接続戦闘分隊 暗闇のパトロール

接続戦闘分隊 暗闇のパトロール
THE RED First Light
リンダ・ナガタ
2013
 このところ最近のミリタリーSFを立て続けに読んでいる。「宇宙兵士志願」「強行偵察」(マルコ・クロウス)「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」「メカ・サムライ・エンパイア」(ピーター・トライアス)そして、本書「接続戦闘分隊」である。ほかの4冊はなんとなくついでに読んだのだが、本書は「読みたかった」一冊である。なぜなら著者がリンダ・ナガタだから。「極微機械ボーア・メイカー」(1995)「幻惑の極微機械」(1997)はナノマシンを技術的中心において近未来と遠未来を描いた対のような作品であった。リンダ・ナガタは不条理に左右される主人公を描く。その中で、できることをみつけ、生きようとする。かなり不条理で、かなりえらい目に合うのだが、とにかく生き残り、そして、何かを達成しようとする。その能力や機会を与えられたから、逃げない。
 そういう作品の芯に流れる指向性がとても心地よいのだ。
 そのリンダ・ナガタのミリタリーSFである。
 主人公のジェームズ・シェリーは、上流階級の若者だったが、とあることから軍に所属することになり、接続戦闘分隊の現場将校として闘うことになる。接続戦闘分隊は、部隊間で情報が接続されるとともに、指揮官は本部にいる指導官に常に監視と指揮、アドバイスを受けることになる。ただし、現場の戦場にいて、実際戦い、そして、時に傷つき、死ぬのは接続戦闘分隊の兵士達である。彼らは外骨格のようなボディーアーマーをつけて超人的な力を得て闘う。その最前線の指揮官であり、軍曹の支援を受けて現場をまとめ、ミッションを達成するのが仕事である。
 シェリーは他の兵士達とは異なり、接続デバイスを目に埋め込んでいる。このデバイスはもともとは軍の物ではなく、金を持った若者だからできたことだ。しかし、軍が使用している装着型のデバイスと親和性がある。違いはミッション以外でも常に指導官に見られていること。
 そしてもうひとつ、シェリーのもとで、兵士は死なない。シェリーは「予感」を持つからだ。「勘」といってもいい。何か危機を感じると指揮官の指示に従わず、自分の予感を信じて行動し、危機を脱する。この予感は不思議なぐらいあたる。超能力? いや、そういうのが入る隙のないぐらいのミリタリーSFなのだ。なぜ? しかし、この能力はとても使える。シェリーに名声も与える。
 ますます軍を抜けにくくなるシェリー。
 軍という立場にありながら、本来ハイソサエティーのリベラリストとして軍を嫌っている視点を持ち、世界について、戦争・紛争が起きることについて考えをめぐらすシェリー。リンダ・ナガタらしい展開である。
 たしかにミリタリーSFで、ミリタリーSFが嫌いな人は受け付けない作品だが、人間の善なる可能性を信じる小説としてミリタリーSFを超えていると思う。
 様々なネット技術の先に、紛争の先にある、支配/被支配の関係は現実にも存在する。だから、こういう作品はおもしろい。
 そして、作品としては、とても軽く、読みやすく、エンターテイメントに満ちている。円熟した作者が、説教くさくなく、その精神を作品に込めた良作である。おすすめ。
(2019.10)

メカ・サムライ・エンパイア

メカ・サムライ・エンパイア
MECHA SAMRAI EMPIRE
ピーター・トライアス
2018
「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」の続編。あれから6年が過ぎた1994年に物語ははじまる。主人公のふじもと・まこと(マック)は1976年生まれ。1984年に両親を内戦で亡くし、養父母に育てられた。18歳のいま、進路の岐路に立たされている。メカパイロットを志望しているが成績は決して良くない。いや、悪くはないのだが。
 という主人公の軍人成長物語である。ミリタリーSFの王道。舞台は、ドイツと日本が連合国に勝った世界。
 前作は、「高い城の男」を強く意識していたが、前作「USJ」で舞台設定はできたということで、本作は思いっきりミリタリーSF、ジャパニメーションをしている。
 テレビアニメシリーズ向き。良い意味でも悪い意味でも。
 出てくるのは、「機動戦士ガンダム」ばりのモビルスーツと、「エヴァンゲリオン」ばりの生体モビルスーツ。巨大メカ対生体メカ。ちょっとゴシック、ちょっとスチーム、歴史改変だからできるゆがんだ技術発展の社会。そして、戦勝国皇国日本と戦勝国ナチスドイツの緊張が高まるのであった。つづくのか。
(2019.10)

強行偵察 宇宙兵士志願2

強行偵察 宇宙兵士志願2
マルコ・クロウス
LINES OF DEPARTURE
2014
 続編は5年後。主人公のアンドリュー・グレイスンが二等軍曹に昇進し、軍との再契約を済ませたところから物語はスタート。70光年線近くにあった人類のコロニーはもはやなく、数年前に数百あった人類のコロニーは次々と異星種族のコロニー人類殲滅、再テラフォーミング(異星種族向け)で人類が住める環境ではなくなっていった。もはや人類のテリトリーは30光年線まで戻り、コロニーの残りは69。とうてい勝てる相手ではないが、それでもコロニーをぎりぎりまで守り、可能ならば異星種族の足を止めるために、人類は闘っていた。しかし、そのような異星種族による人類駆除を前にしても、北アメリカ連邦と中国ロシア同盟の戦いは終わらず、相変わらず、敵は人類同士でもあった。
 しかも悪いことに、地球上の状況は悪化の一途を辿る。人類は2年前だからたぶん2111年頃に300億人となり、北アメリカには30億人がひしめいていた。これまでまがいなりにもコロニーという新天地を提示し、閉塞した地球上の気候、環境、生活への逃げ道をみせることで抑えていた社会は、コロニー行きの中止、食糧配給の削減、社会資本の低下などで、この5年でさらに悪化し、もはや無秩序同然となっていった。このままでは、人類は自ら滅亡の道をたどりかねないとさえ思われる事態である。
 という背景の中、グレイスンは宇宙艦船の戦闘管制員という専門技術スタッフになり、最前線の現場から艦船の攻撃力を操作する重要な位置を占めるにいたっている。恋人のハリーは中尉に昇進し、そのたぐいまれなるパイロットの能力を戦闘飛行学校での指導教官という形で活かしている。
 で、成長したハリーの激しい戦闘の物語である。地球での母との再会、ハリーとの関係、かつての上官との共闘など、軽い読み物として順調に物語は進んでいく。ちょっとご都合主義的なところはあるけれど、ご都合主義だからできる物語なのだ。気にすんな。
 とにかく、この作品群の特徴は、地球は惨憺たる有様で、人類はえらい目に合っているってことだ。そこが読みどころ。
 あと100年、何とかしようぜ兄弟。
 このままシリーズ化して7作品まで出ているらしいが、翻訳されるのか?
(2019.10)

宇宙兵士志願

宇宙兵士志願
マルコ・クロウス
TERMS OF ENLISTMENT
2014
 最近、翻訳SFが売れないからなのか、そもそも本が売れていないからなのか、翻訳されるSFのなかでミリタリー系が多い気がする。いや、多い。間違いなく、多い。ミリタリー系はミリタリー系としての需要がある。それは分かる。分かるんだけど、なんだかなあ。でもって新兵物はあいかわらずの人気。「宇宙の戦士」(ハインライン)にはじまり、「エンダーのゲーム」「終わりなき戦い」「老人と宇宙」「戦士志願」などなど。あまたの作者が手を染めている。実際名作も多い。ここに上げた5作品はどれもおすすめだ。ある意味深い。
 さて、ドイツからアメリカに移住した作者。ドイツ軍歴をもつだけに、迫真の新兵訓練。舞台は22世紀2108年。世界は中国系とアメリカ系に二分され、第三次世界大戦後、世界の荒廃は進み、人の格差は大きくなり、主人公のアンドリュー・グレイスンは公共住宅エリアでかつかつの福祉的生活しか知らないままに成長してきたのだった。希望は宇宙に出ること。そして、今の絶望的ななにもない生活から抜け出すこと。その唯一の道は、軍に志願すること。軍に志願し、新兵訓練を経て軍人として雇用されれば、その生活から抜け出すことができる。
 しかも、新兵訓練の初日から、本物の食べものを腹一杯食べることができるのだ。
 最高!
 新兵訓練の小隊は男女混成。まあ、それがあたりまえの社会。
 やがて配属され、紛争の現場に入り、現実を目の当たりにし、それでも生き抜く術を身につけ、失敗し、なんとか生き延び(主人公だから)、もてる能力をフルに発揮し、望みを少しずつ(ちょっとズルしつつ)勝ち取っていく。そんなストーリー。
 ほんと、どうなるんだろうね。これから先。
 いつまでもちゃんと飯が食えるのだろうか?
 いつまでもちゃんと医療が受けられ、いまのふつうの暮らしが続けられるのだろうか?
 人口はやがて80億、90億、100億となる。
 農地は減り、気候変動がすすみ農業が厳しくなる。つまり食料、本物の食料が減る。
 水が不足する。エネルギー開発の手立てが限られている。
 21世紀初頭、結構きわどいところにいる。
 そんなとき、この「宇宙兵士志願」を読んで、笑っておくと良い。
 そして、考えるのだ。
 どうやって生き延びる?
 戦士としてではなく、人間として。
 この手の作品は、ネタバレすると面白くないから、なーんにも書かない。
「老人と宇宙」「戦士志願」を楽しく読める人にはおすすめ。
(2019.10)

高い城の男(再)

高い城の男
THE MAN IN THE HIGH CASTLE
フィリップ・K・ディック
1962
 2007年に再読して、詳細なあらすじや感想を書いていた。
http://www.inawara.com/SF/H291.html
 読み直した理由はたったひとつ。「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス 2016)を読んだから。21世紀の「高い城の男」と評され、日本とドイツの枢軸国側がアメリカなど連合国側に勝利した、「日本の占領下にあるアメリカ」を描いた作品である。「高い城の男」の舞台は1962年。一方の「USJ」は1988年。それだけでも、ずいぶんと違う。「高い城の男」の世界は、戦後の成長が起きなかったアメリカであり、「USJ」の世界はものすごく経済と科学技術の成長があり、そして退廃的だ。
「USJ」はどちらかといえば、「ブレードランナー」に親和性がある。
 しかし、「高い城の男」を再読して思った。たしかに、同じところがある。主題は同じなのかも知れない。
「高い城の男」をその設定やディックならではの世界の真実性と虚構性の混在をはぎとってみれば、そこには「人の救済」が描かれている。誰かが誰かのために救済するのではなく、誰かのちょっとした意図しない善意がそれを受ける人にまったく伝わることなく誰かを救済しているのだ。それは「高い城の男」で描かれ、「USJ」でも描かれている。ディックの作品ではよく描かれている。この「意図しない善意」を分かりやすく「本意ではないが意図をもって行った行為が善意であり救済になる」形で描いたのが「ブレードランナー」という作品であった。
 ディックは「救済」についてずっと考えていたのだと思う。誰かを救おうとして行った行為ではなく、「救済」はどこにでもころがっていて、それは、誰かのなんとなくの「善意」であったり「行為」であったりするのだ。
「高い城の男」では、終わりの方でいくつかの殺人が起きる。そして、殺人をきっかけとした「救済」が起きる。殺した人は罪の意識をもったりもたなかったりするが、殺人がきっかけとなって、一見無関係な人が救済される。ディックらしい書きぶりである。
 2007年に感想を書いたとき、いまよりももしかすると賢かった私は、こう書いている。
—幾人かの登場人物がそれぞれの価値観から、「徳を積む」としかいいようのない行為をしていることに注目したい。人種でもなく、身分でもなく、地位でもなく、ただ人間としてできうる自分のためだけでない行為をするのだ。それがまがいものの世界に住んでいることを自覚していたディックが終生持ち続けた希望である—
 今回読み直していて、この「徳を積む」行為は、意図的でなかったのかもと思えてきた。意図的でなくても、徳を積むことはできるのだ。そして、それは「よく生きたい」という思いがあればこそなのだ。なんとむつかしいことだろう。でもディックはあきらめるな、と言う。
(2019.10)