シルトの梯子(再)

シルトの梯子(再)
SCHILD’S LADDAER

2001
グレッグ・イーガン

 短編集「ビットプレイヤー」を読み終えて、突然イーガン熱に感染してしまう。邦訳されている長編を著作順に読み返すことにした。まずは「宇宙消失」(1992年)、舞台は21世紀後半、太陽系が他の宇宙空間から何者かによって隔離され星の光を失った世界で観察者問題を扱った作品。続いて「順列都市」(1994)、やはり21世紀中葉の物語でこちらは外側の中ではなく仮想世界からはじまる物語。やはり観察者問題も含まれているがそれ以上に究極の不老不死の物語でもある。「万物理論」(1995)もまた21世紀中葉の物語で、タイトル通り相対論・量子論から行き着いた物質・エネルギー・情報を統一的に語る究極の理論を発表する、すなわち知的生命体による「観察の成立」を描いた作品であり、前2作と合わせて「観察者問題」3部作とも言える。

「ディアスポラ」(1997)は30世紀にはじまり、仮想人格化された世界の人類と現実世界で肉体を持った人類、現実にアクセスするためのアバター(ロボット)にダウンロードした人格などが登場する新たな物語。広い意味での人類はすでに太陽系外へと旅立ち、そして、別の知的生命体の痕跡を追って時間の制約のない究極の旅を行なう物語。いくつかの短編も組み入れたオムニバス的作品でもある。

 本書「シルトの梯子」(2001)は、「はじめにグラフありき、」ではじまるざっくり2万年後の人類世界。人類は仮想世界に生きていた。実体化をせずに生まれ、生き続けるものもいれば実体化を基本として生きるものもいた。彼らはそれでも人類であり、すべてのルーツは地球にあった。宇宙を語る究極理論としてサルンペト則の検証をしていたキャスはこの理論の正しさを証明するための実験を提起した。しかし、実験はこの宇宙とは異なる時空を生み出し、こちら側の宇宙を次第に浸食してしまう。600年後、この「ミモザ真空」を完全に消滅させようとする一群と「ミモザ側」の宇宙にアクセスして浸食拡大を止めようという一群が最前線の実験宇宙船「リンドラー」に集まり、相互監視の下で研究とアプローチをくり返していた。
 という物語である。「順列都市」が書かれた90年代前半は80年代後半からの電脳世界というか仮想人格化された世界や仮想人格化そのものが舞台となったSFが多数登場した。その前にもたとえばディックが80年代前半にも仮想人格を書いていたが、本格化したのがサイバーパンクと連動した時期であろう。それらを受けて物理的制約である光速の壁を超えずに情報として移動する手段が生み出され、仮想人格をベースとした社会について書かれるようになる。「ディアスポラ」や「シルトの梯子」はそれをうまく展開したSFであり、仮想人格による宇宙と知的生命体の関わりを発展させた作品でもある。
 5作品を振り返ってみると、どの作品も大オチには究極の大風呂敷が広げられていて、なんというか「知覚可能な宇宙」を軽々と超えていってしまう。本作なんて、最初の第一部で「知覚可能な宇宙」ではない時空を「知覚可能な宇宙」の中に(?)生み出してしまうのだから、大風呂敷が前提になってしまっている。もちろん、大オチにはさらなる大風呂敷が待っているわけだが。これを読ませつつ、人間の物語に仕立て上げるのだから、グレッグ・イーガンがおもしろいわけだ。
 ただ、そこに書かれている現実の物理学・数学理論と、SFとして導入された理論は正直言って難しい。スーパーハードSFと言われる所以でもある。ここにひっかかってしまうと前提としての量子論や数学が入っていない凡人にとってはとても読みにくいものとなってしまう。そこは幼い頃からのSF読みの技能発揮しかない。適当に読み飛ばすという必殺技の登場である。心の奥底に、もっと基礎勉強をすればいいのに、もっと丁寧に読めばもっともっと楽しいのに、と、罪悪感にも似たさみしさを抱えながらも、この先のストーリーがどうなるのかに気を取られ読み飛ばす悪徳的快感。著者・翻訳者には大変申し訳ない読み方であるが、それでいいのだ。でないと読めなくなってしまう。
 そうやって読んでいくと、想像の遙か上を行く宇宙の可能性が開けてくる。
 それと同時に、50代後半になってしまったSF読みは、いま自分が生きているこの場もまた、宇宙のなかであり、不思議な時空のなかであり、奇跡のような切片であることを感じることができるのだ。
 手に届かない知識と思考をがっぷり四つで受け止められないが、その残照を浴びるだけでも、人生は楽しめる。そうして、もう少しだけ、もう少しだけ、その高みに近づきたいとも思うのだ。それもまた、こういった物語の価値だろう。人生に光を与え、人生に目的を与えてくれる。SFに限らず、すべての良質な物語は、そのような性質を持つ。
 SF、万歳。

ディアスポラ(再)

ディアスポラ(再)
DIASPORA

グレッグ・イーガン
1997

 再読。読後に以前読んだ後に書いた文章を見返すと2005年にマニラの国際空港で読了している。翻訳がでたばかりでフィリピン出張に持って行ったらしい。16年前のことである。
 いまはまったく違う性質の仕事をしていて、16年経つと16歳年齢を重ねているわけで、経験といまの生活スタイルによって考え方も大きく違っていることを実感している。とはいえ、連続した人格の中にあるわけで、当時の記憶もあるし、人格が大きく変わった感じもしない。では、その連続した私とは何者か?
 本書「ディアスポラ」を読んで、そのことをじんわりと考えるきっかけになった。

 物語は、2975年に、地球のデータセンターにある仮想空間の「コニシ」ポリスで「ヤチマ」と名をもつ孤児が創出されることではじまる。
 当時、人類の多くは、いくつかの仮想空間であるポリスで、データ的存在となり、その不死なる生を生きていた。一部は、そのような存在になることを忌避し、改変のない人間態であったり、たとえば水中生活など様々に変容した改変人間態として物質的生存を行う者たちもいた。また、データ的存在と物質的存在の中間のようなロボット態をとるものたちもいた。そのなかには宇宙を旅している者たちも。
 そういう遠い時代の物語である。

 2996年、地球から100光年先のとかげ座G-1、中性子星連星が異変を起こし、ガンマ線バーストを発生、地球へ到達し、地球上の生態系は壊滅的な打撃を受けた。
 それぞれのポリスのデータセンターは無事であり、その中で生きる人達への被害はなかったが、宇宙には彼らの科学的知識ではまだ分からない大きな謎と危機があることに衝撃を受け、ヤチマは、それを探索するために別のポリスに移り、果てしない探索への旅にでかけることにした。ディアスポラ、離散の旅である。それは、終わりのない旅になったのだった。
 時間が終えるのは4953年まで。そこから先は、そういう時間軸さえ離れていく。
 そうしてヤチマは、ひとつの「宇宙の果ての姿」をみることになる。後半の怒濤の旅はすごいよ。

 たとえば私がある時点で人格(人格と記憶)をデータ的にコピー(クローン)し、ふたりになったとする。その次の時点から私と私’(私コピー)は別々の道を歩き始める。私と私’はその時点までは同じ人物だが、そこから先は似ているけれど違うだろう。そうして次々と私の別バージョンが生まれていき、それぞれの人生を生きたとしても、それぞれの「ひとりの自分」にとってはただひとつの人生であり、別の「私」は決して自分ではない。それでも「別の自分」が「別の生き方」をすることで満足するのだろうか? 同じ指向性をもって分離したのだから、役割分担ができたり、リスク回避ができるだろうけれど、それもまた、それぞれのひとりひとりの人生であり結果でしかない。
 考えてみれば、多元宇宙論的には、それは常に発生しているともいえる。知覚はできないけれど、その時々で別の選択をしている自分と時間軸が発生し、分岐していく。だから、分岐しようがしまいが、コピーが生まれようが生まれまいが、私は私であり、私という人格にとっては私の人生はひとつなのだ。いくつ生まれても、ひとつ。ひとつずつ。
 そういうことを深く考えられる作品だった。

 ま、悪夢のように難しいハードSFだけどね。分からないことが分かるよ。

(2021.06)

万物理論(再)

万物理論(再)
DISTRESS

グレッグ・イーガン
1995

 グレッグ・イーガン初期3作品「観察者問題」作品群の3冊目は本書「万物理論」である。いわゆる物理学の究極理論のこと。相対性理論、量子論から求められる4つの力である電磁気力、弱い相互力、強い相互力、重力のうち、重力をのぞく3つをひとつの形で統一しようとするのが大統一理論。それをふまえて重力までを含めた形で表現しようとしているのが万物理論である。万物理論の研究は、物質とエネルギーの理論だけでなく、重力の研究が量子情報というかたちで「情報」の保存、ひいては、「エントロピー論」も包括するものとして検討を迫られている。
 2019年に人類ははじめてブラックホールの実態としての映像を「見る」ことに成功した。もちろん可視光の話ではなく、地球規模の電波望遠鏡ネットワークとコンピュータの解析によって得られた画像である。しかし、この画像は、ブラックホールによって突きつけられている重力と量子情報、エントロピーについての研究を深めさせることになっていくだろう。
 さて、時は2055年、場所はステートレス。南太平洋中央にある公海上の海底死火山に固着してバイオ技術によって成長を続ける生きた人工の島である。多くの国が、遺伝子特許侵害「国家」だとしてその存在を否認しているが、最大の環境難民受入地であり、無政府主義者の地であり、バイオとコンピュータ科学の先進地でもある。大国政府による侵略や破壊は行いにくいなかで、主にバイオ産業が裏にいるとみられるテロ攻撃はときおり起きていた。このステートレスで国際物理学会が開かれ、「究極理論」の候補とみられる3つの理論を3人の科学者が発表し、議論されることになった。
 主人公の科学ジャーナリストのアンドルー・ワースは、究極理論の最有力候補であるヴァイオレット・モサラの特番をつくるための密着取材をはじめた。身体に記録装置を埋め込み、ネットワークとつながったジャーナリストである。
 アンドルーは、それまでバイオ技術の進展によって生まれた死後直後一時的に記憶を呼び覚ます技術、生命のDNAを別の塩基システムに置き換える技術などを扱った特番を編集していたが、次の番組として世界各地で散発的に発生している奇病のディストレスを扱うよう求められ、その取材から逃れるために他のジャーナリストが準備していた究極理論の取材をもぎとったのだった。

 そう、世界はバイオ技術とコンピュータ・インターネット技術によって大きく変わってしまった。生き方も、仕事も、選択も。都市の役割は減っていき、人々は個の多様性を尊重するようになっていたが、一皮むけば貧富の差はあり、格差はあり、そして、カルト宗教も変わらず多くの人々の心を捉えていた。世界は変わっても、人はそうそう変わらないのだ。
 いまここにほんものの究極理論が誕生しようとしている。それは観察者問題の解決でもある。量子の状態の重ね合わせは、観察者の観察によって解消され、量子はその状態に固定される。対生成した量子は相互に重ね合わされており、それは距離を問わない。では、「観察」とはなにか?
 いくつかのカルト宗教は、究極理論が生まれること、すなわち究極理論が理解されることにより、この宇宙が「観察された」ことになり、宇宙が、世界が、変わってしまうことを恐れ、この研究の仕上げを防ごうと科学者たちを脅迫し、ときには殺害すら計画していた。不穏な空気の中で、はたして究極理論は完成するのか、そして、その結果何が起きるのか? さまざまな思惑、陰謀、事件に巻き込まれていくアンドルーがそこに見たものは?
 という作品。
 正直なところ、本書を最初に読んだ2004年と、2021年の現在までに一般の科学誌や解説書はいくつもいくつも出ている。もちろん、究極理論はまだまだ先だし、統一理論もいまひとつのところにあるが、冒頭に紹介したように科学的研究は少しずつ近づいているようだ。
 かつて天動説から地動説が誕生し、それを人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 かつて相対性理論が誕生し、光速不変やE=mc2を人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 あるいは個人的な感覚で言うと、はじめてパソコンにOS(オペレーションシステム)が導入され、ハードウエアをソフトウエア的に扱えるようになったとき、その概念を理解するまでの時間。
 パラダイムシフトには、個人や社会が「腑に落ちる」までの時間を必要とするのだ。
 そうやって考えてみると、1995年の段階で、これを書いているグレッグ・イーガンはあらためてすごい。

(2021.5)

宇宙消失(再)

宇宙消失(再)
QUARANTINE

グレッグ・イーガン
1992

 2004年以来の再読。発表されたのが1992年なのでほぼ30年前の作品である。30年前といえば、1992年の30年前は1962年。
 1962年といえば、高度成長期に入ったばかりの頃で、電話は各家庭にはなく、テレビは普及期前でモノクロだった。通信はもっぱら手紙、緊急時は電報。マスメディアは戦前からあったラジオと新聞が主で、テレビは1964年の東京オリンピック(!)を機に普及することになる。ラジオも真空管からトランジスタラジオに置き換わっていった時期である。計算は、そろばんが主力で、理数工学系だと計算尺を使っていた。せいぜい機械式計算機が使われていた頃で、電卓はまだ登場していない。トランジスタをつかったコンピュータが開発された時期である。音楽はレコードの時代である。録音はオープンリールテープを使うしかなく、いわゆるカセットテープはこの年に開発・規格化されたばかりである。
 1992年になると、携帯電話が普及期に入る。ビジネスの現場では呼び出し用のポケットベルから携帯電話への移行がはじまるが、携帯電話にメール等の機能はなく、電話のみであった。メディアの主力はテレビに移るが新聞・雑誌も隆盛を誇っていた。電卓はひとり何台も持っていたり、パーソナルコンピュータも、windows3.1の登場によってユーザインターフェースが格段によくなり、通信はモデムを使った電話回線を使い、インターネットではない会員制の通信ネットワークが主力であった。しかし、インターネットが今後普及するという確固たる予感は世間を賑わしていた。音楽はCDが主で、カセットが主流で、MDが普及直前の頃である。
 2021年の現在、携帯電話はモバイルデバイス(スマートフォン、スマホ)となり、デジタル化した通信環境とコンピュータ技術、集積回路技術によって、電話・メール・SNS、動画撮影、配信、金融サービス、商業サービスなど仕事、暮らしのあらゆる面でほぼ不可欠なデバイスになってきた。メディアは、ついにテレビ事業者の衰退がはじまり、インターネットを活用した配信事業者が映画・テレビ・新聞・ラジオ・音楽メディアの機能を統合し、モバイルデバイスが受信装置として普及する。モバイルデバイスは同時に、コンテンツ作成、発信装置でもあり、マスメディアの力は相対的に弱くなっていく。映像も、音楽も、さらには、書籍までデジタル化・配信化され、生活様式を大きく変えてきた。

 本書の舞台は2067年。いまから46年後の世界である。この世界では2034年に突然太陽系全体が暗黒の球体に包まれ、太陽と惑星を除く光が空から消えた。それはバブルと呼ばれ、地球人類と太陽系外との接触は不可能になった。もっとも、人類はせいぜい有人で火星探査を行った程度であり、太陽系外の探査もほとんど進んでいなかった。バブルをつくった存在、その目的については不明で、それは、地球上に様々な仮説と、カルト宗教を生むことになる。
 2067年、いまのモバイルデバイスのようなものはモッドと呼ばれ、大脳神経系に神経を改変するプログラムをインストールすることで、さまざまな機能を発揮することができるようになっている。いわゆるゲームのプログラムもあれば、通信、ナビ、仮想コンピュータ、ある特定の思想を信念として持たせたり、警備員や兵士として必要な機能とそのための感情抑制などをもたらすプログラムもあった。主人公のニックは元警官で、警官としてのモッドを頭に入れたままフリーの探偵のような仕事をしていた。
 ある日、先天性の脳機能障害で完全隔離された入院生活を続けているローラが病院から失踪し、その彼女を捜索して欲しいという依頼が入る。誘拐されたのか?
 そこから、ニックの、そして、この世界の事件がはじまるのであった。

 テーマは初期のグレッグ・イーガンのテーマとも言える量子論における観察者問題。量子のふるまいは「観察」があったときのみ、重ね合わせ状態が収縮する。では「観察」とはなにか、という問いである。
 バブルに閉じ込められた地球と人類、警察をやめるきっかけになった妻カレンへの絶望的な喪失感を感じないよう自分を閉じ込めたニック。一方、病院に閉じ込められたはずなのに失踪したローラ。「量子論的観察」について実験体となり、自らを研究室に閉じ込めたチュン・ポークウィ。それぞれの重ね合わせと収縮とは?奇想天外とはこのこと。読んだ後、世界を見渡すとちょっと呆然としてしまう。
 その衝撃は2004年の頃より、今の方が大きいかも知れない。

 ところで、舞台はオーストラリア大陸にあるニュー・ホンコン(新香港)。2029年に建国された。2027年の中華人民共和国編入30周年に香港の基本法が停止され抗議デモは武力鎮圧された。その後不法出国者が急増、近隣諸国は難民キャンプに押し込めたが、2026年にアボリジニ部族が連合して独立したアーネムランド部族連合が北オーストラリアの土地の一部を香港人に譲渡した。建国の条件は、経済活動の利益の一部をアーネムランドに分配すること。これをきっかけに国際投資が集まり、新香港は独立国としてナノテクとITの経済大国となったのである。ということなのだ。
 2021年のいま、実際の香港は、基本法停止には至らないものの、中国の政治介入を受け、民主派リーダーたちへの弾圧が続いている。しかも、出国もままならず、たとえ外国にいても、中国政府が訴追できる法律をつくり、安心して亡命・難民生活を過ごすことさえできなくしている。
 SF作家の未来構想力は、そのストーリーがいかに現実離れしていても、こうして世界の可能性をみせてくれる。

(2021.5)

順列都市(再)

順列都市(再)
PERMUTATION CITY

グレッグ・イーガン
1994

 2004年以来の再読。この直前に短編集の「ビット・プレイヤー」を読んで、あらためて一通り読み返そうかなと思った次第。

 2045年、ポール・ダラムは違法な実験をはじめた。脱出不可能な状態のコピーを作成したのだ。コピーとは、ある時点の記憶、人格を記録し、仮想ネットワーク上にダウンロードすること。コピーは、仮想空間での存在が耐えられないときには自ら消去する権利を持つのだが、ポールは自らのコピーを脱出不能な状態に起き、「意識」についての実験をはじめた。コピーは、コンピュータ上のソフトウエアとして存在している。そこにおける意識は連続しているのか、不連続なのか。たとえば、ものを数えるときゆっくり1、2、3と声に出すとする。では、1と2の間に、そのコピーの演算を一時中断しても、コピーの「意識」に気がつくことはない。1と2の間に、演算を行う物理的なコンピュータを東京と大阪に分散して行っても、「意識」が気がつくことはない。では、「意識」は1、2、3と数えているつもりでも、その演算は3、2、1と逆行しているのかもしれない。
 では、この現実世界の「私」の意識はどうなのだろう。

 このことをきっかけとして、ポール・ダラムは、新しい仮想世界を生み出し、一部のコピー化した超富裕層に働きかけ、存在としての「不死」を提示する。

 2050年、マリアは仮想空間でのセル・オートマトン世界における人工生命の自発的突然変異、すなわち自律的進化のきっかけをつくることに成功した。ポール・ダラムは、マリアに仮想世界において自律的に生命を生み出し、高次形態に進化しうる仮想惑星と生命の種子ともいえる条件のプログラム設計を依頼する。

 すべては、ポール・ダラムが生み出そうとしている、この宇宙の寿命より長く広がりより大きい「永遠で無限」の仮想世界のために。

 発表されてから30年近く、2045年もそれほど遠い世界ではなくなった
 若手だったイーガンももはやSF界の重鎮である。
 世界は想像よりもゆっくりすすみ、人工生命、仮想空間、仮想人格化といった技術はどれも研究開発の俎上に乗っているが、いまだブレークスルーにまでは至っていない。

 さて、本書のテーマはなんだろうかと改めて考えてみる。以前は「観察者問題」ではないかと思っていたが、それはそれで背景にある。アイディアの飛躍はここにあるのだから。それにしても、新しい世界を生み出すまでの前半と、生み出されてからの後半の話の飛びっぷりはすごい。登場人物が少ないだけに世界描写が迫ってくる。アイディアのホップステップジャンプで奇想天外を読ませ切るところがイーガンの本領発揮だ。

 一方で、もうひとつのテーマは、「他者の存在」である。ひとりで存在すること、だれかと存在すること、誰かが存在することと自分が存在すること。無限の時間が与えられたとき、その時間を前にして、自意識は自分だけで耐えることができるのだろうか。イーガンは、「たぶん耐えられない」という答えを出す。神は存在しなくても生きていけるが、自分と関わる他者が存在しなければ生きていけないのだ。

「あなたは心底、昔の世界を知っているだれかが必要なのですね」

 アイディアとストーリーをそぎ落としたところに、この言葉が世界を集約していくのだ。

(2021年5月2日)