シルトの梯子

シルトの梯子
SCHILD’S LADDAER
2001
グレッグ・イーガン
 難しい…。難しいよう。頭がついていかないよう。でも、おもしろかった。
 だってグレッグ・イーガンだもの。手に取るときから分かっていたさ。手に余るってことはね。
 遠い遠い未来の物語。人類は、新たな進化を遂げていた。宇宙を理解する理論は古典力学から量子論・一般相対性理論の理解を経て、量子グラフ理論となり宇宙の物理法則はサルンペト則で記述されることとなった。
 あーあああああああ聞こえなーい。そこからかーい。
 人類はホモ・サピエンスであることを離れ、非実体的存在として生きる者、実体をもち、移住した惑星で適応して生きる者、惑星から惑星へ、データとして飛び、目的地で実体化して旅を続ける者などがいる。彼らは子どもとして生まれるが、完全なる死は望まない限り存在しない。バックアップを取り、復活することができるからだ。アイデンティティが保たれる技術と、環境と自己の間で仲介する技術により、彼らはコミュニケーションを取り、生存を快適にし、姿形を変えることさえできるようになった。性もまた、他者を含む環境と自己の間でのアイデンティティとコミュニケーションの問題にすぎず、どの性であるか、どの性にするかに、それ以上の意味はなくなった。
 さて、物語。サルンペト則と量子グラフ理論の限界を確認する実験がミモザ星系にて行われた。
 その実験は驚くべき結果を生み出した。別の新しい時空を生み出したのだ。この宇宙を飲み込みながら、新しい時空が拡大を続けていく。人類は拡張した生存圏から少しずつ後退をよぎなくされてしまった。
 新時空が生まれて6世紀が過ぎ、この時空を理解・破壊・あるいは回避するための方策を研究・実験する施設リンドラーを、主人公チカヤが訪問する。チカヤは、数千年の過去を持つ、なんだか調整能力のある人のようだ。「ようだ」というのも、この世界では、リーダーとか、肩書きとかがあんまりないようで、チカヤの動機はあるが、リンドラーに招待されたわけでもなければ、ただなんとなく来ただけでもないようで、訪問し、同時に役割を自ら手に入れ、立場を示し、議論し、行動するひとり、といったところなのだ。
 20世紀風に言えば、政治家でもあり、科学者でもあり、旅人でもあり、冒険者でもあり、恋する青年であるとともに知恵を授ける老師といったところで、つまりは、チカヤという存在だ。
 リンドラーという限られた施設、まあ、大きな宇宙実験船みたいなものは、新時空の境界面に一番近いところにいて、その何か分からないものをなんとか理解しようとしているわけで、人も訪ねてくるが基本的には閉鎖空間。
 チカヤはそこで惑星時代にともにそだったマリアマと再開するが、マリアマが自分とは異なる立場で訪問したことを知る。子ども時代のできごと、リンドラーで繰り広げられる人間模様のなかに、事態は思わぬ方向に向けて進み始める。
 異質な存在となった人類を、ホモ・サピエンスの私たちに、理解できる程度に翻訳し、それでいて、難しいストーリーを成り立たせるグレッグ・イーガンの力業があってこそ、なんとか最後まで読み通すことができた。
 ただ、たいていのSFならば自分がちょっとかしこく、新しいビジョンを作者と共感できたと思えるのだけれど、これはー、まいった。いや、おもしろい、おもしろいんだけど、さすがに「むつかしー」が頭の中をぐるぐるしてしまう。
 読みながら、異質な存在を描いたスタニスワフ・レムの「ソラリス」や、この宇宙の中でも特異な環境にある中性子星における生命体の存在を描いた、ロバート・L・フォワードの「竜の卵」「スタークエイク」を思い出したよ。
 それから、ちょっとだけネタバレになるけど、「シルトの梯子」の宇宙では、人類のほか知的生命体は確認できず、かろうじて4つの惑星で生命の存在が知られるだけの死んだような静かな世界として描かれている。それを、未来の人類の末裔はとても寂しがっていたんだ。なによりも「生命」を尊び、その多様性に価値の基盤を置いていたからね。
(2018.2.4)

ネクサス

ネクサス
NEXUS
ラメズ・ナム
2012
「シンギュラリティ」「ポストヒューマン」なんていう言葉がSFの世界だけでなく、一般の雑誌や新聞、あるいはテレビやラジオといったメディアにも登場するようになった2017年。仮想現実(VR)技術もすすんでいるが拡張現実(AR)技術もポケモンGOの
登場で一般化された2017年。
 個人的なことでは、昨年、今年とほとんどSFを読む機会がなかった。SFどころか本を読む時間がとれなかった。もともと人との対話とデータ収集、整理、執筆、企画といった仕事を長く続けていて、フリーランス兼必要に応じてどこかに勤務するという形態をとっていたのだが、自宅での手仕事を中心とした商いに力点を置いたので、時間配分ができなくなったのだ。少しずつ時間をつくっては読んでいたのだが、その1冊が本書「ネクサス」である。
 舞台は2040年、アメリカ、タイ。ネクサスとよばれるナノマシン薬物は、使用した人を「つなげる」ことができる。近くにいるネクサス使用者同士は、薬物が体内にある間、その脳と脳をリンクすることとなる。相手の感情、記憶、思考が双方向で分かるようになる。ネクサス3はアメリカで違法薬物とされていたが、主人公の神経科学者ケイデン・レインは、仲間とともに永続的にネクサス使用を可能にし、なおかつ、ネクサスそのものを自身の脳によってプログラム可能となるようなシステム開発にも成功していた。これらをレインはネクサス5と呼んでいた。
 2030年代のトランスヒューマン技術によるテロをきっかけに、アメリカでは遺伝子工学、クローン技術、ナノテク、人工知能など、トランスヒューマン、ポストヒューマンを生み出しかねない研究への厳しい規制と、トランスヒューマン、ポストヒューマンに対して人権を認めない法整備を整え、新型リスク対策局(ERD)を設けていた。
 一方、世界では、これらの技術はアメリカほどの規制を行わない国もあり、アメリカは危惧をいだいていた。
 ERDは、ケイデン・レインらのネクサス5の存在を疑い、自らの強化人間化した特別捜査官サマンサ・カタラネスを潜入させる。
 それが、はじまりだった。
 最近読んだ本では、ピーター・ワッツの「エコープラクシア」が、ポストヒューマン、トランスヒューマンの両方を書いていた。この作品は「ブラインドサイト」の続編だが、前作よりも「エコープラクシア」の方が、人の変貌を分かりやすく描いていたと思う。
 そんな新しい世界がどのようにはじまるのか、人工知能によるシンギュラリティの起きない世界で起きる、人間によるシンギュラリティの物語、それが「ネクサス」。
 作品自体は、編集者の釣書はSFスリラーと銘打たれているように、近未来サスペンスとか、サスペンスアクションといったおもむきのストーリー展開で、読み手を飽きさせない軽い読み物に仕立て上げられている。考えてみれば、かつての超能力者ものと仕掛けはそう大して変わらない。超能力に目覚めた(手に入れた)主人公と、すでにある程度の超能力をもつ存在、そして、体制側の超能力者や敵対する超能力者。超能力者を規制、迫害しようとする体制。そんな陰謀と戦いの中で、主人公は目覚める、みたいな。
 ファンタジーとしてみれば、現代的魔法使いものも同様だ。
 いよいよ魔法と科学の区別がつかなくなってゆく。
 三部作とのこと、続編を楽しみにしている。
(2017.12.25)

スターストリーム

スターストリーム
DOWN THE STREAM OF STARS
ジェフリー・A・カーヴァー
1990
「スターバースト」の続編であるが、まったく独立した長編小説でもある。読み終わるまで「スターバースト」のこと思い出さなかったのだから間違いない。導入の時に、「あれ、どこかでこの設定読んだことがある」、とは思ったが、導入がさくっと前作の概要になっているんだな。
 主人公はクローディ。標準時間8歳の少女。舞台は、宇宙を横断する超空間を航行している植民船チャリティの中。登場するのは同級生、親、宇宙船チャリティにひっそりと存在し、大きな意味ですべてをコントロールしている人工知能と、宇宙船そのもののサブプログラムであるロボット教師、言葉をしゃべり共感する能力を持つ獣と、その獣が属するサーカスの人たち、船長と一部のクルー、少数の人類と交流のある異星種族の乗客。それから、超空間そのものであり、かつて人間だったものも包括する何者か。あと、超空間や通常空間で人類の宇宙船や植民星に死と虐殺をもたらす宇宙の種属であるスロッグという正体不明の「敵」。
 すっかり忘れているけれど、前作でも影のテーマが「意識」だったように思う。本作も、テーマは「意識」にある。クローディは、自分の存在を自分自身から遊離させて他者に認識させる力を持っているらしい。ドッペルケンガーとか、生き霊みたいなものかな。ふだんから、「力」を無意識に発揮して他者とのコミュニケーションをはかっている。
 さて、ストーリー。
 安全なはずの超空間で、人類などを襲うのは正体不明のスロッグ。これまでにも何度も超空間の航路で突然襲われていた。逃れるために通常空間に降りて手近な植民星に近づくと、その植民星ごと人類や他の宇宙種属が襲われ、殺されてしまう。ほぼ滅ぼされてしまった宇宙種属もいる。スロッグの母星がどこにあるのかは分からず、どのように通常空間、超空間を出入りするのか、出没方法さえ分かっていない。悪魔のような存在だ。
 植民船チャリティの近くに、このスロッグが近づいているらしい。そんななかで、クローディの能力に注目している船に積まれた人工知能は、クローディの能力を引き出し、迫り来るスロッグとの邂逅に備えようとしていた。何も知らないクローディは、自分の能力にとまどいながらも、自らと友、家族、船の人たちのためにその能力を使おうと決意する。
 異質なるもの同士の意思の疎通は難しい。
 SFにはそういうテーマが山ほどある。スタニスワフ・レムの「ソラリス」などのように、そもそも意思の疎通ができない関係というのもある。
 意思の疎通ができなくても、「相手を認識する」ことは可能かもしれない。
 他者を認識するってこと、とても大切で、物語の普遍的なテーマだと思う。
(2017.12.15)

終わりなき戦火-老人と宇宙6

終わりなき戦火-老人と宇宙6
THE END OF ALL THINGS
ジョン・スコルジー
2015
 老人と宇宙シリーズ6冊目は、前作「戦いの虚空」に続き、短編連作の形だけれど、今回はテレビシリーズ意識ではなく4つの作品からなっている。短編にしてあるのは、視点提示の違いからのようだ。時系列としてはひとつなのだけれど、それぞれ主人公の語り手がいて、物語をすすめていく。全体を通すのは、アン・マキャフリーの「ブレインシップ」ばりに脳だけになって宇宙船を動かすことになった操縦士のレイフ・ダクインとチャンドラー号。それ以外は、だいたいおなじみのメンバーが登場し、それぞれの立場で一生懸命働く。
 6作まで読んでいないとよく分からないしたてだけれど、そもそも、地球から宇宙に進出し、植民惑星(コロニー)を形成していた人類は、異星人に出会って、コロニーを失い、それに対してコロニー防衛を目的に攻撃部隊を設立。それは地球で老人になり、死を前にした人たちを徴募し、様々な改造によって強化人間兵士に仕立て上げるものだった。強化人間たちは緑色をしていて、ものすごくよく働く。なぜ働くか。それは、兵役を終えると、自分自身の若いクローン体を手に入れることができるから。すなわち、もう一度青春を、だ。そういう設定でスタートした老人と宇宙。シリーズ後半は主人公を変えながら、様々な宇宙の勢力争いを描く。
 前作、本作で描かれているのは、コンクラーベという地球種属は入っていないが宇宙での歳代勢力となる異星種族連合体。そして、コロニー連合という、主に地球種属(人類)で構成されたコンクラーベとは比べものにならない小さな勢力、そして、地球種属(人類)の母星であり、コンクラーベともコロニー連合ともつながっていない地球という惑星。さらには、別の目的をもって動き始めた「均衡」グループである。
 さて、本作を読んでの感想。作者のジョン・スコルジーは希代のストーリーテーラーであり、そして、21世紀らしいアメリカSF作家である。良くも悪くもアメリカの理想のような作家かもしれない。れっきとしたミリタリーSFであり、ハインラインばりに「力=軍事力」を肯定し、力による政治の必要性を語る。戦略家であり、将軍の視点も、兵卒の視点も忘れない。一方で、民主主義を志向・信奉するアメリカ人そのものでもある。20世紀のハインラインが自由主義と軍事力による安定を志向するSF作家であったとすれば、21世紀のスコルジーは民主主義と軍事力による安定を志向しているSF作家ともいえるのではないか。
 登場人物たちは、力を持つとともに、そして時にはその力を有無を言わせずに執行する一方で、どこかで民主主義を求め、その可能性に期待し、行動する。まるで民主主義という宗教があるかのように。本書はアメリカ合衆国が持つ矛盾を体現しているかのようだ。
 まあ、いつものことだが、そういう難しいことを考えなくても楽しく読み進められる作品である。まずは第1作で、老人版「エンダーのゲーム」を楽しんで欲しい。そこからだ。
(2017.11.12)

ブルー・マーズ

ブルー・マーズ
BLUE MARS
キム・スタンリー・ロビンスン
1996
 来たよ、来ましたよ。「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」に続く三部作「ブルー・マーズ」。泣いちゃうよ。よかったよ、生きてて。
 どうしようもなくなって原書買っちゃったよ。読んでないけど。だって難しそうじゃないですか。
 あまりにも待ちすぎて、文体も変わっちゃった。どうしてくれる。どうしてくれよう。
 1990年代に書かれた火星物SFの傑作が、この三部作。レッド・マーズで火星に恒久的に住み着く人たちが降り立ち、テラフォーミングをはじめる。グリーン・マーズで急速に進むテラフォーミングと、火星で生きることについて、火星人になることについて真剣に考える。でもって、本書「ブルー・マーズ」だ。
 この三部作は、変わりゆく火星の火星という惑星の美しさ、変容したそれぞれの美しさを実に見事に描いている。それから、長寿化を果たした「最初の百人」とその子どもたちを主要な登場人物に、環境への考え方、生活と文化と社会、そして火星内の政治、経済、地球との関係、外交、紛争、未来の科学技術とそれによる人間や社会の変容などさまざまなことが丁寧に描かれる。その個別具体的な話は読んでもらうとして…。
 長年待ち続けた「ブルー・マーズ」の翻訳が、2017年に出た。原著から20年が経っているし、前著「グリーン・マーズ」からも遙かな時間が過ぎている。
 なぜ、いま、なのか?
 もちろん、翻訳者の都合、出版社の都合があるだろうし、たまたま、偶然かも知れないのだが、2017年の春に翻訳されたことには、何かの意味があるのかも知れない。
 本書「ブルー・マーズ」では地球から火星が完全に独立するために第2次の火星革命が起きる。そして、環境保護主義の過激派といってもいいレッズ(火星をこれ以上テラフォーミングせず、そのままの状態で人間が生きていくべき)と、グリーン(火星を人間が住みやすいようにできるだけ早くテラフォーミングすべき)を両翼に、地球からの移住受け入れ派、「マーズ・ファースト」という、地球からの移住停止派、宗教的対立、文化的対立など様々な利害関係者が火星というひとつの環境的には厳しい生態系を共有する者として火星憲法を作り上げ、新たな経済システム、社会システムを構築する過程にものすごくページ数を割いている。
 その内容については本書を読んで欲しいが、基本的には、現在の地球にある男性中心社会、企業的経済中心社会、あらゆる多様性を認めない社会に対する対局の絵を描こうとしている。そのすべてを未来の目指す姿とはできないが、お互いの価値をいかにして認め合うか、という点が、個人、集団を問わず、本書のテーマとなっていることは間違いない。レッドでもなく、グリーンでもない、さりとて火星がブルーになるわけでもない。
 でも、レッドであり、グリーンであり、それがともに存在する可能性を、この第3部ではあらゆる角度で模索する。
 21世紀の2つめの10年目、先のふたつの大戦を大人として知るほとんどの人が亡くなり、あらゆる排外主義やファシズムが復興しつつあるいま、「ブルー・マーズ」が翻訳され、読めることは心の平穏につながる。
 そう、排外主義、ファシズム、暴力中心主義に対しては、それを勢いづけさせないひとりひとりの努力が欠かせないのだ。黙ってみていてはいけない。たとえ、それが誰かとつながり、排外主義、ファシズム、暴力中心主義といったものの危なさを伝えていくだけでも、声に出し、何かをしなければ、そうではない社会は守れないのだ。
 それにしても、テラフォーミング化した火星に未来のテクノロジーで空を飛び、海を滑空し、火星の気象に翻弄されるそのダイナミックな描写は想像するだけでわくわくする。
 三部作、読むべし。
(2017年9月4日)