コラプシウム

コラプシウム
THE COLLAPSIUM
ウィル・マッカーシイ
2000
 読み損ねていたが、読んでみたらとてもおもしろかった。どうして読み損ねていたかと言えば、表紙と裏表紙の釣り書きである。こちらがおじさんだから、どうにも最近のハヤカワ文庫SFの表紙についていけないことが多い。釣り書きを読んだら、表紙に描かれた髪の毛が赤く、光線銃のようなものを持った美少女が「捜査局長」で、科学者とともに難事件を解決するのかなあ…と思ってしまったのであった。なんだかなあ…、気がそそらないなあ。捜査物だと、「アークエンジェル・プロトコル」(ライダ・モアハウス 2001)のことを思い出して、ちょっと手が伸びなかったのだ。反省。
 私好みの作品でした。
 まず、ハードSFです。思いっきりハードで、はっきりいってそこに書かれている物理理論が、すでに科学的に提唱されている理論なのか、それとも作者が作り出した理論なのかさえわかりませんでした。それでも、しっかりと楽しく読み込ませるところがいい。
 なんというか、分かったような気になるというか、壮大な気分に引き込んでくれるというか、そのあたりのさじ加減が実にいい。
 次に、登場人物がいい。
 ベースは、「マッカンドルー航宙記」(チャールズ・シェフィールド 1983)のマッカンドルーそっくりである。天才で、変人。宇宙的な危機を、その天才的なひらめきで解決するあたりや、自分が行動してしまうあたりが実にいい。
 さらに、設定がいい。
 太陽系は女王国となっており、人々は事実上の不死とどこでもドアの時代を迎えたばかりである。これらのほぼすべては、主人公ブルーノ・デ・トワジ配偶極士の発明を基礎としている。ブルーノは、発明によって太陽系随一の資産家となり、その功績を持って女王のふたり目の寵愛者となり、すべての人々に注目されたため、やがて研究を目的に太陽系辺境に小さな小さな惑星を所有し、自ら太陽と月をつくりひとり隠棲していた。
 しかし、太陽系の危機に際し、女王からの要請によってその危機を解決していく。孤独を愛しながらも、時に人恋しくなり、研究に命をかけながらも、自らの心のありように悩む複雑かつ愛すべき人物こそが、ブルーノである。
 離れたと言っても女王を心から愛し、人々を愛するブルーノが迎えた、太陽系最大の危機。波乱に満ちた冒険の数々。登場するサブキャラクターの個性豊かな属性。ひとりとして、真に悪者はおらず、悲惨なできごとも物語として心の中に整理することができる展開。
 くだんの美少女捜査局長も、そのひとりに過ぎない。
 新たな科学的知見と科学技術によって、世界が変わり始めたときを描いたとてもなじみよいハードSFであり、スペースオペラでもある。
 本書「コラプシウム」の雰囲気としては、同時期に発表された「ノービットの冒険 ゆきて帰りし物語」(パット・マーフィー 1999)のような風情もある。こちらは「ホビットの冒険」(トルーキン)の設定をそのまま宇宙に移したものであるが、本書「コラプシウム」は、さらに同じトルーキンの「指輪物語」的な風情も入っている。白の科学者と黒の科学者の間の緊張感とか、最後には指輪まで出てくるし…。
 ちなみに、本書「コラプシウム」のコラプシウムとは、「ニューブル質量ブラックホールから作られる菱面体結晶」でブルーノの発明。これを使ったコラプシターは即時通信装置みたいなもの。
 そのほか、主要なテクノロジーとして、ウェルストーンがあり、こちらは「自然物、人工物、理論上の物質をエミュレートできる」、つまりは、プログラマブルな物質ということ。一枚のウェルストーン壁がドアになったりガラスになったり、鉄になったり、コンピュータになったりということ。
 もうひとつが、ファックス。こちらは「貯蔵してある、または転送されたデータ・パターンをもとに、物理的実体を再生産する機器」ということで、コラプシターと組み合わせて、人間や物質のどこでもドア的転送ができるということになる。さらに、このファックスの過程で、病気や身体の不具合を再調整することが可能であり、それにより事実上の不死が達成された、ということ。
 これらのテクノロジーが、太陽系に大きな変革をもたらし、新たな事件を起こすことになる。
 とにかく、本書「コラプシウム」は、ハードSFとしても、スペースオペラとしても、それから、ひとつの物語としても、おもしろい。
(2008.01.24)

略奪都市の黄金

略奪都市の黄金
PREDATOR’S GOLD
フィリップ・リーヴ
2003
「移動都市」シリーズ続編である。人類が核とウイルスによる短時間の戦争によって壊滅した後1000年後、一部の人々は、自らの地に根付き、多くの人々は都市ごと移動を開始した。巨大な都市が荒廃した地球上を疾走し、その上で人は生まれ、育ち、そして死んでいく。移動都市は資源とエネルギーを求めて他の移動都市を狩り、食っていた。
 移動都市ロンドンに生まれ育ったトムは、荒野で育ったへスターと出会い、今やふたりは飛行船に乗って交易商として暮らしていた。顔に傷をもつへスターの心配は、いつかトムを失うこと。今はふたりきりだからトムはへスターを愛してくれているが、もし、もっと楽しいこと、美しい娘が出てくれば、トムは船を捨て、別の移動都市で暮らそうとするに違いない。何よりトムは移動都市育ちだから…。
 そんな不安通りに、トムとへスターは新たなトラブルに巻き込まれ、移動都市アンカレジに降り立つこととなった。移動都市アンカレジは、疫病で多くの人員を失い、今や幽霊都市のようなありさま。そこを指揮するのは若き美少女の辺境伯フレイア。略奪都市に追われ、不毛の地アメリカ大陸に最後の望みをつないで大氷原に針路をとったフレイアにとって、空から降ってわいたような若きトムはかっこうの恋愛対象であった。トムも、歴史ある移動都市に降り立ったことで、郷愁を覚えていき、しだいにフレイアと過ごす時間も長くなっていく。へスターにとっての悪夢であった。そこでへスターは一計を案じるが、それが世界の変革につながっていくとは当のへスターも思いもよらぬことであったろう。へスターにとってはトムを取り戻したい一心だったのだから。
 人生とは、世界とはそういうものである。
 本書「略奪都市の黄金」は、前作「移動都市」から2年後、主人公も同じトムとへスターである。「めでたし、めでたし」から2年。心優しきトムのせいなのか、へスターとの関係はすこぶる良好というところからはじまる。まさしく、ジュブナイルの王道である。
 移動都市ロンドンとは違って、人数の少ない移動都市アンカレジでは、人間関係もシンプル。トム、へスター、フレイアの奇妙な三角関係に、さらに、謎の幽霊の淡い恋も加わっての四角関係が加わって移動都市アンカレジはてんやわんや。
 もちろん、前作同様本書「略奪都市の黄金」では、世界の秘密が少しずつ明らかになっていく。移動都市と反移動都市同盟の関係に加え、反移動都市同盟内の争い、失われた技術や失われたアメリカ大陸に潜む秘密など、設定のおもしろさが物語をもり立てる。
 骨肉の争いに満ちた世界を逃れ、移動都市アンカレジがたどり着くのは、詐欺師のような作家が書いた荒唐無稽な空想の世界なのか、水も緑もない不毛の大地なのか、それとも、1000年の時を経て復活した緑あふれる新たな土地なのか? トムとへスターはどこにいくのか。「移動都市」という圧倒的な新機軸で展開される本シリーズ、続編の翻訳が楽しみである。
(2008.01.05)

銀河北極

銀河北極
GALACTIC NORTH and DIAMOND DOGS, TURQUOISE DAYS
アレステア・レナルズ
2002,2006
「レヴェレーション・スペース1 火星の長城」に続くアレステア・レナルズの短編集「銀河北極」である。中編集「DIAMOND DOGS, TURQUOISE DAYS」(2002)と短編集「GALACTIC NORTH」(2006)を日本で時系列的に合わせて「啓示空間」「カズムシティ」と同じレヴェレーションシリーズの集大成として翻訳出版された中短編集である。
連接脳派、ウルトラ属、無政府民主主義者といった人類3種属だけでなく、これまでのシリーズで登場したパターンジャグラーやハイパー豚、デニズン、ハマドライアドなど様々な知的/非知的生命体が登場し、最後は既知宇宙の終わりにまでたどり着くという作品群。長大長編「啓示空間」「カズムシティ」を読み切っていたゆえに楽しめるところもあるが、この2作品を読んでいなくてももちろんおもしろく読める作品たちである。
 レナルズは、短ければ短いほどおもしろい。
 短編を読めば分かるのだが、レナルズの作品の落ちは辛辣である。イギリス人らしいブラックユーモアで笑えるんだか笑えないんだか分からない。短編を読んでみると、長編も同じような気持ちで書いているのだと思う。ふりの長い短編のようなものなのだ。それにつきあうイギリス人はすごい。
 私は、パターンジャグラーが好きである。スタニスワフ・レムの「ソラリス」そのままである。そういう不定形でありながら、生態系全体をひとつの生きものとして存在しひらひらしたはかない生きものはいい。
(2007.12.30)

言の葉の樹

言の葉の樹
THE TELLING
アーシュラ・K・ル・グィン
2000
 美しい物語である。ル・グィンの「ハイニッシュユニバース」シリーズに属し、2000年に発表された「言の葉の樹」は、文化/言語をテーマにした文化人類学的考察に満ちた作品であり、心洗われる佳作である。
 舞台は、惑星アカと惑星地球。主人公はインド系カナダ人で宇宙連合体エクーメンの調査員として惑星アカに滞在する女性サティ。
 サティが育った頃、地球では神政主義政府ユニオンによる全地球規模の思想統制の時代が続いてきた。エクーメンから地球育ちの使節ダルズルが送られ、ダルズルを神聖視したユニオンの指導者たちは、ダルズル=神の命を受けてユニオンを解体しかつてのような地域ごとの民主主義的政治体制に戻ったが、ダルズルを神聖視する限り、世界にはダルズル/反ダルズルの争いが終わることはなかった。それは、思想統制の反動であるかも知れない。そんな混沌の地球で生まれ育ったサティは、エクーメンの調査員/使節として宇宙を飛び回ることを夢見て育ち、それを現実にした。
 そうして、惑星アカに派遣された。しかし、その惑星アカは、エクーメンとの接触によって、それまでの言語、文化、習俗をすべて否定し、アカ人たちが宇宙に進出することだけを至上命題とする科学技術信奉の独裁企業的政治体制となっていた。サティにとって、それはユニオンを彷彿とさせるものであったが、より徹底し、アカ人は本を焼き、言語を変えていた。
 エクーメンの教育機関から惑星アカまでの旅の間にサティは惑星アカの言葉、文化を、文献ベースで覚え、話すことができるようになっていた。しかし、その言葉を話す者はおらず、その習俗を体験することさえできない。「こんにちは」「ありがとう」さえも違うのである。あたかも、異星人であるサティだけがもともとの惑星アカの言葉や文化を知る唯一の存在であるかのような気持ちにさえさせられる。
 そのサティに、それまで許されなかった高地源流地域オクザト-オズカトでの調査が許されることになった。辺境にいけば、もしかするとかつての言葉や文化の片鱗を知ることができるかもしれない。サティの心は躍った。
 そうして、サティはオクザト-オズカトの人々に出会い、白く塗りつぶされた壁の下に浮かぶ象形文字を発見し、それを読める自分に気づき、出会った人々の導きによって惑星アカの「語り」の秘密を少しずつ学ぶことになる。それは、サティのそれまでの人生とそれからの人生を変えていった。
 私たちは道具としての言葉を使う。日本語、英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、トルコ語、ドイツ語、ヒンドゥー語、ウルドゥー語、韓国語、朝鮮語、インドネシア語、マレー語、フィリピノ語、タガログ語、イロンゴ語…。言葉は単独では生じない。たとえば、インドネシア語とマレー語はきわめて近い類縁関係にある。インドネシア語は、マレー語をベースにして建国時に作られた言葉である。フィリピノ語もそうである。スペイン、アメリカの影響を受け、地理的には中国、マレー系の影響を受けた諸島国家フィリピンは、ルソン島のタガログ語をベースにフィリピノ語を共通語にしているが、島ごとにさまざまな言葉がある。国に共通語があったとしても、山ごと、集落ごと、あるいは地域ごとに言葉が異なり、意思の疎通を難しくしている「国」はたくさんある。日本国では日本語が共通語となっているが、それも、中国、朝鮮、東南アジア等の影響を受けながら独自に発展し、形成されてきた言葉であり、歴史の中で汎用化されてきた言葉である。現在でも、地方ごとに「方言」があり、単語の意味や用途はそれぞれの文化で違いを持つ。
 言葉はコミュニケーションの道具であると同時に、思考の前提となる。思考の限界を形作るものと言ってもいい。使う人がいなければ言葉は死ぬが、言葉を使う相手がいなければ言葉は意味をなさなくなる。言葉とははかなく、美しく、恐ろしく、大切なものである。
 ル・グィンは言葉とその背景にある人/文化/社会のあり方についてSFやファンタジーの手法を使って人々に視点や視座を提示してきたが、本書「言の葉の樹」はタイトルそのままにテーマを取り上げ、わかりやすく解きほぐしている。
 よくわからないままの憎しみや断絶ばかりを経験している現代において、本書の提示する意味はとても大きい。人は、言葉を交わす限り、コミュニケーションできるのである。相手の言葉を知る、そこからしかコミュニケーションは進まないのである。
 多くの人に読んで欲しい作品である。
ローカス賞受賞
(2007.12.24)

銀河遊撃隊

銀河遊撃隊
STAR SMASHERS OF THE GALAXY RANGERS
ハリイ・ハリスン
1973
「宇宙兵ブルース」のハリイ・ハリスンがお送りする、スペースオペラの一大傑作が、本書「銀河遊撃隊」である。「スカイラークシリーズ」をしのぐ知性と行動力に満ちた主人公たち! 信じられないほどの新たな発見で宇宙に飛び出し、ベムを退治し、美女を救い、虐げられた異星人を救出する正義! 「レンズマンシリーズ」をしのぐ宇宙戦争の数々。正義と悪の真の決着をつけるときが来た! 宇宙に生まれたのは「銀河遊撃隊」。その驚くべき兵力、戦力をもっても戦えないほどの強大な力に、宇宙的知性が、宇宙的能力を使って銀河遊撃隊をサポート、そして悪は葬り去られるのである!
 わずか1冊で、スカイラークシリーズ、レンズマンシリーズばかりではなく、あらゆるスペースオペラのすべてを読み通すことができるすばらしい作品が、本書「銀河遊撃隊」である。
 それだけではない。今まで秘密とされていたスペースオペラの真実がすべて明らかにされている。なぜ、異星人は英語を話すことができるのか? どうやって氷詰めになった美女は復活するのか? 大発見はどうやって行われるのか! 業界がこれまで明かさなかった真実がそこにある。
 1973年、ウォーターゲート事件に代表されるように、世界の真実を暴くことが求められていた時代だからこそ世に出ることができた作品である。
 あまりにもすごい作品であるが故に、そのほかのスペースオペラ作品群が売れなくなることを危惧し、出版社は絶版を決意! それでも、昭和55年に初版を発行し、昭和60年には6刷を数えてしまった。今や、まぼろしの作品として手に取るのも危険視されている禁断の書でもある。
 私はある収集家が誤って氏の収集作品(整理番号がマジックで記入されていた)ものが、大手の古書店に流れ、あまつさえその危険性に気づかなかった古書店員が100円+消費税にて放出していたのを発見し、震える手で購入したのである。
 ところが、である。2005年に、表紙を変えて再版されているのである。表紙には現代的な若い娘さんの絵が描かれている。作品紹介は、「傑作ユーモア・スペースオペラ」としている。なるほど、そういうかわしかたがあったか。真実を冗談として隠す手法は今に始まったことではない。まして、時代は1970年代以上に真実を隠しやすくなっている。大量の情報を流すことによって、情報の質を相対的に低下させ、散逸させるのである。
 危険な作品である。心して手にするように。
(2007.12.8)

所有せざる人々

所有せざる人々
THE DISPOSSESSED
アーシュラ・K・ル・グィン
1974
 ハイニッシュ・ユニバース。ル・グィンが紡ぎ出した宇宙。かつて宇宙航行種属だったハイン人は様々な惑星に植民していた。しかし、ハイン人は一度衰退し、その間に植民惑星の種族達は惑星に適応し、それぞれの歴史を紡いでいた。地球人もまたハイン人の末裔であった。やがてハイン人は復興し、ゆるやかな貿易と種族間の交流がはじまる。そうしているうちにハイニッシュ・ユニバースを特徴づける新たな技術が誕生する。その名はアンシブル通信。どんなに物理的に離れていても即時に通信できるシステムである。
 本書「所有せざる人々」は、そのアンシブル通信が生まれる前の時代、恒星タウ・セティの二重惑星ウラスとアナレスを舞台にした物語である。
 ウラス人たちは、ちょうど20世紀の地球と同じような社会体制にあった。超大国と小国、資本主義を中心とした貧富の格差の大きな社会である。それを嫌い、限りない自由を求めた人達は、オドー主義者としてアナーキスト革命を起こし、荒涼とし、わずかな食料生産方法と鉱物資源しかもたない月「アナレス」への移住を達成した。言語を変え、貨幣を捨て、政府を認めず、厳しい生活環境の中で独自の社会を作った。そうして世代が過ぎ、ひとりの男が生まれた。
 その男、アナレス人物理学者シェヴェックが「所有せざる人々」の主人公である。彼は、若い頃から時間と空間に関する物理学について天才的な才能とカリスマ的な人間的魅力を持ち育ってきた。しかし、アナレスが当初目的としたオドー主義から離れつつあることに危機感を持ち、また、自らの理論を完成させるための研究資料を求めて、彼はアナレス人としてははじめてウラスを訪問することとなった。アナレス人シェヴェックの目からみるウラスの社会、人の異質さと共通点。そして、アナレスで感じ続けてきた違和感と安心感。時間軸をウラスの今と、ウラスに至るまでのアナレスでのシェヴェックの幼少からの歴史を交互に描きながら、ふたつの社会とひとりの人間を描き出そうとする。
 シェヴェックの哲学を一言で表するならば「苦悩こそが人々を結束させる」である。愛ではない、苦悩である。愛は憎しみに変わることもあるが、苦悩は、苦痛は人々にあまねく共通する。
 本書「所有せざる人々」は、ベトナム戦争でアメリカが撤退し(1973)、第四次中東戦争などでオイルショックが起こり、ウォーターゲート事件でニクソン大統領が退陣(1974)の時代に書かれ、発表されている。二十世紀社会の価値観がゆらぎ、第二次世界大戦を通じて確立したかのように思われた社会のあり方、家族のあり方、性のあり方が、もう一度ゆらぎはじめたときに発表された作品である。その視点の鋭さゆえに、各方面から批評され、深読みされたという。本書「所有せざる人々」は、SFというジャンルの持つ力を存分に発揮し、社会に影響を与えた作品のひとつであろう。それが作者の意図であろうとなかろうと、この作品は一人歩きをした。
 さて、二十一世紀を迎え、本書が発表されてから30年以上経った。
 シェヴェックが喝破した苦悩を人々は見ないようするふりが得意になったようである。結束したくないから見ないようにしているのか、苦悩そのものを否定したいのか。そう言っている私も苦悩から逃れよう、逃れようという意識ばかりが先に立つようになっているのだが。
 本書「所有せざる人々」で描かれるシェヴェックの物語は、共感する、しないにかかわらず、なにがしかの影響を読む者に与えるであろう。その物語の力は、今も決して古くない。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞作品
(2007.12.8)

火星の長城

火星の長城
GALACTIC NORTH and DIAMOND DOGS, TURQUOISE DAYS
アレステア・レナルズ
2002,2006
アレステア・レナルズの短編集、「レヴェレーション・スペース1 火星の長城」である。レナルズといえば、「啓示空間」「カズムシティ」の、長大長編2作品が先に翻訳され、弁当箱SF作家としてSF読みの手首を鍛えてくれている。とにかく長くて本筋を忘れそうになる長編であり、プロットやアイディアはおもしろいのに読み通すのが大変という困ったエンターテイメントSF作品である。なにぶんにも、終わり近くなるまでどこにストーリーを持って行こうとしているのかが分からないのである。どう読んだらいいのかが分からないのだ。きっと単純に字面を頭の中で絵に変えて楽しめばいいのだろう。評価はまっぷたつに分かれ、かのSF読みである吾妻ひでお氏は一刀両断に切り捨てておられた。私は時間つぶし作品としてそこそこの評価をしているが、正直なところ、本書「火星の長城」は買うまでに時間がかかり、買ってから読むまでも時間がかかってしまった。レナルズにおびえていたのかも知れない。
 ところが、である。レナルズは短編向きの作家ではないのか? おもしろいじゃないか。
「啓示空間」「カズムシティ」と同じ宇宙史であるが、本作品の最後(時系列としても最後)に収録されている「ダイヤモンドの犬」(2001.08)がイエローストーン星の融合疫前後の時代を扱っていることをのぞけば、上記2作品と直接のつながりはない。登場人物も別である。ひとつひとつの作品は、限られた登場人物で主人公もはっきりしており、主人公の苦難や報われぬ想いなどをそれぞれの宇宙史的舞台の上でていねいに書いている。しかも、中短編なのでぶれがない。導入でいきなり舞台設定に飲み込まれ、展開に次ぐ展開の上で最後にきれいな、時に悲しいオチがある。すっと物語の終わりと予感を感じさせてくれる。読んでいて気持ちがいい。この短編を一通り読んでから、短編の宇宙史の延長上にある長編として「啓示空間」や「カズムシティ」を読めば、もっと読み手としての視点も定まってこれら作品を読めたかも知れない。それくらい、短編としておもしろいのである。
 人類は、宇宙進出の過程で3つの大きな種属に分かれつつある。連接脳派、ウルトラ族、無政府民主主義者である。まず、脳にインプラントを埋め込み、埋め込んだ人々の間で精神をネットワークさせて超精神の大きなひとつの生命体のような生き方を選んだ連接脳派が生まれる。それに対し、地球では保守的な純粋精神連合が彼らと対立し一度は連接脳派が火星の居留地に行動を制限されてしまう。一方、サイボーグ技術とバイオエンジニア技術により、脳へのインプラントを使用しながらも連接脳派のように個を否定することはせず個は個として生きる道を選んだのが無政府民主主義者である。彼らの中で商人として星間船に乗り込み、身体を機械化し変化していったのがウルトラ族である。純粋精神連合は歴史の舞台から姿を消し、これら変容した人類が宇宙で新たな人類の歴史を築いていく、そのはじまりの物語群でもある。
 どの作品でも、主人公は自分の価値観や行動規範と異なるものを目の前にして「とまどう」。この異質な価値、規範、状況との出会いとそれによるとまどいこそがSFのおもしろさにつながるものである。SFの王道を行くような作品群。とりたてて新しいプロットなどはなくても、円熟した物語として純粋に楽しむことができる。
 どれかひとつを上げることも難しい。
 本短編集のために書き下ろされた「ウェザー」(2006)は、ウルトラ族の「若い」星間船船員と、仲間からはぐれてしまった連接脳派の「少女」の種属を超えたものたちの心の交感を描いた佳作である。
 アレステア・レナルズをはじめて読むならば、短編集から手をつけることを強くお勧めしたい。
(2007.12.01)

ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉

ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉
THE GOLDEN TRANSCENDENCE
ジョン・C・ライト
2003
「E・E・スミスをめざしたのだが、哲学的思考がつい入り込んで脱線してしまった」との作者のコメントが訳者あとがきに載っていた。まったくである。舞台装置をよく考えると、その通りであった。かたや太陽系においては戦争が存在せずありとあらゆる存在形態が許され、その存在と知的活動を謳歌する第七精神構造期「黄金の普遍」があり、かたや白鳥座X-1においては、第五精神構造期に植民し、銀河中心ブラックホールの無尽蔵なエネルギーをもって独自の豊かな世界を構成していたはずがあるときにそのすべての活動が停止したとしかみえなくなった「沈黙の普遍」があった。「黄金の普遍」は、次の千年期に向けてほぼすべての知的活動体がそのリソースを一時的に集結する「超越」の時期となっていたが、その陰に「沈黙の普遍」の密やかな侵略の陰があった。主人公のフェアトンのみがその存在を確信し、自らが作り上げた宇宙を股にかけることが可能な宇宙船「喜びのフェニックス」を取り戻し、「黄金の普遍」からも「沈黙の普遍」からも逃れて新たな旅立ちを模索する。しかし…。
「ゴールデン・エイジ」の第3巻は、1巻、2巻では見られなかった想像を絶する宇宙規模の戦いが繰り広げられる。それは精神と精神の戦いであり(アリシアとエッドールを思えばいい)、宇宙のエネルギーとエネルギーの戦いでもある。まさしく、E・E・スミスの「レンズマン」シリーズを彷彿とさせる。
 ただ、作者が自らコメントしたように、そこに「哲学的思考」が入り込み、話をややこしくする。ただでさえ、「人間」の定義が難しく、「死」の定義が難しい未来の話である。「現実」とか「仮想」といったことさえ、本書の定義によるところの「第三精神構造期」にある我々とはまったく異なる概念となっている。そこに「善」とか「戦争」といった概念が入り込むのである。もう、こりゃ、何が何だかの世界である。
 とにかくややこしい。
 もしかするとあと10年もすると、この「ゴールデン・エイジ」に書かれていることが軽く理解できる程度になるのかもしれないが。
 さて、ストーリーは、第1巻、第2巻を読み続けてきて「よかった」と思える内容である。もちろん最後はハッピーエンドが待っている。そこのところは間違いなくハッピーエンドである。アメリカ人らしい終わり方である。アメリカ人らしいというのは、ハリウッド映画的と言ってもいいけれど。
 とにかくシーンはさらに派手になるし、より人間くさくなる。もし、第1巻、第2巻を読んでいるのならば、ぜひ懲りずに読んで欲しいまとめかたである。
 それにしても、読む方も大変な作品だった。こういうことを書けるってすごいなあ。そして、こういうのを出版するアメリカって国もすごいなあ。素直にそう思う。
(2007.11.11)

ポストマン

ポストマン
THE POSTMAN
デイヴィッド・ブリン
1985
 我が家には「ポストマン」がたくさんある。別に望んで増えたわけではない。いつの間にかこうなってしまった。最初は「ポストマン」である。次は「ポストマン」(改訳版)で、最後はDVDの「ポストマン」となる。
 小説の「ポストマン」は、どちらも同じハヤカワSF文庫で、翻訳者も同じ方であるが、映画化を期に表紙が映画とタイアップしたものとなり、内容も「改訳」された。
 改訳の理由は定かではないが、たしかに旧訳のものと比べると言葉が変わっている。まあ、誤訳なども減ったのだろうし、訳もこなれたのだろうと思う。今回は、「改訳版」の方を再読した。
 内容は、破局後の人類再生ものである。ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネルの「悪魔のハンマー」や、ウォルター・ミラーの「黙示録3174年」などに見られる、人類が破局的な状況を迎えてしまい、科学技術や文明が崩壊した中で、少しずつ再生にむかって行くという中の物語である。
 本書「ポストマン」の舞台は北アメリカ。破局の原因は世界戦争。核を中心にした世界戦争とその後の暴力的な集団破壊行為により、アメリカの文明は完全に崩壊した。核の冬とまではいかないまでも気象は激変し、電力、通信などのインフラと航空機、自動車、鉄道などの輸送は途絶、多くの生物と人命が失われ、人々は小さな集落ごとに自給的な生活を送っていた。破局から13年が過ぎ、人々は生きていくのに必死だった。文化も文明も失われたままである。
 ひとりの放浪者がいた。集落に行き、ひとり芝居をしながらなんとか糊口をぬぐっている男である。崩壊前の世界を夢見、秩序ある世界の再生を誰かが実現しないかと願う男であった。男は、盗賊集団に狙われ、持ち物をほぼすべて失う。そして、山の中で、一台の朽ちた車とミイラ化した運転手を見つける。その運転手が着ていた服は、合衆国の公務員、郵便配達夫の制服であった。彼は、戦後に殺されたようである。戦後数年たってからも、離れて存続する人々の間を結び唯一の連絡手段である郵便を届け続けていたのだ。
 彼は、その郵便配達夫の制服と残された郵便物を手に、生き延びるため、別の集落を訪ねた。そこで、彼は歓迎を受ける。「郵便配達夫」の制服と帽子の故に。それは、文明再生の夢と希望の象徴でもあった。秩序社会の象徴となった。
 そして、男は生きていくために壮大な嘘をつきはじめ、嘘は徐々に世界を変えはじめた。
「悪魔のハンマー」が1977年で、本書が1985年。偶然かも知れないが、「悪魔のハンマー」でも、郵便配達夫が重要な役回りをする。インフラが崩壊したとき、「通信の自由」を保証するもっとも素朴な公共サービスである郵便はその意味を問われるのではなかろうか。
 郵便。それは、人と人とをつなぐメッセンジャーである。公共性の高い仕事として、世界中どんな場所でも、たとえ紛争の場所であっても、その意味と価値は高いとされる。実際の歴史や世界の中では賄賂や汚職、あるいは、戦時下での検閲など暗部も多いが、「通信の自由」の確保は、人類の社会的な知恵として、あるいは、その社会の成熟度を示すものとして大きな指標となる。たとえば、今のアメリカでの盗聴法やエシュロンシステムなどは、「通信の自由」を大きく阻害するものであるし、インターネットの普及による紙の郵便の必要性の低下などは今日的なインフラの質の変化を示すものであろう。しかし、それでも、「郵便」には、何かがある。それは、第三者を介して間接的に届けられるメッセージという意味であろう。この第三者を信用していること、これが郵便に込められた意味である。郵便は社会が安定している、信用に足ることを図らずも伝えているのだ。
 実は、「ポストマン」を再読したのは、「キルン・ピープル」を読んで、デイビッド・ブリンという作家は、よくよく主人公を苦しめ、いじめ、迫害し、贖罪させようとするなあ、と思ったためであった。本書「ポストマン」の主人公ゴードンが結構ひどい目に遭いながらも決してあきらめないキャラクターであったことを思い出し、「キルン・ピープル」の主人公である私立探偵と比べたくて読んだのであった。
 ところが、読み始めてすぐ、社会の変化に気がついた。そう、2007年10月1日より、日本の郵便制度は大きく変わったのである。公共サービスとして公務員が行っていた郵便サービスがなくなり、民間事業者のサービスと変わったのである。
 本書「ポストマン」はアメリカの公務員である郵便配達夫の物語であるが、そのまま日本に当てはめてもよかった。しかし、今の日本ではもはや「ポストマン」に書かれているような公共サービスは望めない。同じようなサービスでも、責任の所在が異なることは大きな意味を持つのである。公共サービスから私的企業の公的サービスに変わったということは、公共を支える人々の手から、私的企業を支える市場の手に、権限が移ったことを意味する。人々の手と市場の手は似ているようだが異なるのだ。
 再読しながら、時代の変化を感じるのは今に始まったことではないが、しみじみと、郵政民営化の持つ本質的な意味について考え、今の社会のひとつの側面に恐怖するのであった。
(ローカス賞受賞作品)
(2007.10.7)

果てしなき河よ我を誘え

果てしなき河よ我を誘え
TO YOUE SCATTERD BODIES GO
フィリップ・ホセ・ファーマー
1971
 1970年代に翻訳されたSFって、タイトルが凝っている。原題を忘れて、作品のイメージや文中の言葉を使ってすばらしいタイトルを生み出す。本書「果てしなき河よ我を誘え」もそんな作品のひとつである。まるで文学作品かいといった感じである。そのせいか、私は買わなかったんだよなあ。ハヤカワSF文庫で1978年に出されているのだから、中学生。そのころにはちょっと早かったし、高校になったときに限りある財政力では本書を選ぶことはなかった。残念。ということで、2007年になって、ようやく古本屋にて出会うことになったのだ。まったく、こちとらもう40歳をとうに過ぎてしまったよ。
 さて、主人公は、1890年に死んだリチャード・F・バートン。「千夜一夜物語=アラビアン・ナイト」の翻訳者として知られる冒険家である。このほか、2008年に死んだアメリカ人の作家や、ずっと昔に死んだネアンダール人やナチス・ドイツの大物や、人類がはじめて出会った異星人まで登場する。
 目が覚めたら、そこは知らない惑星。人類の始祖から、21世紀初頭に滅ぶまでのうち360億人以上が、ひとつの惑星のひとつの果てしなき川のそばで目を覚ました。みなすべて裸で無毛。そして手首には特殊なカップがあった。このカップを川のそばに設置されている岩のような装置に置けば、1日の必要な食料などが物質移動か生成によって中に入っている。だから食に困ることはない。そして、その惑星で一度死んでも、ふたたびよみがえらされ、真の死を迎えることもないようである。
 はたして、ここは天国か、地獄か。あるいは、なんらかの実験なのか?
 死んだはずが目覚めさせられたバートンは、地球に似ていて、地球とは違う世界であらゆる時と場所の人類達とは果てしなき世界で生き抜き、旅をし、そして、自分がよみがえらされたこの世界の正体をあばこうとひとり戦いをはじめた。
 壮大なリバーワールドシリーズの幕開けである。
 本当に壮大。ラリー・ニーブンの「リングワールド」やダン・シモンズの「ハイペリオン」に連なるような壮大な物語である。なるほどねえ。こういう作品だったんだ。
 この世界では死ぬことができない。いや、死ぬことはできても、必ず翌日には目覚めさせられる。そして、目覚める場所は、死んだ場所ではない。リバーワールドの別の場所である。ネタバレになるが、そこで主人公のバートンは、てっとりばやく世界を旅する方法として、「死ぬ」ことを思いつく。死ねば、別の場所で目覚めるからである。なんとまあ、辛い移動手段であろうか。本作「果てしなき河よ我を誘え」を読んだのは、デイビッド・ブリンの「キルン・ピープル」を読んだ直後だったので、死を記憶する生のあり方というものについて考えさせられることとなった。
 一般的に、死は不可避なものであり、恐怖の対象であり、同時に、憧憬の対象でもある。「死んでしまえばおしまい」というのは、恐ろしさでもあり、救済ともなるからだ。その両者が共存するのは、生者が自らの死を知ることができないからである。死は常に他者に起こるものであり、自らの死を知ることはできない。死ぬまでの苦しみや、死ぬような恐ろしさは味わえるかも知れないが、死は不可知である。自らの死は不可知でも、他者の死を知ることはできる。なんと死とは不思議なものであろうか。  しかし、フィリップ・ホセ・ファーマーの「果てしなき河よ我を誘え」やデイヴィッド・ブリンの「キルン・ピープル」では、自らの死を知ることができる。記憶することができる。そして、何度も違う死を迎えることができる。いや、できると書いたが、したい/したくないという意志によっても可能であり、事故や殺害など自らの意志によらない死も含まれる。いったい、人は死の記憶に耐えられるものだろうか? いくつまで耐えられるのだろうか? 自らの生の継続がかなうと知っていても、死を恐れずにすむのだろうか。
 うーん、わくわくするような怖さがあるなあ。
(ヒューゴー賞受賞作品)
(2007.10.02)