アラクネ

アラクネ
ARACHNE
リサ・メイスン
1990
 20世紀終わりから21世紀初頭にかけての技術革新の中心にはインターネットとコンピュータ技術の急激な進歩があった。AIについては、80年代から具体的な経済行為として考えられていたが、今を持って「人工知能」を名乗るにふさわしいAIは登場していない。
 また、インターネットの萌芽期には、早い時期に電脳化社会が訪れ、一定の人格や体験のシミュレーションも可能になると考えられてきたが、それも開発途上である。
 しかし、SFの世界では、80年代後半から爆発的に人工知能とサイバー空間社会についての外挿がなされ、まるで規定路線であるかのうように、同じような外挿条件のSFが席巻した。そのあるものは、サイバーパンクと呼ばれ、サイバーパンク運動に位置づけられ、あるものは、未来予想的SFとされ、あるものは、あたりまえのふつうのSFとして受け入れられ、そして、その多くが忘れ去られていった。
 忘れられた作品の多くが、近未来的過ぎたため、その技術的でこぼこ感を超えるほどの体力を持たなかったからである。
 本書もまた、忘れ去られる1冊になるのかもしれない。
 決して、おもしろくないというのではない。
 むしろ、本作品に登場するユング的共通する無意識的存在=「原型」は、「ゴースト」、あるいは、「魂」などとして、他の作家の作品とも共通するもので、それを、サイバー空間における電気的な障害として描き出そうとするあたりは、一読の価値がある。
 物語は、最新の遺伝子組み換えとクリスタル出産、早期の強化教育と電脳手術によってエリートコースを歩んできた25歳のカーリー・ノーランを主人公にする。若く、理想と欲望と出世欲に満ちたカーリーは、新進弁護士として大手弁護士企業に就職し、はじめてひとりだちする経済事件を担当していた。しかし、彼女は電脳空間で行われる初公判の際に、電脳空間からなぜか強制離脱してしまう。心理的な障害か、機械的な障害か、不安にかられるカーリー。このままではせっかくつかんだ出世コースのチャンスも、エリートとしての生活も失ってしまう。なにより、彼女はジェニー・遺伝子組み換えされた生まれついてのエリートのはずなのに。
 物語は、もうひとり、おんぼろではあるが、独立しているAIの電脳空間境界探査士を迎える。彼女は、その代名詞通り、初期プログラムで女性性を与えられ、電脳空間で人間と電脳空間の境界を探査する仕事を続けるうちに、「超越」に憧れるようになる。単なるプログラムの集積であるAIから、人間と同じように生命の創造性を持つ存在への「超越」。そのためには、電脳空間にいる生きた人間の、電脳空間からはみだしたかけらを見つけ、それを取り込めばいいと、彼女は信じていた。
 大地震により、一度は壊滅したサンフランシスコには貧困と暴力と、そして、権力と金持ちが極端に二層化し、その格差を見せつけていた。
 AIは、次第に低所得者の労働や中所得者の労働を奪い、電脳空間に入り、その力をふるえるものこそが、世界を支配することができる。そんな社会に、人間以上であるはずの人間と、人間に憧れを持つAIが、それぞれの望みを持ちながら交差する。
 ほら、おもしろそうでしょ。期待は裏切らない作品である。
 ただ、書かれた時代が時代である。
 円が強くて、日本が強かったり…バブルはじけてスーパー円高の頃だもの。
 香港が返還されて、難民がサンフランシスコに大量移民していたり…香港返還前ですからね。
 四倍密度のフロッピーディスクが現役だったり…まあねえ、こんなに記録媒体が安く、小さくなるなんてねえ。思わなくてもしかたないかなあ。
 世界貿易センタービルがあったり…これは、本作品の予知能力の範囲を超えているが。
 ストーリー上での電脳空間や実社会の変化が早ければ早いほど、こういう小さな時代的ギャップがつらい。
 もっとも、あと20年も経てば、そういうずれも古くさくなって、もっと気楽に読めるのかも知れない。昔の作品として。
 ところで、ユング的無意識の「原型」や、現在のところ人間しか持ち得ないとされる「ゴースト/魂」について、SFはいまだ扱いあぐねている。
 脳を破壊的にスキャンすることで、電脳空間に「ゴースト/魂」ごとアップロードしたり、もっと進んだのでは、肉体のコピーと、精神・記憶・思考のバックアップをとって死んだら再生したりする作品はあるし、その中で、たまたまふたつの「自分」が共存するはめになる作品もある。エンターテイメント性が高い作品は、このあたりを軽くいなしているが、ちょっとでも思弁的作品になると、このあたりの描き方が作品のできを左右したりする。  本作「アラクネ」は、AIとジェニーの対比と葛藤を通して、遠回しにそれを描こうとしている。果敢な取り組みである。それがうまくいっているかどうかは、ぜひ作品を読んでみて欲しい。
(2006.09.06)

スロー・リバー

スロー・リバー
SLOW RIVER
ニコラ・グリフィス
1995
 近未来、イギリス。大企業オーナー一族のもっとも若い娘の誘拐。身代金が払われず、屈辱的な姿で泣く彼女の姿がメディアに流れ続ける。遺伝子組み換え微生物と、その培養原料の特許で世界各国の土壌や水質汚染を浄化し、それで財をなした一族。自らも遺伝子組み換えを行い、長命とガン抑止を一族にもたらす。逃げ出した彼女は、ひとりの女に救われる。IDを偽装し、無記名カードのデータを抜き取り、情報を盗み、売り、ゆすって生きる自由な女。一族の元へは帰れないことを自覚した娘は、彼女の元で暮らし、生きはじめる。父親に変わる庇護者の元で。彼女は庇護者であり、恋人でもある。やがて彼女の元をはなれ、偽装したIDで彼女の得意な知識を生かして、下水処理場に、まっとうな職を得る。自立、娘が求めたもの。誰の庇護も受けず、自立して、ひとりで生きていく。誰でもないひとりの「わたし」として。しかし、事件は起こる。そして、彼女は、「わたし」を、一族も、過去も、現在も含めても自立できる存在をつかまえる。
 生体埋め込みチップによる管理社会。早く激しいデータフローによる高度情報化社会。IDやITからこぼれ落ちた人たち、統計の中で処理される公害や紛争に巻き込まれ何もかも、生命も身体も尊厳も奪われた人たちがいる。
 そんな社会の頂点にいた主人公のローアが、最下層を知り、そこで生きる術を身につけていく。
 ニコラ・グリフィスは女性作家であり、自ら同性愛者であることを表明している。本書「スロー・リバー」では、その社会観を作品に折り込みながら、下水処理という視点から空気、水、土壌の化学物質等による汚染と浄化を、迫真の筆致で描き上げ、独自の「近未来」像を見せている。
 この近未来像は、サイバーパンク運動以降にみられる、科学技術の進歩と人間社会の変容、荒廃を描いた作品群と共通する空気を持っているが、その中に、ニコラ・グリフィス独自の「人間くささ」が描かれており、それが物語を深め、おもしろくしている。
 作品に流れる癖のあるウィットとユーモアは、彼女がイギリス出自であることを示すのだろうか。どこかに人間に対する冷徹さと優しさがあって、それが作品の魅力である。
 同性愛やサブカルチャーに眉をひそめる人はまだまだ多い。誤解に基づくものも多くあるし、それが、管理社会から距離を置いた者たちすべてを同一視することによるものであることも多いだろう。しかし、管理社会の申し子のような企業人たる男性諸氏であっても、その内実には様々な姿があり、社会的に許容される内実から、反社会的な行為を含む内実まで様々であろう。日常的に他者を知りうるのは、その他者がつけているペルソナ(社会的仮面)であり、別のペルソナを知ることは少ない。サブカルチャーに分類される人・もの・ことは、本流たる社会・文化の鏡でしかない。個人のペルソナと変わるところはない。
 偏見や差別を持つということは、そんな鏡の片方の像を拒絶しているに過ぎず、自分自身を認めないのと同じだ。自分自身の別のペルソナを否定すると、その内実に近いペルソナは反社会性を増す。そして、そんなペルソナを見せられる相手は近しい人か、まったくのゆきずりとなる。
 近年、多発する「いまわしい」とされる犯罪の多くに、今言ったような、自らの内実の否定による反社会的なペルソナの影を見ることができる。
 本書ではこの構図を、幼児期の「虐待」として描きだしている。
 その点でも、本書は近未来を正しく予見している作品である。
 本書が描くように、もちろん、サブカルチャーにもドラッグなど暗い面はある。本流の社会・文化にあっても、暗い側面は生まれる。
 一部の暗い側面をあげて、サブカルチャーの創造的一面を否定するのはばかげている。
 私たちは、日々激しい川の流れに生きている。
 本当の川を想像して欲しい。川の流れは水源から海に注ぐまで決して一定の早さではない。時に早く、時にゆっくりとなりながら、最後にはゆるやかに海に注ぐ。多くの生命を育むとともに、人類が投げ入れるすべてを受け入れながら。
 含蓄のあるスロー・リバーのタイトルをかみしめたい。
 そうそう、作品中にババガヌージュが登場して、主人公が子どもの頃を思い出しながら黙々と食べていた。あれはおいしいのだ。ということで、この料理が得意な同居人がなすを焼きはじめている。
ネビュラ賞受賞作品
(2006.09.02)

スター・ウィルス

スター・ウィルス
THE STAR VIRUS
バリントン・J・ベイリー
1970
 イギリス人作家バリントン・J・ベイリーの処女長編であり、あとがき解説によれば本家イギリスでも、ヨーロッパでもアメリカでも、再版されたことのない作品だという。
 タイトルはすごい。スター・ウィルス、宇宙のウイルスである。さて、宇宙のウイルスとは何か、となると、ちょっとオチとからんでくるのでここでは言いにくい。
 登場するのは新興の宇宙種属となった人類と、人類の台頭まで宇宙唯一の宇宙航行種属であったストリールである。まったく異種であるストリールと人類は、小競り合いを続けながらもなんとか均衡を保っていた。宇宙海賊の首領であり、科学的思索にふけるのを趣味とするロドロン・チャンがストリールはたまたま別の人類グループが入手した「レンズ」の所有をめぐってストリールが引き渡しを要求していることを知る。そして、この強奪を図ったのだ。
 ストリールは、ロドロンに対して、法外な提案をしてまで買い取ろうとするが、ロドロンは、ストリールの執着に、かえって「レンズ」の秘密に思いをめぐらせてしまう。なにか、自分の科学的な思索では到達できない宇宙の秘密が得られるのではないだろうか?
 そうして、ストリールとロドロンの追いかけっこがはじまった。
 そんな話である。
 宇宙海賊、異種種属の貴重な宝である「レンズ」、そして、タイトルの「スター・ウィルス」とくれば、何かありそうである。
 そこはそれ、イギリス人作家である。
 ただの大冒険活劇にはしてくれない。
 そこはそれ、ベイリーである。
 小さなふつうの冒険譚がいつの間にか、宇宙の根源的秘密にまでたどり着くのがお得意の作家である。
 オチがちょいと近いのだが、光瀬龍の、または、光瀬龍原作・萩尾望都作品の「百億の昼と千億の夜」を思わせんばかりの「宇宙の秘密」が登場する。
 そんなこんなで、宇宙活劇なのか、宇宙の秘密に迫る思弁的作品なのか、読み手も困ってしまうのだが、ベイリーらしいといえば、ベイリーらしい作品である。
(2006.09.01)

プロジェクト・ライフライン

プロジェクト・ライフライン
BRIGHT NEW UNIVERSE
ジャック・ウィリアムスン
1967
 プロジェクト・ライフライン、救命索計画…それは、宇宙探査計画の名称。月の裏側から宇宙に向けて電波を送り、返信を待ち、汎銀河文明との接触を試みようとする計画である。しかし、この計画は国際情勢の中で風前の灯火となっていた。20年以上続けられた計画は、いまだに宇宙からの何の返信もない。当初は、月軌道上に人工衛星基地があったが、事故によって月面に落下し、計画を推進したふたりの科学者が死亡。その後月面裏に基地が作られ運営されてきたが、アメリカも、人民共和国もこれ以上の援助をする気はないらしい。
 そんななか、宇宙軍士官学校を卒業したアダムが、月面でのプロジェクト・ライフラインに志願した。彼には、彼のアメリカでの財産や地位、美しい婚約者を捨ててまで計画に関わる動機があった。彼の本当の父は、計画の創設者のひとりであり、事故で死んだ研究者だったからである。
 汎銀河文明との素晴らしいコンタクトと、それによる地球人の発展を夢見て、希望に燃えたアダムが、今月基地に到着した。
 というような流れではじまる本書「プロジェクト・ライフライン」は、その後、事故の真相の発見、アダムの月からの追放と陰謀につぐ陰謀、汎銀河文明との接触などを経ていくのだが、どうやら作者は、政治や人間性を語りたかったようである。
 アダムを代表するのが、楽観主義で、汎銀河文明によって人類は科学的に進歩し、豊かな銀河文明の一員としてその恩恵を被るであろうという立場。一方は、悲観主義で、コンタクトによって人類は破滅するか、コンタクトの結果で人類社会は大きく変質してしまうことを恐れるという立場。さらに、この悲観主義の先鋒には白人優先主義が加わり、コンタクト楽観主義派を激しく責め立てる。
 その悲観主義者=保守主義者の代表として、アダムの母が属する裕福な白人一族が置かれ、そこに上院議員、主教、将軍という政治・経済、宗教、軍事を代表する者を置くことによってアダムの「心の美しさ」との対比を図っている、ようである。
 ところが、アダム。さすがアダムという名だけあってちょっと美人と見ると声をかけまくっている。自分ではいい感じなのだろうが、すっかり空回りしているのに本人は気づいていない。そういう態度で、正義を語るのだから、うんざり、ってとこだろうが。ここ、もしかしたら、笑うところだったのかも知れない。
 古い教条主義的、社会正義派SFなのだろうか? 書かれた時期はベトナム戦争の頃だし、作者のジャック・ウィリアムスンは1908年生まれで、この頃すでに59歳である。そのあたりは多めに見た方がいいかも知れない。
 現在においても、「人種」はさまざまな差別の元となっている。目に見える形でも、目に見えない形でも。40年前のこの作品に「人種」差別に対しての激しい表現があるのは、その時期を無視しては語れないだろう。
 ところで、本書「プロジェクト・ライフライン」で一番笑えたのは、「電動発電機」という訳語である。?? 電気を使って発電する?? おそらくは、Electric-motorの訳なのだろうが、筆がすべったのだろう。
(2006.08.25)

メモリー

メモリー
MEMORY
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1996
 マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンが活躍する長編6冊目がようやく先日邦訳された。著者あとがきによると、出版者側の都合などもあったようだが、遅い! 最近、創元SF文庫は、再刊や再編集刊ではない本当の新訳SFをあまり出版していない。続編を出して欲しい作品もいろいろあるのだが、どうしてしまったのだろう? 困るではないか。
 まあいい、出してもらえるのならば、文句はないのだ。
 ということで、「メモリー」である。一度死んだマイルズも、早30歳になる。死んだ後遺症というか、低温蘇生治療の後遺症で突然暴れだし、意識を失う発作を持ってしまったマイルズは、自由傭兵隊ネイスミス提督として大失策をおかし、惑星バラヤーの機密保安庁の中尉としての身分と、自由傭兵隊提督の身分を事実上奪われてしまう。残されたのは、バラヤーの貴族としての立場のみとなってしまった。それは、彼が少年期から追い求めてきた「自分探し」の終焉でもあった。
 そして、事件が起こる。生まれる前からの知り合いと言ってもいい機密保安庁長官のイリヤンの頭に移植されていた記憶チップがおかしくなり、イリヤンの記憶が混乱し、機密保安庁が大混乱に陥る。時に、マイルズの幼なじみでもある皇帝グレゴールはついに意中の人を見つけたが、それは、惑星バラヤーによって支配された惑星コマールの現在の名家の娘であり、この婚約を発表すれば様々な勢力が、それぞれの立場で大騒ぎをすることになるのは目に見えていた。
 この危機に、マイルズは、皇帝グレゴールに新たな立場を授かり、イリヤンの「故障」が事故なのか、事件なのか、あるいは新たな陰謀なのかを探りはじめる。それは、バラヤー貴族としての逃れられない責務が彼を動かした行為でもあった。
 そして、この調査の過程で、彼は、自らの過去を振り返り、新しい未来をみつけ、選択し、分裂していた自分をついに統合するのであった。
 いいなあ、ビジョルドのストーリーは。なにより読みやすい。どこかに力が入りすぎていたり、どこかに不安な破綻点があったりしない。ちゃんと筋書きがあり、分かりやすい伏線があり、そして、きちんとした結論がある。それは、すべての読者を満足させる結論ではない。むしろ、多くの読者に毎回ちょっと物足りない感じを与える。それは、読者が、もうひとつの結末をはっきりと予感するからである。しかし、だからといって不満を抱かせることはない。「こういう選択もあるよな」と、作者の選択を評価するからこそ、もうひとつの選択について思いをはせることができるのだ。
 最近、文章も展開もSF的なガジェットや技術もごちゃごちゃした、詰め込みすぎのSFばっかり読んでいたから、こういうすっきりしたストーリー重視の作品を読むと安心するなあ。読んだ後、すっきり感があるほうが楽しいよ。読書は。
(2006.8.22)

ニュートンズ・ウェイク

ニュートンズ・ウェイク
NEWTON’S WAKE
ケン・マクラウド
2004
 2006年8月に翻訳出版されたばかりの新著である。最近、ハヤカワはイギリスSFをよく翻訳しているが、何か理由があるのだろうか? それとも、イギリスSFが元気だというのだろうか? そのあたり詳しくないのでよく分からない。
 21世紀後半アメリカの軍事AIが知的進化暴走を起こし、「特異点」に達して「後人類」と呼ばれる存在になり、地球上の多くの人類を「強制昇天」させて、データ空間のかなたに連れて行ってしまった。その後、地球の各地で人類間の戦争と、「後人類」の戦闘マシンに対する人類の闘いというふたつの戦争が起きる。人類の一部は恒星船で太陽系外の植民惑星を求めて去る。太陽系にもマシンは広がりはじめるが、その後「後人類」は地球を含むこの宇宙から去っていき、疲弊した人類の闘いだけが残った。そして、その戦争も22世紀初期には終わる。24世紀も後半となっていた。「後人類」によって超光速航行技術やワームホールゲートなどが開かれ、残された人類は、いくつかのセクトに別れて、新たな発展を遂げようとしていた。
 ひとつは、ワームホールのゲートを支配するカーライル一家、惑星のテラフォーミングに命をかける「農夫」のアメリカ・オフライン、後人類の技術をさぐりながら発展を模索する日本人・中国人・インド人のセクターである啓蒙騎士団、そして、DK。民主共産主義連合、あるいは、民主朝鮮、あるいは民主カンボジアと呼ばれる宇宙植民者集団。
 今、カーライルの”実戦”考古学チームが未知のゲートをくぐり抜けて見つけたのは、別の人類集団であった。彼らは古い恒星船で植民可能な惑星にたどり着き、過去の技術を失いながらも、その惑星にあった異星人遺跡などを調査しながら独自に発展していた人類であった。
 そうして物語は、それぞれの勢力を巻き込みながら幕を開ける。
 人工知性の暴走的進化、個人のデータへのアップロードと再現実化であるダウンロード、それによる死が起こったときのバックアップとしての再生、データ化した人格の奴隷化など、バイオテクノロジーとコンピュータ/大脳生理的なテクノロジーの拡大を受けた世界を舞台に、事実上不死を得た登場人物達がいくつもの惑星を舞台に縦横無尽に走り回る。
 最近翻訳されたアレステア・レナルズの「カズム・シティ」(2001)と同じように、まるでアニメかフルCGアクションかと思わせるようなシーンがいくつもある。
 全身がマシン化してメタルで美しいボディになった女とか、最初は冗談で開発され、意外と便利だと普及した羽ばたき飛行機とか、ね。
 ちょっと、他の作品とは違うのが、政治的なおちょくりである。アメリカ皇帝ジョージ一世、二世とか、海面に20メートルの高さで誇るマルクス、レーニン、毛沢東、金正日の石像とか、ブレジネフ、アンドロポフ、リガチョフ、ゴルバチョフが登場する現代劇とか、「ウエストサイド物語」でのブッシュとビンラディンの銃撃戦…。
 ストーリーの中で、軽く、かつ、おもしろく扱ってあるのでそれほど違和感はないが、舞台の未来感との間でのギャップは否めない。
 ま、娯楽作品で、これらが誰で、何者かなんて考えなくても別に読むのに不都合はない。
(2006.8.20)

蝉の女王

蝉の女王
BRUCE STERLING’S SHORT STORY COLLECTION
ブルース・スターリング
1988
 日本版オリジナルの工作者シリーズ短編集であり、ウィリアム・ギブスンが序文を、著者のブルース・スターリングがあとがきを短編集用に寄せている。1980年代、サイバーパンクが日本を重要なマーケットにしていたことを物語る出来事である。
 テクノロジーの暴走によって人は変質を求められる。それは、人間性や社会性、あるいは、地球的生命からの脱皮であり、生命は宇宙という広大な舞台の中で広がり、無機物を生命化して広がっていくもので、それこそが物質的知的生命体の究極の目的であり、優先される行為である、といったテクノロジーの延長にある「哲学」に支配された世界である。
 知性すらも、その哲学の前にひれ伏す。それをスターリングは、「巣」に登場する異星生命体を通じて提示する。そして、その異星生命体を「研究」するふたりの人類出自の者を通じて、生命とは何かを問いかける。
 サイバーパンクの中でも、きわめて異質なビジョンを提示するのがブルース・スターリングなのであろう。
「蝉の女王」での、人工的に作られ、火星のテラフォーミングを進めるための地衣類への偏愛、「火星の紙の庭」でのテラフォーミング過程にある厳しい環境で生きる原住民への冷たいまなざし。
 理解と拒絶のすれすれのところに物語を紡いでいくスターリングは、短編向きの作家なのだろうか。同じ工作者シリーズの「スキズマトリックス」に比べれば、短編の方がはるかに読みやすい。また、各短編ともきちんと「オチ」を用意してあり、その「オチ」の意外性とおもしろさで、どんなに異質な作品であっても楽しく読むことができる。「スキズマトリックス」では得られなかったすっきり感が、本書「蝉の女王」にはある。
(2006.8.17)
あはは。蝿じゃなくて、蝉だ。
蝿って書いてた。ばっかだね、私。

スキズマトリックス

スキズマトリックス
SCHISMATRIX
ブルース・スターリング
1985
 格好いい名前のSF作家投票だったら名前で1票入れたくなるような「ブルース・スターリング」の長編第一作である。
 月を回る環月軌道上のコロニー「晴れの海環月企業共和国」から物語はじまる。小惑星帯、土星のリング帯などの宇宙都市世界の力が強くなり、その大きくふたつの勢力マシンテクノロジーによって進化を遂げようとする「機械主義者」とバイオテクノロジー技術によって進化を遂げようとする「生体工作者」の勢力である。古い環月コロニーでも、彼らの影響を受け、人々と社会は変遷していく。
 共和国の貴族の子息であったリンジーと、平民のコンスタンティンは工作者の元で教育と生体的な強化を受け、潜在的な外交官として育っていた。しかし、彼らの思想や行動は、共和国にとっては害悪であり、リンジーは静かの海環月人民財閥に追われ、そこで新たな工作者に出会い、そして、海賊船のフォルツナ鉱夫民主国へ、さらに次へと変革を起こしながら流れていく。そうして、異星人交易船との出会いと人類の大きな変化の中で、リンジーは、いくつかの流れを形作っていく。人類は変わり続ける。それは、もはや人類と言えないのかも知れない。いくつかの流れとはコミュニケーションすらとれないだろう。むしろ異星人との方がコミュニケーションがとれるのかもしれない。
 それほどまでに変わりゆく人類の末裔たち。
 リンジーの長い人生という旅を通じて、人類と太陽系の変革の過程をたどる。
 1985年である。サイバーパンクである。ウイリアム・ギブスンと並び称されたブルース・スターリングの作品である。いやあ、はでだねえ。それにしても、詰め込んである。まるで歴史の概要を読んでいるような錯覚に陥る。リンジーの人生で何人かのキーとなる人との出会いと別れと再会があるのだが、そこに感情的に移入はできない。そこでの感情移入を作者が排除しているのだ。それとも、翻訳の問題か?
 世界は、ガンダムである。
 つまりは、重力から脱した人たちが新たな思想や意識を持ち、その思想や意識に従いながら生きていく。しかし、その思想や意識、行動規範には時の状況によってはやりすたりがあり、永遠に続くようなものではない。万物は流転するのだ。
 このあたりは、ガンダム世界と良く似ている。
 本書は、長い歴史を描いているので、ガンダムよりももっともっと複雑で変化が激しいのだが、時期的には1970年代末から80年代にかけて、こういう人類を超えた、今の人類には理解できない思想、行動といったものを描く動きがあったのだ。
 その大きなエンジンとなったのが、サンバーパンクムーブメントであったのだろう。
 ところで、個人的にはすっかり忘れていた話で、新鮮な気持ちで読めたのはよかったが、訳がしっくりしないのか、原文が読みにくいのか、どうにもつまりつまりとなって、思ったよりも読むのに時間がかかってしまった。
 一度同じ世界空間を把握してから読み直すとよりおもしろく読めるのかも知れない。
 ということで、さっそく同じ世界の短編集「蠅の女王」を読むことにする。
(2006.08.17)

カズムシティ

カズムシティ
CHASM CITY
アレステア・レナルズ
2001
「啓示空間」(2000)と同じ宇宙史に属するレナルズの作品である。「啓示空間」に負けず劣らず、本書「カズムシティ」も1200ページ近い大作というか長大作品。どうしてこう長くなってしまうのかは分からないが、解説などを読むと、イギリスの出版事情が絡んでいるとか。ハリー・ポッターシリーズの影響だろうか??
 舞台は、スカイズエッジ星とイエローストーン星。カズムシティはイエローストーンの都市である。入植時以来の戦争に明け暮れるスカイズエッジ星で、武器密輸を行う黒幕とその妻が殺される。ボディーガードをしていた元兵士で天才スナイパーのタナー・ミラベルは、自分のプライドをかけて復讐を誓い、ボスと妻を殺したアルゼント・レイビッチを追った。
 そして舞台は変わり、イエローストーン星へ。人類の一派であるウルトラ属の近光速船に乗り冷凍睡眠でイエローストーン星軌道上のハビタットで目覚めたタナー・ミラベルは、記憶に混乱をきたし、スカイ・オスマンの夢に悩まされていた。
 スカイ・オスマンは、スカイズエッジ星に入植したときの英雄であり、犯罪者として追われた者の名である。彼は、今やスカイズエッジ星の一部の新興宗教で殉教者としてあがめられ、スカイ・オスマンウイルスが作られて、ばらまかれた。感染した者は、磔刑された彼と同じように右手から血を流し、スカイ・オスマンの夢を見せられる。タナー・ミラベルは、どこかで感染してしまったらしい。そして、イエローストーン星に来たのは、もちろん、逃げたレイビッチを追いかけるためである。イエローストーン星には、レイビッチの家系が力を成しているという。しかし、タナー・ミラベルには自身があった。数日以内にはしとめると。スカイ・オスマンの生涯を追いかける変わった夢に悩まされながらも、タナー・ミラベルはレイビッチを追い求める。
 そして、イエローストーン星。融合疫という、ナノマシンを含むコンピュータ類と鉱物、生物を巻き込んで変形していくおそらくは過去の異星人によると思われる疫病が、栄華を誇るイエローストーン星を襲っていた。何もかも変形し、機能を失った土地で、人々は、自らの身体の中のナノマシンと、移植物を捨て、古い蒸気機関などを「再発見」し、かつての高度な科学技術の遺物と融合させながら、富める者は富めるままに、貧しい者は貧しいままに生きていた。
 物語は、イエローストーン星でのタナー・ミラベルの物語と、タナー・ミラベルが見るスカイ・オスマンがたどる生涯の物語のふたつがもつれ合いながら進む。
 そう書くと、なんだかとても文学的な感じもするが、そうではない。
 特殊効果が最初から最後まで盛りだくさんのハリウッド映画かフルCGアニメといった感じの作品である。
 変形するビルの部屋には、融合疫で飲み込まれた人々が生えている。
 長命化、不死化した人々は、人生に飽きて、マンハンティングを行い、姿形を自由に変えていく。シマウマのように黒と白の模様をつけ、自らを「ゼブラ」と名乗る現在は女性の人間。豚に人の遺伝子を加えているうちに知性を獲得してしまった豚人間。身体中を機械化した人間。ナノテクとバイオテクノロジーの技術の究極は、どんな魔法も、ファンタジー世界も、または、天国や地獄も実現可能にしてしまった。そして、その崩壊も。
 とにかくアクションと異質な光景に満ちた21世紀最初のSF作品のひとつである。
 楽しめ。
 それにしても日本だったら、○○文庫や○○新書のような形で、1時間もあれば読める作品になっているだろうに。そうして、売れたらシリーズ化して、50話くらいのアニメ化して、実写映画化して、キャラクターにして儲けるだろうに。何もかも1冊に突っ込んで、これでもか、これでもか、と、読ませ続けるあたりが、イギリスなのだろうか。
 気軽に読むような娯楽作品なのに、この長さと厚さはなに??
 本書「カズムシティ」と「啓示空間」は、同じ宇宙史で時期的にも重なっているところはあるが、内容には重なるところがないので、独立して読める。「啓示空間」のように、移動中の近光速船、ふたつの惑星の物語が入り組んでいるのと違って、ふたつの物語が時系列でそれぞれ語られるので、「カズムシティ」の方がはるかに読みやすい。内容としても、「カズムシティ」の方がアクション、ビジュアル的であり、最初に読むなら、「啓示空間」よりもとっつきやすいだろう。
英国SF協会賞受賞作品
(2006.08.12)

空飛び猫

空飛び猫
CATWINGS
アーシュラ・K・ル=グウィン
1988
SFか? と、聞かれるとつらいのだが、ル=グウィンだから許して欲しい。
猫ばなしである。猫とイルカはどうにもSFの相性がよいらしく、いろんな作品に登場する。とりわけ猫は愛されている。「夏への扉」(ハインライン)を出すまでもない。猫にはSF魂をゆさぶる何かがあるのだろう。
さて、ル=グウィンの猫好きはSF界ではよく知られた話である。
そこで、「空飛び猫」である。絵本で、日本では村上春樹が翻訳している。
村上春樹も猫好きな作家のひとりであり、英文の好みがはっきりしている作家である。
そして、ル=グウィンの文章が好きなのだ。
評論するような内容ではない。
あるとき、羽の生えた猫が4匹生まれたのだ。羽は飾りではなく、空を飛ぶことができた。だから、羽のない母猫は、4匹の子猫たちに語りかける。「飛びなさい」。
そして、冒険がはじまる。
それだけ。
十分じゃないか。
どこかには、いるのである。
羽の生えた猫や、犬や、ねずみが。
空を飛んでいるのである。きっと、間違いなく。
それを知っている方が、知らないでいるよりもずっと幸せになれる。
そう、思いませんか?
(2006.08.03)