巨星


THE ISLAND AND OTHER STORIES

ピーター・ワッツ
2004

「ブラインドサイト」「エコープラクシア」のピーター・ワッツ短編集である。長編2冊は読んだのだが、もう一度読まないとなんとも書けないなあと感想には書いている。おもしろいのだが、「知性」「自由意志」といったものが全体の根底に流れているテーマなのでていねいに読まないと意図がつかめなかったりする。どうにもワッツはこのテーマに「神」というか「宗教」も挟んでくるのでこのあたりが難しいのだ。
 しかし本書は短編集である。短編集の良いところはエッセンスがつまって、たいていがワンテーマだということだ。つまり作者の意図がはっきりしているし、はっきりさせたくないことであればそうとわかる。本書には11作品が収録されているが、そのうち最後の3作品はひとつの連なりになっているので連作中編といってもいいかもしれない。そして、「ブラインドサイト」や「エコープラクシア」にも連なるテーマを扱ってもいる。

「天使」AI兵器が作戦命令の上位司令からの個別手順変更をくり返されるうちに、自らの使命や機能について進化を遂げていくお話し。ちょっとブラック入っています。

「遊星からの物体Xの回想」名作映画「遊星からの物体X」です。ジョン・カーペンター監督版です。映画は人間サイドから描かれていますが、当然「物体X」にも動機と目的があるわけで、そちら側から書かれた作品。映画を見直す前にもう一度これを読んでから見たい。すごくすごく映画がおもしろくなりそう。(悪い見方です)。これを読むためだけでも本書の価値あり!

「神の目」これもブラック入っています。「内心の自由」とか考えさせるお話し。ある犯罪性向があって、それを簡単に判別できて、手術もなしに簡単に取り除けるとしたら、そういう社会を望みますか? 怖い怖い。

「乱雲」生命はどこから生まれるのか? どうやって生まれるのか? もし、地球の雲が生命となりその生存と繁殖のための活動をはじめたら地上はどうなるだろうか? 荒唐無稽な話だけど、やっぱりブラック入ってます。

「肉の言葉」AI技術を使って私そっくりに言語表現を反応する仮想人格をつくれるとしたら作りますか?主人公のウェスコットは「死」を研究する科学者。死んだ恋人キャロルの仮想人格と対話している。彼には現実に同棲している恋人のリンがいて、いまペットの猫が死んだ…。それがきっかけとなってリンはウェスコットの元を去るが…。ウエットウェアとソフトウェアの境界はどこにあるのかな。

「帰郷」深海での作業目的のために作り替えられた身体と精神。自ら理由も分からずにある場所へと導かれていく。そして、作り替えられる前の認識を少しずつ蘇らせるが…。ここでも「知性」とか「自由意志」がワッツのテーマであることをうかがわせる。ちょっと怖いお話し。

「炎のブランド」バイオハザードを起こした企業が、それを隠蔽していたがやがて発覚する。そのバイオハザードは組み換え遺伝子の水平伝播による人体発火現象。ブラックユーモアですが、現実にも公害と隠蔽の組み合わせはこれまでも起きていること。だから怖いのだけれど。

「付随的被害」「天使」はAI兵器の進化の話だったけれど、こちらは人間の兵士の反応を高めるため意識に上がる前に反射的に意識に上がり行動するであろう行なうインターセプトシステムを実験的に導入された兵士(ややこしい)の話。作戦行動中に民間人を殺してしまった。システムエラー?それとも、確かめずに殺す意志があったのか?ここでは「自由意志」と「道徳(倫理)」が語られる。そして、ブラック。こういう解決は好きではないが、作品としてよくできている。

 訳者(解説者)によると、以下はSunflowers cycleシリーズの作品群で、時系列としては未訳の長編がホットショットと巨星・島の間に入るらしい。執筆順は全然違うのだが、この短編集では時系列で並べてある。親切。最初の「ホットショット」が少しわかりにくいため、冒頭に訳者による解説がつけられている。それにならって概要を説明すると、ワームホールネットワークを銀河系に構築するため小惑星を改造して時空特異点をつかった光速に近い航行を行なう人類のディアスポラ計画。通常はAIチンプが運行管理を行なうが必要に応じて人間の乗員が目ざめさせられる。5万年を超える片道旅行である。その恒星船のひとつエリオフィラの物語。

「ホットショット」太陽系の太陽は死にかけている。もちろんすぐではない。しかし、人類は地球を離れる必要があった。国連ディアスポラ公社によって祖父母の代から慎重に計画され育てられてきた恒星船の乗員。これから5万年以上の旅に出る、早熟の子どもたち。サンディもそのひとり。すでに自由意志など認められず、しかし、「自分で選択すること」を大人たちに求められる矛盾。サンディは選択の前に危険な観光体験である太陽ダイブを望む。太陽ダイブに使われるのは、サンディが乗り込む小惑星改造宇宙船エリオフォラの推進システムのプロトタイプ。ワームホールを利用した投石機だ。それで太陽から水星まで一気に帰ってくる。サンディはそこで未来をみつける。

「巨星」旅立ちから数百万年が過ぎていた。恒星船エリオフィラの内部でハキムと「ぼく」が目ざめさせられた。すでに赤い恒星スルトと巨大な氷惑星トゥーレと無数のデブリの星系内にいたが、エリオフィラが目的とするワームホールゲート構築がAIチンプによりおこなわわれているふしはない。そして、エリオフィラはスルトに衝突するコースをとっている。「ぼく」はかつてこの船で起きた「反乱」には加担せず、AIチンプとのリンクを唯一保っていた。ハキムはリンクを焼き切っている。だからぼくだけが知っていることも多い。そしてこの星系でのトラブルに気がついたAIチンプが「ぼく」を起こし、必要からハキムを起こしたのだ。エリオフィラとミッションを守るために。
未訳の長編の後日談。そして、ここでも「自由意志」と「認識」の問題が。

「島」サンディが起こされた。数千年ぶりのこと。そこには肉体年齢で20歳ぐらいのディクスがいて、自らを「息子」と名乗っていた。そして、AIチンプとリンクしている。目ざめさせられた星系では恒星の方から信号が届いていた。それは知性を感じさせるものであり、そのためにサンディが起こされたのだ。恒星をとりまくダイソン球的生命。それはワームホールゲート構築船エリオフィラに止まれと叫んでいた。ゲート構築を中断、移動し、ダイソン球的生命体を守ろうとするサンディ。ただかたくなに数億年前の地球で指示されたプログラムを果たそうとそれを拒むAIチンプと、AIチンプとリンクし、チンプに従うばかりのディクス。
 AIチンプと乗員たちの果てのない抗争はいまだ続いていた。
 永遠の時間の中で垣間見た彼らが構築したネットワークを通過する人類の末裔あるいは他の知的生命体。しかし、エリオフィラと接するものはなく、孤独のままに宇宙の熱死までこのミッションを続けるのだろうか。
 サンディは自らの運命を呪い、そして運命に生きる。

 ピーター・ワッツは「自由意志」や「意識」「認識」というところにこだわる。ほとんどそのために作品を書いているとしか思えない。そこのところがちょっとわかりにくくなるので、メインのストーリーが複雑に見えてしまう。メインのストーリー展開と、そこで繰り広げられる「自由意志」の問題を頭の中で整理して切り分けながら読むと、とても面白いことに気がつく。短編だからこそ、わかること。長編だと頭がぐちゃぐちゃしてくる。心して長編も読み直したい。

(2022.4.18)

映画 ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密

デイビッド・イェーツ監督 2022

 映画「ファンタスティック・ビースト」シリーズ3作品目であり、ハリー・ポッターシリーズの前日譚らしくなってくるのがこの3作品目である。だってホグワーツ魔法魔術学校の校長先生ダンブルドアの秘密ですから。

 1作目「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」(2016)は1926年、魔法動物学者のニュート・スキャマンダーがニューヨークに船で到着し、騒動を起こす物語。ジョニー・デップが演ずるゲラード・グリンデルバルドが最後に登場し、ハリー・ポッターシリーズとのつながりを強く意識させる物語であった。グリンデルバルドは長期にわたって収監されていた監獄でヴォルデモートに殺されるのだ。ちなみにニュートは教科書「幻の動物とその生息地」の著者である。


 2作目「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」(2018)の舞台は1927年のパリ。主人公のニュートは兄のテセウスや同級生で学生時代の恋人かつ今や兄の婚約者のリタ・レストレンジから魔法省に入るよう圧力をかけられていた。前作のニューヨークでの大騒動により旅行禁止命令の下にあったのである。ニュートはホグワーツ魔法魔術学校時代の恩師ダンブルドアから脱走したグリンデルバルドの追跡を要請される。ダンブルドアとグリンデルバルドは血の盟約によりお互いに闘うことはできないが、ダンブルドアはグリンデルバルドの純血主義に懸念を抱いていた。
 そこでニュートはこっそりパリに向かう。同行者は、前作で騒動に巻き込まれたのにも関わらず忘却術から脱した非魔法族のジェイコブ。ある意味他者とコミュニケーションをとれないニュートの唯一の親友。パリでの不穏な空気のもと、ニュートは恋人未満のティナと和解し、ジェイコブは相思相愛のクイニーと離ればなれになり、グリンデルバルドはパリで力を取りもどしていく。なんといっても、不死者ニコラス・フラメルが生きて登場したのがポッターシリーズファンには嬉しいかも。

 そして本作「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」である。時は1930年代前半頃。舞台は主にベルリン。つまり現実の人間世界ではヒトラーが台頭し、政権を樹立する頃であろう。そういう雰囲気の描き方である。国際魔法連盟は次のリーダーを決める選挙の時を迎えていた。グリンデルバルドは徐々に勢力を広げつつあった。血の盟約の支配下にあり直接グリンデルバルドと戦えないダンブルドアは、ニュート、ニュートの助手のバンテイ、ニュートの兄で先の大戦の英雄テセウス、マグル(非魔法使い)でニュートの親友のジェイコブ、それに、呪文学の先生ユーラリー、前作で登場したエチオピアの魔法名家のユスフの5人でチームを結成し、未来を読めるグリンデルバルドに、「計画のない計画」で対抗する。果たしてグリンデルバルドを止められるのか。
 という物語。
 アルバス・ダンブルドアの弟アバーフォースやホグワーツ魔法魔術学校も登場して、いよいよポッターシリーズらしくなってきた。
 しかし、物語としては1、2作以上に恋愛ものと言える。1作目から続いているニュートとティナの物語、ジェイコブとクイニーの物語、それに、若き日のダンブルドアとグリンデルバルドの物語。ほかにもアルバスとアバーフォースのこじれた関係などもあるのだけれど、それらが大人のファンタジーとして物語の中心にある。そして、いままでのところ世界最大の戦争だった第二次世界大戦の予兆。そういう意味ではすかっとはしないのが第3作である。

 しかし、このシリーズの主役はあくまで「魔法動物」たち。ニュートの相棒ニフラーのテディとボウトラックルのピケットがこれまで以上に大活躍。さらには、カニのようなやつが恐怖と笑いを誘い出す。前作ではカッパやウー(ズーウー)が登場したが、本作では「麒麟」である。「麒麟が来る!」が物語の鍵を握っていたりする。ヨーロッパ的な空想動物たちから、アジアに拡がってきて、これからまだまだ妖怪的な存在が登場するのではないだろうか。その映像化に期待。もうストーリーは置いて、ニュートの魔法動物ワールドだけを、BBCの動物映画シリーズのように流しっぱなしにしてくれたらかなり売れるのではないかと思うような感じもする。

 さて、娯楽映画にいちいち難しいことを付け加えなくても純粋に楽しめばいいのだが、本作でようやくはっきりとダンブルドアとグリンデルバルドの恋愛関係が語られた。しかも「特別なこと」ではなく、あたりまえのように書かれている。ファンタジー映画での同性愛はあまり明確に語られてこなかっただけに時代の変化を感じる。はっきり言う、これはとてもいいことだ。中国では上映に際し関係性を明言した6秒ほどのシーンをカットしたという。とても残念なことである。しかし、時代は変わる。人間関係の多様性を柔軟に受容できる世界になるよう、後退しないよう、この映画を言祝ぎたい。

兵士よ問うなかれ

SOLDIER,NOT ASK
ゴードン・R・ディクスン
1967

 1965年のヒューゴー賞中短編部門受賞作を長編化したもので、「ドルセイ」「ドルセイへの道」に続くチャイルド・サイクルシリーズの1冊である。日本では文庫化が1985年である。1965年の長編賞はフリッツ・ライバーの「放浪惑星」、フランク・ハーバードの「デューン砂の惑星」が1966年である。
 チャイルド・サイクルシリーズは、人類が種として成長する過程を、その転換点となる個人に焦点を当てて描こうとした作品群であり、端的に言えば、宇宙時代を迎えて人類はいくつかの特殊な性質をもつ集団に分化していった。戦闘的要素に特化したドルセイ、個人が全体として信仰にゆだねる友邦世界、形而上学にすぐれた異邦世界など、それら政治・社会・文化の分離に対し、旧地球では旧来の人類が存在していた。このシリーズでは、これら別々の道を歩んでいる人類が再統合し、さらなる進化をめざすという道を描こうとしたようである。
 そして、本書「兵士よ問うなかれ」はもっともそのことについてはっきり書かれている作品と言える。
 日本では、先にイラストレイテッドSFとして外伝的な「ドルセイ魂」「ドルセイの決断」が翻訳され、その後、本編である「ドルセイ!」「ドルセイへの道」が翻訳、この「兵士よ問うなかれ」はそれらに続いて翻訳された。訳者あとがきを読む限り、この後も刊行予定が決まっており、おそらくは翻訳に入っていただろうが、残念ながら本書が日本では最後の訳出となってしまった。

 さて、SF世界では、アシモフの「ファウンデーション」やハーバードの「デューン」を例に出すまでもなく作者によるひとつの未来史が描かれることが多い。チャイルド・サイクルシリーズも、ある意味では「未来史」なのだが、作者のディクスンは未来史としては捉えておらず、人類のありよう、哲学的志向性のようなものを書きたかったようである。とはいえ、「ファウンデーション」で「歴史心理学」が出てくるように、本シリーズでも「個体発生学」という形而上学的分析が出てくる。特定の個人が人類の成長上の焦点になることが分析されるのである。

 本書では、それはタム・オリンである。地球人で幼い頃「破滅」の精神を植え付けられ、それに反発するようにすべての管理や支配から逃れるために努力して星間ニュースサービスのニュースマン・ギルドに入ることが認められた若者。しかし、その入社(?)直前に妹と訪れた「最終百科事典」見学コースで、最終百科事典を完成させ運営する可能性を持つ特殊能力の持ち主であることが発覚。タム・オリンは、「最終百科事典」プロジェクトに縛り付けられることを嫌い、世界で最も自由になる可能性の高いニュースマン・ギルドで高い地位を得ることを望む。そのためには幾多のスクープが必要である。そのためにタム・オリンは戦場に取材に向かう。そして、ある出来事を経て、彼はただの取材者から、信仰に裏付けられた「友邦世界」を絶滅させるために自らの能力を発揮するおそるべき復讐者に変わっていくのであった。

 本書のエピソードは、「ドルセイ!」や「ドルセイの決断」「ドルセイ魂」で語られたいくつかのエピソードのサイドストーリーとなり、前作をより深く理解するしかけになっている。その点では、本書が翻訳された中では一番おもしろい。

 同時に、それぞれの作品で語られた主題が本書でもくり返される。
 ドルセイ人では、それは、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。
 だったと理解しているが、宇宙に出て分離したそれぞれの文化でも同じような志向性がみられるのだ。
 言い換えると、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりも人類としての名誉・尊厳・発展を守ること。
 といった感じだろうか。
 アメリカン・ヒーローの原点といったところかも知れない。
 信念に基づく自己犠牲は美しい。
 しかし、それほど美しいものなのだろうか。その行為はやむにやまれぬものであり、二項対立の中で解決できない矛盾を抱えてしまった結果なのではないだろうか。そうして、そうならないように努力することが、なにより大切なのではないか。
 半世紀以上前に書かれた作品を読みながら、「人類、成長しねーなー」と思い、戦争を止めるのに「戦争反対」とささやくしかできない自分を悔しがるのであった。

(2022.4.3)

ドルセイ魂

THE SPIRIT OF DORSEI

ゴードン・R・ディクスン
1979

 ディクスンの「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつで外伝的な作品「ドルセイの道」と並ぶのが本書「ドルセイの魂」である。アマンダ三世がハル・メインに話す過去の物語として2中編「アマンダ・モーガン」と「兄弟たち」が所収されている。
「アマンダ・モーガン」はアマンダ一世が93歳の頃、まだドルセイが傭兵軍人惑星として自立を始めたばかりの頃、アマンダ三世からは2世紀も前のできごとである。ドルセイの主な大人の男たちは傭兵として各地に出ていた。残るのは老人と女性と子ども。かつての冬のでかせぎ地域のような状況である。そこにつけこみ、地球政府が侵略部隊を派遣、ドルセイを占領し、ドルセイ人たちを惑星から追放し分散、軍人惑星を解体するのが目的である。
 ドルセイを開拓してきた中心人物の一人、アマンダはこの侵略部隊を相手に交渉し、戦略を練り、そして、彼らを敗退させた歴史上の人物であった。いかにして、圧倒的な軍事力を持つ者たちを退けたのか。ここにも、「ドルセイ」作品群に示される「最小の人的被害で最大の効果を上げること」が冷徹に示される。
 もうひとつの作品「兄弟たち」は、イアン・グレイムとケンジー・グレイムの話である。「ドルセイの決断」のサイドストーリーであったイアンとケンジーの双子の兄弟と、その幼なじみであるアマンダ二世の愛の物語は、誰もが信じていたケンジーとアマンダの結婚が彼らの成長により失われ、そして、アマンダは実はイアンをひそかに愛していたこと、それはイアンには受け入れることができなかったことが描かれている。
 光を受け持つケンジーと、影を受け持つイアン。双子でありながら、その性格はまったく逆であるが、お互いにお互いを信頼し、深い兄弟愛で結ばれていた。そのケンジーが銃弾に倒れ、イアンはケンジーとドルセイの名誉を守るための行動をとる。それは、ドルセイ人ではない人たちには一見理解しがたい行為であるが、終わってしまえば実にドルセイらしい行為であった。やはりここでも、「ドルセイの決断」で感じたとおり、ドルセイならではの倫理観が明確にされる。
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。

 その「人的被害」や「死」とは、自分・自軍・守るべき対象、敵・敵軍のすべてに対して冷徹に適用される。言ってしまえば、闘わずして勝つのがもっとも望ましく、一方で、名誉のためなら大量虐殺も厭わない。
 繰り返しこの主題が書かれている。チャイルド・サイクルシリーズの中心的作品である「ドルセイ!」では読み取りにくいこの部分こそ、ディクスンが書きたかったことではないのだろうか。
 そして、それは、冷戦下におけるアメリカの価値観と実によくマッチしていたのではないだろうか。

(2022.3.27)

ドルセイの決断

LOST DORSEI

ゴードン・R・ディクスン
1980

 ディクスンの「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつで外伝的なものだが、日本では本編よりも先に訳されているらしい。文庫版では中編「ドルセイの決断」、短編「戦士」と、サンドラ・ミーゼルによるディクスンとチャイルド・サイクルシリーズ評および、当時の最新作「最終百科事典」の部分訳が掲載されている。文庫版は1984年に発行。

「戦士」では、軍人惑星ドルセイの名家グレイム家の双子の司令官の弟で血管に氷が流れていると評されるイアン・グレイムがドルセイ人としての名誉を果たすための1日を描いた作品。「ドルセイ魂」所収の「兄弟たち」で見せた振る舞いに似た作品である。
「ドルセイの決断」は、やはり「ドルセイ!」に登場するドルセイ人士官のコルンナ・エル・マンとドルセイの女神たるアマンダ二世が惑星セタに迫る革命を調停するために訪れる話。原題の「ロストドルセイ」とは、ドルセイ人でありながらドルセイすなわち軍神であることをやめた男のことである。セタのナハール領地においてナハール軍の陸軍軍楽隊長を務めるマイケル・ド・サンドヴァルはロストドルセイであった。故に軍楽隊長であり、武器を捨てた男である。革命が迫る中、ナハールの領主が陣取る丘陵の上で、他の軍人たちはこぞって革命に加わるため逃亡し、残されたのはアマンダ二世とコルンナ、現地の司令官を務めていたイアンとケンジーのふたり、それに、異邦世界人の大使であるパドマ、それに領主ら一部の人間。そして、逃亡しなかった軍楽隊の隊員たちである。革命を先導しているのは「ドルセイ!」で主人公ドネルの敵となったセタのウィリアム家。つまり、これは「ドルセイ!」の前日譚とも言える。
 しかし、この物語の本当の主人公はずっと脇で見え隠れする軍楽隊長マイケル。ドルセイに生まれ育ち、ドルセイ人の軍事に優れた肉体と能力を持ちながら武器を楽器に置き換えた男。しかし、軍楽隊員がほとんど残ったように、彼は「軍」を育てる力を持っていた。もっとも、その軍は武器を扱うのが苦手だったわけだが。そして、武器を捨てたマイケルは、ドルセイ人としての誇りと、武器を捨てるにいたった信念との間で揺れ動く。そんな彼が下した決断とは。
 ここで背景を知っておかねばならないのは、ドルセイ人にとって、軍は自らの信念の体現であり、傭兵として契約をし、軍を育て、戦略を練り、闘いに勝利するまでが彼らの生きるすべてなのだが、そこにはドルセイならではの倫理観が存在している。
 それは、つきつめれば、次のふたつである。
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。

 その「人的被害」や「死」とは、自分・自軍・守るべき対象、敵・敵軍のすべてに対して冷徹に適用される。言ってしまえば、闘わずして勝つのがもっとも望ましく、一方で、名誉のためなら大量虐殺も厭わない。一歩間違えれば凶戦士であり、その反面、優秀な政治家ともなり得る。
 きわめてアメリカ的な存在とも言える。
 そして、このドルセイらしからぬ振る舞いのドルセイ人の行為こそ、そのことを明確にする。自己犠牲は決して美しいものではない。自己犠牲はそれ以外の他者によって赦しとなり社会の昇華をもたらす。映画「アルマゲドン」がきわめてアメリカ的な映画であり、大ヒットしたように、この作品に描かれる自己犠牲は極めて個人的な信念に基づく振る舞いであっても、自己犠牲故に感動に書き換えられるのである。
 それをどう捉えるのか、それは読者次第ではなかろうか。

(2022.3.27)

ドルセイへの道

NECROMANCER

ゴードン・R・ディクスン
1962

「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつ。前日譚にあたるのかな。原題は「魔術師あるいは予言者」。時代は21世紀、宇宙時代の幕開けである。主人公のポール・フォーメインは鉱山技師。人口増加で求職難の地球において、鉱山技師は特殊能力者であり、その人材確保に苦労していた。5年前の海難事故で幻聴などに悩まされていたポールは、厳しい学業と訓練により手にした鉱山技師の職でいよいよ鉱山に降りる日が来た。幻聴はささやく。「降りてはいけない」と。その言葉通り、彼は事故に遭い、片腕を失ってしまう。そして、ポールの残された右腕は信じられないほどに発達し、そもそもの頑健強力な身体に常人を超えた右腕を持つ男になったのである。左手の再生は通常の方法ではうまくいかず、ポールは「第二の法則」と呼ぶ人間の真の力を引き出すことを標榜する礼拝ギルドの元を訪ねることにしたのだった。しかし、その礼拝ギルドは地球の管理社会や宇宙開発のあり方に対抗する組織の隠れ蓑であった。
「ドルセイ!」で描かれた宇宙に拡散する過程で人類が12に分離するその背景を描いた作品である。
 冷戦下のアメリカはソ連(ソヴィエト連邦)との核戦争の危機におびえていた。世界は第三次世界大戦の危機を迎えると同時に、ユーリ・ガガーリンが1961年に友人宇宙飛行を行ない、それがアメリカのアポロ計画をもたらし、宇宙開発競争がはじまった時期でもある。宇宙開発と戦争は双子である。核戦争の鍵を握る「大陸間弾道ミサイル」は、宇宙開発における「ロケット」そのものである。その発射技術、制御技術は、まったく同じと言ってもよい。1945年に第二次世界大戦が日本の降伏を持って終結し、国際連合が構成され、世界は統合を模索し平和を誓ったその舌の根も乾かぬうちから、全人類を破滅に追いやろうという軍拡と冷たい戦争をはじめたのである。
 そういう時代感を踏まえて読めば、この作品の意義は格段に上がってくる。
 そして、なんということだろう。21世紀の今でさえも。

(2022.3.27)

ドルセイ!

DORSEI!

ゴードン・R・ディクスン
1960

 1983年に邦訳された「ドルセイ!」を2022年に読む。83年といえば大学生で、本は買い放題していた頃なのに手にも取らなかった。ミリタリーSFはあまり読まないし、シリーズもので手に取る感じではなかったのだ。たまたま4冊一度に入手できたのでまとめて読んでみた。最初から余談だが、訳者が今住んでいる町の近所に(当時)お住まいだったようである。昔の奥付には著者や訳者の住所が書かれていたりする。インターネット以前の時代である。
 本題に入ろう。本作の訳者あとがきによると、「ドルセイ!」は著者のディクスンが「チャイルド・サイクル」と名付け、14世紀から24世紀までの全12作大河ドラマで、著者構想では歴史小説3、現代小説3、SF6作品とのことである。
 ちなみに、日本では本書「ドルセイ!」「ドルセイの道」(1962)「ドルセイの決断」(1980)「ドルセイ魂」(1979)と、「兵士よ、問うなかれ」(1968長編版)が邦訳されており、未訳として「The Final Encyclopedia」 (1984)、「The Dorsai Companion 」(1986)、「The Chantry Guild」 (1988)、「Young Bleys」 (1991)、「Other」 (1994)、「Antagonist」 (2007,with David W. Wixon)がある。
 ディクスンといえば、私が思い浮かべるのは軽妙な笑えるSFである。なかでも「ホーカ」シリーズはなかなかの名作だと思う。
 そのディクスンがもっとも力を入れていた作品群が「チャイルド・サイクル」であり、人間と歴史・文化・哲学・政治(軍事)のありようと幼年期の終わりを描く予定であったらしい。だから、「ドルセイ!」は私が誤解したようなミリタリーSFではないらしい。「らしい」というのは、やはりミリタリーSFだからだ。それは宇宙に分化した人類のひとつ惑星ドルセイのドルセイ人が軍人として傑出した特徴を持つ人たちであり、小説のタイトル通りドルセイ人が主人公であるからだ。
「ドルセイ!」では、惑星ドルセイで軍人としての訓練を受けて育った名家グレイム家の若き士官候補生ドナル・グレイムが主人公である。ドルセイの中でも優れた軍人を排出するグレイム家においても、ドナルの才覚は傑出したものがあった。それは余人には理解できないもので超一流の推理力というか直感力のようなものであり、的確以上に現状や他者の動きを把握することができる能力である。その能力故の行動は、それ故に彼を最高の軍人にするかも知れなかったし最悪の軍人にするかもしれなかった。
 西暦2403年、600億の人類は12の異なった世界、文化、人たちに分裂していた。その中で、ドルセイ人たちは各世界から傭兵として請われ、その契約金をもって惑星を維持し、栄えさせていたのだ。
 ドナルもまた最初の契約を結ぶため星間の超豪華客船に乗り込んでいた。彼はそこで世界への影響力を持つ惑星セタの皇太子ウィリアムとの間に関わりを持つことになる。それはやがてドナルを高みに押し上げ、巻き上がった世界の混乱を平定し、分裂した世界がつながるきっかけを生むことになる。そんなドナルの軍人としての半生が描かれる。
 成長譚というにはドナルが特別すぎる。ミリタリーSFというには戦闘シーンは少なく、人間ドラマや戦略ドラマ風である。

 著者が望んだ「チャイルド・サイクル」という言葉より「ドルセイシリーズ」という言葉の方が当時は先行していたようである。アメリカではとても人気が高い作品だったようだが、日本ではさほどでもなかった。そのため後半は未訳となっている。
 今回4作品を読んだのだが、時系列は異なるものの同じ登場人物が主従を変えながら次々に登場してくる。また作品中で描かれる描写の中に、別の作品のエピソードの前後が書かれていたりする。それぞれのエピソードは丹念に書かれるというより余地が多い。まるで「ギリシャ神話」辞典を読んでいるかのような気になることもある。だから読み下すのには時間がかかる。さほど長い作品ではないがそういう積み重なる面白さを楽しめるかどうかが鍵である。

 それにしても、歴史はたしかに語っているし、21世紀の現在になってもこの地球上で人類同士の侵略行為が起きているのだが、武力なき外交というのはありえないものなのだろうか。

(2022.3.27)

ぼくたちの好きな戦争


THE WAR WE LOVED TO PLAY

小林信彦
1986

 久々に読み返していたらウクライナにロシアが侵攻をはじめてしまった2022年2月。喜劇なのに笑えないなと、だからこそこれは小林の純文学的傑作だなと改めて思った。

 再読のきっかけは、先日「暮らしのファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた」(大塚英一、2021)を読んだからである。大塚は、1940年からの大政翼賛体制の中で、のちに「暮らしの手帖」を興す花森安治や、転向者である太宰治、詩人尾崎喜八などを追いかけながら、「新しい日常」「ていねいな暮らし」をディレクションしてきた文化人たちの危うさを評していた。まだ未読だが、大塚には「大政翼賛会のメディアミックス―「翼賛一家」と参加するファシズム」(2018)という前著がある。それについては、「暮らしのファシズム」でも、マンガ設定として「翼賛一家」が二次創作を前提としたメディアミックスによる参加型誘導装置だったことが触れられている。
 これを読んで、そういえば小林信彦が書いていたなと思い出した次第。

 第二次世界大戦が終わったのは1945年8月。それから41年後に小林信彦が書き下ろした小説「ぼくたちの好きな戦争」である。執筆中と思われる1985年前後は日本では中曽根康弘が首相、アメリカではロナルド・レーガンが大統領という今日の日米の軍事関係を形成する上で重要な時期であった。日本はバブル経済で絶好調、中曽根とレーガンを「ロン・ヤス関係」とあたかも対等かのようにうそぶき、国土を「不沈空母」と例えて日本の軍事増強を正当化した(のちに中曽根はそう言っていないと話す)。つまり、日本は敗戦後、高度成長期を過ぎ、「追いつき追い越せ」から「世界のトップに並んだ」ぐらいな浮かれ具合にあったのである。

 冷戦の対象であるソ連は混乱し、当時はまだ眠れる獅子のままであった中国は道を選びかねていた時代。「戦争」について当事者的ではない形で語られる時代でもあった。たとえば、本書「ぼくたちの好きな戦争」が出版された直後、広告雑誌「広告批評」は1986年8月号で「特集 第三次世界大戦宣伝計画」を出し、表紙を黒塗りにしてみせた。
 広告会社とコピーライターなど広告クリエイターが花形の時代である。

 そんな時代、テレビマンでもあった小林信彦がずっと温めていた戦時を「楽しんでいた」姿を喜劇として描く作品が本書なのである。主人公は東京の下町で代々和菓子屋を営む秋間一家。「家業」を継いだ秋間大介と病弱な息子の誠、大介の弟で売れない画家の公次、その弟で喜劇役者をやっている史郎。舞台は1940年から1945年まで。公次は食うために書いた風刺画が「大政翼賛会」に認められていく。史郎は海外慰問団に入り、東南アジアで前線を楽しみ、そして招集されて前線に立つ。作者小林信彦を反映した誠は戦争という日常の中でのささいなできごとに翻弄される。
 戦争前半は戦争にのめりこみ浮かれ楽しみ喜んでいた人たちがいたのである。
 なぜそのことを書かないのか、戦後の「悲惨な戦争文学」に抜けている視点、人間の欲望や本質といったところを喜劇の形でえぐりだしたい、そういう作者としての思いがこの小説となっている。もうひとつ、この小説にはしかけがある。

 P・K・ディックは天才である。小説「高い城の男」(1962)は、枢軸国日独がアメリカに勝ち、アメリカを東西に分断した社会を描き衝撃を与えた。日本では1965年に一度翻訳され、1984年にハヤカワSF文庫で再度翻訳され、折からのSFブーム、ディックブーム、「1984」ブームの中でヒットした。連続ドラマにもなっている。
 この設定は最近もSF小説の「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス,2016)で使われている。本書「ぼくたちの好きな戦争」でも第4章、第6章の「虚構」で軍事輸送船に乗っている売れないラジオ作家のシナリオとしてアメリカが負け、アメリカに駐留する日本軍のふるまいを、本編と対照させながら描いている。もちろん、作品末の参考資料リストには「高い城の男」が明示されている。付録についていた扇田昭彦との対談「笑いと仕掛けで描く戦争」でも、このことについて触れており、「つまり、過去の物語で終わりたくないという気持ちです。これは、現在と未来についての物語でもあるわけです」と本作の構成について語る。日米を二極としてこの戦争を書く上での落としどころが必要だったのかもしれない。
 戦争を悲惨に書かないのは難しい。いや、もちろん、本作でも戦争は十分に悲惨だ。肉体は焼け、ばらばらになり、腐敗し、白く浮く。どんなに喜劇的状況でも起きた現象は凄惨である。そこに笑いをねじこんで来る小林の迫力を感じる。

 この作品の登場人物の中でもっとも戦争を楽しんでいたのは風刺画作家となり、大政翼賛会の報道関係者の中でも特権的地位を与えられ、航空機を自由に手配できた公次である。「家」と「家長」に反発し、古い因習をことさらに嫌った公次は、風刺画家として戦争を鼓舞する側に回り、バリ島など各地で優雅な日々を過ごしていた。戦争が押し詰まると日本で戦争鼓舞の雑誌編集長となり大本営司令部にも出入りし、情報をつかみ、暮らしに不平不満はなかった。そして敗戦が決定的になると、彼は戦犯から逃れることと、戦後に「何が流行するか」を考え始めるのであった。
 きっとそういう人たちが、戦中戦後にもいたのだろう。

 本書が書かれてから35年が過ぎた。第三次世界大戦はすくなくとも昨年までは起きていなかった。
 2022年が、第三次世界大戦の幕開けとならないよう、戦争を止めろと声を出すほかない。
 どんな喜劇的状況でも、戦争は悲惨すぎるのだ。

 ここ数日のtwitter投稿、漫画家のとり・みき氏はこうつぶやく「戦争はギャグの切れも受けも悪くなるから嫌いだ。戦争反対

 戦争反対。

セミオーシス

セミオーシス
SEMIOSIS
スー・バーク
2018

 傑作です。
 それはさておき、「セミオーシス」日本語では「記号現象」「信号過程」などと訳される記号論の専門用語だとか。
 記号論といえば、学生の頃ジュリア・クリスティヴァの「セメイオチケ 記号の解体学」「セメイオチケ 記号の生成論」を買って読んだが歯が立たなかった。もしかすると授業の教科書だったのかも知れないし、ただ買ってみただけだったのかも知れない。それさえも忘却の彼方。80年代前半の日本ではポスト構造主義などが盛んに著述、翻訳、議論されていた時期で、そういう学問にちょっと首を突っ込んでいたものの、論理的思考が苦手なのか、覚えていて、思考の中で使っているのは「意味するもの/意味されるもの」について意識し続けることぐらい。それはまあ、役に立ったかな。

 さて本題。
 環境の荒廃した地球に愛想を尽かした人たちが、別の場所で人類をやり直したいと考え地球を飛び立った。158年後冬眠から目ざめ着陸した星は、地球より古く、少し重力の大きな惑星だった。動植物が栄えたこの惑星で無事到着した人たちのサバイバルがはじまる。7世代107年の物語。パックスと名付けられたその惑星には、高度な知性を持つ植物がおり、ある植物は新たに来た動物である人類を排除しようとし、ある植物はその動物をうまく支配して自らの繁殖に役立てようとしていた。異質な環境の中で、死者を出しながらも、その土地に適応しようともがく人類。この惑星には先に都市を築き、とうにいなくなった先住の異星人がいた痕跡があった。また、動物たちの幾種類かは高度とまではいかないが知性の片鱗を見せており、限られたセミオーシスを使用していた。果たして人類は、惑星パックスで生き延びられるのか。知性のある植物との関係はどうなっていくのか。先住異星人の謎は解き明かされるのか。さらには、地球を知る第1世代と、パックスしかしらない第2世代やその下の世代の確執はないのか。平和という理想を掲げて入植した人々と惑星をめぐる物語は複雑に絡み合いつつ、6つの章立てで進んでいく。それぞれの章には一人称の「わたし」がいて、それは章ごとに世代も時期も異なり、「わたし」の視点が異なる以上、物語の風味も変わっていく。新しい探検、世代の確執、異種族との文字(視覚的記号)や言葉(音声的記号)とは異なるコミュニケーションプロトコルの発見、殺人事件、紛争…。
 読み手の視点も様々になるだろう。文庫の帯には「新世代のル・グィンが描く、21世紀の『地球の長い午後』」「知性を持つ植物は人類の敵か味方か」「7世代100年、惑星植民者と知的植物のファーストコンタクト年代記」とある。
「ル・グィン」とは「闇の左手」を意識し、異種族間コミュニケーションや今日的な多文化共生志向のようなことを言いたいのだろう。たしかに最初手に取るとき、もしかして環境優先主義的視点で書かれた教条的な作品ではないかとちょっと身構えたところがある。しかし、それは杞憂である。もちろん環境との協調、平和志向、民主主義、多文化共生、他者への寛容と受容などのテーマや表現はふんだんにあるが、同時にそれを達成することの難しさを、その対極の状況を描くことで見事なエンターテイメントであり、思考させる作品となっている。
地球の長い午後」は植物と人間のコミュニケーションを想起させるからか。ここに登場する植物の知性体はその思考パターンは人間っぽいけれど、使われるセミオーシスの描きっぷりはハードSFである。なるほど、そうやって他の植物や動物とコミュニケーションとるのか、記憶や思考を生み出すのか、おもしれー。
「ファーストコンタクト年代記」の表記は火星人が出てくる「火星年代記」も思わせる。リアルな物語なのだけれど、「火星年代記」同様にそこはかとないファンタジー感もある。異星での人間と植物の共生の物語と書くだけで懐かしい感じがしてくる。
 私が思い出したのはデイヴィッド・ブリンの「知性化シリーズ」である。とりわけ、「星海の楽園」で、いくつかの異星種族が禁忌となっている惑星に逃れこっそりと共生している姿である。かつて先住し都市までつくったのにいなくなった異星種族の存在や、主人公たる移住者の「地球はもうだめだから新しい楽園をつくる」という価値観と重なってくる。

 最後に、セミオーシスに戻ろう。人間同士のコミュニケーションでも言葉が違うと意思疎通がとても困難になる。さらに身振り手振り、しぐさ、顔の表情、服装、髪型、匂いなど身体的、文化的なコミュニケーションがあり、同じ表現でも意味が違ったり、解釈が分かれたりする。まして異なる生物との間のコミュニケーションは大変難しい。とりわけ知的生命体同士の場合には、やりとりされる情報が多くなる。人類の場合、数学でのコミュニケーションを想定している。整数からはじまるプロトコルだ。しかし、それが果たして適切なのかどうかすら分からない。ただ、異星知性が存在し、情報を受け取れる状況にあるならば、技術的開発が行なわれている「はず」だから、その基礎となる数学は持っている「はず」なので、そこからはじめるのが確実ではないかと推察しているのだ。はたしてそうかな? スー・バークはどんな答えを用意しているだろうか。

(2021.2.21)

スタープレックス

スタープレックス
STARPLEX

ロバート・J・ソウヤー
1996

 時は2094年、場所は地球から53000光年離れた異星知性体イブ族の母星からさらに368光年離れた星系で調査作業をしている宇宙船スタープレックス号。1年前に就航したこの巨大な宇宙船は、イブ族、地球の人類・イルカ族、地球から7万光年離れた惑星リーボロを母星とするウォルダフード族が資金供与してリーボロ軌道上で建造された。この3つの母星にとって史上最大の宇宙船であり、各種族合計1000名の乗員が「ショートカット」の探査と他の知性体とのファーストコンタクトを目的に乗船している。
 ショートカットとは、この宇宙に何者かによって設置された恒星間ゲートのようなものであり、そのショートカットに何者かが故意であれ偶然であれ入り込んだ時点で起動する仕組みになっている。そして進入角によって到達する出口のショートカットが異なる。分かりやすく言うと「どこでもドア」だ。このショートカットを発見し、利用可能にするためには、実空間で休眠しているショートカットにたどり着き、入口として開く必要がある。イブ族、人類・イルカ族、ウォルダフード族は惑星連邦を組んで、既知可能な宇宙を広げようとしていたのだった。
 主人公はキース・ランシング。人類の社会学者でありスタープレックス号の指揮官でもある。その妻のクラリッサ・セルバンテスは生命科学部門の責任者でスタープレックスのナンバー2のひとり。もうひとりのナンバー2はジャグ・カンダロ・エン=ペルシュ、ウォルダフード族であり物理科学部門責任者である。つまり、ショートカットを含む天文領域の調査はジャグが主導権をとり、内部のエコシステムおよび生命が存在する可能性がある場合の調査責任はセルバンテスにある。そして、キース・ランシングは全体を調整する役割がある。ウォルダフード族は人類に対してあまり好感を持っていない。しかも、キースとクラリッサは夫婦。ジャグはキースが生命科学部門をひいきしていると怒り狂っている。キースはスタープレックス号のミッションを果たさなければならない。冒頭から異種族間のいざこざの気配あり

 大元ネタは「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト、1950)である。科学調査探検船であるビーグル号も乗員1000人なんだよ。
 あと80年代フレデリック・ポールの「ゲイトウエイシリーズ(ヒーチーシリーズ)」も彷彿とさせる壮大な展開が待っている。同時代的にはスティーヴン・バクスターの「ジーリーシリーズ」の感じもある。
 ストーリーはタイムラインとしては2系列に書かれている。ひとつは、主人公のキース・ランシングが会議のためにひとりでショートカットに突入したら予定とは違う奇妙な場所に出現してしまい、そこで不思議なガラスのような男とキースの過去から現在までを対話する流れ。そこではキースの人生を追うことで世界の過去から現在、未来が語られる
 もうひとつのタイムラインはキースが会議が必要になる大きな出来事のタイムライン。その出来事はキースがショートカットに入る前から入った後まで連続して描かれる。
 異星人との諍い、ショートカットを通過してきた恒星の存在と異質な生命体、そして語られる宇宙の創世から未来への道
 壮大。
 だけど、どれもこれもネタバレになるので書けない。
 後書きの解説で大野万紀氏が本書で解き明かされるおもな謎やアイディアを15上げている。
 ちょっとだけ上げておくと、
 4 ダークマターの正体とはなにか。
 9 銀河の渦状肢はどうしてできたのか。
 14 この宇宙で人間原理はなぜ有効なのか。

 なんだかこれだけみるとグレッグ・イーガンばりではないか。でも、本書は軽めのハードSF。エンターテイメント重視。これをシリーズものにせず、単発で書いて作品としてすっきりしちゃうのがロバート・J・ソウヤーという作家なのだろうな。

(2022.2.5)