明日と明日

明日と明日
TOMORROW AND TOMORROW
トマス・スウェターリッチ
2014
 近未来、10年前の10月21日にアメリカのピッツバーグが壊滅した。核テロにより、ピッツバーグは破壊され、人々が死に、放射能に汚染された立ち入ることのできないエリアとなった。ピッツバーグに暮らし、たまたまその日、離れていた人たちは、家族、友人、家、生活、仕事、故郷、すべてを失った。
 しかし、思い出は再構成された。あらゆるところに存在する監視カメラ、脳と連結されたインターネット空間により、視覚、聴覚、嗅覚、触覚のログをとっていた人たち、膨大な記録が再構成された。死者のプライベートなログも一定の制約の下に再構成され、あの日までの思い出に「立ち会う」ことができるようになっていた。電脳空間の中に構成されたピッツバーグのシティアーカイブ。主人公のドミニクは、亡き妻の思い出に浸るためシティアーカイブに深く深くのめり込む。同時に、彼はシティアーカイブの中で当時起きたピッツバーグでの事件、事故の事実確認作業を行っていた。保険会社に依頼を受け、死者(行方不明者)の原因を調査するのだ。ドミニクはひとりの若い女性の死体を調べていた。核テロとは関係なく起きている死。殺されたのか、事故か。殺されたとすれば、なぜ、だれに、どうして。その調査は、ドミニクの心をすり減らし、同時に、彼を別の深い事件の闇に巻き込んでいくのだった。
 大脳皮質に埋め込まれる端末により、電脳空間での拡張現実感はかなり現実的なものとなった。メール、チャット、仮想の対面、データサーチ、あらゆることが変化する。現実と拡張現実の双方を人々は生きている。現実の時間の矢は、方向も長さも変えられないが、拡張現実は、入るタイミング、出るタイミングを変えられる。ただし、時間の矢の方向、長さは変えられない。拡張現実の中での時間は、現実の時間間隔と同じなのだ。早送りはできないが、スキップはできる、と、言った方がいいだろうか。
 拡張現実は、それだけではない。ネットとのアクセス、ネットの中の島(アーカイブなど)へのログイン、できるとき、できないときがある。有料の場合も、パブリックの場合もある。つねにつきまとうアドウエア、ウイルス、なりすまし、乗っ取り。そして、拡張現実の改変。
 どちらの時間をどれだけ生きるか、それが、きっと、自己マネジメントとして重視されるのだろうな。
 ドミニクは、現実でも拡張現実でもすりへり、病み、そして、なんとかしようとする。失われた妻の思い出を取り返すために。
 ハードボイルド、サスペンスSFって感じかな。
 絶望的な世界での、絶望的な心の闇。
 犯罪も結構きついし、 ちょっと重い21世紀初頭の作品です。
(2015.10.10)

楽園炎上

楽園炎上
BURNING PARADISE

ロバート・チャールズ・ウィルスン
2013

 第2次世界大戦が起きず、紛争がなくなったもうひとつの地球。シミュラクラがいる地球。電波層というあらゆる電波を反射する層のある地球。真実を隠された地球。真実を知らずとも人間は幸せ?
 単発の長篇作品だが、「時間封鎖」「クロノリス」と同様に、地球にある状況が挿入され、私たちが知る歴史と違う歴史で、私たちと似たような人たちが右往左往する物語である。SFらしいといえばとてもSFらしい。
 この世界は、第1次世界大戦後、大きな内戦や紛争、戦争が起きなかった。1914年に第1次世界大戦は休戦する。私たちが知る歴史よりも早く第1次世界大戦は終わっていた。そうして、舞台は2014年、休戦100周年の年にはじまる。主人公は18歳のキャシー・アイヴァースン。2007年に両親を殺害され、叔母と弟とともに偽装人間(シミュラクラ)を恐れ、ひっそりと暮らす女性。
 もうひとりの主人公はイーサン・アイヴァースン博士。「連絡協議会」という秘密組織で、シミュラクラと「電波層」の正体を追及してきた組織の生き残りのひとり。キャシー姉弟を育てたネリッサの元・夫であり、2007年以降、ひとりでシミュラクラを避けて生きてきた。
 2014年11月。キャシーやイーサン、そのほか、生き残りの何人かの元へシミュラクラが再びその姿を現す。「それ」から逃れるための逃避行をはじめたキャシーと弟たち4人の子どもたち。同じく逃避行をはじめたネリッサとイーサン。
 なぜ、彼らはふたたび追われる身となったのか?
 地球はなぜ戦争が起きない世界になったのか?
 シミュラクラと「電波層」とは何者なのか、宇宙のどこから来て、何をしようとしているのか?彼らは侵略者なのか?
「楽園炎上」の世界は、人間が戦争を起こさない世界。それは、ある意味で楽園なのだろう。しかし、同時に、真実を知らされない世界でもある。真実を知らないままに、真実を少しずつねじまげながら、戦争が起こされず、人々が生きている世界。その真実の一端に気がついた人々が殺された世界。殺されたことさえ、報じられない世界。真実の一端を知る生き残りがおびえながら生きていかなければならない世界。
 しかし、もし、この楽園の異物を追いだしたら、果たして人間はふたたび戦争を起こすのではなかろうか? もし、この真実を皆が知ったら、果たして人間は他者を信じて生きていけるだろうか? 楽園は楽園のままがいいのか? 楽園から追放された人間は、生きていけるのだろうか?
 そういうふうに書くと、楽園を追放されたアダムとイブという聖書の記述が思い起こされる。そういうふうに読むと、キリスト教社会における作品の読み方と、非キリスト教社会での読み方には違いがありそうな気がする。
 作品は、シミュラクラが出てくるとか、歴史がずれているとか、とてもディック的なのだけれど、ディックのような意図/意図しないわかりにくさ、不気味さはなく、映画のシナリオのような分かりやすい世界の展開、ストーリー展開になっているので万人受け。映画化されてもおかしくない。

(2015.9.11)

子供の消えた惑星

子供の消えた惑星
GRAYBEARD
ブライアン・オールディス
1964
半世紀前に書かれたSFである。1964年ということは、私が生まれる前であり、世界は冷戦期であった。米ソ対立と核開発、ベトナム戦争の激化。作品はその時期に書かれ、20年後を予見し、60年以上先を想像する。
本書の未来は、1980年代初頭までに、大気圏核実験が盛んに行われ、それが地球に大きな変動をもたらしてしまう。大量死滅とまではいかなかったが、ほ乳類、特に、人類、犬や猫、家畜などには大きな影響を与えた。人類は、子供がほぼまったくといっていいぐらい生まれなくなってしまったのだ。舞台は2030年前後のイギリス。主人公は50歳代となった最後の子供たちのひとり「灰色ひげ」ことアルジャーノン・ティンバレン氏。妻や少数の仲間とともに崩壊する社会の中で生きている。物語は、彼の回想と現在の生活が交互に示されながら、進んでいく。子供のいない、いや、青年もいない、荒涼とした風景の中で、ささやかな希望、生きる望み、生きていくための行為を続ける「灰色ひげ」。
私はちょうど50歳になったところで、古書店にて本書を見つけた。中高生の頃、田舎の本屋で手に取り、それほど魅力を感じなかったことを記憶している。舞台は核戦争も起きていない地球、登場人物は老人ばかり(いや、今となっては私も50歳なのだが、当時からすれば、主人公さえ老人だったのだ)。おもしろそうな要素はなにひとつない。
こういうのも縁なのだろう。
自分自身が50歳となり、日本は少子高齢化が急速に進み、周囲でも子どもの数は明らかに減っている。仕事でちょっと農山村に行けば、学校の統廃合、数十人規模の小中学校などがあちらこちらにある。都心だって、少子化での統廃合が起きている事態だ。
幸いなことに、21世紀の現在、社会は安定している。かろうじて、だが。
この安定性を保ちながら、ひとりひとりが生きる喜びを持って暮らしていけるのか。
そのためには、どんな社会やコミュニティをつくればいいのか。
身につまされるような作品となった。
しかし、20歳、30歳の時に本書を読んでいたら、まったく違った感想をいだくのだろう。
読むタイミングというのは重要だな。
(2015.9.4)

ゼンデギ

ゼンデギ
ZENDEGI
グレッグ・イーガン
2010
(twitter)読了。イーガンの著作の中ではもっとも分かりやすいSF。近未来イランを舞台に広げられる子を持つ親の物語。
 今、新幹線の中で、スマホ(スマートフォン)の音楽を聴きながら、ノートパソコンで書いています。音楽は、CDから取り込んだもので、圧縮したときには、WMAでしたが、その後、MP3化したものです。圧縮→方式転換で2回劣化していますね。CDにする際にも、原音からデジタル化する過程で音を減らしています。そうなるとマスターテープから3回劣化。さらに、再生する装置、ソフトによってデータの扱い方が変わり、音は変質します。
 パソコンの画面では、平行してSNSからの写真が流れています。こちらもまた、デジタルカメラで撮影され、補正され、圧縮され、展開されて、再生する装置、ソフトによってデータの扱い方が変わり、絵は同じではなくなります。
 デジタル化、ハードウエアとソフトウエアの混合によるデータの処理は格段に高速、大容量化し、便利になりました。この原稿だって、キーボードで流れるように書くことができ、悩んだときには、FEPが、変わりの語や、文の乱れや、変換する漢字を教えてくれます。しかし、それは時には、思考を誘導してしまいます。
 ロジカルな誘導は気になりません。メタ思考をしない限り。
 ロジカルでない場合、ノイズとして気がつきます。
 たいていの場合、ノイズはすぐに忘れてしまいます。継続したノイズでない限り。
 デジタル化。デジタルアーカイブ化。
 まだ、化学物質の反応系である匂いや味は再現されていませんが、やがてこれらもハードウエアとソフトウエアの混合物によってデータ化されるのでしょうか。
 そうなると、思考や環境もデジタル化されていくのでしょうか。
 見る、聞く(光と音)については、ずいぶんデジタル化され、光と音とで構成される環境は主にゲームの世界を中心に技術が進歩しています。
 この先に何があるのでしょうか?
 人間をシミュレートすることが可能になるのでしょうか?
 イーガンは、常に、思考と環境の関係を考え、SFの小説形態を使って問い続けます。
 その問いは、時には分かりにくく、5年、10年後になってようやく理解可能になるものもあります。
 それに比べると、本書「ゼンデギ」は直近の未来を描いた作品であり、現代(近過去)を踏まえて書いてある故に、分かりやすくなっています。
 不死。
 それは人類のひとつの夢であり、物語でもあります。
 デジタル化、アーカイブ化された、そのデータは、果たしてその人でしょうか。
 ねえ、このテーマってずっと、ずっと、ファンタジーの頃から続いてきましたよね。
 どう思いますか?
(2015.08.21)

星の涯の空

星の涯の空
THE CHILDREN OF SKY
ヴァーナー・ヴィンジ
2011
 2014年3月26日読了。「遠い神々の炎」の続編だが、今回はひとつの惑星での人類と異星集合知性体との物語。歴史修正主義はいかにして生まれ、育つのか。本書が上梓されたのが2011年。読んだのが2014年3月。このタイミングで読んでいたのはとてもよかったのだと思う。権力を思考する知性は、過去を容易に変更する。都合の悪い過去は書き換える。
 もちろん、そんな読み方をする必要はない。私が、いや、現在の日本がそういう風潮を持っているからそういう読み方になるだけなのだ。前作で登場した集合知性生物。複数の個体が群れで行動し、思考音を共有することで、高度な知性を持つことになる。集まることで論理や記憶、感性といったものが高度になっていく。個体と集合知性の関係性が、社会性動物である人やハチ(アリ)の中間にあるような感じだ。
 そこに、異星人である人がやってきて、騒動がおきる。それが前作。騒動を収めたものの。異星人である人は、自らの属する情報社会から隔絶されている。宇宙規模の闘争から逃れてきた世界で、別の社会固有の闘争に巻き込まれる。という物語だ。
 私たちは普段、何気なく、親子、兄弟、パートナー、同僚、民族、国家、社会、同一言語、宗教などを語り、行動するが、それらひとつひとつには重ね合わさる部分があり、共同幻想の部分もある。個と社会は常に相互作用をしながら緊張関係にあると言える。
 そういうことを考える思考実験としてもおもしろい。
 そういうことをまったく考えずに、状況のストーリーとしてもおもしろい。
 さて、本書は、前作、本書と、大きなストーリーが回収されていない。続編はまだ先なのかなあ。
(2015.6.20)