サイオン

PSION

ジョーン・D・ヴィンジ
1982

 遠未来宇宙時代の超能力ものである。
 はるか未来、惑星アルダッテーは地球に替わる交易と経済と文化の中心地である。人類世界はいくつもの星間企業連合と宇宙の交易を仕切る宇宙連邦輸送機構がその権力の中心を担っていた。そして惑星アルダッテーの首都クァロは太陽を見ることのない最下層部の旧市と、上層にきらめく新市とに明確に分かれ、人々もふたつの明確な階級の中で生きていた。主人公はそんな旧市で公安警察や労務者徴募局の目を避けながら生きてきた青年キャットである。キャットの由来は猫のように夜目がきき、抜け目なく路地から路地をさまよって野良猫のような存在だからだ。
 しかし、キャットは公安警察に捕らえられ、上層の新市に連れて行かれ、「超能力開発プロジェクト」に志願するならば仮釈放するともちかけられる。キャットの人生の転機である。キャットにはサイオンとしてテレパシストの素養があったのだ。
 さて、話は変わって惑星シンダー。ここは宇宙連邦輸送機構が支配する鉱物テルハシウムの採掘惑星である。テルハシウムは人類が光速を超えて宇宙を航行するのに不可欠な鉱物であるが、惑星シンダーなど限られた場所でしか取れないものであった。寒冷な惑星シンダーには実質的な奴隷労働者が送られ、そして次々と死んでいった。下級階層の犯罪者はいくらでも代わりがいるのである。
 もうひとつ話がある。あまり知られていないが、人類は別の知的種族とかつて遭遇していた。ヒドラ人である。彼らは人類とほぼ同じ形態をしているが、何より違うのは全員がサイオンだということである。そして、これも大いなる秘密だが、人類とヒドラ人は生殖可能なのであった。人類の中にはヒドラ人との混血もいるということだ。

 いま、宇宙連邦輸送機構やいくつかの星間企業連合があわててサイオンを探索、育成しているのには理由がある。現行の政治経済体制に対し、クイックシルヴァーというリーダーを中心にしたテロ組織が暗躍しているのである。クイックシルヴァーは巧みに姿を隠しながらテルハシウムを狙っているとみられている。そして、彼はサイオンのチームを抱えており、彼自身もサイオンであろうと。
 キャットは、超能力開発プロジェクトのリーダーであるジーベリンク博士の恋人であるサイオンのジュールに恋心を抱いていた。キャットは、その才能と若さ故の感情の不安定さ故に、人類社会のこれからを左右する陰謀の中心に巻き込まれてしまうのだった。

 作品としては、青年の成長譚という感じでもなく、主人公の性格にいまひとつ乗り切れないところもあるのだが、全体を通しての展開は派手である。想像の外側にいく。ひとつ言えるのは、キャット、悪いやつじゃない。むしろいいやつ。周りが結構悪いやつが多いけれど、キャット、いいやつ。そしてキャットを利害なしに助けるおっさん、いいやつ。そんなところかな。超能力ものの派手さはないから、それを期待すると裏切られるかも。

 80年代作品を印象づけるのが政治体制であろうか。こんにちのような「政府」組織が経済力と組織力を持つ企業連合に取って代わられ、交通と交易のネットワークを持つ機関が世界政府的な役割を持つ秩序体制となっている。このような政体がSF作品でみられるようになったのは80年代になってからではなかろうか。
 21世紀前半のいま、従来の「政府」組織は「国」という形で20世紀に続いて存続しているが、かつての帝国主義時代と同様、徐々に経済・技術集団である企業が力をつけ、政治力を陰に陽に発揮するようになっている。「GAFA」と代表的な企業の頭文字がつけられているが、もちろんこの4社だけではない。
 これから100年後もいまの政治体制が続いているとは限らないのだ。
 ただ、残念ながら自然能力としてのサイオン=超能力の開発はのぞめないだろう。その代わりを良しにつけ悪しきにつけ技術が実現していくのだろうけれど。

旋舞の千年都市

THE DERVISH HOUSE

イアン・マクドナルド
2010

 2014年に東京創元社から創元海外SF叢書の第一段として翻訳出版されたのが本書「旋舞の千年都市」である。2027年のトルコ、イスタンブールを舞台に月曜日から金曜日までの5日間の濃密な群像劇が展開する。長年の懸案課題図書をようやく手にする。
 イアン・マクドナルド。「火星夜想曲」(1988)も手強いSFだった。たくさんの登場人物、しつこいばかりの細部の描写、途中なんども投げ出しそうになるが読み終わって後悔のない旅路。2025年最初の1冊にふさわしい重厚な作品である。
 まず本書が上梓されたのが2010年というのがポイント。本書の中で2027年にはトルコはEUに正式加盟したばかりとなっている。2025年の現実では、実際のところ2027年にトルコがEUに正式加盟する可能性はまったくない。一時は実現可能性さえ危ぶまれたが、ロシアのウクライナ侵攻などの情勢を受けてトルコとEUの関係改善に向けた政治的模索は続いている。しかし、2000年代後半は、いずれトルコはEUに正式加盟できるのではないかと楽観視する見方もあった。作者のイアン・マクドナルドは少しだけ好意的な舞台設定をしたと言える。また2010年当時はまだスマートフォンが広がりをみせはじめた時期である。本書に出てくるジェプテップ(携帯)の機能は2025年のスマホよりもより高性能であり、ナノテクやバイオテクに関しては本書の2027年は現実よりはるかに先を行っている。
 まあ現実との比較はその程度にしておこう。

 舞台はイスタンブールである。実は1990年、すなわち35年ほど前、私はトルコを旅していて、玄関口であるイスタンブールには行き帰り合わせて2週刊ほど滞在した経験がある。主に滞在したのは当時バックパッカーが泊まる安宿の多いヨーロッパサイドの旧市街側であったが、イスタンブールの新市街側やアジア側にも行く機会を得た。それからトルコはいくつかの政治的危機やはげしい経済的動乱、そして発展をするのだが、イスタンブールという都市の歴史的積み重ねは35年ぐらいではびくりとも揺るがない。だから登場する町や歴史的建造物などには記憶にあるものもあって、読んでいて私の記憶の奥底をかき回されるような気持ちにもなった。もちろん、実際にイスタンブールを訪れたことがなくても、本書を読む価値はまったく減じることがない。
 人類世界の中心のひとつ、それがイスタンブールであることは間違いないからである。ちなみに、トルコの首都はアジア側のアンカラである。イスタンブールは首都ではない。それでもイスタンブールはアジアとヨーロッパの結節点にあり、イスラム教とキリスト教に代表される文明の衝突と混交の地であり、人と物と文化の交差点である。
 主要登場人物は6人。このうち5人は旧市街の古い古い修道僧(ダルヴィーシュ)の館を改装したアパートの住人である。
 ある事件をきっかけに宗教的存在を見ることができるようになった若い男性。心臓に障害を持ち「大きな音」を避けるために常に耳栓をつけて暮らす利発な9歳の少年。その少年にナノテクの玩具のプログラム方法を教えたりしているギリシャ系の引退した経済学者の老人。田舎町から親戚を頼って出てきてマーケティングの学校を卒業し就職活動をしている若い女性。ダルヴィーシュの館の一角で歴史的宗教的美術品の画廊を営むやり手の女性。その夫は天然ガス商社で先物トレーダーとして成り上がろうとしている野心家。
 この6人のそれぞれが、それぞれの場所でさまざまな人と絡み合いながら物語は進展していく。濃密な5日間。
 最初に起きるのは自爆テロ。トラム(路面交通機関)で自爆した女以外に誰も死ななかったが、月曜日の朝、それは激しい交通渋滞を引き起こしただけだった。9歳の少年はその事件現場にナノテクのおもちゃを自分の「目」として送り出し、そこに「少年探偵」として「事件」を見いだしてしまう。画廊の女の元には、はるか昔から伝承として伝わる「蜜人」を見つけて欲しいとの依頼が舞い込み。その夫は自分の仕事を舞台にした大がかりな詐欺の計画を実行しようとタイミングを計っている。老経済学者の元にはトルコ政府のの秘密組織から研究会への参加を求められる。若い女性は親類の男とクルド人の研究者が開発したバイオコンピューターテクノロジーのスタートアップ企業を手伝うことになり。金が絡み、政治が絡み、欲が絡み、テクノロジーが絡み、宗教が絡み、そしてイスタンブールという千年の都市の歴史がまとわりついてくる。
 6つの視点の物語はまるでイスタンブールの歴史のようにやがて少しずつ交錯し、金曜日を迎えることになる。
 SFとしての「外挿」は近未来の予測としてさほど突飛なものはない。近未来を舞台にした普通のエンターテイメント小説と言ってもいいかもしれない。それほど新しいテクノロジーをうまく物語に取り入れてあるからだ。だからSFとしては特筆すべきものではないかもしれないが、過去と未来が交差するなんとも言いがたいあじわい、趣がある。
 イアン・マクドナルド、読後に後悔なし。

 追記 主人公の老経済学者はギリシャ系である。トルコのギリシャ系の人々は、かつて非イスラムの少数民族として迫害を受け、多くの人たちがギリシャに逃れ、ギリシャでも苦難の暮らしを続けていた。トルコに残っても少数のコミュニティとなり差別的な待遇となっていたのだ。また、登場人物の一人にクルド人の研究者が登場するが、トルコ人の若い女性がクルド人が研究者であることに初対面でとまどうシーンもある。
 トルコは本来多民族他宗教の混交する地であり、第一次世界大戦後ケマル・アタチュルクによってトルコ共和国は独立し、イスラム教主体だがアラビア語表記を廃し、アルファベット表記に変え、政教分離をはかるなど西洋との接点を築こうとしたのだ。しかし、内実はイスラム原理主義と世俗主義の間に揺れ動き続けているし、ギリシャ系への迫害、トルコ、イラン、イラクなどの山岳地帯に生きるクルド人に対する迫害など、多くの問題を抱えている。
 本書では、さりげなくそういう差別の視点と、そうではなく人と人との関係性の構築という当然のあり方を作品に織り込んである。
 トルコのことだけではない、日本でもそういう差別は多い。心して読んでおきたい。

戦いの子

WARCHILD

カリン・ロワチー
2002

 2008年に邦訳された作品。2000年代に入ってからだろうか、売れるSFなのか宇宙ミリタリーものの翻訳が増えてきた気がする。たしかにおもしろいのだろうがシリーズものはなかなか食指が伸びなかったりする。食わず嫌い大王だからな。
 釣り書きには「エンダーのゲーム」を彷彿させる少年の成長譚、傑作戦争SF巨編、などとある。「エンダーのゲーム」を言うのならば、続編全部訳してよ、とか思ってしまう食わず嫌い大王である。
 それでも、つい手を取ってしまうこともある。そして当たりだと嬉しくなる。

 当たりだ。

 とっつきは主人公を2人称で語るので心配したが、やがて主人公視点ながらも3人称で語られるようになる。成長に合わせて、ということかも知れない。

 舞台は遠い未来。人類は地球を中心に遠宇宙まで進出していた。辺境の星域で有望な資源惑星を発見したがそこにはすでに異星種族ストリヴィイルク=ナがやはり資源を求めて進出しており、人類側からの戦争が勃発する。人類側にはストリヴィイルク=ナに協力する一派も現れ、彼らは人類のメインサイド政体であるアースハブからはシンパサイザーと呼ばれ、異星種族同様の敵とされている。
 主人公のジョスは巨大な商業宇宙船に生まれ育った少年、その宇宙船が人類の海賊船に襲われ、ジョスはさらわれて海賊船の船長ファルコンのペットとして躾けられていく。芯がしっかりしていて、美形で、頭がよくて、体力の可能性を持つ、見込みのある少年だったから。
 のちに海賊船が立ち寄った辺境のステーションで、異星種族の襲撃のどさくさに紛れてジョスはファルコンから逃げ出すが、結果的にシンパサイザーのリーダーの一人に捉えられてしまう。そして、アースハブとはまったく異なる世界で彼は新たな教育と技能訓練を受けることになる。やがてジョスは使命を帯びてアースハブ軍に潜入することになる。そこでジョスは…。
 ということで、大人たちの、世界の都合で少年は翻弄されながらも知恵を付け、技能を身につけ、そして、たくましく生きていくことになる。

 この物語にはふたつの視点がある。ひとつは現代社会で世界の主流となっている西洋文化と、それ以外の「異文化」との対話の物語である。人類主流のアースハブはまんま現在の西洋文化を体現しているし、異星種族の文化的影響を受けているシンパサイザーは古い東洋やアフリカ、中東の文化から混交したもののようである。ジョスを通じて、異文化間の齟齬と対話の可能性を模索する。もうひとつが今日的な児童虐待や性的虐待、暴力による精神的支配などとそのトラウマ、そしてそこからの回復といった視点である。ジョスは「強い子」ではあるが、いくつものレイヤーで本人には気づくことができないトラウマを抱えている。その救済とは何か、である。本人というよりこれは周りのあり方の問題となる。
 物語の展開は、まさしくミリタリーSFそのものであり、エンターテイメント作品ではあるが、きちんと深読みできる構成になっていて好感が持てる。

 ジョス、君は君なりによくやっているよ。

テメレア戦記8 暴君の血

BLOOD OF TYRANTS

ナオミ・ノヴィク
2014

 ナポレオン戦争の真っ最中、中国皇帝からフランス皇帝ナポレオンに贈られたドラゴンの卵。フランス海軍船を拿捕したイギリス海軍艦の艦長ローレンスは、孵化したドラゴン・テメレアと感合し、パートナーとしてそれまでの地位を放棄し、航空隊のキャプテンとなる。ローレンスとテメレアは、イギリス、アフリカ、中国、トルコ、プロシア、フランス、そして、オーストラリアを経て、インカ帝国まで、ときには命令を受け、ときには彼らの意志の下に長い旅を続けてきた。戦い、傷つき、諍い、ときには離ればなれになりながらも、テメレアとローレンスの結びつきは、様々な出来事を経て、経験を経て、より深いものになっていった。もちろん、若く誇り高い竜であるテメレアの考え方と、18世紀末から19世紀初頭の英国貴族出身である軍人ローレンスの考え方には大きな違いがある。お互いがお互いに影響を与えながら、「ドラゴンが当たり前にいる世界」に生きているのだ。
 その旅も、のこり2冊となった。全9巻、いよいよ8巻目である。楽しみ。

 おい。

 君たちは海路で南米から中国に向かっていたのではなかったのか?
 なんでローレンスは記憶を失って九州の海岸、松林に打ち上がっているのだ?
 テメレア、君はどこにいるんだ。

 たしかに、本シリーズ、いつも大変な目に合っているのはローレンスである。
 昇進を嘱望された若き貴族の軍艦艦長が、テメレアと感合したばっかりに格下とみられた航空隊に中途転属するはめになり、実家との関係は悪くなり、婚約者に捨てられ、そこから碌なことはない。捕虜になったり、死刑囚になったり、誘拐されたり、流刑になったり、死にかけたり、死にかけたり、死にかけたり。あんなことやこんなことや。
 それにしても、記憶喪失とは。
 しかも、1巻がはじまる直前、そう、海軍艦の艦長として意気揚々としていた、あの時代、テメレアと出会う前の記憶までしか残っていないのだ。
 ローレンスの扱い、ひどすぎやしませんか?

 でも、だからこそ、8巻ではじめてテメレアに出会う読者も、もしかしたら楽しく読めるかも知れない。
 しかし、やはり1巻からだよな。そして、9巻の前に、ローレンスとテメレアの過去の振り返りとともに「出会い直し」を味わうことができるのだ。ありがとう作者。ありがとうナオミ・ノヴィク。長編シリーズ物の醍醐味を分かっていらっしゃる。

 それにしても、日本である。まだ実質的には開国前、江戸末期である。雨を降らし、雷を落とす、水と縁の深い竜のいる日本である。あの竜である。テメレアが中国皇帝に贈られた卵から孵化したドラゴンということもあって、どちらかといえば西洋のドラゴンであった。だから必然的に中国のドラゴンは西洋っぽいところがある。東洋的な竜(龍)はでないのかな、と思っていたら、派手に出てきました。しかも、形態は東洋の竜だけれど、その登場などはちょっとゴジラ感もある。日本の読者へのささやかなサービスなのかな。いいぞ、いいぞ。

 8巻のストーリーは、ローレンスの記憶のことは置いておいて、その後、もとの船やドラゴンたちと合流し、当初の目的地である中国に辿り着くイギリス人ご一行。ナポレオンのロシア侵攻を受けて中国のドラゴン軍と一緒にロシアの加勢に向かうことに。そこで…。

 ということで、現実の歴史と「テメレア」世界のドラゴンのいる世界の歴史はときには近く、ときにはまったく遠く、ときには時間軸がずれつつも18世紀末から19世紀初頭の時代感のなかで歴史改変ドラゴンファンタジーを味わえるのである。

 そして、忘れてはいけない、この物語の背景にずっと流れている「知的存在の個の尊重」というテーマ。ドラゴンやドラゴンのパイロットを差別的に扱うイギリス。19世紀の色濃い身分格差、女性差別…。中国での人とドラゴンの対等な関係性と、同居する権威主義。アフリカの奴隷問題、民族紛争、インカ帝国におけるドラゴンと人の逆転的なクラン。戦争の敵に対する正義の名の下に行なわれる非道。テメレアとローレンスの目と体験を通して、21世紀の現代の、現実世界の「人間の闇」と、それを解決するための人の心の持ちよう、行動の持ちようを、作者ナオミ・ノヴィクは読者に伝えるのだ。
 もっとも、テメレア戦記はファンタジーである。純粋に楽しめば良い。楽しんだ先に、現実の未来がつくられる。

 余談だが、2024年は十二支の「龍(辰)」の年であった。私は「巳」であるが、「早生まれ」なので、同級生たちの多くは「辰年」である。そして、還暦でもある。
 そういうご縁もあって、今年のうちにドラゴンものをなるべく読んでいたかったのだ。
 テメレア戦記と、ドラゴンSFの金字塔アン・マキャフリイの「パーンの竜騎士」シリーズをまとめて読むことを課していた。
 もう年末だ。達成したぜ。第9巻の邦訳出版を待ちながら、新しい年を迎えたい。

ファンタジーとSFの間の大河ドラマ「パーンの竜騎士」シリーズ

 アン・マキャフリイの「パーンの竜騎士」シリーズを通しで再読した。ことのおこりは2024年になってナオミ・ノヴィクの「テメレア戦記」を読み始めたからである。テメレア戦記はシリーズ6巻で翻訳がストップしていたのだが、新たな出版社で最終刊まで新訳と旧著の再版が決まったことから、読み始めたのである。これを読み始めてすぐに「パーンの竜騎士」のことを思い出し、並行して読みたくなったのだ。「パーンの竜騎士」はシリーズの前半はある程度まとめて読んでいて、その後は出版されるたびに飛び飛びで読んでいたので登場人物などのつながりをいまひとつ覚えていなかったので通し読みをしたいと長年宿題にしていたのだ。読書感想を付け始めた後、2005年8月に「竜のイルカたち」を読み、2007年8月に「竜と竪琴師」を読んでいる。どちらもすこし外伝的な要素があるので読みが浅くなっていた。今回、しっかりと「竜の挑戦」までを読んでから「竜のイルカたち」「竜と竪琴師」を読んだので、ちゃんと物語の世界に入り込むことができて、実に良かった。

「竜とイルカたち」は「竜の挑戦」と並行した時期を描いた作品で、主人公はパラダイスリバー城砦の太守となったジェイジとアラミナの息子リーディスである。彼の成長とかつて人類とともにパーンにやってきた知的種族であるイルカたちと人類との「再会」を軸に、パーンが糸胞から解放されあらたな変革期に差しかかるまでを描く。邦訳されている作品群の中ではもっとも「未来」を描いた作品でもある。
 同時に、「竜のイルカたち」は「竜の挑戦」という物語の中心軸に対して、市井の人々や周辺を描くことで読者にパーン世界の色彩を深めていく役割を担う。
 これは「竜の貴婦人」と「ネリルカ物語」が前者は太守や竜騎士といったパーンの世界を動かす中心的な人たちを軸に物語を描いたのに対し、後者が同時期の市井の人々を描いたのと同じような位置づけの作品とも言えよう。
 さて「竜の挑戦」ではきわめて大きなエピソードとして竪琴師ノ長ロビントンの死が描かれる。「竜の戦士」にはじまる本筋の物語の中で回を重ねることにロビントンの存在感はとても大きくなる。その死は、ひとつの時代の終わり、新たな時代のはじまりを予感させるものともなった。「竜とイルカたち」では違うサイドからロビントンの死とその後が描かれる。
 一方、「竜と竪琴師」は、ロビントンの誕生から彼が竪琴師ノ長になるまでが描かれる。それは「竜の戦士」の直前までを描く作品であり、本筋の時代を動かす太守たち、竜騎士たちなどの登場人物の若き日やその交流が描かれる。作品としては、本筋の時代よりはるか昔を描いた「竜の夜明け」「竜の貴婦人」「ネリルカ物語」はあるが、本筋としては「竜の竪琴師」がはじまりの物語とも言える。それは糸胞の襲来が伝説になっていた平和な時代の物語でもあった。
 そして、ロビントンを主軸として捉え直すことで「パーンの竜騎士」はファンタジーからSFへと姿を変化するのである。
 それでも、読むならば「竜の戦士」からの三部作を先に読み、続いて「竪琴師」の三部作、「モレタ」の二部作、「竜の夜明け」をはさんでの「竜の反逆者」からの三部作、最後に「竜の竪琴師」という順番で読むことをお勧めしたい。
「パーンの竜騎士」シリーズは、未訳の作品や息子との共作のシリーズもあるようだが、たぶんこれらは翻訳されることはないのだろう。読みたい気もするが、この邦訳シリーズはなかなかいいところまでやってくれたと思う。うれしいね。

竜の戦士 (Dragonflight 1968)
竜の探索 (Dragonquest 1970)
竜の歌 (Dragonsong 1976)
竜の歌い手 (Dragonsinger 1977)
白い竜 (The White Dragon 1978)
竜の太鼓 (Dragondrums 1979)
竜の貴婦人 (Moreta: Dragonlady of Pern 1983)
ネリルカ物語 (Nerilka’s Story 1986)
竜の夜明け (Dragonsdawn 1988)
竜の反逆者 (The Renegades of Pern 1989)
竜の挑戦 (All the Weyrs of Pern 1991)
竜とイルカたち (The Dolphins of Pern 1994)
竜と竪琴師 (The Masterharper of Pern 1998)