ダークネット・ダイヴ

ダークネット・ダイヴ
MOMENTUM
サチ・ロイド
2011
 気候変動と石油エネルギー危機は人類に深刻な格差をもたらした。格差は拡大し、拡大した格差は固定化し、さらに拡大する。市民権は限られた者の特権を意味し、多くの者たちは非市民のアウトサイダーとして生きるほかなかった。存在そのものが非合法とされ、政府の都合で犯罪者扱いされ、軍警察に有無を言わせず撃たれ、投獄され、拷問も受けた。
 エネルギー不足が慢性化したロンドンでは停電が頻発。新規の原発建設に取りかかったが、予定通りにいかず、予算は超過し、遅れ、ようやく試運転にこぎついたものの動かず。それは環境保護過激派のしわざとされ、アウトサイダーの何人かが狩られていく。
 市民の少年たちはネットワークゲームに没入するが、ハンター・ナッシュはそれでは物足りなかった。だから、アウトサイダーのような身体を使ったジャンプができるようになりたいと身体を動かし、スリルを求めた。アウトサイダーの若者は、肉体を鍛え、ビルを飛び、壁を登るスキルを培っている。それにあこがれたのだ。
 しかし、ハンターはスラムの縁で、アウトサイダーの少年が軍警察に殺されるのを見てしまった。尋問もなにもなく、市民以外には「まず撃ってから」がまかり通っているのだ。
 ハンターは別の日に、川で小舟が橋のたもとに集まっているのを見かける。アウトサイダーたちの葬送である。そこに軍警察が。巻き込まれまいとハンターは橋の上部に登って惨劇を見ている。そこに、追われたアウトサイダーの少女ウーマが現れる。ウーマはハンターに世界中のアウトサイダーのネットワークすべての鍵を握るアイテムを隠すよう頼み、軍警察に捕まってしまう。市民のハンターはすぐに釈放された。
 ウーマとハンターは再開し、鍵の謎解きがはじまる。
 ガール・ミート・ボーイの物語。
 マリー・ルーがアメリカの分断と専制を描いたボーイ・ミーツ・ガールSF「レジェンド」に近いかも。発表時期も同じ2011年だし。そう考えると2000年代後半には、2010年代からはじまったばかりの20年代を予感するSFが多数出ていたのだろう。
 気候変動、エネルギー危機、分断と格差、ネット社会とポピュリズム政治、独裁・専制化。
 2020年は、イランとアメリカの緊張で幕を開けたが、アメリカは「レジェンド」そっくりになりつつあるし、EUからの離脱を決めたイギリスの格差社会は限界に近づいている。
 気候変動は止められないが、長期的視野でゆるめることはできる。
 エネルギー危機も止められないが、自然エネルギー技術の発展とエネルギー分配方法の改善で中長期の対処はできる。食糧危機、水争奪もまた、それらの科学技術と社会成長によって対応可能であろう。
 しかし、そのためには、ポピュリズムに流されず、専制や独裁を防ぎ、個が自立しながら社会を安定させる必要がある。分断と格差を減らしていく必要がある。
 本書に書かれているアウトサイダーが求める世界は、そういう社会なのだけれど、ストーリーはちょっと古いゲームっぽいところがある。わかりやすくてよろしいが。
(2020.1)

スターシップ・イレヴン

スターシップ・イレヴン
Linesman
S・K・ダンストール
2015
人類は数百年前にラインと出会った。ライン、それはエネルギーであり、物質でもあり、人類の行動範囲を格段に広げるものであった。ラインを使い、ボイド空間に出入りすることで光速を超えて船を飛ばすことができるようになった。ラインは10のレベルがあり、人類はラインを1~10まで区分した。数字が小さいラインはクルーの健康維持や軽作業、通信などを担い、数字が大きくなるほどに船のエンジンやボイド空間への入出などの重要な役割を担う。そして、ラインの調子を整えることができるのは、ラインズマンと呼ばれる天性の才能と訓練を受け、ラインズマン・ギルドで承認されたものだけ。彼らは、カルテル・マスターに雇用され、宇宙船のメンテナンスを引き受ける。そのなかでもレベル10のラインズマンはライン10を認識し、その修正ができる少数の特別な存在。
主人公のイアン・ランバートは、ライン10のひとりで、そして、現在のところ宇宙船のメンテナンスを請け負えるただひとりの男である。なぜなら他の高位のラインズマンはすべて「合流点」とよばれる未知の存在の調査にでかけているからだ。イアンも合流点の調査を望んでいたが、カルテル・マスターが許さず、ただひとり、さまざまな宇宙船のラインを、ラインと関わるエンジンや機器類を治していた。カルテル・マスターがイアンを合流点に行かせないのは、彼がいれば儲かるからだが、イアンは他のラインズマンとは大きく異なる点があった。彼は歌うことでラインの「気持ち」を知り、そして「治す」のだ。他のラインズマンはラインに感情や思考があるとは思っていないし、ラインは曲がったところをまっすぐにするのが仕事だと思っている。
ランシア帝国のスラムで育ったイアンは、多くのラインズマンとは異なり、自己流でラインズマンとしての能力を育て、後に訓練されたときも自己流を変えることができなかった。
そのイアンに転機が訪れる。ランシア帝国の若き皇女ミシェルが、イアンを事実上買い取り、そして、ミシェルや緊張関係にある同盟星の政界、軍関係者とともに特殊な任務につくことになったのだ。それは、人類の3勢力の戦争を防ぎ、そして、合流点など、人類が理解できない存在のなぞを解き明かすためのミッションは、それまで孤独だったイアンを変え、人類を変えるのであった。
物語としては、人類の戦争ものだ。実際の戦闘もある。宇宙船はボイド空間を使って他の星系に移動できるが、同時に2隻が同じエリアに出現すると星系規模での空間破壊が起きてしまう。そのためゲート管理が必要になった世界、というのが条件。つまり、一度に1隻ずつ。星系・惑星の連合や同盟といった政治・軍レベルの緊張と陰謀と争い、経済的紛争、ラインズマンをめぐる、あるいはラインズマン同士の勢力争い。そういうものが、そういうものと無関係でいたいイアンを取り巻く。
積極的意思を持たない主人公イアンを中心に敵も味方も濃い人たちが動き回って結果的にイアンとラインをめぐる大騒動につながるという物語で、焦点を絞り切れていない気もするが、「ライン・ユニバース」がシリーズ化されれば、人類間、人類と未知の種族(エイリアン)、ラインという存在の真実など、広げようはいくらでもあると思う。
長ーい開幕ストーリーを読んでいた気分。
(2020.1.5)

三体

三体
THREE-BODY PROBLEM
リウ・ツーシン
2006
 読んだ。壮大な序曲である。1967年、文化大革命に揺れた中華人民共和国。その大波に翻弄された科学者の親子がいた。そして、40数年後、その科学者の子が殺された。その科学者だけでなく、世界中の基礎科学者が次々となぞの死を遂げている。
 ワン・ミャオはナノマテリアルの開発責任者。ある日、軍警察関係者が職場を訪ねてくる。そして、事態が動き出し、ワンは巻き込まれていく。基礎科学者ではないのに、ワンは命を狙われていく。そして、ある組織が接触し、ワンにナノマテリアルの開発をやめるよう働きかける。断るワンに、その組織は言う。「あなたのために宇宙を動かしてあげる」。そして、宇宙が動いた。壮大すぎる。
 中国語の作品にどうして英訳者の大森望さんが入っているのか不思議だったが、あとがきを読んで納得。中国語で執筆、その後、英訳されアメリカでヒット、日本ではすでに中国語訳が出版されていないまでも存在。中国語版はSF翻訳者ではない方々によるもの。しかも、中国語版と、その後の英語版では構成が少し異なっていて、著者は英語版の流れが本意だとも言う。そこで、日本に存在していた中国語訳と英語版をベースに、SF翻訳者である大森氏が逐文チェックしながら整理。手間のかかる仕事になったとのこと。
 それだけに英語版とも中国語版とも違う日本版となった。
 発表されたのが2006年。中国の経済社会が沸き立っていた時期。文革についても(ある程度は)書けるようになったのだなあ。中国が主な舞台だし、文革期が物語の導入や登場人物の動機を形成しているけれど、作品としてはとてもインターナショナルだし、SFとしてはハード中のハードと言ってもいい。荒唐無稽でもある。エンターテイメント。すごいね。
 続編はまだー。
(2019.12)

静かな太陽の年

静かな太陽の年
THE YEAR OF THE QUIET SUN
ウィルスン・タッカー
1970
 2019年11月の私は「静かな太陽の年」を読んだ。ややこしいことだ。
 本書は、1914年生まれのウィルスン・タッカーが1970年に発表したタイムトラベルSFである。作者56歳の頃の作品である。ちなみに、それ以前はほとんど1950年代に書かれているので、久しぶりの作品とも言える。
 ここからがややこしい話で、本書は1978年を「現在」に据え、事件としては1980年、1999年から2000年代初頭のアメリカを舞台に展開する。
 つまり、作者タッカー目線で言えば、1970年以前の視点で、1978年を予測・想像し、そこから1980年、そして21世紀頭を描いたものである。
 そして、本書が訳されたのは1983年のことで、1931年生まれの中村保男氏の訳による。私が少年の頃に読んだSFの中で中村氏が訳した作品は多い。中村氏は2008年に亡くなっている。
 さて、1980年代頭はSFブームの頃で、次々に海外SFが翻訳され、日本の作家もヒットを飛ばしていた。そんな時期である。しかし、この作品はそれほど国内で売れたとも思えない。再版もかかっていなかった。それなのに、2018年9月、初版が出てから16年の歳月を経て、再版されている。実に不思議なこともあるもんだ。
 読者の私は、今回が初読。いまは2019年であり、この作品の舞台の「現在」からみれば45年後、描かれた2000年代初頭からも10年は過ぎている。
 そもそも、1978年の「現在」の描写さえ、歴史的には違っている。だって1970年の作品だから。
 だから、どんな視点で読めばいいのか分からない。笑う?現実の世界との違いを考える?
 たとえば、1970年当時激しかったベトナム戦争は幸いなことに終わっている。
 しかし、中東情勢は悪化を続けていた。そして、2019年のいま、アメリカが表立ってイスラエル寄りの政策を強く打ち出すようになり、緊張は高まっている。周辺のインド・パキスタン、イラン・シリア・トルコ・イスラエルなどの中東、南西アジア情勢も決して静かではない。
 1970年代、アメリカの宇宙開発は月から軌道上に後退し、そして月は忘れ去られていった。1970年にそんなことを誰が思っただろうか。スペースシャトル計画はその先への一歩だと、アポロ計画はさらなる月探検への道だと、みんな思っていたのではなかろうか。
 この作品では、ベトナム戦争は米中紛争へと発展している。中東戦争も悪化、アメリカは戦時下だ。
 この作品に書かれた近未来は、私たちにとっての過去だが、最悪の世界を見せる。核が繰り返し使われた世界。1970年代、このようなディストピアを描く作品は決して荒唐無稽でも、過剰な悲観思想でもなかった。それほどまでに、米ソ冷戦と核戦争への恐れは強かったのであり、人々はそのハルマゲドンを現実に迫るものとして実感していたのだ。
 それは日本でも同様であり、高度経済成長期の浮かれた中にも、常に一抹の不安として存在し、空を見上げていたのだ。実は、2019年のいまでもその状況は本質的には変わっておらず、とくに1990年代に米ソ冷戦が終わり、新たな世界のありようを平和裏に描けるという夢があっという間に消え、世界各地の紛争と、覇権なきテロ、そして、アメリカ、中国、ロシア、EUの台頭と緊張が分かりにくくも、新たな緊張を生んでいる。
 それでも、なんとか世界大戦はまぬがれている。がけっぷちなことは変わらないのだ。
 さて、本書では、1978年にタイムマシン「換時機」がアメリカの一部局で開発され、2000年頃の未来を確認するために3人の人間を送り込む準備が進められていた。ひとりは主人公のブライアン・チェイニィ。統計学者であり、未来学者であり、紀元前に書かれた巻物の物語を現代訳して物議を醸しているうんちく好きで、どこか引っ込み思案なところのある男。それに、空軍と海軍から来た若い少佐。戦争が続くおかげで昇進を早めたが、分析などが得意な者たちである。もうひとり、3人の調整役であるヒロインのカトリーナことカスリン・ヴァン・ハイゼ。若く、美しく、聡明かつ任務に厳しい女性である。
 実利性が薄いと考えられ、議会からは秘密のプロジェクトの予算が削られ、かろうじて新しい大統領に理解されてぎりぎりの予算で運営されているプロジェクトである。
 大統領は、自分が再選されるかどうかを知りたかったので、予定の行き先の変更を求める。そして、3人は最初の目的時間である1980年を訪れるのだ。
 この換時機は、大量の電力を消費して時間に穴を開け、その真空状態に機器と人を飛ばす。帰るときも同様である。行きと帰りの時間差は61秒、そして、滞在時間は50時間と定められた。チェイニィをはじめ未来を見る者たちはそこで何を見るのか、そして、カトリーナに淡い恋心を抱くチェイニィの思いは。
 近未来予測SFとしては、すでに過去なので答え合わせは簡単。そうならなくて良かったね、だが、訳者あとがきにもある通り、本書の執筆の動機であり本当のテーマは人種差別問題にある。1960年代半ば、アメリカにおける黒人差別と暴動が激しかったなかで、人種差別の醜さと、抑圧された人々の怒りの可能性を描いている。しかし、そのテーマはずっと隠され、本書のエンディング近くでようやく明らかになる。(ネタバレじゃん)と思われるかも知れないが、そうではない。
 物語の設定上、2回3回と送り出す時間やその間隔、人選など、良く考えればおかしいじゃないかと思わせるところも大きいが、過去改編ではなく「未来改編」の物語なのでタイムパラドックスはうまく回避している。
 1970年に書かれたことを忘れなければ、おもしろい1冊。
 でも、なんで2018年に再版されたのかな?
(2019年11月))

接続戦闘分隊 暗闇のパトロール

接続戦闘分隊 暗闇のパトロール
THE RED First Light
リンダ・ナガタ
2013
 このところ最近のミリタリーSFを立て続けに読んでいる。「宇宙兵士志願」「強行偵察」(マルコ・クロウス)「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」「メカ・サムライ・エンパイア」(ピーター・トライアス)そして、本書「接続戦闘分隊」である。ほかの4冊はなんとなくついでに読んだのだが、本書は「読みたかった」一冊である。なぜなら著者がリンダ・ナガタだから。「極微機械ボーア・メイカー」(1995)「幻惑の極微機械」(1997)はナノマシンを技術的中心において近未来と遠未来を描いた対のような作品であった。リンダ・ナガタは不条理に左右される主人公を描く。その中で、できることをみつけ、生きようとする。かなり不条理で、かなりえらい目に合うのだが、とにかく生き残り、そして、何かを達成しようとする。その能力や機会を与えられたから、逃げない。
 そういう作品の芯に流れる指向性がとても心地よいのだ。
 そのリンダ・ナガタのミリタリーSFである。
 主人公のジェームズ・シェリーは、上流階級の若者だったが、とあることから軍に所属することになり、接続戦闘分隊の現場将校として闘うことになる。接続戦闘分隊は、部隊間で情報が接続されるとともに、指揮官は本部にいる指導官に常に監視と指揮、アドバイスを受けることになる。ただし、現場の戦場にいて、実際戦い、そして、時に傷つき、死ぬのは接続戦闘分隊の兵士達である。彼らは外骨格のようなボディーアーマーをつけて超人的な力を得て闘う。その最前線の指揮官であり、軍曹の支援を受けて現場をまとめ、ミッションを達成するのが仕事である。
 シェリーは他の兵士達とは異なり、接続デバイスを目に埋め込んでいる。このデバイスはもともとは軍の物ではなく、金を持った若者だからできたことだ。しかし、軍が使用している装着型のデバイスと親和性がある。違いはミッション以外でも常に指導官に見られていること。
 そしてもうひとつ、シェリーのもとで、兵士は死なない。シェリーは「予感」を持つからだ。「勘」といってもいい。何か危機を感じると指揮官の指示に従わず、自分の予感を信じて行動し、危機を脱する。この予感は不思議なぐらいあたる。超能力? いや、そういうのが入る隙のないぐらいのミリタリーSFなのだ。なぜ? しかし、この能力はとても使える。シェリーに名声も与える。
 ますます軍を抜けにくくなるシェリー。
 軍という立場にありながら、本来ハイソサエティーのリベラリストとして軍を嫌っている視点を持ち、世界について、戦争・紛争が起きることについて考えをめぐらすシェリー。リンダ・ナガタらしい展開である。
 たしかにミリタリーSFで、ミリタリーSFが嫌いな人は受け付けない作品だが、人間の善なる可能性を信じる小説としてミリタリーSFを超えていると思う。
 様々なネット技術の先に、紛争の先にある、支配/被支配の関係は現実にも存在する。だから、こういう作品はおもしろい。
 そして、作品としては、とても軽く、読みやすく、エンターテイメントに満ちている。円熟した作者が、説教くさくなく、その精神を作品に込めた良作である。おすすめ。
(2019.10)