6600万年の革命

The Freeze-Frame Revolution

ピーター・ワッツ
2018

 真夏の早朝、夜明け頃には目が覚めてしまった。年のせいだろうか、それとも2日間の長時間運転や比較的短い睡眠時間で身体が興奮していたからだろうか。ほんとうは長く長く眠りたいのに。しかたがないから朝日の明かりを頼りに布団の中で本を読むことにした。ピーター・ワッツ。「ブラインドサイト」「エコープラクシア」には難渋したのだが、本書は実に読みやすく結局朝のうちに読み終えてしまった。
 Sunflowers cycleシリーズとして既訳の中短編と同じ舞台の物語ということもあるからか。短編集「巨星」の中に入っている「ホットショット」の後、「巨星」「」の前に位置付く作品である。もちろん、本書だけを読んでも何ら問題がない。

 舞台はワームホール構築船「エリオフォラ号」の中。小惑星を改造してワームホールを利用して銀河系を孤独に飛び続け、ワームホールのゲートをつくっていく。それは人類の離散(ディアスポラ)の高速道路であり、ワームホールネットワークは人類の末裔あるいは他の知性種族の道となるものである。地球を離れ6600万年の歳月が過ぎた。操船とワームホール構築は基本的にチンプと呼ばれる船内システムが自律的に行なっているが、チンプでは判断ができない事象やリスクが生じると、人類のメンバーが対応することになっている。船内で冬眠させられている人類のメンバーが数人から数十人覚醒させられるのだ。
 数百年、数千年に1度、目ざめる。知っている人と一緒だったり、知らない人が混ざっていたり。基本的には文化的背景が同じ人たちがチームとなって起こされるが、状況によって、あるいは何らかの社会的意図を持って知らない人たちのところで起きることもある。
 すでに銀河円盤をいびつに32回まわり、10万個以上のゲートが構築されている。しかし、人類はおろか他の知性種族の接触はない。ときおり構築したてのゲートから「グレムリン」が出てきて、「エリオフィラ号」を襲おうとするが、成功したためしはない。グレムリンが何者なのかも分からないのだが、分からないから「グレムリン」と呼んでいるにすぎない。
 主人公のサンディは中でも比較的頻繁に起こされることが多いメンバーの一人。あるゲートの構築の際にグレムリンが飛び出してきた。起きていたメンバーの一人、リアンはとてもおびえてしまう。リアンに何があったのか?船のAIであるチンプは何を隠しているのか、あるいは何に「気がついていないのか」。
 出発当初はワームホールネットワークがある程度できたら進化した人類が迎えに来てミッションは終わるものと思っていたのに、すでに6500万年を過ぎて、迎えどころか、誰からも声がかけられないなかで、チンプはひたすらミッションを遂行しようとし、人類のメンバーたちは次第に状況を把握し始める。それは100万年に渡るゆっくりとした革命のはじまりであった。

 ピーター・ワッツの作品のテーマは決まっていて「自律意識」の問題が中心にある。
 チンプにはあるのだろうか。サンディにはあるのだろうか。私にはあるのだろうか、あなたにはあるのだろうか。
 なぜ私はこの本を読み、そしてこうして文章を綴っているんだろうか。
 それでも日々は過ぎ、物事は起きていく。私は誰かにとっての「マダガスカル島のトガリネズミ」に過ぎないのかも知れない。

 寝ている間に数千年経っていたら、たとえば2022年8月16日の今日眠りについて、3022年の8月に目ざめたら、一体どんなことになっているだろうか。想像もつかない。しかし、エリオフィラ号での目ざめは、チンプには対応できないことであっても、人の想像の範囲をそれほど超えることはない。ほんとうは、どちらの目ざめも1000年オーダーでのタイムトラベルなのだが。たとえば、平安時代の1022年に眠りについて2022年に目ざめたら、果たして適応できるだろうか。そして、人類の変容は過去の千年よりはるかに早くなっており、次の千年はものすごい変化になっているだろう。さあ、これを書いたら眠りにつこう。
 それが4時間半の眠りになるのか、1000年を超える眠りになるのか、本当のところは誰も知れないけれど。

究極のSF

FINAL STAGE

アンソロジー
1974

 1970年代にはいり、ふたりのSF編集者バリー・N・マルツバーグとエドワード・L・ファーマンは大胆な企画にとりかかる。13人のSF作家にそれぞれひとつずつのテーマを与え、そのテーマについての「決定版」を書くよう依頼したのである。それだけではない。作品とともに、そのテーマへの感想、作品リスト(テーマの古典、作品を書く上で影響を受けたもの、なお、1篇以上は自作を含むこと)の提出も求めたのである。
 頼まれて引き受けた作家も大変だったろう。
 結果的に、70年代の時代的雰囲気をたっぷりふくませて、ちょっと理屈っぽい作品がそろった。ひとつひとつを語るのは野暮である。まず、目次を転載。

ファースト・コンタクト
「われら被購入者」フレデリック・ポール
宇宙探検
「先駆者」ポール・アンダースン
不死
「大脱出観光旅行?」キット・リード
イナー・スペース
「三つの謎の物語のための略図」ブライアン・W・オールディス
ロボット・アンドロイド
「心にかけられたる者」アイザック・アシモフ
不思議な子供たち
「ぼくたち三人」ディーン・R・クーンツ
未来のセックス
「わたしは古い女」ジョアンナ・ラス
「キャットマン」ハーラン・エリスン
スペース・オペラ
「CCCのスペース・ラット」ハリー・ハリスン
もうひとつの宇宙
「旅」ロバート・シルヴァーバーグ
コントロールされない機械
「すばらしい万能変化機」バリー・N・マルツバーグ
ホロコーストの後
「けむりは永遠に」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
タイム・トラベル
「時間飛行士へのささやかな贈物」フィリップ・K・ディック

 実は、本書は個人的にやらかした1冊である。たぶん2回。都合3回購入していると思われる。最初は、個人的ディックブームの時に買って、その後、同作品が別の作品集に載っていたので手放した(と思う。すでに忘却の数十年前)。
 次に、表紙がリニューアルされていて、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの名前に惹かれて買ってしまった。そして読んでいる。本棚にあった。
 そして、最近、古書店で売られていて、「お、なつかしい表紙、でも読んでいなかったな」と思って買ってきて読んで、いまここにいる。
 これから増えていくんだろうなあ。そのための備忘録としての読書録であるのだが。
 ひとは忘れる。老いる。そして、死ぬ。
 死んだら、もう、読むことはできない。忘れることもない。書くこともないが。

 それはともかく、「究極」と問われると、「死」を連想するものであるのだろうか。そういう構成の作品も多い。
 ひとつだけ紹介するならば、死を乗り越える短編としてハリー・ハリスンの「CCCのスペース・ラット」を推したい。テーマは「スペースオペラ」であり、実際にスペースオペラであるが、ドクターE・E・スミスをはじめとするスペースオペラの古典を徹底的に笑い飛ばすのが70年代の古典スペオペへの敬意と決別宣言なのであろう。ちなみに、ジョン・スコルジーが2012年に発表した長編「レッドスーツ」も同じテーマである。スペースオペラは古典ゆえにパロディ化しやすいのだ。

ドラマ エクスパンス 巨獣めざめる

 人類が太陽系に進出して200年。人類は、地球、月、火星、小惑星帯から木星系、土星系とその生存圏を広げ、「人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった」のである。
 このドラマは、分かりやすく言えば、モビルスーツが存在しない「機動戦士ガンダム」である。
 低重力の小惑星や宇宙船での暮らし、戦闘宇宙船同士の戦闘などが劇場公開映画さながらの映像で繰り広げられるのである。「スター・ウォーズ世界」のような派手さはないが、映像のリアリティはとても高い。実におもしろい作品である。最近の海外SF映画のしっとりした宇宙の映像と同じぐらいの品質がある。長いドラマだから描写もじっくりとしていてとても良い。良作である。

 まず、背景。
 地球-月圏は国連が統治、火星はテラフォーミング途中だが自治権を持つ共和国となり、地球圏と資源や権力をめぐる闘争とそのための軍拡競争を続けている。小惑星帯の人々は「ベルター」と呼ばれ、主に準惑星のケレスの内部、地球近傍小惑星のエロスの内部、土星の衛星フェーベの内部、木星の衛星ガニメデ、宇宙船建造用大型宇宙ステーションのティコを生存の拠点とし独立と自治を模索していたが、現実には地球および火星の支配と搾取にあえいでいた。
 地球圏は人口増加と環境悪化に苦しんでおり、資源調達の上でも小惑星帯を管理下に置きたかったし、火星はテラフォーミングのために小惑星帯が調達する水などが欠かせない。
 ベルターの内惑星系(火星と地球圏)への不満は高まり、外惑星同盟(OPA)という非公式軍事組織が地球、火星双方に対しテロや資源調達宇宙船の海賊行為をくり返していた。
 地球と火星は戦争になるのか。ベルターたちは漁夫の利を得て独立できるのか。事件と陰謀、政治家や軍人の思惑の中で、物語は複雑に進んでいく。氷運搬船の副長でしかなかった主人公のジム・ホールデンは、その優しくまっすぐな性格ゆえに、事件に巻き込まれ、を自らも戦い、傷つきながら、身近な人たちを守るため、人々を破滅から救うため、自分にできることに取り組み続けるのであった。まるで、「ガンダム世界」のブライト・ノア艦長やアムロ・レイ君のように…。

 いろいろ語る前に、このドラマの制作上の話を整理しておこう。「エクスパンス」の原題は「THE EXPANSE」であり、意味としては「ひろがり」すなわち、人類が宇宙に拡張していく姿といった意味を持つ。日本語タイトルは「エクスパンス 巨獣めざめる」となっているが、これは第一部の原作小説「Leviathan Wakes」の邦訳タイトル「巨獣めざめる」から来ている。小説はジェームズ・S・A・コーリー名義で書かれているが、ドラマ「エクスパンス」のプロデューサーふたりの合作ペンネームであり、小説とドラマの親和性は高い。
 小説としては現在までに9巻まで出版されているが、邦訳はこの第一部「巨獣めざめる」のみである。第一部の邦題が「巨獣めざめる」だったがためにちょっとややこしいことになっている。実は「巨獣」などいない。本書で出てくる「Leviathan=巨獣」はティコ・ステーションで建造中の超巨大恒星間世代船の名前であり、ある宗教団体が新天地を目指して旅立つためのものである。この世代船は第一部の後半で動くのだが、物語全体にとってはひとつのエピソードに過ぎない。「巨獣めざめる」はこのドラマにとってはぜんぜん実態をしめさないのである。残念ながら。
 ちなみに「巨獣めざめる」はSF小説としても傑作である。あいにく続編は翻訳されていないが。
 ドラマに戻ろう。wikiなどに整理されているが、シーズン1~3はアメリカのSF・ファンタジー専門チャンネルsyfyで2015年から2018年にかけて放送された。2018年5月にsyfyがシーズン4の製作中止を発表。日本ではNetflixがシーズン1、2を独占配信したがシーズン3は配信せず2018年9月に配信AmazonPrimeビデオを停止。そしてAmazonPrimeビデオがシーズン4の継続を発表し、シリーズ1からの独占配信をスタートした。シーズン6は2021年12月~配信され全62話で制作を終了した。
 ドラマと原作小説はシーズンと各巻の内容がほぼ一致しており、第7巻は1~6シリーズの約30年後からの舞台設定となっている。現在は9巻まで刊行。シーズン7以降が製作されるかどうかは未定である(終了とみられている)。
 興味深いのはAmazon社の戦略としてベースは英語ながら、日本語吹き替え版をはじめ、中国、韓国、イタリア、ブラジル、スペイン、フランス、ポルトガル、アラビア語などなど、ものすごく多言語に対応しているのである。字幕も各国語があり、そういう遊び方も用意されている。これはとても勉強になるなあ。余談だけど。

 物語の話に戻そう。
 シーズン1は導入であるが、ちょっとだけややこしいミステリー仕立てになっている。最初のうちは鍵となる設定が匂わせてあるだけで隠されており意味分かりにくいのでとっつきにくいかもしれない。可能ならば小説版を読んでから見ると「おおおっ」ってなるのだが。ここはがまんして最初の5話ぐらいまで見続けて欲しい。後悔しないから。
 注目して欲しいのは登場人物である。
 何人かの登場人物を鍵として物語はすすむ。
 シーズン1では主人公はふたりいる。
 ひとりは全体の主人公であるジム・ホールデン、もうひとりは準惑星ケレスの治安機関である地球の警備企業(民間警察)のジョー・ミラー警部。ケレス生まれのベルター。彼が上司から地球の富豪の娘で家出しているジュリー・マウを親元に帰すために捜査・誘拐するよう求められる。ジュリーを追う過程でミラーは小惑星帯を巻き込む大きな謎につきあたっていく。このミラー警部パートがいまひとつ分かりにくいのだが、抑えておくポイントは、ミラーはほとんど宇宙に出たことがないケレス生まれのベルターであり、なおかつ、地球資本の民間警察に雇われている「ベルターの敵」とみられていることだ。そういう複雑な立場のなかで、彼は捜索対象のジュリー・マウに執着していく。これが後のストーリーの重要な鍵となる。

 次に、ジュリー・マウとその父親や家族。すなわちマウ家。ジュリー・マウはシーズン1冒頭に登場している。唐突に登場し、それから物語がちょっと飛ぶのでこの冒頭部分はできれば覚えておくといい。エクスパンスの真の意味に通じる鍵は「マウ家」がにぎっている。それは、プロト分子。どうやら人類発のものではなく、高度な異星文明が関わっている物質らしいのだ。プロト分子は、エクスパンスシリーズが太陽系と人類の物語を超えていくことを示唆する。物語のひとつの方向性に、「高度な異星文明との邂逅」があることが物語を楽しくしてくれる。ただ、「エイリアン」や「スターウォーズ」「スタートレック」にはならない。あくまで正統派のSF設定はくずされていない。

 ジム・ホールデン。不思議な主人公である。太陽系をのろのろと長い月日をかけて往復する氷運搬船の副長。地球生まれの元兵士で、人が傷ついたり殺されることが大嫌い。曲がったこと、隠しごとも嫌い。兵士を辞めたのも、そんな性格故。流れ流れてベルターの場末の輸送船に乗っている。しかし、乗っていた宇宙船カンタベリー号がテロで爆破され、その直前に出されていた難破船によるSOS確認のため離船していたために少数のクルーとともに生き残り、火星軍の反抗を疑い、それを全世界の放送し、火星軍に追われ、やがて火星軍の最新鋭AI搭載小型戦艦タチ号を(結果的に)盗み、ロシナンテ号と名付けて船長になる。そうして、地球圏、火星圏、小惑星圏において時にヒーロー、時に裏切り者、時に名もなき戦士、調停者として物静かに活躍することになる。
 ジム・ホールデンの主な仲間には、ベルターでOPA親派だった天才メカニックエンジニアのナオミ・ナガタ、元火星軍兵士でロシナンテ号のパイロットとなるアレックス・カマル、地球人でナオミをボスと決めて従うちょっとヤバい感じの地球人エイモス・バートン。つまり、ロシナンテ号は、地球人、火星人、ベルターが出自や立場に関わりなく動き回る特殊な存在になるのだった。

 そのほか、たくさんの登場人物が主要登場人物ばりに出てくるが、鍵となり、その発言や行動を覚えておいた方がいい人物があと3人いる。いずれも女性である。
 ひとりは、地球人のクリスジェン・アヴァサララ。国連事務次長としてシーズン1から登場する。かつて軍人の息子を失い、自らも紛争を調停する力を持ちながら、たくみに動いては戦争回避を模索する政治家。若い頃はものすごい美人だった感じで、歳を重ねても美しさがやどる。出自はインド系とみられ、ハスキーボイスで交渉し、策謀し、物語をぐいぐいと動かしていく。
 次に、ボビー(ロベルタ)・ドレーパー。火星人で火星海兵隊の下士官。純粋な国粋主義者(火星第一主義者)で、それ故に地球を憎み、早く敵と戦いたくてうずうずしている若い兵士である。火星の先端技術で開発されたアーマースーツを着こなして闘うが、やがて大きな秘密に触れ、ひとつの鍵を握る存在になる。シーズン2から登場。
 最後に、カミーナ・ドラマー。ティコ・ステーションの保安責任者として登場するベルター。大物たちの副官的な存在としてキャラクターは立っていても見過ごしそうだけれど、初登場のシーズン2以降、折に触れ登場し、重要な役割を担うようになる。心に大きな傷を持つが力強い女性でもある。

 物語は、地球と火星は戦争をするのか。小惑星帯はどっちにつくのか、あるいは独立するのか。太陽系での戦争とはどういうものか。まさしく直球のスペースオペラが繰り広げられる。それは陰謀と策謀と議論であり、政治闘争でもあるから舞台劇の様相もあるし、宇宙戦争という映像表現もある世界だ。

 しかし、人々は日常に生きている。気候変動と環境汚染、人口爆発の中で苦しむ地球の姿。地球に近いという地の利を活かして開発された月。テラフォーミングが可能だからと移住し、火星を故郷とする火星人の思考、生活。さらには、小惑星帯の様々な生活形態。窮乏するなかで思想が生まれ、行動が生まれてくる。そして、日常は続くのだ。大きな宇宙船、小さな宇宙船、準惑星の内部、巨大宇宙ステーションの内部、ガニメデの表面…。その姿。

 もうひとつ、未来の物語、SFとしての「高度な異星文明」の産物プロト分子をめぐる人間たちの欲望と熱望。何に使えるのか、どう使えるのか、果たして「使いこなせるのか」。それは武器になるのか、エネルギーになるのか、救済になるのか。そして、プロト分子を生み出した存在とは? 物語はそこから展開する。

 とはいえ、シーズン6まで主要な舞台のほとんどは太陽系内であり、その中での人間と人間の物語である。恋愛もある、友情もある、死もあれば生もある。政治もあれば、精神世界もある。出自による差別もある、心の傷もある。そして、赦しも、救いもある。
 なんといっても、主人公が追われたり、殺されそうになるのにもかかわらず、「殺したくない、傷つけたくない、多くの人たちが苦しんだりするのを見たくないし、それを止めたい」という、個人では手に余る欲望・性格・性質の持ち主だからやっかいだ。なのに、そんなジム・ホールデンしか船長としてみんなをまとめられないし、みんなもそんなホールデンだからいろいろあっても最終的には信頼しているし、他の多くの人たちも結果的にそうなる。
 まあ、ホールデンの元で戦闘に巻き込まれる登場人物からすると「命、いくつあっても足りない」感じはするだろうが。

 とにかく、舞台は23世紀。一部の特権階級を除き、個々人にとってはとても厳しく、辛い人生を送る世界だけれど、でも、人類はすくなくとも太陽系まで生存圏を伸ばした。
 できれば、見てみたい。本当の未来の宇宙世紀を。

ヴァルカンの鉄槌


VULCAN’S HAMMER
フィリップ・K・ディック
1960

 ディック作品群最後の長編翻訳だそうだ。2015年に翻訳出版されている。初出は1960年。55年の時を経ての初翻訳。どうしてかというと、ディックだからだ。ディックは多作で、どうしようもない作品から名作と呼ばれる作品まで主にSFを書いてきた。とくに日本とフランスで評価されている作家だが、作品によっては設定が破綻していたり、ストーリーが破綻していたり、登場人物の人物像が破綻していたり、まあひどい。それほどひどくても読ませる力を持つのがディックである。とくに気持ちがざわついていたり、落ち着きどころがないときに、「現実」を考えたり、「世界」を考え、「生きる力」を思い出させてくれる。
 それだけではない、チープなSFガジェットを使いながら、誰にも思いつけないストーリーを展開する。仮想空間やシンギュラリティ、AI、人格の仮想化など、現在のネット社会になってようやくその概念や可能性、そこから派生する諸問題について、ディックは1960年代から深く掘り下げていた。もちろん、上記のような用語は明示されず、当時の科学、SF用語を使ってである。思想、宗教、社会、ディックの関心は幅広く、それらはディックの頭の中で解釈され、再構成されて物語となる。

 その作品群は、短編も長編も映像化されたり映像化の原作、あるいはヒントとなっている。もっとも有名なのは、原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」である。言うまでもない「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督 1982)がある。「ブレードランナー」はもちろん過去のSF作品の影響も受けているが、公開から40年経った現在でも映画史に残る名作であり、ディック作品が映像化された初の作品でもある。残念ながらディック自身は楽しみにしたこの映画の完成を待つことなく亡くなってしまった。
 その後も、「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」「スキャナー・ダークリー」といった映画化、あるいは「高い城の男」「エレクトリック・ドリームズ」といったドラマ化もされているし、おそらく今後もされることだろう。

 そういった背景があるので、この多作の作家の作品は、そのすべてが翻訳されたのである。はっきり言えば、その作品の中には二番煎じや粗い作品もある。だいたい、初期のディックの作品の多くは2作品抱き合わせのチープな小説として売られていたもので、決して人気作家とは言えなかった。ディック自身、食べるために書くといった状況だったのだ。
 そんな初期の作品の中でも見過ごされてきたのが本書「ヴァルカンの鉄槌」である。

ヴァルカンの鉄槌」の世界は1960年代終わりに第一次核戦争がはじまり1992年に終わったあと、世界連邦政府が誕生し、1993年からはアメリカ・ソ連(いまのロシア連邦の前身)・イギリスが共同で開発したスーパーコンピュータの「ヴァルカン3号」が重要政策の意思決定を行なうことに世界が合意したのである。人間では間違う選択を避けるため、コンピュータに人類の行く末を託したのである。
 ヴァルカン3号は連邦において世界各地の政治を行なう弁務官のリーダーである統轄弁務官ひとりがアクセスすることになっていた。
 そして現在は2029年。2年前にできた「癒やしの道」教団がヴァルカン3号を壊し、世界を変えようと画策していた。能力主義の格差社会と思想管理社会に辟易として、「癒やしの道」に参画する者も多くいたのである。

 ほら。21世紀を予感させるでしょ。もちろん、世界は統一されていないし、核戦争もなんとか回避されて現在まで来た。超大型コンピュータのようなシステムに収斂しなかった替わりに、ネットワーク社会における意志決定の仕方は人間の能力の範囲を超えて行なわれるようになってきた。格差は広がり、思想や行動は結果的に管理されるようになっており、レイシズムをはじめ差別的な排除思想が力をつけている。
 ちょっとストーリーの設定を置き換えれば、今に通じる物語である。
 読み方によっては「ターミネーター」みたいな感じもあるが、なんといっても本作品は1960年に発表されたものなのだ。
 すごくないですか。(いや、まず読んでください)。
 量的には長編というより中編ぐらいのボリュームで、ストーリーもそれほどひねっていないので、素直に読めます。ご都合主義的なところはありますが、気にしないこと。そんなことを初期のディックに求めてはいけません。

時を紡ぐ少女

CREWEL
ジェニファー・アルビン
2012

 続き物だったのか。2012年に発表され2015年に翻訳出版された「時を紡ぐ少女」を手に取った。ジェニファー・アルビンのデビュー作とのこと。若い女性が主人公のSFファンタジー的な作品である。ファンタジー作品の「ドラゴンの塔」(ナオミ・ノヴィク)を読んだことがあるのだが、冒頭の展開は似たパターンで、特殊な能力を持った少女が(望まないながらも)その才能故に選ばれ、意に染まない形で故郷や両親から引き離され、新しい生活をはじめることになる。そして、そこでその才能故の様々なできごとに巻き込まれていく…。性別問わず、ひとつの物語の定形であろう。

「時を紡ぐ少女」の世界はアラス。その世界では男性中心の政府組織が実態として社会の独裁的管理を行なっている。完全なる階層社会で、情報は統制され、多くの人々はその情報と教育のままに自らの暮らしに不満を言うこともなく、疑問も抱かずに暮らしている。
 この政府組織と社会を維持しているのが「刺繍娘」たちである。アラスの世界には目に見えない「糸」があり、それは人の命、世界の景観、環境を示すものである。織り上げられた世界に刺繍を施し、糸を抜き、刺し、世界は維持されている。天候も操作される。農作物の収穫も、その物流も、刺繍娘たちの操作で可能である。「刺繍娘」たちは、織機によって糸を見ることができ、糸を操作する力を持つ能力者である。
 主人公のアデリス・ルイスの能力はそれだけではなかった。彼女は織機がなくても糸が見え、それを操作する力さえも持っている。その力は時間をも操作するものであった。
「刺繍娘」にはすべてが与えられる。美しい衣服、最高級の食事、優雅な暮らし。それはアラスの一般の人々にとって憧れであり、偶像(アイドル)であった。
 両親や妹から引き離され、望んでいない「刺繍娘」として力尽くで選ばれたことに対し、アデリスは反抗する。権力者に対しても反抗的な態度のアデリス。権力者である織庁長官のコルマックは無理矢理にもアデリスを従わせようとする。なぜならアデリスこそはアラスの未来を左右する鍵だから。

 アデリスはアラスの世界で希有な「自由意志」を持つ娘として描かれる。同時に多感で恋愛に盲目になりながらも自分を貫く姿も描かれる。作中には登場人物の同性愛も描かれており、恋愛観には21世紀の作品らしさもうかがえるが、ヤングアダルト作品の範疇になるのだろう。恋愛観だけでなく、男性支配社会、女性の権利といった社会的問題もファンタジーを通じて問題提起している作品でもあり、ル・グィンを思わせるところもある。

 世界が織物と糸に操作される世界は、単純にファンタジーとして成立する。
 しかし、どことなくSFとしての世界観の要素を伺わせている。
 アラスはどのようにして成り立ち、織物や糸と世界の関係はどのようなものなのか、後半に進むにしたがって世界の「本当の姿」が少しずつ語られていく。アデリスは少しずつ世界の「本当の姿」に気づいていく。
 あとは答え合わせだ。

 情報化された仮想世界はもはやファンタジーと区別がつかない。進みすぎた科学は魔法と区別がつかない。
「おそらくこういうことではないかな」という答え合わせへの期待。

 しかし、本作ではあと一歩のところで答え合わせが行なわれない。
「続く」のである。
 もちろん、少女アデリスの成長譚として話はひとつの区切りにはなるのだが、「続く」のである。いやむしろ「さあここから物語がはじまりますよ」で終わるのである。
 置き去りにされてしまった。

 著者紹介を読むと本作の翌年2013年に続編「ALTERED」、2014年に3巻目の「UNRAVELED」が発表されている。本作は2015年に邦訳されているので訳者の方は少なくとも2巻までは確実に読まれた上で訳されているのだろう。
 残念ながらその後の翻訳出版は止まっているようである。訳者の方は多方面の翻訳でご活躍だから、おそらくは出版社の販売上の都合であろう。売れなければ続巻が出ないというのはよくあることだが、この、あえて言えば中途半端なエンディングで読めなくなるのはちょっと辛い