フロリクス8から来た友人

フロリクス8から来た友人
OUR FRIENDS FROM FRORIX8
フィリップ・K・ディック
1970
 疲れたときは、ディックである。すさんだときは、ディックに限る。泣くわけではない。笑うわけではない。心の隙間に闇を感じたとき、泣きつつ、笑いつつ、静かな気持ちで読む。それが、ディックの作品である。
 2226年。60億人の人類は、「旧人」となっていた。ごく一部の天才たち「新人」と、超能力を持つ「異人」が世界を統治し、管理し、運営する世界。
 試験を受けなければ、国家の仕事は得られない。国家の仕事以外にはろくな仕事はない。その試験は新人か異人しか受かることはない。受ける資格だけは旧人にもある。絶望的な希望。
 旧人たちにとっての望みは、ひとり宇宙に逃亡し、旧人を救うべく異星人を捜しに出かけたトース・プロヴォーニの存在と、その帰還までの期間に旧人への希望を与え続けるエリック・コードンの言葉だけであった。
 主人公のニック・アップルトンは、古タイヤの溝掘り職人。息子を試験に通すことだけを願っている、典型の中の典型的な旧人。彼の望みは叶うことなく、そして、ニックは世界を帰るできごとに巻き込まれていく。希望する、しないにかかわらず、たった一度の意志の発露によって。
 宇宙に救いを求めつつも、何が救いなのかを理解していない救世主。
 最高の権力を持ちながらも、日常のささいなできごとに苦しみ、そこから逃れようとする権力者。
 誰でもなく、何でもない、ただの人間であるニックだけが、自分の望みを知り、世界を感じ、考え、苦しみ、生きることができる。最初から最後まで、彼はただのふつうの、一般的な、どこにでもいる、人間である。そこそこの欲望、そこそこの希望、平穏な日常への渇望。しかし、彼には意志がある。そして、他者への共感がある。それが、異人であれ、新人であり、理解できないものであれ、彼は共感しようとする。
 辛い目に遭う、ひどい目に遭う、追われ、迫害され、虐げられ、馬鹿にされる。
 繰り返されるディックの主題。
 神や本当の世界を求めていたディックは、同時に、人間のはかなさと、はかなさゆえの共感にもっとも心を注いでいた希有な作家である。
(2009.10.8)

コンラッド消耗部隊 タンタロスの輪

コンラッド消耗部隊 タンタロスの輪
THE EXPENDABLES THE RINGS OF TANTALUS
リチャード・エイヴァリー
1975
 21世紀後半、人口増加に対して、国連はエクスペンド計画を実行。クレイトス計画によって植民星を確保、コンラッド消耗部隊が確保した星には物質移送機によって新たな植民者が送られた。そして、消耗部隊は新たな植民星候補地に送られた。彼らを送った後に、責任者は部隊にテロリストが紛れている可能性を発見。隊長であるコンラッドにその情報を伝える。冷凍睡眠から目覚めたコンラッドは、副官とともに対策を考えつつも、本来の目的である植民星の調査と、植民可能な場合の惑星確保のための行動をはじめた。
 コンラッド消耗部隊の第二作である。ついこの前に、古本屋さんで買った。第一作は読んでいない。ネットで調べると、「クレイトスの巨大生物」「タンタロスの輪」「ゼロスの戦争ゲーム」「アルゴスの有毒世界」が翻訳されているらしい。エドマンド・クーパーが本名で、リチャード・エイヴァリーは別名義のようである。
 70年代のヒーローものである。
 軽く、楽しく読める作品。
 人類に都合のいい植民星が見つかることについては、ま、あまり気にせずに、楽しく読みたい作品である。「キャプテンフューチャー」などもそうだが、第二作から読んでも何の不都合もない。すばらしい。
(2009.10.01)

フィーバードリーム

フィーバードリーム
FEVRE DREAM
ジョージ・R・R・マーティン
1982
 SFマガジンベストSF1990(海外編)1位の作品である。ということはSFであろう。ま、ファンタジーですけど。
 19世紀アメリカ。薪を燃やして蒸気機関を動かす時代のミシシッピ川。あまたの蒸気船が川を上り、下り、人や荷物や情報を伝えていた時代。今風に言うならば、木質バイオマスの時代から化石燃料の時代に移る直前の時代。蒸気船の船長が力を持っていた時代。そして、闇の異種族である吸血鬼が人々を恐怖に陥れる時代。まだ南北戦争が始まる前、州によっては奴隷制が強く、州によっては奴隷制を否定し始めていた時代。醜く、運のない元船長アブナー・マーシュは、新造船の共同経営者にならないかと見知らぬ男に話を持ちかけられる。ジョシュア・ヨーク。色白で、夜の闇の中でしか行動しない男。金を出し、新たな船を作り、運行を任せるという。その条件は奇妙なものだった。共同船長にすること、自分の行動に疑義をはさまないこと、ミシシッピ川で運行すること。
 アブナー・マーシュは、約束と義理を果たす男だった。奇妙ながらも信用のおける人間として、ジョシュア・ヨークを受け入れ、彼とともに船を作り、ミシシッピ川で最高のデザインと速度を持つ新造船の船長になる夢を選んだ。
 それは、アブナーに、人間とは違う種族との不思議な友情と、語ることのできない希有な人生をもたらすことになった。
 そうかあ。木が燃やされていた時代かあ。同じように煙が出ていても、石炭とはずいぶん違ったのだろう。
 そうだよなあ。吸血鬼って長寿なのだからメトセラの種族だよなあ。
 なるほどなあ。ジョージ・R・R・マーティンの書く「境界線で力を持つ人たち」には迫力があるよなあ。
 アブナー・マーシュ船長って、結構いいもの食べてるなあ。
 フライドチキンにカブと玉ねぎを添えた皿と、チーズを乗せたアップルパイ。
 フライドチキンと、トウモロコシパンと、スイートピーと、ジャガイモ。
 ローストダックとサツマイモとスナップビーンズと、熱々のパンかあ。
 人口も少なく、土地も肥え、農薬も化学肥料もない時代。食材がおいしそう。
 っと、血も濃かったのだろうか。
(2009.10.01)

ノパルガース

ノパルガース
NOPALGARTH
ジャック・ヴァンス
1966
 地球とは違う星系で、地球とは違う進化を経て、人類よりも早く星の世界を手に入れ、そして、ノパルによって果てなき戦争に追い込まれ、星を荒廃してしまったザックス人。戦争を終わらせた彼らは、ノパルを追ってある星の攻略を計画する。その星は地球。地球人ポール・バークは、ザックス人によって拉致され、宇宙の真実を知らされる。地球での使命を与えられ、地球に戻ることになる。たったひとり、人類とは違う世界を知った男、バークの行動は、人類とザックス人、そして宇宙に大きな影響を与えることになるのだ。
 ジャック・ヴァンス「竜を駆る種族」以来の翻訳である。作品は1966年に発表。古き良き時代のパルプ雑誌SFであるが、ストーリー展開と結末は時代背景を感じさせる皮肉に満ちたものである。テーマをあえて考えれば「善と悪の二面性」といってもいい。ある側面から善に見えたものがある側面からは悪になる。つきつめていけば絶対的な善と悪にたどり着くのかも知れないが、そのオセロゲームはどこで終わるのかが分からない。フランスとベトナムの泥沼の中に仲裁者として入っていったはずのアメリカがいつの間にかベトナム戦争の主役となり、やがて正義が悪になるその過程。アメリカ人の苦悩、そんな世相が反映しているような作品であった。
 そう書くと難しそうだが、パルプ雑誌SFである。軽い娯楽ものとして読めることは間違いない。おもしろいのも確かだ。しかし、40年以上前の作品を今頃翻訳する意図は分からない。あれも、これも読みたい作品はあるのに。映画化でもされるのかしらん。
(2009.09.25)

真空ダイヤグラム

真空ダイヤグラム
VACUUM DIAGRAMS(THE XEELEE CHRONICLE 2 VACUUM DIAGRAMS)
スティーヴン・バクスター
1997
「プランク・ゼロ」と「真空ダイヤグラム」の2冊を合わせてジーリー年代記を縦断する短編集が配列される。物語をつなぐ語り手は、イブ。異種族シルヴァー・ゴーストへの人類大使ジャック・ラウールの死んだ妻である。語り手の時間軸は5664年。前半の「プランク・ゼロ」は、すでに起こった過去の物語である。しかし、後半の「真空ダイヤグラム」はいきなり、語り手の時間軸の未来を舞台にする。10515年の「ゲーデルのひまわり」にはじまり、4101284年の「バリオンの支配者たち」に終わる。9作品、1万年先から400万年先までの未来である。途中には、長編「天の筏」の舞台と重なる「密航者」なども描かれる。
 ぶっちゃけて言えば、ジーリー年代記における人類は、ジーリーにとってはネズミのような位置づけである。そのほとんどは不快害獣や実際に家をかじり、食料を引き、病気を運ぶ迷惑で駆除しなければならない存在である。ただ、時には愛くるしいペットとして温情をかけたりもする。そういう存在。ジーリーの宇宙で人類は、ジーリーに次ぐ位置を占め、ジーリーに戦いを挑むが当然相手にならない。ならなくても戦う。どうしようもない存在である。ジーリーには真の敵がおり、究極の目的があった。そっちがジーリーにとってのすべてであり、人類との戦いはめんどくさい障害であったに違いない。やれやれ。結局人類はジーリーとの戦いで宇宙の資源を使い果たし、自らも変化、退廃していく。やれやれ。
 本書「真空ダイヤグラム」の解説で林譲治氏は、ベンフォードのユニバースシリーズとの比較をして、ベンフォードの宇宙では機械知性と人類の戦いの宇宙で人類が大きな役割を持つのに対し、バクスターでは人類の存在に皮相的なのは、ベンフォードがアメリカ人で、バクスターがイギリス人だからかもしれないとまとめている。たしかに、ベンフォードの機械知性の作品群と、バクスターのジーリー年代記は重なるところを感じる。さらに、超知性という点では、ブリンの知性化シリーズや、フレデリック・ポールの「ゲートウエイ」シリーズ(ヒーチーが登場するのだ!)などと重なってしまう。これは私が馬鹿で、物忘れがはげしいからだというのもあるが、どうにも、この手の超知性体シリーズものは感覚が似てしまうのだ。
 そんなことってありませんか?
 ところで、どこかに「天の筏」が転がっていないかなあ。これだけが未読。
(2009.09.05)

プランク・ゼロ

プランク・ゼロ
VACUUM DIAGRAMS(THE XEELEE CHRONICLE 1 PLANCK ZERO)
スティーヴン・バクスター
1997
 スティーヴン・バクスターの代表的シリーズ、ジーリー年代記は、長編の「天の筏」「時間的無限大」「フラックス」「虚空のリング」と、複数の短編で構成されている。本書「プランク・ゼロ」と「真空ダイヤグラム」は、短編を年代記別に並べ、間をつなぐ物語を置いた「真空ダイヤグラム」を日本で二分冊にしたものである。短編集のはじまりは、3672年の「太陽人」にはじまる。太陽人と言っても、太陽の中に住む人のことではない。太陽人とは、ある知的生命体が我々を呼ぶ言葉である。そのある知的生命体とは…。  この短編集には、「虚空のリング」に登場する「人の心を持った人工知能」リゼールが登場する。この短編が「虚空のリング」の一部の下敷きでもある。その後、本書「プランク・ゼロ」に記述はないが、「虚空のリング」の主人公たちが未来への旅に出かけ、時間軸に残った多くの人類は、未来からの予告通り、スクィームに侵略される。4874年の「パイロット」は、スクィームに侵略されはじめたばかりの太陽系での逃亡者を描く。その後、スクィームの支配に打ち勝ち、再び人類は拡張、そうしてクワックスに出会い、軽々と支配されてしまう。クワックスの支配については、「時間的無限大」で描かれているが、そこではクワックスを滅亡に近い状態に追い込んだ人間の物語に触れられている。それこそが、5406年の「青方変異」である。
 クワックスの支配を逃れた人類は、拡張の時代を迎え、やがてジーリー以外の知的生命体の頂点に立っていく。
 その過程で出会ったのがシルヴァー・ゴーストと人類が呼ぶ種属である。彼らは、彼ら独自の理論でジーリーの干渉を受けかねない宇宙規模の実験を繰り返していた。この短編集の作品をつなぐのが、シルヴァー・ゴーストに対しての人類側大使ジャック・ラウールと、その死んだ妻イブの物語である。それは、5664年にはじまる。「プランク・ゼロ」は、その物語の直前、5654年の表題作「プランク・ゼロ」で終わる。
 この短編集は、「時間的無限大」や「虚空のリング」を読んでいるとジーリー年代記宇宙の背景をすんなり受け入れられる。もちろん読んでいなくてもひとつひとつの物語が充実している。その作品も「宇宙」と「生命」を感じさせる壮大な物語を予感させる。
(2009.09.05)

虚空のリング

虚空のリング
RING
スティーヴン・バクスター
1994
「時間的無限大」に続き、ジーリー年代記の長編にあたるのが本書「虚空のリング」である。宇宙論の仮説を大胆に活用して、宇宙のはじまりから終わりまでを、まるでゾロアスター教における光と闇の戦いのように描ききるバクスターの意欲作である。「時間的無限大」でも、本書「虚空のリング」でも、結局はこの宇宙の終わり(の方)が描かれている。
 最初から宇宙が終わっているわけではなく、結局のところ、宇宙の終わりにつながっているということで、これは、「すべての人間は必ず死ぬ」とか、「致死率100%の病気は死だ」というのと同じくらい意味のない説明でもある。
 時間軸は、まだ、スクィームにもクワックスにも出会っていない、太陽系からほとんど外に飛び出していない、前著「時間的無限大」のマイケル・プールがいなくなってから150年後の太陽系にはじまる。「時間的無限大」で起きた未来からの侵略から伝えられた情報は、その後、聖スーパーレット光教会を生み出し、一部のものがある程度深刻に宇宙の未来を考えていた。現実に、我らが太陽系の太陽に変化が起きている可能性があった。宇宙の恒星が本来のしかるべき寿命より年を取っているのだ。太陽もまた、早くに老化し、赤色巨星化する可能性がある。そこで、太陽内部の調査を行うため、あるAIが生み出され、ワームホール技術を応用して太陽に送り込まれた。
 そしてもうひとつ、聖スーパーレット光教会は、本来ならば100億年も先と予想される宇宙の晩年が500万年程度で訪れると予想した。そこでGUT船を1000主観年亜光速で加速させ、その500万年先の未来にワームホールを運び、過去と未来をつなごうと計画する。しかし、1000年も続く目的を持った小社会を継続することは難しい。様々な議論と計画を経て、3953年、GUT船グレート・ノーザンが亜光速飛行で未来への旅をはじめた。
 この物語は、太陽に送り込まれたAIと1000主観年、500万年先の未来に行こうとする人々の話をクロスさせながら、人類が真に知ることのなかった超種属ジーリーと、暗黒物質界の生命体フォティーノ・バードの宇宙規模の戦いの姿を知ることになる。
 時間と空間は絡み合いながら、物語の間を展開し、読者はめまいに満ちた時空の広がりを感じることができる。
「想像もつかないものを書きたい」と、作者のバクスターが思ったのかどうかは分からないが、とにかく壮大である。数千光年、数百光年といった規模の話が軽々と出てくる。地球から一番近い恒星まで4.37光年。それでも、空を見上げるとその恒星は点にしか見えない。宇宙は広く、その規模は想像を絶する。すごいなあ、バクスター。
 すっとするぜ。
 そうそう、グレート・ノーザン内の社会は、ハインラインの「宇宙の孤児」を思わせるところもあってほほえましい。
(2009.09.05)

宇宙の一匹狼

宇宙の一匹狼
ROGUE IN SPACE
フレドリック・ブラウン
1957
 ブラウンの長編小説「宇宙の一匹狼」である。初読。古本屋さんで500円で買った。定価は200円。1966年初版で、74年に13版を数えている。古き良き時代。
 元宇宙飛行士のクラッグは、犯罪歴のある男。地球の第二の都市で麻薬所持の疑いによって逮捕され、精神改良所送りの刑になるところを、太陽系調整官の職を狙う大政党のリーダーによって解放された。その引き替え条件が、彼の仕事を手伝うこと。あるものを火星の発明工場から盗み出して欲しいという。それは、クラッグほどの能力と知性と強い意志力を持った男にしかできないことであった。
 一方、大宇宙では人類が誕生するはるか以前にひとつの知性が誕生していた。それは一個の小岩石であり、長い時間をかけて知性を、思考力を、様々な能力を獲得した独立した存在である。それは、宇宙を渡り歩き、他の「知性」を探していたが、そのようなものは見つからず、宇宙に存在する知性体は自分のみであると判断していた。それが、ちょうど太陽系に入ろうとしていた。
 やがて、ある事件が起き、女と出会い、女と別れ、クラッグと岩石が出会い、別れ、そして、太陽系に新しい惑星が誕生する。クラッグの惑星である。
 まあ、安心して読んでください。古きハードボイルドな「男のための」SFである。
 入手困難だが、最近フレドリック・ブラウンを見直す動きがあるので、そのうち読めるかもしれないよ。
(2009.09.02)

フラックス

フラックス
FLUX
スティーヴン・バクスター
1993
 中性子星にある目的を持って送り込まれた、改造された人類。身長(体長?)わずか10ミクロン程度。中性子星のある部分で、人は生まれ、育ち、子を産み、そして、死んでいった。目的は記憶され、やがて忘れられ、あるものは記憶し、口述し、あるものは記録を捨て、新たな都市を築き、追放し、追放され、辺境でかつかつの暮らしをし、時に都市に回帰し、都市はさびれ、復興する。
 その日が来るまでは。
 突然、中性子星に異変が頻発するようになった。
 その異変が原因で、ひとつの部族が崩壊の危機に見舞われ、若きリーダーとなった女性は、部族を救うべく弟、長老らと旅に出る。しかし、連れのひとりの長老が怪我を負い、通りかかった初めて見る「都会人」に救われ、弟ともども都市の中で暮らすはめになる。都市でも異変は起きており、世界が変化の予感を秘めていた。
「ジーリー」年代記の中でも異色中の異色、中性子内部に生きる人類の末裔の物語である。ジーリーの物語を知っていようが知っていまいが、それはかまわない。中性子内部に生きるというのはどういうことか、見てきたように語られる。すごいなあ、頭いいんだなあ。びっくりしちゃうよ。ホント。
 おもしろいなあ、よくこんなこと考えつくよなあ。楽しいな。
(2009.08.22)

無限記憶

無限記憶
AXIS
ロバート・チャールズ・ウィルスン
2007
「時間封鎖」の続編である「無限記憶」。前作から30年が過ぎた…。幼い頃、「新世界」でともに暮らした研究者の父が失踪した。少女は母に連れられ「旧世界」に戻っていたが、やがて結婚して「新世界」へ戻る。夫とのすれちがい、そして、父の失踪の真実を知りたいという願い。彼女の行動は、ひとりの男との出会いを生む。混沌とした「新世界」でフリーランスのパイロットをしている男。女と男は、ちょっとしたアクシデントで恋に落ち、やがて事件に巻き込まれていく。そして、ふたりは世界の真実を探す旅に出る。
 人類が発見した、いや、人類に与えられた「新世界」は、変化の時を迎えていた。突然の砂嵐の細かな砂は、まるで微少機械の部品のような様々な形をしていた。砂の中から一時的に表れる異形の「花」や「虫」は何を意味するのか?
「新世界」で生まれた一人の少年は、どこかで、誰かが呼ぶ声に悩まされていた。それは砂嵐以降に彼をますます頻繁に呼ぶ。その少年の周りに子どもはおらず、いるのは大人の研究者ばかり。そして、彼らは少年の一挙手一投足に神経を尖らせる。そこに、ひとりの女が訪ねてきた。彼女は「火星」で生まれ育った老女である。彼女と少年こそ、世界の真実を解き明かす鍵であった。
 彼らと、彼らをとりまく人たちに、探求への喜びはない。
 生命が生命であることを大切にしたいだけだから。
 うーん、おもしろい。
 第1作の「時間封鎖」ほどではないが、いろんなSFのオマージュが込められている。
 そして、21世紀的な作品である。
 世界にとって何が大切なことなのか? 思考と記憶と行動のどれが大切なのか?
 宇宙にとっての生命とは、見るとは、知るとは、記憶する、とは。
 自己とは、他者とは。
 いずれも、古典的な哲学、宗教が問い続けてきた命題であり、同時に科学が追究してきた課題である。科学の追究の先に収斂してきた課題といってもいい。
 本書「無限記憶」を読みながら、アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(TV版)を思い出していた。グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」のアイディアをふくらませ、少年の記憶と行動の、自己と他者の物語として描いた作品だが、本「無限記憶」は、とても良く似ている。どこが…と聞かれると、ネタバレになるので書きにくいのだが、以下にネタバレを承知で書く。申し訳ない。未読の方は、まず「時間封鎖」「無限記憶」を読んでからにして欲しい。また、「交響詩篇エウレカセブン」のネタバレも含むので、未見の方は、こちらもご容赦願いたい。
 アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(以下、エウレカセブン)と、本書「無限記憶」は、いずれも人知を超えた「存在」と人類の関係性を描く。「存在」は人類にとっての世界であり、「存在」に人類の生存やあり方が規定されている。「存在」には認識能力や記憶能力があると見られるが、人類にとって理解可能なコミュニケーションはとれていない。故に人類は「存在」を、「敵」と見なし、あるいは「神のような存在」と見なす。「善悪」を憶測し、人類の理解可能な領域に入れようとする。しかし、人類には理解不能である。
「存在」は高い能力を示し、世界に様々な姿を顕在化させる。それが、「存在」そのものなのか、ただの「道具」や「表現」なのかは分からないが、人類にとって認識可能だが理解不能な「生きもの」や「物体」などとして現れる。
 人類の一部は、「存在」とコミュニケーションを図ろうとする。また、「存在」も時に人類と関わりを持とうとしているのではないかと考えられる行動を行う。
 エウレカセブンでは、少女エウレカを存在が送り出した「メッセンジャー」として語り、エウレカが心に(記憶として)書き込む感情を含む情報を求める。
 本書「無限記憶」では、このエウレカと逆の役割、すなわち、存在へ人類が送り出す「メッセンジャー」が生み出される。エウレカの場合と同様に、メッセンジャーは、メッセンジャーと知的生命体として心を通わせる者と親しくなり、情報を密に交わす。それが物語となり、物語をつくる。
 私たちの行為は、思惟は、世界に書き込まれ、世界の記憶となる。しかし、すべてが記憶されるわけではないのか? 記憶は、記録する者がいてはじめて記憶となるのか?
 私は、あなたは、過去、現在、未来を通じて記憶されているのだろうか?
 誰の、何の記憶になるのだろうか?
 かつて、それは神の役割であった。
 神は死んだのだろうか?
 21世紀の神は、機械の神、または、異形の神なのであろうか?
 うーん、私の頭ではぐるぐるするだけだ。
 一流のエンターテイメントであることだけは間違いない。必読。
(2009.08.20)