しあわせの理由

しあわせの理由
REASONS TO BE CHEERFUL AND OTHER STORIES

グレッグ・イーガン
2003

 早川文庫SFのグレッグ・イーガン日本オリジナル中短編集2冊目。90年代に書かれた作品群。SFのカテゴリーに収めず、21世紀的現代小説と読んでもいいような作品も多く選ばれており、文系、SF敬遠者にもおすすめな1冊となっている。再読。

 事故に遭い瀕死の重傷を負った夫を生命保険会社の指定方法で救う道は妻しかできないことだったのだが「適切な愛」。
 設定は思いっきりハードSFなのだが、平たく言えば闇に閉じ込められた人々を限られた時間内に闇に走り込み、救い出す仕事をしている人の物語、「闇の中へ」。
 これはホラー小説。ある殺人事件の捜査をはじめた主人公。現場の地下には頭が人間で体が動物のキメラの姿が。主人公も巻き込んでいく犯人の目的は「愛撫」。
 2020年代にはちょっと身につまされるパンデミックもの。主人公は道徳的ウイルス学者。彼が生み出したウイルスはパンデミックとなり、世界は震撼し、そして「道徳的ウイルス学者」。
 イーガンのテーマであり、主要作品の舞台となるのが仮想空間。仮想化・データ化された知的生命体とその生存空間および現実世界の関わりである。物質的存在である人間が仮想化された存在に移行(移相)する「間」はどうなるのだろう?夢を見るのか?その夢は覚えていられるのか?「移相夢」。
 原発事故から10年後の1994年に発表された作品。宗教と価値観の物語だが、そこに原発事故の痕跡が「チェルノブイリの聖母」。
 これは仮想空間で仮想的に人が生きるようになって数千年後の物語。真の死と「別れ」の違いはあるのか「ボーダー・ガード」。
 これも人工ウイルスの話。ただこちらは遺伝子特性からきわめて稀な感染を起こし、それは確実に死に至る。主人公は感染し、生存可能性をかけた薬を渡される。一卵性双生児の姉妹に感染のことを伝えると「血を分けた姉妹」。

 表題作「しあわせの理由」。
 イーガンの大きなテーマに情報と反応のはざま、があると思う。たとえば本を読む。目から情報を入れ、神経が反応し、それを脳が処理し、文字として認識、文字を文章ととして認識、知識と照合し、理解を得て、感情と知識と記憶をもたらす。その繰り返し。
 それぞれの間に、光や電気信号や化学物質や量子的効果が作用していたりする。
 私がイーガンの本を読んで快を感じる、あるいは、快を感じようと読む、それは事前、事後に快を感じる反応があるからだ。私はそれを感じるが、それを感じない人もいる。
 しあわせを感じる、不幸を感じる。楽しさや快が感じられない状態、生きる意欲をなくした状態を一般に鬱と呼ぶ。それも原因は様々であるが、起きているのは脳内のできごとだ。常にしあわせを感じていた主人公が、その幸福感は脳の病気の副作用によることが分かった。脳の病気を治療した結果、主人公から幸福感が消えてしまう。それは絶望的な状況だった。そこに…。というストーリー。

 最初に表題作を読むと、イーガンを読みたくなったり、SFが少し好きになったりするかも知れない。

(2021.08.21)

祈りの海

祈りの海
OCEANIC AND OTHER STORIS

グレッグ・イーガン
2000

 日本で編纂されたグレッグ・イーガンの第一短編集である。最初の短編集とあって、イーガン初期のバラエティに富んだ作品が並べられている。意外と言ってはなんだが、ちょっとホラーめいた話が多い。再読。

 目が覚めるたびに住んでいるエリアの別人に憑依してしまう「貸金庫」。
 子どもが欲しくてしかたがない男が数年で寿命を迎える人間そっくりの疑似人間を出産し愛する「キューティ」。
 脳にバックアップの宝石を持ちやがて宝石に自己をスイッチするのがあたりまえになった世界で、「ぼくになることを」。
 同性のパートナーを持つ主人公がバイオ企業へのテロ事件を捜査し、人間の多様性を否定する企てに巻き込まれることになる「
 ある天体現象を利用して未来のできごとを過去に情報として送れるようになった。日記を書いておけばいくつかの出来事は明確にあらかじめ知ることができる。データは秘匿されるから私の日記は過去の私しかみることができない。そんな世界はどうなるの?「百光年ダイアリー」。
 現実世界の妻ではなく仮想世界にバックアップされた妻が誘拐されたら。現実世界の妻は気にしないが、夫は「誘拐」。
 とどまっているとその周辺にいる人の思想に捕らわれてしまい人が増えるとその思想の力が強くなる世界で、自分を守るために歩き続ける「放浪者の軌道」。
 人類の歴史を辿るだけでなく出自まで言及し始めたミトコンドリア・イヴに対し男性優位主義者らは「ミトコンドリア・イヴ」。
 パラレルワールドで複数世界に影響を及ぼす超能力者の存在は、各パラレルワールドにとっての災厄だ。それを食い止めるために闘う男は、しかし「無限の暗殺者」。
 情報技術と医療技術の進展は、パーソナル医療に向かった。しかし、それを得られるのは世界のごく一部の恵まれた人達だけ。なんとかならないのか、その若く、正義感に溢れた医師は、「イェユーカ」。

 そして、表題作「祈りの海」。イーガンらしく、イーガンらしからぬ作品。
 はるかな未来、人類は仮想空間の中で情報的存在として生きていたらしい。しかし、その一部が実体化を望み、ある惑星をテラフォーミングして限りある生を過ごすために実体化して移住したらしい。それから時が流れ、その技術も知識も失い、多くの人々は宗教を持ち、海の人、町の人などいくつかの属性を持ち暮らしていた。実体化した人類といっても、改良を加えられた存在である。主人公は海に生きる少年。ある日、宗教的体験を得るため兄に連れられて海に出て、海中で神の存在の啓示を得る。神と共にある幸せ、幸福感が彼の精神的支柱となった。いくつもの経験を経て、彼は海洋生物学者となり、そして、この惑星と彼らの秘密を知ることとなる。
 人類の変容、宗教と精神、神や愛や感情がどこで発生するのか、大胆に迫るイーガンの中編である。この20世紀終わりから21世紀初頭にかけてのSFには、脳の情報処理や五感といった情報受容体、それに、体内の化学的、電気的機構との関わりと、世界認識のありようについて語る内容のものがでてきている。イーガンは、自己、自己認識、世界認識、情報処理、感情、動機といったものを現実と認知の間の様々な段階、スキマ、機構をめぐって思考を深め、物語を紡ぐ。
 それは時に冷たく感じられ、時に、それを超えた自己認識を持つ存在への限りない信頼を感じることができる。それもまた、イーガンの作品の特徴だと思う。

(2021.8.16)

ビット・プレイヤー

ビット・プレイヤー
BIT PLAYERS AND OTHER STORIES

グレッグ・イーガン
2019

 日本オリジナル編纂の短編集。「七色覚」「不気味の谷」「ビット・プレイヤー」「失われた大陸」「鰐乗り」「孤児惑星」所収。「鰐乗り」と「孤児惑星」は長編「白熱光」と同じ未来史の物語で、「鰐乗り」は「白熱光」でエピソードとして簡単に語られるエピソードの詳細。
 さて、グレッグ・イーガンの長編はたいてい難解でおもしろいのだが、中短編は難解な部分の書き込みが少ない分だけストーリーに入り込める。そうして気がつくのがグレッグ・イーガンのストーリーの柱には人間(知性体)の関係性のありようが書かれていることだ。SFとしての世界の背景設定や技術の上に、その環境にいる知性体と知性体の関係性が語られるわけだが、愛や友情、他者との距離感、出会い、別れ、喜び、悲しみ、満足感、喪失感、快不快、信頼、不信。そのレイヤーは、21世紀に生きる私達とは異なるが、二者あるいは多くの者同士の関係性はそれほど大きくは異ならない。そして、それは、「物語」の基本に忠実だということでもある。歌や口伝、文字の発明後は言葉として紡がれてきた「物語」は人と人との関係性、自己認識、世界とのつながりのありようがくり返し表現されてきた。普遍的なテーマである。

 表題作「ビット・プレイヤー」は、世界が大災厄で重力が横向きになったという世界突然「目覚め」た主人公が、その世界のルール、矛盾、単純さ、不合理さに気がつき、自分が何ら記憶を持っていないのに一定の行動がとれるという状況に直面し、そこが仮想世界であること、そして、自分達がプレイヤーとなっていることに気がつく。そこから物語が激しく展開するが、それは読んでの楽しみ。しかし、主人公とともに世界のありようを知り、その世界と対峙していき、あいまいだった自己を確立していくというのは、物語の王道ではないだろうか。
「ビット・プレイヤー」について考えていたら、まだ見ていないのだが、2021年夏に公開された映画「フリー・ガイ」(監督ショーン・レヴィ、主演ライアン・レイノルズ)があることを知る。こちらは、ゲーム空間のモブキャラが自意識を芽生えさせ、自己のありようと状況に疑問を持ち、世界に関わっていく物語らしい。この映画が、「ビット・プレイヤー」と関係あるのかないのか分からないが、見てみたい映画である。

「鰐乗り」では、永遠とも思える時間を共に過ごした夫婦関係にある人類のカップルが自ら死を迎えることを決め、そのための最後の探求に乗り出す姿が描かれる。時間も空間も拡張した世界で、永遠の生を持ち、死を選択する理由とは、その際、パートナー同士の関係とは。銀河規模の壮大なスケールで語られるテーマは、それだ。

(2021.7.25)

ゼンデギ(再)

ゼンデギ(再)
ZENDEGI
グレッグ・イーガン
2010

 グレッグ・イーガンの長編では異色作。なにが異色かというと、わかりやすい作品になっていることだ。技術的な外挿には、脳の活動状態をスキャンし、魂はもっていないがふるまいは本人と同じようになる「疑似人格」をアバターとして構築できるかどうか? というのがもっとも大きくて、グレッグ・イーガンが主流にしている数学・物理学をベースにしたスーパーハードSFとは異なり、普通小説の中の近未来ジャンルといっても通じるような作品となっていること。じゃあ、グレッグ・イーガンの導入にいいかどうかというと、そうでもない。優れた作品だが、最初に触れるならば、がつんとイーガンらしい他の長編作品からあたるか、アイディアが凝縮された短編・中編から入るのがおすすめ。
 ゼンデキのような「人の心」や「つながり」についての作品は短編・中編のなかでもみられていて、長編では感じられないイーガンの小説家としての深みを感じられる。そんな作品を長編として書き下ろしたのが本書「ゼンデギ」であり、生きること、生きることを実感すること、実体験することの喜びと苦しみ、幸せと悲しみが描かれている。

 舞台は第一部が2012年のシドニーからイラン。第二部は2027年~28年のイラン。
 主人公はオーストラリア人のジャーナリスト・マーティン。パキスタンでの取材記者活動を終え、シドニーに戻って1年、イランでの次の総選挙を前にイランがどのような選択をするのか、緊張が高まるテヘランに向かう。
 本書が書かれたのは2010年で、2009年に実際に起きたイランでの大統領選挙前後の混乱を受けて書かれている。さて、当時大統領だったアフマディネジャド氏は2期8年、次のロウハニ氏も2013年から2期8年。そして先日2021年6月にはライシ氏の当選が決まった。イランの選挙は立候補者を監督者評議会が資格審査をすることになっており、ロウハニ氏の後継候補が立候補できなくなるなど、ロウハニ氏の穏健路線は否定され、事実上の評議会による指名となった。その結果、2021年の大統領選挙は投票率が5割を割り込むなど、現状に対して国民が無関心、もしくは、棄権による沈黙の抗議を示すことになった。
 ゼンデギの世界では、2012年に、イランの民主化、公正な社会を求める人達が立ち上がり、その結果、2027年の時点では比較的公正で民主的なイスラム国家に移行することができた社会が描かれている。もちろん、フィクションであり、自由民主主義体制にいるグレッグ・イーガンの視点でもある。
 それはさておき、2027年、経済復興を遂げたイランで、マーティンはイラン人の女性と結婚し、子どもを育てていた。電子書籍が中心になる社会で、「紙の本」にこだわり、テヘランに書店を開いて暮らしていた。しかし、妻が事故で亡くなり、イラン人の友人らの手を借りながら子育てをすることになる。
 イランでは、バーチャルゲーム空間ゼンデギを運営する会社が世界のVRゲーム市場をリードしており、マーティンはときどき子どものジャヴィードとともに、その世界で冒険をするようになった。しかし、自らの死期を知ったマーティンは、イラン社会の中で、死後も子の成長に関わり続けるため、ゼンデギのなかにジャヴィード専用のヴァーチャル・マーティンを形成できないかと、ゼンデギの技術者と模索をはじめるのだった。
 というのがストーリー。ね、そんなにややこしい話ではないでしょう。
 とりわけ、2021年の今、人工知能の学習手法ディープラーニングの進化や脳科学、生命科学の驚異的な伸張を見ている今では、書かれた2010年や、私が最初の「ゼンデギ」を読んだわずか5年前以上に分かりやすくなっている。
 生命科学の驚異的伸張は、新型コロナウイルス感染症 CORVID-19のワクチン開発がわずか1年足らずで行なわれ、その主流がmRNAワクチンであり、それを世界の多くの人が接種するというその1点でも明かだ。事実は空想より奇なり。

 ところで、不死の物語というのは、物語のはじまりから続く永遠のテーマであり、それは、人間が持つ究極の願望・欲望である。不死にはいろんな形がある。完全な不死(不老)とは、その個人が理想とする状態が続くことである。理想の肉体、理想の精神、消えない記憶、理想の暮らし。しかし、世界は変わっていく。理想の不死者は変わりゆく世界と対峙しなければならない。
 不完全な不死は、バンパイアやゾンビ、妖怪など、死に限りなく近く変容した者として描かれる。それは人間と対峙し、人間に追われる者たちだ。
 人間以外の存在として、神の世界や悪魔の世界がある。天国や黄泉、地獄である。それもまた不死の一形態だが、変わることのない世界、変わることのない待遇であり、静止的世界になってしまう。
 そこで、物語は「異世界」を誕生させた。別の世界であれば、死も不死も自由に描けるであろう。その「異世界」の物語は、コンピュータとインターネット空間の登場により、ヴァーチャルリアリティとして存在を許されるようになり、物語の新たな場所として選ばれた。そして、可能性としてのヴァーチャル空間における不死が語られるようになり、存在の電脳化が物語に登場する。その登場には二通りあって、完全な存在と不完全な存在がある。完全な存在とは、いま現実にいる「私」を、その「意識」「認識」と「環境」ともどもにアップデートし、現実というレイヤーと、仮想空間というレイヤーに違和感を持たない状態である。仮想空間を維持するサーバが止まらない限り、私は「不死」であるし、仮にサーバが突然、バックアップを含めて停止しても、「私」はすぐにはそのことに気がつかない。再開したときに現実空間が時間経過を起こしていたら、そこに「中断」があったことを知るだけだ。一方、不完全な存在もあり得る。たとえば、「記憶の一部」「認識の一部」をデータ化して、仮想的な人格「私」をつくりだし、仮想空間内やあるいは、現実空間とのアクセスポイントにおいて、あたかも「私」のように振る舞う人工知能というものだ。それは「私」のように振る舞うが、「私」としての意識は持たない。
 この仮想空間における完全な存在と不完全な存在の形態は無数に展開でき、これが新しい物語を生んでいる。
「ゼンデギ」もまた、そのひとつの形である。
 そして、オチはイーガンらしく整えられている。
 それはディックの作品でもみることができるキリスト教的救済の姿である。
 さて、どんなオチか、楽しみに!(決して宗教的終わり方ではありません)

(2021.06.30)

白熱光(再)

白熱光(再)
Incandescence

グレッグ・イーガン
2008

 再読した。これこそSFだけど、あまりに難しすぎる。物語は偶数章と奇数章でふたつの世界を行き来する。はるか未来、人類出自、非人類出自、実体出自、非実体出自に関わらず、量子的データとして存在と意識を仮想化した知的生命体は融合世界の中で生きていた。光速の壁は相変わらずだが、自らの量子データをノード間で送信することで旅をし、時間と空間を超えて関わりをもつことができるようになった世界。融合世界で「人々(ここでは知的生命体の個々を差す)」はときに実体として暮らし、ときに非実体のままで暮らしていた。当然バックアップもとられ、ある意味での不死は保証された世界である。もちろん、過去に戻ることはできないので、旅をすれば、そのノードの数や距離時間によって動かなかった人々と動いた人々の間での時間はずれていく。そういうことが当たり前の世界。融合世界はしかし銀河中心部にだけはネットワークをもたなかった。銀河中心部は孤高世界といい、融合世界からのアクセスや調査、探査を一切受け付けない謎の「人々」が支配しており、独自のネットワークを持っていることだけは分かっていた。銀河中心部を通れなければ、銀河の反対側に行くためにはかなりの迂回したノードを通らなければならない。そこで、長い時間の中で、融合世界の人々は、量子データの秘匿性などにリスクを持ちながらも、孤高世界のネットワークを一部利用して銀河中心部を抜ける方法を見つけた。しかし、あくまでも、孤高世界に「途中下車」することは許されず、孤高世界は相変わらずよくわからないままであった。

 奇数章は、この融合世界で「何か新しく、自分が長く打ち込めるなにか」をもとめていたDNA出自のラケシュが、孤高世界によって孤高世界のなかで強制的に実体化させられ、伝言をもたされてきたというラールから、孤高世界でDNA出自の小惑星がみつかり、そのルーツを探し、知的生命体がいれば、DNA出自者としてそのあり方について責任を持って対応して欲しいというオファーを受ける。ラケシュと友人の非DNA系出自であるパランザムは孤高世界からの招待を受けることにした。それは最低でも5万年を失う旅でもあった。ラケシュは孤高世界の中でDNA出自の生命体を見つけ、そこに遺伝子操作の跡を確認し、その足跡をたどることにした。


 偶数章は、ほかのSFでいえば「竜の卵」(1980 ロバート・L・フォワード)のようなものである。「竜の卵」は中性子星上の知的生命体を描いた作品だが、「白熱光」の偶数章は同じように高い重力、光の海の中に浮かぶ特殊な環境に生きる知的生命体の物語である。その世界は破片(スプリンター)と呼ばれ、かつての環境世界がいくどか分離しているその破片であると伝えられている。彼らはそこで生存のための仕事を行ない自ら産児制限をして生きていた。光に満ちた世界で、光は生存のために欠かせないエネルギーであると同時に、彼らを殺すものでもあった。主人公のロイは、他の人々と同様にギルド的なグループに所属し農場での仕事をしていたが、ある日ザックという老人に出会う。彼はこの世界の不思議な重力のあり方について自ら機械をつくり研究している孤高の人であった。一人で仕事をしているというのは基本的にあり得ないことだったが、ザックが語る世界の不思議さとその探求についてなぜか心を惹かれたロイは、やがてザックとともに、スプリンターの重力について研究し、幾何学を深めていくことで古典的力学からはじまり、やがて仲間を増やし特殊相対性理論、一般相対性理論へと知見を深めていく。その動機は、やがてふたたびスプリンターが割れ、世界が崩壊するかも知れないという予測であった。実際にスプリンターは危機にあったのだ。世界を守るため、ザック、ロイ、そして彼らの元に集まってきた人々は計算し、実験し、理論を構築し、それに基づいて、世界を救うすべを探し続けるのである。

 奇数章は、ラケシュの探求の物語なのでそれほど難しくない。また、奇数章は偶数章で描かれているような世界を外から描き出すので全体の物語の理解にもつながる。
 偶数章は、幾何学として、スプリンターの重力場とそれがどのように作用するのかを、ロイとともに捜す旅である。数式は出てこないが、独自の言葉で、この地球とは異なる特殊な重力環境において、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論までを語るのだから、まあ、頭がぐるぐるになってしまう。正直なところ何が書かれているのか分からない。分からないけれど、実際に起きているスプリンターでの出来事はおぼろげに理解できるのだから、なんとか読み進めることは可能だ。物理学に素養が深ければ、そして、ゆっくり理解する時間と楽しみがあれば、「白熱光」は1年はたっぷり遊べる作品なのかもしれないが、ざっくり読もうとすれば、なんとか読み進めることはできる。知恵熱出たけど。
 そして、一見すると奇数章と偶数章は接点がないようだが、ないわけではないし、いろんな種明かしも含まれている。それを正しく読み取っているかどうかは分からないが、こういうことかあ、と勝手に解釈している。

 それにしても、すごいじゃないか。銀河系中心部にある巨大なブラックホールや密集した星々、銀河辺縁の広大な時空に広がる知的生命体のネットワーク、そのなかでの生き方、存在の意味。この地球というたったひとつの世界で、わずか100年弱の生、たかだか数千年の記録しか持たない人類にとってみれば、果てしない物語である。果てしない物語であっても、個にとっては出会いであり、旅であり、日常の繰り返しや非日常への対応の連続でしかないのだ。それは「でしか」ないものだが、それこそが生なのだ。
 さあ「白熱光」を読んで、呆然としよう。

(2021.6.27)