プロバビリティ・ムーン

プロバビリティ・ムーン
PROBABILITY MOON
ナンシー・クレス
2000
 チャールズ・シェフィールドが晩年をともにしたナンシー・クレスによる長編三部作の第一冊目が本書「プロバビリティ・ムーン」である。「プロバビリティ」??「実現性、確率、蓋然性」つまり、起きそうなこと。
 本書「プロバビリティ・ムーン」には、ふたつの物語がある。ひとつは、コミュニケーションできない異星人との果てしない戦争の物語である。もうひとつは、新たに遭遇した異星人とのコミュニケーションの物語である。
 22世紀、地球は生態環境の危機にあった、太陽系に進出した人類は火星をはじめいくつかの地に生存の場を増やしていた。そして、海王星近くでスペーストンネルが発見される。そこを通り抜けると別の星系に出た。そして、別の星系につながるスペーストンネルもあった。  スペーストンネルは不思議な性質を持っていた。通り抜けたもののことをスペーストンネルは記憶し、ふたたび通り抜けるときに同じところに戻してくれるのである。もし、地点Aからスペーストンネルを抜けて宇宙船イ号が地点Bに出現したら、別の地点から地点Bに出現する宇宙船が来ない限り、地点B側から宇宙船イ号以外も同じスペーストンネルを抜ければ、地点Aに行く。しかし、別の地点からの到来者があれば、そのルートは変えられてしまう。ただし、地点Bにいる宇宙船イ号が通過した場合には、地点B-地点Aのルートに戻る。
 さて、そのスペーストンネルによって人類は新たな世界を手に入れることができた。しかし、そこで目にしたものは、「人類型ヒューマノイド」の宇宙であった。スペーストンネルが設置された星系には人類が居住可能な惑星があり、人類は人類型の36の種属を発見した。そのうち35は原子力以前の文明社会であったが、ひとつだけ人類がスペーストンネルを発見した頃と同等かそれ以上の種属が見つかった。彼らはまだスペーストンネルを発見していなかったが、人類の出現によってそれを発見し、そして、人類と同様の行動を、より早い動きで開始した。彼らとのコミュニケーションはまったくできず、人類の植民星への攻撃をもって人類は彼ら”フォーラー”との戦争に突入した。フォーラーの科学力、軍事力は人類よりも高く、人類は危機に陥っていた。
 人類がスペーストンネル#438と名付けたスペーストンネルのある星系に、新たな人類型種属が発見された。彼らは自らを「世界人」と呼んだ。惑星には7つの月が回り、惑星は花であふれていた。世界人は、戦争をしない。花を愛し、花を育て、平和な農耕社会を築いていた。世界人は、現実を共有している。共有現実は、あらゆる方法ですぐに惑星中に伝えられる。共有現実以外の現実はなく、共有していない現実が発生すると、それに直面した世界人は激しい頭痛を感じる。共有現実を共有できない存在は非現実者とされる。まれに、罪を犯した者などが、現実を共有することが許されない非現実者として存在するが、彼らは現実者との接触を行えない。現実者が非現実者およびその行為と接触すると、それは共有されない現実となり現実者側にも非現実者側にも頭痛を招くからである。
 人類にも、他のどの種属にも持たない「共有現実」というものこそが、世界人から複数の現実を失わせ、その結果社会は統一され、社会行為としての戦争が起きないのである。窃盗などは起きる。それは、それぞれの個の都合であり、窃盗する者、される者ともその現実を共有することが可能なのである。
 はたして、「共有現実」とは生理的な現象なのか、社会的な減少なのか、人類の人類学者などがチームを組んで第二次調査に入った。しかし、この第二次調査は、軍事的目的の隠れ蓑でしかなかったのである。本当の目的は、人類学者チームには知らされずにはじめられた。惑星の7つの月のひとつが人工物であり、スペーストンネルを設置したとみられる超古代宇宙文明と同じ科学力により作られたものであった。もし、それが兵器ならば、フォーラーへの対抗手段になるかも知れない。惑星上での人類学者チームの調査と平行して、軍事調査もはじまった。
 その人類のふたつの干渉が、驚くべき結果を招くのである。
 かたやアーシュラ・K・ル・グウィンが書く異星世界のような精緻で、一見美しく、その底に大いなる秘密を抱えた世界での人類と世界人のそれぞれの立場からのコミュニケーションをテーマにした物語が繰り広げられる。主人公のひとりは、世界人でありながら、ある罪を犯したことで非現実者となった女性エンリ。人類が現実者なのか、非現実者なのかをスパイするよう世界人の政府から求められ、人類が調査のために滞在する世界人の貿易商のところで下働きをする。世界人の世界からは排除され、人類の研究者との間で複雑な関わりを持つことになる。
 人類側の主人公のひとりは、イラン出身の人類学者であるバザルガン。花に彩られたこの世界を失われたテヘランと重ね合わせながらも厳格なる調査チームのリーダーとして父のように振る舞うひとりの男の物語。そして、同じ調査チームの最若手であるデイヴィッド。権力者の父に対する反発から人類学者の道を選び、はじめて大きな調査チームに入った成功欲に満ちた青年は、その傲慢なほどの正義感と狭い世界観での判断力によってバザルガンを否定し、トラブルメーカーと化していく。
 世界はあくまでも美しく、大いなる秘密を抱えている。読み進めるうちに、秘密はさらに混迷し、やがて一気に秘密の花が開花し、大いなる現実が表れる。
 かたや、宇宙戦争の物語が拡げられる。超古代宇宙文明の高度な技術を調査するのは、宇宙巡航戦艦ゼウスのシリー・ジョンソン大佐。フォーラーとの戦争に従事し、退役後はスペーストンネルをはじめとする高度な科学技術の一端を少しでもつかむために物理学者となった異色の経歴を持つ根っからの軍人である。彼女が7番目の月を調べ、それが原子核内の「強い力」を一時的に無効化することができる兵器であることを突き止める。その内部機構が分からないままに時は流れ、大佐はその人工物をスペーストンネルまで運び人類側の星系に持ち込もうと決意する。そこにフォーラーが現れた。この星系もまた戦場になるのか!!!!
 ということで、宇宙戦争である。人類もフォーラーも、スペーストンネル以外は光速の限界を含めた物理法則に支配されている。手に汗握る時間、空間、物質、エネルギーをめぐる命を賭けた知恵比べと場所取り合戦がはじまるのである。
 その戦闘の行く末は…。
 というわけで、「ゲイトウエイ」(フレデリック・ポール)を抜けたら、そこには別の人類がいた。じゃあ「闇の左手」(アーシュラ・K・ル・グウィン)をやりましょうか、それとも「エンダーのゲーム」(オースン・スコット・カード)などあまたある宇宙戦争をやりましょうか、という物語である。
 三部作ということなので、このあとどこにいくのかは分からないが、「共有現実」に生きる花に包まれた世界人は果たして今後どうなるのだろう。気になる。でも、僕は共有された現実に生きるのはいやだなあ。
(2008.12.11)

73光年の妖怪

73光年の妖怪
THE MIND THING
フレドリック・ブラウン
1961
 本書「73光年の妖怪」は、1961年に発表され、日本では1963年に井上一夫氏の翻訳によって創元推理文庫SFから出版された。原題と大きくかけ離れた「妖怪」であるが、この「妖怪」は73光年離れた惑星から追放されて瞬間的に地球に到着した異星の犯罪者である。なにゆえに「妖怪」かといえば、それは「人にとりつく」からである。ということで、本書の解説では、ブラウンをSFの中のファンタジー作家と断じて評している。人それぞれの見方である。
 この異星の知性体は、近くにいる動物の精神に入り込み、乗っ取って、その知識や経験を習得し、自由に行動させることができる。ただし、一度入り込むと、自殺またはなんらかの手段で死ぬしか、その精神から抜け出し、自らの肉体に戻ることができない。また、動物が眠っているときに限られる。そして、入り込むためにはある程度近づく必要があるものの、地球上ではほとんど移動手段を持たない。さらに、知性体の肉体は数カ月ごとに栄養補給する必要がある。それは、たんぱく質のスープであればなんでもいい。
 異星の知性体は、もちろん人間にとりつくこともできる。知性を持っている対象の場合、相手が眠っていてもそれなりの抵抗を受けるが、それでも乗っ取りは難しくない。
 知性体は犯罪者であり、たまたま運良く動物のいる惑星に放出されたが、もし彼が自らの惑星に無事戻ることさえできれば、地球という新たな植民地を見つけたということで評価され、身分を回復することが可能になる。故に知性体は地球の科学者に入り込み、知性体を送り込んだ高度な技術を伝え、それによって自ら帰る必要があった。
 知性体は、まずネズミに入り込み、そして、ひとりの青年を乗っ取った。知性体にとって計画は簡単にいくような気がしていたが、思わぬ敵が現われる。
 人間や動物の不審な死が続くことに関連があると感じたひとりの科学者が、独自に調査をはじめた。今、ここに知性体と人間の科学者の知恵比べがはじまる!
 SFスリラーという感じでもある。
 見えない精神の乗っ取り。SFでいえば、「20億の針」(ハル・クレメント 1950)や、「人形つかい」(ロバート・A・ハインライン 1951)を思い起こす。それらよりも10年後の作品であり、当然、本書「73光年の妖怪」は「20億の針」「人形つかい」を受けて書かれた作品だと思っていいであろう。
 内容としてはとても楽しくおもしろく読めるのだが、タイトルがなあ。もう少し考えなかったのだろうか? タイトルだけでずいぶん損をしていると思うのだ。本書は。ということで、ずっと読まずにいたのだが、手元には1989年の第33版がある。よく売れていたんだなあ。同居人が買って読んでいたものらしい。同居人はおそらく「妖怪」の方に釣られたのだと思われる。それぞれである。
(2008.10.05)

楽園の泉

楽園の泉
THE FOUNTAINS OF PARADISE
アーサー・C・クラーク
1979
「軌道エレベーター」を地球上につくるためには何が必要だろう。もし、事故があったとき、その事故を最小に防ぐにはどうしたらいいだろう。果たして、地球に軌道エレベーターをつくることは価値があるのだろうか?
 すでにSFの基本アイテムとなった「軌道エレベーター」について、そのアイディアと現実感をはじめてきちんと形にしたのが本書「楽園の泉」である。もうひとつ、チャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」が同じ年に発表され、邦訳もされているが残念ながら私は読んでいない。
 もはや日本のアニメでもおなじみになっており、多くの人に概念だけは知られるようになったと思う。現実には、素材だけでなく、軌道上の人工衛星の問題や設置場所、環境影響、事故などのリスクの大きさから「近未来」というわけにはいかないであろう。ただ、重力の井戸の底から毎度毎度大きなエネルギーをかけて大気圏外の軌道上に出るというのは実にしんどい話であり、理屈としてはスマートである。
 さて、本書「楽園の泉」は、まさしく軌道エレベーターをつくるだけの作品である。主な舞台は22世紀中葉。建設場所は、現実よりはちょっと位置が変わっているスリランカの霊峰である。本書では、クラークらしく科学と宗教について語られたり、地球外文明との接触、地球温暖化による影響なども盛り込まれ、楽しく読めるよう工夫が凝らされている。
 本書「楽園の泉」の舞台となるスリパーダ、ヤッカガラの山肌を僧侶が裸足で歩く姿は、とても美しい。クラークはこの美しさと破壊の美しさをどのように頭の中で整理しているのだろう。
 それにしても、軌道エレベーター物語は、それで完結してもよかったのではないかと思う。どうして、地球外文明との接触についても語ってしまったのだろう。クラークだからとしか言いようがない。
(2008.09.30)

ディファレンス・エンジン

ディファレンス・エンジン
THE DIFFERENCE ENGINE
ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング
1991
 霧の都・ロンドン。産業革命によって生まれ変わったロンドンは、世界の中心として科学技術と陰謀と希望と絶望のうずまく街であった。私たちが知っている歴史の教科書とは違う、もうひとつのロンドン。私たちが思っている以上に現代に近く、現代に連なる過去。本書「ディファレンス・エンジン」は1855年の回想にはじまり、出版された1991年に真の幕を開ける作品である。  スチーム・パンク。
 80年代、SFはサイバーパンクの時代を迎えた。インターネット社会の先にある外挿された未来をサイバーパンクの旗手たちは縦横無尽に旅し、我々読者の前に提示した。人が、社会が、世界が変容する近未来。現在の延長上にある理解しやすく、想像しがたい世界。その提示に、人々は熱狂し、やがて来るべき、明るくも暗くもないただの世界をかいま見た。しかし、サイバーパンクの旗手たちは、それで満足してはいなかった。むしろ、不満だったのだろう。提示された人と社会の変容について、読者は深く考えず、むしろガジェットや文体に魅力を感じているのではないかと。
 そうして、ギブスンとスターリングは、もうひとつのサイバーパンクを思いつく。それが、スチーム・パンクである。
 人と社会の変容とは、実は現在の現実のことなのである。それは組み換えられ、再構成され、分解され、よどみ、流れつつ、そこにある。そのことを知らしめるべく、彼らは過去に介入をはじめた。
 蒸気機関でできたコンピュータが紡ぎ出す私たちの社会と良く似た違っている世界。
 私は、そこでどんな生活をしているだろうか?
 私は、イギリスやヨーロッパの近代史をよく知らない。そのために、どこまでが私たちの知る歴史で、どこからがもうひとつの歴史なのかが分からない。それだけに、おもしろさは半減しているのだろう。本書「ディファレンス・エンジン」をちゃんと読もうと思うならば、まず、ヨーロッパ産業革命期の歴史を学ぶところからはじめなければならない。
 迫ってくるなあ。だから避けていたんだ。スチーム・パンクを読むのは。
(2008.09.28)

過ぎ去りし日々の光

過ぎ去りし日々の光
THE LIGHT OF OTHER DAYS
アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター
2000
 ISS(国際宇宙ステーション)は、老朽化したスペースシャトルと衝突したあと2010年に放棄された。宇宙開発は停滞していた。2033年、小惑星にがよもぎが発見される。同時に500年後、地球に衝突することが確認された。すでに、地球温暖化による気候変動がはじまっており、人類は不安とあきらめと、雑然とした享楽の中に生きていた。
 数年後、アワワールド社社主のハイラム・パターソンはそんな時代に画期的な発明を行った。ワームホールによる遠隔地の映像情報の取得である。タイムラグなし、相手側の送信装置なし。ただ「ワームカム」装置に向かい、座標を検索し、特定し、追尾するだけ。秘密やプライバシー、かくしごと、はかりごとのすべてがこのときより無と化した。
 その情報を最初にかぎつけたのがFBIであり、最初の大口顧客となったのがアメリカ政府であることは何の不思議もない。
 やがて、ワームカムは人々に知られることとなり、装置は小型化し、パーソナルコンピュータのように普及していく。世界が、人類の価値観が変わっていく。
 そうして、ワームホールとワームカムの技術開発はよりすすめられ、やがては「過去」を見ることが可能になっていく。時間と空間はワームホールにとっては特に差のあるものではない。未来を見ることはできなくとも、過去を見ることは可能になっていく。それもまた世界を、人類の価値観を変えるものになる。
 あらゆることが観察可能になったら?
 あらゆることが現在および過去に向かって観察可能になったら?
 このふたつの技術的外挿と、「500年後に地球がなくなるとわかったら」という社会条件の外挿。
 それが、本書「過ぎ去りし日々の光」である。
 アーサー・C・クラークらしい、率直な技術の革新と社会の変化。
 スティーヴン・バクスターらしい、壮大な人類の変化。
 まったくの古典SFである。だから、安心して読める。そして、安心していろんなことを考えることができる。
 サイバーパンクではなくても、近未来の人類の変化を書くことができるのである。
 あらゆることが観察可能になったら?
 あらゆることが現在および過去に向かって観察可能になったら?
 さて、あなたは何を見つけに行くだろうか?
 500年後、あなたが死んだ後のそう遠くない未来に地球の生態系が完全に破滅すると分かったら?
 さて、あなたは何をするだろうか?
 インターネットや携帯電話(情報端末)の普及による過去10年の変化と、今行っていることをふまえながら、想像してみたい。
(2008.09.08)

第七の封印

第七の封印
WYRMS
オースン・スコット・カード
1987
 昔ながらの古本屋さんを見かけると、ちょっとだけ立ち寄って、何か掘り出し物がないかどうか探してみる。3冊100円というコーナーに古びた本書「第七の封印」をみつけた。カードの作品は「エンダーのゲーム」シリーズのほかは、一部しか読んでいない。オースン・スコット・カードの宗教観が強く出てくると読みづらい気持ちになるからである。本書の邦題は「第七の封印」。もろ宗教的タイトルである。そこで敬遠していたのだが、1冊だけハヤカワSF文庫が棚で日に当たっていたので、ついつい救済してしまった。ほかに選ぶものもなく、1冊だけを買い求めると、「1冊でも100円」とのこと。黙って100円を支払う。
 さて、原題は「WYRMS」。読み終わってから調べてみたのだが、古い言葉で、虫、大きな芋虫のような虫、ドラゴン、大きな蛇みたいな意味があるらしい。「ワーム」の古い綴りのようなものかもしれないが、ドラゴンと訳してある物もあった。このあたり、語感と語彙に日本語とのずれがあって悩ましい。「WYRMS」が訳しにくい単語でもあるし、邦題を「第七の封印」とつけた気持ちは分かるのだが、もし、「WYRMS」に該当する日本語があって、それが邦題になっていたら、もっと理解しやすい作品であっただろうし、宗教的だ!と構えることもなかったかもしれない。私がタイトルに先入観を持ちすぎるのかも知れないが。実際、カードの宗教観がたっぷり入っている作品であることは間違いないが、読んでおもしろかったのも事実。
 さて、昔々遠い昔のこと、宇宙船コンケプトアン号に乗った人類が惑星イマキュラータに降り立った。伝説によると、船長が狂ってしまったという。惑星イマキュラータはとても変わった惑星であったが、鉄などの金属がほとんど採れなかった。人類はそこで生き延び、国をなし、古来人類の宗教が移ろいながらも、人々は宗教心篤く生き、惑星の生態系を変え、繁栄していった。
 国は王国となり、あるときは統一され、あるときはいくつもの国に分かれ、それでも人々は生きていた。ピース卿は大国・七国王のオルクに仕える外交官/暗殺者である。しかし、彼の父はかつての王であり、オルク王はピース卿の父を暗殺して王になった男であった。オルク王は、その才覚によりピース卿を殺すより手元に置いておく方が国の安定になることを知っていた。ピース卿には、13歳の娘ペイシェンスがいた。ペイシェンスもまた、その忠誠を常に疑われながらも、父のピース卿とともに外交官/暗殺者としてオルク王に仕えていた。
 しかし、ペイシェンスは、正当な王の後継として、また、伝説の宗教的救い主であるクリストスを生むべく約束された「第七かける七かける七代の娘」として多くの人々の隠れた信仰と敬愛の対象でもあった。
 ピース卿の死によって、ペイシェンスは自らの運命と立ち向かうこととなる。343世代前に予言された彼女の運命とはなんなのか?真実なのか? オルク王の刺客から逃れ、ペイシェンスは自らの運命と立ち向かうために惑星イマキュラータを旅し、すべての秘密の源であるクラニングスに向かうこととなる。旅の途中で人間や亜人間の連れを見つけ、やがて彼女は惑星に隠された大きな秘密と罪に向き合うこととなった。
 この惑星イマキュラータは実に不思議な惑星である。人類が持ち込んだ動植物やもともとイマキュラータにいたと目される動植物は、その動植物を研究し、観察するものの意志によって自ら品種改良していくのである。その不思議な交感の原因は不明なままに、まるで人類をイマキュラータが迎え入れてくれるような状況に人々は慣れていた。すでに、343世代、数千年が過ぎており、人類の知恵や知識は惑星イマキュラータの現実に沿った形で変わっていたのである。しかし、この惑星イマキュラータの生態系と動植物の変異こそが、大いなる秘密であった。
 ペイシェンスの旅は、この秘密を解き明かし、人類と惑星イマキュラータが真に合一するためのものであった。惑星イマキュラータの秘密とは、人類が抱えてしまった業とは?
 本書「第七の封印」と同時期に書かれたカードの作品に「死者の代弁者」(1986)がある。「エンダーのゲーム」の直接の続編であり、エンダーが成長し、生きるために必要な場所を探す旅に出る。ここで、カードは惑星ルジタニアを登場させ、そこのきわめて種類の少ない生物群でできた惑星生態系と、その惑星の生命と人類のコミュニケーションについての物語を書き表した。
 本書「第七の封印」はもうひとつの「死者の代弁者」である。もしかしたら、惑星イマキュラータにエンダーが行くことになったかも知れない。もちろん、惑星ルジタニアの生命や生態系と、惑星イマキュラータのそれは大きく異なっているが、人類と非人類および惑星生態系との対話=コミュニケーションのあり方はとても近いものを感じる。
 そこで語られているのは、人類と他の生命体や生態系との対話の可能性である。
 このふたつの作品「死者の代弁者」と「第七の封印」はいずれもカードの倫理観、宗教観が強く出ている作品である。しかし、だからといって作品としての価値を減じるものではない。ここに描かれたふたつの惑星のふたつの生命のあり方は、まさしくセンス・オブ・ワンダーである。「エンダーのゲーム」を読み、「死者の代弁者」「ゼノサイド」と進んだ人は、私のように先入観で敬遠することなく本書「第七の封印」にも手を伸ばしてみて欲しい。
(2008.09.08)

遙かなる地球の歌

遙かなる地球の歌
THE SONGS OF DISTANT EARTH
アーサー・C・クラーク
1986
 2008年、地球上のすべての政府に渡された「太陽系内反応についての若干の覚え書」は、太陽系の終わりを予言する科学報告であった。太陽の内部に変調があるという。世界の終わりは、すくなくとも1000年後と予想された。
2553年、人類は最初の播種宇宙船を宇宙に出す。ロボットと凍結胎児、慎重に選択された人類のライブラリや生物を乗せた船である。2786年、アルファ・ケンタウリAの惑星から最初の播種計画から成功のシグナルが到着する。20隻以上の播種船が様々な太陽系を目指していった。その後、2700年には凍結胎児ではなく遺伝情報と各種装置、ロボットを運ぶようになった。その惑星のひとつ水と島の惑星サラッサでは、人類の末裔たちが自ら新たな社会を築き日々の暮らしを過ごしていた。限られた陸地を最大限有効に活用するため、自ら人口規制を敷いて人類の生存を確実にするため生きる人々。その歴史は700年になる。
 その惑星サラッサに、恒星船が到着する。知的生命体とのファーストコンタクトの相手は、地球からやってきた人類であった。
 3500年、太陽系最後の日を近くに迎え、人類は最後の科学技術的ブレークスルーに間に合い、量子駆動を実現し、近光速船の実用化と冷凍睡眠の技術を手に入れた。
 3600年代になり、恒星船による人類の最後の大移住がはじまる。それは本当になんとか間に合ったのであった。彼らは、太陽系外から太陽系の最後の日を目にし、新たな惑星を目指してサラッサに立ち寄ったのである。
 同じ人類でありながら、ふたつの異なる道を歩んできたサラッサ人と最後の地球人たちの日々が、クラークの優しい筆致で描かれる。
 美しい海を生きるサラッサ人は、クラークにとっての理想の人々なのかも知れない。
 クラークが、チャールズ・シェフィールドの「マッカンドルー航宙記」(1983)で登場した量子駆動を受けて、恒星間ラムシップの可能性を広げたのが本書「遙かなる地球の歌」である。いよいよ、人類は科学的な理論をベースにして限りなく光速に近づくアイディアを手に入れたのである。
 そうそう、先頃読んだ「量子真空」(アレステア・レナルズ 2002)も、ほぼ光速まで近づいていた。「第二創世記」(ドナルド・モフィット 1986)も、同じ方法で銀河系をまたいでいたなあ。
 私たちの細部には、私たちが制御できない信じられないエネルギーが波打っているのだ。
 そして、私たちのはるかに広く大きな時空では信じられないエネルギーが激しくうごめいている。
 その間にいる私たち。そして物質の構造体としての人間。不思議ねえ。
 海の波音でも聞きに行こうかしら。
(2008.08.24)

量子真空

量子真空
REDEMPTION ARK
アレステア・レナルズ
2002
 アレステア・レナルズのレヴェレーション・スペース(宇宙史)に属する超長大長編「量子空間」の登場である。ハヤカワSF文庫。文庫で1200ページ越え。値段も当然1600円+税(2008年現在、消費税5%)。「啓示空間」「カズムシティ」をしのぐ分厚さである。もうそれだけでお腹いっぱい。本屋さんでも何冊も置けないだろう。
 ハヤカワSF文庫は怒濤のレナルズ翻訳出版である。長編「啓示空間」「カズムシティ」短編集「火星の長城」「銀河北極」のいずれも分厚く、いずれもレヴェレーション・スペースの宇宙史に属している。簡単に言えば、光速に規定されながら人類が太陽系外宇宙に生存域を広げていく宇宙である。人類は、いくつかの分派に分かれ、その分派間の戦争と貿易を行いながら、版図を広げようとしていた。宇宙には、知的生命体の痕跡や遺跡、異星生命体の存在は発見されていたが、コミュニケーション可能な知的生命体の存在は知られていなかった。「啓示空間」では、その非人類知的生命体の遺跡の研究に情熱を燃やすひとりの男が主人公となり、遠く離れたふたつの星系とその間を航行する恒星間人類船を舞台に終盤に向かって長い長い物語が続いた。
 本書は、この「啓示空間」の直接の続編にあたる。であるからして、「啓示空間」は読んでおいた方がよろしい。しかし、「啓示空間」はとても、とても読みにくかった。途中、何度も放り投げようかと思った。いや、読みにくいというのは、文章が悪いとか、構成が悪いということではなく、「どんな気持ちで読めばいいのかが分からないままに連れて行かれた」ということなのだ。なんと言っても長く、まじめそうなストーリーである。本格ハードSF的なにおいもする。そこが間違いだった。これは、長い長いエンターテイメント小説なのだ。言ってみれば、スペースオペラ映画のようなものだ。そうそう、「スターウォーズ」である。戦争と人々の伝説なのである。最初からそう思えば、「啓示空間」ももっと楽しめたろうに。
 ということで、まず、本書「量子空間」とも関わりのある、短編集「火星の長城」「銀河北極」を読んでから、次に、心を決めて「啓示空間」を読み干し、それから、ついでに「カズムシティ」でも読んで、ちょっと一息ついてから本書「量子空間」にたどり着くのがよろしいかと思われる。
 さて、舞台は2605年のささいなできごとをプロローグに幕を開ける。どうやらこの銀河系には、一定の水準に達した知的生命体を絶滅させる機械が遠い昔に放たれているらしいのである。人類の活動は、ついに機械を人類の版図に呼び寄せてしまったようである。
 人類の主要な植民星のひとつイエローストーン星は「カズムシティ」で主要な舞台となった惑星である。融合疫によってナノマシンが暴走し、生物と鉱物とコンピュータ類を融合させ、変形させてしまった星は、激しい戦争の渦中にあった。人類の一派である連接脳派と無政府民主主義者の戦争は、やがて連接脳派が圧倒的な勝利となることが明らかになりつつあった。ここにひとりの無鉄砲な星系内運送業者アントワネット・バックスが登場する。彼女にしかわからない理由によって巨大なガス惑星に向かう彼女。しかし、そこはまさに無政府民主主義者と連接脳派が交戦している現場であった。重力にとらえられ、自力で脱出できなくなったアントワネットは、連接脳派に救いを求めるという意外な行動に出て一命を取り留めるが、それが彼女の人生を大きく変えていく。連接脳派は、その名の通り、脳の神経を増強し、ネットワークで結ぶことで常時つながり大きな知的活動を行う人類一派を指す。そのため、他の人類からは「クモ公」と呼ばれていた。ちなみに、無政府民主主義派の悪口は「ゾンビ」である。アントワネットは、かつて人類の他の派を裏切り、連接脳派に寝返ったネビル・クラバインの気まぐれによって救われ、やがてクラバインとの関わりを持っていくことになる。クラバインは、連接脳派の研究と調査によって人類に知的生命体抹殺の機械が迫っていること、そこからは逃れることが難しいことを知り、連接脳派だけでなく他の人類も救おうと動き始めたのである。
 一方、「啓示空間」で主要な舞台になったのがリサーガム星。「啓示空間」は融合疫以前のイエローストーン星からわざわざ過去の知的生命体文明が滅んだ理由を探しにやってきたダン・シルベステの物語であった。それから60年以上の歳月が過ぎた。
 当時、近光速船ノスタルジア・フォー・インフィニティ号でイエローストーン星からリサーガム星にやってきたイリア・ボリョーワとアナ・クーリは、その間、冷凍睡眠をはさみながら星系内に残っていた。なぜならば、ノスタルジア・フォー・インフィニティ号は動きたがらないからである。しかし、機械がリサーガム星の近くで動きを見せていることはふたりの共通の懸念であった。いよいよ知的生命体を絶滅においやる機械がリサーガム星にねらいをつけているようである。時間の猶予はない。
 ここに、抹殺機械(ウルフ、インヒビター)との絶望的な戦いがはじまる。
 はたして人類は生き残れるのか?
 どの人類が生き残れるのか?
 宇宙船同士の戦闘、宇宙船内での激しい戦闘、さらにレンズマンもびっくりと宇宙規模の兵器が登場しての大戦。派手なアクションはこれまでのシリーズ最高。
 とにかく楽しく読もう。
 個人的に一番好きなのは、連接脳派の「悪役」スケイドちゃんの頭。鼻梁の少し上、額の中央から、頭頂に向かって正中線に沿って後頭部まで弧を描く突起。これって、ウルトラマンの頭だよなあ。この側面はちょっとした動きや心理状態で七色に変化するのである。かっこいい!これだけでも、本書「量子真空」が楽しむための一冊である裏付けになる。
 ま、とにかく読んでみて。
(2008.08.24)

木星強奪

木星強奪
THE JUPITER THEFT
ドナルド・モフィット
1977
 21世紀中旬、人類はいよいよ木星探索に向けて準備を進めていた。木星探査船は、世界の二大勢力となったアメリカと中国の共同によって進められている。国際協力と言えば聞こえはいいが、協力の理由は、アメリカと中国それぞれが持っている技術がブラックボックスになっており、そのどちらも探査船のエンジンには必要だったからだ。つまり、どちらの勢力も単独では木星探査が可能なエンジンをつくることができなかったのである。
 時のアメリカと中国は社会体制が違うものの市民・人民にとっては同じような存在となっていた。アメリカには強力な「信頼性委員会」が市民の思想を管理しており、中国でも同様であった。
 さて、まもなく迫り来る木星探査船の出発を前に、月の裏側の宇宙観測所では、異常事態をとらえていた。破滅的なX線源が高速で太陽系に突入しようとしていたのだ。このままでは人類は絶滅してしまう。しかし、そのX線源はやがて速度を落とし、太陽系にとどまろうとしていることが判明した。目的地は「木星」。そのX線源であった飛行物体に知的生命体が乗っているとは考えにくいが、可能性は捨てきれない。明らかに人類よりもはるかに進んだ科学技術による飛行物体であることは間違いない。
 突然、木星探査船の目的はまったく違うものとなってしまった。
 しかし、地球の官僚主義的統制社会は、この太陽系規模の突発的できごとに対応できるような状況にはなかった。疑心暗鬼が統制の根底にある社会では、異質なもの=排除するものとなってしまう。もし、知的生命体と遭遇できたり、その技術の一端に触れることができれば限りない技術的発展があるだろう。しかし、それ以上に、片方の勢力がそれに触れることの危機、自らの現状を変えてしまうことの危機が存在した。  人類は、そして、太陽系はどうなってしまうのか?
 そして、タイトルにある「木星強奪」の意味は?
 もうずいぶんと古い作品であり、今は絶版になっているから、少しだけ種明かしをしても許されるだろう。もちろん、白鳥座X-1方面からやってきたこの飛行体には知的生命体が乗っていた。本書では、便宜的に「白鳥座人」と呼ばれる。そして、都合のよいタイミングの木星探査船は、もちろん、ファーストコンタクトを果たす。
 ということで、ファーストコンタクトものである。
 1973年にアーサー・C・クラークが「宇宙のランデブー」を発表しているが、こちらは、太陽系に飛んできて、スピードも落とさずに去っていってしまった。一方、「木星強奪」の方は、「宇宙のランデブー」の小惑星ラーマよりも限りなく早い速度で太陽系に飛び込んできて、そこにとどまり、あまつさえ「木星強奪」してしまう。ストーリーや展開は大きく異なるが、「宇宙のランデブー」の影響も随所に見られる。
 本書「木星強奪」が発表された1977年は、映画「未知との遭遇」が発表された年でもある。アメリカでは1974年に辞任したニクソン大統領のウォーターゲート事件の余波が残っており、ベトナム戦争の終結とともに心を病んだベトナム帰還兵の問題が深刻化していた。中国では文化大革命が1977年に終結されるまで吹き荒れていた。
 そういう時代の空気が素直に反映された作品である。
 時代背景を知らずに読むと、911以降の世界を描いた作品化と思える部分も出てくるが、あくまで70年代が時代背景にあることをふまえておく必要がある。現在と70年代後半がどことなく似ているのは、それはそれで恐ろしいことなのだが、人類はそうそう成長しないのである。
 さて、ドナルド・モフィットについてなのだが、90年~91年にかけて、本書「木星強奪」に続き「創世伝説」「第二創世記」と3冊の長編作品がいずれも2分冊で翻訳出版されている。そのときに続けて買って読んだことを覚えている。その後、私は引っ越しを決め、袋2つ分の本を古本屋に持って行った記憶がある。SFも何冊か混ざっていて、この作者のものも出そうかどうか迷ったという記憶がはっきりとある。つまり、その際に「これは再読しねーな」と思ったのである。
 本書「木星強奪」を18年ぶりに読んで、どうだったか。
 実は、解説の中でも書かれているが、前半がのたのたしているのである。それに、ハードSFであるのだが、人物描写や社会描写に力を入れているところがあって、とりわけその人物描写に時々突っ込みたくなってしまうところがある。それがのたのた感を出してしまうのかもしれない。
 ハードSFとしてのアイディアやまとめかたはさすがであるが、人物描写や社会描写をどう読むかである。これは、同じハードSF作家であるJ・P・ホーガンなどでも見られることで、私がホーガン作品を最近読まないのもそのあたりに理由があるのだろう。
 難しいね。このあたりの評価って。
 結局のところ、自分で判断するしかないのだし。
(2008.8.11)

第二創世記

第二創世記
SECOND GENESIS
ドナルド・モフィット
1986
 ドナルド・モフィットが1986年に発表した「創世伝説」の続編が本書「第二創世記」である。1986年に発表されていることから、一連の作品として書かれていることが分かる。実際のところ「第二創世記」は「創世伝説」の後半部分と言ってもいい。もちろん、「創世伝説」はきちんと結末を迎えている。ここまでで満足してもまったく問題ない。一方、「第二創世記」の方は、もし、「創世伝説」を読んでいなければ、いまひとつストーリーに入り込むのに時間がかかるかもしれない。そういう言葉があるとすれば「続編感」に満ちているのだ。だから、「第二創世記」をこれから読もうという人は、古本屋さんで、「創世伝説」を探して読んでからの方がより楽しめる。まあ、そこまで力を入れて探すほどのこともないかかもしれない。
 ということで、いつものことだが、ここからは前作のネタバレ満載である。
 間違って来た人には申し訳ない。即刻このサイトを離れ、3700万光年の果てまで旅をしてきて欲しい。
 まあ、正直なところネタバレしても困らない感じもするのだが、やはり、新鮮な気持ちで読みたいではないか。
 前作「創世伝説」で、原人間のデータの中に潜んでいて不死化ウイルスを再発見して実用化したブラム。それだけではない。前作でナーとの間に新たな関係を構築し、ハドロン光子!によるラムスクープエンジンと生きている真空ポプラ宇宙船イグドラシルの連結恒星船に乗って3700万光年離れた人類の故郷を目指すことになった。ナー社会の人類15000人のうち実に5000人がイグドラシルに乗り込み、光速に限りなく近い速度を出し、ナーの銀河中心部にあるブラックホールを利用してさらに加速し、人類の銀河をめざすのである。その過程で、かつて原人類がそうであったように、ナーの生命と生態系、文明のデータをイグドラシルから送信し、ナーが宇宙に広がるのを手助けすることとなった。
 舞台の前半はイグドラシルとイグドラシルの搭乗者にとっては時間が早回りしている外の宇宙世界の物語であり、後半は、原人類が滅んだ後の7400万年後の銀河の姿が描かれる。
 相対論的時間効果が激しいので、ちょっとだけメモしておこう。
 物語は、イグドラシルがナーの銀河中心部を目指して、主観時間で20年後にはじまる。もうまもなく銀河中心部である。外では5万年の時間が過ぎている。このナーの銀河中心部で、不死となったブラムほかの人間たちは、この銀河に迫り来る危機を知る。しかし、それをナーに伝える方法はもはやない。そして、それは彼らとは違う時間軸でのできごとでもあった。
 それから3年後、イグドラシルは銀河と銀河の間の何もない空間をほぼ光速で疾走していた。外の世界では20万年が過ぎ、ナーと、彼らを送り出した人間の文明も滅んだようであった。
 そして、500年後。3700万年後の未来である。実に、原人類の送り出したデータが別の銀河の知的生命体ナーによって受信され、人間が復元されてから7400万年が過ぎていた。
 もちろん、原人類の姿はないが、そこには原人類が残した宇宙規模の構造物が遺跡として残っていた。そして、新たな生命体の姿が…。
 いくつかの出来事を経て、イグドラシルは、人類の銀河を離れ、大マゼラン星雲を目指すことになる。それはさらに数十年後のこと。つまりは、100万年後の世界である。
 途方のない未来である。途方もない時間経過である。
 もうびっくり。
 それを見据える不死となった人々。不死であるとはいえ、若返りも含むことから、生殖能力は継続する。つまり、人口が増え、みな一定の青年的容姿で維持される社会が誕生する。イグドラシルの内部は2万人を受け入れても余裕のある空間と能力を持つ。500年の間に、少しずつ人口は増え、事故や不死ウイルスに抗体のある一部の人を除き、死は縁遠いものとなる。そういう社会で、主人公たちはあまり変わらない。おいおい。いろいろ突っ込みたいところはあるが、まあ、遺伝子改変された人類であるし、そういうものだと割り切ればいいのか。
 ストーリーとしては、前作「創世伝説」からの仕込みも含めて、なるほどね、という感じで、とくに驚くようなことはない。設定が途方もないと、驚く気もなくなるのかも。主人公のブラムたちはよく驚いたりしているけれど、代わりに驚いてくれている感じがする。
 そうそう、宇宙で誕生する真空ポプラ宇宙船である。これにブラムたちは「イグドラシル」という名前を付けたが、生命樹のことであるな。20世紀のSFの集大成と言われる「ハイペリオン」(1989 ダン・シモンズ)にも出てくるねえ。本作が元ネタだろうか??
(2008.08.10)