ドルセイ!

DORSEI!

ゴードン・R・ディクスン
1960

 1983年に邦訳された「ドルセイ!」を2022年に読む。83年といえば大学生で、本は買い放題していた頃なのに手にも取らなかった。ミリタリーSFはあまり読まないし、シリーズもので手に取る感じではなかったのだ。たまたま4冊一度に入手できたのでまとめて読んでみた。最初から余談だが、訳者が今住んでいる町の近所に(当時)お住まいだったようである。昔の奥付には著者や訳者の住所が書かれていたりする。インターネット以前の時代である。
 本題に入ろう。本作の訳者あとがきによると、「ドルセイ!」は著者のディクスンが「チャイルド・サイクル」と名付け、14世紀から24世紀までの全12作大河ドラマで、著者構想では歴史小説3、現代小説3、SF6作品とのことである。
 ちなみに、日本では本書「ドルセイ!」「ドルセイの道」(1962)「ドルセイの決断」(1980)「ドルセイ魂」(1979)と、「兵士よ、問うなかれ」(1968長編版)が邦訳されており、未訳として「The Final Encyclopedia」 (1984)、「The Dorsai Companion 」(1986)、「The Chantry Guild」 (1988)、「Young Bleys」 (1991)、「Other」 (1994)、「Antagonist」 (2007,with David W. Wixon)がある。
 ディクスンといえば、私が思い浮かべるのは軽妙な笑えるSFである。なかでも「ホーカ」シリーズはなかなかの名作だと思う。
 そのディクスンがもっとも力を入れていた作品群が「チャイルド・サイクル」であり、人間と歴史・文化・哲学・政治(軍事)のありようと幼年期の終わりを描く予定であったらしい。だから、「ドルセイ!」は私が誤解したようなミリタリーSFではないらしい。「らしい」というのは、やはりミリタリーSFだからだ。それは宇宙に分化した人類のひとつ惑星ドルセイのドルセイ人が軍人として傑出した特徴を持つ人たちであり、小説のタイトル通りドルセイ人が主人公であるからだ。
「ドルセイ!」では、惑星ドルセイで軍人としての訓練を受けて育った名家グレイム家の若き士官候補生ドナル・グレイムが主人公である。ドルセイの中でも優れた軍人を排出するグレイム家においても、ドナルの才覚は傑出したものがあった。それは余人には理解できないもので超一流の推理力というか直感力のようなものであり、的確以上に現状や他者の動きを把握することができる能力である。その能力故の行動は、それ故に彼を最高の軍人にするかも知れなかったし最悪の軍人にするかもしれなかった。
 西暦2403年、600億の人類は12の異なった世界、文化、人たちに分裂していた。その中で、ドルセイ人たちは各世界から傭兵として請われ、その契約金をもって惑星を維持し、栄えさせていたのだ。
 ドナルもまた最初の契約を結ぶため星間の超豪華客船に乗り込んでいた。彼はそこで世界への影響力を持つ惑星セタの皇太子ウィリアムとの間に関わりを持つことになる。それはやがてドナルを高みに押し上げ、巻き上がった世界の混乱を平定し、分裂した世界がつながるきっかけを生むことになる。そんなドナルの軍人としての半生が描かれる。
 成長譚というにはドナルが特別すぎる。ミリタリーSFというには戦闘シーンは少なく、人間ドラマや戦略ドラマ風である。

 著者が望んだ「チャイルド・サイクル」という言葉より「ドルセイシリーズ」という言葉の方が当時は先行していたようである。アメリカではとても人気が高い作品だったようだが、日本ではさほどでもなかった。そのため後半は未訳となっている。
 今回4作品を読んだのだが、時系列は異なるものの同じ登場人物が主従を変えながら次々に登場してくる。また作品中で描かれる描写の中に、別の作品のエピソードの前後が書かれていたりする。それぞれのエピソードは丹念に書かれるというより余地が多い。まるで「ギリシャ神話」辞典を読んでいるかのような気になることもある。だから読み下すのには時間がかかる。さほど長い作品ではないがそういう積み重なる面白さを楽しめるかどうかが鍵である。

 それにしても、歴史はたしかに語っているし、21世紀の現在になってもこの地球上で人類同士の侵略行為が起きているのだが、武力なき外交というのはありえないものなのだろうか。

(2022.3.27)

ぼくたちの好きな戦争


THE WAR WE LOVED TO PLAY

小林信彦
1986

 久々に読み返していたらウクライナにロシアが侵攻をはじめてしまった2022年2月。喜劇なのに笑えないなと、だからこそこれは小林の純文学的傑作だなと改めて思った。

 再読のきっかけは、先日「暮らしのファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた」(大塚英一、2021)を読んだからである。大塚は、1940年からの大政翼賛体制の中で、のちに「暮らしの手帖」を興す花森安治や、転向者である太宰治、詩人尾崎喜八などを追いかけながら、「新しい日常」「ていねいな暮らし」をディレクションしてきた文化人たちの危うさを評していた。まだ未読だが、大塚には「大政翼賛会のメディアミックス―「翼賛一家」と参加するファシズム」(2018)という前著がある。それについては、「暮らしのファシズム」でも、マンガ設定として「翼賛一家」が二次創作を前提としたメディアミックスによる参加型誘導装置だったことが触れられている。
 これを読んで、そういえば小林信彦が書いていたなと思い出した次第。

 第二次世界大戦が終わったのは1945年8月。それから41年後に小林信彦が書き下ろした小説「ぼくたちの好きな戦争」である。執筆中と思われる1985年前後は日本では中曽根康弘が首相、アメリカではロナルド・レーガンが大統領という今日の日米の軍事関係を形成する上で重要な時期であった。日本はバブル経済で絶好調、中曽根とレーガンを「ロン・ヤス関係」とあたかも対等かのようにうそぶき、国土を「不沈空母」と例えて日本の軍事増強を正当化した(のちに中曽根はそう言っていないと話す)。つまり、日本は敗戦後、高度成長期を過ぎ、「追いつき追い越せ」から「世界のトップに並んだ」ぐらいな浮かれ具合にあったのである。

 冷戦の対象であるソ連は混乱し、当時はまだ眠れる獅子のままであった中国は道を選びかねていた時代。「戦争」について当事者的ではない形で語られる時代でもあった。たとえば、本書「ぼくたちの好きな戦争」が出版された直後、広告雑誌「広告批評」は1986年8月号で「特集 第三次世界大戦宣伝計画」を出し、表紙を黒塗りにしてみせた。
 広告会社とコピーライターなど広告クリエイターが花形の時代である。

 そんな時代、テレビマンでもあった小林信彦がずっと温めていた戦時を「楽しんでいた」姿を喜劇として描く作品が本書なのである。主人公は東京の下町で代々和菓子屋を営む秋間一家。「家業」を継いだ秋間大介と病弱な息子の誠、大介の弟で売れない画家の公次、その弟で喜劇役者をやっている史郎。舞台は1940年から1945年まで。公次は食うために書いた風刺画が「大政翼賛会」に認められていく。史郎は海外慰問団に入り、東南アジアで前線を楽しみ、そして招集されて前線に立つ。作者小林信彦を反映した誠は戦争という日常の中でのささいなできごとに翻弄される。
 戦争前半は戦争にのめりこみ浮かれ楽しみ喜んでいた人たちがいたのである。
 なぜそのことを書かないのか、戦後の「悲惨な戦争文学」に抜けている視点、人間の欲望や本質といったところを喜劇の形でえぐりだしたい、そういう作者としての思いがこの小説となっている。もうひとつ、この小説にはしかけがある。

 P・K・ディックは天才である。小説「高い城の男」(1962)は、枢軸国日独がアメリカに勝ち、アメリカを東西に分断した社会を描き衝撃を与えた。日本では1965年に一度翻訳され、1984年にハヤカワSF文庫で再度翻訳され、折からのSFブーム、ディックブーム、「1984」ブームの中でヒットした。連続ドラマにもなっている。
 この設定は最近もSF小説の「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス,2016)で使われている。本書「ぼくたちの好きな戦争」でも第4章、第6章の「虚構」で軍事輸送船に乗っている売れないラジオ作家のシナリオとしてアメリカが負け、アメリカに駐留する日本軍のふるまいを、本編と対照させながら描いている。もちろん、作品末の参考資料リストには「高い城の男」が明示されている。付録についていた扇田昭彦との対談「笑いと仕掛けで描く戦争」でも、このことについて触れており、「つまり、過去の物語で終わりたくないという気持ちです。これは、現在と未来についての物語でもあるわけです」と本作の構成について語る。日米を二極としてこの戦争を書く上での落としどころが必要だったのかもしれない。
 戦争を悲惨に書かないのは難しい。いや、もちろん、本作でも戦争は十分に悲惨だ。肉体は焼け、ばらばらになり、腐敗し、白く浮く。どんなに喜劇的状況でも起きた現象は凄惨である。そこに笑いをねじこんで来る小林の迫力を感じる。

 この作品の登場人物の中でもっとも戦争を楽しんでいたのは風刺画作家となり、大政翼賛会の報道関係者の中でも特権的地位を与えられ、航空機を自由に手配できた公次である。「家」と「家長」に反発し、古い因習をことさらに嫌った公次は、風刺画家として戦争を鼓舞する側に回り、バリ島など各地で優雅な日々を過ごしていた。戦争が押し詰まると日本で戦争鼓舞の雑誌編集長となり大本営司令部にも出入りし、情報をつかみ、暮らしに不平不満はなかった。そして敗戦が決定的になると、彼は戦犯から逃れることと、戦後に「何が流行するか」を考え始めるのであった。
 きっとそういう人たちが、戦中戦後にもいたのだろう。

 本書が書かれてから35年が過ぎた。第三次世界大戦はすくなくとも昨年までは起きていなかった。
 2022年が、第三次世界大戦の幕開けとならないよう、戦争を止めろと声を出すほかない。
 どんな喜劇的状況でも、戦争は悲惨すぎるのだ。

 ここ数日のtwitter投稿、漫画家のとり・みき氏はこうつぶやく「戦争はギャグの切れも受けも悪くなるから嫌いだ。戦争反対

 戦争反対。

セミオーシス

セミオーシス
SEMIOSIS
スー・バーク
2018

 傑作です。
 それはさておき、「セミオーシス」日本語では「記号現象」「信号過程」などと訳される記号論の専門用語だとか。
 記号論といえば、学生の頃ジュリア・クリスティヴァの「セメイオチケ 記号の解体学」「セメイオチケ 記号の生成論」を買って読んだが歯が立たなかった。もしかすると授業の教科書だったのかも知れないし、ただ買ってみただけだったのかも知れない。それさえも忘却の彼方。80年代前半の日本ではポスト構造主義などが盛んに著述、翻訳、議論されていた時期で、そういう学問にちょっと首を突っ込んでいたものの、論理的思考が苦手なのか、覚えていて、思考の中で使っているのは「意味するもの/意味されるもの」について意識し続けることぐらい。それはまあ、役に立ったかな。

 さて本題。
 環境の荒廃した地球に愛想を尽かした人たちが、別の場所で人類をやり直したいと考え地球を飛び立った。158年後冬眠から目ざめ着陸した星は、地球より古く、少し重力の大きな惑星だった。動植物が栄えたこの惑星で無事到着した人たちのサバイバルがはじまる。7世代107年の物語。パックスと名付けられたその惑星には、高度な知性を持つ植物がおり、ある植物は新たに来た動物である人類を排除しようとし、ある植物はその動物をうまく支配して自らの繁殖に役立てようとしていた。異質な環境の中で、死者を出しながらも、その土地に適応しようともがく人類。この惑星には先に都市を築き、とうにいなくなった先住の異星人がいた痕跡があった。また、動物たちの幾種類かは高度とまではいかないが知性の片鱗を見せており、限られたセミオーシスを使用していた。果たして人類は、惑星パックスで生き延びられるのか。知性のある植物との関係はどうなっていくのか。先住異星人の謎は解き明かされるのか。さらには、地球を知る第1世代と、パックスしかしらない第2世代やその下の世代の確執はないのか。平和という理想を掲げて入植した人々と惑星をめぐる物語は複雑に絡み合いつつ、6つの章立てで進んでいく。それぞれの章には一人称の「わたし」がいて、それは章ごとに世代も時期も異なり、「わたし」の視点が異なる以上、物語の風味も変わっていく。新しい探検、世代の確執、異種族との文字(視覚的記号)や言葉(音声的記号)とは異なるコミュニケーションプロトコルの発見、殺人事件、紛争…。
 読み手の視点も様々になるだろう。文庫の帯には「新世代のル・グィンが描く、21世紀の『地球の長い午後』」「知性を持つ植物は人類の敵か味方か」「7世代100年、惑星植民者と知的植物のファーストコンタクト年代記」とある。
「ル・グィン」とは「闇の左手」を意識し、異種族間コミュニケーションや今日的な多文化共生志向のようなことを言いたいのだろう。たしかに最初手に取るとき、もしかして環境優先主義的視点で書かれた教条的な作品ではないかとちょっと身構えたところがある。しかし、それは杞憂である。もちろん環境との協調、平和志向、民主主義、多文化共生、他者への寛容と受容などのテーマや表現はふんだんにあるが、同時にそれを達成することの難しさを、その対極の状況を描くことで見事なエンターテイメントであり、思考させる作品となっている。
地球の長い午後」は植物と人間のコミュニケーションを想起させるからか。ここに登場する植物の知性体はその思考パターンは人間っぽいけれど、使われるセミオーシスの描きっぷりはハードSFである。なるほど、そうやって他の植物や動物とコミュニケーションとるのか、記憶や思考を生み出すのか、おもしれー。
「ファーストコンタクト年代記」の表記は火星人が出てくる「火星年代記」も思わせる。リアルな物語なのだけれど、「火星年代記」同様にそこはかとないファンタジー感もある。異星での人間と植物の共生の物語と書くだけで懐かしい感じがしてくる。
 私が思い出したのはデイヴィッド・ブリンの「知性化シリーズ」である。とりわけ、「星海の楽園」で、いくつかの異星種族が禁忌となっている惑星に逃れこっそりと共生している姿である。かつて先住し都市までつくったのにいなくなった異星種族の存在や、主人公たる移住者の「地球はもうだめだから新しい楽園をつくる」という価値観と重なってくる。

 最後に、セミオーシスに戻ろう。人間同士のコミュニケーションでも言葉が違うと意思疎通がとても困難になる。さらに身振り手振り、しぐさ、顔の表情、服装、髪型、匂いなど身体的、文化的なコミュニケーションがあり、同じ表現でも意味が違ったり、解釈が分かれたりする。まして異なる生物との間のコミュニケーションは大変難しい。とりわけ知的生命体同士の場合には、やりとりされる情報が多くなる。人類の場合、数学でのコミュニケーションを想定している。整数からはじまるプロトコルだ。しかし、それが果たして適切なのかどうかすら分からない。ただ、異星知性が存在し、情報を受け取れる状況にあるならば、技術的開発が行なわれている「はず」だから、その基礎となる数学は持っている「はず」なので、そこからはじめるのが確実ではないかと推察しているのだ。はたしてそうかな? スー・バークはどんな答えを用意しているだろうか。

(2021.2.21)

スタープレックス

スタープレックス
STARPLEX

ロバート・J・ソウヤー
1996

 時は2094年、場所は地球から53000光年離れた異星知性体イブ族の母星からさらに368光年離れた星系で調査作業をしている宇宙船スタープレックス号。1年前に就航したこの巨大な宇宙船は、イブ族、地球の人類・イルカ族、地球から7万光年離れた惑星リーボロを母星とするウォルダフード族が資金供与してリーボロ軌道上で建造された。この3つの母星にとって史上最大の宇宙船であり、各種族合計1000名の乗員が「ショートカット」の探査と他の知性体とのファーストコンタクトを目的に乗船している。
 ショートカットとは、この宇宙に何者かによって設置された恒星間ゲートのようなものであり、そのショートカットに何者かが故意であれ偶然であれ入り込んだ時点で起動する仕組みになっている。そして進入角によって到達する出口のショートカットが異なる。分かりやすく言うと「どこでもドア」だ。このショートカットを発見し、利用可能にするためには、実空間で休眠しているショートカットにたどり着き、入口として開く必要がある。イブ族、人類・イルカ族、ウォルダフード族は惑星連邦を組んで、既知可能な宇宙を広げようとしていたのだった。
 主人公はキース・ランシング。人類の社会学者でありスタープレックス号の指揮官でもある。その妻のクラリッサ・セルバンテスは生命科学部門の責任者でスタープレックスのナンバー2のひとり。もうひとりのナンバー2はジャグ・カンダロ・エン=ペルシュ、ウォルダフード族であり物理科学部門責任者である。つまり、ショートカットを含む天文領域の調査はジャグが主導権をとり、内部のエコシステムおよび生命が存在する可能性がある場合の調査責任はセルバンテスにある。そして、キース・ランシングは全体を調整する役割がある。ウォルダフード族は人類に対してあまり好感を持っていない。しかも、キースとクラリッサは夫婦。ジャグはキースが生命科学部門をひいきしていると怒り狂っている。キースはスタープレックス号のミッションを果たさなければならない。冒頭から異種族間のいざこざの気配あり

 大元ネタは「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト、1950)である。科学調査探検船であるビーグル号も乗員1000人なんだよ。
 あと80年代フレデリック・ポールの「ゲイトウエイシリーズ(ヒーチーシリーズ)」も彷彿とさせる壮大な展開が待っている。同時代的にはスティーヴン・バクスターの「ジーリーシリーズ」の感じもある。
 ストーリーはタイムラインとしては2系列に書かれている。ひとつは、主人公のキース・ランシングが会議のためにひとりでショートカットに突入したら予定とは違う奇妙な場所に出現してしまい、そこで不思議なガラスのような男とキースの過去から現在までを対話する流れ。そこではキースの人生を追うことで世界の過去から現在、未来が語られる
 もうひとつのタイムラインはキースが会議が必要になる大きな出来事のタイムライン。その出来事はキースがショートカットに入る前から入った後まで連続して描かれる。
 異星人との諍い、ショートカットを通過してきた恒星の存在と異質な生命体、そして語られる宇宙の創世から未来への道
 壮大。
 だけど、どれもこれもネタバレになるので書けない。
 後書きの解説で大野万紀氏が本書で解き明かされるおもな謎やアイディアを15上げている。
 ちょっとだけ上げておくと、
 4 ダークマターの正体とはなにか。
 9 銀河の渦状肢はどうしてできたのか。
 14 この宇宙で人間原理はなぜ有効なのか。

 なんだかこれだけみるとグレッグ・イーガンばりではないか。でも、本書は軽めのハードSF。エンターテイメント重視。これをシリーズものにせず、単発で書いて作品としてすっきりしちゃうのがロバート・J・ソウヤーという作家なのだろうな。

(2022.2.5)

TVアニメ LISTENERS

リスナーズ
2020

監督 安藤裕章 構成 佐藤大 脚本 じん、佐藤大、宮昌太朗
https://listeners.rocks/

ロック音楽をテーマ&モチーフにしたボーイミーツガールのロボットアニメ」だ。
 すごくおもしろかったけれど、対象は誰だ?という気もする。
 全12話で、1960年代~00年代のロック、しかもプログレからプリンスまでがモチーフになり、レコードジャケットで見たことのある構図の絵などが平気でどんどん出てくる作品だ。私は20代になるまでほとんど「洋楽」に縁がなく、せいぜいビートルズ、ローリングストーンズを聞くぐらいだったのだが、高校から大学にかけての友人とそのお兄さんがプログレ者だったり、高校の先輩が「プログレ友の会」なるものをつくっていたりと周りにはたしかにいた。
 そして2020年代の現在、音楽はレコード、CDといったマテリアル時代を経て配信の時代を迎え、古い楽曲が、当時生まれてもいなかった、ひょっとすると親や祖父母の時代の楽曲までも「再発見」されて突然の再ヒットする時代になっている。だから、この作品のモチーフたちも、「再発見」にふさわしく、この作品を通して「再発見」されることもあるのだろう。
 でも、私の世代、あるいは、構成した佐藤大の世代にとっては、時代そのものだったりする。

 作品の話。一言で言えば「ロックな交響詩篇エウレカセブン」だ。構成・脚本の佐藤大は、TVアニメ交響詩篇エウレカセブンの構成・脚本も手がけている。この作品は海外SF小説、音楽などをモチーフに世界と個の存在を発見していく作品なのだが、まあそれはいい。
 どちらの作品も異質な存在である少女と、世界の広さを知らない少年が出会い、世界が異質さを分断していることを知り、その分断を極めて個人的に乗り越えていこうという物語でもある。

 本作LISTENERSの世界では、人類をおびやかす「ミミナシ」という巨大な影のような生命体が存在する。ミミナシを倒すのは「イクイップメント」と呼ばれる戦闘メカで、それを操縦するのは身体にプラグを持つプレイヤーと呼ばれる特殊な能力者である。10年前の世界規模の闘いによって荒廃した街リバチェスタで姉とともに暮らす少年エコオ・レックは、世界中から集まる廃棄物から有価値品を探し出すジャンク拾いで暮らしていた。エコオは、10年前にミミナシと闘っていたジミというプレイヤーのことを鮮明に記憶し、ジャンクパーツを集めてイクイップメントのコアとなるアンプを自作するのが唯一の生きがいでもあった。そんなある日、鉄道で輸送された廃棄物の中から記憶消失のプレイヤーの少女と出会う。名を持たない彼女にミュウと名付けたその日、ミミナシがリバチェッタを襲い、エコオのアンプをミュウがプラグインしてイクイップメントを機動、闘いを始めるのであった。それはふたりの旅の始まり。ミュウが自らの正体を知る旅、エコオがミュウとジミを出会わせるために選んだ旅。その旅は、世界を再び揺り動かす旅となっていくのだった。

 エコオは、さびれた田舎で生まれ育ち、外に出て行くことも考えず/考えられず、このままジャンク拾いで一生を終えるものだと達観している。心の奥には言葉にならない何かを抱えているがそれが何かは自分でも分かっていない。ジミへの憧れ、イクイップメントへの憧れ。しかし、その憧れは「自分とは縁のないもの」として深く心の奥にしまっておくものだったのだ。
 エコオはミュウとの旅の途中で何度も自我を否定していく。ミュウに引っ張られ巡り会う人や状況に対して自分はふさわしくないと、あくまでもミュウのために付き合っているだけだと、ミュウに対しても、手の届かない言ってしまえば「お客様」のような気持ちでしかなかった。しかし、心の奥底には希望と願いが生への渇望があったのだ。
 一方のミュウは自分が何者かを知らない。そして、出会う人たちからいくつものラベルをつけられる。その中で、最初についたラベルであり、押しつけがましくないラベルである「ミュウ」のことをとても大切にしている。ミュウにとってエコオの最初のプレゼントはとても大切な思い出であるのだ。
 ということで、出会いはするけれど、恋愛にはちょっと遠い若者たちの旅の物語だ。

 それにしても声優陣がぜいたく。鍵になる老人は銀河万丈。エコオを動かすおっさんは千葉繁。田中敦子に山寺宏一まで出ている。

 この作品、元ネタについてざっくりと解説も公式でされている。非公式のファンサイトではもっとディープな解説もある。
 公式の解説はこちら。https://listeners.rocks/

 AmazonPrime ビデオで配信中とか。
(2022.2.8)