廃墟都市の復活

廃墟都市の復活
A DARKLING PLAIN
フィリップ・リーブ
2006
「移動都市」が映画化されるというので棚ざらしにされていたシリーズ第4部が翻訳されてうれしい。うれしいけれど、第三部の「氷上都市の秘宝」を読んだのは2010年。このザル頭にとっては、遠い忘却のかなた。第二部の「略奪都市の黄金」と第三部の間には15年の間があったのに、第三部と本作「廃墟都市の復活」の間はわずか半年。続き物じゃあないですか。しかも本作はシリーズ総まとめ、いろんな人たちが再登場するのですよ。困った困った。困ったけれど、読み始めたのは帰省中。つまり、手元に過去作品はない。えいや勢いで読むしかない。読む。
 お、トムがいた。最初の主人公だ。
 あ、ヘスターとシュライク、トムとヘスターは夫婦だった。
 や、レン。トムとヘスターの娘。前作と本作の主人公。
 う、ストーカー・ファン、なんか前作でやらかしていたような。
 ということで、まずシリーズ1作目から読むべし。
 読んだ人だけに、語りたい言葉がある。
 途中苦しくても、最後まで読もう。ぜったい読んだ方がいい。
 最後の最後に泣くよ。
 ちょっと宮崎駿的世界描写が入っていて、でも、実際は凄惨な世界で、凄惨な世界でも、人は誰かを求めるし、何かを求める。そして、誰かを失うし、何かは手からこぼれおちる。
 めでたしめでたしでは終わらない。
 物語は、都市ごと移動し、都市が他の都市などを食べて資源化する移動都市の勢力と、移動を阻止し、移動することにより荒らされる世界から緑の世界に変えようとする反移動勢力の停戦をめぐる話からはじまる。
 トムとレンは旅をしている。
 レンが一時期一緒にいて、心を寄せたセオは再び旅をする。
 トムとレンはヘスターを恨んでいる。
 ヘスターは心を閉ざしている。
 誰もが自らの動機と行きあたったできごとのために、旅をする。
 望んだ旅、強制された旅、逃げ出す旅、追い求める旅、誰かを助けるための旅、誰かに出会うための旅…。
 たくさんの登場人物が、それぞれに誰かと旅をしている。そして、誰かと出会い、別れ、再び出会い、別れる。
 親の世代は親の世代として、この世代は、次の世界の主人公として、旅をする。
 旅は時折突然終わる。旅は時折突然始まる。
 混沌とした変革期を迎えた世界で、トムとヘスター、レンとセオ、それを取り巻く人間、ストーカーらが、どこかからどこかへと動いていく。
 人生は旅だ。
 旅ははじまり、終わり、止まり、動き、やがて終わる。
 どんな旅にもはじまりと終わりがある。
 その旅のいくつかは語り継がれ、多くは忘れ去られる。
 でも、どんなに語られようと、旅をした本人そのものの体験、経験、情動に勝るものはない。
 いま、あなたはどんな旅をしている? 休んでいる?
 いま、私はどんな旅をしているのだろう。
 明日、私はどんな旅をしているのだろう。
 4部作の旅は終わった。
 次の物語までの間には、きっとたくさんの物語があるのだろう。
(2019.1.4)

動乱星系

動乱星系
PROVENANCE
アン・レッキー
2017
「叛逆航路」の3部作に続いて同じ世界の別の物語がはじまる。時間軸としては、続編にあたるのだが、前三部作が人類世界の中枢ラドチ圏で起きている動乱を軸に、AIの主人公ブレクの物語だったのに対し、本作は人類の辺境域での物語となる。主人公は惑星フワエの有力政治家で二人目の養子となっている後継候補のイングレイ。彼女が引き起こした策謀は、やがて星系をゆるがす動乱にまでつながっていく。意図せずに次々と拡大する事件に巻き込まれていく主人公の成長譚でもある。
 前三部作では、ラドチ圏がひとりの強大な皇帝に治められており、次第にそのほころびの様子が明らかになるとともに、異星種族と人類種族の間での「条約」と関わりについても語られていく。ラドチ圏では、男性も女性も無性もすべて「彼女」の代名詞が使われることから、読者は「性」についても混乱しつつ、時間軸、クローンやAIによる同時複数の「属躰」による同一知性複数表現、複数行動といった状況の多発にも混乱しつつ、物語を消化していくことになり、アクション系の物語でありながらも読解には苦労が伴った。
 本作は、ラドチ圏とは文化的にも異なる人類星系で、男性、女性、無性にはそれぞれ彼男、彼女、彼人といったように代名詞があり、特異なAIも登場しないことからストーリーを追うのはそれほど苦ではない。3つの人類星系の社会制度、文化制度の違い、ひとつの異星種族の意図不明な行動が物語に深みを与えるが、それこそがSFの面白さである。
 本作を単独の作品として読むことはできるが、時々、人類社会の中枢で起きている、あるいは、「条約」種族がこれから行おうとしている「条約に関する協議=コンクラーベ」についての言及があり、それは前三部作の内容を反映しているので、前三部作を読んでいるとその部分は少しだけおもしろい。とはいえ、前三部作を読んでいない人が先に本作を読んで、それから前三部作に入ってもネタバレ的な表現はほとんどないので、まず本作を読み、「???」と思ったところは、おもしろかったら前三部作にとりかかるというのでもありだろう。
 21世紀に入り、LGBTやマイノリティ、女性への差別や暴力、社会的抑圧が大きく語られるようになり、また当事者が声を上げ、それを支持する声が大きくなってきた。ほんとうの意味で多様な生き方、存在を社会が、ひとりひとりが受け止め、共生する声は大きくなっている。一方で、ひとりひとりの意思を奪う苛烈な言葉、暴力、抑圧の実態は続き、時に無力感を感じながらも、それらへの対応が必要になっている。
 人類の学び直しの時間なのかもしれない。
 そんなとき、アン・レッキーのような作家がSFを舞台に、多様性の可能性、知性の、理性の可能性を問いかける。人類学、社会学、政治学、あるいは、言語学、哲学、広範な知識と理解を昇華し、エンターテイメントとして結実する。
 物語のなかに没入し、その世界を生きていくことを通して、私たちは変わることができる。変わらないために読む、変わるために読む。ほんの数時間の楽しい物語は、物語を通して現実に働きかける。
 ところで、本作では過去の記念品が政治的、社会的意味を持つ。過去の歴史的有力者からの招待状、独立宣言文を記した布、議会を開くために使われる「号鐘」は、歴史的なキャベツの酢漬け用ボウル…。このボウルがないと、議会の正当性が失われるのだ。
 先日、イギリス議会ではEUからのイギリスの離脱「ブレクジット」をめぐり、政府方針に反対する議員が情報陛下の儀仗を奪って議会の外に持ち出そうとする事件があった。この儀仗のパロディである。現実の世界でも、そういう文化的意味づけが大きな事件となる。私たちの身の回りにもそういうことはないだろうか。そして、その大切さと同時に馬鹿らしさ、おかしさに気付いていいのではないだろうか。
 うーん、深いね。
 とはいえ上質のエンターテイメント作品。楽しみましょ。
(2018.12.28)

テレパシスト

テレパシスト
TELEPATHIST
(THE WHOLE MAN)
ジョン・ブラナー
1965
 初読。1965年の作品。私が生まれた年である。1975年に翻訳初版、77年の第6刷が手に入ったので、そのくらいは再版されていた作品。私が小学校高学年の頃に、家で父から文庫本をおもいっきり買ってよいと言われたけれど、そこにはSF作品は除外されていて、その後、お小遣いでぽつりぽつりと創元やハヤカワのSF文庫を買い集めていた。手元の限られたお金で買える本は月に1冊程度。スペースオペラばかり買っていたような気がする。ということで、それから40年以上経ち、ようやくジョン・ブラナーを読む。青年から大人向きのSF小説で、これを小学生、中学生の頃に読んでいたら放り投げていたような気がする。
 ジェラルド・ハウサンは貧困な母子家庭の元に身体の障害をもって生まれた。子どもの頃にひとりになり、発話と聴覚を失った少女に出会い、路上で生きていくすべを身につけていく。しかし、彼は世界でも指折りのテレパシストとしての能力を持っていた。
 WHOに所属するテレパシストに発見され、国際機関の一員として、心理的な要因で起きる世界の危機や個人の心的危機を救う医師となっていく。しかし、ある日…。
 というストーリーなのだが、「幻影への脱出」と同様に世界は混沌としているが国連が世界を統一し、危機を回避しようという機関として位置付き、それぞれの機関が奮闘している。そして、テレパシストは心理面から世界の崩壊をふせぐために日々できることをやっているのだった。
 1960年代、第2次世界大戦が終わり、国際連合への期待と、米ソ冷戦・核開発競争による不安がせめぎ合う時期であり、ブラナーはその中で、国際連合による世界の不安定さの解消、人類の進歩、進化に期待を寄せていた作家であることが分かる。
 テレパシーについては、テレパシスト同士の情報交換という要素もあるが、むしろ、テレパシストは社会の不安などを背景音として感じ取り、特定の個人の心理情報を情景として受取り、必要に応じて、その心を解きほぐし、あるいは、ある程度の操作をするものとして扱われている。同時に、受信テレパシストという受け取ることはできても発信はできない「共感者」のような存在も描かれている。
 そして、テレパシストは、人類の中ではごく少数だが、人類に良い影響を与える可能性が高い存在として書かれる。
 おもしろいね。
 もっともこの作品(と翻訳)は、現代ではそのまま再版することが難しいだろう。
 いまでは使われなくなった身体的表現がたくさん出てくるからだ。
 本書のような作品は、それが書かれた時代とセットで、時代の感覚を語る貴重な資料として残されていって欲しい。
(2018.11.14)

幻影への脱出

幻影への脱出
THE DREAMING EARTH
ジョン・ブラナー
1963
 初読。半世紀以上前の作品。1961年に雑誌掲載された長篇で、21世紀、85億人の人口爆発を迎えた地球が舞台。設定された時期は、うーん、たぶん2018年の今と同じ頃かな。もう少し前かも。
 人口爆発により、食料、エネルギーなどが不足、都市は過密となり、分配の問題が大きくなる。国の機能は失われ、国連が世界の資源分配の役割を担うことに。だから、FAOやWHOなどが頻繁に出てくる。主要な登場人物は、国連所属の麻薬捜査官や研究者たち。そして、国連職員は特権階級であるとともに、世界中の一般の人たちから嫌われる疫病神であり、取り締まる役人である。物がない時代。甘い物も、娯楽も、まっとうに動く機械も失われていく時代。人々は、虚無感にかられている。そこに登場したのが、麻薬ハッピー・ドリーム。世界中の若い人たちに急速に広がっているのに、売人を捕まえることも、販売ルートを見つけることもできない。初回5ドル、次からは2ドル。売価も安く流され、それ以上になることもない。違法ではないと言う者たちもいる。しかし、多用すると、ある日、常習者は忽然と姿を消してしまう。理由もなく、跡形もなく。どこに消えるのか?人口爆発によりすでに住民記録も当てにならなくなっていたので、見つけることもできない。
 物語は、麻薬捜査官グレイヴィルを中心に進む。結婚6年目で妻には逃げられ、任務に追われ、トラブルに巻き込まれるなかで、ハッピー・ドリームの謎を追い詰めていく。いや、追い詰めていかないのだ。たんに巻き込まれながら、ハッピー・ドリームの謎を考え続けていく。
 出てくるガジェットは、1960年代だから、大型のコンピュータ、電話交換つきのテレビ電話、ガソリン自動車、なのに、ジェット機はマッハ5、自宅では食事が取り寄せられるサービス…、今から考えればちぐはぐだけど、当時の作品としては、ダークな未来としてまっとうな感じに読めるのだろう。ちなみに日本で翻訳発行されたのは1971年。その当時に読めば、違和感はないはず。それを除けば、良くできたSFサスペンス作品。
 85億人にはなっていないけれど、70億人を超え、食料はぎりぎり足りていて、格差は拡大し、分配はうまくいっていなくて、国連は手足を縛られたまま。もちろん、ハッピー・ドリームはなくて、麻薬は蔓延したまま。本書と共通なのは、タバコが廃れていこうとしているところかな。
 あ、そうそう、神経系を持つ動物にとっての「世界の認知」がものがたりの鍵だ!
 そう考えると、割と新しい感じのSFかもしれない。
2018.9.15

パラダイス 楽園と呼ばれた星

パラダイス 楽園と呼ばれた星
PARADISE A CHRONICLE OF A DISTANT WORLD
マイク・レズニック
1989
 マイク・レズニックの代表作となった「キリンヤガ」(1998)に遡ること9年前に上梓された「パラダイス」。初読です。
「キリンヤガ」はテラフォーミングされた小惑星キリンヤガでケニヤのキクユ族の伝統的な暮らしを求めたユートピアとそのほころびの物語だった。短編を連ね、大きなひとつの世界と物語が構築されていた。「キリンヤガ」はよく練られた物語であり、物語の中の物語であった。
 本書「パラダイス」は、人類とは異なる種属と生態系の存在する惑星ペポニの物語である。「まえがき」ではケニアの寓話がひとつ載せられ、そして、「これはケニアという実在する国家ではなく、ペポニという架空の世界についての物語である」と、読者に対して宣言をして物語の扉を開く。
 ストーリーは、マシュウ・ブリーンが卒論制作として、伝記作家として、パラダイスに関わった人やペポニの人たちと関わり、取材する形ですすむ。最初は入植初期に伝説的なハンターとして知られた人間のハードウィク。その晩年に医療施設で野生の王国としてのペポニが描かれる。それから2年後には作家のアマンダと、同じ時期にペポニにいた人たちの物語。ペポンの独立までの物語。その3年後には、ペポンを独立に導いた初代大統領へのインタビュー。そして、14年後の、その後の惑星ペポニの姿。
 それは、解説にあるように、現実のケニアの歴史を反映した寓話かも知れない。
 あるいは、人類の現代史の寓話かも知れない。
 SFの名を借りた語りなのかも知れない。
「キリンヤガ」ほど複層的、重層的ではない、ある意味で粗いストーリーかもしれない。
 ただ、2018年の現在にあって、この物語は架空の惑星の物語でなく、現実の地球の、特定の国の物語でもなく、いまこの地球と地球人が抱える問題そのもののように読むことができる。
 いまの日本では意識しがたいが、世界の人口増加は続き、生物は大量絶滅時代を迎え、農地は不足し、原生自然、あるいは2次的自然さえ崩壊しようとしている。食料はかろうじて保っているが、経済格差の増大、貧困、先進国におけるインフラの劣化、それらを背景に紛争の拡大…。気候変動という全人類的な課題の前にも、目先の欲に惑わされたままの現状。「楽園と呼ばれた惑星」は実は地球なのかも知れない。
 英語タイトルにあるように、本書は「年代記」として書かれているが、その年代は1世代から2世代の年代記なのだ。わずか1世代で世界は大きく変わる。1900年代前半、中盤、後半、2000年代前半と、それぞれの世代で1世代の変化の大きさを感じ、それぞれの世代が世代として認識できる世界観の違いにうろたえる。そういう時代に生きている。
 本書「パラダイス」が邦訳されたのは1993年。それから25年が経ってしまった。
 25年前、こんな世界が来ると思っていただろうか。
 25年前と、今と、どちらが「パラダイス」なのだろうか?
 答えは人によって異なるだろう。
 過去のパラダイスを手に取ることはできない。
 現在を変えることはできない。
 未来をパラダイスにすることは、できるかもしれない。
「その気になれば、だれにだって見つけられんだけどな」
(2018.8.21)