フィルムマラソンの記憶

 広島市タカノ橋商店街にあった、夢売劇場サロンシネマ。1980年代当時、同所にはサロンシネマとタカノ橋日劇のふたつの映画館があり、私が広島を離れた後、1994年にタカノ橋日劇がサロンシネマ2と名称を変えたらしい。2014年には市の繁華街中心部の八丁堀に移転したという。
 だからここからはタカノ橋サロンシネマ1のことを「サロンシネマ」として話を進めることにする。

 映画館がひとつだけしかなかった町から出て、広島に来たとき、まっさきに頭に浮かんだのは「映画見放題」という言葉だった。とにかくたくさん映画を見よう、そう心に決めた。すでに「レンタルビデオ(VHS)」という商売ははじまっていたが、当然のことながら大学1年の頃はテレビもなく、2年以降もテレビはあったもののビデオデッキを持っていたのはごく少数の友人たちだけであった。そんな時代のことだ。
 大学と下宿の間にあって最も近い映画館、それがサロンシネマとその下のフロアのタカノ橋日劇である。先に話をしておくと、タカノ橋日劇は、かなりの頻度で日活ロマンポルノを上映する映画館である。樹木希林が若い頃に出ていた作品とかを流したり、マニアックな「日劇」であった。
 さて、サロンシネマという映画館は独立系で大手のロードショーはほとんどかからず、広島を素通りした作品や過去の名作を、監督や女優、あるいはその時々のテーマ設定に合わせてフィルムを仕入れて上映する「名画座系」映画館である。時には「迷画」も恐れずに上映するとてもよい映画館で、ここで過去の名作・迷作をたくさん見ることができたのはどんな学業よりもいい学びになった。
 よせばいいのにアンドレイ・タルコフスキー特集なんかもやっていて、「ストーカー」と「ノスタルジア」の豪華二本立ては最高によく眠れた。入れ替えがないのでこの2本を2回転、ほぼずーっと一日中サロンシネマにいたってこともあった。
 サロンシネマは、すべての座席がいまのシネコンのプレミアムシートよりもずっと広い革張りでカウンターテーブル付きという超豪華な映画館だったのだ。ビルは古いし、映画館としても正直少しくたびれてはいたが、支配人の映画への愛情に満ちていたのだ。

 そんなサロンシネマの一番のお楽しみが、定期的に開かれる FILM MARATHON(フィルムマラソン/フィルマラ) である。土曜日の夜遅く、21時半の開演を前にわらわらと少しゆるめの過ごしやすい格好をした若者やおじさんが灯りのほとんど消えたタカノ橋商店街に集まってくる。100席のサロンシネマには、時には当日券を求めてやってきて満席と聞き、がっくりとした人に、立ち見でよければいいよ、とささやく声も聞こえたりする(時効だからね)。立ち見と言っても通路に座布団を敷いてくれるので安心だったり。
 そして夜を徹して4本ぐらいの映画を見続けるのである。明け方にはもうろうとなり、現実と非現実の境目が分からなくなったりして…。

 学生時代の4年間を中心にかなりの回数を行ったのだが、何回行ったのかは覚えていない。ただ、先日、実家の片付けをしていたら、当時のパンフレットがいくつか出てきた。
 そう。フィルムマラソンにはパンフレットがついてきたのだ。手書きの、色上質紙に謄写版刷りの同人誌的パンフレットである。最高!
 手元にあるのは1983年の #32から、#33、#36、#37、#42、#43、#51、#54、そして1987年の#64まで9回分である。次回予告なども含まれているのでこの頃、どんなフィルムマラソンがあったのか、それからその当時どんな映画をサロンシネマが上映していたのか紹介しておきたい。個人的な備忘録でもあるのだが。

#32 1983年「SF&ホラー怪作特集」
最後の猿の惑星(1973年、J・リー・トンプスン監督)
ホラーワールド(1979年、リチャード・シッケル監督)
ロッキー・ホラー・ショー(1975年、ジム・シャーマン監督)
大好評予告編大会
?ムービー
ヘビーメタル(1981年、ジェラルド・ポタートン監督)
終了6:30

 はじめてロッキー・ホラー・ショーの洗礼を受けた記念すべき日。早くから来た常連はクラッカーをもらっていて、くだんのシーンでパパパパパン!と。映画は劇場でみんなで見るものだ。?ムービーは、…たぶん フレッシュ・ゴードン(1974年、マイケル・ベンベニステ監督)。「フラッシュ・ゴードン」のパロディポルノ映画。どの作品も最高にくだらない。

#33 1984年1月21日、28日(土)「ヒロイン特集(PART3)」
テス(1979年、ロマン・ポランスキー監督)
グッバイ・ガール(1977年、ハーバート・ロス監督)
インターミッション&好評予告編大会
夢追い(1979年、クロード・ルルーシュ監督)
ローマの休日(1953年、ウイリアム・ワイラー監督)
終了7:30

 ナスターシャ・キンスキー最高!長い長い映画です。オードリィ・ヘップパーン最高!朝5:30からオードリィの洗礼を受けると、最後には涙腺が崩壊します。

#34 1984年3月10日、17日(土)「アカデミー作品賞特集」
アラビアのロレンス(1964年、デビット・リーン監督)
炎のランナー(1981年、ヒュー・ハドソン監督)
わが命つきるとも(1967年、フレッド・ジンネマン監督)
クレイマー・クレイマー(1979年、ロバート・ベントン監督)

 この回は行っていないと思う。ちなみに全席指定券1400円だと。

#36 1984年「ヨーロッパ傑作特集PART2」
1900年(1982年、ベルナルド・ベルトリッチ監督)
インターミッション
Z(1970年、コスタ・ゴブラス監督)
大好評!予告編大会
女の都(1981年、フェデリコ・フェリーニ)
終了7:40

 ロバート・デニーロ、イブ・モンタン、マルチェロ・マストロヤンニの3連発。濃い男たちの濃い映画3本。とくに最初の「1900年」は2部構成5時間の大河ドラマ。
 ちなみに解説を読むと、「PART1」は1983年6月に「天井桟敷の人々」「恋」「ルシアンの青春」「フェリーニのアマルコルド」でやったらしい。

#37 1984年6月2日、9日(土)「ルキノ・ヴスコンティ監督特集」
郵便配達は二度ベルを鳴らす(1941年)
山猫(1963年)
インターミッション
ルードウィヒ―神々の黄昏―(1972年)
毎度おなじみ予告編大会よ!
イノセント(1976年)
終了8:40

 見たんだよなあ、たぶん。記憶にない回だがパンフレットはある。ただ同時期に日中のフェアで「ベニスに死す」「地獄に墜ちた勇者ども」もやっていて、こちらは見た記憶があるので見たのだろう。美しいけど映像がくどいのよ。

#38 1984年7月14日、21日(土)「SF傑作特集」
ダーク・クリスタル(1982年、ジム・ヘンソン監督)
博士の異常な愛情(1963年、スタンリー・キューブリック監督)
ニューヨーク1997(1981年、ジョン・カーペンター監督)
バンデットQ(1981年、テリー・ギリアム監督)
ブレード・ランナー(1982年、リドリー・スコット監督)

 パンフレットはないが、この回は見ている。記憶がはっきりある。やはりSF作品が好きなのだ。ダーク・クリスタルの人形の微妙さ加減にはじまり、暗い気持ちになる2作を経て、楽しい気持ちい切り替え、最後はじっくりとハリソン・フォードとルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングの演技に入り込んだのであった。ブレード・ランナーは公開時に映画館では見ていないので、たぶんこの時が初回。その後何回も何回も見たけれど。

#39 1984年8月18日、25日(土)
ジャスト・ア・ジゴロ
地球に落ちてきた男
ロッキー・ホラー・ショー
冒険者たち(予定)
ミッド・ナイト・エクスプレス(予定)

 こちらは#37のパンフレットに書かれていた予定。見ていないが、日中にデビット・ボウイの2作(ジャスト・ア・ジゴロ、地球に落ちてきた男)は見ている。格好良いよ、ボウイ。

#42 1984年たぶん10月「ベトナム後遺症映画特集」
地獄の黙示録(1980年、フランシス・コッポラ監督)
ランボー(1982年、テッド・コッチェロ監督)
インターミッション・クイズ
ブルーサンダー(1983年、ジョン・バダム監督)
予告編大会
タクシー・ドライバー(1976年、マーチン・スコシージ監督)
終了6:30

 とても印象深い回。正直なところ「ブルーサンダー」の印象が残っていないのだけれど、それだけ他の3作の衝撃が大きかったのだ。監督もすごいが、マーロン・ブランド、シルベスター・スタローン、ロバート・デニーロである。3人が3人ともちょっと狂気のある主人公を演じる。明け方のデニーロは怖いよ。

#43 1984年11月10日、17日(土)「西ドイツ映画傑作特集」
フィツカラルド(1983年、ウェルナー・ヘルツォーク)
ブリキの太鼓(1981年、フォルカー・シュレンドルフ)
インターミッション
マリア・ブラウンの結婚(1980年、ライナー・ファスビンタ監督)
予告編大会だよ!
Uボート(1982年、ウルフガング・ベーターゼン監督)
終了7:50

 まだドイツが統一される前のこと。ドイツは西ドイツと東ドイツに分断されていて、東西冷戦米ソ冷戦の最前線になっていた。ナチスドイツから民主化された西ドイツには深い戦争の傷跡があり、それが新しい文化を生んでいく。2~4作目はすべて戦争映画である。そして冒頭の「フィツカラルド」の衝撃! 映画の内容も衝撃的だが、なんといってもドイツの名優、主演のクラウス・キンスキーの狂気。よくよく見れば、ナスターシャ・キンスキーにはクラウスのおもかげがある。父ちゃんだ。という衝撃。

#44 1984年12月15日、22日(土)「日本映画青春傑作特集」
さらば愛しき大地(柳町光男監督)
パンツの穴(鈴木則文監督)
家族ゲーム(森田芳光監督)
すかんぴんウォーク(大森一樹監督)
竜二(川嶋透監督)

 #43のパンフレットから。洋画館だけどこういうのも遠慮なくやるのがサロンシネマの良いところ。「家族ゲーム」と「竜二」は日中に見た記憶がある。森田監督の松田優作はすごかった。

#45 1985年1月19日、26日(土)「ヒロイン特集PART5」
テス(1980年、ロマン・ポランスキー監督)
アリスの恋(1975年、マーチン・スコシージ監督)
グッバイ・ガール(1978年、ハーバート・ロス監督)
愛と哀しみのボレロ(1981年、クロード・ルルーシュ監督)

 こちらも#43のパンフレットから。「愛と哀しみのボレロ」はとても長い映画だけど、いまでも本気で見る価値のある映画。音の良い環境で見たい。

#51 1985年7月13日、20日(土)「たまらなく好きなのヨ 映画特集」
ナチュラル(1984年、バリー・レヴィンソン監督)
ロマンシング・ストーン秘宝の谷(1984年、ロバート・ゼメキス監督)
インターミッション クイズも好きになってネ!
ハノーバー・ストリート哀愁の街かど(1979年、ピーター・ハイアムズ監督)
予告編大会
追憶(1974年、シドニー・ポラック監督)
終了6:20

 ロバート・レッドフォード作品にはさまれたマイケル・ダグラスと、ハリソン・フォード。この回、結果的には全部バーブラ・ストライサンドが持っていったと思う。

#52 1985年8月16日(金)、17日(土)「東宝アイドル映画特集」
すかんぴんウォーク(大森一樹監督)
みゆき(井筒和幸監督)
夏服のイヴ(西村潔監督)
エル・オー・ヴィ愛NG(升田利雄監督)

 #51パンフレットから。夏休みだねえ。

#53 1985年9月14日、21日(土)「ヒロイン特集PART6(女優賞編)
トッツィ
プレイス・イン・ザ・ハート
(以下から2、3本)
ジュリア/結婚しない女/9時から5時まで/ひまわり
    /愛と喝采の日々/ローズ・グロリアほか

 #51パンフレットから。

#54 1985年12月14日、21日(土)「ホラー!見てごらんPART4SFXファンタジー編」
ヴィデオ・ドローム(1982年、デヴィッド・クローネンバーグ監督)
イレイザー・ヘッド(1977年、デヴィッド・リンチ監督)
インターミッション クイズ
スキャナーズ(1981年、デヴィッド・クローネンバーグ監督)
ファンタスティック・プラネット(1973年、ルネ・ラルー監督)
予告編大会
未知との遭遇特別編(1980年、スティーヴン・スピルバーグ監督)
終了6:45

 私はホラーが苦手だ。SFは好きだが。リンチのイレイザー・ヘッドで出てくるビルのつくりつけスチームヒーター(デロンギの電気のような形状のやつ)のシューシューいう音が耳について、いやあ怖かった。ほかの印象を払拭するぐらい怖かった。ちなみに、私は後にフィレンツェでモデルとなった「赤ん坊」のオリジナルの彫刻をみることになる。

#55 1986年1月11日、18日(土)「ごちそうさま!のフルコース 映画特集」
時計仕掛けのオレンジ(スタンリー・キューブリック監督)
スプラッシュ(ロン・ハワード監督)
愛と哀しみのボレロ(クロード・ルルーシュ監督)
アウトサイダー(フランシス・コッポラ監督)

 #54のパンフレットからだけれど、この回見てる。

#56 1986年2月15日、22日(土、予定)「ヒロイン特集PART8 ナスターシャ・キンスキー特集」
テス(ロマン・ポランスキー監督)
殺したいほど愛されて(ハワード・ジーフ監督)
今のままでいて(アルベルト・ラットゥアーダ監督)
パリ、テキサス(ヴィム・ヴェンダース監督)

 #54のパンフレットから。見てないな。でも、「パリ、テキサス」はよかった。

#64 1987年1月31日、2月7日(土)「青春映画特集」
ファンダンゴ(1984年、ケヴィン・レイノルズ監督)
ストレンジャー・ザン・パラダイス(1984年、ジム・ジャームッシュ監督)
インターミッション クイズで息抜き
?ムービー
予告編大会
ホテル・ニューハンプシャー(1984年、トニー・リチャードソン監督)

 良かった!たぶん大学生最後の頃、見るべき映画を見たという感じ。この回はほぼロードムービー特集だったと思う。ファンダンゴはいまでも定期的に見たくなるし、ジム・ジャームッシュ監督を知ったのも嬉しい。スタイリッシュで良かった。でも?ムービーはなんだったっけ。

#65 「ウディ・アレン・フィルム・フェスティバルPART2」プラス1
サマーナイト
カイロの紫のバラ
ブレードウェイのダニー・ローズ
?ムービー
カメレオンマン

 #64のパンフレットから。

ここからは、この期間にサロンシネマで上映されていた映画のうち、手元にあるパンフレットに載っている作品のリスト。
フランス・シネマ・フェア
気狂いピエロ
彼女について私が知ってる二・三の事柄
ゲームの規則
抵抗
去年マリエンバードで
24時間の情事
ヴィスコンティ・フェア
山猫
熊座の淡き星影
ルードウィヒ
夏の嵐
ベニスに死す
地獄に墜ちた勇者ども
広島初公開
ガープの世界
時計じかけのオレンジ
新作予定
ディーバ
パッション
8 1/2
ノスタルジア
カルメンという名の女
サン・スーシーの女
大魔神広島リバイバル公開
大魔神
大魔神怒る
大魔神の逆襲
広大生協主催広島初公開
サンロレンツォの夜
暗殺のオペラ
ジェームズ・ディーン特集
エデンの東
理由なき反抗

マイ・フェア・レディ
パリの恋人
ローマの休日

 こうやってみると私の映画鑑賞人生の大きな要素を占めている。タルコフスキーに浸れたのもここのおかげ。いまだに「ノスタルジア」は見てしまう。
「ファンダンゴ」「ディーバ」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は私のオールタイムベストに入っている。戦争映画では「サンロレンツォの夜」「ブリキの太鼓」ここには出ていないが「ミツバチのささやき」。「ロッキー・ホラー・ショー」も衝撃だった。「1900年」や「テス」「愛と哀しみのボレロ」のような長編のおもしろさも映画館ならではである。
 もちろん他の映画館で80年代の多くの映画も見ている。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「ベルリン天使の詩」「ブラック・レイン」。長じてなかなか映画館には行かなくなったが、やはり映画は映画館で見たい。
 近年見たIMAXでの「AKIRA」や「2001年宇宙の旅」は実に良かった。
 余談ついでに下高井戸に住んでいた頃、下高井戸シネマにもたまに行っていた。こちらも名画座。よい作品を教えてくれる。いま住んでいる湘南だと、藤沢にシネコヤという小さな映画館がある。シネコヤが固定館になる前に2本ほどいい映画を見た。なかなかタイミングが合わずに行けないでいるが、作品ラインナップは注目している。ネット配信時代、こういう映画館は大切にしたい。

宇宙からの訪問者(再)


THE VISITORS
クリフォード・D・シマック
1980

 50歳代も終わりに近づき、短期記憶の能力低下は著しく感じていたが、長期記憶も実にあやしくなっていくのを実感した。
 先頃、シマックの本が古書店に並んでいるのをみかけ、おそらく読んでいないと思うものを数冊入手。まずは「超越の儀式」を読んで80年代の「ニューシマック」を初体験したつもりになっていた。
 そして、本書「宇宙からの訪問者」を2022年12月から1月頭まで、数章ずつ読みついでようやく読み終わり、オチに感心して本を閉じたのだった。なるほどシマックらしいきれいな終わり方であったし、なんともいえない不思議な読後感を得て、さて、シマックの本、どれくらい持っていたかと自分の本棚を眺めてみると、おやおや「宇宙からの訪問者」が並んでいるではないか。そうか、読書ブログをはじめる前に読んでいたんだなと得心し、ではシマックのどの本を読書歴に残しているかと調べてみたら、おやおやおや、「宇宙からの訪問者」を読んで、書いているではないか。記録によれば2005年3月に読書録を書いている。
 ここだ。宇宙からの訪問者

 まったく記憶にございません。

 驚くべきことである。新年早々、自分自身に大笑いし、家族や周りの人間にも、笑えるエピソードとしてさっそく自虐ネタにして披露した次第である。人生はおもしろい。

 ところで本書の内容だが、宇宙からの「訪問者」の物語である。この訪問者、真っ黒いすごく大きな立方体である。少し宙に浮いているから重力の制御ができる。木を食ってセルロースのふわふわ塊を排出する。途中からはちょっとだけど自動車まで食べる。最初に降りてきたとき、かっとなって銃を撃った男は一瞬にして死んでしまったが、それ以外、基本的に攻撃はしていない。近くにいた人間一人と動物数種類を一度中に取り込んだが、しばらくして全部外に出してしまう。取り込まれた人間は樹木専門の植物学の若い研究者で、その「訪問者」の思念のようなものを感じ取ったが決して双方向のコミュニケーションが取れたわけではないらしい。主要な登場人物は、この青年、その彼女の新聞記者と、新聞社の同僚や上司、それとは別フェーズで大統領と首席報道官とその彼女と彼女の父親の大統領とは敵対する上院議員。それらに関わる人々。
「訪問者」は小さな立方体の「子」を生み、育ち、広がる。また、他の仲間の「訪問者」も次々と地球に降りていくが、木を食べることと、少々の自動車を食べたほかは、特に何もしない。最初に起きたパニックはやがて収まり、「訪問者」のいる世界に慣れるしかないかなあという感じになっていく。
 ドンパチなし。しかも「訪問者」はなぜだかアメリカのみに降りてくるので、ソ連をはじめ対立国も同盟国も様子見、国連が国際管理にしようと提案するが、アメリカとしては「訪問者」からの科学技術軍事的おこぼれを期待してやっぱり様子見。
 深刻な国際対立は起きそうで起きなかったりする。
 深刻な国内対立も起きそうで起きなかったりする。
 経済は大混乱、政治家は困惑。新聞記者はスクープ求めてはいるが、一方で「侵略」とか「秘密」とか、人々のパニックを起こさせるような、あるいは売るために煽るようなことは行なわず、冷静に、自制的に、倫理的に立ち入る振る舞う。報道者の鑑である。
 一番迷惑なのは宗教家とそれに集まる人々という書き方だが、これもシマックらしい。
 解説に書かれていたが、シマックは長く新聞記者や新聞社での仕事を続けていたから、その時の経験が生きているのだろう。
 シマックの人や生命に対する目線は暖かい。でも、それだけでもない。

 古い作品だが、今読んでも実におもしろい。
 もし、今、現実に同じことが起きたら政府は、軍は、報道者は、そして、人々はどう振る舞うだろう。
 そして、20年ぶりに読み直して、本筋とは直接関係ないが、一番心に残ったのは35章の最後の一文である。
 それは報道官と大統領の会話で、エネルギー危機について脱石油し太陽エネルギーとロスのない貯蔵、分配システムへの投資に理解が得られないことに対し、大統領が、「議員の半分は大エネルギー企業のいいなりだし、あとの半分は、国会議事堂を出たあと、よくぞ家までたどりつけるもんだといいたいほどのあほうども」とくさし、続けて、「そのうちにな、そのうちとはいつなのか、教えようかね。ガソリンが一ガロン五ドルにもなり、配給切符で買えるだけの三ガロンを手に入れるために、並んで何時間も待たなきゃならなくなる時だよ。冬のさなかに暖かくしておくだけの天然ガスが使えないため、寒い思いをするようになる時だよ。電気代をきりつめるために、二十五ワットの電球を使うようになる時だよ…」
 ちなみに解説すると、1980年代から2000年代頃、アメリカのガソリン価格はだいたい1ガロン1ドル前後。そして、2000年代に入ると全般には上昇局面に入る。2009年のリーマンショック直前には1ガロン4ドルあたりまで上昇したがその後2~4ドルで推移。2022年にはロシアのウクライナ侵攻の影響もあり一時、本書で書かれている1ガロン5ドルを地域によっては上回る瞬間があった。もちろん、まだ配給切符はないし、白熱電球は廃れ、25ワットもあればすごく明るいLEDライトが輝く未来に生きているが、シマックの指摘通り、目の前にあるエネルギー危機、気候変動危機については、本当にどうしようもなくなるまで政治も、国際社会も、そして、人々も大きく動かないだろう。でも、それではどうしようもないのだから、変わる、変えるしかないのだけれど。
 20年前は読み飛ばしてきたこの一文のところにひっかかるのは、それだけ自分の中でも事態の深刻さが身に沁みてきたからだろう。

超越の儀式


SPECIAL DELIVERRANCE

クリフォード・D・シマック
1982

 40年ぶりにシマックを読んでいる(気がする)。王道文学的SFの大作家である。当時読んでいたのは「都市」(1952)「中継ステーション」(1963)「子鬼の居留地」(1968)と、私が生まれる前後のSF黄金期の作品群である。だいたい高校時代に読んでいたのだが、その後1970年代終わりから1890年代の作品については大学時代、読みそびれていた。
 80年代は、50、60年代に活躍したベテランSF作家が新たな装いで作品を発表しており、シマックも「ニュー・シマック」となって再注目を集めたのだ。
 本書「超越の儀式」は80年代らしい味付けで、それでいてシマックらしい文学的、幻想小説的作品となっている。
 主人公は中年の大学教授エドワード・ランシング。あるとき学生の一人のレポートが妙に上出来であるのに引用されている論文等が存在しない不思議なできごとが起きた。その学生に問いただすと、ある部屋の中にあるスロットマシンが願いを叶えてくれるのだという。半信半疑ながら、ランシングがそのスロットマシンを回すと、マシンはランシングにある場所を訪問するように促す。そして、気がついたときランシングは別の世界に放り込まれていた。そこに別の世界線を持つ世界から来た将軍、牧師、技師、詩人、ロボットがランシングを待ち受けており、この6人(5人とロボット)のパーティで、放り込まれた世界を冒険することになったのだ。
 あとがきにあるが、当時(1970年代終わりから80年代)、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)がはやり始めていた。まだ家庭用ゲームマシンやパソコンでのRPGが始まる前、「ゲームブック」と呼ばれる複数選択可能な小説がはやり始めていた。RPGはコンピュータゲームとして花開く訳だが、その直前に、紙の本ではやっていたことは実に興味深い話である。
 本作はゲームブックではないが、のちのコンピュータゲーム型のRPGに似て、それぞれの特徴を持つ人たちがチームとなって冒険していく。すでに老境の域にあったシマックが最先端の動向にも敏感であったことに驚く。
 ストーリーとしては、6人の思考や行動が、その出自の世界の世界観によって左右されていること、そして、異世界においては簡単に世界観を裏切られることを、美しくも残酷に描き出す。パーティの出立にはひとつの宿屋があり、宿の主人がいて、そこで食料や道具を調達できる。そして旅する場所で人間をみかけることはない。遺跡のような構造物やかつて賑わっていたであろう都市の残骸、そして、同じように旅したであろうパーティの痕跡があるだけなのだ。そのなかで、世界の謎、自分達がこの世界に送られた謎、求められているタスクを探していく。そんな乾いた風が吹きつけるような灰色の世界をシマックはみごとに書き上げる。
 そのなかでシマックは問いかける。人はどう生きるべきか。
 なんだか先日見た映画「君たちはどう生きるか(The Boy and the Heron)」で宮崎駿監督が言いたかったこととおんなじではないかと感じてしまった。

映画 PERFECT DAYS

PERFECT DAYS

2023

 ヴィム・ヴェンダース監督作品、役所広司主演。カンヌ最優秀男優賞受賞作品。ヴィム・ヴェンダースが撮った日本映画である。「パリ・テキサス」「ベルリン・天使の詩」のヴェンダースである。若い頃憧れた監督の一人である。ちょっと見に行きたくなるよ。
 映画好きの友人もヴェンダースらしい映画だったというので見るべしと思って年末の映画館にいったら満席で私よりも先輩らしいお姉様方が多数いらしていた。「カンヌ」「役所広司」の強さを思い知ったよ。
 いい映画であった。と同時に、ちょっと複雑な感想も持った。
 まず、映画について触れたい。
 ストーリーは平山という渋谷区のトイレを清掃する清掃会社の無口で真面目なベテランスタッフの日常、その一言につきる。浅草近くの安いアパートに一人で暮らし、朝、缶コーヒーを買って、掃除のために必要な様々な道具を積んだ軽ワゴンに乗り込み、スカイツリーが見えたら、70年代頃から集めてきた音楽カセットをかけて首都高で渋谷へ。ていねいに掃除をしては、次へ。昼は近所の神社などで牛乳とサンドイッチ。フィルム式のコンパクトカメラを取り出して、美しい木漏れ日の風景をパチリ。仕事が終わったら銭湯、駅の地下の一杯飲み屋で軽く飲んでごはんを食べて、部屋に戻って古本屋で買った文庫本を読書をしながら寝る。休みの日は本とラジカセ、現像した写真の整理、公園や神社でみつけた自生の木の苗の世話、部屋の掃除と溜まった洗濯と行きつけのスナック。くり返される日常。その日常のなかに起きるささやかなできごと。人とのふれあい、過去との邂逅。「いつかはいつか。いまはいま」。それが彼の生き方。ささやかな笑顔。ささやかな涙。ささやかな怒り。ささやかな日々。
 日本版の映画ポスターには「こんなふうに生きていけたなら」とある。
 人はこんなふうに生きたいのだろうか。

 いい映画である。ヴェンダースらしく音楽を効果的に使っている。ヴェンダースらしく都市の風景も公園もまるでファンタジーのような美しさがある。現実感の感じられない渋谷の姿がそこにある。静かで美しい日本。そうありたい世界。
 そこにいる役所広司は、「ベルリン・天使の詩」の天使役ピーター・フォークそのものだ。もちろん役所広司の「平山」は天使ではない清掃作業員である。きっとこういう人はいるのだろう。役所広司だからかっこよく見えるが日常の中汗水垂らし、ひとりで生き、なんらかの趣味や楽しみを日常の中にみつけて生きる人はいるのだろう。
 無口な平山を演じる役所広司は、わずかな仕草、顔の表情などでその内側の小さな感情のゆらぎを映画を見る者に転写してくる。演じる役所広司と演じさせたヴェンダースのみごとな映像であった。
 最高。

 ここまでが映画の感想。でも、この映画には複雑な心境がつきまとってしまう。
 それは、この映画そのものの成り立ちにも関わってくる。映画では、渋谷区にできた先進的な公共トイレがいくつもでてくる。これは、THE TOKYO TOILET というプロジェクトで整備されたトイレである。日本財団が企画し、渋谷区とともに2020年から2023年にかけて17カ所のトイレを整備。「性別、年齢、障がいを問わず、誰もが快適に使用できる」コンセプトでユニバーサルデザインでのトイレが設置された。このプロジェクトはファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井康治が主導し、電通出身のクリエイター高崎卓馬が関わっており、映画は高崎によってしかけられたと言っても過言ではない。実際、製作は柳井、脚本はヴェンダースと高崎がになっている(製作総指揮は役所)。
 ここで日本財団やユニクロについて論ずるつもりはない。
 ユニバーサルデザインで誰でも使える清潔で安心な公共トイレが設置されることには異論はない。このプロジェクトのトイレについてはいろんな意見があったようだが、性別を問わず安心して使えること、その「性別」には、男性、女性という区分だけではなくLGBTQの性的な多様性も含まれることであれば、そのコンセプトには賛成である。
 ただ、映画を見ていて複雑な気持ちになったのは、現実の渋谷区、いや現実の東京都、日本政府には、そんな優しさが欠けているという気持ちになったからである。
 話を大きくしないように渋谷区に限っていえば、のんびりした宮下公園は「公園」と名の付いたショッピングモールに変わり、ホームレスがかろうじて生活し、炊き出しなども行なわれていた美竹公園や神宮通公園では区が強制排除を進めた経緯がある。ホームレスを排除し、「清潔」なまちづくりでいくら多様性を強調しても、そこにはうわべだけの美化された非人間的、非人道的な「公園」しか残されなくなる。
 日本中あちこちにある「寝っ転がれないベンチ」は、まさにその象徴である。
 美しいけれど醜い現実がここにある
 この美しいプロジェクトで撮られた美しい映画には汚いトイレも、汚いホームレスも出てこない。唯一公園で暮らすホームレスは公園の木に抱きつき大地と交感しながらゆるやかに踊る田中泯なのだ。
 映画では、清掃作業員の平山が泣いていた子供の手を取って公園に出たところで子を探していた母親が平山から子をひったくり、手をウエットティッシュで拭き、礼をも言わずに去って行くシーンがある。そういうあからさまな差別も描かれてはいるが、それさえも平山の「美しさ」を引き立てるだけになっている。

 だから映画を見て思うのだ、この映画の中の世界は、現実にはない、と。
 この映画の中の美しい世界だけを美しいと思う気持ちにだけはなるまい、と。
 美しい映画だけれど、美しさに溺れてはいけない。

映画 オデッセイ

The Martian

2015

 アンディ・ウィアーのSF「火星の人」を原作としてヒットしたリドリー・スコット監督作品である。
 なんども書いているが、私は火星ものに目がない。古くはウェルズの「宇宙戦争」にはじまり、ジョン・カーターの火星を経て、現代に近くなればなるほど火星は身近で現実感あふれる場所になっていっている。嬉しい、楽しい。
 特に1980年代以降、火星はリアルな風景となっていく。
 映画「オデッセイ」は、その原作「火星の人」をみごとに映像化した作品である。もちろん、映画だからご都合主義や突っ込みどころはある。ありますとも。マット・デイモンが演じる火星にたったひとり取り残されたマーク・ワトニー宇宙飛行士は、思いつくだけで4回か5回は死んでいるし、救出時はちょっとどころでなく臭いはずだ。まあ、それを言ったらおしまいよ。万に一つの幸運を積み重ねて生き残る。それがこの映画の醍醐味だから。「火星にたった一人」。
 ちょっと先の未来。それほど先ではない未来。NASAの有人火星探査ミッション「アレス3」は到着早々に想定外に巨大化した砂嵐に巻き込まれミッション中断を決断する。母船への帰還船に戻る途中で主人公のマーク・ワトニーは飛んできた通信アンテナにぶつかり飛ばされてしまう。指揮官は救出を考えるが時間的に無理で死亡と判断しワトニーを残して帰還船で母船に帰り、地球へと向かい始める。
 ところが、ワトニーは大けがを負ったものの生きていた。
 地球に戻るすべはないが、アレス3ミッションの基地は無事であり、残された資材、クルーの私物、食料などをもとに次のミッション到着の4年後までのサバイバルをめざす。
 母船はもちろん、地球との交信手段もなく、ただ単独で生き残るしかない。
 幸いなことにワトニーは植物学者であり、さらに幸運なことに感謝祭用に非加熱ジャガイモが真空パックで残されていた。そして、クルーの排泄物はシュリンクパックされ非加熱で残されていた。植物、腸内細菌、そして植物に必要な栄養素。基礎でありミネラルである土はある。だって惑星だもん。水と酸素は作り出せる。二酸化炭素は十分。残された食料だけでは4年間は生きられない。ワトニーは火星で初の農業をはじめることにした。ジャガイモ栽培である。
 この映画は火星映画であるとともにジャガイモ映画なのだ。
 食料、水、酸素、与圧、エネルギー、そして通信手段、移動手段。ワトニーの孤独な火星生活がはじまった。
 映画にはいろんな楽しみがある。私たちがよく知っているマーズ・パスファインダーが良い仕事をしてくれる。
 重力が地球よりやや小さく、太陽の光も少ないが人工灯火が使えるハウス環境でジャガイモはどう育つか。茎や葉は地球よりもひょろりと垂直に育つと映画では表現されている。これもまたおもしろい。
 小説でも細かくいろんなことがていねいに書かれているが、火星の風景とジャガイモの育て方については映像表現がとても楽しい。
 小説を読んで映画を見るのがおすすめだけど、映画をみておもしろいなあと思ったら、ぜひ小説も読んで欲しい。

 どうして赤い星は私をこんなに引きつけ、饒舌にさせるのだろう。

タイム・マシン


THE TIME MACHINE

H・G・ウェルズ
1895

 近代SFの祖といえば、ジュール・ヴェルヌとH・G・ウェルズ。古典SFとも言われるが、サイエンス・フィクション、空想科学小説を小説ジャンルとして確立、位置づけたのがこのふたりであることは間違いない。
 先般、スティーヴン・バクスターの「タイム・シップ」を読んだ。「タイム・マシン」の続編として書かれた作品だが、この「タイム・シップ」を読む上で前提として「タイム・マシン」を読んだのだが、このウェルズの作品は短編集に収められており、短編集として紹介したいなあという野望を描いたのである。
 ところで、わが家には、「タイム・マシン」が収録されている文庫本が3冊あった。
 創元推理文庫の「ウェルズSF傑作集1」(阿部知二訳、1965年)
 角川文庫の「タイム・マシン」(石川年訳、1966年)
 旺文社文庫の「タイム・マシン」(橋本槇矩訳、1978年)
 である。収録されている作品はそれぞれの短編集で異なるし、訳にもそれぞれ特徴がある。この3冊に収録されている作品は
 創元「堀についたドア」「奇跡をおこせる男」「ダイヤモンド製造家」「イーピヨルニスの島」「水晶の卵」「タイム・マシン」
 角川「タイム・マシン」「盗まれた細菌」「深海潜航」「新神経促進剤」「みにくい原始人」「奇跡を起こせた男」「くぐり戸」
 旺文社「タイム・マシン」「水晶の卵」「深海にて」「新加速剤」「円錐蓋」「奇跡を起した男」「ザ・スター」
 このほかにも手元には創元の「傑作集2」、サンリオSF文庫の「ザ・ベスト・オブ・H・G・ウエルズ」があって、まとめて整理して読めるのか、自分でも自信がない。

 とりあえずこの3冊とウエブ上にあるプロジェクト杉田玄白の「タイム・マシン」(山形浩生、2003年)を読んで感想を書こうと思う。
 なんで同じ作品を4種類も読んだのか、それは翻訳が違うと作品の印象が違うからである。訳としては新しい山形訳が用語の使い方などで問題ないのだが、80万2000年が2800年と単純ミスがあったりするので注意が必要だ。文庫版の方は、差別表現があるので、その書かれた時代背景、訳された時代背景を把握した上で読んで欲しい。
 オリジナルが書かれたのは19世紀末のイギリスであり、ウェルズもまた19世紀末の人間である。また、文庫版翻訳の3訳者が半世紀前に翻訳したものでもある。それ故、いまならば使わない表現、差別的表現や用語が含まれるのだ。近年はインターネットとSNSの普及により情報の集約、拡散も早く、このような過去の社会状況や作品が現代の価値の俎上では当然批判対象になる。それは必要なことであるが、同時に作品がもつ様々な価値の否定につながらないようにしなければ、とも思う。その点で新訳が出されることは大変ありがたいことだ。
 もちろん新訳を出す上で、原著の現在では禁忌となる単語や文章表現をいたずらに改編していいわけではなく、それが作品上必要であれば注釈をつけて残しておくことも必要である。
 映像作品や漫画などでは一部で行なわれているが、過去作品を原著のまま再公開・再刊するに際し、例えば差別的表現が残っていることについてあらかじめ注釈と警告を入れておくという方法は有効だと思う。

 さて、作品の話。130年前に書かれた、タイムトラベルの最初の作品である
 舞台は現代(1895年当時)のイギリス。主人公は筆者が仮に「時間旅行者/時間旅行家・タイムトラヴェラー」と名付けた発明家の男。彼は時間と空間の秘密を解き明かし、タイムマシンを完成させた。そして、自ら未来に向けて旅立った。彼は戻ってきて、驚くべき話を皆の前に披露しはじめた。彼は80万2000年後の未来に辿り着き、そこで人類が知的能力をほぼ失ったふたつの種族に分かれていることを知る。おそらく支配階級の末裔であろう地上に住み、ただ美しく享楽の暮らしをするエロイ族と、おそらく労働者階級の末裔であろう地下に住み、灯りを嫌い、本能的に機械を整備する能力を持つモーロック族である。エロイ族とともに過ごしウィーナと名付けたエロイ族の女性と暮らした日々は長く続かず、モーロック族との争いの末にウィーナを失った彼は混乱のままに80万2000年後の世界を離れ、さらなる未来を突き進んだ。やがて地球から人類のような種族は消え、太陽もまた姿を変えていった。そして彼は時間を戻りはじめ、研究室に戻り、そしてすべてのいきさつを皆の前で話をしていたのである。証拠は奇妙な白い花がふたつ。
 そして彼はふたたび旅立ち、3年間待ち続けたがいまだに戻ってはきていない。

 作品は当時の科学技術の急速な発展を背景にした進取の気風にあふれていると同時に、資本主義の本質を解き明かしたマルクスの「資本論」を背景にした未来図を描いている。
 19世紀の終わり、それはまだ電気の時代でもエンジンの時代でもない。蒸気機関が実用化され主流を占めていた時代。そして電気とガソリンの時代が幕を開けようとしていた時代である。移動手段は蒸気機関車はあるが主流は馬車であり、灯りはランプが主流の時代である。科学と技術と社会と生き方の変化がまさに激しく起こっていた時代に「タイム・マシン」は書かれたのだ。

 ウェルズは、時間旅行という概念をおとぎ話から実現可能性を感じさせる空想科学に昇格させた、ある意味で「発明」したのである。この衝撃的な発明は、その後のSFに花開き、あまたの作品を生み出すことになる。それに伴い、思考も深まり、タイムパラドックスや多元宇宙論、量子論など、現実における科学の進展と相互作用しながらより高度な作品群が生まれ続けている。
 21世紀の現在、この作品を読めば、突っ込みどころは山ほどあるが、そういう時代背景を知り、学び、文学における知の集積と時代という制約を考える上で、この作品は決して捨て去ることのできない古典中の古典であると思う。

 他のウェルズの著作についても、あるいはその背景にあるウェルズの思想や思考についても語ることは山ほどある(だろう)が、今の私としてはここまでとしたい。

 それにしても、タイムマシン100周年記念として1995年に発表されたスティーヴン・バクスターの「タイム・シップ」はやはり名作であろう。こちらも必読としてお勧めしたい。

デスパーク

FIVE MINDS

ガイ・モーパス
2021

 人口が増えすぎ環境負荷が高まった未来。「人口削減及び環境調和法令」が世界中で運用されていた。17歳になるとその後の人生について4つの方向の選択が迫られるのである。
 現在の身体のままワーカー(労働者)になる。5年の追加教育の後、生涯を通じて労働に従事する。寿命は規定されない。
 現在の身体をアンドロイドと交換する。食事が不要になり環境負荷が最小となるので寿命は80歳まで与えられる。
 現在の身体のままヘドニスト(快楽主義者)になる。今後25年間上質な家と潤沢な手当をもらい、働かずに豊かな生活ができる。つまり42歳が寿命。
 コミューン(共有の体)に加わる。別名分裂者。5人の心を誰かひとりの身体に入れる。ひとりの寿命は25年。25年ごとに新しい身体に移す。その結果、第五の身体の寿命が尽きるのは142歳。1日は6つに分割され、5つの心は4時間ずつ自分の時間を過ごす。残りの4時間は強制休息に当てられる。5人の時間は固定され、ある者は朝だけ、ある者は昼だけ、ある者は陽を見ることはない。身体は共有するが時間は共有されないので、5人のコミュニケーションは音声かテキストのメッセージのみ。お互いに身体を大切に使うこと、入れ替え時間には安心して目ざめ、食事ができる状況にすること、それが条件。
 原題の「FIVE MINDS」はそういう意味。
 いま、アレックス、ケイト、マイク、ベン、シエラの分裂者は、デスパークにいる。ここは実質的な治外法権エリア。寿命すなわち時間をゲームによってやりとりできる場所。ひとつ目の身体が寿命を迎える直前にデスパークで寿命稼ぎをしようと彼らはデスパークにやってきたのである。
 そこで彼らは「事件?」に巻き込まれ、ひとりが「失われる」この不思議な「殺人」はなぜ起きたのか?犯人は外部の人間なのか、それとも残った4人のうちの誰かなのか?
 直接のコミュニケーションができない4人。つのる疑心暗鬼。展開される死のゲーム。
 ゲームは基本的に心を仮想空間のゲームの中に転移して行なわれる。
 そこでは、時間をかけて闘われ、時に敗者は自動的に死ぬことになる。ゲームの中で死ぬと現実でも死ぬのだ。心が失われるのだから。「デスパーク」とはそういうことだ。

「墓標都市」のあとに読んだらこちらもミステリーSFであった。
 こちらはSF的設定勝負。人間の心を転移したアンドロイドもいれば、知能を弱められた使役者としてのアンドロイドもいる。「時間」が最大の交換価値を持つ社会で、デスパークの裏の顔役、マッドサイエンティストなどがうごめく中、性格も性質も趣味も生き方も違うひとつの身体の時間をシェアする5つの心。
 一風変わった、でも、ミステリーとしての王道は忘れない、そんな一冊であった。

墓標都市

THE BURIED LIFE

キャリー・パテル
2014

 ミステリーSF三部作の第一作目。おもしろいじゃないか。
 なにか理由は知らないが、遠い昔に地上で人類は絶滅寸前の最終戦争を起こしたらしい。人々は地下に逃れ、地下に都市を築いて新たな繁栄を模索していた。すでに地上に生きることはできていたのだが、多くの人たちは地下を安住の地と定め、都市国家として他の地域や地上の村などとつながっていた。
 舞台となるのはそんな地下都市リコレッタ市。階級社会であり、市の運営は特権階級の「評議会」によって行なわれていた。評議員をはじめ「持てる」者たちはヴィニヤードと呼ばれる高級住宅エリアで貴族のようにたくさんの召使いを抱え、優雅に特権者ならではの権謀数術の暮らしを楽しんでいた。
 この世界において過去の歴史、文化、技術を調べ、学ぶことは禁忌となっていた。また同じような文明的発展をして最終戦争を起こすことを何より恐れた。それが理由であった。しかし、その禁忌たる情報や異物は評議会の下で「保存理事会」が独占していたとも言える。
 事件が起こる。保存委員会の歴史学者がヴィニヤードの自宅で何者かに殺害されたのだ。ヴィニヤードで犯罪が起きることはまれであり、殺人などかねてなかったことである。
 市警察のリーズル・マローン捜査官は新人捜査官のレイフ・サンダーとともにこの捜査にあたることとなった。しかしそれはすぐに横やりが入る。評議会が独自の捜査を禁じたのである。
 そうこうしているうちに次の殺人事件が発生する。今度は有力な評議員である…。

 さて、もうひとりの主人公はジェーン・リン。洗濯女である。ヴィニヤードに多くの顧客を抱えるフリーの洗濯女。洗濯とつくろいの確かな技術、注意深い観察眼と必要な秘密保持で信頼を得て口コミで顧客を増やしていったのである。そしてジェーンはふたつめの殺人事件に巻き込まれてしまう。潜在的目撃者としてのジェーンと禁じられても捜査を続けるリーズルのふたりは微妙な接点を持ちながら事件に深く関わっていく。
 果たして殺人事件の背景にあるのはなにか。
 それは地下都市全体の未来に関わるできごととつながりがありそうである。
 ふたりの主人公の周りには分かりやすい人、複雑な顔を持つ人、裏の顔が得体の知れない人、個性豊かな登場人物がいて、ミステリーに深みを与えてくれる。

 ミステリー作品だから、本作1作で殺人事件の犯人と謎解きは完結されるが、その背景にある大きなできごとは次の作品以降を待たなければならない。
 はたしてかつて人類に何が起きたのか。この社会の、現在の地球の全体像は。
 現在の地下都市と地上の暮らしは、基本的に産業革命以前のようであるが、どうしてそこまで後退したのか?
 世界の謎は深まるばかり。
 だって第一部だもん。
 ミステリーとしては1冊で完結しているけれど、SFとしてはここからはじまる。

 んだけどね。

 どうやら第二部、第三部が翻訳される気配がない。
「本書だけでは、わたしたちはまだこの世界のとば口に立ったにすぎない。このあとに広がるさらなる驚きの世界を日本の読者諸氏にも旅していただきたいというのが訳者の切なる願いだが、それができるかどうかは本書の売れ行きしだい…」と翻訳者の畑美遥子氏がしたためている。一読者として、本当にそれを望んでいるのだが。

火星へ


THE FATED SKY

メアリ・ロビネット・コワル
2018

「宇宙へ」の続編であり、第二部といったところ。1961年8月16日の月基地から物語は再開する。主人公の宇宙飛行士であり天才数学者のエルマ・ヨークは、月面の小型連絡船操縦士の定期任務についていた。この日、初の無人火星着陸機が火星に降り立つ。この成功は有人火星探査計画の先駆けであった。すでに月には200人の滞在者がいて様々な調査や月面開発に従事していたのだ。人類の生存をかけた星への旅の次の目標は火星に定められた。大気がなく重力も小さな月に比べ火星には薄いとはいえ大気があり、重力もある。人類の生存は火星開発が現実的と考えられていた。
 片道約1年、往復約3年におよぶ第一次火星探査隊は2隻の有人船と1隻の無人バックアップ船の3船による船団で未知の星に向かうことになる。
 物語は火星に旅立つまでの宇宙飛行士候補と周りの人々の様々なできごと、そして、火星探査船の船内での様々なできごとで展開していく。その中心には前作と同様にエルマがいる。そう、エルマは愛しの夫ナサニエルに背中を押されて火星に向かうことになるのだ。しかし、エルマが選ばれた理由はただひとつ彼女が地球の人々にレディ・アストロノートとして知られ、支持されるからである。広報的な理由である。そして、その結果、計算者時代の同僚であり、台湾系アメリカ人のヘレンが探査チームからはずされることになった。すでに訓練は長く続いていて、エルマが入ることで探査チーム内には不和が生じてしまう。当然、それは「割り込んだ」エルマに向かう。四面楚歌のエルマは、それでも火星に向かうのであった。
 前作に続き、1950年代の技術で人類は火星に到達できるのか、その可能性を徹底して追求し描き出した究極のハードSFである。同時に前作と同様に女性差別、黒人差別、マイノリティ差別の問題に正面から向かい合った作品である。著者のあとがきにも書かれているが、本作ではさらにLGBTの位置づけについても間接的ではあるが触れられている。なぜ間接的かというと、1950年代、60年代にLGBTのカミングアウトは同時に軍人としてあるいは宇宙飛行士としての道を断たれることを意味していたからである。同時代の技術、社会背景を損なわずに、その中で生きる人たちの苦悩や人間としての闘い、関わりを描き出すのはとても難しいことである。それに成功した21世紀的な優れた文学作品であると同時に、優れたエンターテイメント作品である。

 私は火星に目がない。
 だから本書を読みたいがために前作から読んだという気持ちもある。だが残念ながらこの物語の主眼は「火星に行くまで」にあるのだ。
 しかし、本書が「火星もの」ではないにしても、とても心に残る傑作小説であることは間違いない。
 私のSF歴の中でも上位に位置づけたい作品である。

 ところで、昨日、将棋の竜王戦第四局が行なわれ、藤井聡太竜王(名人・八冠)が同学年の伊藤七段に勝って防衛を果たした。藤井聡太竜王名人は対局中先を読むのに「2八歩」といった符号の連続のみで思考しているという。他のプロ棋士はたいていが将棋盤を頭に浮かべているが、そういう頭の中の将棋盤はないというそうだ。本書の下巻287ページにエルマの言葉として「ほかのひとたちがわたしと同じ形で数字を把握できないと知ったのは、それなりの年齢に達してからのことである。ふつうの人にとって、数字とは紙に記された抽象的記号であり、どれほど理解力があっても、対象となる物体の物理的な数値を表すものでしかない。ところが、わたしの場合、数字を見れば、対象の形状、質量、質感、色彩までもが、鮮明にわかる。したがって、宇宙船、S-ⅣB、火星、地球の位置関係を頭の中で把握し、無用の要素を取り除けば、そこに残るのは純然たる空間の計算要素だけだ」という文章が書かれている。
 天才たる藤井聡太さんは、このエルマと同じように他のプロ棋士をはじめとする「ほかのひとたち」とは異なる形で将棋の位置と動きを把握しているのではないかと、ときおりそう思うのであった。関係ないけど、本書を読んでいるのと藤井さんの将棋を見ているのがおんなじような気持ちになったのはここだけの話。

宇宙へ


THE CALCULATING STARS

メアリ・ロビネット・コワル
2018

 現代版「月を売った男」、あるいは「地球最後の日」。懐かしくも新しい21世紀ならではの価値観で緻密に構成された本格的ハードSFの登場である。
 ハードSFであると同時に、今日の社会的問題である差別と格差について、主に女性差別、黒人差別、マイノリティ差別に対し正面から描いた作品でもある。
 その意味で文学のサブジャンルとしてのSFというカテゴリーに入れなくてもいいかもしれないが、本筋はハードSFであり、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞をとったのも頷ける。しかし、SFを離れてもっとひろく読まれて欲しい作品でもある。

 SFのジャンルとしては歴史改変になるのだが、初期設定の導入だけで「歴史」がテーマになるわけではない。
 1952年3月3日、巨大隕石が地球に衝突した。この日から、私たちの知る時間軸とは異なる歴史が流れていく。衝突の衝撃によって起きたのは落下地点エリアの破滅、全地球規模での大きな津波…、そして予想される一時的な寒冷化後の急激な温暖化。その予想ではそう遠くない時期に地上で人類が暮らすことはできなくなる。地球を脱出して、宇宙に生存を求めなければならないだろう。
 1952年といえば第二次世界大戦が終わってすぐ、たとえば日本はまだGHQによる占領下にあり、朝鮮戦争があり、米ソ冷戦と核開発競争の時代である。宇宙開発競争はまだ緒についたばかりであり、初めての人工衛星は1957年のソ連によるスプートニク1号を待たなければならなかった。そんな時代である。
 コンピュータでいえばIBMが初の科学技術計算用コンピュータを納入した年が1952年。まだ安定性も信頼性もこれからという時代である。
 そんななかで人類の生き残りをかけて宇宙をめざすのだ。

 主人公はエルマ・ヨーク。ユダヤ系アメリカ人。新婚の女性。天才数学者であり、第二次世界大戦では陸軍航空軍婦人操縦士隊でパイロットを務めていた経験を持つ。夫のナサニエル・ヨークはロケット技術開発の科学者。エルマは夫とともにロケット開発に欠かせない「計算者」として働いていた。

 ここでちょっと背景的に「計算者」を説明しておくと、コンピュータが本格的に実用されるまで弾道計算をはじめ様々な科学技術に欠かせない数学・計算は人の手で行なわれていました。もちろん電卓などはありません。あるのは「計算尺」ぐらいであとは手書きです。ロケットを飛ばすためにはこの「計算者」のチームの能力が問われます。そしてこれを担ったのは女性数学者たちでした。現実の世界では1953年にアメリカ航空諮問委員会(NACA)に黒人で天才数学者のキャサリン・ジョンソンが計算者として参加し、その後の宇宙開発を支えます。
 本書のエルマ・ヨークの数学的天才っぷりはキャサリン・ジョンソンを彷彿とさせます。
 ちなみに、映画「ドリーム」(2016)はキャサリンをはじめとする計算者をテーマにした映画です。

 本書に話を戻すと、NACAに所属していたナサニエルとエルマはたまたま休暇で本部を離れており、九死に一生を得る。NACAが壊滅したためナサニエルは生き残った専任技術者となりその後の宇宙開発の統括責任者として働くこととなった。エルマは計算者として宇宙開発を支えるとともに自らも宇宙飛行士になりたいという夢を内に抱いていた。しかしエルマには大きな問題があった。子どもの頃から数学の天才だった彼女は飛び級で大学に進学し、その過程で激しい女性差別とパワーハラスメントに遭い、パニック症候群を内に秘めていたのだ。それでもエルマは宇宙を目指したかった…。
 物語の本筋は1950年代の技術で宇宙開発がどこまで進められたかをリアルに描き出すことである。これはもう最高にわくわくする話であり、冷戦とは異なる宇宙開発の可能性を感じさせてくれる。
 同時に、ユダヤ系アメリカ人という視点、女性の天才科学者という視点、まわりにいるアフリカ系男性、アフリカ系女性、アジア系女性、あるいは上院議員の妻である女性といった立場をみることで現代にも直結する女性差別、黒人差別、マイノリティ差別の問題が物語をすすめていく。
 エルマは様々な点で宇宙開発に不可欠な存在となるが、「女性がパイロットなど認められない」という女性差別者の上官に個人的にも忌み嫌われる。アフリカ系の人たちと交流を持ち、支えられることもあるが、、時に差別する側にいる者として非難の対象ともなる。あるいは差別者ではなくても「恵まれた者」として非難され、疎まれる。
 それでもエルマはあきらめない。
 ナサニエルとの深い結びつきのなかでひとつずつ障害を乗り越え、人類を生き残らせ、宇宙に旅立つという目標と、自らが宇宙に行きたいという情熱で道を切り開いていく。

 ハードSFとしても21世紀の人間ドラマとしても傑作である。
 21世紀のこんにち、避けては通れない「人権の尊重」という問題をエンターテイメント小説の中にしっかりと取り組み視点を提示すること、それがエンターテイメントとしての質を落とさず、むしろ読者に前向きに考えさせる力を持つこと、それを成し遂げている作品である。

 おりしも、いま、イスラエル政府・軍は、パレスチナのガザ地区において民族浄化(ジェノサイド、虐殺)を行ないつつある。きっかけはパレスチナの軍事組織ハマスによる攻撃であるが、それを理由に大半が若年層の子供を含む民間人、医療関係者、報道関係者、国連関係者をほぼ無差別に殺害し、パレスチナを完全に排除しようとしている。
 イスラエルとパレスチナ・アラブの土地をめぐる問題は第二次世界大戦を経てイギリスの失政により戦乱の火種を広げてしまった。20世紀を通して幾度も戦争が起き、徐々にパレスチナは追い詰められてきたが、今回のイスラエルの動きはパレスチナを地図から消すための行為である。おおくのユダヤ人をはじめ世界中が非難しているがイスラエル政府・軍、それを支持するシオニスト、さらにはアメリカ政府や日本を含む西側の政府は事実上黙認している。人類のもっとも悪辣でみにくい部分が表にでている。
 そんなときにユダヤ人を主人公にした作品を読めて良かったと思っている。
 ユダヤ人が悪いわけではない、しかし、ガザ侵攻は間違っている。ホロコーストを起こしたナチス・ドイツを歴史に持つドイツに限らず、いまのイスラエルに停戦を求めない政府は間違っている。ちゃんと声を上げないと、向き合わないと。時間はない。