ファースト・レンズマン

ファースト・レンズマン
FIRST LENSMAN
E・E・スミス
1950
 レンズマンシリーズの5作品目だが、前日譚でもある。レンズマンシリーズの本編は1~4作で、最初に書かれたのが6作目と位置づけられる「三惑星連合軍」。評伝によると、この作品が太陽系内の話だったことから、当時太陽系を出るようなSFが少なく、E・E・スミスにはスカイラークシリーズ同様に銀河系を飛び出すような作品が望まれており、やや評判を落としたことから、銀河系しかも隣の銀河系も含む大宇宙を舞台にしたレンズマンシリーズが誕生したという。それで、単行本シリーズ化するにあたって、レンズマンシリーズの前日譚として「三惑星連合軍」があり、その続編で、なおかつ、レンズマンシリーズとつなぐ作品として本書「ファースト・レンズマン」が書き下ろされたらしい。つまり、加筆・補筆はあるものの、本書が長篇のレンズマンシリーズ最終作でもある。
 そう思うと感慨深い。
 話としては、三惑星連合軍のリーダーであるバージル・サムスが、アリシア星に行き、メンターによってレンズとミッションを得て、ファースト・レンズマンの称号を得たところから、太陽系を超えた「銀河パトロール隊」を結成するにいたるまでを描いた作品となる。また、レンズマンシリーズの「敵」であり、当初の最大の問題とされていた麻薬シオナイトの宇宙的問題が提起されるのも本作品の特徴。
 第2次世界大戦直後のアメリカで書かれた作品であることを、繰り返し留意して読む必要がある。アメリカは連合軍の遅れて来たリーダーとしてヨーロッパ、アジアで、ドイツ、日本という枢軸国と戦い、自由と民主主義を標榜して、総力戦でこれに勝利した。
 負けた側の国の人間として言うのもなんだが、日本は世界においては遅れて来た帝国主義、植民地主義であり、負けるべくして負けたのだが、この戦争により、世界中が疲弊したことは間違いない。日本は加害者であり、被害も大きかったが、アジア・ヨーロッパ、そして、最初は関係ないとそっぽを向いていたアメリカもまた大きな被害を受けている。
 話は遡るが、第1次大戦後、国際連盟が成立し、その中で、万国アヘン条約というのが結ばれている。麻薬を取り締まるための国際条約である。1912年に調印された。その後、幾多の議定書決議、条約調印、批准があった。そして、第2次世界大戦後、国際連合がつくられる。1946年「麻薬に関する協定、条約及び議定書を改正する議定書」ができ、1961年には「麻薬に関する単一条約」が調印された。
 という、現実世界の歴史的背景を知っておいた上でだが、本書「ファースト・レンズマン」1967年4月初版、1977年5月第18版の小西宏訳285ページをちょっと引用させてもらおう。
さあここだ。出典は不明だが—いくつかの資料が、フーバーという人物の報告をとりあげている。西暦一九四〇年から五〇年ごろのことだ。聞きたまえ。『この議定書は』–フーバーは世界的規模での麻薬取締りに関する協定のことをいっているのだ–『五十二カ国によって署名された。その中にはU・S・S・R』–これはロシアのことだ–『および、その衛星諸国も含まれていた。国際協定に対して共産主義国が』–共産主義については、きみのほうがよく知っているだろう」
「独裁の一形態で、失敗に終わったということだけは知っている」
「『–共産主義国が単なる言葉以上の協力を示したのは、これがはじめてだった。この協定が維持されたことは、当時の政治情勢を考慮に入れれば、全加盟国が次のような五つの注目すべき点で、国家主権を放棄する義務を負ったわけであり、まことにおどろくべきことである。
『第一 他国の全加盟国の麻薬取締官をして、すべての地域および水域に、自由、秘密かつ無登録で入国し、無制限に旅行し、かつ退去することを許す。
『第二 要求に応じて、既知の犯罪者および密輸品が妨害なしに領土に出入りすることを許す。
『第三 他のどの加盟国が立てた麻薬取締計画にも、主導者としてではなく、従属者として、完全に協力する。
『第四 要求に応じて、いかなる麻薬取締り作戦に関しても、完全な秘密をまもる。そして、
『第五 上記の事項すべてについて、中央麻薬取締局に、完全かつ継続的に情報を提供する』
 しかもだな、パージ、これは成功したらしいのだ。(略)」
 以上が引用である。
 これを読むと、スミスがいかに麻薬に対して嫌悪し、なんとかできないかと思っていたのだということが分かる。と同時に、いくつかの疑問が湧いてくる。まず、フーバーが大統領だとすると、フーバーは1929~33年の1期のみを務めた共和党の大統領(フーヴァー)であり、執筆当時はその後のルーズベルト、トルーマンの民主党時代だったのである。それから、当然ながら、スミスが書いたような議定書はない。
 ただ、当たり前だが、スミスにとっては生きた現実の歴史であるロシアがソ連に変わったことは書かれており、そして、やがてロシアに戻ることを示唆している。
 54歳にして、2019年にして、ちょっともう、この本の筋立てには飽きたなあと思いながら読んでいて、この1ページにはとても引っかかった。なぜスミスはここを書いたのだろう。話としては、「銀河パトロール隊」が北アメリカ(現アメリカ合衆国)、太陽系(三惑星連合)を超えた銀河系における最高政治軍事執行機関となる必要性や必然性と、民主主義や自治との関係を、当時の価値観なりに表現するために挿入された架空のエピソードなわけであるが、それにしても、こういう話を持ってくる必然性はないのだ。
「銀河パトロール隊」という、ある意味でレンズマンによるプラトン的な選民独裁社会、警察国家化を成立させるための方便でもあるのだが、そして、戦後、アメリカの立ち位置はそれに近いことを望んでいたのかも知れないが、スミスは何を考えたのだろう。
 当時の人たちは、ここをどう読んだのだろう。気になる。
 このように歴史的作品であることは間違いない。
 現在のSFや社会状況とは大きく価値観も異なるが、いつ、どのような現実社会背景で書かれたのかを踏まえて読めば読む価値のある作品である。
(2019.5.26)

レンズの子ら

レンズの子ら
CHLDREN OF THE LENS
1954
E・E・スミス
 レンズマンシリーズ本編は「宇宙パトロール隊」「グレー・レンズマン」「第二段階レンズマン」そして、本書「レンズの子ら」の4部で構成される。他にも数作あるし、派生作品もあるが、ベースはこの4作である。もっとも先に書かれたのは、前日譚として位置づけられる「三惑星連合軍」であり、「ファースト・レンズマン」は本編4部とを繋ぐ作品として書き起こされたものである。
 つまり、「スターウォーズ」と似た構成なのである。スターウォーズシリーズは、エピソード4、5、6を本編として、その前日譚が描かれ、そして、後日譚が描かれ、サイドストーリーが展開している。そして家族の物語でもある。
 レンズマンシリーズの本編は、キニスンとクラリッサの夫婦と子どもたちの物語であり、最後は、その筋立てが1940年代のアメリカ的家族像であるが、愛の賛歌である。
 結局、大規模な戦いと、愛なのだ。
 前作から20年後、ひとりの男の子、4人、二組の双子の女の子という5人の子どもたちに恵まれたキニスンとクリス。第二銀河系の「超最高基地」をベースに第二銀河系の銀河調整官となったキニスンは多忙な日々を送るが、子どもたちは生まれたときから超常的な能力を持ち、それぞれの特性を伸ばして成長していた。息子のクリストファー(キット)はレンズマン養成学校を卒業するなりグレー・レンズマンとしてミッションに入り、4人の娘達は、誰にも知られることなく、また、アリシアでレンズを受け取ることなく、必要に応じて自らレンズを身につける能力を開発していた。この5人こそ、アリシアのメンターが永劫の時間をかけて優生操作をしてきた結果として生まれた地球人にして地球人ではない銀河の後継者たちなのである。それは、アリシア人が究極の悪として敵対し、倒すことができなかったエッドール人を滅ぼすための武器でもあった。そして、5人はそのことを自覚し、第二段階レンズマン以下の精神では受け止めることができないこの究極悪の存在を受け止め、それを倒すことが使命であると知っていた。彼ら5人は第三段階能力を持ちうる存在であったのだ。
 ということで、究極の善と悪の最後の戦いが幕を切って落とされるのである。
 もちろん、主人公はキムボール・キニスン本人。最愛の妻クラリッサも活躍し、それをとりまく第二段階レンズマンの異星人も大活躍。壮大なスペースオペラは、壮大に幕を下ろす。そして、この作品が書かれる頃には、第2次世界大戦もアメリカの勝利によって終わりを告げており、アメリカの「正しさ」が世界を支配しようとしていたのであった。
 E・E・スミスは1890年に生まれ、1965年に没しているが、このレンズマンシリーズは1937年から執筆発表されている。時代背景を考えると、ナチスドイツが台頭しつつあり、アジアでは日本が中国に戦争をしかけた頃である。アメリカはモンロー主義をとり、中立を保っていたが、関係国はアメリカの動向に常に気を配っていた。アメリカはすでに大国だったのだ。そういう社会背景や文化的背景を踏まえないと読みにくいところもあるが、これぞスペオペでもある。
 筋立てや物語の設定などは、現代では陳腐であるが、これらを開発・発明したのはE・E・スミスである。だから、作品を馬鹿にしてはいけない。その影響力の大きさを忘れないように、私もこの人生でもう一度ぐらいは読むのだ。
(2019.5.18)

第二段階レンズマン

第二段階レンズマン
SECOND STAGE LENSMAN
1953
E・E・スミス
 レンズマンシリーズ3巻目は「第二段階レンズマン」新しい巻が出るごとに、主人公も敵も一段階上昇するのは古典スペースオペラSFの基本。「少年ジャンプ」の基本か?
 発行年は1953年だが、初出は第2次世界大戦前後。優生思想、女性は銃後または軍の看護部隊という設定は時代を反映していて、たとえば、男女ともタバコをよく吸っている。これも時代が反映されたもの。そのあたりは理解していないと読みにくいし、私が最初に読んだ40年前よりも2019年の今の方がより「読めなく」なっているだろう。
 それだけではない、SFをはじめ、娯楽小説も進化した。心理描写、設定の必然性、SFにおける外挿、伏線など、小説技法も高度化している。
 それでも、レンズマンシリーズは歴史的にのこす価値のある作品である。
 それは、後のたとえば「スタートレック」や「スターウォーズ」などにも明らかに影響を与えているし、スペースオペラの壮大さは、なによりここから始まったのである。
 アリシアのメンターの導きにより、レンズと主人公キムボール・キニスン本人の持つ最大限の能力を開発・拡張し、第二段階レンズマンとなったグレー(独立)レンズマン。他にも第二段階レンズマンとなった龍のようなヴェランシア人ウォーゼル、リゲル人トレゴンシーと連携しながら、宿敵の宇宙海賊ボスコーンを追い詰めていく。
 ストーリーのパターンは同じ。それもまた読者の安心材料でもあるのだろう。
 正義は勝つのである。そして、新たな強大な敵の影が見えるのである。
 じゃーん。
(2019.5.18)

グレー・レンズマン

グレー・レンズマン
GRAY LENSMAN
1951
E・E・スミス
「銀河パトロール隊」に続く、レンズマンシリーズ第2巻が「グレー・レンズマン」である。「銀河パトロール隊」を再読したときに、けっこういろんなことを書いたのだが、今確認すると2007年のことであった。現在2019年。12年もの間、レンズマンから離れていたことになる。大人は忙しいのな。「銀河パトロール隊」は当時出ていた小隅黎新訳版のことに触れていたが、結局新訳版を買ったのはこの1冊のみで、手元には1966年の小西訳版しかない。奥付をみると、1966年7月に初版、1977年3月に27刷となっている。すごいね。このころはじめて読んだのだから、40年以上前の話だ。前にも書いたけれど10回以上は読んでいるので内容は読み進むにつれてかなり覚えていることに気がつく。私の記憶の中で、キムボール・キニスンが動き出す。気分的には、キニスンを見守り、クラリッサとくっつけようと画策するヘインズ最高基地司令とか、ホーヘンドルフ候補生学校長、レーシー軍医総監のようなリタイア老兵たちの方に意識が飛んでしまう。年をとったということか。
 シリーズ作品群の中で、おそらく本作「グレー・レンズマン」がもっとも派手である。もちろん、作品舞台はシリーズの本編である第3巻「第二段階レンズマン」第4巻「レンズの子ら」に向かって壮大になっていくのだが、キムボール自身のアクション、活躍、宇宙での戦闘、諜報活動、危機、ロマンスそのいずれをとっても派手である。前作の活躍で「この」銀河系での麻薬・暴力ネットワークの壊滅の一歩を踏み出した銀河パトロール隊は、キニスンをグレー・レンズマンすなわち誰の指示も受けず、銀河パトロール隊のあらゆるリソースを使用できる独立レンズマンに任命された。その最初の仕事が、前作の敵ボスコーンの真の上位者を突き止めることだ。キニスンはボスコーンの本拠を、第二銀河系ランドマーク星雲にあると推測し、その探索に乗り出す。乗船するのは新造艦ドーントレス号。銀河一早く、それでいて火力と防御力にすぐれた巨大宇宙船である。その船にはレンズマンが10人「も」乗船し、それ以外にも最高の乗員が集まっていた。
「あとがきの解説」で厚木淳氏が書いていたのだが、E・E・スミスが「スカイラーク」ではじめて太陽系を超え、その後の作品で太陽系内にとどまっていたことに読者が反発、そうして再び、銀河系に舞台を移した「銀河パトロール隊」が誕生し、人気を博したとしている。「グレー・レンズマン」では銀河間の空間を超え、隣の銀河系まで旅をするのだから、大きく出たもんだ。
 そして、もうひとつすごいのは、キニスンだけをおいかけると、この銀河系と、ボスコーンのいる第二銀河系を本作だけで3往復しているのである。すごくないか?
 いま、そんなのどんな作家でも書けない。もちろん、あまりに物理法則を無視しているからだけれど、1890年生まれのドク(Dr)スミスにとっては、天文学、物理学の発展の歴史の中にいて、第1次世界大戦、第2次世界大戦を生き抜いてきたのだから、想像のつばさはどこまでも広げられ、無視することも、うまく使うことも容易だったのでしょう。
 先述の厚木氏によれば、「レンズマン4部作」(あとの2部は前日譚)は1937年から1947年に連載されており、ちょうど第2次世界大戦をはさんだ時期の作品である。本書の出版年は1951年となっているが、これは6部作の単行本化の時期であるという。
 そう考えると、本書にあるような敵は徹底的に殲滅するという姿は、時代的にそれほどおかしくはない。
 科学的設定、タバコ、女性の扱い、異星人への扱いなど、いまでは認められないところも多々ある。それは時代の変化であり、人類の進歩の証である。古典SF、SFに限らず、古典的な小説はそういった作者の時代背景を含めて丁寧に読み解く部分も必要になるのだろう。本作を現代風に書き換えることは可能だと思う。ただ、古典SFには、その時代背景、未来への憧憬、当時のエンターテイメントの考えなどが反映されており、歴史の中で埋没させるにはもったいない資料でもある。
 何も考えずに読むこともできるが、そういう読み方はできなくなってきた、21世紀前半である。
(2019.5.7)

廃墟都市の復活

廃墟都市の復活
A DARKLING PLAIN
フィリップ・リーブ
2006
「移動都市」が映画化されるというので棚ざらしにされていたシリーズ第4部が翻訳されてうれしい。うれしいけれど、第三部の「氷上都市の秘宝」を読んだのは2010年。このザル頭にとっては、遠い忘却のかなた。第二部の「略奪都市の黄金」と第三部の間には15年の間があったのに、第三部と本作「廃墟都市の復活」の間はわずか半年。続き物じゃあないですか。しかも本作はシリーズ総まとめ、いろんな人たちが再登場するのですよ。困った困った。困ったけれど、読み始めたのは帰省中。つまり、手元に過去作品はない。えいや勢いで読むしかない。読む。
 お、トムがいた。最初の主人公だ。
 あ、ヘスターとシュライク、トムとヘスターは夫婦だった。
 や、レン。トムとヘスターの娘。前作と本作の主人公。
 う、ストーカー・ファン、なんか前作でやらかしていたような。
 ということで、まずシリーズ1作目から読むべし。
 読んだ人だけに、語りたい言葉がある。
 途中苦しくても、最後まで読もう。ぜったい読んだ方がいい。
 最後の最後に泣くよ。
 ちょっと宮崎駿的世界描写が入っていて、でも、実際は凄惨な世界で、凄惨な世界でも、人は誰かを求めるし、何かを求める。そして、誰かを失うし、何かは手からこぼれおちる。
 めでたしめでたしでは終わらない。
 物語は、都市ごと移動し、都市が他の都市などを食べて資源化する移動都市の勢力と、移動を阻止し、移動することにより荒らされる世界から緑の世界に変えようとする反移動勢力の停戦をめぐる話からはじまる。
 トムとレンは旅をしている。
 レンが一時期一緒にいて、心を寄せたセオは再び旅をする。
 トムとレンはヘスターを恨んでいる。
 ヘスターは心を閉ざしている。
 誰もが自らの動機と行きあたったできごとのために、旅をする。
 望んだ旅、強制された旅、逃げ出す旅、追い求める旅、誰かを助けるための旅、誰かに出会うための旅…。
 たくさんの登場人物が、それぞれに誰かと旅をしている。そして、誰かと出会い、別れ、再び出会い、別れる。
 親の世代は親の世代として、この世代は、次の世界の主人公として、旅をする。
 旅は時折突然終わる。旅は時折突然始まる。
 混沌とした変革期を迎えた世界で、トムとヘスター、レンとセオ、それを取り巻く人間、ストーカーらが、どこかからどこかへと動いていく。
 人生は旅だ。
 旅ははじまり、終わり、止まり、動き、やがて終わる。
 どんな旅にもはじまりと終わりがある。
 その旅のいくつかは語り継がれ、多くは忘れ去られる。
 でも、どんなに語られようと、旅をした本人そのものの体験、経験、情動に勝るものはない。
 いま、あなたはどんな旅をしている? 休んでいる?
 いま、私はどんな旅をしているのだろう。
 明日、私はどんな旅をしているのだろう。
 4部作の旅は終わった。
 次の物語までの間には、きっとたくさんの物語があるのだろう。
(2019.1.4)