テメレア戦記Ⅳ 象牙の帝国


EMPIRE OF IVORY

ナオミ・ノヴィク
2007

 漆黒のドラゴン・テメレアと、その乗り手であるローレンスの物語も4巻目に入った。第3巻では中国からトルコ、プロイセンとユーラシア大陸を西へ西へと旅した一行であった。幾多の出会いと冒険と闘いとそして死と別れ。中国に行く間、ナポレオン戦争といわれるヨーロッパ中を巻き込んだ長い大戦からは少しだけ距離を置いていたテメレアとローレンスであったが、ヨーロッパに近づくにつれ、再びナポレオンの濃い影を見る。そしてそこには思わぬ強敵の姿もあった。苦しみの中でようやくローレンスにとっての故郷である英国に帰還したものの、時をおかずにアフリカ大陸をめざすことになる。
 イギリスをはじめヨーロッパにとってのアフリカとは奴隷貿易の地であった。すでに第2巻で中国に向かう途上、テメレアは奴隷貿易で奴隷船に乗せられるアフリカ人たちの姿を見て、自分達英国におけるドラゴンの位置づけや人間が人間を支配する姿に疑問をもっていた。今度はそのアフリカである治療薬を探すために率先してアフリカに入ることになる。それはローレンスにとっては辛く厳しい旅になり、テメレアにとっては闘うことの意味や竜の基本的権利、人間社会や国家との関係性などについて深く考える機会ともなる。

 父親は国会議員として奴隷制廃止に尽力するも貴族として英国の格式を重んじる存在。その父に反発するように海軍士官を経て軍の中ではもっとも下に見られる空軍士官となった息子のローレンス。しかし、そのローレンスも父親譲りの格式を重んじ、法や作法に厳格であることは変わらない。ゆるい規範の空軍の実務重視の姿勢に慣れつつも、ときおりみせる堅苦しさは隠しようがない。一方、テメレアは天才である。生まれて数年だが、知的にも身体能力的にも、人間よりも他の竜よりも飛び抜けて優れている存在になっていた。
 ただローレンスというパートナーのことになると、見境がなくなってしまう。それは竜の属性でもあるから。ゆえに、たとえ納得がいかなくてもローレンスのために働くこともある。しかし、本質のところではやはり譲れないものもある。
 戦争という殺すことを賞賛される愚かな時代に、生きた究極兵器として扱われる竜たち。そこで生命の尊厳について思考をめぐらすテメレア。
 華やかなアクションと息もつかせぬ展開の物語の影でテメレアの成長とともに思考は深くなっていく。
 それと同時に、21世紀の作品として、奴隷制の時代を描く作者ナオミ・ノヴィクの視点も忘れてはいけない。
 人間は何をしてきたのか、そしてこれから何をするのか。エンターテイメントであっても物語には常に時代と人間のあり方が書かれているものだ。

 もちろん、テメレアかわいい! でも、一向に構わないのだが、このシリーズの魅力はそういう重層的な深みにあることも間違いない。

 さて、アフリカの後はどこにいくのだろうか。次が(ちょっとどきどきしながら)楽しみである。

さよならダイノサウルス

ロバート・J・ソウヤー
1994

 90年代から00年代にまとめて翻訳された人気作家ロバート・J・ソウヤーの初期作品である。「星雲賞」もとっている佳作。タイトルは日本の後付けで、まあしかたないが、タイトルで手を出さないこともある。読むまでに30年ほどかかってしまった。
 時間旅行ものである。時は2013年、約6500万年前の中生代白亜紀が終わりに差しかかかるタイミングに向けてはじめての超過去調査が行なわれようとしていた。搭乗するのはふたりの古生物学者。主人公のブランドン・サッカレー44歳、離婚歴あり。もうひとりはクリックス。サッカレーにとっては古くからの元親友であり、学問上のライバルであり、そして、やはり学友だったサッカレーの元妻と付き合っているとサッカレーは思っている。実に不幸な組み合わせである。
 さてさて、タイムマシンの理論が発見されたのは2005年、2007年に発見者のチン=メイ・ファン教授はノーベル賞が授与され、そして2013年にはタイムマシンが完成したのである。驚くべきことだ。
 さてさてさて、約6500万年前の問題とはなにか。それは中生代から新生代に入る際に起きた恐竜などの大量絶滅問題である。現在では巨大隕石衝突とそれにつづく気候変動が主な原因と考えられているが、火山活動説やそのほかの説もまだ生き残っているようだ。
 ということで、古生物学者にとっては、絶滅直前の進化の頂点にあった恐竜や生態系をこの目で確かめ、可能ならば恐竜を持ち帰ることが使命として与えられていた。
 そして無事過去に「行った」ふたりは、そこで意外な事実を目の当たりにする。いまさらではあるがネタバレになるので細かくは書かないが、ひとつだけ書いておくと重力が小さいのだ。恐竜がなぜ巨大化したのか、それは重力が小さかったからなのだ。いやいや待て待て、重力は質量によって決まるのではないか? どーゆーことよ。いやいやそーゆーことよ。ゼリー状の生物?隊列を作る恐竜? いやいやいやいや、まてまてまてまて。
 しかもタイムトラベルものだから当然タイムパラドックスというものがつきまとう。
 恐竜絶滅直前の恐竜の姿、地球の秘密、さらには過去と現在をむすぶタイムパラドックス。サッカレーとクリックスのからむ三角関係もあって、とにかく話を詰め込みましたよ、ソウヤーさん。でも軽い気持ちでふふふんと読めるザ・エンタメ作品だ。

テメレア戦記Ⅲ 黒雲の彼方へ

ナオミ・ノヴィク
2006

 中国でいろんなことがあった黒く誇り高き竜のテメレアとその担い手であるキャプテン・ローレンス。いよいよ英国に向けて帰ることになるのだが、そこで急報が入る。トルコ皇帝から竜の卵を譲り受け英国に持ち帰るように、と。しかし、とある事情で海路をとることができなくなってしまう。竜の卵がいつ孵化するのか分からない以上、最短ルートで向かうしかない。つまり陸路。幾多の砂漠や山脈を抜けていくほかない。元・海軍士官で海のことならば何でも知り尽くしているローレンスも、陸、しかも砂漠や高山はさっぱりである。幸いテメレアは大きく、必要なスタッフを乗せて遠くまで飛ぶことは可能だが、食料や水の不安もあるし、地図の不安もある。そこで英国からの急使としてやはり陸路をやってきた孤高の男・サルカイに道案内を頼むことになった。どこか得体の知れないサルカイ。不慣れな砂漠や砂漠の町で起きる事件。たどりついたトルコでの暗澹たる出来事。さらには、トルコからヨーロッパに入り、ふたたびナポレオン戦争のまっただ中へ。はたしてローレンスとテメレアは無事竜の卵をもって英国にたどり着けるのか?
 喉の渇くような旅と闘いが続く。

 私的な話で恐縮だが若い頃パキスタンを縦断したことがある。特になにか思い入れがあったわけではなく、たまたま手に入れた航空券がパキスタンの南の商業都市カラチに立ち寄るオープンチケットで、それならばとカラチからペシャーワル、ギルギット、そして、フンザまで鉄道やバスを乗り継いで行ってみることにした。どこまでもどこまでもどこまでも遠くまで見渡せる果てしない乾燥した大地、はるかに脈々とそびえる7000メートル級の山々。厳しい太陽の光。貴重な水。いや若気の至りであるが、後悔はない。まあ多少危ないこともあったが、幸いにしてこうして思い出話にすることができる。
 そうそう、この舞台のトルコにも滞在したことがあって、イスタンブールにものべ10日以上居たし、アジアサイドのアンカラやシノッブ、ギョレメ(カッパドキア)などにも行ったものだ。その旅の記憶を思い起こしてくれた。

 竜は大食漢だし、お世話は大変だけど、パートナーとして馬よりもずっといいなあ。なんといっても飛べる。飛べて話し相手になる。最高。しかもテメレアは頭良いし。まだ若いから思考がまっすぐで猪突猛進なところはあるけれど、多言語を簡単に覚えて使いこなし、数学にも長けているなんて、すばらしい。
 一緒に砂漠の旅を楽しもう。(大変だけど)。

テメレア戦記Ⅱ 翡翠の玉座

THRONE OF JADE

ナオミ・ノヴィク
2006

 フランス軍のイギリス本土上陸作戦を防ぎ、立派な英国のドラゴン空軍の一員として周りから受け入れられた漆黒のドラゴン・テメレアと、元海軍将校のキャプテン・ローレンス。しかしテメレアは中国皇帝がナポレオン皇帝に下賜した卵から生まれた稀少な竜。英仏の海戦による正当な略奪とはいえ、中国側が黙っているはずはなく、第二巻ではいきなり中国側が皇帝の兄ヨンシン皇子を使節団としてイギリスに派遣してきた。いわく皇帝が皇帝に贈ったものだからテメレアを返せ、戦闘に使うなど論外、さらに高貴なる人間以外がテメレアに乗るなど許されないことでありロー4レンスの搭乗は認められない…。
 英国政府は14年前に中国皇帝を怒らせてしまい、その後の貿易と関係拡大があまりうまくいっていないことからなんとか穏便にすませようとする。つまり、テメレアを返す見返りを求めることで利をとろうということ。もちろん、ローレンスが納得できるものではなく、テメレアもローレンスと離れることなど考えられない。
 さまざまな思惑の中で、ローレンスとテメレア、若き英国外交官のハモンド、中国皇子ヨンシンをはじめとする中国使節団一行は、英国海軍の巨大なドラゴン輸送船アリージャンスでとりあえず中国に向かうことになる。艦長はローレンスの画策でかつての優秀な部下トム・ライリーが再登場。一癖も二癖もある登場人物たちのなかで苦労するローレンス、アフリカの喜望峰を回り、インド洋を抜けて中国へ。途中、フランス軍との海戦があったり、巨大な「アレ」に襲われたりしながら、いよいよ中国へ。はたしてローレンスとテメレアの運命は、ローレンスとテメレアの選択は?

 いきなりの中国。いきなりローレンスを苦しめる英中外交問題。自分の運命を勝手に決めようとする人間たちにむかつくテメレア。
 おいおいナポレオンとの戦争はどうなる?
 それにしても海の旅である。テメレアは船上生まれ、海が大好きな竜だが、成長してはじめての長旅である。第一巻ではローレンスとともに空軍(空を飛ぶ竜の軍)で訓練を受ける姿が話の柱になっていたが、第二巻では海の冒険をたっぷりと味わえる。テメレアはアフリカの奴隷貿易を目の当たりにし、人間の愚かさを知る。船上では英国の竜として育てられたテメレアが、中国の様々な文化にも触れる。英国人同士も、海軍と空軍の考え方や行動規範の違いによる衝突、外交官と軍人の行動規範の違い、中国使節団との緊張含みの複雑な関わり。そこに19世紀時点での英中の階級制度による問題。
 そして中国上陸。竜が数少ない英国と違い、竜が人間と共存する中国。その姿を見たことで得られるローレンスとテメレアの新たな視座。
 はたして彼らはどんな選択をするのか。できるのか。
 結末に選択が待ち構える冒険の旅。読者としてはわくわくどきどきするじゃないか。登場人物たちはとても大変だろうけれど。
 ということで、間違いなく第一巻よりも充実し、おもしろく、わくわくして、どきどきして、そして、しっかり考えさせられる。最高のエンターテイメント歴史改変ファンタジー。

ジューマの神々<バルスームふたたび>

THE GODS OF XUMA OR BARSOOM REVISITED

デイヴィッド・J・レイク
1978

 2024年になった。私もまもなく還暦を迎える。ということは、私よりも少し年齢の高い団塊の世代の諸先輩方の中には、いわゆる終活や早逝される方々も出てくる。すると突然古書店に50年代から70年代の書籍がとても美しい状態でごっそり出てくることがある。そんな本を見かけたらなるべく確保。中身は読んでから考えよう。そうやって手にした一冊が本書「ジューマの神々」である。
「火星のプリンセス」が発表されたのは1917年。それから本書「ジューマの神々」は約60年後に発表されたインスパイア作品である。副題の「バルスームふたたび」であるが、「火星のプリンセス」で主人公ジョン・カーターが冒険した「火星」は火星人の「赤色人」たちに「バルスーム」と呼ばれていたのである。だから「バルスームふたたび」は「火星のプリンセス」の火星っぽい惑星ということになる。
 さて、ストーリーであるが、少しだけネタバレも入るけれど、ご容赦いただきたい。
 時は22世紀。地球は20世紀後半の第三次世界大戦とその後の第四次世界大戦で居住不能になり、人々は月のドームで暮らしていた。その月でも、旧超大国間の緊張は続き、人類はある意味で滅亡の危機を迎えていたのだ。
 そこで旧超大国はそれぞれ居住可能な別の星系をめざして探査を行なってきた。冷凍睡眠などをつかい探査と第1次入植を兼ねた恒星移民船である。
 人類が居住可能な惑星には人類と同様の知的生命体がいることは想定されていた。その制圧のための武器も用意して…。
 エリダヌス星系で現地では「ジューマ」と呼び表す赤い惑星の天体観測員カンヨーは惑星周囲の旋回星群のなかに異質な星をみつけた。それは神々の船ではないかと考えられた。
 その船こそ、人類の乗る星間宇宙船リバーホース号であった。時は地球歴2143年3月26日。その惑星は、21世紀初頭に書かれた小説に登場する「虚構の惑星」にとてもよく似ていた。地球より小さく、月より大きく、人類が居住可能な大気があり、やや暑く、乾燥しているが水は存在し、惑星には人類の歴史よりもはるかに長い長い時をかけて構築されたと考えられる運河がはりめぐらされていた。しかし、その惑星の月に惑星の住民が訪れた形跡もなく、宇宙開発や高度な都市開発の形跡もない。文明社会ではあるが、高度な科学社会ではない。「適切な予防措置を講ずる限り、原住民と深刻なもめごとが起きるはずはあるまい」と接触前に船長は記録に残している。

 主人公のトム・カースンはいちはやく「原住民」の言語を習得し、初期の接触要員として地上に降りる。そこで目にしたのは蒸気機関も電力もない中世さながらの王国の姿であった。地球人そっくり、いや「バルスームの赤色人」そっくりな姿である。
 船長は入植船の方針に沿って原住民を制圧、支配下に置き、人類の入植をすすめるつもりである。トム・カースンは、「武力制圧は避ける」ことをめざしながらもやはりジューマの人々から「神」と呼ばれ、人々を未開の人々のように考える傾向にもある。それでも船長の好戦的、高圧的な態度には辟易している。
 そのジューマの人々であるが、基本的には無性として生まれ、やがて男性態になり、その後に女性態を経て、最終形態として無性態に戻る人類よりも長命な種族でもある。いまだ複数の国家として紛争もあるが総じて安定した社会を保っている。
 そこに人類という異質なものたちが入ってきたのだ。
 さあ、どうする。さあ、どうなる。

 物語は主にトム・カースンの視点で描かれるが、次第に明らかになるジューマの秘密、人類の行く末、愚かさ。

 悩ましい本だった。1970年代ということを考えるとところどころに出てくる男性優位な表現はとても今日的ではない。表紙だって、「火星のプリンセス」さながらの王女の精悍なヌードである。もちろん、これは作品中の登場人物を美しく書き上げたすばらしい絵ではあるのだが、やはり今日的ではない。まあ当時であっても、当時中学生の私はこの表紙の本を手に取って本屋のレジに行く勇気はなかっただろうが。一方、成長に応じて性転換していくなかでのマイノリティの存在や扱いなどは21世紀初頭の今日的な視点も込められている。
 SFに性やセックスが、「ベムと美女」ではなくきちんと取り入れられたのは1960年代後半のロバート・シルヴァーバーグあたりからではないかと思うが、エンターテイメント重視ではあるが社会と性についても思考実験をしているあたりは新しい。
 少数でありながら強力な武力を持った宇宙からの侵略者である人類と、侵略される側になる多数を占めるジューマの人々の緊張と緩和。書かれている内容は背景にベトナム戦争や米ソ冷戦、あるいは第二次世界大戦の記憶が色濃く反映されていて強力な武器を持つこと、侵略と対話などの寓意性も込められている。主たる舞台となる国では女王は公選挙で選ばれ、女性である期間は為政者として存在するが、老成して無性に戻るときにはつぎの女王を選ぶ選挙が行なわれる。仮に他の国を武力等で支配下に置いても、その国で選挙に選ばれなければ為政者としては正当であると認められない。そういう民主主義と紛争のあり方みたいな寓意もあったりする。とはいえ、「広島」「長崎」を都市を壊滅させる用語として使うなど、軽々しい表現も多い。
「火星のプリンセス」をインスパイアしているが、アンチテーゼとも読める。
 すくなくとも、21世紀において新たに出版されることはないだろうが、時代背景を含めて考えれば軽めのエンターテイメント作品の中に人類のもつ善と悪の拮抗をうまく取り入れた挑戦的な作品であるとは思う。
「火星のプリンセス」を読んだら、派生作品として本書を楽しみ、かつ、いろいろ考えるきっかけにしてはどうだろう。