ノパルガース

ノパルガース
NOPALGARTH
ジャック・ヴァンス
1966
 地球とは違う星系で、地球とは違う進化を経て、人類よりも早く星の世界を手に入れ、そして、ノパルによって果てなき戦争に追い込まれ、星を荒廃してしまったザックス人。戦争を終わらせた彼らは、ノパルを追ってある星の攻略を計画する。その星は地球。地球人ポール・バークは、ザックス人によって拉致され、宇宙の真実を知らされる。地球での使命を与えられ、地球に戻ることになる。たったひとり、人類とは違う世界を知った男、バークの行動は、人類とザックス人、そして宇宙に大きな影響を与えることになるのだ。
 ジャック・ヴァンス「竜を駆る種族」以来の翻訳である。作品は1966年に発表。古き良き時代のパルプ雑誌SFであるが、ストーリー展開と結末は時代背景を感じさせる皮肉に満ちたものである。テーマをあえて考えれば「善と悪の二面性」といってもいい。ある側面から善に見えたものがある側面からは悪になる。つきつめていけば絶対的な善と悪にたどり着くのかも知れないが、そのオセロゲームはどこで終わるのかが分からない。フランスとベトナムの泥沼の中に仲裁者として入っていったはずのアメリカがいつの間にかベトナム戦争の主役となり、やがて正義が悪になるその過程。アメリカ人の苦悩、そんな世相が反映しているような作品であった。
 そう書くと難しそうだが、パルプ雑誌SFである。軽い娯楽ものとして読めることは間違いない。おもしろいのも確かだ。しかし、40年以上前の作品を今頃翻訳する意図は分からない。あれも、これも読みたい作品はあるのに。映画化でもされるのかしらん。
(2009.09.25)

真空ダイヤグラム

真空ダイヤグラム
VACUUM DIAGRAMS(THE XEELEE CHRONICLE 2 VACUUM DIAGRAMS)
スティーヴン・バクスター
1997
「プランク・ゼロ」と「真空ダイヤグラム」の2冊を合わせてジーリー年代記を縦断する短編集が配列される。物語をつなぐ語り手は、イブ。異種族シルヴァー・ゴーストへの人類大使ジャック・ラウールの死んだ妻である。語り手の時間軸は5664年。前半の「プランク・ゼロ」は、すでに起こった過去の物語である。しかし、後半の「真空ダイヤグラム」はいきなり、語り手の時間軸の未来を舞台にする。10515年の「ゲーデルのひまわり」にはじまり、4101284年の「バリオンの支配者たち」に終わる。9作品、1万年先から400万年先までの未来である。途中には、長編「天の筏」の舞台と重なる「密航者」なども描かれる。
 ぶっちゃけて言えば、ジーリー年代記における人類は、ジーリーにとってはネズミのような位置づけである。そのほとんどは不快害獣や実際に家をかじり、食料を引き、病気を運ぶ迷惑で駆除しなければならない存在である。ただ、時には愛くるしいペットとして温情をかけたりもする。そういう存在。ジーリーの宇宙で人類は、ジーリーに次ぐ位置を占め、ジーリーに戦いを挑むが当然相手にならない。ならなくても戦う。どうしようもない存在である。ジーリーには真の敵がおり、究極の目的があった。そっちがジーリーにとってのすべてであり、人類との戦いはめんどくさい障害であったに違いない。やれやれ。結局人類はジーリーとの戦いで宇宙の資源を使い果たし、自らも変化、退廃していく。やれやれ。
 本書「真空ダイヤグラム」の解説で林譲治氏は、ベンフォードのユニバースシリーズとの比較をして、ベンフォードの宇宙では機械知性と人類の戦いの宇宙で人類が大きな役割を持つのに対し、バクスターでは人類の存在に皮相的なのは、ベンフォードがアメリカ人で、バクスターがイギリス人だからかもしれないとまとめている。たしかに、ベンフォードの機械知性の作品群と、バクスターのジーリー年代記は重なるところを感じる。さらに、超知性という点では、ブリンの知性化シリーズや、フレデリック・ポールの「ゲートウエイ」シリーズ(ヒーチーが登場するのだ!)などと重なってしまう。これは私が馬鹿で、物忘れがはげしいからだというのもあるが、どうにも、この手の超知性体シリーズものは感覚が似てしまうのだ。
 そんなことってありませんか?
 ところで、どこかに「天の筏」が転がっていないかなあ。これだけが未読。
(2009.09.05)

プランク・ゼロ

プランク・ゼロ
VACUUM DIAGRAMS(THE XEELEE CHRONICLE 1 PLANCK ZERO)
スティーヴン・バクスター
1997
 スティーヴン・バクスターの代表的シリーズ、ジーリー年代記は、長編の「天の筏」「時間的無限大」「フラックス」「虚空のリング」と、複数の短編で構成されている。本書「プランク・ゼロ」と「真空ダイヤグラム」は、短編を年代記別に並べ、間をつなぐ物語を置いた「真空ダイヤグラム」を日本で二分冊にしたものである。短編集のはじまりは、3672年の「太陽人」にはじまる。太陽人と言っても、太陽の中に住む人のことではない。太陽人とは、ある知的生命体が我々を呼ぶ言葉である。そのある知的生命体とは…。  この短編集には、「虚空のリング」に登場する「人の心を持った人工知能」リゼールが登場する。この短編が「虚空のリング」の一部の下敷きでもある。その後、本書「プランク・ゼロ」に記述はないが、「虚空のリング」の主人公たちが未来への旅に出かけ、時間軸に残った多くの人類は、未来からの予告通り、スクィームに侵略される。4874年の「パイロット」は、スクィームに侵略されはじめたばかりの太陽系での逃亡者を描く。その後、スクィームの支配に打ち勝ち、再び人類は拡張、そうしてクワックスに出会い、軽々と支配されてしまう。クワックスの支配については、「時間的無限大」で描かれているが、そこではクワックスを滅亡に近い状態に追い込んだ人間の物語に触れられている。それこそが、5406年の「青方変異」である。
 クワックスの支配を逃れた人類は、拡張の時代を迎え、やがてジーリー以外の知的生命体の頂点に立っていく。
 その過程で出会ったのがシルヴァー・ゴーストと人類が呼ぶ種属である。彼らは、彼ら独自の理論でジーリーの干渉を受けかねない宇宙規模の実験を繰り返していた。この短編集の作品をつなぐのが、シルヴァー・ゴーストに対しての人類側大使ジャック・ラウールと、その死んだ妻イブの物語である。それは、5664年にはじまる。「プランク・ゼロ」は、その物語の直前、5654年の表題作「プランク・ゼロ」で終わる。
 この短編集は、「時間的無限大」や「虚空のリング」を読んでいるとジーリー年代記宇宙の背景をすんなり受け入れられる。もちろん読んでいなくてもひとつひとつの物語が充実している。その作品も「宇宙」と「生命」を感じさせる壮大な物語を予感させる。
(2009.09.05)

虚空のリング

虚空のリング
RING
スティーヴン・バクスター
1994
「時間的無限大」に続き、ジーリー年代記の長編にあたるのが本書「虚空のリング」である。宇宙論の仮説を大胆に活用して、宇宙のはじまりから終わりまでを、まるでゾロアスター教における光と闇の戦いのように描ききるバクスターの意欲作である。「時間的無限大」でも、本書「虚空のリング」でも、結局はこの宇宙の終わり(の方)が描かれている。
 最初から宇宙が終わっているわけではなく、結局のところ、宇宙の終わりにつながっているということで、これは、「すべての人間は必ず死ぬ」とか、「致死率100%の病気は死だ」というのと同じくらい意味のない説明でもある。
 時間軸は、まだ、スクィームにもクワックスにも出会っていない、太陽系からほとんど外に飛び出していない、前著「時間的無限大」のマイケル・プールがいなくなってから150年後の太陽系にはじまる。「時間的無限大」で起きた未来からの侵略から伝えられた情報は、その後、聖スーパーレット光教会を生み出し、一部のものがある程度深刻に宇宙の未来を考えていた。現実に、我らが太陽系の太陽に変化が起きている可能性があった。宇宙の恒星が本来のしかるべき寿命より年を取っているのだ。太陽もまた、早くに老化し、赤色巨星化する可能性がある。そこで、太陽内部の調査を行うため、あるAIが生み出され、ワームホール技術を応用して太陽に送り込まれた。
 そしてもうひとつ、聖スーパーレット光教会は、本来ならば100億年も先と予想される宇宙の晩年が500万年程度で訪れると予想した。そこでGUT船を1000主観年亜光速で加速させ、その500万年先の未来にワームホールを運び、過去と未来をつなごうと計画する。しかし、1000年も続く目的を持った小社会を継続することは難しい。様々な議論と計画を経て、3953年、GUT船グレート・ノーザンが亜光速飛行で未来への旅をはじめた。
 この物語は、太陽に送り込まれたAIと1000主観年、500万年先の未来に行こうとする人々の話をクロスさせながら、人類が真に知ることのなかった超種属ジーリーと、暗黒物質界の生命体フォティーノ・バードの宇宙規模の戦いの姿を知ることになる。
 時間と空間は絡み合いながら、物語の間を展開し、読者はめまいに満ちた時空の広がりを感じることができる。
「想像もつかないものを書きたい」と、作者のバクスターが思ったのかどうかは分からないが、とにかく壮大である。数千光年、数百光年といった規模の話が軽々と出てくる。地球から一番近い恒星まで4.37光年。それでも、空を見上げるとその恒星は点にしか見えない。宇宙は広く、その規模は想像を絶する。すごいなあ、バクスター。
 すっとするぜ。
 そうそう、グレート・ノーザン内の社会は、ハインラインの「宇宙の孤児」を思わせるところもあってほほえましい。
(2009.09.05)

宇宙の一匹狼

宇宙の一匹狼
ROGUE IN SPACE
フレドリック・ブラウン
1957
 ブラウンの長編小説「宇宙の一匹狼」である。初読。古本屋さんで500円で買った。定価は200円。1966年初版で、74年に13版を数えている。古き良き時代。
 元宇宙飛行士のクラッグは、犯罪歴のある男。地球の第二の都市で麻薬所持の疑いによって逮捕され、精神改良所送りの刑になるところを、太陽系調整官の職を狙う大政党のリーダーによって解放された。その引き替え条件が、彼の仕事を手伝うこと。あるものを火星の発明工場から盗み出して欲しいという。それは、クラッグほどの能力と知性と強い意志力を持った男にしかできないことであった。
 一方、大宇宙では人類が誕生するはるか以前にひとつの知性が誕生していた。それは一個の小岩石であり、長い時間をかけて知性を、思考力を、様々な能力を獲得した独立した存在である。それは、宇宙を渡り歩き、他の「知性」を探していたが、そのようなものは見つからず、宇宙に存在する知性体は自分のみであると判断していた。それが、ちょうど太陽系に入ろうとしていた。
 やがて、ある事件が起き、女と出会い、女と別れ、クラッグと岩石が出会い、別れ、そして、太陽系に新しい惑星が誕生する。クラッグの惑星である。
 まあ、安心して読んでください。古きハードボイルドな「男のための」SFである。
 入手困難だが、最近フレドリック・ブラウンを見直す動きがあるので、そのうち読めるかもしれないよ。
(2009.09.02)

フラックス

フラックス
FLUX
スティーヴン・バクスター
1993
 中性子星にある目的を持って送り込まれた、改造された人類。身長(体長?)わずか10ミクロン程度。中性子星のある部分で、人は生まれ、育ち、子を産み、そして、死んでいった。目的は記憶され、やがて忘れられ、あるものは記憶し、口述し、あるものは記録を捨て、新たな都市を築き、追放し、追放され、辺境でかつかつの暮らしをし、時に都市に回帰し、都市はさびれ、復興する。
 その日が来るまでは。
 突然、中性子星に異変が頻発するようになった。
 その異変が原因で、ひとつの部族が崩壊の危機に見舞われ、若きリーダーとなった女性は、部族を救うべく弟、長老らと旅に出る。しかし、連れのひとりの長老が怪我を負い、通りかかった初めて見る「都会人」に救われ、弟ともども都市の中で暮らすはめになる。都市でも異変は起きており、世界が変化の予感を秘めていた。
「ジーリー」年代記の中でも異色中の異色、中性子内部に生きる人類の末裔の物語である。ジーリーの物語を知っていようが知っていまいが、それはかまわない。中性子内部に生きるというのはどういうことか、見てきたように語られる。すごいなあ、頭いいんだなあ。びっくりしちゃうよ。ホント。
 おもしろいなあ、よくこんなこと考えつくよなあ。楽しいな。
(2009.08.22)

無限記憶

無限記憶
AXIS
ロバート・チャールズ・ウィルスン
2007
「時間封鎖」の続編である「無限記憶」。前作から30年が過ぎた…。幼い頃、「新世界」でともに暮らした研究者の父が失踪した。少女は母に連れられ「旧世界」に戻っていたが、やがて結婚して「新世界」へ戻る。夫とのすれちがい、そして、父の失踪の真実を知りたいという願い。彼女の行動は、ひとりの男との出会いを生む。混沌とした「新世界」でフリーランスのパイロットをしている男。女と男は、ちょっとしたアクシデントで恋に落ち、やがて事件に巻き込まれていく。そして、ふたりは世界の真実を探す旅に出る。
 人類が発見した、いや、人類に与えられた「新世界」は、変化の時を迎えていた。突然の砂嵐の細かな砂は、まるで微少機械の部品のような様々な形をしていた。砂の中から一時的に表れる異形の「花」や「虫」は何を意味するのか?
「新世界」で生まれた一人の少年は、どこかで、誰かが呼ぶ声に悩まされていた。それは砂嵐以降に彼をますます頻繁に呼ぶ。その少年の周りに子どもはおらず、いるのは大人の研究者ばかり。そして、彼らは少年の一挙手一投足に神経を尖らせる。そこに、ひとりの女が訪ねてきた。彼女は「火星」で生まれ育った老女である。彼女と少年こそ、世界の真実を解き明かす鍵であった。
 彼らと、彼らをとりまく人たちに、探求への喜びはない。
 生命が生命であることを大切にしたいだけだから。
 うーん、おもしろい。
 第1作の「時間封鎖」ほどではないが、いろんなSFのオマージュが込められている。
 そして、21世紀的な作品である。
 世界にとって何が大切なことなのか? 思考と記憶と行動のどれが大切なのか?
 宇宙にとっての生命とは、見るとは、知るとは、記憶する、とは。
 自己とは、他者とは。
 いずれも、古典的な哲学、宗教が問い続けてきた命題であり、同時に科学が追究してきた課題である。科学の追究の先に収斂してきた課題といってもいい。
 本書「無限記憶」を読みながら、アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(TV版)を思い出していた。グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」のアイディアをふくらませ、少年の記憶と行動の、自己と他者の物語として描いた作品だが、本「無限記憶」は、とても良く似ている。どこが…と聞かれると、ネタバレになるので書きにくいのだが、以下にネタバレを承知で書く。申し訳ない。未読の方は、まず「時間封鎖」「無限記憶」を読んでからにして欲しい。また、「交響詩篇エウレカセブン」のネタバレも含むので、未見の方は、こちらもご容赦願いたい。
 アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(以下、エウレカセブン)と、本書「無限記憶」は、いずれも人知を超えた「存在」と人類の関係性を描く。「存在」は人類にとっての世界であり、「存在」に人類の生存やあり方が規定されている。「存在」には認識能力や記憶能力があると見られるが、人類にとって理解可能なコミュニケーションはとれていない。故に人類は「存在」を、「敵」と見なし、あるいは「神のような存在」と見なす。「善悪」を憶測し、人類の理解可能な領域に入れようとする。しかし、人類には理解不能である。
「存在」は高い能力を示し、世界に様々な姿を顕在化させる。それが、「存在」そのものなのか、ただの「道具」や「表現」なのかは分からないが、人類にとって認識可能だが理解不能な「生きもの」や「物体」などとして現れる。
 人類の一部は、「存在」とコミュニケーションを図ろうとする。また、「存在」も時に人類と関わりを持とうとしているのではないかと考えられる行動を行う。
 エウレカセブンでは、少女エウレカを存在が送り出した「メッセンジャー」として語り、エウレカが心に(記憶として)書き込む感情を含む情報を求める。
 本書「無限記憶」では、このエウレカと逆の役割、すなわち、存在へ人類が送り出す「メッセンジャー」が生み出される。エウレカの場合と同様に、メッセンジャーは、メッセンジャーと知的生命体として心を通わせる者と親しくなり、情報を密に交わす。それが物語となり、物語をつくる。
 私たちの行為は、思惟は、世界に書き込まれ、世界の記憶となる。しかし、すべてが記憶されるわけではないのか? 記憶は、記録する者がいてはじめて記憶となるのか?
 私は、あなたは、過去、現在、未来を通じて記憶されているのだろうか?
 誰の、何の記憶になるのだろうか?
 かつて、それは神の役割であった。
 神は死んだのだろうか?
 21世紀の神は、機械の神、または、異形の神なのであろうか?
 うーん、私の頭ではぐるぐるするだけだ。
 一流のエンターテイメントであることだけは間違いない。必読。
(2009.08.20)

時間的無限大

時間的無限大
TIMELIKE INFINITY
スティーヴン・バクスター
1992
 この宇宙にはジーリーという超種属がいる。ジーリーを除いては、人類のほか、あまたの知的種属があり、支配、侵略、通商、友好、同盟など、お互いの様々な関係を構築し、ある種属は滅ぼされ、ある種属は忘れ去られていた。
 宇宙に進出した人類は、あっというまに、スクィームという先進種族に発見され、支配されるが、スクィームの支配は長く続かず、人類はスクィームの支配から抜け出し、新たにクワックスに出会う。当初友好と見られていたクワックスだが、再び人類はクワックスに支配され、長きの支配下種属として苦渋の日々を続けていた。
 あるとき、クワックスの目をかいくぐって、一群の人間たちが逃亡する。
 1500年前、宇宙に進出し始めたばかりの人類は、ある実験を行った。それは、ふたつのつながりをもつワームホールのひとつを相対効果が出るように加速し、ひとつを1500年の先に運ぶことで、1500年の時空を結ぶという計画であった。
 その1500年後のワームホールを待って、クワックスもスクィームも、宇宙の牙を何も知らない人類の元に逃亡した未来の人類。しかし、彼らは過去の人類にクワックスの危機を伝えることもせず、木星近傍で独自の計画を持って何かを行っていた。
 はたして彼らの目的は? そして、クワックスは過去の人類まで支配しようと来るのであろうか? ワームホールタイムマシンを計画した天才科学者マイケル・プールが、この謎を解きほぐすために未来の人類に接近する。そこには…。
 ジーリー・クロニクルのはじまり、はじまり、である。マイケル・プールの名前ぐらい覚えて帰ってください。
 本書「時間的無限大」は、当時の最新宇宙論をたっぷりとちりばめたハードSFである。
 宇宙は何次元? ワームホールを使ったタイムマシンは可能? ブラックホールを操れたら何ができる? 観察者問題をつきつめていったら、宇宙はどうなる? みたいなガジェットが満載。楽しいよ。
 それにしても、ジーリーだのヒーチーだの、宇宙には超種属が居て、人類には想像もつかない何かをするのだね。
(2009.08.09)

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを
GOD BLESS YOU, MR.ROSEWATER
カート・ヴォネガット・ジュニア
1965
 そうかあ、本書「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」が書かれたのは私が生まれた年かあ。つまり、今から44年前。読んだのが二十歳の時、1985年。バブル経済直前の大学生である。「逃走論」とか、「ニューアカ」とか、「新人類」とか、なんだか社会全体が浮かれていて、学術方面もかなり浮き浮きしていた、そんな時代である。
 そうすると、こういう作品がもてはやされて、読むことになる。村上春樹や村上龍の時代でもある。ところで、本書にはSF作家「キルゴア・トラウト」が初登場する。キルゴア・トラウトの作品がいくつか紹介されたり、主人公のエリオット・ローズウォーターが、SF大会に酔っぱらって登場し、演説するシーンがある。それをもってSFとすれば、本書はSFであるが、どう考えても、本書「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」はSFではない。でも、早川文庫SFから出ている。なぜなら、カート・ヴォネガット・ジュニアの読者は、カート・ヴォネガット・ジュニアをSF作家として読み、日本ではSF作家として評価されているからである。もし、SF作家として、早川文庫SFから出ていなかったら、本書を読むことはなかったであろう。よかったのか、悪かったのか。
 SFでなければ、ここでいろいろ書き連ねることは、おかしいのだが、カート・ヴォネガット・ジュニアをSF作家として位置づければ、SF作家の作品として書いてもおかしくはない。書かないのも変になるから。
 まあ、そういうことはどうでもいいことに分類されるわけだが、世の中のたいていのことは、どうでもいいことに位置づけられる。たとえば、いま、私は、自宅のメインパソコンがクラッシュしてしまい、なんとかOSを復旧させようとあの手この手を試しつつ、サブのノートパソコンでこれを書いているのだが、もし、パソコンがクラッシュしていなければ、別の仕事をしていたであろうし、別の気分でいられただろう。さらに、どうもハードディスクがクラッシュしているようで、復旧がうまくいかず、OSをクリーンインストールして再構築するか、今はあきらめて新しいハードディスクを購入するかの選択が近づいているような気がしている。
 こんなことは、世の中よく起きていることで、便利になったのだか、不便になったのだか分からない気持ちになるが、総じて言えば便利になったのかも知れない。便利になったからと言って幸福になったのかと言えば、必ずしもそうは言えないわけで、豊かな国日本の国民の何割かは確実に生活が苦しくなっており、あまり日々幸せとは言えない人もいる。それでも、日々笑ったり、泣いたりはしているわけで、人間はどんな状態でも生きていける(はずだ)。
 持つもの、持たざるものに関わりなく、他者と関わりを持つことで、生きていける。大金持ちのエリオット・ローズウォーターは、他者と関わりを持つ何かになりたかった。そういう物語である。SF。ローズウォーター財団というものはおそらく架空の存在だし、SF作家キルゴア・トラウトが誕生した意味では、本書はSFである。そういうことにしておこう。
(2009.08.09)

デューン 砂漠の異端者

デューン 砂漠の異端者
HERETICS OF DUNE
フランク・ハーバート
1984
 1985年、冬。前作「砂丘の神皇帝」が出てから1年後に、デューンシリーズ6編目となる「砂漠の異端者」が翻訳された。レト神皇帝が崩御してから1500年が過ぎた。デューン「砂の惑星」から約5000年の歳月が流れた。既知宇宙の人々は、暴君レトのくびきが取れたかのように広く未知の宇宙を開拓する大離散と、社会的混乱による大飢饉の時代を経ていた。砂の惑星アラキスは、ラキスと呼ばれ、かつてハルコンネン家の惑星であったジェディ・プライムはガムーと呼ばれていた。
 協会(ギルド)、ベネ・ゲゼリット、トライラックス、イックスは健在であり、既知宇宙にはさらに新たな勢力が進出し始めていた。それが、「誇りある女たち」である。彼女らは、大離散から戻ってきた勢力のひとつで、ベネ・ゲゼリットとトライラックスの技術を併せ持つような勢力であった。ラキスの香料メランジを凌駕するトライラックスの人工メランジの存在と、誇りある女たちへの恐怖が、ベネ・ゲゼリットとトライラックスを近づける結果となる。
 一方、ラキスは再び砂の惑星へと戻り、暴君レトのかけらを内包した砂虫がかつてのように砂の海に生きていた。そこに、ひとりの少女が現れる。砂虫とのコミュニケーションを図ることができる娘シーアナである。それはラキスの僧侶たちにより、また、ベネ・ゲゼリットによって予言されていた娘。神の復活の兆しとなる娘であった。
 一方、ベネ・ゲゼリットは暴君レトと同様に、トライラックスよりダンカン・アイダホのゴーラ(クローン)を買い入れ、彼を育てていた。ダンカン・アイダホのゴーラがかつての自らの精神と記憶を取り戻すには、先代レト侯爵とのある会話と緊張状態が必要となる。ベネ・ゲゼリットは、アトレイデの血筋をしっかりと取り入れ、そのための人材までも育てていた。
 暴君レトとベネ・ゲゼリットによって多くの人々の身体、精神能力は5000年前の人たちが想像しないほどに向上し、一部は超人と呼べるほどになっていた。ダンカン・アイダホをめざめさせ、シーアナとつがわせることこそが、ベネ・ゲゼリットの復興の次の目標となっていた。
 そこに立ちはだかる誇りある女たち、さらには、同盟者でもあるトライラックスとの緊張。
 これまでとは異なる物語が、5000年の歴史を背景に今はじまる。
 ということで、前作「砂漠の神皇帝」に続き翻訳され、買って読んだのだが「ふーん、これ誰だっけ? 何が起きていたんだっけ」といった感じで大河ドラマの前を思い出せずに、ダンカン・アイダホの苦悩がよく分からず、出てくる登場人物の位置づけも見えず、放りだした記憶がある。そのためか、自作であり、フランク・ハーバートの最後のデューンシリーズとなった「砂丘の大聖堂」を買うことはなかった。「砂丘の大聖堂」が出た頃は、すでに社会人になっていて、日々ものすごく忙しく、たまに本屋に行っても、その日の気持ち次第でSFを買わずにいることもあった。「砂丘の大聖堂」を見かけたのは、当時広島のバスセンターに併設していたそごうか、バスセンターの中にあった紀伊国屋で、手にとってあらすじを読み、「ま、いいか、前のを読み返さないと分からないし」とそっと戻したのを覚えている。後悔。大後悔。今となってはどうしようもない。
 さらに、「砂丘の大聖堂」後、フランク・ハーバートは亡くなり、息子のブライアンが、今、この続編を書いたそうであるが、日本で翻訳される見込みはない。デューンシリーズを訳していた矢野徹も亡くなり、このまま日本では「デューン」が再評価される日はこないのであろうか。
 もったいない。今読んでもおもしろいのに。
 5000年だよ! しかも、デューンの宇宙史には、書かれていない1万年以上の人類の歴史があるというのに。あああ、誰でもいいからブライアンの続編を訳して。そして、デューンシリーズを一度全部再版して、ね、早川書房様。
 SF滅亡の危機だけど、こういう作品は残していってもらいたいものである。
(2009.08.09)