プロジェクト・ライフライン

プロジェクト・ライフライン
BRIGHT NEW UNIVERSE
ジャック・ウィリアムスン
1967
 プロジェクト・ライフライン、救命索計画…それは、宇宙探査計画の名称。月の裏側から宇宙に向けて電波を送り、返信を待ち、汎銀河文明との接触を試みようとする計画である。しかし、この計画は国際情勢の中で風前の灯火となっていた。20年以上続けられた計画は、いまだに宇宙からの何の返信もない。当初は、月軌道上に人工衛星基地があったが、事故によって月面に落下し、計画を推進したふたりの科学者が死亡。その後月面裏に基地が作られ運営されてきたが、アメリカも、人民共和国もこれ以上の援助をする気はないらしい。
 そんななか、宇宙軍士官学校を卒業したアダムが、月面でのプロジェクト・ライフラインに志願した。彼には、彼のアメリカでの財産や地位、美しい婚約者を捨ててまで計画に関わる動機があった。彼の本当の父は、計画の創設者のひとりであり、事故で死んだ研究者だったからである。
 汎銀河文明との素晴らしいコンタクトと、それによる地球人の発展を夢見て、希望に燃えたアダムが、今月基地に到着した。
 というような流れではじまる本書「プロジェクト・ライフライン」は、その後、事故の真相の発見、アダムの月からの追放と陰謀につぐ陰謀、汎銀河文明との接触などを経ていくのだが、どうやら作者は、政治や人間性を語りたかったようである。
 アダムを代表するのが、楽観主義で、汎銀河文明によって人類は科学的に進歩し、豊かな銀河文明の一員としてその恩恵を被るであろうという立場。一方は、悲観主義で、コンタクトによって人類は破滅するか、コンタクトの結果で人類社会は大きく変質してしまうことを恐れるという立場。さらに、この悲観主義の先鋒には白人優先主義が加わり、コンタクト楽観主義派を激しく責め立てる。
 その悲観主義者=保守主義者の代表として、アダムの母が属する裕福な白人一族が置かれ、そこに上院議員、主教、将軍という政治・経済、宗教、軍事を代表する者を置くことによってアダムの「心の美しさ」との対比を図っている、ようである。
 ところが、アダム。さすがアダムという名だけあってちょっと美人と見ると声をかけまくっている。自分ではいい感じなのだろうが、すっかり空回りしているのに本人は気づいていない。そういう態度で、正義を語るのだから、うんざり、ってとこだろうが。ここ、もしかしたら、笑うところだったのかも知れない。
 古い教条主義的、社会正義派SFなのだろうか? 書かれた時期はベトナム戦争の頃だし、作者のジャック・ウィリアムスンは1908年生まれで、この頃すでに59歳である。そのあたりは多めに見た方がいいかも知れない。
 現在においても、「人種」はさまざまな差別の元となっている。目に見える形でも、目に見えない形でも。40年前のこの作品に「人種」差別に対しての激しい表現があるのは、その時期を無視しては語れないだろう。
 ところで、本書「プロジェクト・ライフライン」で一番笑えたのは、「電動発電機」という訳語である。?? 電気を使って発電する?? おそらくは、Electric-motorの訳なのだろうが、筆がすべったのだろう。
(2006.08.25)

メモリー

メモリー
MEMORY
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1996
 マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンが活躍する長編6冊目がようやく先日邦訳された。著者あとがきによると、出版者側の都合などもあったようだが、遅い! 最近、創元SF文庫は、再刊や再編集刊ではない本当の新訳SFをあまり出版していない。続編を出して欲しい作品もいろいろあるのだが、どうしてしまったのだろう? 困るではないか。
 まあいい、出してもらえるのならば、文句はないのだ。
 ということで、「メモリー」である。一度死んだマイルズも、早30歳になる。死んだ後遺症というか、低温蘇生治療の後遺症で突然暴れだし、意識を失う発作を持ってしまったマイルズは、自由傭兵隊ネイスミス提督として大失策をおかし、惑星バラヤーの機密保安庁の中尉としての身分と、自由傭兵隊提督の身分を事実上奪われてしまう。残されたのは、バラヤーの貴族としての立場のみとなってしまった。それは、彼が少年期から追い求めてきた「自分探し」の終焉でもあった。
 そして、事件が起こる。生まれる前からの知り合いと言ってもいい機密保安庁長官のイリヤンの頭に移植されていた記憶チップがおかしくなり、イリヤンの記憶が混乱し、機密保安庁が大混乱に陥る。時に、マイルズの幼なじみでもある皇帝グレゴールはついに意中の人を見つけたが、それは、惑星バラヤーによって支配された惑星コマールの現在の名家の娘であり、この婚約を発表すれば様々な勢力が、それぞれの立場で大騒ぎをすることになるのは目に見えていた。
 この危機に、マイルズは、皇帝グレゴールに新たな立場を授かり、イリヤンの「故障」が事故なのか、事件なのか、あるいは新たな陰謀なのかを探りはじめる。それは、バラヤー貴族としての逃れられない責務が彼を動かした行為でもあった。
 そして、この調査の過程で、彼は、自らの過去を振り返り、新しい未来をみつけ、選択し、分裂していた自分をついに統合するのであった。
 いいなあ、ビジョルドのストーリーは。なにより読みやすい。どこかに力が入りすぎていたり、どこかに不安な破綻点があったりしない。ちゃんと筋書きがあり、分かりやすい伏線があり、そして、きちんとした結論がある。それは、すべての読者を満足させる結論ではない。むしろ、多くの読者に毎回ちょっと物足りない感じを与える。それは、読者が、もうひとつの結末をはっきりと予感するからである。しかし、だからといって不満を抱かせることはない。「こういう選択もあるよな」と、作者の選択を評価するからこそ、もうひとつの選択について思いをはせることができるのだ。
 最近、文章も展開もSF的なガジェットや技術もごちゃごちゃした、詰め込みすぎのSFばっかり読んでいたから、こういうすっきりしたストーリー重視の作品を読むと安心するなあ。読んだ後、すっきり感があるほうが楽しいよ。読書は。
(2006.8.22)

ニュートンズ・ウェイク

ニュートンズ・ウェイク
NEWTON’S WAKE
ケン・マクラウド
2004
 2006年8月に翻訳出版されたばかりの新著である。最近、ハヤカワはイギリスSFをよく翻訳しているが、何か理由があるのだろうか? それとも、イギリスSFが元気だというのだろうか? そのあたり詳しくないのでよく分からない。
 21世紀後半アメリカの軍事AIが知的進化暴走を起こし、「特異点」に達して「後人類」と呼ばれる存在になり、地球上の多くの人類を「強制昇天」させて、データ空間のかなたに連れて行ってしまった。その後、地球の各地で人類間の戦争と、「後人類」の戦闘マシンに対する人類の闘いというふたつの戦争が起きる。人類の一部は恒星船で太陽系外の植民惑星を求めて去る。太陽系にもマシンは広がりはじめるが、その後「後人類」は地球を含むこの宇宙から去っていき、疲弊した人類の闘いだけが残った。そして、その戦争も22世紀初期には終わる。24世紀も後半となっていた。「後人類」によって超光速航行技術やワームホールゲートなどが開かれ、残された人類は、いくつかのセクトに別れて、新たな発展を遂げようとしていた。
 ひとつは、ワームホールのゲートを支配するカーライル一家、惑星のテラフォーミングに命をかける「農夫」のアメリカ・オフライン、後人類の技術をさぐりながら発展を模索する日本人・中国人・インド人のセクターである啓蒙騎士団、そして、DK。民主共産主義連合、あるいは、民主朝鮮、あるいは民主カンボジアと呼ばれる宇宙植民者集団。
 今、カーライルの”実戦”考古学チームが未知のゲートをくぐり抜けて見つけたのは、別の人類集団であった。彼らは古い恒星船で植民可能な惑星にたどり着き、過去の技術を失いながらも、その惑星にあった異星人遺跡などを調査しながら独自に発展していた人類であった。
 そうして物語は、それぞれの勢力を巻き込みながら幕を開ける。
 人工知性の暴走的進化、個人のデータへのアップロードと再現実化であるダウンロード、それによる死が起こったときのバックアップとしての再生、データ化した人格の奴隷化など、バイオテクノロジーとコンピュータ/大脳生理的なテクノロジーの拡大を受けた世界を舞台に、事実上不死を得た登場人物達がいくつもの惑星を舞台に縦横無尽に走り回る。
 最近翻訳されたアレステア・レナルズの「カズム・シティ」(2001)と同じように、まるでアニメかフルCGアクションかと思わせるようなシーンがいくつもある。
 全身がマシン化してメタルで美しいボディになった女とか、最初は冗談で開発され、意外と便利だと普及した羽ばたき飛行機とか、ね。
 ちょっと、他の作品とは違うのが、政治的なおちょくりである。アメリカ皇帝ジョージ一世、二世とか、海面に20メートルの高さで誇るマルクス、レーニン、毛沢東、金正日の石像とか、ブレジネフ、アンドロポフ、リガチョフ、ゴルバチョフが登場する現代劇とか、「ウエストサイド物語」でのブッシュとビンラディンの銃撃戦…。
 ストーリーの中で、軽く、かつ、おもしろく扱ってあるのでそれほど違和感はないが、舞台の未来感との間でのギャップは否めない。
 ま、娯楽作品で、これらが誰で、何者かなんて考えなくても別に読むのに不都合はない。
(2006.8.20)

蝉の女王

蝉の女王
BRUCE STERLING’S SHORT STORY COLLECTION
ブルース・スターリング
1988
 日本版オリジナルの工作者シリーズ短編集であり、ウィリアム・ギブスンが序文を、著者のブルース・スターリングがあとがきを短編集用に寄せている。1980年代、サイバーパンクが日本を重要なマーケットにしていたことを物語る出来事である。
 テクノロジーの暴走によって人は変質を求められる。それは、人間性や社会性、あるいは、地球的生命からの脱皮であり、生命は宇宙という広大な舞台の中で広がり、無機物を生命化して広がっていくもので、それこそが物質的知的生命体の究極の目的であり、優先される行為である、といったテクノロジーの延長にある「哲学」に支配された世界である。
 知性すらも、その哲学の前にひれ伏す。それをスターリングは、「巣」に登場する異星生命体を通じて提示する。そして、その異星生命体を「研究」するふたりの人類出自の者を通じて、生命とは何かを問いかける。
 サイバーパンクの中でも、きわめて異質なビジョンを提示するのがブルース・スターリングなのであろう。
「蝉の女王」での、人工的に作られ、火星のテラフォーミングを進めるための地衣類への偏愛、「火星の紙の庭」でのテラフォーミング過程にある厳しい環境で生きる原住民への冷たいまなざし。
 理解と拒絶のすれすれのところに物語を紡いでいくスターリングは、短編向きの作家なのだろうか。同じ工作者シリーズの「スキズマトリックス」に比べれば、短編の方がはるかに読みやすい。また、各短編ともきちんと「オチ」を用意してあり、その「オチ」の意外性とおもしろさで、どんなに異質な作品であっても楽しく読むことができる。「スキズマトリックス」では得られなかったすっきり感が、本書「蝉の女王」にはある。
(2006.8.17)
あはは。蝿じゃなくて、蝉だ。
蝿って書いてた。ばっかだね、私。

スキズマトリックス

スキズマトリックス
SCHISMATRIX
ブルース・スターリング
1985
 格好いい名前のSF作家投票だったら名前で1票入れたくなるような「ブルース・スターリング」の長編第一作である。
 月を回る環月軌道上のコロニー「晴れの海環月企業共和国」から物語はじまる。小惑星帯、土星のリング帯などの宇宙都市世界の力が強くなり、その大きくふたつの勢力マシンテクノロジーによって進化を遂げようとする「機械主義者」とバイオテクノロジー技術によって進化を遂げようとする「生体工作者」の勢力である。古い環月コロニーでも、彼らの影響を受け、人々と社会は変遷していく。
 共和国の貴族の子息であったリンジーと、平民のコンスタンティンは工作者の元で教育と生体的な強化を受け、潜在的な外交官として育っていた。しかし、彼らの思想や行動は、共和国にとっては害悪であり、リンジーは静かの海環月人民財閥に追われ、そこで新たな工作者に出会い、そして、海賊船のフォルツナ鉱夫民主国へ、さらに次へと変革を起こしながら流れていく。そうして、異星人交易船との出会いと人類の大きな変化の中で、リンジーは、いくつかの流れを形作っていく。人類は変わり続ける。それは、もはや人類と言えないのかも知れない。いくつかの流れとはコミュニケーションすらとれないだろう。むしろ異星人との方がコミュニケーションがとれるのかもしれない。
 それほどまでに変わりゆく人類の末裔たち。
 リンジーの長い人生という旅を通じて、人類と太陽系の変革の過程をたどる。
 1985年である。サイバーパンクである。ウイリアム・ギブスンと並び称されたブルース・スターリングの作品である。いやあ、はでだねえ。それにしても、詰め込んである。まるで歴史の概要を読んでいるような錯覚に陥る。リンジーの人生で何人かのキーとなる人との出会いと別れと再会があるのだが、そこに感情的に移入はできない。そこでの感情移入を作者が排除しているのだ。それとも、翻訳の問題か?
 世界は、ガンダムである。
 つまりは、重力から脱した人たちが新たな思想や意識を持ち、その思想や意識に従いながら生きていく。しかし、その思想や意識、行動規範には時の状況によってはやりすたりがあり、永遠に続くようなものではない。万物は流転するのだ。
 このあたりは、ガンダム世界と良く似ている。
 本書は、長い歴史を描いているので、ガンダムよりももっともっと複雑で変化が激しいのだが、時期的には1970年代末から80年代にかけて、こういう人類を超えた、今の人類には理解できない思想、行動といったものを描く動きがあったのだ。
 その大きなエンジンとなったのが、サンバーパンクムーブメントであったのだろう。
 ところで、個人的にはすっかり忘れていた話で、新鮮な気持ちで読めたのはよかったが、訳がしっくりしないのか、原文が読みにくいのか、どうにもつまりつまりとなって、思ったよりも読むのに時間がかかってしまった。
 一度同じ世界空間を把握してから読み直すとよりおもしろく読めるのかも知れない。
 ということで、さっそく同じ世界の短編集「蠅の女王」を読むことにする。
(2006.08.17)

カズムシティ

カズムシティ
CHASM CITY
アレステア・レナルズ
2001
「啓示空間」(2000)と同じ宇宙史に属するレナルズの作品である。「啓示空間」に負けず劣らず、本書「カズムシティ」も1200ページ近い大作というか長大作品。どうしてこう長くなってしまうのかは分からないが、解説などを読むと、イギリスの出版事情が絡んでいるとか。ハリー・ポッターシリーズの影響だろうか??
 舞台は、スカイズエッジ星とイエローストーン星。カズムシティはイエローストーンの都市である。入植時以来の戦争に明け暮れるスカイズエッジ星で、武器密輸を行う黒幕とその妻が殺される。ボディーガードをしていた元兵士で天才スナイパーのタナー・ミラベルは、自分のプライドをかけて復讐を誓い、ボスと妻を殺したアルゼント・レイビッチを追った。
 そして舞台は変わり、イエローストーン星へ。人類の一派であるウルトラ属の近光速船に乗り冷凍睡眠でイエローストーン星軌道上のハビタットで目覚めたタナー・ミラベルは、記憶に混乱をきたし、スカイ・オスマンの夢に悩まされていた。
 スカイ・オスマンは、スカイズエッジ星に入植したときの英雄であり、犯罪者として追われた者の名である。彼は、今やスカイズエッジ星の一部の新興宗教で殉教者としてあがめられ、スカイ・オスマンウイルスが作られて、ばらまかれた。感染した者は、磔刑された彼と同じように右手から血を流し、スカイ・オスマンの夢を見せられる。タナー・ミラベルは、どこかで感染してしまったらしい。そして、イエローストーン星に来たのは、もちろん、逃げたレイビッチを追いかけるためである。イエローストーン星には、レイビッチの家系が力を成しているという。しかし、タナー・ミラベルには自身があった。数日以内にはしとめると。スカイ・オスマンの生涯を追いかける変わった夢に悩まされながらも、タナー・ミラベルはレイビッチを追い求める。
 そして、イエローストーン星。融合疫という、ナノマシンを含むコンピュータ類と鉱物、生物を巻き込んで変形していくおそらくは過去の異星人によると思われる疫病が、栄華を誇るイエローストーン星を襲っていた。何もかも変形し、機能を失った土地で、人々は、自らの身体の中のナノマシンと、移植物を捨て、古い蒸気機関などを「再発見」し、かつての高度な科学技術の遺物と融合させながら、富める者は富めるままに、貧しい者は貧しいままに生きていた。
 物語は、イエローストーン星でのタナー・ミラベルの物語と、タナー・ミラベルが見るスカイ・オスマンがたどる生涯の物語のふたつがもつれ合いながら進む。
 そう書くと、なんだかとても文学的な感じもするが、そうではない。
 特殊効果が最初から最後まで盛りだくさんのハリウッド映画かフルCGアニメといった感じの作品である。
 変形するビルの部屋には、融合疫で飲み込まれた人々が生えている。
 長命化、不死化した人々は、人生に飽きて、マンハンティングを行い、姿形を自由に変えていく。シマウマのように黒と白の模様をつけ、自らを「ゼブラ」と名乗る現在は女性の人間。豚に人の遺伝子を加えているうちに知性を獲得してしまった豚人間。身体中を機械化した人間。ナノテクとバイオテクノロジーの技術の究極は、どんな魔法も、ファンタジー世界も、または、天国や地獄も実現可能にしてしまった。そして、その崩壊も。
 とにかくアクションと異質な光景に満ちた21世紀最初のSF作品のひとつである。
 楽しめ。
 それにしても日本だったら、○○文庫や○○新書のような形で、1時間もあれば読める作品になっているだろうに。そうして、売れたらシリーズ化して、50話くらいのアニメ化して、実写映画化して、キャラクターにして儲けるだろうに。何もかも1冊に突っ込んで、これでもか、これでもか、と、読ませ続けるあたりが、イギリスなのだろうか。
 気軽に読むような娯楽作品なのに、この長さと厚さはなに??
 本書「カズムシティ」と「啓示空間」は、同じ宇宙史で時期的にも重なっているところはあるが、内容には重なるところがないので、独立して読める。「啓示空間」のように、移動中の近光速船、ふたつの惑星の物語が入り組んでいるのと違って、ふたつの物語が時系列でそれぞれ語られるので、「カズムシティ」の方がはるかに読みやすい。内容としても、「カズムシティ」の方がアクション、ビジュアル的であり、最初に読むなら、「啓示空間」よりもとっつきやすいだろう。
英国SF協会賞受賞作品
(2006.08.12)

空飛び猫

空飛び猫
CATWINGS
アーシュラ・K・ル=グウィン
1988
SFか? と、聞かれるとつらいのだが、ル=グウィンだから許して欲しい。
猫ばなしである。猫とイルカはどうにもSFの相性がよいらしく、いろんな作品に登場する。とりわけ猫は愛されている。「夏への扉」(ハインライン)を出すまでもない。猫にはSF魂をゆさぶる何かがあるのだろう。
さて、ル=グウィンの猫好きはSF界ではよく知られた話である。
そこで、「空飛び猫」である。絵本で、日本では村上春樹が翻訳している。
村上春樹も猫好きな作家のひとりであり、英文の好みがはっきりしている作家である。
そして、ル=グウィンの文章が好きなのだ。
評論するような内容ではない。
あるとき、羽の生えた猫が4匹生まれたのだ。羽は飾りではなく、空を飛ぶことができた。だから、羽のない母猫は、4匹の子猫たちに語りかける。「飛びなさい」。
そして、冒険がはじまる。
それだけ。
十分じゃないか。
どこかには、いるのである。
羽の生えた猫や、犬や、ねずみが。
空を飛んでいるのである。きっと、間違いなく。
それを知っている方が、知らないでいるよりもずっと幸せになれる。
そう、思いませんか?
(2006.08.03)

モナリザ・オーヴァドライブ

モナリザ・オーヴァドライブ
MONA LISA OVERDRIVE
ウィリアム・ギブスン
1988
 解説の山岸真氏が、1986年から本書「モナリザ・オーヴァドライブ」発行までの時代の雰囲気を伝えている。「とくに日本では、人々は競ってギブスンのことを語った。パソコン雑誌やロック雑誌、ビデオ雑誌、文芸誌、一般週刊誌、美術雑誌、広告会社の社内報、カルチャー講座…」「やがて、本書の抜粋が雑誌に掲載されはじめた。まず本書第十五章がアメリカのライフスタイル雑誌High Time八七年十一月号に。あけて八八年初頭、世界のどこよりも早くこの日本で、第一章の翻訳が資生堂のPR誌<花椿>八八年三月号に」
 1988年6月にイギリスで発行、11月にアメリカで発行、そして、翌89年2月10日付けで、本書「モナリザ・オーヴァドライブ」がハヤカワ文庫SFより、黒丸尚訳で邦訳出版された。
 このスピード感、この喧噪と興奮を見よ。
 80年代前半からの知的冒険の季節の最後を盛り上げるかのような事態である。知的スノッブはこぞって「サイバーパンク」の語を使いたがり、時代の空気はここにあるとうそぶいていた。SFが今よりはるかに一般的で、世界は未来を夢見ていた時代である。
 テキストの意味なんて、みんながひとりひとり勝手なことを語り、コンテクストが自由に書き換えられていた時代の話だ。
 主人公のひとりは、やくざの大親分の娘・久美子。安定していた日本の裏社会で抗争が勃発し、彼女はロンドンに避難させられる。しかし、ロンドンで別の騒動に巻き込まれてしまう…。
「ニューロマンサー」「カウント・ゼロ」に続く、三部作最終章である。
 舞台は、「ニューロマンサー」が未来の千葉シティにはじまるのと同様に、成田空港からはじまる。「カウント・ゼロ」から7年後。「ニューロマンサー」から数えて、ほぼ15年後のできごとである。
「カウント・ゼロ」の、ボビイやアンジィが登場する。それぞれ7歳年をとって、もう少年少女ではない。 「ニューロマンサー」のミラーシェード・モリイも登場する。こちらは15年経って、少々くたびれているようだが、あいかわらず格好いい。ケイスの未来も分かる。
 三部作にすべて登場するのは、フィン。まさかこの人が全部に登場するとは思わなかったけれども、そういうものなのだろう。人生って。
 もちろん、新たな登場人物にはことかかない。
 タイトルの名前を持つ少女モナ。バイオAIのコリン。ジェントリイ、スリック、チェリイのでこぼこトリオ。そして、久美子、アンジィ、モナの3人を取り囲むそれぞれの個性的な男達。恋愛なし、ビズあり、たくらみあり、死体あり、だ。
 今読んでも古くはない。
 ぜんぜん。
 当時よりはるかにビジュアル化しやすいね。
「マトリックス」とか「攻殻機動隊」とかあるしね。
「サイバーパンク」って言葉は、手あかがついたけれども、そして、「サイバーパンク」の代表的な三部作と言われているけれども、そんなこと関係ない。
 ビジュアルなドラマとして頭の中で映像やアニメにして読んで欲しい。楽しいよ。
 21世紀初頭らしい読み方ができる。
 あと20年経ったら、どんな風に読めるだろうか??
 それも、生きていたらの楽しみにしておこう。
(2006.08.03)

カウント・ゼロ

カウント・ゼロ
COUNT ZERO
ウィリアム・ギブスン
1986
「ニューロマンサー」を再読したついでに、ギブスンの三部作を読み直そうと思って探したみたが本書「カウント・ゼロ」が私の手元になかった。「ニューロマンサー」も、本書の続編「モナリザ・オーヴァドライブ」も初版であるのに、だ。
 日付と記憶をたどってみる。
「ニューロマンサー」は、1986年7月に邦訳初版がでている。大学生である。なるほど。
「モナリザ・オーヴァドライブ」は、1989年2月に邦訳初版がでている。ちょうど、最初の就職先を退職した直後のことである。なるほど。
 本書「カウント・ゼロ」の邦訳は1987年9月。原著から1年少々で翻訳出版されている。そうかあ、最初の就職先でとても忙しかった頃じゃないか。
 買って読んで、その後、どこかにやってしまったのか、それとも読んでいないのか…。
 今となってはどうしようもない忘却の彼方である。20年前の話だ。
 しかたがないので、900円+消費税5%を払って、「カウント・ゼロ」を購入。2003年6月の第10刷となっていた。あの当時は、消費税もなかったし、ISBNコードはついていたが、バーコードなんて無粋なものはついていなかった。
 80年代のことである。
 1987年9月といえば、バブルの絶頂期である。忙しかったなあ。
 ブラックマンデーで株式が暴落するのはこの年の10月である。その後もバブルの余韻は続いたが、次第に円高ドル安が進み、日本は株式/不動産バブルから、世界の円高バブルに取り込まれることになっていく。
 ま、いいか。
 本書「カウント・ゼロ」は、「ニューロマンサー」から7年後の世界と電脳世界を描く。下層の希望もない町バリタウンに生まれカウント(伯爵)ゼロのハンドルを自称するカウボーイに憧れる少年ボビイ・ニューマーク。今風に言えば、ハッカー(クラッカー)に憧れてる厨房といった風。ある不正ソフトを入手し、電脳空間に没入するが、すぐに大きなシステムにつかまって死にかける。それを救った電脳の中の不思議な少女。ボーイ・ミーツ・ガールである。
 電脳空間はいまや不思議な存在の噂に事欠かず、神々の存在さえ噂されていた。
 そして、少女。
 生体チップの独占的企業マース=ネオテクの研究者の娘、アンジェラ・ミッチェル。接続しなくても電脳空間を夢としてとらえることのできる少女。
 彼女がマース=ネオテクから離れ、そして、事件が起こる。
 一方、マース=ネオテクの買収に失敗し、永遠の電脳的生を望む企業オーナーと、彼の網の中に巻き込まれた美術評論家の女がいる。
 電脳空間のなにか、をめぐって、それとは関係なく動いているはずの登場人物達がそれぞれの意志となりゆきで物語が進む。中心が見えないままに、中心に向かって人々が動く。
 現実ってそうじゃないか?
 あとになり、別の枠から見れば、どこに中心があって、それに向かって人々が渦を巻くように動いていたことに気づく。でも、その渦の中で動いているときには、どこに向かっていこうとしているのかを知ることができない。
 ときには、大きな渦の中にいることを、気配として知るものがいる。
 そんな気配。
 ウィリアム・ギブスンは「気配」の作家である。
 80年代に見つけた、かぎとった「気配」が、本書にはある。
 本文に入る前の扉で、ギブスンはテクニカルに説明する。
 「カウント・ゼロ・インタラプト
  割り込みを受けたら、計数器の値を
  ゼロまで減少させる」
 コンピュータの基本的な命令のひとつである。
 私たちも、もしかしたら基本的な命令(動作仕様)によって渦から逃れられないのかも知れないじゃないか。
(2006.08.01)

夜の大海の中で

夜の大海の中で
IN THE OCEAN OF NIGHT
グレゴリイ・ベンフォード
1977
 グレゴリイ・ベンフォードという作家は、ひとりの主人公の年代記的な宇宙作品が好きである。それと宇宙の異種との遭遇をモチーフとした宇宙のSF。本書もまた、1999年にはじまり、2019年にかけて、宇宙飛行士で科学者のナイジェル・ウォームズリーの物語である。
 1999年、小惑星イカルスが軌道を変え、地球に衝突するコースをとった。これに対処するために、ナイジェルらが核爆弾を積んでコースを変えるためにイカルスに飛ぶ。ところが、ナイジェルは、中空のイカルスが廃棄された異星の宇宙船であることを発見した。地上からの指示に背いて、ぎりぎりまで中を調査し、はじめて地球以外の文明に触れたのであった。
 それから、15年後、2014年。ジェット推進研究所に職を得たナイジェルは、木星から火星、金星へと軌道を移す太陽系外の飛行物体スナークを確認した。それは、人工知性を持ったコンピュータで、人類文明と交信を果たした。ナイジェルは、ふたたび機会を得て、この飛行物体に接近、場合によっては破壊する司令を出されていたが、それを果たすことなく、飛行物体は去ってしまう。
 そして、月で新たに古い破損した宇宙船が発見され、その調査がはじめられた。そこにもまた、ナイジェルの姿があった。
 地球は、戦争と環境汚染、経済的混乱により荒廃し、キリスト教系の新興宗教が力を得ていく。そして、その新興宗教は、ナイジェルが体験した宇宙の異種との出会いに触発され、科学分野、政治分野にも力を入れ、ついには、宇宙開発に対しても大きな影響力を見せる。
 にがにがしく思いながらも、科学の開かれた民主的な可能性を信じるナイジェルであった。
 宇宙は、機械知性に満ちていた。そして、機械知性を生みだした有機体知性は、宇宙の中ではまれな存在で、機械知性によって滅ぼされていた。
 はたして、人類と地球の運命は? その複雑な未来を予感させて、物語が繰り広げられる。
 一度読んでいるのだからあたりまえなのだが、既読観の高い作品である。
 天然の小惑星だと思っていたものが実は異星の高度な文明種属による宇宙船であった。
 機械知性と有機知性の戦争。
 ひとりの宇宙飛行士科学者の信念。
 新興宗教の台頭と地球および人類社会の疲弊。
 モチーフは、繰り返される。
 だから、安心して読めるのかも知れない。
 続編「星々の海をこえて」は未読。同じシリーズに属する「大いなる天上の河」「荒れ狂う深淵」「輝く永遠への航海」は読んでいるのだが、「光の潮流」はおそらく未読。どうもグレゴリイ・ベンフォードの作品は、タイトルが似ていて、シリーズとして出されているわけではないので、きちんと買って、通して読んでいない。
 なんとか入手して読んでみたい。
(2006.7.29)