竜の戦士

竜の戦士
DRAGONFLIGHT
アン・マキャフリイ
1968
 子どもの話として聞かされる「むかしむかし」、ではじまり、「めでたしめでたし」で終わる幾多の物語のことを、アン・マキャフリイは嫌いだったに違いない。
「むかし」っていつ? 「めでたしめでたし」のその後、主人公達はどうなったの? そんなことを考えたことがあったに違いない。また、王子とお姫様がいて、王子のことばかりが書かれ、その間、お姫様がどこで何をし、何を考えていたのかが書かれないことにも不満を持ち、お姫様の視点から物語を考えたに違いない。
「むかしむかし」、その物語につながる何かがあったのだ。
「めでたしめでたし」のあと、乱暴な王子は領民に疎まれたかも知れない。幸せに見えた姫はたいくつに絶望して、新しい冒険に出かけたかも知れない。その物語が原因で、別の戦争が起き、城は焼け落ちたかも知れない。そのときはめでたいかも知れないが、その後には、生活が、あるいは、新しい物語があるはずだ。
 竜の物語は、洋の東西を問わず、宗教、文化を問わず人気のあるジャンルである。
 竜が人と敵対し、あるいは、人とともに敵と対峙する姿は、想像するだけで怖く、また、楽しくなる。
 アン・マキャフリイは、むかしむかしにはじまり、めでたしめでたしで終わる竜の物語に不満があったのかも知れない。おしとやかなお姫様に怒りを感じたのかも知れない。
 本書「竜の戦士」は、アン・マキャフリイが、女性として初のヒューゴー賞を受賞した中編と、ネビュラ賞を受賞した続編の中編に加筆して1冊にまとめたものである。
 その後、本シリーズは、現在までに正編10冊、外伝3冊、中編2作が翻訳され、未訳1冊を数えている。30年以上に渡って書かれてきた一大シリーズであり、マキャフリイにとってももっとも愛着のある作品群となっているのではなかろうか。
 その最初の作品であり、古さを感じさせない力強い作品である。
 ファンタジーファンにも、ファンタジーが嫌いなSFファンにもお勧めできる良質の物語をどうぞ。
 はるか昔、人類は惑星パーンに植民した。楽園と思われた惑星であったが、楕円軌道を描くもうひとつの惑星が定期的に接近し、そのたびに糸胞とよばれる生命体が惑星パーンの有機体を襲い、壊滅的な被害を与えていた。植民者達は必死に戦ったが、やがて彼らの文明は衰退し、過去の技術は失われ、歴史は伝説となり、忘れ去れていった。残されたのは、糸胞と戦いながら生き残るための厳格な社会ルールと、竜と竜騎士の存在である。
 しかし、過去4世紀に渡って糸胞の襲来はなく、竜と竜騎士を尊敬する領主は減り、糸胞の襲来など過去の物語とされてしまった。竜騎士も、その自信を失い、竜と竜騎士のすみかである大窟洞に引きこもるだけであった。しかし、その竜騎士のひとり、フ-ラルは糸胞の襲来が近いことを感じており、新たな女王竜とペアを組む女性を捜す旅に出かけたのであった。そして、家族親族を殺され、城砦を侵略者に取られたことに復讐を誓って生き延びた領主の娘を発見する。彼女こそ、新しい女王になるのである。
 パーン原生の生命体から生み出されたテレポーテーション能力を持つ竜を、精神感応力を持つ人間が竜の使い手となり、可燃性の鉱物を竜がかじることで竜は火を噴く。それは、糸胞を焼き殺すためにもっとも効率の良い方法…。ファンタジーの中に科学的な解説を取り入れ、単なるファンタジーの領域を超えて竜の世界を生み出したマキャフリイの「竜騎士」シリーズが、いよいよはじまる。
 パーンに糸胞が降る。
 「竜騎士は飛ばねばならぬ
  空に糸胞があるときは!」
(2007.08.26)

竜と竪琴師

竜と竪琴師
THE MASTERHARPER OF PERN
アン・マキャフリイ
1998
 1968年に「竜の戦士」が長編作品として上梓されてから30年、パーンに降り注ぐ糸胞とと戦う竜と竜騎士の物語は、正編、外伝と紡がれる中でファンタジーの域を越え、パーンに人類が植民した歴史、糸胞による壊滅的被害、竜の創造、イルカ類との共生と隔絶など、惑星パーンをめぐるSF歴史物語へと変わっていった。
 そのなかで、竪琴師ノ長ロビントンの役割は巻を追うごとに高くなり、ロビントンが、パーンの新時代を築いていくなかで果たした役割の大きさには目を見張るものがある。
 さて、本書「竜と竪琴師」は、そのロビントンの物語である。彼は、どのように生まれ、育ち、竪琴師ノ長となったのか? いつから彼の音楽と言葉の才能は、そして、人を調停する才能を得ていたのか、その半生が語られる。
 アン・マキャフリイは、女性作家として、若く、少々元気すぎる少女の成長を描くことが多い。竜騎士のシリーズでも、何人かのアン・マキャフリイらしい少女の主人公が登場する。ところが、本書の主人公は、30年近く「賢者」として描き続けてきたロビントンの少年時代である。少年なのに、このロビントン君は老成している。おいおいそんな理想的な天才少年はいないだろう、という感じである。
 そして、ロビントンの母のメレランもしかりである。息子を顧みない父と、父に愛されていないことを知る息子との間で、息子を守り、夫を愛そうとするメレランの気丈でけなげなこと。前半はロビントンの物語というよりも、メレランによる「ロビントン子育て日記」のような状態で、いかにもマキャフリイらしい展開である。
 後半から終盤に行くに従って、なにやら懐かしい面々が若い姿で登場する。
 そうだよなあ、ロビントンが竪琴師ノ長になるということは、シリーズ第一作「竜の戦士」に直結するということなんだ。
 なるほど、そういう歴史があったんだ!
 ということで、本書「竜と竪琴師」はロビントンの成長物語であるとともに、シリーズ第一作「竜の戦士」の時代状況をより明らかにする直接の前史となっている。それでは、まず、この「竜と竪琴師」を読めばいいのかと言えば、そうでもない。
 パーンは竜の惑星なのだ。竜が火を噴き、その竜に竜騎士が乗る。希望と喜びを抱いて、パーンを守るために戦う竜騎士と竜の物語なのだ。まずは、「竜の戦士」を読んで欲しい。
(2007.08.20)

最果ての銀河船団

最果ての銀河船団
A DEEPNESS IN THE SKY
ヴァーナー・ヴィンジ
1999
「遠き神々の炎」のはるかなる過去の物語である。人類は、光速を超える手段を持ち得ず、ラムスクープ船によって銀河内に版図を広げていた。異星知性の文明跡はふたつ見つかったものの、知性のある存在を見つけることはできなかった。
 人類もまた、光速の限界により、入植した星と地球やそのほかの繁栄する星々との連絡は絶たれ、入植星の多くは滅び、いくつかは過去の科学技術を忘れ、そして、宇宙技術を失ったままに再興した。
 チェンホーと呼ばれる商人船団が、ウラシマ効果による母星との隔絶もものともせずにラムスクープ船の船団を組み、冷凍睡眠によって深淵なる宇宙の間隙を旅し、星と星との人類世界のかけはしとなっていた。それゆえにチェンホーは人類社会を統べずに統べる存在であるとも言える。
 チェンホーは、ある男を追っていた。その男の正体を、秘密を、そして、チェンホーがその男を追っていることを知るものはチェンホーでもわずかな有力者だけであった。
 その男が持っていた秘密のひとつがオンオフ星にあることは知られていた。オンオフ星、それは、250年のうち35年だけ燃え上がり、あとの期間は太陽の火が消える不思議な星。そのオンオフ星には宇宙の何らかの秘密が、つまりは、莫大な利益があるはずである。
 チェンホーは、オンオフ星をめざした。
 しかし、同じ頃、チェンホーの船団よりもオンオフ星の近くの星系にエマージェントと自称する人類文明社会が勃興し、同じくオンオフ星を目指した。宇宙最大の秘密を前に、チェンホーの船団とエマージェントの船団は対峙し、相互の不信は宇宙戦を招く。相互に帰還のための設備を失ったなかで、オンオフ星の惑星に非人類型知性体の存在が確認された。その蜘蛛型の知性体が文明を進歩させ、チェンホーとエマージェントの帰還に必要なエネルギーと機材の生産ができなければ、両者とも死を待つだけになる。冷凍睡眠を使いながら、眼下の惑星に蜘蛛型知性体の産業文明化を待つ人々…。
 傑作であろう。「遠き神々の炎」では、光速もなんのその、宇宙はネットワークで結ばれた高度な情報社会となっていたが、本書では光速を超えない、「現在の宇宙論で可能な世界」が相手になっている。それでも、少しだけ「遠き神々の炎」とつながりがあるのは、両作品を読んだ人だけが分かるようになっている。ということで、どちらから読んでも良いし、どちらか片方でもまったく、掛け値なしにまったく独立して読める作品である。
「遠き神々の炎」と本書「最果ての銀河船団」には構成上似たところがあって、前者では、犬型の群体知性体という非人類型知性体が登場し、重要な柱を成すが、後者の本書では、蜘蛛型の非人類知性体が登場し、物語の重要な柱となっている。ところが、である。本書「最果ての銀河船団」は、早い段階で、「異質な人類」であるエマージェントと、「理解可能な」蜘蛛型非人類知性体が対比される。同じ人類でも、共感できないエマージェントに対し、蜘蛛型非人類知性体の方が理解も共感もできるようになっている。
 もちろん、それは単純な擬人化ではなく、ストーリー上でも必然を持って語られる。
 それはなにかといえば、種明かしになるので書かない。
 読んだ方がいい。
 まあ、上質のエンターテイメントであり、教訓などはない。
 広大な宇宙の時空を頭の中に描き、蜘蛛型非人類知性体の生態や文明に思いをはせるだけで十分である。楽しいよ。
ヒューゴー賞・キャンベル記念賞受賞作品
(2007.08.10)

エンディミオンの覚醒

エンディミオンの覚醒
THE RISE OF ENDIMION
ダン・シモンズ
1997
いやあ、何度読んでもおもしろいものはおもしろい。再読だが、新鮮な気持ちで読むことができた。
「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の四部作もいよいよ佳境。すべてが語られ、そして宇宙が変わる。
ハイペリオンシリーズの前編を通じてひとつのテーマであった、「愛は宇宙の物理的な力」がいよいよベールを脱ぐ。
そう書くと、このシリーズがとたんにうさんくさく感じられるが、そんなことはないのが、ダン・シモンズの力量である。
そこにラリー・ニーヴンのリングワールドシリーズがあり、ジェイムズ・ブリッシュの宇宙都市シリーズだろうか、ジョン・ヴァーリーの八世界シリーズもあるかもしれない。それまでに登場したSFのガジェットが次々に新しいイメージを帯びて登場し、ひとつの物語に収斂されていく。その奥の深さには舌を巻くしかない。
そのなかでの「愛の力」である。
そりゃあ、あなどれないよ。
キリスト教と仏教の対話、新しい価値観の提示、それをSFのみがなし得る手法で提示する。荒唐無稽だけれど、精神の力を信じようと思わせる読後感がある。
それ以上は書けない。書きたくない。読んだ方がいい。
付け加えることなんてなにもない。
前作「エンディミオン」でもひどい目に遭ってばかりのロール・エンディミオン君であるが、今回はもっともっとひどい目に遭う。まあとにかく、ロール君のアイネイアーを守ろうとする思いと、そのために発揮する絶望的な力には感動するよ。えらい!
君こそ、ヒーローだ!
月にロール&アイネイアーとハートマークで落書きしたい気持ちだよ。
(2007.7.31)

エンディミオン

エンディミオン
ENDYMION
ダン・シモンズ
1996
「ハイペリオン」四部作の第三部、後半の「エンディミオン」二部作の一である。連邦の崩壊と連邦間の行き来が事実上不可能になってしまった崩壊から247年、ロール・エンディミオンが惑星ハイペリオンのエンディミオン市に生まれる。彼は後に「教える者」の保護者として知られることになる。物語は崩壊から275年後、ロール28歳のときにはじまる。連邦の崩壊後、聖十字架をコントロールして死からの再生をもたらす道を開いた教会はパクスと名乗り、政治、経済、軍のすべての力をコントロールしていた。聖十字架をつければ、死からの再生がもたらされる。聖十字架をつけて間違いなく再生するためにはキリスト教を信仰し、パクスに入るほかはない。パクスは、断絶された人類世界を急速に統合しはじめていた。ハイペリオンでもまた…。
この年、最初の死刑判決を受けたロールは、聖十字架を拒否するひとりであった。真の死を目前に「ハイペリオン」の巡礼である詩人のサイリーナスと出会い、ヒーローになることを求められる。いわく、のちに「教える者」として知られることになるべく生まれ、幼少の頃に時のかなたに姿を隠した巡礼ブローン・レイミアの娘アイネイアーをパクスから救い出し、守り、ともに旅をして、失われた地球を見つけ、元の場所に戻し、テクノコアの目的を探り、それを防ぎ、アウスターと接触し、真の不死の道があるかどうかを確かめ、パクスを滅ぼし、シュライクを食い止めろ、と。
家を飛び出し、ハイペリオンの自衛軍を皮切りに、カジノの用心棒兼ディーラー、はしけの船頭、造園助手、狩猟ガイドなどをつとめていた、頑丈で一途で直情的で、記憶力は優れているけれど、ちょっと抜けているところもある田舎の青年ロール君は、行きがかり上、サイリーナスの頼みを引き受けてしまう。そうして、「ハイペリオン」で一時巡礼達を導いたアンドロイド・ベティックや巡礼であった領事の口うるさい私的宇宙船など、ロール君にとっては300年も前の歴史時代に取り囲まれ、混乱しながらも、わずか12歳で全パクス軍から狙われるアイネイアーを救いに出かけるのであった…。
パクス軍からは、信仰厚きデ・ソヤ神父大佐が追撃役に選ばれる。
アイネイアーと出会ったロール君は、A・ベティックとともに逃げるのだけれども、アイネイアーがいれば、連邦の崩壊とともに失われた惑星間をつなぐゲートが開いて転移することができるのだ。ところが、デ・ソヤ神父大佐はその方法が使えない。そこで、パクスはデ・ソヤ神父大佐に超光速の大天使級急使船を与えた。その加速度は、中にいる有機体を完全に殺してしまう。しかし、聖十字架をつけており、適切な措置がなされれば3日あれば完全に再生できる。デ・ソヤ神父大佐は、アイネイアーを追い求めるために、何度も死んではよみがえる苦痛の旅を科せられる。それでも、信仰の力とルパン三世を追いつめる銭形警部のようなしつこさ、そして、ホームズのような推理力でアイネイアーを追いかけていく。逃げる、追う、逃げる、追う。連邦崩壊後のいくつもの惑星をめぐる旅がはじまる。
砂漠の星、氷の星、緑の星、やさしい星、厳しい星…。
未来をかいま見ることができ、さまざまな能力を持つアイネイアーだが12歳の少女であることも事実である。保護者として、全力を、いや全力以上をつくしながらアイネイアーを守ろうと奮戦するロール君。がんばれ、ロール! 負けるなロール! きっといいこともある…と思うよ。
とにかく、冒険物語である。追われる側も、追う側も、味もくせもある存在ばかり。それぞれに理由や目的はあるのだが、そういうスパイスをふりかけながらも、本筋は、次々と訪れる危機、また、危機。冒険、めくるめく世界。とにかくジェットコースターに乗ったような気持ちで一緒に旅を続けるだけである。ページをめくり、世界に思いをはせ、ロール君を応援しながら読む。読もう。おもしろい!
四部作のうちでえもっとも気持ちよく読める作品である。
(07.07.31)

ハイペリオンの没落

ハイペリオンの没落
THE FALL OF HYPERION
ダン・シモンズ
1990
 20世紀の傑作「ハイペリオン」の対となる作品が「ハイペリオンの没落」である。「ハイペリオン」では、巡礼達のひとりひとりの物語が、惑星ハイペリオンや、舞台となっている28世紀の人類社会、人類を支えているようでいて人類を滅ぼそうとしているようなAIたちなどを、そのひとつずつの物語の背景に描き、ハイペリオン巡礼の意味や理由、その謎を示してきた。しかし、「ハイペリオン」では、謎は謎として描かれ、シュライクや時間の墓標、宇宙の蛮族アウスターがハイペリオンを襲う理由やAI群テクノコアの目的などが語られることはなかった。
 本書「ハイペリオンの没落」は、巡礼達の視点を離れ、転移ゲートで結ばれた連邦の惑星社会と、それに襲いかかるアウスターの脅威、それに立ち向かう連邦軍との戦争、テクノコア内部の対立などが描かれ、そのなかのひとつの焦点として、巡礼達がその後、どのようになっていくのかが描かれる。
 語り手は、神の視点を持つが、語り手自身にもその理由さえ分からないままに、語り手は、ほぼすべての物語を語る。語り手を含め、前作で広げるだけ広げられた謎は、本書「ハイペリオンの没落」の後半で一気に語られていく。
 そのスリリングさ、まさしくセンス・オブ・ワンダーである。
 前作「ハイペリオン」よりも、よりアクションSFであり、個の戦いから宇宙艦隊の戦い、知略なども楽しむことができる。
 さあ、時間の墓標が開くぞ。シュライクが出てくるぞ。終わりなき苦痛に身をよじるぞ。登場人物はひとりずつ試され、判断し、苦しみ、また、許され、許し、泣き、愛し、ある者は死に、あるものは英雄となり、あるものはひっそりと消える。
 読み終わった後には、すっきりした爽快感が残される。
 それは、望む未来ではないが、その未来にも希望がある。
ローカス賞受賞作品
(2007.7.20)

ハイペリオン

ハイペリオン
HYPERION
ダン・シモンズ
1989
 20世紀のSFを集大成する作品、SFのすべて、SFを読み続けたご褒美…。最大の讃辞をもって迎えられたのが本書「ハイペリオン」をもってはじまった「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の4部作である。
 ハードカバーが平積みされていたものなあ。とはいえ、私が買って読んだのは2000年に文庫化されてからのことである。最近の小説では文庫とハードカバーの価格差がそれほどなくなったので、ハードカバーを買ってもいいようだが、どれほど賞賛されていても、なかなか初物の作家は買いにくいのだ。
 しかし、間違いなく、本書「ハイペリオン」と「ハイペリオンの没落」は傑作である。
 傑作の前に、言葉はなくなり、ただページをめくるだけである。
 時は28世紀。地球は失われ、人類は宇宙へと拡散した。最初は、超光速のホーキング駆動量子船によって、惑星を開拓していった。やがて、人類から独立したAIのサポートによる転移ゲートによって植民星同士が結ばれ、人々は日々あたりまえに星から星を渡り歩くようになった。転移ゲートさえあれば、夕食に別の星のレストランに行くことも、毎日、家から別の星の職場に行くことも簡単である。金持ちは、ひとつの部屋にいくつもの転移ゲートを設けて、星をまたぐ広い部屋で景観を楽しむことさえした。
 いまだ転移ゲートの設けられていない辺境の星ハイペリオン。そこには、他のいくつかの植民星に見られるような人類以前からの遺構があった。エントロピーに逆らい、時に逆らって存在する「時間の墓標」は、科学者、宗教者、詩人らを呼び寄せてきた。
 人類の連邦は、人類から分かれて進化した蛮族種属であるアウスターが、ハイペリオンを侵攻する情報を確認する。時を同じくして、この「時間の墓標」が開きはじめる兆候があるという。そこには、シュライクと呼ばれる無敵の殺戮者が封じられているという。
 この内外の危機の中、連邦、シュライクを苦痛の神として奉じるシュライク教団らの思惑から、7人の選ばれし者がハイペリオンへの巡礼の旅を命じられる。彼らはそれぞれに、「時間の墓標」を目指す理由を持つ者たちであった。
 ふたりの宗教者、ひとりの兵士、ひとりの詩人、ひとりの私立探偵、ひとりの研究者、そして、ひとりの元ハイペリオン領事の7人が、戦争の予感にふるえ、殺戮の恐怖におびえる惑星ハイペリオンに降り立ち、巡礼の旅に出る。そして、その途中で、ひとりずつ、自らとハイペリオンのつながりの物語を語る。
 その物語ひとつひとつが独立した美しい、心躍る、心を打つ、夢のような、物語である。
 すべての物語が、ひとつにまとめあげられ、滅びの予感の中に、人間の物語がある。
 最高のエンターテイメントであり、物語であり、ミリタリーSFであり、人工知能やサイバー空間のSFであり、時間SFであり、泣けるSFであり、笑えるSFであり、冒険SFであり、ハードボイルドSFであり、エコロジーSFであり…。ああ、もう。
「スターウォーズ」「マトリックス」「ブレードランナー」「ハムナプトラ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」、そういったSFXやCGたっぷりの映画のような興奮、楽しさも満載なのに、きちんと現代文学しているところもある。
 ま、飽きないから読んだ方がいい。
 そうそう、忘れずに「ハイペリオンの没落」は用意しておいた方がいい。
 本作「ハイペリオン」と「ハイペリオンの没落」は対になっている作品であり、一連の流れで読んだ方がより楽しめる。
 損のない作品であることだけは請け合える。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞
(2007.7.20)

ゴールデン・エイジ2 フェニックスの飛翔

ゴールデン・エイジ2 フェニックスの飛翔
THE PHOENIX EXULTANT
ジョン・C・ライト
2003
「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」に続く3部作の2作目にあたる。1巻では、主人公フェアトンが、自分は何者で、この世界に何を忘れているのかを探す自分探しの旅であった。自分探しといっても、きゃつは3000歳にもなるのだ。
 知性と記憶と肉体はデータ化することができ、死の概念がほぼ意味をなさなくなり、バーチャルとリアルの境目が失われ、人類と人類から変容した太陽系星人と非人類知性体(AI)の境目も失われ、人類以上の知性体が真の世界を必要に応じてコントロールする、そんな未来の太陽系。2巻の舞台は、一度は生態系が破壊されかけた地球。ほぼ何もかもを奪われたフェアトンは、死すべき人間として地球に追われた。
 2007年の日本で言えば、携帯電話とパソコン(インターネットも)とテレビとカーナビと地図と家とお金を奪い取られた上で、「この者に接すること能わず」というレッテルを体中に貼り付けられた状態で東京のど真ん中に放り出された状態みたいなもんだ。ミクシィもセカンドライフもアクセスできない。2ちゃんねるだって読み込めない。メールも使えない。存在証明さえできない。医療機関にも入れない、もちろん警察には相手にされない。
 あなたは、生きていけますか?
 なかなか辛いなあ。
 いや、たとえばフィリピンの山の中に入れば、そこには集落があって、食べることも寝ることもできる。携帯電話を持つ者や、車に乗る者がときおり訪ねてくるほかは、電気もガスも水道もない生活がある。ほぼ自給自足。お金が必要になれば、何かを売るしかない。売るものを見つける、あるいは育てて収穫する、加工する。そういう場所はこの地球上で今でもいくらでもある。それでも、その人達でさえも、売るものを売りに行って、中国産の安い農産物のために今までよりも安くしか売れずに困る、なんていうことが起きたりする。それがグローバリズムということである。情報化とグローバリズムが進むと文化的な差異に対する価値が変わっていく。伝統的な文化を固定化して極端に尊重、崇拝していく者、あるいは逆に、伝統的な文化そのものを否定していく者が現われる。自然環境や生態系に対しても同様である。極端な形である固定化した時点を保護、尊重、崇拝する者もあれば、変容こそを求め、その価値を否定する者が現われる。
 そういう極端がなんども循環しながらも、情報化が肉体や精神にまで及んだ社会が、本書の舞台となっている。
 地球の自然環境でさえ、あるAIによって「自然に」管理されているのである。
 すべての生物、風、気温、太陽からのエネルギー、それらと、ナノマシンなどの総和がひとつのAIを形作り、同時にそれをコントロールする。
 そこにおける自然とは何だろう。
 そんなことをつらつら思いつつ、舞台設定が分かるようになっただけに読みやすくなった2巻をさらっと読んでしまった。読んだことさえちょっと忘れていたほどに。
 生活のほぼすべてが情報化された世界で、ほんのわずかな非追放者が生きていける唯一の場所に逃げ込み、そこからなんとかはい上がるべく知恵と技術をふるいはじめるフェアトンは、果たして自分の世界に戻れるのか?
 ま、戻れないと、3巻がないわけだから戻れるのだろうけれど、どのように戻るのかが問題なのだ。
(2007.06.30)

遠き神々の炎

遠き神々の炎
A FIRE UPON THE DEEP
ヴァーナー・ヴィンジ
1992
 遠い遠い未来、遠い遠い銀河系のはずれ。人類は銀河外縁の宇宙に進出し、他の宇宙航行種属などと接触、光速に制約されない移動と通信を手にして、「超越」種属入りをめざしていた。「超越」それは、情報の処理と収集の極度な高度化によって、物質的にも情報的にも高位の存在になること。各宇宙種属にとってそれは究極の進化である。
 人類の進出エリアのもっとも果て、超越した神仙のエリアに接する際涯圏のはずれで人類は宇宙規模のパンドラの箱を開けてしまった。封印されていた存在が人類の隔離処置をものともせずに復活し、開放した人類を飲み込み、そして、宇宙に災厄をもたらそうとした。
 しかし、封印されていた災厄の中には、そのワクチンとも言える存在も含まれていた。その存在は、人類に警告し、そして、脱出をはかった。冷凍睡眠の子ども達と科学者一家族が、その存在を連れて際涯圏のもっとも底、光速に制約されるぎりぎりのエリアにあるある未知の生存可能惑星に降り立った。そこは、宇宙文明との接触経験がない知的生命体が支配する惑星であった。集合することで個体同士が同期しながら情報を交換し集団が1個の個性として知性を発揮する集合知性生物の住む惑星で、生き残ったふたりの子どもたちと、ロケットに隠された存在。
 災厄の進展の中で、ひとりの人類の女性と、移動マシンとともに知性を獲得した植物体のスクロードライダー種属の夫婦、そして、超越体によって生み出された人類の男の4人が、このふたりの子どもを救い、災厄を止める方法を求めに出た。
 世界は、宇宙的なインターネット上のメーリングリストで情報を交換し、彼らの動きを追う。
 中世世界のような集合知性生物の星に降り立った文明世界の子どもたちは、その世界の権力争いに飲み込まれていく。そして、冒険がはじまる。
 宇宙的な災厄は、文明世界の人類の女性を、思いがけない高度な宇宙知性との戦いに飲み込まれていく。そして、冒険がはじまる。
 宇宙規模のバーチャルではないバーチャルリアリティ的な作品である。
 なにもかもが詰め込まれていると言ってもいい。
 ファンタジーも、サイバーパンクも、スチームパンクも、スペースオペラも、サバイバルも、パニックも。  デイヴィッド・ブリンの「知性化シリーズ」とも似たところがあるが、物語のまとまりと風呂敷の大きさでは、本書「遠き神々の炎」に軍配を上げたい。
 こういうおもしろい作品については書くことはあまりない。
 希望を言えば、映画ではなく、50回シリーズのテレビドラマかアニメで見たい。そういう映像化が可能な要素に満ちている。ヴィジュアルな作品なのだ。
 うん、読もう。もう一度、10年後ぐらいに。
ヒューゴー賞受賞作品
(2007.06.30)

悪魔のハンマー

悪魔のハンマー
LUCIFER’S HAMMER
ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネル
1977
ハムナー・ブラウン彗星。ティモシー・ハムナーとブラウン少年がほぼ同時に発見した彗星である。ティモシー・ハムナーは、金持ちで、企業オーナーで、そして、自分の天文台を持つ天文マニア。しかし、やがてその彗星は、ハンマー・ブラウン彗星、やがては、ただハンマーと呼ばれるようになる。
彗星は、地球の近くを通ることが予想された。冷戦の時代、アメリカとソ連は、互いに協力して中断していた宇宙開発を緊急再開、アポロとソユーズを打ち上げてドッキングさせ、共同観測を行うことにした。
1月に確認され、6月に再接近が予想された彗星について、ハムナーは、自らの財力と企業のスポンサー力を通じ、宇宙への関心を高めようと番組を企画し、放送する。人々は期待し、そして、あるものは地球への衝突をおそれ、あるものはそれを嗤った。
そして、多くの人々が彗星が来る、来ないにかかわらず1970年代のアメリカを生きていた。
やがて、衝突する確率が徐々に高まっていく。緊張がはしる科学者達。実際に衝突するかどうかは、ぎりぎりまで分からない。
人々は、彗星が近づくにつれ、パニックになり、彗星熱にかかった。キャンプ用具や保存食を買い込み、その日は仕事を休んで高台に避難するものが続出した。それでも、心の中では、本当に衝突するなんて思ってはいなかった。
その日がやってきた。彗星は静かに地球に接近し、そして、海に、陸にそのかけらを落とし始めた。巨大地震、津波、雨、竜巻、雷、そして、太陽の姿は消え、地球の人類文明はほぼ崩壊した。
生き残ったわずかな人々のうち、多くは暴力に頼り生産をあきらめた。一部の人達が、暴力とともに秩序を求め、生き残りとともに将来のための生産を望み、身を寄せ合った。そして、ひとりの郵便配達夫は生き残るために不可欠な情報を届け始めた。
ニーヴン&パーネルの「悪魔のハンマー」は、破滅物SFの代表的な作品を1970年代の空気のままに仕立て上げた作品である。前半はたっぷりと彗星が衝突するまでの平穏な日常と次第に変わる人々の空気を描き、中盤に衝突の結果起こる災害を丁寧に描き、そして、破滅後の人々の生き残りを淡々と描き出している。3冊分の読み応えある作品である。
破滅物と言えば、「地球最後の日」(1932 フィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマー)、「トリフィド時代」(1951 ジョン・ウィンダム)、「渚にて」(1957 ネビル・シュート)「黙示録3174年」(1959 ウォルター・ミラー)、「放浪惑星」(1964 フリッツ・ライバー)などなど、古典的名作が次々と浮かぶ。おおよそ3つに大別できて、自然災害、宇宙からの侵略、そして、核戦争などの人類による自滅である。
本書「悪魔のハンマー」は、自然災害ものの典型で、事前事後を描き、パニック物、サバイバル物を合わせたような作品となっている。
本書を際だたせているのが、これは、ニーヴンの特徴でもあるのだが、徹底した科学技術力に対する信頼と宗教などの科学技術力に対して「迷妄」なとらえ方をすることに対する嫌悪感である。他の作品に見られるようなぎりぎりの状態での人間の「祈り」に似た感情はあまり評価されず、家族や友人、知人、あるいは見知らぬ人への、合理的な行為のみが感情を含んで描かれるだけである。それをどう見るかによって、とりわけ後半のサバイバル部分についてどう読むか、読めるかが変わってくるだろう。
いずれにしても、その後の破滅物SFにも大きな影響を与えたに違いない本作品、たとえば、実際にはどうか知らないが、「悪魔のハンマー」で活躍した郵便配達夫は、「ポストマン」(1985 デイヴィッド・ブリン)で世界を変える働きをする。こういうたくさんの要素を提示しているところに、本書「悪魔のハンマー」は古典の資格が十分にあるだろう。そして、本書の中のエピソードとして登場するたくさんのSF作品の名前に、ときめいてしまうのもうれしいことだ。ま、ニーヴンの代表作「リングワールド」が入っているのはご愛敬ということで。
(2007.6.30)