途中で知的生命が滅んだ星に残っていたロボットを救出、ロボットの助けもあり、故障してしまった宇宙船で地球に不時着。宇宙船の中には、ふたりの金星人の女性、ロボットに加え、「怪物」のような火星人などの4人の男性体が捕らえられ、凍らせられていた。
 一方の地球。牧場主で「ほら吹き男爵」的なラウリアーノが登場。ラウリアーノとガンマは恋仲になり、ベータはラウリアーノに片恋する。金星人のガンマとベータは「愛」を知らず、実は自らの感情も理解できていない。ベータの片恋はもちろん果たせず、怒りのあまり人間態から変身して吸血鬼態になり、4人の異星怪物男性を解放して地球侵略に乗り出す。

 女性だけの国から来た若いヒロインがはじめて出会った男性と恋に落ちる、というのは永遠の安直なSF映画パターンなのかな。実はこの映画の後、偶然にも「月のキャットウーマン」(1953)「ワンダーウーマン」(2017)と「女だけの国から」映画を見てしまった。
 もちろん、1950年代、60年代、20世紀の間の女性の描き方と21世紀の女性の描き方はずいぶんと異なってきている。でも、パターンは一緒だ。ついでに言うと、女性の衣装はかなり露出が高い。もちろん、男性ヒーローものでは上半身裸でムキムキというのが定番だから露出が高くていけないことはないのだが、男性向け娯楽映画だなあと思う次第。もっとも、21世紀の「ワンダーウーマン」は必ずしも男性向けとは言えないが。

 おばか映画です。

未踏の蒼穹

ECHOES OF AN ALIEN SKY

ジェイムズ・P・ホーガン
2007

 私はこの読書感想とも評論とも日誌ともつかない文章作成をはじめるにあたって決めたことがひとつだけある。どんな著作も執筆者がいて、編集者がいて、それを商業販売にまでこぎつけさせた経営者やさまざまな人がいる。とくに訳書となると、著作を見いだし、訳したいと願い、一連の出版にかかわるあれこれを二重以上に繰り広げなければならない。だから決してマイナス評価だけにはせず、原則としてプラス評価で書こう、と。
 どうしてもマイナス評価しかできないのならば、書かなければいいだけだから、と。

 ホーガンは好きな作家だった。高校生の頃、「創世記機械」や「星を継ぐもの」が邦訳され、科学の力を信じるまっすぐな作品を繰り返し読んだものである。
 しかし徐々にその熱は薄れ、「量子宇宙干渉機」(1997)を最後に読まなくなっていた。 
 話は変わるが、先日、数年ぶりに渋谷の駅に降りた。パンデミックの規制が3年ぶりに解除され、その間にも再開発が進む渋谷はすっかり様変わりしていて、夕闇の頃の町は若い人たちと大音量の宣伝文句に溢れていた。人と待ち合わせしていたので、時間つぶしに歩き回ろうとしたがその喧噪に耐えかねて、繁華街の入口に残る書店に入り、息をすることにした。小さな書店に置いてある文庫本は限られている。まして、ハヤカワや創元のSFなどは人気のある十数冊が置かれていたが、それさえ奇跡に感じる。その並んでいる作品の中で所持していなくて読めそうな本が本書「未踏の蒼穹」である。2010年に亡くなったホーガンの最晩年の作品である。
 釣り書きには「『星を継ぐもの』の興奮再び! ハードSFの巨匠が放つ傑作」とある。そんなことはないと分かっていたが、何も買わずに店を出るのも申し訳なく、本書を手に取って読むことにした。そういういきさつがある。

 どうしてホーガンを避けるようになったのだろうか。
 読んでみて、そして、解説で「違和感」の正体をあらためて知って、少しだけ悲しくなった。ホーガンはあるひとつの疑似科学の虜になっていたのである。そして、その疑似科学の説を自明のものとして作品を構築していたのだ。
 考えてみて欲しい、SFには様々な種類がある。その中には現在の科学や技術では解明または達成されていないものをその世界に外挿することがある。その外挿した内容により人間や社会がどう変わり、人がどう動くのか、物語が生まれる。それこそSFの醍醐味と言える。読者はその知識レベルに応じて外挿された理論や思想、技術と現実世界の違いを認識し、作品を楽しむ。作品に刺激を受けて新たな理論や仮説、あるいは技術が現実になることもあるが、あくまでも作品はフィクションである。
 SFの中には、ファンタジーと融合したものもある。神様が出てきたり、宗教的世界観に基づいて書かれたものだ。しかしそれも、真実・事実ではなく、モチーフであり、作品のフィクション性は書き手、読み手とも十分に理解している。
 気をつけなければならないのは、世の中にはフィクションあるいは仮説をあたかも事実・真実かのように論を構築し、一定の支持を集める者が後を絶たない。人間は目の前のできごとに惑わされる生きものなのだ。
 だからSFの書き手・読み手はそのような疑似科学からは距離を置きたがる。
 もちろん、疑似科学を基にして組み立てられたSF小説もまた、作品であり、フィクションとして読む限りにおいては問題ないであろう。しかし、疑似科学は現実の人間社会をたぶらかし、混乱させる。非常に悪質なものなのである。
 ホーガンは、その疑似科学に心を寄せ、晩年にはそれを踏まえて数作の作品を残している。本書「未踏の蒼穹」もまたそのひとつにある。
 正直言って気持ち悪い。

 さて、簡単にストーリーを。遠き未来の金星では人類の末裔である金星人が独自の科学を発展させていた。そして、太陽系探査の過程で地球(テラ)に到達し、そこに金星人とそっくりのテラ人がかつて存在し、相互に殺し合ったあげく絶滅していたことを知る。古い遺跡を発掘しながらテラ人の思考、文化、社会、科学技術を調べる金星人たち。同時に、地球が金星よりも住みやすい惑星であることも実感し、基地の拡大も進んでいた。
 その調査チームの中での人間関係と、金星の中で地球の思想に触れる中で拡大してきた「進歩派」と呼ばれる人々の動きをめぐり小さな事件と大きな事件が起きる。そして…。

 ということで、滅ぶ前の我々読者は早いうちに金星人=地球人の末裔であることを前提にするのである。その点では、数万年前の人間を月で発見したその謎を探る「星を継ぐもの」とパターンは似ているが、あちらはSFミステリぐらいの謎解きだったが、こちらはSFミステリとまでは言えない。そういう点でも、釣り書きほどわくわくする物語でもない。

 しかも、疑似科学臭。
 同じサイエンス・フィクションでも、これはいただけない。
 まず最初に巻末の大野万紀氏の解説を読んでから読むかどうか決めていただき、読む際にはあくまでもフィクションであることを忘れずにいたい。

天の十二分の五

FIVE-TWELFTHS OF HEAVEN

メリッサ・スコット
1985

 ファンタジー系スペース・オペラとでも言おうか。釣り書きには「錬金術的スペース・オペラ」と書いてある。主人公の名を取って「サイレンス・リー」三部作とされる第1作目である。
 はるか未来、遠い宇宙。ヘゲモニー(覇国)が多くの星系の人類世界を武力平定していく時代の物語。リー一族経営の貿易船メインパイロットであるサイレンスは窮地に立たされていた。経営者たる祖父ボデュア・リーがヘゲモニーの惑星セカシアで急死。女性の公人としての権利がほとんど認められないヘゲモニーでは、サイレンスがパイロットとして生きていく道はない。リー一族の宝ともいえる宇宙船黒イルカ号も取り上げられたが、星界の航行に欠かせない星図だけは守り抜いた。そして、宇宙船のパイロットを探していた宇宙船サン・トレッダーのオーナー船長デニス・バルサザーの助けを得て、同船のパイロットの口を見つけ、セカシアを脱出する。ほとんどすべてをなくし、己の才覚だけをたよりとするサイレンスの希有な旅がいま始まる。
 サイレンスは願う、いつか黒イルカ号を取りもどすことを。しかし、ヘゲモニーの各星系侵攻に対するゲリラ的な戦いに巻き込まれる中で、サイレンスの運命は二転三転するのであった。

 大筋をみれば、若い女性パイロットが幾多の危機を乗り越えながら成長する物語である。さらに、ヘゲモニーが人類宇宙を飲み込もうとしている中での陰謀と抵抗といういわゆる「帝国もの」のスペース・オペラである。
 しかし、「サイレンス・リー」の本筋はそこではない。これはれっきとしたファンタジーであり、「魔法」世界の物語なのだ。宇宙には「階層」があって天上物質ハルモニウムを用い、「その音と天上音楽の親和性のおかげで、航行が安定する」のである。パイロットは星図から星々の声と天の声を読み取り、天のの煉獄を抜け、階層を上がり、航路を辿って別の星系へと船を誘う仕事をするのである。
 そのような特殊能力はパイロットに限ったことではない。パイロットは星と星を抜けるための専門職のようなもので、人類世界にはより高度な天の声を聴き、技を扱う魔術師(マギ)が存在する。離れた空間を結びつけてメッセージは人を移動させる力さえ持つ超能力者と言える。より深く天界の声を聴く者と呼んでもよかろう。
 そう、ファンタジーなのだ。
 あとがきの中村融氏解説によると、本書は「十七世紀の新プラトン主義に基づくヘルメス学的知」という「異なる世界観」を前提に書かれているそうである。
 そういえば1980年代なかば、日本でもオカルティズムがはやり、このあたりの神秘主義的な著作が数多く出版されていた。「工作舎」などからいろんな本が出ていたものである。何冊か楽しく読んだが、面倒くさがり屋だったのでそういう「体系」を自分の教養の中に取り込むまでにはいたらなかった。
 背景的世界観がある程度理解できているともっと楽しめるのだろうけれど、そういう歴史ある背景がなくても、SFは「ワープ」とか「エスパー」とか手軽な技を開発してきたのであり、そういうものだと頭の中で読み替えれば著者の意図とは異なるだろうが読むのには差し支えない。世界観が異なれば、表現は変わる。別の世界観にどっぷりとはまるのはいかがなものかと思うが、別の世界観を楽しむのにはよい作品である。続巻も翻訳されているので近々読んでみよう。