ホワイト・ライト

ホワイト・ライト
WHITE LIGHT
ルーディ・ラッカー
1980
 りんりん。ラッカーのデビュー長編だぜい。原題は、「ホワイト・ライト、あるいはカントルの連続体問題とは何か?」だってさ。処女長編は「時空ドーナツ」なんだけど、出版されたのはこっちのが先だ。舞台は1973年10月31日、ニューヨーク州バーンコ。主人公は、ある世界ではルーディ・ラッカーかもしれない州立大学数学講師のフィリークス・レイマン。幼い娘と愛しいが喧嘩ばかりの妻、高等数学にはまったく興味のない学生、何の楽しみもない田舎町…。彼は無限について考えていた。
 無限には何種類もある、らしい。
 私が住んでいる狭い世界観の中では無限は無限にすぎないのだが、もっと大きく(あるいは小さく)世界を広く広くとらえていくと、無限は様々な顔を見せはじめる。
 無限のありさまについてカントルの連続体問題は何かを言っているらしいよ。
 そのことを解き明かしたいレイマン君は、ちょっとぼんやりさん。
 ある日、墓場で軽くあっちの世界に行ってしまう。
 そこでゴキブリのような別世界人を道連れに旅をしたり、アインシュタインやカントルやヒルベルトにも出会ったりする。そうして、なんとかこっちの世界に帰ってきた彼は、あっちの世界で得た無限の操作によって、世界を変える超物質を生み出す力を得たのだった。って、こう書くとなんかテクノSFっぽいでしょう。んなわけあるかい。
 ま、とにかく無限だよ。
 なんとなく、無限ってすごいなあ、とか、数学って変なことやっているなあ、とか、そういうことがわかったような気になるところが、ラッカーのおもしろさ、さ。
 そうそう、家族はやっぱり大切だよね、っていう話でもあったりする。
 べいべい。
 追記 ラッカーはスタニスワフ・レムの「泰平ヨン」シリーズがお気に入りだったようです。本書「ホワイト・ライト」文中にちょっとだけ出てくるのだ。
(2007.1.27)

宇宙創世記ロボットの旅

宇宙創世記ロボットの旅
CYBERIADA
スタニスワフ・レム
1967
 本書「宇宙創世記ロボットの旅」は「今はむかし、宇宙にはまださしたる乱れもなく、星はみな、満点に整然とならんで」いたころ、全能の資格を持った宙道士クラバウチュスとトルルが宇宙を旅して世界の諸問題を解決する物語である。「今はむかし」といっても、現世の我々人間にとっては遠い未来。すでに有機体の生命はなく、機械知性が進化の後に宇宙に満ちている時代のことである。
 機械知性=ロボットの星々、国々にもさまざまな王がおり、さまざまな問題を抱えている。戦いにあけくれる王、敵国の皇女に恋をした王子、かくれんぼに凝ってしまった王に、強力な獲物を狩ることばかりを追求する王、存在が高度に数学的な竜に悩む国もあれば、革命で星を追われた王もいる。この難題に取り組み、あれよあれよと解決するのがこのふたりの全能なるところである。
 1976年にハヤカワSF文庫となった短編集。
 私がもっとも好きなのは、「番外の旅」のひとつ「コンサルタント・トルルの腕前」である。平和に暮らしていた鋼眼機族のもとに機械獣がいすわってしまう。どんな兵器でも追い払うことができない機械獣を倒すのにトルルが所望したものは「紙とインク、スタンプ、丸い印章、封蝋、クリップと画鋲は入り用なだけ、受け皿とスプーン--というのは、お茶はもうもってきていただきましたからね--それから郵便配達人、それだけです」ときたもんだ。
 このロボットたちのおとぎ話から、社会批判などを読み取るのもよい。あまりに人間くさい機械たちを楽しむのもよい。とにかく、おもしろいことだけは請け合える。
 スタニスワフ・レムは、難しい作品ばかりを書いているわけではない、軽いタッチのコミカルな作品も数多くある。しかも、しっかりSFしている。
 古いからと忘れ去るにはもったいない作品である。
 ぜひ。
(2007.1.26)

悠久の銀河帝国

悠久の銀河帝国
BEYOND THE FALL OF NIGHT
アーサー・C・クラーク & グレゴリイ・ベンフォード
1990
 アーサー・C・クラークの処女長編「銀河帝国の崩壊(AGAINST THE FALL OF NIGHT)」の「続編」をグレゴリイ・ベンフォードが共著という形で発表したのが本書「悠久の銀河帝国」である。「銀河帝国の崩壊」は、その後、アーサー・C・クラーク自身の手によって「都市と星」として生まれ変わった作品であるが、名作として名高い「都市と星」以降も「銀河帝国の崩壊」は売れ続けた。そして、「続編王」ベンフォードがクラークを口説き落とし、この処女作「銀河帝国の崩壊」の続編が発表されるに至ったのだ。本書は、前半が「銀河帝国の崩壊」そのもので、後半がベンフォードによる「続編」部分である。
 前半の「銀河帝国の崩壊」については、すでに再読しているが、今回ももちろん読み直した。奇しくも2年前の1月頭に読んでおり、2年ぶりの再読であるが、ざる頭の私は翻訳者が違うこともあり新鮮な気持ちで読むことができた。
 そうして気持ちをクラークの世界に入れておいての続編である。
 遠い遠い未来、変わり果てた人類、変わり果てた宇宙。人類を中心とした未来の知性たちが黒い太陽に狂った頭脳を閉じこめていたのだが、アルヴィンが警告を無視して宇宙に飛び立ったことが影響して、狂った頭脳がいましめを解き放ち、再びこの宇宙に還ってきた。地球というほろびゆく星に自ら閉じこもり、永遠の生命を細々とつないできた人類に反して、宇宙は生命に満ちていた。アルヴィンの手によって復活させられた旧人類の女性クレイと、やはりアルヴィンの手によって復活させられたもののアルヴィンには計り知れない世界を知るアライグマ型の知性動物シーカーが、狂った頭脳による未曾有の生命の危機の鍵を握る存在として命をかけた戦いに赴くのであった。
 地球にはびこる不思議な生き物たち、様々な知性体、半知性体、宇宙空間に満ちた不思議な生き物たち。動物、植物、移動能力を持った植物、菌類、電磁的な生命、壮大な生態系を持つ群体的生命…これでもか、これでもか、とベンフォードが自由に筆を走らせている。
 重力のくびきを逃れ、空間的な制約のくびきを逃れた生命が、どのような発展をとげることができたのか、さあ、あなたも、遠い、遠い、人類中心主義とはほど遠い世界に足を運んでみてはいかが。
 と、ここからは深いネタバレを含む話になるので注意。
 アイザック・アジモフがファウンデーションシリーズで、究極の知性体として「ガイア」的なものを示したが、ベンフォードも、本書「悠久の銀河帝国」において、「ガイア」的な統合的知的生命体による宇宙の姿を示す。これは、80年代後半からのSFのひとつの特徴である。カール・セーガンによる「コスモス」おける核の冬仮説や、ジェームズ・ラヴロックによる「地球生命圏」のガイア仮説、あるいはそれ以外の地球規模の環境変動や生態系の関係性への理解によって世界や生命への視点が変わり、このようなSFがしきりと書かれるようになった。
 90年代後半以降は、地球環境問題が現実の政治・経済・科学における重要な課題となり、SFでは一定の位置づけを残しながら情報の集積と知性の位置づけに関心が寄せられるようになった。エコロジーSFは、「うんざり」されるようになったのである。
 本書もまたそんな80年代末に書かれた作品ではあるが、そこに展開される具体的で不思議な魅力あふれる生命たちの活写が、エコロジーSFとは一線を画したものとなっている。
 考えてみれば、クラークの「銀河委帝国の崩壊」は「都市と星」よりも率直に人類のあり方に対して哲学的な視点をみせた作品であった。ベンフォードは、その「人類のあり方」を「生命のあり方」にまで拡張し、思考実験をした。それこそが、クラークが続編として望み、認めた理由ではなかろうか。
(2007.1.15)

星屑のかなたへ

星屑のかなたへ
ALIFE FOR THE STARS
ジェイムズ・ブリッシュ
1970
 ジェイムズ・ブリッシュの「宇宙都市」シリーズ第2弾で、唯一のジュブナイル作品。しかも、「宇宙都市」4作品のうち最後に書かれた作品で、3作品をつなぐファンにはたまらない作品、らしい。
 いや、私はここまでしか買っていなかったのだ。本書は、ハヤカワ文庫SFとして、昭和53年(1978年)に邦訳出版されている。13歳の秋、中学生だなあ。貴重なおこづかいを使っていたので、1冊1冊吟味して買っていたのである。ということで、本書「星屑のかなたへ」を読んだ後、次を買うことができなかったのだ。当時の私のランキングとしては。
 しかし、今、歴史的に振り返ってみて、この「宇宙都市」シリーズは、SFに大きな影響を与えている。先日読んだ「移動都市」(フィリップ・リーヴ 2001)などは、都市がエンジンとキャタピラをのせて走り回り、都市を食い合うのだが、本書では、地球の都市が次々と宇宙に出て行き、宇宙に広がっていく物語である。宇宙人に都市ごととらえられる「マンハッタン強奪」(ジョン・E・スティス 1993)なんていうのもある。都市ごと移動するというのはすごいイメージなのだ。宇宙戦艦ヤマトでも第二作の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の白色彗星都市なんていうのもこのイメージだなあ。  ところで本書「星屑のかなたへ」だが、紀元3千年代、地球に大きな都市は残っていなかった。今や数少なくなった小さな都市も、地球を去り、放浪都市になろうとしていた。ペンシルバニア州スクラントン市も加工する資源を失い、宇宙に活路を求めて地面ごと旅立とうとしていた。その旅立ちを眺めていた16歳の少年クリスピン(クリス)・ディフォードは、境界を越えたところでスクラントン市のパトロールにつかまり、強制収容される。元経済学者の父を持ちながらも十分な教育を受けることができなかったクリスは、趣味の天文学を生かし、なんとかスクラントン市で学者の助手としてもぐりこむことができた。そして宇宙で、巨大都市ニューヨークとスクラントン市が邂逅し、クリスはニューヨーク市に引き渡されてしまう。そこでクリスは新たな冒険を経て成長していくのであった。
 典型的な少年成長の物語であり、まさしくジュブナイルである。
 壮大な未来史、壮大なイメージ、鶴田一郎による表紙は、青い地球の空を背景に、都市が地面から空に向かって今にも浮かぼうとしている。その異様さ。おもしろいのになあ。
「地球人よ、故郷に還れ」「時の凱歌」をどこかで探して読んでみたいなあ。

光のロボット

光のロボット
THE ROD OF LIGHT
バリントン・J・ベイリー
1985
 1974年に発表された「ロボットの魂」の続編が11年後の1985年に発表される。主人公は、世界で唯一、意識を持つロボット・ジェスペロダス。かつては新帝国の要職を務めた身であるが、現在はロボットを排斥するボルゴル陣営を避けながら自由ロボットの世界を築きつつ、考古学者として過去の歴史や技術を発掘、研究している。
 そこに、世界最高の知性を持ち、ロボットに意識を持たせることができるであろうと宣言するロボット・ガーガンがあらわれる。ガーガンは、ロボットこそが世界を引き継ぐものであり、物質と意識を統合することができる存在であると確信している。
 果たして、ロボットに意識を持たせることができるのか? そして、人間はロボットによって支配される存在になるのか?
 自分に意識が備わっていることを隠しながら、ロボット・ジェスペロダスは人類とロボットの間で苦しむ。
 前作では、ロボットを用いて意識とは何かを問いかけたが、本書のテーマは明確に書かれている。
「ロボットたちは人間の魂を盗みはじめるだろう…人類が超意識を持つ機械システムの奴隷となった未来を想像することができる。人間の魂を収穫するためのみに生かされている未来」(180ページ)
 80年代を象徴するようなテーマである。人工知能についての関心が高まり、研究されることで、人間の「意識」についての科学的研究や大脳の働きについての研究も深まった。そして、人工知能に「意識」がやどる可能性について多くの人たちが関心を寄せ、それが芸術、文化にも影響を与えはじめた時期である。日本で言えば、これよりさかのぼるが漫画や映画で一大ブームとなった「銀河鉄道999」は、「機械人」対虐げられる「生身の人間」の対立軸として描かれていたし、何度も書いているが映画「ターミネーター」は人工知能による「マシン」の「人間」への殲滅戦であり、映画「マトリックス」は人工知能により「マシン」が「人間」を収穫するものとされている。
 本書「光のロボット」では、遠い未来の設定としてロボットと人間の対立が描かれ、そこに「意識」が重要な要素となっている。それを、ベイリーは、ゾロアスター教の光と闇の対立に重ね合わせ、精神と物質の戦い、終わりなき戦い、世界の二元的戦いとして描こうとする。このあたりに無理はあるのだが、時代の空気を感じる表現である。
 もちろん、本書「光のロボット」は、前作同様、物語は楽しく、おもしろい。今回は対人間ではないが、ロボット・ジェスペロダスが戦いの中でいくつもの旅をして、いろんなロボットと出会い、会話し、考えていく。その様がよい。ジェスペロダスはこの世界には他に存在しない意識を持つロボット、すなわち人間的要素とロボット的要素を兼ね備えた存在であり、その意味で影の王と言ってもいい。その永遠の生命を持ち、人間とロボットの将来を憂う王が、旅をして世界を少しずつ変えていくのである。これこそ物語の王道、ファンタジーで語られる王道ではないか。安心して読める作品である。
(2007.1.5)

ロボットの魂

ロボットの魂
THE SOUL OF ROBOT
バリントン・J・ベイリー
1974
 2006年最後に読了したのは、本書「ロボットの魂」で、12月31日現在、続編の「光のロボット」を再読中。いずれも、創元SF文庫から1990年代前半に邦訳出版されたものである。ロボットと言えばアシモフ、ロボットと言えば三原則という時代を抜けて、いよいよロボットが様々な形をとりはじめてきた21世紀初頭。ホンダのASIMOは着実に進化し、ロボットバトルやロボットコンテストの技術レベルは上がり、Impress社のIT関係のニュースサイトでは、Robot Watch が創刊され、日本におけるロボットは研究対象、ホビー対象から、徐々に実用に向けてビジネスの領域になってきている。
 そこで、今から30年前に執筆された本書「ロボットの魂」である。
 高度に「知性」を有したロボットには「意識」が芽生えるのであろうか? それとも、その知性に基づく判断や行動の背景に「意識」は存在せず、ただシミュラクラでしか過ぎないのだろうか?
 1体のロボット・ジェスペロダスは、生まれながらにして自分に「意識」があることを自覚し、それが本当の「意識」なのか、それとも、それすら思考ゲームとしてのシミュラクラに過ぎないのかを悩む。ひたすら悩み、問いかけ、自問自答する。
 そんな風に書くと、何か小難しい哲学めいた作品のようである。
 実際、訳者あとがきと別に東大の哲学科助教授が解説をつけているような作品である。
 しかーし。かーし、かーし、かーし。
 作者は、バリントン・J・ベイリーである。
 エンターテイメント色あるストーリーをきっちりと仕込んである。
 時は未来、一度人類の文明が崩壊した遠い未来である。旧帝国であるテルゴフ治世の崩壊から8世紀が過ぎ、その間、地球規模の組織された政治的秩序は存在しなかった。今また、失われた技術のかけらから、小さな新帝国が勃興し、「大小さまざまの国家、王国、公国、君主領、荘園があちこちに点在するパッチワーク」(13ページ)を治めようとシャレーヌ大帝が野望をいだいていた。
 ジェスペロダスは、農地に恵まれた片田舎で高名な師に学んだロボット師とその妻により、生み出されたカスタムメイドの人間型高性能ロボットである。スイッチを入れられるとすぐに状況を把握し、産みの親のロボット師から離れて、ひとり世界に旅立つ。そして、彼の知性と魅力で権力を握っていくのであった。
 このジェスペラダスってば、もちろん、冒頭に述べたように自分は何者か、意識を持つのか持たないのかにずっと悩んでいるのだが、同時に、権力欲に満ち、性欲におぼれ、世界を救いたいという欲と自らの欲の間で蠢くマキャベリストであったりもするのだ。
 ということで、ストーリーは、「ロボット」でなく「超人」や「超能力者」「ヒーロー」ものの典型である。その傍流として、ロボットが存在する人間社会の状況というテーマが展開する。ベイリーのロボットは、三原則なんて積んでいない。あっさりと殺人を犯したりする。ロボットへの命令やロボットが持つ論理が適切ならば、当然殺人は起こりうる。ロボットは罪の意識を持つわけではないからだ。アシモフのロボットのように楽天的なロボットたちではないし、人間たちでもない。世界は崩壊し、人々は日々の暮らしに苦労しているのだから。
 この1974年に発表された「ロボットの魂」、続編として1985年に書かれた「光のロボット」の間に、1984年公開の映画「ターミネーター」(ジェームス・キャメロン)があり、その後の1999年公開の映画「マトリックス」(ウォシャウスキー兄弟)がある。
 詳しくは「光のロボット」再読後に書いてみたいと思うが、この4作品には共通するものがあり、それは、人間と機械の支配権争いという構図である。「ロボットの魂」では、その危険性や可能性について触れられているだけであるが、「光のロボット」になると、その対立構図は明確になる。これらの作品の背景にある社会的な心理というものは実に興味深い。
 哲学入門としても、軽いロボット物エンターテイメントとしても、それから、人間と機械との関係について考える作品のひとつとしても、おすすめしたい良品のSFである。
(2006.12.31)

大いなる復活のとき

大いなる復活のとき
RECLAMATION
サラ・ゼッテル
1996
 遠い遠い未来の物語である。
 すくなくとも百万年以上未来の話である。
 宇宙船の船長エリク・ボーンは、ヴィタイ属の大使から緊急の呼び出しを受けた。ヴィタイ属は、コンピュータシステム技術や遺伝子操作技術などの高度な科学技術によって他の人類種属などに欠かせない存在であると同時に、自らの社会を秘密にし、他種属との接触を極力避ける一大勢力種属であった。そして、ヴィタイの大使の奸計で、エリク・ボーンは、自らがかつて逃げ出した世界である「無名秘力の施界」(MG49サブ1)の不触の女に会うこととなる。自分以外出るはずのない世界から来たこの女は、なぜ連れてこられたのか? 彼女の意志なのか? それとも陰謀なのか?
 エリク・ボーンと不触の女アーラの存在は、ヴィタイ属、ヒト科再統一同盟、非ヒト科であるシセル異属、そして、世界から隠されていた施界の人々をも巻き込んでいく。
 ヴィタイ属が求める失われた故郷は、施界のことなのか? 施界の人々と施界にはどのような力があるというのか? 宇宙の権力争いも相まって、争乱に巻き込まれていく人たち、異星人たちの姿を描く。
 ちょっと変わったロボットやAI、世界に適応するよう、あるいは、いくつかの目的で遺伝子操作されたヒトの末裔、独自の言葉と宗教と世界観を持つ社会(惑星)と、宇宙に進出した社会の規範の違い、ネットワークとハッキング、超能力、ファンタジーと見まがうばかりの独自の用語体系の数々。そして、処女作特有の「でこぼこ感」がいい感じにまざりあい、さらに邦訳時の言葉の置き換えによる意味の変化の問題も重なって、おもしろさを実感するための苦労が欠かせない。できれば、数日間心を落ち着けて、余裕をもって読み進めるのがよい。毎日ちょっとずつ、電車の中で読んだり、数日あけて再開していると、何が何だか分からなくなってくるからだ。もちろん、記憶力のしっかりした人ならば問題ないだろうが。
 とにかくとっつきにくい。どこに視点を置けばいいのか、それすら定まらないからである。本書「大いなる復活のとき」の帯の釣り文では、「ヴィタイ属の陰謀を阻止せよ」(下巻の初版帯)なんて書いてあり、最初からヴィタイ属=悪なんて読めなくもないし、実際、結構種属としてはあくどいのだが、本当に「悪」なのかは、読み手の判断によるだろう。
 壮大な宇宙史的物語であることは間違いない。
 なんといっても、みんな変化してしまっていて、感情移入がしにくいのである。
 それでも、おもしろいと言えるのは、その設定の緻密さによるところが大きい。
 なかでも、ヴィタイ属の社会や、施界の環境、社会、人々などは、きちんと構成してあり、それだけでも大したものである。主人公のトラウマや行動の背景もていねいにしようと心がけている。
 壮大な宇宙史的物語を読みたいという方や、独自の用語がいくら登場しても記憶力の面では困らないという方にはおすすめの作品「大いなる復活のとき」である。
 ローカス賞受賞作品
(2006.12.23)

明日への誓い

明日への誓い
ENGAGING THE ENEMY
エリザベス・ムーン
2006
「栄光の飛翔」「復讐への航路」に続く、「若き女船長カイの挑戦」シリーズ第3作である。2006年に発表され、11月には邦訳されて店頭に並べられた。本文が650ページ近い大作を発表と同じ年に日本語で読めるのだからたいしたものである。
 さて、惑星スロッター・キーに本拠を置く宇宙運送会社の経営一族であるヴァッタ家は何者かに襲撃され壊滅的な打撃を受けた。一方、宇宙では惑星間の同時通信を可能とするアンシブル通信施設が各星系で破壊され、宙賊が宇宙航路の平和だけでなく、各星系の平和をも乱しはじめていた。アンシブルが不通となった星系の情報は錯綜し、本当に宙賊に襲われているのか、それとも星系が無事なのかさえもわからない。比較的平穏な星系の人たちも疑心暗鬼にかられている。そんな時代の変化を予感させるときが訪れていた。
 ヴァッタ家の生き残りである若き女船長カイ・ヴァッタは、宙賊の連合体に対抗し、ヴァッタ家を再興させるために奮闘をはじめる。一方、カイの従兄弟のステラは、美貌と天性の交渉能力を生かして、彼女なりにヴァッタ家の再興に力を注ぐ。アンシブルが不通となり、攻撃を受け続けるスロッター・キーのヴァッタ家を支えるのは、グレイシーおばさん。昔とった杵柄で、孤軍奮闘をはじめるが…。ということで、3人のヴァッタ家の女たちがそれぞれの性格と能力と知恵を生かして生き残りのための戦いをはじめるのであった。
 本書「明日への誓い」のような正統なスペース・オペラを読むと、ときどき、「舞台を未来の宇宙に移しただけじゃないか!」と思うときがある。なぜかといえば、人間そのものは変化していないからである。このシリーズでもサイボーグが出てきたり、主要人物は脳の機能を拡張させるインプラントを装着しているが、それで人間の質が変わるわけではない。現代の人間と価値観を変えているわけではない。三国志などと変わりはない。
 もちろん、それはそれでいいのだ。
 今の人間とあまりにかけはなれた精神や行動では、読者は限られてしまうからである。だから、そういう存在を出す場合には、対象として現在の人間の行動規範と同じような存在を出し、その存在を通じて物語との接点を持たせることになる。
 物語としては、基盤となる行動規範は現在の人間と共通の方が分かりやすい。分かりやすい物語は受け入れやすくなる。ということで、この手の物語が受け入れやすいのだから。
 そして、受け入れやすい物語を通じて、いくつかの技術や新しい知見を読者に拡張させることができるのである。それが物語の役割であり、機能でもある。
 と、突然物語論をはじめてしまったが、それほど高尚な話ではない。
 本書「明日への誓い」は、楽しく、心躍る、ミリタリーSFである。ミリタリーと書くと何か好戦的なようだが、三国志と同じような「国盗り」物語である。宙賊という「敵」に一族を滅ぼされた主人公が仲間を募りながら、乱世を乗り越え、敵を追いつめるとともに、世界を変えていく物語である。そして、予定では本編が5冊となっており、その3冊目にあたる本書は、ちょうど真ん中、起承転結でいえば、承と転の間にあたる。そういう気持ちで読めば、いよいよ物語が壮大になってきたことをうかがわせる。
 ここまで勢いで読んできたので、引き続き、コンスタントに発表していただき、翻訳していただき、安心して読み終えることを期待する。
 カイ、がんばれ! ってなもんだ。
(2006.12.23)

タイタンの妖女

タイタンの妖女
THE SIRENS OF TITAN
カート・ヴォネガット・ジュニア
1959
 ウインストン・ナイルス・ラムファードが愛犬カザックとともに火星にほどちかい時間等曲率漏斗に飛び込んだ。そして、火星人は地球に攻め入り、地球人は涙した。タイタンに不時着したトラルファマドール星の機械人サロは二十万年以上タイタンにいた。
 本書「タイタンの妖女」は、ヴォネガットの第2長編であり、トラルファマドール人がいよいよ登場する作品である。
 まあ、そんなことはどうでもよい。
 ヴォネガットらしい作品だ。
 明るいフィリップ・K・ディックと言えばいいのだろうか。不条理感はあふれ、登場人物はひどい目に遭いながらも、ディックほどせつなくはない。
 ありゃまあ。
 などとつぶやいて、から笑いしながら読んでいたことに気がつき、読み終えたらちょっと周りを見回して、もう少し気楽にやるか、と、肩の力を抜きながらも、ふと気がつくとちょっと目から涙がこぼれていたりする。そういう作品である。
 これをSFなのか? と問う人も多い。
 SFでなくても書けるかも知れないが、SF的設定、宇宙とか、宇宙人とか、「時間等曲率漏斗」なんて「専門用語」をちらばせることで、私たちは、「己を知る」ことができるのだ。
 人間よ、おのれを知ったらいいんじゃないのかなあ。
 というのが、本書「タイタンの妖女」に限らず、ヴォネガットのどの作品を読んでも感じることである。
(2006.12.14)

3001年終局への旅

3001年終局への旅
3001: THE FINAL ODYSSEY
アーサー・C・クラーク
1997
 1997年に発表され、同年7月には翻訳し、販売された「3001年終局への旅」。早川書房の海外SFノヴェルズとしてハードカヴァーで出され、けっこう売れたらしく私の手元にあるのは1カ月後の第三版である。
 むつかしいことは言うまい。「2001」「2010」「2061」ときて、「3001」である。未来だ。まぎれもない未来である。人類は人類で、地球は地球だが、その様はずいぶん変わっている。しかし、そこはクラークであり、理解不能な人類でも、理解不能な地球でもない。
 そこに登場するのは、「2001年宇宙の旅」で死んだフランク・プール中佐である。ハルの裏切りにより、ディスカバリー号での船外活動で事故にあい、そのまま宇宙空間に放り出された、あのフランク・プール中佐である。彼が太陽系の片鱗で見つけられ、回収され、そして、組成された。その年こそが3001年であった。
 1000年の未来に再生したプールは、私たち20世紀人に31世紀の科学、生活、思考について自らの体験をもってガイドしてくれる。
 この1000年に何が起こり、国家は、宗教は、戦争はどうなったのか? 科学は、何を見つけ、技術は何を可能にしたのか。人々は、何を食べ、何を楽しみ、どう生きているのか。
 もちろん、太陽系の謎、モノリスの謎も忘れてはいない。
 モノリスに取り込まれたボーマンは、どうなったのか。
 太陽系はどうなるのか。
 モノリスを作った存在は、その後、人類と接触するのか、それとも人類をこのまま見守るだけなのか?
 本書「3001年終局への旅」は、老齢となったクラークが、他の作品とは異なり、この作品だけは自分の手で書き上げると宣言し、書ききった作品である。それは、科学と人類に対するクラークの希望であり、メッセージである。
 おそらく執筆中に起きたであろう「オウム真理教の地下鉄サリン事件」も、作品には20世紀の宗教という恐るべき愚行のひとつとして直接的ではないが言及され、現実世界と小説との接点をクラークが見つめていることをうかがわせる。と同時に、さりげなく、スーザン・キャルヴィン博士がマシンプログラマーとして言及されているあたり、遊び心も失っていない。(そう、クラークは、ハインラインよりも、アシモフよりも長生きしている。それゆえの役得である)
 2006年12月現在、クラーク氏は、スリランカにて健在である。2006年12月、スティーヴン・ホーキング博士が人類は、地球での人為的、偶然的な壊滅的出来事による絶滅を避けるため、宇宙旅行と他の惑星の植民地化が必要と、インタビューに答えている。
 クラークの強い意志は、20世紀後半の科学、技術者に動機と意志を与え続けている。
(2006.12.6)