アークエンジェル・プロトコル

アークエンジェル・プロトコル
ARCHANGEL PROTOCOL
ライダ・モアハウス
2001
 アメリカ私立探偵作家クラブ賞受賞! バーン。ハヤカワSF文庫! ドーン。「大戦後の荒廃したニューヨーク。電脳空間に突如現れた天使たち。彼らの目的は!? もと敏腕刑事の美貌の女私立探偵がその謎を追う!」帯の釣り文句で、ガーン。
 ということで、女性のハードボイルド・サスペンスSFを期待し、電脳空間と宗教とハードボイルドといえば、「重力が衰えるとき」(ジョージ・アレック・エフィンジャー)があったなあ、とか、女性の探偵でハードボイルドSFといえば、「ナイトサイド・シティ」(ローレンス・ワット=エヴァンズ)があったなあ、なんて思ってページをめくった。
 お定まりの大戦後のアメリカ。お約束の人格移転するリンクでの存在と、それを絶たれた電脳空間の捜査官。しかも、この世界は、宗教世界と化していて、なんらかの一神教に属していなければ人並みの生活が保障されない状況で、自然科学は放逐され、テクノロジーのみが存在を許されている不思議な状況にあった。2076年、アメリカ大統領選は、グレイ律法博士(ラビ)上院議員と、ルトゥノー尊師(レヴァランド)上院議員との間で争われていた。ルトゥノー上院議員は、リンク上に現れたネット天使の支持を受けた第二のキリストであるとして大いなる支持を集め、リンク世界中心のアメリカ宗教国家への道を指し示す。前年に起きたローマ教皇訪米の際に起きた警官による教皇暗殺事件の影響も受けている。教皇を暗殺した警官とパートナーだったのが、主人公ディードリ。修道士を兄に持ち、女性のテロリスト指導者を幼なじみにする、今や家賃の支払いにも困る私立探偵である。リンクから物理的に遮断され、ロマンス小説を読みながら来るはずのない顧客を待つ女。リンク界ではファンサイトもたくさんある、ヴァチカンに破門された女。その女の前に、ひとりのハンサムな男が訪ねてきて、仕事を依頼する。「リンク天使が偽物であることをあばいて欲しい」と。なぜならば、彼こそが本物の天使なのだから。
 そして、物語がはじまり、ディードリが望むまもなく、彼女の回りで世界が動き始めた。
 最後まで読んで、気がついた。
 しまった。
 最初から、気がついて読めば別の読み方があったのに。
 あとがきを読んでから、読めばよかったのか?
 もっと素直に読めばよかったのか?
 アメリカ私立探偵作家クラブ賞なんてついているから、結末のどんでん返しを想像して、うがった読み方をしてしまったではないか。
 そりゃあね。「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(J・K・ローリング)が2001年のヒューゴー賞をとっているわけで、ファンタジーとSFの垣根が低くなっていることは気がついていたさ。サイバーパンク的なファンタジーがあってもおかしくないさ。
 ただ、「アメリカ私立探偵作家クラブ賞」に、私が勝手にだまされていただけで、この「アークエンジェル・プロトコル」は、まさしくファンタジーなのであった。
 アークエンジェル=大天使は、まさしく大天使であり、ネット天使が偽物であることをあばけと迫るのは当然、本物なのか偽物なのかはともかく天使的存在なのである。
 まあ、ここでSF的であり、ハードボイルド小説的であるのだから、当然「天使」とはなんぞやみたいな迫り方もあるわけで、だからといって、やはり人間でないものが登場し、それが、「異星人」ではない「人間のようなもの」であれば、P・K・ディックの作品ようなシミュラクラでないとすれば、「天使」であってもおかしくはない。だいたい、ディックの名前を出したついでに書いておけば、ディックだって、「ヴァリス」三部作は、読み方によってはファンタジーである。宗教書としても読めるが。しかし、カテゴリーとしてはSFの扱いになっている。それに比べれば、っと、比べる必要はないが、本書は、れっきとしたファンタジーであり、SF的要素も、ハードボイルド小説的要素もたっぷりと仕込まれている。
 最初から、SF&ハードボイルド小説要素たっぷりのファンタジーとして読めば、大正解である。
 それを、「ファンタジーであるわけがない」という頭で読むから、最後の最後まで、「この天使のような存在は何者だろう?」と、非キリスト教、非一神教である私は、頭をひねりながら、そして途中からは「まさか、まさかね」と思いながら読む羽目になったのである。
 ファンタジーならば、ファンタジーらしい楽しみ方はある。
 ファンタジーといっても、たとえば、「ハリー・ポッター」シリーズを読めば分かるとおり、最近のファンタジーは、現代社会とは切り離された「おとぎ話」ではない。本書「アークエンジェル・プロトコル」も、現代社会のありようと密接に結びつき、ファンタジーの形で、その社会のいびつさと、そこで生きる人間のありようを描いている。本書のまじめな方のテーマは、「宗教」と現代社会である。遊んでいる方のテーマも、「宗教」と現代社会である。
 今の宗教の形、関係性、人と人との関わりってこれでいいの? っていう空気が、本書を、非宗教の私でも読めるものにしている。ただ、これを、キリスト教が政治、経済社会の中心を占めているアメリカの人たちが読んだとき、どう思うかは、分からない。なぜなら、私が、その中心的宗教観を理解していないから。だから、本当のおもしろさは分からないのかも知れない。直接的に、「天使」や「神」や「預言者」や「悪魔」や「聖書」が出てくるから、その言葉の力を受け止めきれないのだ。
 しかし、それを置いても、ファンタジーとしての本書は、異色であり、おもしろさがある。なんといっても、2075年という想像可能な近未来が設定されており、しかも、最終兵器による破壊された社会であり、電脳社会であり、その未来像は、サイバーパンク運動を読者として通過してきたものにとってはあたりまえのものだからだ。映画「マトリックス」同様のなじみ深くなってしまった未来像だからだ。
 だからこそ、私は、「天使なんて」という罠にはまったのだが、最初から、ファンタジーだとの理解で、本書の設定を読めば、とてもおもしろい。
 そんななじみ深い近未来像でのファンタジーである。魔法使いは出てこないが、その代わり、電脳の魔法使いはしっかりと出てくる。そして、魔法使い以上の存在である「天使」たちの魅力的なこと。「ハリー・ポッター」や、それ以前からのファンタジーで魔法使いも人間同様の存在に過ぎない位置までひきずりおろされたが、本書では天使を我々と近しい存在にしている。それでも、やはり天使は天使なのだが。
 読み終わって、あとがきを読んで、本書が911以前に書かれ、発表されていたことを知る。そして、本書には、シリーズ作がその後書かれていることも。あとがきでも書かれていたが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という同じ神の系譜を持つ宗教が、911以降それまで以上に、具体的な人間の争いの源となっているなかで、本書のような宗教を平たく見る作品が書かれ、発表され、一定以上の評価が与えられていることに、アメリカ社会に含まれている健全さを見る思いもする。
 いろんな読み方ができる「ファンタジー」である。
 SFのカテゴリーに入れるのはどうかと思うが、SFとして読んでしまった以上、ここに掲載しておきたい。
 余談だが、ハリー・ポッターシリーズは、これまでの全作を日本語と英語で読んでいる。「炎のゴブレット」がヒューゴー賞をとっていることで、いずれは少なくとも「炎のゴブレット」ぐらいは、ここで取り上げようかと思っていたので、本書「アークエンジェル・プロトコル」はいいさきがけになってくれたようだ。
(2006.10.27)

アルファ系衛星の氏族たち

アルファ系衛星の氏族たち
CLANS OF THE ALPHANE MOON
フィリップ・K・ディック
1964
 1986年の12月にサンリオSF文庫で登場し、1992年に、サンリオと同じ友枝康子訳で創元SSF文庫として再版された「アルファ系衛星衛星の氏族たち」である。創元の方は手元にないので分からないが、サンリオでは池澤夏樹氏が「ディック・ワールドの基本構造」と題して、初期作品群の分析をしている。
 まあ、それはともかく。
 本書は、ディックの作品の中では比較的読みやすく理解しやすい、そして、破綻が「少ない」作品である。もちろん、ディックの作品には欠かせない、つじつまの合わない記述があり、これをどう読むかによってストーリーはいくようにでも変化するのだが、その点は気にしないでおこう。無理につじつまを合わせようとすると、作者の意図しない術中にはまってしまう。つじつまが合わない部分は、適当に読み飛ばすか、適当に自分の中で読み替えるか、適当に補完するしかないのだ。それがディックの作品である。
 訳者はかわいそうだが。
 それでなくても、ディックの作品にはディックが意図して込めた主人公や登場人物に対する「混乱」が用意されており、現実なのか、幻覚なのか、真実なのか、ごまかしなのか、意図的なのか、偶然なのか、主人公や登場人物は、疑心暗鬼になったり、果敢に立ち向かったりするのである。それを読者として共感したり反発したり、通り過ぎたりしているところで、つじつまが合わないくらいのことにつまっていては、読んでいる側がおかしくなるではないか。
 地球とアルファ星系人との戦争が終わり、相互の通商も元に戻った。地球にもガニメデの粘菌生命体などの非地球人が暮らすようになった。しかし、アルファ星の衛星のひとつには、人類が孤立して生きていた。彼らは、いずれも精神異常によってその衛星の病院に入れられていた人々である。彼らは、病院を出て、7つの氏族としてそれぞれの暮らしを行い、独自の社会を構築していた。
 地球は、この「精神異常」の人々を分析、治療し、衛星を地球人の地歩として確立すべく、精神カウンセラーとCIAが操作するシュミラクラを送り込んだ。
 一方、地球では、精神カウンセラーの妻から離婚を言い渡されたCIAのシュミラクラプログラマーが、自殺願望、妻への殺害願望をいだきつつ、ガニメデのテレパシー能力を持つ粘菌生命体や地球人の5分だけ時間をさかのぼらせることができる少女、有名なコメディアンなどと出会い、新たな仕事を得る。しかし、それは大いなる陰謀と争乱につながるものであった。
 そんな話である。
 はたして、アルファ系衛星の氏族たちは、治療させられるのか? それとも、そのまま自らの生き方を連ねられるのか?
 精神カウンセラーの妻とCIAシュミラクラプログラマーの主人公の関係はどうなるのか?
 主人公をとりまく何人かの女性と主人公の関係は?
 そして、本当の陰謀はどこにあるのか?
 すべてがCIAの陰謀か? アルファ人の策略か?
 それとも…。
 出来事の翻弄されながら、主人公は「なにか」を見つけていく。
 ディックの作品としてはめずらしく、確実な「なにか」を。
 そこには、「希望」が含まれている。
 本当は、いつでもディックの作品に込められていたであろう「希望」が。
(2006.10.25)

さようなら、いままで魚をありがとう

さようなら、いままで魚をありがとう
SO LONG, AND THANKS FOR ALL THE FISH
ダグラス・アダムス
1984
「銀河ヒッチハイク・ガイド」シリーズの第四弾である。壊れたはずの地球に帰ってきたアーサー・デントは、そこで懐かしい人、はじめてであった愛しい人、はじめて出会う変わった人に出会う。ちょっとした一言が壊れたはずの地球をゆるがし、ちょっとした出会いで恋に落ちて、でれでれしてしまう。その頃、かつてアーサー・デントを爆発する直前の地球から連れ出したフォード・プリーフェクトはちょっとした危機に落ちていた。その危機から脱したとき、ふとアーサー・デントのことを思い出したのだった。
 ふたたび地球を舞台に、アーサー・デントの冒険がはじまった、のかなあ。
 そして、その地球には大いなる秘密が、ある、の、かなあ。
 宇宙の究極の問いへの答えである「42」について、進展は、ある、の、か。
 ところで、この原稿なのですが、
 ただいま工事中につき、
 ごめいわくを、おかけします。
 あ、鬱のロボット、マーヴィンは、どこ、か、に、いるの、かなあ。
 ダグラス・アダムスが描く、究極の「イルカ」小説が、参上! した、かあ。
(2006.10.25)

シミュラクラ

シミュラクラ
THE SIMULACRA
フィリップ・K・ディック
1964
 1964年に、ディックが2040年を見通した作品。サンリオSF文庫60ページに衝撃的な一文がある。やや長文だが、引用しよう。
“…愚劣このうえないテオドラス・ニッツ社製作のコマーシャルがチックの車にへばりついている。
「うせろ」チックは警告を与えた。しかしコマーシャルはしっかりくっついており、もぞもぞと動き出すと、風に押しまくられながらもドアのすき間へじりじりと進んだ。やがてむりやり入りこみ、ニッツ広告社特有のくだらない話を一席ぶちはじめるにちがいない。
 チックとしては、そいつがすきまから入ってくるときに殺すこともできた。そいつは生きており、やはり死から免れられないのである。広告会社は自然そのものと同じく、それらを浪費するのだ。
 ハエほどの大きさのコマーシャルは力ずくでやっとこさ入り込むと、さっそくぶんぶんうなりだした…中略…
 チックはそいつを足で踏みつぶした。”
 生きて自律的に動き回る広告である。同じようなものは椎名誠の「アド・バード」などでも出てくるし、ディックの「ユービック」でも出てくるが、この「ハエほどの大きさのコマーシャル」という言葉の醸し出すイメージは、衝撃的である。ディックの小説は、まるで夢を見ているかのように次々とシーンが切り替わり、関係あるのかないのかが分からないうちに話が進んでいくため、時々表れる具体的なはっとするイメージに、突然目が覚めさせられる。
 ディックの小説ではいろんなものがよく言葉を紡ぐ。コマーシャルが、シミュラクラが、あらゆるものがしゃべりだし、文章を読ませる。そのたびに、登場人物はとまどい、怒り、まよい、悩み、うんざりし、無視したり、やむなく相手をする。
 ふと気がつくと、私が生きている現実世界でもそういうことがよくあることに気がつく。
 若い頃、といっても、1990年のことだが、私は4カ月ほど海外をバックパックしょってぶらぶらしていた。帰国して、東京の電車に乗ったとき、絶え間なく駅では案内や注意が流され、あらゆるところに広告がつり下がり、私に読めと迫ってきた。考えるいとまもなく、耳から目から私には必要のない言葉が入り込み、私に変わっていく。
 このとき、はじめてディックが見ていた世界を実感したような気持ちになった。
 それ以前から、そういう状況はあったのだが、日常を離れるまではっきりとは分からなかったのだ。
 今も状況は変わっていない。
 さて、本書「シミュラクラ」であるが、2040年、米欧合衆国(USEA)が舞台となる。
 1980年から90年にかけてオレゴンから北カリフォルニア一帯は争乱と中国によるミサイル攻撃のあとの放射性降下物により汚染地域となった。1985年頃、民主共和党が生まれ、1990年には、ファーストレディが権力の実権を握り、ホワイトハウスの主であるデル・アルテの選挙選出は、ファーストレディの期限付きお相手選びと化した。
 いつも若い、いつまでも若いファーストレディのニコルはTVを通して人々の理想であり、憧れであり、母であり指導者である。
 2040年、マクファーソン法が通過し、精神分析医は違法とされた。これからは、A・G化学の医薬品による薬物療法のみが認められるのだ。
 念動者のピアニストは、コマーシャルがきっかけで重度の精神障害となり、唯一残された精神分析医を頼る。
 ピアニストの音楽を録音すべく、レコード会社のスタッフは、放射性降下物に汚染された熱帯的地帯に入り込む。
 巨大な共同住宅に住み続けるため、人々はテストを受け、仕事を失うまいと働く。
 小さなエピソードが積み重なりながら、擬装された世界が明かされていく。
 火星への移住、ガニメデの精神感応生物、多元的未来…。ディック的ガジェットも満載。
 どうして、本書がハヤカワや創元から再刊されないのだろうか?
 そのうち、映画化されたら、ふたたび見られるのかも。
 この世界だから。
(2006.10.21)

闇の左手

闇の左手
THE LEFT HAND OF DARKNESS
アーシュラ・K・ル・グィン
1969
 ハイニッシュ・ユニバースに属する作品群のひとつであり、あまりにも有名な作品であり、古典であり、現代的価値を失っていない作品が、本書「闇の左手」である。高校の頃にこの作品に接した記憶がある。今、手元にある文庫もそのときのもの。以来、1度は読み直していると思うが、最後に読んでから20年は経っているだろう。
 人類連合体エクーメンにより惑星「冬」と名付けられた惑星ゲセンは、寒く凍てついた惑星である。そこには、遺伝子改変された人類が独特の社会をつくって生きていた。
 ゲセンには争いはあっても戦争はなく、政争はあっても虐殺はない。ゲセンの人々にはそのような考えは思いもよらない。完全な両性体であるゲセンの人類は、26日周期のゲセンの新月の頃だけ、ケメル、すなわち性分化する。先にケメルに入った者が男性となり、相手が急速に女性化する。もちろん、次のケメルのときに、逆になることもありうる。女性化したときに受胎すれば、妊娠し、出産する。ケメルの時以外は性衝動とは縁のない存在として惑星「冬」の厳しい寒さの中で、厳しさに耐えつつ、おだやかな生をすごす。
 大国であるカルハイドは、王政をとり、絶対的な権力を王が握るが、すべての情報は開かれている。もうひとつの大国オルゴレインは共産主義的共和制をとり、すべての人が平等だが、情報は閉ざされている。暦上、毎年が「一の年」として繰り返されるこの地に、エクーメンから使節であるゲイリー・アイが、惑星ゲセンがエクーメンに加盟するよう勧めるためにカルハイドに逗留している。両性体のなかに、常にケメルでいる変態者であり、異星人であり、異人として。
 ル・グィンの作品に登場する主人公達は、旅をする。厳しく、辛く、肉体的に困難な旅をする。そうして、そのなかで自分を見つめ、新たな自分を発見する。それは、誰かとの関係性であったり、自然との関係性であったりする。闇の左手は、光。光の右手は、闇。私の左手は、他者。他者の右手は、私。
 本書に出てくる両性体社会の構造や精神、あるいは、カルハイド国とオルゴレイン国の社会体制、愛国心という考え方についての議論などは、本書が書かれた時期を考えると、ル・グィンにしてはめずらしく時節を色濃く反映しているように思える。
 発表されたのは1969年であるから、その数年前からの国際状況やアメリカの国内状況を考えれば、暗喩として本作品があるという読み方ができるだろう。
 アメリカとソ連の冷戦。ベトナム戦争。赤狩り。ウーマンリヴ。ヒッピー。
 そんな生々しい1960年代の現実のなかから、ル・グィンは人間に信を置いた物語を紡ぎ、人々に驚きと希望、すなわち「闇の左手=光」を与えたのである。
 もはや表面的には世界は組み変わった。しかし、惑星ゲセンと同様にこの惑星「地球」でも毎年「一の年」が訪れていると考えれば、本当に世界は組み変わったのであろうか?
 仮に2006年の今本書が発表されたとしたら、本書は古い時代遅れの作品だと評価されず、人々の手に届かないだろうか。そんなことはあるまい。ル・グィンの、あるいは、他の新人作家の衝撃的な作品となったのではなかろうか。
 それは、世界は表面的には変わっても、約40年前と本質的には変わっていないことを示しているのではなかろうか。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作品
(2006.10.19)

宇宙クリケット大戦争

宇宙クリケット大戦争
LIFE,THE UNIVERSE AND EVERYTHING
ダグラス・アダムス
1982
「銀河ヒッチハイクガイド」の続編の続編。つまり第三作である。ということは、まずは、「銀河ヒッチハイクガイド」を読み、ついでに映画「銀河ヒッチハイクガイド」をDVDあたりで見て、それで、「宇宙の果てのレストラン」を読み、「しょうがねえなあ」とか言いながら、河出文庫の黄色と白の背表紙のコーナーに行って、「宇宙クリケット大戦争」なんていうふざけたタイトルの本を探すということである。もし、あなたが今読んでいるのが2006年からそう遠くない未来であれば、「銀河ヒッチハイクガイド」はそこそこの本屋さんで手にはいるだろう。大きな本屋さんだったらこの後に続く第五部までそろっているかもしれない。もし、もう入手できなくなった未来にこの文を読むとしたら、まあ、それが人生である。どうしても読みたかったら、図書館に行ってみる、古本屋さんをあさる、ネットのオークションをチェックしたり、検索してみたり、売ります買いますコーナーで高値を付けてよびかけてみたりしてみればよい。もし、あなたが知的好奇心にあふれ、それに見合うだけの才能があり、野望があれば、タイムマシン的なものを開発し、タイムパラドックスを起こさない程度の方法で、過去から入手することもできるだろう。まあ、そこまでしなくても、ちょっとした未来には、電子化されて、絶版なんて言葉が死後になっているかも知れない。そしたら、それに対するアクセス手段と、必要な対価を稼げばいいだけのことだ。
 第一作では、地球が爆発した。前作では、宇宙の終わりに立ち会うことができた。今作は、それほど大層なことではない。なんといっても、クリケットである。クリケットって知っていますか? 見たことありますか? 北半球で日本と一番遠いあたりにある島国で行われているんだか、行われたことがあるんだかっていうスポーツで、ボールを投げたり、飛んできたボールを打ったり、それから、走ったりするらしい。もちろん、チームがあって、チームが勝ったり、負けたり、得点が入るらしい。
 これが、銀河系規模の知的生命体虐殺に関わっているのである。その歴史の名残なのである。記憶の残滓なのである。ほら、第一作、第二作に比べるとスケールが小さいでしょ。だいたい、第二作で宇宙の終わりを目撃したんだから、それ以上すごいことなんてありゃしないんです。それなのに、主人公のアーサー・デント君は、あいかわらず、やっちゃいけないことをやったり、やらなくていいことをやったり、やらずにすめばいいにこしたことはないことをやらなければいいのにやってしまってしまったりしていたりするのである。その結果はたいていやらなかったときよりも悪くなるのだが、そうでなければ笑いがとれないのだからしかたがない。笑いをとるのはたいへんである。
 読むのはあっという間なのにね。
(2006.10.14)

エニグマ

エニグマ
ENIGMA
マイクル・P・キューピー=マクダウエル
1986
 謎解きのSFといえば、すぐに思い出されるのが「星を継ぐもの」(J・P・ホーガン)にはじまるシリーズ作品である。作品ごとに、新たな謎が生まれ、仮説がひっくりがえったりする。こういう謎解きSFの場合、それが単独作品ならば、最後のネタをばらさずに感想や評論やもろもろを書くことは容易だが、シリーズ物となっている場合、2作目以降、どうするか考えさせられる。
 本書もまた、前作「アースライズ」に続く三部作の二作目にあたり、当然ながら第一作目である「アースライズ」のネタは割れた状態で物語がはじまる。本書「エニグマ」の解説にあたった大野万紀氏は、「アースライズ」へのネタ晴らしになるということを警告し、できれば先に「アースライズ」を読むことを勧め、その上で、独立しても読める作品であることを伝え、そして、「アースライズ」のネタを解説の中ではばらさないという離れ業をなされている。さすが、プロである。  誠に申し訳ないが、「アースライズ」を未読の方は、大野氏の例にならい、同じように判断をしていただくしかない。  一、「アースライズ」を読んでいないので、ここから先を読まない。
 二、「アースライズ」を読んでいないが、入手困難だし、「エニグマ」も読むかどうか分からないから、「アースライズ」のネタ晴らしは気にせずに読む。
 ということで、私は、「アースライズ」のネタバレを前提に以下を書きたいと思う。しかし、「エニグマ」のネタバレはしないでおく。だから、「エニグマ」だけを読もうという方はご安心を。
 以下、「アースライズ」のネタバレが含まれます。ご容赦ください。
 宇宙技術を再び手に入れ、人類社会のおおよその統一を果たした地球は、ファーストコンタクト後、世界評議会が地球上の政府となって豊かで安定的な保守社会を構築していた。人口は90億人となり、太陽系の各地から届けられるエネルギーと資源によって経済も産業も、人々の生活も満たされていたのである。一方、ファーストコンタクトに向けて世界政府的機構(コンソーシアム)によって作られた宇宙機関は、統一宇宙機構となり、地球の外側での力を増していた。統一宇宙機構は、地球への貿易とともに、惑星探査に力を入れていた。
 今、ひとりの若者が世界評議会官僚の卵としてエリートコースにのった大学生活を送っていた。彼の名は、メリット・ザッカリー。しかし、彼が運命のいたずらで太陽系クルーズに乗り、木星を間近に見たことで、彼の人生は180度転換した。エリートコースをはずれ、宇宙技術系の大学に移籍し、宇宙を目指しはじめたのである。何かにとりつかれたかのように。
 時に、おおよそ西暦で2200年前後、ファーストコンタクトから地球上で160年が過ぎようとしていた。
 ファーストコンタクトの結果、人類は宇宙の探査にとりかかった。いくつかの拠点を設け、そこを経由して、調査船が人類が抱え込んだ謎を解くために、時間と空間を超える旅を続けていた。時間を超えてしまうのは、クレイズ…超光速航行技術のせいである。光速の壁による時空の制約はなくなったが、一度のクレイズでも、座標となる地球や拠点との時間軸は大きくなり、ウラシマ効果を生んでしまうからである。
 人類が抱え込んだ謎、それは、宇宙には人類と出自を同じくする人類の植民地やその廃墟がいくつか残されており、そのどれもが基本的な宇宙航行技術を失っており、地球よりも退行していることである。そして、おそらくは地球が彼らの出自であることは間違いないものの、地球そのものに、かつて宇宙航行技術を持った人類がいたとは確認されていないことである。いくつかの仮説が立てられ、それを証明するための証拠を求めていたのだ。
 若きメリット・ザッカリーは、この謎に立ち向かうべく、まずは、言語学者兼資源地質学者として調査船コンタクト・チームの一員となる。いくつかの異星の人類に出会い、遺跡を調査しながら、彼は成長し、そして、謎への仮説を新たにしていく。
 長期にわたる宇宙船内の人間関係と時間の経過による人類社会の変化、そして、謎そのものが本書「エニグマ」の魅力である。
 結論については、うーん…とうなってしまうところもあるが、あたかも宇宙が人類中心であるような設定でありながら、それを感じさせない物語に仕立てているところが本書のおもしろさであろう。
 以前書いたかも知れないが、地球がひとつというのは人類にとっても、その生命・生態系システムにとってもとても危ういことである。人類の不始末で、生命・生態系システムそのものが消滅することは今のところ考えられないが、大きな傷を負わすことぐらいはできる力を持ち、実際に結構な変化を与えている。早いところ、まずは、惑星軌道コロニーなりをつくり、居住可能な惑星を見つけるか、火星のような見込みのある星をテラフォーミングして、地球の有機的再生産に入らなければ、人類という種に、長期的なリスクが募るばかりである。科学技術を最優先する気持ちはないが、人類という種の視点で考えれば、地球が人類にとって持続的に再生産できる場であるよう努力する必要があると同時に、人類という種にとってのリスク分散を果たすために人類が宇宙に出て自立的に生活できる空間を持つことは望ましい。それは、同時に、地球という生命・生態系システムを増殖させることにつながる。わざわざガイア仮説を持ち出すこともなく、生命とはそういうものである。
 さて、本書「エニグマ」では、いつ、どこの誰の手によって、どのようにして、そして、なぜ、人類種が他の惑星に植民地をいくつも持つにいたったのか? という問いと、なぜ、その植民地と地球の人類は、長い間、この事実と、宇宙航行技術を失ってしまったのか? というふたつの謎が試される。
 メリット・ザッカリーとともに、この謎を楽しみたい。
 そして、一緒に、結末について「えーっ」と叫ぼう。(いや、良い意味で)
(2006.10.14)

アースライズ

アースライズ
EMPRISE
マイクル・P・キューピー=マクダウエル
1985
 1980年代後半、一部の科学者は「核の毛布」を発動させた。それは、すべての核分裂反応を抑制する装置で、発動と同時に世界中に公開された。核兵器は使い物にならなくなり、原子力発電所もただの巨大な石棺と化した。世界は混乱し、通常兵器による戦争、食料、石油等の資源の奪いあいに疲弊し、科学者はすべての原因として迫害され、技術と知恵は失われていった。発端となったアメリカは分裂し、鎖国的な小国群となりはてた。
 そのアメリカで、ひとりの電波天文学者が手作りの電波望遠鏡を隠しながら運用していた。彼にできることはそれしかなかったからだ。しかし、彼は何を求めていたのだろう。
 ある日、彼は自分が信じていなかった信号に出会う。それは、明らかに知性体からの信号であった。そのニュースは、ひそやかにイギリスのひとりの男に伝えられ、そして、すべてがはじまった。
 21世紀初頭。地球の人口は24億人となり、国連はアメリカを追われてジュネーブに置かれ、その地位を形骸化させていた。アジアは、中国によって事実上の支配を受け、日本、インドネシア、フィリピンなどは中国政府のいいなりであった。  異星からの信号は、英語によるもので、彼らは地球に向かっているという。このニュースを受けて、イギリス、インド、中国を中心に、ファーストコンタクトに向けて人類のすべての活動を再生させ、経済を活性化し、人類社会を大きくひとつにするためのパンゲア・コンソーシアムがひそやかに動き出した。コンソーシアムには、もうひとつ目的があった。宇宙技術を再生させ、地球ではなく、太陽系のどこかで「彼ら」を迎えられるようにすること。それは、異星人への恐怖であり、地球への影響の大きさへの懸念であった。
 2011年9月、コンソーシアムの準備がはじまる。そして、衛星を利用した全世界への教育プログラムが着実に拡大し、コンソーシアムへの参加も増えていった。優秀な若者がコンソーシアムに吸収され、科学技術の再興に向けての取り組みを続けていった。
 それでも、異星人のことは秘密とされていた。
 2016年、地球上で再び分裂と欲望の構図が生まれたとき、コンソーシアムは異星人の到来を発表。2027年には地球に到来するという事実を人類につきつけた。
 これで、経済のエンジンに火がつき、人々は新たな希望を持つにいたった。と同時に、キリスト教をベースにした新興宗教が力をつけコンソーシアムにも影響を与えはじめていく。しだいに近づいていく異星の船。はたして、彼らは言葉通りの友好的な存在なのか? 彼らの到来まで、人類はひとつになれるのか?
 アメリカのSFには、「再興もの」とも言うべきジャンルがある。人類社会が核戦争や大きな災害で壊滅的な被害を受け、科学が失われ、迷信に満ちた社会に戻ったあと、ひとつのきっかけで再びばらばらになった人類がひとつになり、科学技術を再興していくという物語である。「黙示録3174年」ウォルター・ミラーや、「ポストマン」デイビッド・ブリンなどが典型であろう。本書「アースライズ」のメインテーマは、「ファーストコンタクト」であるが、物語の中心は「再興」である。核戦争ならぬ「核の毛布」がきっかけで、人類社会の均衡が崩れ、なし崩し的に壊滅してから20年以上たった社会が、異星からの信号をきっかけに再興していくという物語だ。科学技術の面よりも、コンソーシアムをめぐるリーダーや諸国のかけひきに力点が置かれた社会学的SFと言ってもいい。もちろん、電波望遠鏡、SETI計画、大統一理論の完成などSF的な事実やガジェット、ギミックも用意されており、決してただの社会モデル小説ではない。
 ところで、この「核の毛布」のアイディアだが、「創世記機械」J・P・ホーガンに内容が良く似ている。こちらが、1981年発表の作品だからこの時期にはやった考え方なのかな? それにしても、核分裂を完全かつ恒久的に制限できるということは、それを太陽に突っ込ませたらどうなるのだろう…。素朴な疑問。
 メインテーマである「ファーストコンタクト」についても、最後に驚くべき異星人が登場し、大いなる謎を残して幕を引く。「エニグマ」「トライアッド」と続編が続くのだが、私は「トライアッド」を持っていないのだよなあ。
(2006.10.11)

宇宙の果てのレストラン

宇宙の果てのレストラン
THE RESTAURANT AT THE END OF THE UNIVERSE
ダグラス・アダムス
1980
「銀河ヒッチハイク・ガイド」の続編である。さて、宇宙をさまよう2人の地球人と元銀河帝国大統領とその友人のヒッチハイク・ガイドライター、加えて鬱ロボットのマーヴィンとの旅は続いていた。彼らの乗船「黄金の心」号は、無限不可能性ドライブを搭載し、だから、無限に不可能なことが起こってしまうのであった。地球の秘密は究極の答え「42」に集約され、今は究極の「問い」を求めて、いや、何か求めていたっけ? そういえばこいつらどこに行こうとしているんだっけ?なのであった。
 アーサー・デントが、シリウス・サイバネティクス社の自動栄養飲料合成機に紅茶を頼んだために、彼らは再び危機に陥り、マーヴィンは五千七百六十億三千五百七十九年間気が滅入ったままで、宇宙は何度も終わってみたりする。
 舞台設定は、前作でできあがっているため、「宇宙の果てのレストラン」では、笑いの要素に全力投入されている。そうだよなあ、そんなこともあるかもなあ、未来でもみんな困ることがあるんだ、なんて、卑近で、皮肉で、すかっとする笑い。これぞイギリスの伝統といった笑いが待っている。
 2005年に公開された映画「銀河ヒッチハイク・ガイド」を見た後に、本作「宇宙の果てのレストラン」を読むと、鬱ロボットのマーヴィンがぴったりはまり役だということに気がつく。あのマーヴィンが、人工知性型の戦車と戦い、銀河の果てのレストランで配車係をしているなんて!!
 そして、人類の秘密がいまときあかされる。なんだ、人類がおろかなのは、ある惑星で、もっとも不要な労働層の人間だけを集めて送り込んだからなんだ。じゃ、しかたないね。
 まあ、「宇宙の果てのレストラン」でも読んで、馬鹿笑いしているのがお似合いってところじゃない?
(2006.10.11)

ダイヤモンド・エイジ

ダイヤモンド・エイジ
THE DIAMOND AGE
ニール・スティーヴンスン
1995
 ナノ・テクノロジーの時代。ダイヤモンド・エイジと呼ばれる時代が到来した。近未来の地球。もし、あなたが出自に恵まれず、言葉や社会的生活方法を学ぶことができず、仕事もなく、かろうじて日々を暮らすだけだったとしても、お金を持っていないとしても、それでも、あなたは食べていくことはできる。MCがあるからだ。MC、すなわち物質組成機。汚れた大気と水を浄化する過程で取り出された微量物質と、大気、自ら生成されるあらゆる物質。食べものから、被服まで。町にはいたるところに無料の公共MCがあり、持たざるものに、最小限の必要物を生成してくれる。文字が読めなくても、象形メディア文字であれば、自然と覚えてしまうだろう。動きのある象形文字ならば、あなたがしたいこと、してはいけないことを教えてくれる。
 ナノ・テクノロジーはすべてを変えた。産業、生活、価値観、秩序、倫理、道徳、思考形態…。コンピュータとインターネットとナノテクは、人々からすべてを奪い、そして、与えた。文字は動き、本は語りかけ、微小な人工物が空中をさまよい、人々にとりつき、とりついた物を排除し、人々をつなぎ、変質させていく。
 賢き人は、コマンドを唱え、紙から光を放ち、遠くの出来事を知り、海より新たな大地を興し、一夜にして塔を建て、術をふるう。それは、魔法であり、地球は魔法の星と化した。
 ナノテクとインターネット的経済行為によって、国家=政府は破壊された。収入のない国家は破綻するほかなく、国家の収入とは国民と企業からの税収であるからだ。経済行為に国境が意味をなさなくなり、近代国家は消滅した。そして、新しい政府、グループ、体制が生まれる。自らの思想信念、社会理念に基づくグループ。人種に基づくグループ。技術体系に基づくグループ…。そのいくつかは、クレイブ=国家都市と呼ばれ、いくつかは、シンセティック・ファイリー=代用種属と呼ばれた。
 舞台は、かつて中国と呼ばれた土地の沿岸産業地帯。主要なクレイブが集まり、その周辺にはシートと呼ばれる貧困層が集まる。
 そこにひとりの少女が生まれる。父親は、生まれた頃に死んだ。母親が連れてくる男の多くは、少女とその兄を虐待した。母親は、子どもをそこに住まわせていただけだった。少女の兄は、妹思いだった。彼は、家から出かけては、幼い妹のために何かを持ち帰った。ある日、兄である少年のグループは、ひとりの裕福な男を襲った。そして、一冊の本を手に入れた。兄は、その本を妹に渡した。本は、少女を認識し、少女に言葉を教え、生きる術を教えはじめた。
 そして、少女は、選ばれた者として、歴史に残る人物になるであろう。きっと。
 もう10年以上前の作品である。2006年の時点で考えれば、ナノテクの進捗はまだまだだし、むしろバイオテクノロジーによる変化の影響が大きくなりがちである。また、インターネット社会は、今のところ既製の国家や経済システムの中に順応しており、国家=政府を破綻させるまでの爆発力を見せていない。今のところは。しかし、コンピュータ&インターネットテクノロジー、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーに象徴される20世紀終わりからはじまった技術革新の波は、今押し寄せてきているところであり、そのスピードはますます速くなっている。
 また、それらのテクノロジーは、これまでの国家や社会を破壊するまでの爆発力を持たないが、国家も、また、その国家やシステムに抗する者も、テクノロジーを活用し、これまでにない力を発揮している。
 その行く末は見えていない。
 20世紀終わりの10年間、SFは、これら近未来を見据えようという作者達の積極的な取り組みがなされた。本書「ダイヤモンド・エイジ」もまた、そのひとつの視点の提供として、大きな反響をもたらした。
 これから、10年後、20年後、50年後、世界は大きく変わるとともに、変わらない部分もあるであろう。すくなくとも、10年前からは予測のつかない今があり、予測のつかない10年後があるだろう。誰が、911とアメリカによる対アフガニスタン、イラク戦争を、BSE(vCJD)の深刻な影響を予想したであろうか。急激な気象の変化を予想したであろうか。予測をしているにせよ、インフルエンザ・パンデミックの危機が実際どのようなものになるか、起こってみなければ分からない。
 しかし、私たちには、想像することができる。おびえずに前に進むこともできる。立ち止まって考えることもできる。必要なのは、思考停止に陥らないこと、そして、今自分がいる場所を確かめること。
 少女ネルの成長の旅と、物語に登場してくる者たちの探索の旅は、そのことを伝える。
 それは、いつの時代も変わらないのだ。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞作品
(2006.10.01)