エンディミオン

エンディミオン
ENDYMION
ダン・シモンズ
1996
「ハイペリオン」四部作の第三部、後半の「エンディミオン」二部作の一である。連邦の崩壊と連邦間の行き来が事実上不可能になってしまった崩壊から247年、ロール・エンディミオンが惑星ハイペリオンのエンディミオン市に生まれる。彼は後に「教える者」の保護者として知られることになる。物語は崩壊から275年後、ロール28歳のときにはじまる。連邦の崩壊後、聖十字架をコントロールして死からの再生をもたらす道を開いた教会はパクスと名乗り、政治、経済、軍のすべての力をコントロールしていた。聖十字架をつければ、死からの再生がもたらされる。聖十字架をつけて間違いなく再生するためにはキリスト教を信仰し、パクスに入るほかはない。パクスは、断絶された人類世界を急速に統合しはじめていた。ハイペリオンでもまた…。
この年、最初の死刑判決を受けたロールは、聖十字架を拒否するひとりであった。真の死を目前に「ハイペリオン」の巡礼である詩人のサイリーナスと出会い、ヒーローになることを求められる。いわく、のちに「教える者」として知られることになるべく生まれ、幼少の頃に時のかなたに姿を隠した巡礼ブローン・レイミアの娘アイネイアーをパクスから救い出し、守り、ともに旅をして、失われた地球を見つけ、元の場所に戻し、テクノコアの目的を探り、それを防ぎ、アウスターと接触し、真の不死の道があるかどうかを確かめ、パクスを滅ぼし、シュライクを食い止めろ、と。
家を飛び出し、ハイペリオンの自衛軍を皮切りに、カジノの用心棒兼ディーラー、はしけの船頭、造園助手、狩猟ガイドなどをつとめていた、頑丈で一途で直情的で、記憶力は優れているけれど、ちょっと抜けているところもある田舎の青年ロール君は、行きがかり上、サイリーナスの頼みを引き受けてしまう。そうして、「ハイペリオン」で一時巡礼達を導いたアンドロイド・ベティックや巡礼であった領事の口うるさい私的宇宙船など、ロール君にとっては300年も前の歴史時代に取り囲まれ、混乱しながらも、わずか12歳で全パクス軍から狙われるアイネイアーを救いに出かけるのであった…。
パクス軍からは、信仰厚きデ・ソヤ神父大佐が追撃役に選ばれる。
アイネイアーと出会ったロール君は、A・ベティックとともに逃げるのだけれども、アイネイアーがいれば、連邦の崩壊とともに失われた惑星間をつなぐゲートが開いて転移することができるのだ。ところが、デ・ソヤ神父大佐はその方法が使えない。そこで、パクスはデ・ソヤ神父大佐に超光速の大天使級急使船を与えた。その加速度は、中にいる有機体を完全に殺してしまう。しかし、聖十字架をつけており、適切な措置がなされれば3日あれば完全に再生できる。デ・ソヤ神父大佐は、アイネイアーを追い求めるために、何度も死んではよみがえる苦痛の旅を科せられる。それでも、信仰の力とルパン三世を追いつめる銭形警部のようなしつこさ、そして、ホームズのような推理力でアイネイアーを追いかけていく。逃げる、追う、逃げる、追う。連邦崩壊後のいくつもの惑星をめぐる旅がはじまる。
砂漠の星、氷の星、緑の星、やさしい星、厳しい星…。
未来をかいま見ることができ、さまざまな能力を持つアイネイアーだが12歳の少女であることも事実である。保護者として、全力を、いや全力以上をつくしながらアイネイアーを守ろうと奮戦するロール君。がんばれ、ロール! 負けるなロール! きっといいこともある…と思うよ。
とにかく、冒険物語である。追われる側も、追う側も、味もくせもある存在ばかり。それぞれに理由や目的はあるのだが、そういうスパイスをふりかけながらも、本筋は、次々と訪れる危機、また、危機。冒険、めくるめく世界。とにかくジェットコースターに乗ったような気持ちで一緒に旅を続けるだけである。ページをめくり、世界に思いをはせ、ロール君を応援しながら読む。読もう。おもしろい!
四部作のうちでえもっとも気持ちよく読める作品である。
(07.07.31)

ハイペリオンの没落

ハイペリオンの没落
THE FALL OF HYPERION
ダン・シモンズ
1990
 20世紀の傑作「ハイペリオン」の対となる作品が「ハイペリオンの没落」である。「ハイペリオン」では、巡礼達のひとりひとりの物語が、惑星ハイペリオンや、舞台となっている28世紀の人類社会、人類を支えているようでいて人類を滅ぼそうとしているようなAIたちなどを、そのひとつずつの物語の背景に描き、ハイペリオン巡礼の意味や理由、その謎を示してきた。しかし、「ハイペリオン」では、謎は謎として描かれ、シュライクや時間の墓標、宇宙の蛮族アウスターがハイペリオンを襲う理由やAI群テクノコアの目的などが語られることはなかった。
 本書「ハイペリオンの没落」は、巡礼達の視点を離れ、転移ゲートで結ばれた連邦の惑星社会と、それに襲いかかるアウスターの脅威、それに立ち向かう連邦軍との戦争、テクノコア内部の対立などが描かれ、そのなかのひとつの焦点として、巡礼達がその後、どのようになっていくのかが描かれる。
 語り手は、神の視点を持つが、語り手自身にもその理由さえ分からないままに、語り手は、ほぼすべての物語を語る。語り手を含め、前作で広げるだけ広げられた謎は、本書「ハイペリオンの没落」の後半で一気に語られていく。
 そのスリリングさ、まさしくセンス・オブ・ワンダーである。
 前作「ハイペリオン」よりも、よりアクションSFであり、個の戦いから宇宙艦隊の戦い、知略なども楽しむことができる。
 さあ、時間の墓標が開くぞ。シュライクが出てくるぞ。終わりなき苦痛に身をよじるぞ。登場人物はひとりずつ試され、判断し、苦しみ、また、許され、許し、泣き、愛し、ある者は死に、あるものは英雄となり、あるものはひっそりと消える。
 読み終わった後には、すっきりした爽快感が残される。
 それは、望む未来ではないが、その未来にも希望がある。
ローカス賞受賞作品
(2007.7.20)

ハイペリオン

ハイペリオン
HYPERION
ダン・シモンズ
1989
 20世紀のSFを集大成する作品、SFのすべて、SFを読み続けたご褒美…。最大の讃辞をもって迎えられたのが本書「ハイペリオン」をもってはじまった「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の4部作である。
 ハードカバーが平積みされていたものなあ。とはいえ、私が買って読んだのは2000年に文庫化されてからのことである。最近の小説では文庫とハードカバーの価格差がそれほどなくなったので、ハードカバーを買ってもいいようだが、どれほど賞賛されていても、なかなか初物の作家は買いにくいのだ。
 しかし、間違いなく、本書「ハイペリオン」と「ハイペリオンの没落」は傑作である。
 傑作の前に、言葉はなくなり、ただページをめくるだけである。
 時は28世紀。地球は失われ、人類は宇宙へと拡散した。最初は、超光速のホーキング駆動量子船によって、惑星を開拓していった。やがて、人類から独立したAIのサポートによる転移ゲートによって植民星同士が結ばれ、人々は日々あたりまえに星から星を渡り歩くようになった。転移ゲートさえあれば、夕食に別の星のレストランに行くことも、毎日、家から別の星の職場に行くことも簡単である。金持ちは、ひとつの部屋にいくつもの転移ゲートを設けて、星をまたぐ広い部屋で景観を楽しむことさえした。
 いまだ転移ゲートの設けられていない辺境の星ハイペリオン。そこには、他のいくつかの植民星に見られるような人類以前からの遺構があった。エントロピーに逆らい、時に逆らって存在する「時間の墓標」は、科学者、宗教者、詩人らを呼び寄せてきた。
 人類の連邦は、人類から分かれて進化した蛮族種属であるアウスターが、ハイペリオンを侵攻する情報を確認する。時を同じくして、この「時間の墓標」が開きはじめる兆候があるという。そこには、シュライクと呼ばれる無敵の殺戮者が封じられているという。
 この内外の危機の中、連邦、シュライクを苦痛の神として奉じるシュライク教団らの思惑から、7人の選ばれし者がハイペリオンへの巡礼の旅を命じられる。彼らはそれぞれに、「時間の墓標」を目指す理由を持つ者たちであった。
 ふたりの宗教者、ひとりの兵士、ひとりの詩人、ひとりの私立探偵、ひとりの研究者、そして、ひとりの元ハイペリオン領事の7人が、戦争の予感にふるえ、殺戮の恐怖におびえる惑星ハイペリオンに降り立ち、巡礼の旅に出る。そして、その途中で、ひとりずつ、自らとハイペリオンのつながりの物語を語る。
 その物語ひとつひとつが独立した美しい、心躍る、心を打つ、夢のような、物語である。
 すべての物語が、ひとつにまとめあげられ、滅びの予感の中に、人間の物語がある。
 最高のエンターテイメントであり、物語であり、ミリタリーSFであり、人工知能やサイバー空間のSFであり、時間SFであり、泣けるSFであり、笑えるSFであり、冒険SFであり、ハードボイルドSFであり、エコロジーSFであり…。ああ、もう。
「スターウォーズ」「マトリックス」「ブレードランナー」「ハムナプトラ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」、そういったSFXやCGたっぷりの映画のような興奮、楽しさも満載なのに、きちんと現代文学しているところもある。
 ま、飽きないから読んだ方がいい。
 そうそう、忘れずに「ハイペリオンの没落」は用意しておいた方がいい。
 本作「ハイペリオン」と「ハイペリオンの没落」は対になっている作品であり、一連の流れで読んだ方がより楽しめる。
 損のない作品であることだけは請け合える。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞
(2007.7.20)

ゴールデン・エイジ2 フェニックスの飛翔

ゴールデン・エイジ2 フェニックスの飛翔
THE PHOENIX EXULTANT
ジョン・C・ライト
2003
「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」に続く3部作の2作目にあたる。1巻では、主人公フェアトンが、自分は何者で、この世界に何を忘れているのかを探す自分探しの旅であった。自分探しといっても、きゃつは3000歳にもなるのだ。
 知性と記憶と肉体はデータ化することができ、死の概念がほぼ意味をなさなくなり、バーチャルとリアルの境目が失われ、人類と人類から変容した太陽系星人と非人類知性体(AI)の境目も失われ、人類以上の知性体が真の世界を必要に応じてコントロールする、そんな未来の太陽系。2巻の舞台は、一度は生態系が破壊されかけた地球。ほぼ何もかもを奪われたフェアトンは、死すべき人間として地球に追われた。
 2007年の日本で言えば、携帯電話とパソコン(インターネットも)とテレビとカーナビと地図と家とお金を奪い取られた上で、「この者に接すること能わず」というレッテルを体中に貼り付けられた状態で東京のど真ん中に放り出された状態みたいなもんだ。ミクシィもセカンドライフもアクセスできない。2ちゃんねるだって読み込めない。メールも使えない。存在証明さえできない。医療機関にも入れない、もちろん警察には相手にされない。
 あなたは、生きていけますか?
 なかなか辛いなあ。
 いや、たとえばフィリピンの山の中に入れば、そこには集落があって、食べることも寝ることもできる。携帯電話を持つ者や、車に乗る者がときおり訪ねてくるほかは、電気もガスも水道もない生活がある。ほぼ自給自足。お金が必要になれば、何かを売るしかない。売るものを見つける、あるいは育てて収穫する、加工する。そういう場所はこの地球上で今でもいくらでもある。それでも、その人達でさえも、売るものを売りに行って、中国産の安い農産物のために今までよりも安くしか売れずに困る、なんていうことが起きたりする。それがグローバリズムということである。情報化とグローバリズムが進むと文化的な差異に対する価値が変わっていく。伝統的な文化を固定化して極端に尊重、崇拝していく者、あるいは逆に、伝統的な文化そのものを否定していく者が現われる。自然環境や生態系に対しても同様である。極端な形である固定化した時点を保護、尊重、崇拝する者もあれば、変容こそを求め、その価値を否定する者が現われる。
 そういう極端がなんども循環しながらも、情報化が肉体や精神にまで及んだ社会が、本書の舞台となっている。
 地球の自然環境でさえ、あるAIによって「自然に」管理されているのである。
 すべての生物、風、気温、太陽からのエネルギー、それらと、ナノマシンなどの総和がひとつのAIを形作り、同時にそれをコントロールする。
 そこにおける自然とは何だろう。
 そんなことをつらつら思いつつ、舞台設定が分かるようになっただけに読みやすくなった2巻をさらっと読んでしまった。読んだことさえちょっと忘れていたほどに。
 生活のほぼすべてが情報化された世界で、ほんのわずかな非追放者が生きていける唯一の場所に逃げ込み、そこからなんとかはい上がるべく知恵と技術をふるいはじめるフェアトンは、果たして自分の世界に戻れるのか?
 ま、戻れないと、3巻がないわけだから戻れるのだろうけれど、どのように戻るのかが問題なのだ。
(2007.06.30)

遠き神々の炎

遠き神々の炎
A FIRE UPON THE DEEP
ヴァーナー・ヴィンジ
1992
 遠い遠い未来、遠い遠い銀河系のはずれ。人類は銀河外縁の宇宙に進出し、他の宇宙航行種属などと接触、光速に制約されない移動と通信を手にして、「超越」種属入りをめざしていた。「超越」それは、情報の処理と収集の極度な高度化によって、物質的にも情報的にも高位の存在になること。各宇宙種属にとってそれは究極の進化である。
 人類の進出エリアのもっとも果て、超越した神仙のエリアに接する際涯圏のはずれで人類は宇宙規模のパンドラの箱を開けてしまった。封印されていた存在が人類の隔離処置をものともせずに復活し、開放した人類を飲み込み、そして、宇宙に災厄をもたらそうとした。
 しかし、封印されていた災厄の中には、そのワクチンとも言える存在も含まれていた。その存在は、人類に警告し、そして、脱出をはかった。冷凍睡眠の子ども達と科学者一家族が、その存在を連れて際涯圏のもっとも底、光速に制約されるぎりぎりのエリアにあるある未知の生存可能惑星に降り立った。そこは、宇宙文明との接触経験がない知的生命体が支配する惑星であった。集合することで個体同士が同期しながら情報を交換し集団が1個の個性として知性を発揮する集合知性生物の住む惑星で、生き残ったふたりの子どもたちと、ロケットに隠された存在。
 災厄の進展の中で、ひとりの人類の女性と、移動マシンとともに知性を獲得した植物体のスクロードライダー種属の夫婦、そして、超越体によって生み出された人類の男の4人が、このふたりの子どもを救い、災厄を止める方法を求めに出た。
 世界は、宇宙的なインターネット上のメーリングリストで情報を交換し、彼らの動きを追う。
 中世世界のような集合知性生物の星に降り立った文明世界の子どもたちは、その世界の権力争いに飲み込まれていく。そして、冒険がはじまる。
 宇宙的な災厄は、文明世界の人類の女性を、思いがけない高度な宇宙知性との戦いに飲み込まれていく。そして、冒険がはじまる。
 宇宙規模のバーチャルではないバーチャルリアリティ的な作品である。
 なにもかもが詰め込まれていると言ってもいい。
 ファンタジーも、サイバーパンクも、スチームパンクも、スペースオペラも、サバイバルも、パニックも。  デイヴィッド・ブリンの「知性化シリーズ」とも似たところがあるが、物語のまとまりと風呂敷の大きさでは、本書「遠き神々の炎」に軍配を上げたい。
 こういうおもしろい作品については書くことはあまりない。
 希望を言えば、映画ではなく、50回シリーズのテレビドラマかアニメで見たい。そういう映像化が可能な要素に満ちている。ヴィジュアルな作品なのだ。
 うん、読もう。もう一度、10年後ぐらいに。
ヒューゴー賞受賞作品
(2007.06.30)

悪魔のハンマー

悪魔のハンマー
LUCIFER’S HAMMER
ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネル
1977
ハムナー・ブラウン彗星。ティモシー・ハムナーとブラウン少年がほぼ同時に発見した彗星である。ティモシー・ハムナーは、金持ちで、企業オーナーで、そして、自分の天文台を持つ天文マニア。しかし、やがてその彗星は、ハンマー・ブラウン彗星、やがては、ただハンマーと呼ばれるようになる。
彗星は、地球の近くを通ることが予想された。冷戦の時代、アメリカとソ連は、互いに協力して中断していた宇宙開発を緊急再開、アポロとソユーズを打ち上げてドッキングさせ、共同観測を行うことにした。
1月に確認され、6月に再接近が予想された彗星について、ハムナーは、自らの財力と企業のスポンサー力を通じ、宇宙への関心を高めようと番組を企画し、放送する。人々は期待し、そして、あるものは地球への衝突をおそれ、あるものはそれを嗤った。
そして、多くの人々が彗星が来る、来ないにかかわらず1970年代のアメリカを生きていた。
やがて、衝突する確率が徐々に高まっていく。緊張がはしる科学者達。実際に衝突するかどうかは、ぎりぎりまで分からない。
人々は、彗星が近づくにつれ、パニックになり、彗星熱にかかった。キャンプ用具や保存食を買い込み、その日は仕事を休んで高台に避難するものが続出した。それでも、心の中では、本当に衝突するなんて思ってはいなかった。
その日がやってきた。彗星は静かに地球に接近し、そして、海に、陸にそのかけらを落とし始めた。巨大地震、津波、雨、竜巻、雷、そして、太陽の姿は消え、地球の人類文明はほぼ崩壊した。
生き残ったわずかな人々のうち、多くは暴力に頼り生産をあきらめた。一部の人達が、暴力とともに秩序を求め、生き残りとともに将来のための生産を望み、身を寄せ合った。そして、ひとりの郵便配達夫は生き残るために不可欠な情報を届け始めた。
ニーヴン&パーネルの「悪魔のハンマー」は、破滅物SFの代表的な作品を1970年代の空気のままに仕立て上げた作品である。前半はたっぷりと彗星が衝突するまでの平穏な日常と次第に変わる人々の空気を描き、中盤に衝突の結果起こる災害を丁寧に描き、そして、破滅後の人々の生き残りを淡々と描き出している。3冊分の読み応えある作品である。
破滅物と言えば、「地球最後の日」(1932 フィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマー)、「トリフィド時代」(1951 ジョン・ウィンダム)、「渚にて」(1957 ネビル・シュート)「黙示録3174年」(1959 ウォルター・ミラー)、「放浪惑星」(1964 フリッツ・ライバー)などなど、古典的名作が次々と浮かぶ。おおよそ3つに大別できて、自然災害、宇宙からの侵略、そして、核戦争などの人類による自滅である。
本書「悪魔のハンマー」は、自然災害ものの典型で、事前事後を描き、パニック物、サバイバル物を合わせたような作品となっている。
本書を際だたせているのが、これは、ニーヴンの特徴でもあるのだが、徹底した科学技術力に対する信頼と宗教などの科学技術力に対して「迷妄」なとらえ方をすることに対する嫌悪感である。他の作品に見られるようなぎりぎりの状態での人間の「祈り」に似た感情はあまり評価されず、家族や友人、知人、あるいは見知らぬ人への、合理的な行為のみが感情を含んで描かれるだけである。それをどう見るかによって、とりわけ後半のサバイバル部分についてどう読むか、読めるかが変わってくるだろう。
いずれにしても、その後の破滅物SFにも大きな影響を与えたに違いない本作品、たとえば、実際にはどうか知らないが、「悪魔のハンマー」で活躍した郵便配達夫は、「ポストマン」(1985 デイヴィッド・ブリン)で世界を変える働きをする。こういうたくさんの要素を提示しているところに、本書「悪魔のハンマー」は古典の資格が十分にあるだろう。そして、本書の中のエピソードとして登場するたくさんのSF作品の名前に、ときめいてしまうのもうれしいことだ。ま、ニーヴンの代表作「リングワールド」が入っているのはご愛敬ということで。
(2007.6.30)

グローリー・シーズン

グローリー・シーズン
GLORY SEASON
デイヴィッド・ブリン
1993
 惑星ストラトス。公転周期約3年。地球をはじめ人類の母集団がいるヒューマン・ファイラムから見つかりにくい星域で、科学者であり哲学者であるライソスらが創設した人類社会である。濃い大気と高い二酸化炭素濃度を難なく呼吸し、真水が少ないため少々の海水でも飲める代謝を持つよう調整された植民者たち。しかし、それら適応のための調整以上に大きな変革がストラトス人にはもたらされていた。
 きわめて男性が少ない社会。女性が自然に単為生殖で生まれる社会。
 しくみはこうだ。
 約3年の長い公転周期の冬が来て、特殊な霜が降りるとそれをきっかけに女性達は発情し、男性を求めるようになる。このとき、男性は発情期ではないが女性の様々な接触や社会的圧力などで応じることができる。女性は男性の精子によって胎盤形成が誘引され、単為生殖、すなわち自らのクローンを産むようになる。一方、夏には決まってオーロラが出て、それをきっかけに男性達が発情する。このとき女性が妊娠するとそれは変異子となり、男女の遺伝子を引き継いだ男性または女性が生まれる。
 すなわち、男性にとっては、夏の子が重要であり、女性にとっては、個としては冬の子(クローン)が重要で、夏の子(男女)も利用価値はある。
 同時に、男性は基本的に闘争能力を削がれ、争いや戦いは女性のものという社会が構築された。
 力のある女性の氏族とはたくさんのクローン氏族であり、歴史を重ねたクローン氏族として家系が続き、反映することをこの世界でのひとつの到達目標となっていた。夏生まれの女性にとっては、5歳(地球年で15、16歳)になれば、育てのクローン氏族(母方)を離れ、独り立ちをすることになる。なぜならば、夏の子は、その氏族の真の子どもではないからだ。自らの知恵と才覚に頼って生きていき、運にも恵まれれば、彼女らは新たな氏族の最初のひとりとなることができるかもしれない。
 きわめてめずらしい双子の夏の子、マイアとライアは、5歳となって厳格な母氏族から離れ、仕事を求めて船に乗り込んだ。
 世間では、「夏の子が増えている」「ヒューマン・ファイラムから異星人(人類だが)が来ているらしい」「海賊の動きがおかしい」「夏でもないのに男が女に色目を使う」「男なしでも維持できる社会を目指す者たちの動きが広がっている」「母なるライソス主義を疑う人が増えている」など様々な噂が流れ、変革の予感が広がっていた。
 しかし、夢と野望に満ちたマイアとライアの耳には入らない。彼女らには彼女らの計画があるのだ。「自分たちふたりを母とする氏族をつくること」である。双子として、黙っていれば夏の子(変異子)ではなくクローン氏族に間違えられるかも知れないという特性を生かして世間を渡ろうと考えていた。
 しかし、そんなマイアとライアを引き裂く事件が起き、マイアは想像もつかない陰謀と事件に巻き込まれ、幾度もとらえられ、傷を負い、裏切られ、成長していくのだった。
 ブリンは、わざわざ本書の最後に「あとがき」を残し、この女性中心社会や田園回帰社会を書いた動機について説明(または弁明)している。なるほど読みようによっては、眉をひそめることになるのかもしれない。「あとがき」を読んだから、その結果としてブリンに対して眉をひそめてしまったが、こんなこと書かなければいいのに。70年代のル=グィンならば、フェニミズムに対する作品の位置づけを書かざるを得なかったろうが、反感が生まれようと多様な主張を許すようになっていて、なおかつSFという社会実験作品であるのだから、そこにわざわざ動機はいらないだろう。
 まあ、あとがきの感想を書いていてもしょうがないので、ここまでにしておこう。
 さてさて、本作「グローリー・シーズン」の話に戻ろう。
 最初に説明したようなことを、そういう「説明」ではなくストーリーの中で読み解かせていくのだから、自然に長くなる。それでも前半に飽きずに読ませるあたり、ブリンの作家としての本領が発揮される。大人になりかけた少女マイアを主人公にして、ちょっとひどいぐらいの冒険につぐ冒険を用意し、謎解きあり、少し異質だが恋心ありで、ぐいぐいと読ませてくれた。とりわけ、ヒューマン・ファイラムの男性レナとの出会いと、心理の変化はなかなかに楽しい展開である。
 最後まで、どたばたと冒険や謎解きを用意し、同時に世界の図式や歴史も読み解くことができ、パターンではあるが楽しい作品であった。
 ただ、最後の方に行くに従って、「あとがき」でわざわざ別立てしてある「ブリンの主張」が、本文にも同じように書いてある。それで少し興が醒めてしまった。しかも、「主張」が増えるにつれ、ストーリーがまだるっこしくなる。
 どうにもブリンらしいのだが、ちょっと教条的すぎないか?
 ま、とにかく、そういうことはよくあることで、気にしないっと。
 物語の舞台設定とストーリー展開はおもしろいのだから。
(2007.06.20)

奇人宮の宴

奇人宮の宴
DINNER AT DEVIANT’S PALACE
ティム・パワーズ
1985
 グレゴリオ・リーヴァス、31歳。いまだ18歳の時の初恋の人が忘れられない純な心を持つ男。今や有名なシンガーソングライターとして少しは名を知られ、浮き名も流していた。そして、3年前に引退したもうひとつの商売「奪還」の第一人者としても、彼はその筋から知られていた。
 未来のアメリカ。核戦争などで地球は荒れ果て、アメリカもまた荒廃し、住めるところは限られていた。資源も少なく、馬車や自転車が主要な陸上交通機関になってしまった社会。人々は失われた過去と悲惨な戦後をおぼろげに口承しつつも、今に生きていた。
 この世界に、異教のジェイバードが広がっていた。救世主ノートン・ジェイブッシュの分身であり司祭となるジェイブッシュたちによる聖餐を受け、主体を失い、時には異言をつぶやくようになる。数人のジェイバードが常に勧誘を行っている。それは、勧誘というよりも短時間の洗脳といってもいい。ジェイバードに拐かされた後、ほとんどの場合、二度と家族や友人の元に帰ることはない。
「奪還」。それは、ジェイバードたちにもぐりこみ、さらわれた息子や娘、恋人を連れ帰り、そして、脱洗脳まで行う能力を持つ者。行動力、意志力、自らがジェイバードにならずに済む、なっても元に戻るための力を持つ者。戦える者。
 自らの命をすり減らす者。
 だから、リーヴァスは引退した。
 しかし、連れて行かれたのが、初恋の人だと知ったとき、彼は、法外なお金を要求し、その仕事を受けた。
 そして、すぐにジェイバードに取り込まれそうになる。自分の弱さを思い知るリーヴァス。そこから、戦いと長い旅がはじまる。
 とにかく弱い、31歳である。なにしろ途中からは、虫を殺すのさえ嫌になってしまうような男である。引退して、引き受けたはいいが、失敗続き。それでも、最後までやめない。
 どうしても、彼女を連れ戻したい。いやそれ以上に、自分の回りの者たちを殺し、苦しめ続けているノートン・ジェイブッシュが許せない。いや、自分で自分が許せないのだ。
 この弱い主人公が、意外と憎めない。それは、回りに出てくる自転車版マッドマックスのような連中や、ジェイバードの若い女をさらっては、売りさばく男達など、登場人物のあくの強さのおかげだ。弱いのがいいことのように思えてしまう。
 きわめつけは、荒野にいた、血を吸う雲のような幽霊のような存在だ。
 それは、血を吸うごとに、本人に近くなっていく。そして、次第にリーヴァスそっくりになって、彼を追い回すようになる。
 それは、核戦争によって生み出された新たな生きものなのか?
 いや、そんなことはない。この世界は、何かがおかしいのだ。
 その元凶に、ノートン・ジェイブッシュがいた。
 彼の正体は。ジェイバードが簡単に洗脳される訳は。
 そして、世界の快楽と豪華さのすべてがある奇人宮の秘密とは。
 実は、本書「奇人宮の宴」が出たときに「ディック記念賞受賞」という言葉に釣られて購入したものの、今の今まで読まずにいた。奥付をみると昭和63年8月となっているので、1988年。バブルがはじける直前、最初に勤めた会社で休む間もなく働いていたときである。その後、会社を辞め、全部ではないがある程度の本を実家に戻し、東京に落ち着いてから5回引っ越しした。実家からいつ引き上げてきたか覚えてはいないが、約20年間寝かせていた本である。もう少し、ミュータントや核戦争後の退廃が書かれていると勝手に思いこみ、手が伸びなかったようだ。
 ディックのような読んでいて自分の頭の中が現実の世界と「ずれ」ていくような感覚になる作品ではない。しかし、とにかく弱い主人公が、弱いながらも人間として譲れない矜恃といったものを発揮するときの強さは、ディックの書く主人公と似ているかも知れない。
 読まないままに終わらなくてよかった。
 意志を持って生き続けることって大切だ。
(2007.06.20)

必殺の冥路

必殺の冥路
VOICE OF THE WHIRLWIND
ウォルター・ジョン・ウィリアムズ
1987
 クローン保険をかける。記憶を含む脳のバックアップを定期的にとっておく。それだけで大丈夫。あなたが死んでも、あなたはバックアップされた最後の記憶のままに若い身体で目覚めることだろう。お金さえあれば、そんなことが難しいことではない遠い未来。企業社会は、地球を単なる実験場とみなし、恒星間を旅し、自らの拡大と利益追求を模索して、時には連携し、時には激しい戦闘も辞さなかった。
 ある企業国家の社会実験によって壊滅的に破壊されたヨーロッパでスチュワールは生まれ、そして、成長し、企業の傭兵として専門教育を受けた。そして、どこかで戦い、死んだ。15年の記憶の欠落のままスチュワールのクローンは地球上で目覚めることになった。彼を知り、近づいてくる者がいる。彼の記憶にある者とである。15年前の記憶と現実の間には深い溝がある。彼は、その溝を埋めるためにもう一度宇宙に出ようとする。そのためには、企業に雇われなければならない。しかし、彼を傭兵として育てた会社はもはや存在せず、彼はなんとか機関士助手として地球を脱する。
 スチュワール(ベータ)の頭の中は、疑問で一杯である。なぜオリジナル(アルファ)は、15年の記憶の欠落を残したのか。何をベータに引き継ぎたくなかったのか。なぜアルファは死んだのか。死ぬとしたら、誰に殺されたのか? 何の仕事をしていたのか?
 スチュワールは、15年の記憶の欠落を少しずつ埋めていき、アルファが背負っていた業を、事件を、アルファを殺した者を探し出していく。それは、企業国家群と企業、そして、現在の大きな社会変動のもととなっている人類より遙かに古く高い能力を持つ恒星間種属をめぐる大きな出来事につながっていく。
 企業国家による宇宙開発と通商の寡占、企業国家間の争いによる戦争、宇宙船やコロニー、小惑星、地球を部隊にしたクローンの主人公の活躍。宇宙に適合した亜種的人類の存在。反応速度を高め、脳の機能を増大させるためのインプラント。
「ダウンビロウ・ステーション」(1981)、「サイティーン」(1988)などC・J・チェリイの作品を彷彿とさせる設定である。80年代は、クローンなどのバイオ技術、脳機能の理解、コンピュータと脳の融合、企業の国家化による宇宙開発と戦争などのテーマが次々と作品化された時期である。同じ路線にあるのが本書「必殺の冥路」である。
 同時に、この時期は、日本の経済が絶頂期にあり、アメリカではあらゆるものが日本に支配されるのではないかと驚嘆と驚異の両方を感じ、日本への愛憎まざった関心が寄せられていた。企業国家のイメージ構築に、当時の日本企業も一役買っているであろう。日本への関心は文化的側面にもおよび、本書でも、ゼンや「葉隠」の引用など日本的要素がちりばめられている。このあたりも、80年代後半からの傾向である。
 まあ、こういう分析めいた話はどうでもいいことである。
 エンターテイメント作品なのだから。
 地球をはじめいくつかの惑星や宇宙船などを舞台に、サスペンス仕立ての謎解きと、肉体、武器、知略をめぐらせての激しい戦闘。それでいい作品である。
 チェリイのような「クローンのアイデンティティは」とか、ある特定の状況で人間の心理はどうなるのか、といった要素はない。
 安心して読みたい作品である。
 余談だが、2003年から主に再読の海外SF長編の感想/評論/メモを続けて300冊を超えた。傾向として、読む内容に波と流れのようなものを感じる。
 つい先日、「ブラック・カラー」(ティモシー・ザーン)を読んだが、これは日本的な要素をふんだんに取り入れた宇宙の特殊部隊ものであった。敵は異星人である。「必殺の冥路」も同じような傾向の作品である。違いはクローンが主人公であるところか。やはり、最後は異星人が敵対対象になる。「必殺の冥路」のあとに読んだのが、「奇人宮の宴」(ティム・パワーズ)で、こちらは核戦争後の地球を舞台にした意志の強い主人公が痛めつけられ続けながらも旅をして、その過程で世界の成り立ちを紹介し、強大な敵に立ち向かう物語だが、なんとなく「必殺の冥路」と同じような気配がする。ラスボスがいるあたりがそうだ。その次は「グローリー・シーズン」(デイヴィッド・ブリン)で、こっちはクローン社会の話だが、「奇人宮の宴」のように意志の強い主人公が痛めつけられ続けながらも旅をして、世界の成り立ちを紹介しつつ、強大な(こちらは社会だが)に立ち向かう物語である。
 どれも、複雑な世界設定を少しずつ主人公が「学んでいく、知っていく」ことを通じて読者に分からせようとしている。そういう物語パターンの作品である。多くの物語、とりわけSFやファンタジーが、新たな世界を構築し、読者に展開するために、こんな技法をとるから、同じような傾向に思えてくるのは当たり前のことなのだが、こう続くとちょっと笑える。特に意識している訳ではないのだが、ちょっと考えて手に取るとこうだ。
(2007.06.20)

発狂した宇宙

発狂した宇宙
WHAT MAS UNIVERSE
フレドリック・ブラウン
1949
 時は1954年のアメリカ。いよいよ宇宙時代に入ろうとしていた。まずは、ロケットを月に送り込み、月にぶつけて「バートン式電位差発生装置」により、静電気発光をさせて地球から光を観察しようという実験が行われた。それを眺めようと思っていたSFパルプ雑誌編集長のキース・ウィンストンは、社長の邸宅に招かれていた。
 ところが、実験は大失敗したらしい。
 気がつくと、彼は爆発に巻き込まれ、違う地球にたどりついていた。
 1954年のアメリカだが、宇宙旅行はあたりまえ、月や金星、火星に植民し、月人が地球に訪ねてきたり、アルクトゥールス星とは戦争をしているらしい。ドルは使えず、クレジットという単位が流通する世界。そう、そこは無限にあるパラレルワールドのひとつ。そして、SFパルプ雑誌が現実となったような世界であった。
 知っているようでまったく異なる世界に放り込まれたキースは、自分が狂っているのか、世界が狂っているのかを悩みつつ、アルクトゥールス星のスパイと間違われ殺されかかったり、濃霧管制が敷かれているニューヨークで追いはぎに殺されそうになったりしながらも、なんとかこの世界で生きていかなければとパニクりながらも努力をはじめる。
 しかし、そうそうやさしい世界ではない。
 帰りたいよお。ってなものだ。
 1940年代パルプマガジンのくだらなさを逆手に取ったSFパロディ作品であり、永遠の名作である。日本では元々社が最初に翻訳し、その後ハヤカワSFシリーズ入り、そして、1977年に筒井康隆のあとがき付きでハヤカワSF文庫化され、途中、入手しづらい時期もあったが、2005年で21刷を数えるまでになっている。というか、私はこの2005年の表紙新装版を持っているわけだ。
 はずかしながら初読みである。
 この名作「発狂した宇宙」を読んでいなかったのだから、SF読みとしてはなかなか「読んでません」と言えなかったのだが、読んだので言う。「読んでませんでしたー」
 出版されたのが1949年である。まだ、テレビはない。ラジオの時代だ。車だって、いろんなメーカーが出てきたがフォードの時代は続いている。そんな時代背景の中で、エイリアンが美女を襲い、ヒーローが美女を救い、地球を危機から守るのだ。
 そんな世界に放り込まれたら、どうなるか。
 今読んでも古くない。ぜんぜん古くない。いや、古いか。古くて新しい。うーん。
 パラレルワールドのユーモアSFとしては超一流である。
 古いSF小説や映画を見たことのある人ならば、楽しめること請け合い。読んだり見たりしていなくても、なんとなくわかっちゃう雰囲気がある。
 あとがきの筒井康隆が高く評価しているのは、80年代風に言えばメタSFだからだ。筒井康隆も同じ路線をずっと目指していた作家の1人なのであろう。それはのちの作品を読めば分かる。分かるけれど、本書「発狂した宇宙」には負けているよなあ。時代の力かも知れないが。
(2007.05.31)