星海の楽園

星海の楽園
HEAVEN’S REACH
デイヴィッド・ブリン
1998
「知性化シリーズ」としてはじまった「サンダイバー」「スタータイド・ライジング」「知性化戦争」に続く、「知性化の嵐」3部作を締めくくるのが、本書「星海の楽園」である。第四銀河系そのものが酸素呼吸種属に対して休閑されていたなか、惑星ジージョには、数千年に渡って次々と酸素呼吸種属たちが、同族から、あるいは敵種属から、あるいはそれぞれの目的のために逃げ、隠れて暮らしていた。謀略と同盟、陰謀と裏切りの渦巻き、その種属と知性化で成り立つ種属系列の存続と強大化をすべてに対して優先する銀河社会から逃れた彼らは、様々な紛争と憎しみを乗り越え、大いなる平和と休閑惑星の生態系に対する配慮に満ちたつつましい生活を是としていた。
 しかし、彼らはいつか銀河社会に見つかり、銀河社会による公平で冷酷な裁きがあることを心得ていた。そして、かつて先達の種属によって知性化された彼らが自ら知性を放棄していく道をたどることで、その祖先と自らの罪の贖罪を果たそうと考えていた。しかし、そんな彼らを突然襲ったのは、違法遺伝子略取者や横暴な軍船によっての蹂躙であった。彼らのねらいは、「スタータイド・ライジング」で登場した地球のネオ・ドルフィンによる探査船ストーリーカーであった。ストーリーカーが、銀河の辺境で発見した「秘密」を求めて、銀河列強がストーリーカーを目指す。そして、この発見が、緊張状況にあった銀河社会の崩壊を招こうとしていた。
 第二部「戦乱の大地」で惑星ジージョを脱出したストーリーカーは、惑星ジージョの種族の若い代表達を乗せて、惑星ジージョを守るべく敵艦を引き連れ星系と第四銀河系からの離脱を図る。果たして、この決死の試みは成功するのだろうか?
 一方、ネオ・チンプで最初の航法協会監視員となったハリー・ハームズは、5銀河系が変革の時を迎えていることを知る。5つの銀河系をつなぐ遷移点が混乱しはじめたのだ。
 銀河系全体が混乱と危機と死を迎える中で、これまでに登場してきた惑星ジージョの若い成員達、それぞれに違うきっかけで宇宙に出ることとなったジージョの3兄姉、ラーク、サラ、ドワー、ストーリーカーのクルー達が、危機の中で、知的生命体同士のつながりを知り、生きる道、死ぬ道を知り、選択を行っていく。
 あるものは、同族に道を指し示すものとして暮らす道を。
 あるものは、残された唯一の希望としての道を。
 あるものは、生命系列を超えてつながり、融合し、生きる道を。
 あるものは、遠き離別をつなぐものとして旅する道を。
 あるものは、新たな生命の世界を拓くものとして離別と希望の道を。
 そして、あるものは、自らが本来いる場所で、本来すべきことをするために帰る道を。
 その次々に訪れるいくつもの選択の道に、長い長い小説の旅を続けたカタルシスが訪れる。
 この1カ月余り、「知性化」シリーズを順番に読み、その登場人物や種属の特徴、エピソードを記憶しているままに本書「星海の楽園」を読むことができた。それゆえのおもしろさ、感動を味わうことができた。出版されるたびに読んでいたが、こうしてまとめて読み返すと、忘れていたり、分からなかったりすることもなく、多くのキャラクターとともに楽しむことができた。
 実は、「知性化」シリーズはまだ続きを書くと作者は言っている。そうなったらまた読み返すことになるのだろうか? 困った。
 とりあえず、今は、「知性化」シリーズの短編で、唯一文庫本に収められている「誘惑」(『SFの殿堂 遥かなる地平1』ハヤカワ)を読んで、余韻を楽しんでおこう。
(2006.6.8)

戦乱の嵐

戦乱の嵐
INFINITY’S SHORE
デイヴィッド・ブリン
1996
 本書「戦乱の嵐」はデイヴィッド・ブリンによる「知性化の嵐」三部作2作目である。原題は、「無限の岸辺」とでも言おうか。邦題でも原題でもどちらでもかまわない。つまりは、三部作の真ん中である。
 あえて章立て風に言えば、第一部「変革への序章」が「人の章」、本書「戦乱の大地」が「地の章」そして、第三部「星海の楽園」は「天の章」とでも名付けたくなる。
 まったくもって、「変革への序章」に続く物語であり、第一部の最後に登場した巨大な宇宙戦艦が、銀河の大種属でももっとも冷酷な存在と目されているジョファーのものであることが明らかにされる。それと同時に、第一部でそれとなく存在をにおわされていた秘密があっけなく明らかにされる。それは、デイヴィッド・ブリンの「知性化シリーズ」の中核をなす「スタータイド・ライジング」に登場し、全銀河系の諸種属系列から追われるネオ・ドルフィンの探査船「ストーリーカー」である。なぜか、ストーリーカーは「スタータイド・ライジング」で危機を脱した後、さらにいくつかの危機を超えて、舞台となる惑星ジージョの海の底深くに隠れていたのである。
 かくして、第一部で6種属を苦しめた宇宙種属ローセンを蹴散らしてあっという間に惑星ジージョに支配と恐怖をもたらしたジョファー、ジョファーの従兄弟種属でありジョファーから逃げ出して惑星ジージョに暮らしていたおだやかな種属である嚢環種属トレーキの賢者アスクスがジョファー化させられたユウアスクス、そして、いまだに6種属には知られていない「ストーリーカー」に乗る、ネオ・ドルフィン、ヒトと預かっている人工知性体、ストーリーカーに乗った両生類型準知性体のキークィーが新たな登場人物として登場し、6種属のみならず、知性を放棄した種属グレイバー、あるいは、惑星ジージョに原住した賢い動物として知られるヌールに加え、惑星そのものまでもが「主要登場人物」となって、物語は、惑星ジージョの各地、ジョファーの巨大戦艦、深海、宇宙を舞台に激しく絡み合い、ドラマティックになっていく。
 この第二部「戦乱の嵐」に比べれば、第一部は登場人物と種属の紹介編でなかったかと思うばかりである。とにかく、一気に読み終えられるであろう。
 第一部で活躍したフーンの子どもでアーサー・C・クラークの名著「都市と星」の主人公の名前を持つアルヴィンと仲間達や、蟹型の種属ケウエンの「刀」、あるいは、嚢環種属トレーキの賢者アスクスがジョファーのユウアスクスとなって物語を引き立てる。
 そして、最初から登場している紙漉師ネロの3人の子どもたちの物語も見逃せない。異端思想の若き賢者ラークは宇宙種属ローセンとともに宇宙から来たヒトのランとともに、数学者のサラは、宇宙から降ってきた言葉を失った賓(まれびと)=エマースンとともに、超常的な共感能力を持つ猟師で旅人のドワーは、一度はローセンの船に乗った辺境出身のレティとその小さな夫となったウルのイーとともに、それぞれが3つのペアとなりながら、すべての登場人物とからまり、物語を導いていく。
 もちろん、ストーリーカーのネオ・ドルフィンや事実上の指導者となっているジリアン・バスキンの物語も見逃せない。
 とにかく楽しめること請け合いである。
 異端であり滅びの道を探していたラークが「おれはほんとうは死にたくないんだ」と自らの生への執着を認識し、個=孤に固執する他種属のありようが理解できないアスクスは個であるヒトの「勇気」という根源的な原動力について洞察する。
 とにかく、登場人物のみんなが「生きること」と仲間を「生かすこと」のために全力をつくし物語がつっぱしっている。そこがいい。そこが物語を一気に読ませる。
 内容については、語ることはない。さあ、第三部「星海の楽園」だ。
(2006.6.3)

変革への序章

変革への序章
BRIGHTNESS REEF
デイヴィッド・ブリン
1995
「サンダイバー」「スタータイド・ライジング」「知性化戦争」に続く、デイヴィッド・ブリンの「知性化」シリーズであり、「知性化の嵐」3部作の第一作にあたるのが、本書「変革への序章」である。これに「戦乱の大地」「星海の楽園」が続く。
 さて、この三部作は、だいたい1~2年の間隔で出版され、日本でも2001年から2003年にかけて年1作ペースで翻訳出版された。私はリアルタイムで翻訳書を購入、読んでいたが、正直なところ1年も経つと話の筋や登場人物の特徴、過去を忘れてしまう。私はもともとがざる頭で、読んだはしから忘れることにしているため、覚えてない。そこでそのたびに、前著を引っぱりだして、なんとか自分の中でつじつまがあっているような気持ちになるのだが、本シリーズでは、ていねいに用語とキャラクターの解説がついているので、それを読めばだいたいのところはなんとかなる。同じことが、フランク・ハーバートの大作「デューン」シリーズにも言えるのだが、とにかく読むのにも根性と記憶力が試される。
 万人にはおすすめはできない。いや、万人におすすめできても、私にはもしかしたらむいていない。それでも、時折果敢に挑戦したくなる。
 もし、「スタータイド・ライジング」の世界に惹かれ、銀河の列強種族に追われる探査船ストーリーカーの行方が気になっているならば、そして、「知性化戦争」での惑星ガースをめぐる人類、チンパンジー、異星人種たちの闘いと知恵比べの物語を楽しんだならば、「知性化の嵐」三部作に手を出すとよいだろう。なお、本書「変革への序章」は、ハヤカワ文庫SFで、上下巻約1100ページ。「戦乱の大地」もほぼ同じ、上下巻約1200ページ弱、「星海の楽園」も、上下巻約1100ページである。つまりは、約3400ページ。6冊ならべると13cmの幅があなたを待っている。しかも、途中でやめようと思ってはならない。なぜならば、「知性化の嵐」三部作は、独立していないからだ。1作品ごとに完結していない。「知性化の嵐」で1作品とみてもいいかもしれない。最初に3部作6冊(ハヤカワで)を手元に用意し、読み始めた方がいい。古本などで部分的に入手したり、本書「変革への序章」だけを手に入れたりすると、続きが気になって夜も眠れなくなってしまう。時間はつぶれる。頭は多数の人類・非人類を含む登場キャラクターの前にこんがらかり、こき使われてしまう。さあ、どうする。
 さて、よけいな話はさておき、本編の内容である。時期は、「スタータイド・ライジング」や「知性化戦争」の少し後と考えればわかりやすい。それほど遠くない先で、直接前二作には関係なく、物語がはじまる。
 場所は、惑星ジージョ。休閑惑星である。休閑惑星とは、知的種属が惑星を利用した後、生態系の回復と次の準知性化種族の誕生まで長期にわたって惑星を立ち入り禁止にする、銀河社会のルールである。惑星ジージョのある星系は、酸素呼吸生物ではなく、水素呼吸型の生物による管轄権があり、酸素呼吸生物はめったなことでは訪れない。それゆえ惑星ジージョは長い休閑の歴史に静かにたたずんでいるはずであった。
 しかし、酸素呼吸型の知的種属のひとめにつきにくいことから、いくつかの知的種属のグループが、それぞれの理由から惑星ジージョに逃げ、不法入植をしていた。その数は7つを数える。あるものは、銀河社会から追われ、あるものは同種族から追われ、あるものは同種族の異端として、それぞれの理想を胸に、不法入植してきた。そして、1種属は、彼らの望み通り、「下への道」すなわち知性を放棄し、準知性体に戻る道を達し、かつては宇宙航行種属だったことも忘れ、言葉の多くを失っていた。のこりの5種属も、同様の道を求め、彼らが乗ってきた宇宙船を棄て、その技術を棄てて、惑星の一部分「斜面」のみにつつましく暮らしていた。彼らもまた、最初の1種属と同様の道をたどり、遠い将来に彼らの不法入植が許され、もう一度「知性化」される日が来ることを願って。そして、もう1種属、孤児種属として銀河社会の仲間入りをした新参の人類のグループも惑星ジージョにいた。彼らは銀河社会に属して間もない頃、人類社会に追われる者たちとして、惑星ジージョに逃れてきた。人類もまた彼らの宇宙船を棄てたが、銀河社会にはない「紙」でできた「本」を大量に持ち込んだ。すでに、「記録」を失っていた先入5種属は、「記録」する技術を手に入れ、そのことから、知性を残していた5種属と人類は、新たな「歴史」を刻みはじめる。当初の不信と戦争を乗り越え、現在は、6種属がともに同じ場所で暮らし、それぞれの種族的特徴や文化を生かしながら、新たなジージョの斜面文化と言えるような共生の道を見つけていた。これを「大いなる平和」と呼ぶ。
「斜面」とは、地殻の動きによって、遠い未来に惑星からマグマの海にすがたを消す部分である。彼ら6種属は、自らが不法入植した先祖の罪をつぐなうため、自らの生存のための行為が、惑星ジージョに将来痕跡を残さないよう、最大限の注意を払い、その行動に規制をかけていた。6種属は、先に脱知性化した1種属を理想としながら、ひそやかに、そして、仲良く暮らしていた。  それは、生き馬の目を抜くような緊張と競争とかけひきにあけくれる銀河社会の知的種属のありようとはかけはなれた光景である。
 しかし、この平和が今崩れようとしている。
 突然、巨大な宇宙船が惑星ジージョに降り立つ。奇しくも、彼ら6種属の祭りであり、決定の場でもある「集い」の日に、その場所に。そして、中からでてきたのは…。
 6種属の間に亀裂が入り、大いなる平和の日々にくさびが打ち込まれる。はたして、6種属は生き残ることができるのか? それとも、彼らの不法入植の罪を問われるのか? それとも、何か別のトラブルに巻き込まれるのか?
 銀河社会からやってきた宇宙船は、この惑星ジージョと、6種属に何を望むのか? 物語の幕が開き、壮大なドラマがはじまる。
 ってな感じである。
 いくつものドラマが、いくつかの視点でそれぞれに語られ、それぞれのエピソードが絡み合いながら、ひとつの大河ドラマを構成していく。そして、それは人類の物語だけではない。嚢環種属トレーキの賢者アスクスによる賢者たちと異星人の物語であり、フーンの少年アルヴィンによる、ヒトを除く5種属の少年少女の冒険の物語であり、紙漉師ネロの子どもであり、物語の主人公ともいえる、サラ、ドワー、ラークの異端の物語でもある。サラは、宇宙から大けがをして落ちてきた賓(まれびと)とともに旅をすることになった数学者で言語学者。ドワーは、斜面の外を旅しながら賢者の依頼で調査と、探査を行う孤独な猟師。ラークは、銀河社会から降りてきた征服者の案内役兼、彼らの意図を探るスパイ役となった男。彼は、ジージョの種属が自然にまかせるのではなくすみやかに自らの脱知性化させるべきと唱える異端の博物学者でもある。惑星ジージョの特異な生態世界を背景に、いくつもの物語が流れていく。そして、積み上がられる疑問の数々。
 惑星ジージョで6種属を結びつけた聖なる卵とは?
 アルヴィンたちは海の底に何を求められ、何にめぐりあうのか?
 惑星ジージョに降り立った異星人の目的は? 彼らは何を探しているのか?
 本書の最後に登場した巨大な宇宙船とは何者か?
 賓はなぜ惑星ジージョに落ちてきたのか? どうして大けがをしているのか?
 ところで、「スタータイド・ライジング」で、再び逃走に成功したネオ・ドルフィンによる探査船ストーリーカーの行方は??
 もったいをつけながら、話はどのエピソードにもなんら結末をつけることなく、「戦乱の大地」へと続く。
 忘れないうちに、次を読まなきゃ。
(2006.05.28)

流れよ我が涙、と警官は言った

流れよ我が涙、と警官は言った
FLOW MY TEARS, THE POLICEMAN SAID
フィリップ・K・ディック
1974
 1988年10月11日、TVショーの司会で歌手のジェイスン・タヴァナーは、世界に存在しない男となった。世界中で彼のことを知らない者はいないエンターテイメントの有名人は、なぜか目覚めると誰もその存在を知らない世界にいた。それは昨日までとまったく同じ世界。ただ、彼のことを知るものがいないだけ。彼が存在していないだけの世界。誰も彼を知らない。恋人も、仕事仲間も、愛人も。そして、彼は何者でもないが故に、注目を集めてしまう。彼のIDカード、すべての政府機関に記録された出生記録、身体記録が存在していなかった。
 密告と監視に満ちた警察国家において、IDを持たない、記録を持たない者は、犯罪者と同義であり、強制労働所へ送られるべき存在である。
 そのことを知り尽くしているタヴァナーは、なんとか偽造のIDや記録を入手し、自らの存在を証明しようと動き始める。しかし、そのタヴァナーの動きは、すでに警察政府に知られ、高官の注目を集めていた。秘密を持ち、秘密を知り、秘密を作ることができる高官の静かな注目を集めていた。
 ニクソン大統領とウォーターゲート事件は、アメリカの民主主義に極めて大きな影を残した。政府機関による盗聴、監視、隠蔽について、人々は、薄々と気がつきながらも、「やむを得ないこと」と知らないふりをしていた。しかし、それらの行為が、正義のためではなく、権力による権力のための行為として容易に行われることに、人々は驚愕し、絶望した。とりわけ、そのことをずっと知っていて、恐怖していた者にとって、ウォーターゲート事件とニクソン大統領の一連の行為は、それらの行為が「もはや隠す必要すらなくなった」事実に、絶望した。
 本書「流れよ我が涙、と警官は言った」は、世界のもうひとつの姿、真実のひとつの姿を見続け、見せ続けたディックが書いた素直な作品である。SF的要素は、遺伝子改変による優生学的実験体、観察者による多元的世界を主観的に変える一定の力を持つ薬物ぐらいである。あとは、ウォーターゲート事件に揺れる1974年にディックが見た、約10年後の世界であった。
 私が今持っている本書は、サンリオSF文庫版である。1981年の冬に初版が出され、1983年3月に第二刷が出されている。1983年過ぎだから、私が大学生の頃に読んだ1冊である。この頃、ディック・ブームが起こっていて、サンリオをはじめ、各社から次々とディックの未訳本が出されていた。1982年、ディックが急死し、そして映画「ブレードランナー」が公開されたからである。それ以前から、わからないながらにディックを読んでいた私は、あらためてディック的なものの見方に衝撃を受けた。
 それから20年以上が過ぎた。サンリオSF文庫がなくなり、1989年には同じ友枝康子氏の訳により、ハヤカワ文庫SFから「流れよ我が涙、と警官は言った」が出されている。物語の舞台となった1988年はこともなく通り過ぎたが、今になってディックを読み返せば、現実の世界の恐ろしさを改めて知ることができる。
 かの国に入国するためには、指紋を提供しなければならない。
 我が国に入国するためにも、もはや同様である。
 そこかしこに、静かに記録をとり続ける目があり、容易にそれらは権力に利用される。
 そして、人々は、「やむを得ないこと」と、その本当の恐ろしさに目をつぶる。
 誰かが異議を唱えれば、それは、異議を唱えた者が「何か」をたくらんでいるのではないかと疑い、あやしむ。そして、「何か」が起こったら、どう責任をとるのかと詰め寄る。
 2006年春、組織犯罪処罰法改正案で「共謀罪」が提出された。5月19日には、強行採決されるはずだったが、なぜか、採決は見送られた。しかし、採決寸前までいったのは事実である。ディックが生きていたら、911以降の世界を、いかにして嗤うだろうか。
(2006.05.22)  

知性化戦争

知性化戦争
THE UPLIFT WAR
デイヴィッド・ブリン
1987
デイヴィッド・ブリンの「知性化」シリーズは、前著「スタータイド・ライジング」で、知性化されたイルカであるネオ・ドルフィンたちの活躍と、不思議な惑星の生命たち、そして人類よりもはるかに古い歴史を持つ銀河列強種族の独特の個性によってブリンと知性化シリーズへの注目を集めた。
「知性化」とは、この宇宙での知性獲得の過程を言う。知性とは天性のものではなく、進化の過程で一定の準知性体とでもよべる段階までに達したものを、すでに知性を獲得し、銀河宇宙のネットワークに参加した宇宙航行種族が発見し、彼らの主族として準知性体種族を知性化していくのである。すべての銀河航行種族達はすべて主族を持ち、列強種族は多くの類族を持つ。しかし、中には、知性化の過程で主族に放置された知性体が発見され、それは「鬼子」として再知性化がはかられる。
 250年前、人類は自ら宇宙航行技術を発見し、銀河社会と接触した。この知性化の流れを生みだしたとされる「始祖」以来、知識を増やしてきたはずの「ライブラリー」にも、人類の記録はなく、そして、人類は自ら知性を獲得したと主張した。その主張は受け入れられず、本来ならばどこかの主族の類族として位置づけられ、再知性化がはかられるはずであったが、人類はすでにチンパンジー、イルカを知性化しており、自ら主族となっていた。やむなく銀河社会は人類を独立した主族として認めた。その多くが、人類を嫌い、ごくわずかな異星種族が人類を好意的に見ていた。
 それから250年。「スタータイド・ライジング」では、初のネオ・ドルフィン中心の恒星船が、その探検航行中に、はからずも銀河種族のすべてが驚愕するような発見をしてしまう。銀河種族の中でも力の強い列強種族は、この宇宙船を追いかけまわす。そして、イルカ船は逃げ、隠れる。その過程で新たな発見をしながらも、地球や主族である人類と接触すらできない。いや、地球と、銀河社会から借り受けたいくつかの植民惑星がどのような状態にあるかすら分からないのだ。ただひとつ、彼らの最初の発見が、銀河社会の安定を乱し、大きな戦乱を招いたことだけははっきりしていた。
 そして、本書「知性化戦争」である。
 宇宙の同時性に意味はないが、ほぼ同時期、辺境の人類植民惑星ガースが舞台である。ガースの異星種族大使たちは一斉に惑星を離れようとしていた。すでに、地球が激しい戦闘に巻き込まれ、人類に好意を持つ種族と人類によって必死の防衛が行われており、他の植民惑星の動向は不明となった。もちろん、このガースでさえ、いつ、どの銀河列強種族によって攻撃を受けるか分からないのだ。
 惑星ガース。ここはかつてある知性化されたばかりの種族に引き渡され、その後彼らは知性を失い、惑星の生態系や将来知性化されたかも知れない動物たちをことごとく滅ぼしてしまった失われた惑星である。人類とネオ・チンプたちは、この惑星ガースの生態系を回復させることを条件にこの植民惑星を借り受けていた。
 そして、惑星ガースに、鳥類型の銀河列強種族グーブルーが、その類族とともに侵略を開始した。
 人類の惑星提督の息子と、人類に似た銀河種族ティンブリーミー大使の娘は、この緊張が高まる中、ある目的を持って、ガースの山中に旅に出る。そして、彼の親友、ネオ・チンプの若者は、死を覚悟して惑星防衛のために宇宙戦闘機に乗り込む。
 こともなく、グーブルーに侵略された惑星ガースで、若き人類、人類に似た若き異星人、若きネオ・チンプたちは、それぞれの思いを胸に、生き残り、銀河社会の中に名誉を勝ち取るためのはてしない冒険と闘いを開始する。
 ということで、本書「知性化戦争」は、数人の主人公の成長譚である。それと同時に、銀河社会の新参者であるネオ・チンプの種としての成長譚であり、生態系を蹂躙され、ここにふたたび侵略を受けた惑星ガースの再生の物語でもある。
 さらには、様々な愛、信頼、相互理解の物語でもある。
 人類の惑星提督の息子と、異星人の大使の娘というヒーロー、ヒロインの恋愛。
 ネオ・チンプという、人類に似ていながらも家族や相互関係がまったく異なる者たちの愛、相互理解、成長。
 いたずら好きで知られるティンブリーミーの大使と、きまじめ、頑固で知られるテナニンの大使が、ふたりっきりで惑星ガース山中を逃亡している道中に、精神的・言語的コミュニケーションが得られないままに相互の尊敬と理解を得ていく様。
 人類により知性化されたネオ・チンプ。彼らにとって、人類は庇護者でもあると同時に、口うるさい頭の固い親でもあった。
 種としての親子関係、あるいは、提督(母)とその息子の親子関係など、物語の王道が冒険の中に語られていく。
 この複雑な「知性体」関係に加えて、もうひとつ、生態系回復というキーワードがある。
 人類は、銀河社会に出会う前に、その唯一の生存の場である地球の生態系を崩壊寸前まで破壊し、多くの将来知性化したかも知れない種を絶滅させた。これは、人類とその類族であるネオ・チンプ、ネオ・ドルフィン共通の秘密である。
 惑星ガースを再生させるのは、人類にとっての贖罪であり、ネオ・チンプにとっては自立への道であった。
 相互理解と生態系を物語の柱にしながら、物語は、宇宙戦争あり、山中でのゲリラ戦あり、スパイあり、大立ち回りあり、なぐりあいあり、秘密あり、いたずらありと、エンターテイメント要素も充実である。
 さらに、結局のところ事件の解決はしなかった「スタータイド・ライジング」と違い、本書「知性化戦争」のラストは、まさしくハリウッド映画そのもの。活躍した彼らが大団円を迎える。映画シナリオといっても通りそうな話である。
 もちろん、ここには書けない、読んだ人だけが知ることのできるきわめつけの痛快なオチもある。そして、ブリンが言いたかった言葉が、最後の最後に素直に語られる。
「……生というものは、公正なものではありません」(中略)「公正だという者、公正であるべきだという者は、愚か者の名にも値しません。生は残酷たり得ます。(中略)宇宙でひとつでもあやまちを犯せば、冷たい方程式によって切り刻まれてしまいますし、うっかり歩道からとびだせば、バスに轢かれてしまうこともあるのです。
 ここはあらゆる惑星のなかで最良の星ではありません。もしそうだったなら、筋が通らない。暴逆は? 不正はそんざいしないのか? 進化でさえ、多様性の源泉でさえ、自然そのものでさえ、きわめてしばしば過酷な過程となり、新たな生命の誕生は死の上に成立しているのです。(中略)しかしながら、公正ではないとしても、少なくとも美しいものではありえます。(中略)このすべてを護りきってこそ、私たちは幸運だといえるのです(略)」(ハヤカワ文庫SF 初版575ページ~)
 このあとに続く言葉こそ、若者の冒険譚をたんなる冒険活劇に終わらせないブリンの本領がある。
 ハヤカワ文庫SFで上下巻1100ページあるのだ。邦訳発行は1990年だから、今よりも1ページあたりの文字数は多い。
 冒険から哲学まで何でも詰め込める一大スペクタクルである。
 最初の宇宙戦を除けば、惑星ガースからは一歩も外へ出ない。じっくり、しっかりと物語を楽しんで欲しい。
 そうそう、ところで、「スタータイド・ライジング」で行方不明になったイルカの探検船ストーリーカーは、どうなってしまったのだろう。本書「知性化戦争」でも、この船の行方は誰も知らないままであり、その後の「知性化の嵐」シリーズを待たなければならない。
ヒューゴー賞受賞
(2006.05.18)

スタータイド・ライジング

スタータイド・ライジング
STARTIDE RISING
デイヴィッド・ブリン
1983
 銀河文明との出会いから250年が過ぎた。人類は、イルカとチンパンジーを知性化していたことで、銀河文明にささやかな地位を与えられ、いくつかの植民惑星を借り受けていた。しかし、銀河列強種族のほとんどは人類を知性化の連鎖を乱すものとして嫌い、そのいくつかは過去に起きたできごとから人類を憎み、あるいは、自らの類族にしてその遺伝子をいじりたいと願っていた。わずかに3つの種族が、それぞれの動機を持って人類に対し友好的であったが、銀河列強種族に対して強い立場を示すほどではなかった。
 人類は、銀河文明のパワーバランスの中で、いつ滅ぼされてもおかしくない状況にあったのだ。
 人類が知性化し、銀河文明の法では人類の類族と位置づけられたネオ・ドルフィンの能力を確かめるために船出した探検船ストーリーカーは、銀河文明を揺さぶる大発見をしてしまった。それは、知性化の連鎖の最古に連なる<始祖>と関わりがあるかも知れない漂流する5万隻の宇宙船団であった。銀河種族が訪れることのない場所で太古の宇宙船団を発見したために、ほとんどすべての銀河列強種族によるストーリーカーの拿捕作戦がはじまった。他の異星種族より先にストーリーカーをとらえ、その発見を独占すべく、ストーリーカーの追跡と、他の異星種族をけ落とすための銀河戦争がはじめられた。
 地球は、なんとか友好種族によって守られているようだが、他の植民星の動向は分からない。なによりも、ストーリーカーは生きのびて、地球に宝となる知識を持ち帰らなければならない。
 しかし、敵は銀河列強種族。そして、すでにストーリーカーは傷ついている。
 ストーリーカーに乗っているのは、150人のイルカと7人の人間、ひとりのチンパンジー。すでに10人のイルカが発見時に死に、そして、銀河列強種族の追跡のストレスに、知性化されて歴史の浅いイルカたちの一部は退行をはじめていた。
 ストーリーカーは、隠れ、補修するために銀河種族が放置している惑星キスラップの海に潜った。ここならば、イルカたちが必要な金属を発見できるかも知れないからだ。しかし、もちろん、銀河列強の種族達は、ストーリーカーがどの星系に転移してきたのか分かっている。追跡の船団は次々と惑星キスラップの星系に入り、お互いが宇宙戦を開始していた。
 はたして、この危機から逃れることができるのか?
 しかし、発見という神様に見初められたストーリーカーは、今度は、この惑星キスラップでも、ふたたび大きな発見をしてしまう。
 銀河列強の異星種族同士の闘い、未知の惑星キスラップをめぐる冒険、イルカ同士、イルカと人類、イルカとチンパンジー、それぞれの思惑、くわだて、陰謀、裏切り、信頼…。そして、作戦。
 癖のあるスタートレックやスターウォーズばりの異星種族達。いかにも、知性化されたイルカやチンパンジーならこうなるであろうという言動や行動。親しみやすいキャラクターと性格付けが、特殊な惑星キスラップの姿を違和感ない背景にしながら物語を展開する。実は、惑星キスラップの姿こそ、SF的なのだが、それを感じさせずに、宇宙戦争やストーリーカーのクルーたちの”人間”関係が軸になるあたり、デイヴィッド・ブリンのうまさである。なに? 人やイルカや異星人がステレオタイプだって? でも、だからこそおもしろいでしょ。
 ステレオタイプの人物描写にはそれなりのよさがあるのだ。
 この「スタータイド・ライジング」は、どうして映画化されないのだろう?
 あ、ちょっと長すぎるんだな。内容が。「スタータイド・ライジング」を映画にしようとすると、かなりはしょらなければならない。読むしかないよ、これは。
 さあ、ストーリーカーに乗って、危機を脱出しよう! って、ゲームっぽいね。
ヒューゴー賞、ネビュラ賞
(2006.5.6)

サンダイバー

サンダイバー
SUNDIVER
デイヴィッド・ブリン
1980
 デイヴィッド・ブリンの代表的なシリーズ「知性化」ものの最初であり、ブリンのデビュー作でもあるのが本書「サンダイバー」である。
 人類が、イルカとチンパンジーに知性をもたらし、宇宙への探検に出た。しかし、それは、いくつもの銀河系にまたがる異星種族による銀河文明による人類の発見でもあった。銀河文明は、伝説の<始祖>と呼ばれる種族にはじまる、知性化によって、各種族が宇宙種族となり、その膨大なデータベースである<ライブラリー>と銀河の諸法によって規定された厳密な階層社会となっていた。すべての異星種族は、その種族を知性化した主族を持ち、その種族はいくつかの類族を知性化していた。そして、知性化された類族は、知性化した主族に10万年に渡る奉仕を要求され、同時に、その主族が滅ぶまで、知性化の連鎖から逃れることはできない。そして、現在の銀河系に知性化の連鎖を持たない知的宇宙種族はいないはずであった。
 そこに人類が登場した。彼らは、イルカとチンパンジーという類族を知性化し、自ら宇宙に乗り出した種族であったが、主族の存在を知らなかった。ときおりこのような主族に放置された類族が見つかることはある。それらの主族は孤児と呼ばれ、どこかの主族に属し、知性化の完成をされることとなる。しかし、人類は自ら類族を生みだしており、<ライブラリー>にも、彼らの主族を暗示する情報はなかった。
 果たして、人類は、自ら知性化を果たした<始祖>と同じような存在なのだろうか、それとも、主族に忘れられ、変質した宇宙の孤児なのだろうか。
 いくつかの異星種族が地球に降り、人類が銀河文明に参加できるようにするため、あるいは、人類を自らの知性化の連鎖に組み込むために人類との接触をはじめていた。
 人類とイルカ、チンパンジーは、銀河文明の真の牙を知らない無垢な存在であった。
 さて、人類が銀河文明に触れて約半世紀が過ぎた。2246年、太陽の調査基地がある水星では、太陽をめぐる新たな発見に驚愕していた。太陽に生命がいるようなのである。
 人類に与えられた<ライブラリー>の小さな分館を探しても、太陽に存在する生命についての記述はない。そもそも、太陽に本当に生命がいるのか? もし、本当に太陽に生命がいるとすれば、もしかすると、この太陽にいる生命こそが、人類を知性化し、その後、銀河の物質的文明から引退した主族なのではないだろうか?
 そこで、人類と人類に好意的な育成協会を担う異星種族カンテン、ライブラリーの管理を担い、人類には冷淡な異星種族ピラ、その類族プリング、それにチンパンジーの研究者が新造船<ブラッドベリ>に乗り込み、水星基地に向かう。
 サンダイバー計画。それは、太陽降下船サンシップに乗って、太陽に直接近づいて調査する計画である。
 銀河文明接触以前にも試みられたが、銀河文明のライブラリーによる科学技術と人類の原始的な技術を加えることで、より優れた調査ができるようになったのだ。
 水星基地とサンシップで繰り広げられる陰謀に次ぐ陰謀。
 それは誰のための陰謀なのか? そして、その陰謀が、人類を危機に陥れる。
 まあ、そういう話である。
 個性豊かな異星種族が出てくる。どの主族も独特の癖があるが、銀河文明はある意味で固定化し、創造性に欠けるらしい。ということで、人類の出番である。なんといっても銀河の「鬼っ子」だから、異星種族には想像もつかないようなことを行う。特に、その中でも、主人公のジェイコブ・デムワは、科学者でありながら、シャーロック・ホームズばりの推理力と直感力、それに加えてばつぐんの行動力を持つ。しかも、過去に心の傷を負う男である。そこに登場するのが、実年齢25歳だが、相対年齢90歳であり、文化的に異質な精神を持つエレン・ダシルヴァ。人類として宇宙に乗り出し、あまつさえ、銀河文明と接触し、それを連れ帰ってくるにいたった探査船のスタッフで、現在は、水星基地の責任者をやっている。現在の地球文化になじめない彼女は、やがてもう一度宇宙に出るつもりだ。
 ジェイコブの心理描写を中心に、物語はブラッドベリ号、水星基地、サンシップという3つの密室の中で激しさを増す。議論あり、心理戦あり、派手なアクションあり、裏切りあり、信頼あり、と、背景に人類の存亡までかかるわけで、なかなか大層な物語となっている。
 デイヴィッド・ブリンの作品は、スタートレックやハリウッドのSF映画を見ているような気持ちになる。難しいことを考えてはいけね。
 太陽という壮大な天体を舞台に広げられるドラマは、これぞスペース・オペラと言わんばかりである。ただ壮大なだけではない。デイヴィッド・ブリンは、同時に天体物理学者であり、歴史学にも造詣が深い。太陽の物理学を肌で感じられるような情景描写もばつぐんである。
 読み終わって、ああおもしろかったと言えるバランスのいいアメリカSFだ。
(2006.5.6)  

TVアニメ 交響詩篇エウレカセブン

交響詩篇エウレカセブン
監督 京田知己 構成・脚本 佐藤大 音楽 佐藤直紀 キャラクターデザイン 吉田健一
2005-2006
2005年4月から1年間に渡って日曜日の午前7時から30分のアニメ番組として放映されたSFアニメーション「交響詩篇エウレカセブン」について書いてみたい。(2006.04.30に初稿発表、同06.03改稿)
この「エウレカセブン」は、テレビアニメを軸として、コミック、小説、ウェブサイト、ゲーム、ラジオ番組、音楽、グッズなど様々なメディアを活用して最初からメディアミックスで展開することを想定して企画された極めて21世紀的なプロジェクトであった。
このプロジェクトの成否あるいは、意義については、ここでは話題にしない。
また、物語としても、本編であるアニメーションの「交響詩篇エウレカセブン」で描かれたことについてのみ触れ、他のメディアや、そこで明らかにされている(かもしれない)世界のことはあえてないものとして触れる。理由として、コミック、小説などでは、主人公のキャラクターや物語の進め方、設定などがそれぞれ異なっており、話がややこしくなることと、すべてに目を通している訳ではないからである。そこで、中心軸であり、全話を見ることができたアニメーション本編のみについての話である。
本コーナーは、基本的に海外SFについて書いているわけで、「交響詩篇エウレカセブン」が、日本の作品であることと、小説ではないことから、2つの逸脱をしている。
それでも書きたいと思ったのは、1年間、とても楽しませてもらった作品に対する感謝の意味であり、他意はない。
海外SFのいくつかの作品や作者の名前が出てくること、明らかにそれらの作品と関連する世界観を持っていることなどから、いくつかの海外SF作品を挙げながら「交響詩篇エウレカセブン(以下エウレカセブン)」について語ってみたい。
なお、「エウレカセブン」の世界は、最後にすべてが明らかにされているため、ネタバレの論となってしまう。あらかじめ了解いただきたい。
「エウレカセブン」の主人公は、14歳の少年レントン・サーストン。彼が、ひとりの不思議な少女に出会い、あこがれていたヒーローであるホランドが率いる月光号に乗り込むところから物語がはじまる。そして、「何も知らない」14歳の少年の視点で、世界は少しずつその姿を明らかにしていく。50話、トータル1000分以上の物語を通して、視聴者はレントンとともに少しずつ世界の真実を知り、レントンの成長とともに、この世界での成長をとげる。
「エウレカセブン」という物語のテーマは、コミュニケーションと理解、信頼である。大人と子ども、親と子ども、子どもと子ども、他者(異人)間、宗教と科学、男と女、世界と人間…。様々な関係が描かれ、そのコミュニケーション能力の高まりを成長として描いていく。
外部のすべてのコミュニケーションを絶った状態で生き続ける「絶望病」が、コミュニケーションの断絶の象徴として描かれ、実は絶望病もまた、別の形の別の存在とのコミュニケーションであったことが、最後に明らかにされる。
「エウレカセブン」の世界(スカブコーラル)は、人類とのコミュニケーションを求めており、人類もまた、スカブコーラルとのコミュニケーションの可能性を模索していた。
しかし、スカブコーラルとのコミュニケーションを否定するものもいる。最後までスカブコーラルと人類のコミュニケーションの「敵」であったノヴァク・デューイ大佐がその代表として描かれる。
しかし、「エウレカセブン」の世界では、人は多面的な姿を見せる。
物語を通して「敵」役であったノヴァク・デューイは、同時に戦争で生まれた「望まれない子どもたち」の唯一の庇護者でもあった。
レントンの成長に大きな影響を与え、第二の両親ともなるビームス夫妻は、その一方でエウレカの存在を許さない妻と、その妻を無条件に支持する夫の一面を見せ、レントンに対して無限の愛をみせるとともに、エウレカをめぐってレントンとのコミュニケーションの不成立をみせる。
レントンもまた、成長期の中で、エウレカ、ホランド、あるいは子どもたちに対して理解・信頼と、疎外・不信の間で揺れ続ける。
そのような形で、コミュニケーション、理解、信頼、世界との対話、他者との対話という多くのSFが追求するテーマを追い続けたのが、「エウレカセブン」である。
人間を含め、知性体の成長とは、認識の深まりとコミュニケーションの深まりであると言ってもいいかもしれない。認識の深まりとは、「世界をみる目」の深まりであり、同じ世界が成長するにつれ、単純な世界から、次第に複雑な世界に変貌していく。単純なコミュニケーションは次第に複雑なコミュニケーションに変貌していく。同じ言葉であっても、その意味は深まり、変化する。同時に、その言葉を発し、受け取るものの関係=世界も変化する。テキストとコンテキストの理解と変容(進化)こそが成長である。
「エウレカセブン」の視聴者は、1話から50話にいたる過程で、前半の世界が後半に断続的に変化し、前半の物語で発せられた言葉が、後半に意味を変えていくことに気がつかされる。よくできたしかけであり、一般的に「物語」とは世界の認識を変える手段として使われていることにあらためて気がつかされる。私の愛好するSF小説というジャンルは「世界の認識を変える(=センス・オブ・ワンダー)」ことを先鋭的に志向する物語であることが多く、その意味で、「エウレカセブン」は登場するガジェットだけでなく、物語の組み立てとしてもよくできたSF作品である。
多くの指摘があるように、「エウレカセブン」では、音楽やサーフィンなどの分野でもサブカルチャー領域にあるものをうかがわせる言葉やガジェット、ギミックが登場する。その遊びの謎解きも作品の魅力となった。
SFの領域でも、明かな遊びがみられた。
特に、3人のSF作家の名前が登場人物に命名され、明らかに、その作品との関与をうかがわせる存在として描かれていた。
そこで、ここからは、この3人のSF作家と「エウレカセブン」の世界について触れたい。
「エウレカセブン」で直接触れられたSF作家は3人。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、グレッグ・ベア、グレッグ・イーガンである。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアについては、「ティプトリー」の名前で第8話「グロリアス・ブリリアンス」から登場する。作品中の「ティプトリー」は、ヴォダラクという宗教集団に属する逃亡中の反政府組織リーダーである老女の役割であった。
彼女は、その後、エウレカが「覚醒」するにいたる過程やエウレカの「変化」の過程で数回登場することになる。そして、道を暗示する者としての役割を演じる。40話「コズミック・トリガー」でエウレカと再会したティプトリーは、エウレカに対し「それがあなたの選択なのね」と、エウレカに理解を示す。また、8話では、彼女に与えられた行動に対して「たったひとつの冴えたやりかた」という言葉を発し、レントンとエウレカ、あるいは登場人物たちに対して、世界と対話するには自ら「選択すること」の必要があることを繰り返し示唆する。
そして、この言葉、「たったひとつの冴えたやりかた」こそ、SF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの代表作のひとつである。
ハヤカワ文庫SFで「たったひとつの冴えたやりかた」として1987年に邦訳出版された作品は、3つの中編からなりたつ連作で、表題作は第一話のタイトルである。
SF界ではあまりに有名で、せつない泣ける名作としてSF読みでない人たちにもファンが多い作品である。
内容は、ひとりの少女が自分の宇宙船で冒険に出かけ、そこで、異星の知的生命体とファースト・コンタクトする。その異星人は、少女の身体の分子間に結合することで、はじめてコミュニケーションをとれたのだ。不思議な友情を結ぶことに成功した少女と異星生命体。しかし、やがて少女は、彼女より先にファースト・コンタクトを遂げた調査隊の運命を知る。そして、少女と異星生命体で少女のひとつの肉体を共有したふたりは、人類や他の知的生命体への災厄を避けるために「たったひとつの冴えたやりかた」を選ぶ。
エウレカが、レントンや子どもたちを守るために選択したように。レントンが、彼の愛するすべてを守るために選択したように。
この第一話「たったひとつの冴えたやりかた」とは違った形であるが、同じようにコミュニケーションと選択の物語が、「たったひとつの冴えたやりかた」第三話「衝突」にもみられる。こちらは、人類と似た存在である知的生命体と人類が最初の出会いのまずさから戦争の危機を迎えながらも、その接点に立った人類の調査船クルーと、異星の知的生命体の若い通訳が最後まであきらめず「相互理解」「信頼」の道を模索したどり続けた物語である。ここでは、いくつかの「死」がコミュニケーションを導く。
「死」をもってしか、真のコミュニケーションが得られなかった不幸と、その選択、悲劇、そして、未来が語られる。
ストーリーの前提は異なるが、「エウレカセブン」にも通じるテーマである。
「エウレカセブン」でも、いくつかの選択が、選択した者たちの「死」につながる出来事となった。「死」しか解決の道がなかったのか? その問いに対し、「エウレカセブン」は、新しい物語を提示する。それが、「エウレカセブン」の選択であった。
次は、グレッグ・ベア、グレッグ・イーガンである。31話「アニマル・アタック」で登場したのが、グレッグ・イーガン教授。通称ドクター・ベアである。「エウレカセブン」で登場する巨大人型搭乗型戦闘マシーン(モビルスーツ)のLFOは、地下のスカブコーラルから発掘された遺跡物にインターフェースや機械部分を装着したものであり、ドクター・ベアはこの遺跡物の原型=アーキタイプの専門家として登場する。彼は、理論物理学や「情報力学」を中心に「先を行きすぎていて、誰も真の理解はできない」論文を発表する洞察力を持つ天才科学者である。彼は、物語の謎の核心である「スカブコーラル・知的生命体仮説」の有力な提唱者であり、スカブコーラルから「発掘」されたエウレカや、アーキタイプから作られた最初のLFOニルヴァーシュが、人類がはじめて宇宙に送り出したメッセージである「ボイジャー」と同じような意味を持ったスカブコーラルからのメッセージであり、探査隊であり、コミュニケーターではないかとの説を展開する。また、グレッグ・イーガン教授は、休眠しているスカブコーラルがすべて覚醒して知的活動を再開すれば、惑星は「クダンの限界」を迎え、物理宇宙が崩壊することが情報力学によって予想され、それを防ぐためにスカブコーラルは自ら休眠しているのだとの説も披露する。それは、ヴォダラクが教義として持つ理論と双璧をなすものだった。
ベアとイーガン、このふたりのSF作家のうち、SF作家として先輩なのがグレッグ・ベアである。
グレッグ・ベアの作品で最初に邦訳され、1987年3月にハヤカワ文庫SFとして登場した「ブラッド・ミュージック」は、「エウレカセブン」が大きく影響を受けている作品であろう。「ブラッド・ミュージック」は80年代の「幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク)と呼ばれ、人類の進化の形、次のステージの形を示した傑作とされた作品である。
ウェブサイトでも、「エウレカセブン」と「ブラッド・ミュージック」の関係や「エウレカセブン」監督の京田知己氏が「ブラッド・ミュージック」を人に勧めていたとのエピソードが見受けられるが、確かにいくつかの設定に似たところがある。
「ブラッド・ミュージック」は、主人公が自らの血液の中に、開発中の自律有機型コンピュータ(バイオチップ)を入れたことから事件が起こる。彼らは血液の中で独自の進化を遂げ、群体としての知的生命体となる。そして、地球上のすべての有機物や無機物を飲み込みながら、生命活動をデータ化していく。人々は、群体生命体の情報の海の中で情報知性体としてヴァーチャルリアリティ的に存在し続けることができる。しかし、微細な知的活動が物理空間に極端に偏在したため、「情報物理学」上の限界が来て、既存宇宙の物理法則が乱れ、新たな変容を迎えてしまう。 「エウレカセブン」で登場するスカブコーラルは、「ブラッド・ミュージック」で登場したヌーサイトと相関し、情報力学から導かれたクダンの限界は、情報物理学から導かれる「ブラッド・ミュージック」のエンディングと相関、そして、ともに「司令クラスター」がキーワードとなる。
もちろん、「エウレカセブン」と「ブラッド・ミュージック」はまったく違う物語であり、その世界観は異なる。「ブラッド・ミュージック」は、わずか数カ月の間にすべてのできごとが起こるが、「エウレカセブン」では、人類とスカブコーラルは長い月日を経てお互いを知るにいたる。
なにより、「エウレカセブン」では、最後の数話の間に、いくつかの「結論の提示」が行われ、それぞれにの主人公達の「選択」があった上で、50話「星に願いを」において、第三の道を指し示す。その第三の道、「進化の方向はひとつである必要はない」ことこそが、「エウレカセブン」の選んだ結論であった。この結論は、「ブラッド・ミュージック」では持ち得なかったものである。もちろん、どちらが優れているという話ではない。21世紀的なコンテクストで「エウレカセブン」の結論が生まれ、80年代のコンテクストで「ブラッド・ミュージック」の結論が生まれたのだから。
「エウレカセブン」は、レントンという何も知らない14歳の少年の目で世界を知り、学び、考え、行動していくために、最後まで真の世界は明らかにされない。そもそも、世界そのものの真実がほとんどすべての人たちに隠されていたからでもある。そして、世界の真実が物語の結論とも結びついているため、「エウレカセブン」の世界を理解するのはとても難しい。ていねいに過去の物語を理解しなければならない。いや、理解したところで、世界の理解は難しいであろう。
その点で、「ブラッド・ミュージック」は、類似の世界を提示しており、「エウレカセブン」を理解する上でのひとつの参考書になる。
「ブラッド・ミュージック」は、今も色あせない、SFの名作であり、「エウレカセブン」を見た上で読めばまた違った面白さを発見できるであろう。
最後は、グレッグ・イーガン。「エウレカセブン」で唯一フルネームがそのまま使われているSF作家である。「エウレカセブン」でグレッグ・イーガンのことを、「先を行きすぎて誰も真の理解ができない」天才と紹介しているが、現実のSF作家であるグレッグ・イーガンも、「先を行きすぎて真の理解ができない」テーマを、SFとして表現し、難解ながらも高い評価を得ている。近年、イーガンの作品は続けて翻訳されており、「エウレカセブン」放映中の2005年9月にも1997年に原著発表された「ディアスポラ」が翻訳出版(ハヤカワ文庫SF)されている。グレッグ・イーガンの特徴として、多くの作品が「観察者問題」をテーマとしている。
「観察者問題」とは、私が「要するに」とまとめられるような簡単なテーマではなく、理論物理学あるいは宇宙論の基盤をなす難解な問題である。「見る者」=観察者がいなければ、現実は確定しない。みたいなことを含むなにかなのだが、正直なところよく分からない。詳しく知りたい人は、有名な「シュレディンガーの猫」のエピソードでも調べて欲しい。正直なところよくわからない先端的な理論を、SFとして人間の物語にするところがグレッグ・イーガンの力量で、わからなくてもなんとなくわかったような気持ちになる。なぜならば、物語は、人間の行動や思いで成り立っているからだ。グレッグ・イーガンの観察者問題の代表作として「宇宙消失」(1992・邦訳1999 創元)、「順列都市」(1994・邦訳1999 ハヤカワ)、「万物理論」(1995・邦訳2004 創元)がある。
「宇宙消失」は「エウレカセブン」のテーマのひとつである「人間の意志」が大きなテーマを占める。「順列都市」もコンテクストは異なるが「エウレカセブン」で登場するヴァーチャルリアリティ空間での存在と世界が語られる。最後に「万物理論」だが、この作品は、「ブラッド・ミュージック」にならんで「エウレカセブン」に近いかも知れない。ただ、「ブラッド・ミュージック」ほど直接的なつながりはない。それに、なんといっても難しい。しかし、難しさを無視して読み進めれば、「エウレカセブン」におけるレントンと同様に、主人公のジャーナリストが、自分のことに悩みながらも、現実に起こるできごとにとまどい、知り、学びながら、最後には選択する物語になっている。そして、その選択こそが、宇宙に大きな影響を与えることになる。もし、「エウレカセブン」を見て、「たったひとつの冴えたやりかた」や「ブラッド・ミュージック」を読み終えたならば、次に、玉砕覚悟で「万物理論」に手を出して欲しい。半分以上わからなくても大丈夫。私も本当のところわかっちゃいない。なんといっても「先を進みすぎている」のだから。それでも、きっと、そこに書かれている人々の行動や心理に共感することだろう。そして、主人公達に、レントンやエウレカの影をみることができるかもしれない。
「エウレカセブン」に驚かされたのは、道が数多く提示されたことである。
ヴァーチャルリアリティでの情報体として永遠の生、お互いに嘘のないすべての情報を共有できる、合一できる存在を提示されながらも、レントンとエウレカが、物質的存在としての限られた生の価値を理解し、その道を第一の道として選択した。そして、他者の物質的存在を守る道が、レントンとエウレカが情報体になることしかないとなったら、それを「死」ではなく別の「生」として第二の道を選択する。さらに、その道すら閉ざされたときに訪れた「別離」をともなう第三の道の選択に対しても、別の共に生きる道を探そうとする。最後には、これらをすべて含む道が提示されて物語を終える。
未来はひとつではなく、選択もひとつではないが、選択しなければ道は拓けず、共感と理解、コミュニケーションのもとにしか、存続の未来はないことを提示する。
それを、物語として破綻なく見せ続けた力量にはただただ感服する。
今後、「エウレカセブン」がメディアミックスの中でどのような展開を見せ、どのような評価や歴史的位置づけをたどるかは知らないが、私は1年の間、謎解きを楽しみ、登場人物に感動することができた。そして、50話を終え、できればもう一度、全体を理解した上で、最初からレントンとエウレカの1年間をたどってみたいと思う。
補記:実はもうひとりSF作家が登場していた。25話の「ワールド・エンド・ガーデン」で絶望病と人、大地と人、人と人の関係について主人公のレントンに深い印象を与えたウイリアム・B・バクスターが、ジーリーシリーズで有名なハードSF作家のスティーヴン・バクスターからとった名前だという。登場した人物とバクスターのSFの内容に関係をみつけられなかったので見逃していた。このほかにもファンタジー作家のロアルド・ダールがそのまま軍人(州軍指揮官)として出てきたりもしているので、先の3人(ティプトリー、ベア、イーガン)を除いては、必ずしも元ネタの作家や人物と内容に関係はないのであろう。
補記2:本稿では、作家に焦点を置いてその作品と「エウレカセブン」との関わりについて述べていたが、「エウレカセブン」のテーマである共感や愛については、デイヴィッド・ブリンの「知性化」シリーズ「知性化の嵐」やダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズなどにも見られる。
「知性化の嵐」シリーズは、人類だけでなく様々な知性体が出てくるが、惑星への移住と共生、惑星自体が過去の生命系に影響を受けた共感能力を持ち、結論でも共生や選択の道の多様性が提示される。
再読して、類似性が深いと思ったのは「ハイペリオン」シリーズであり、とりわけ、後半の「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」である。主人公のロールとアイネイアーの旅と相互の関係の変化、アイネイアーとロールの位置づけをはじめ、イメージとしてもエウレカセブンでたびたび登場する世界と一体となって移動する(空をトラパーの波に乗って移動するなど)と同じような情景がいくども描かれる。テーマも、「愛は物理的な宇宙の力である」と、これだけ書くといかがわしく感じられるような大テーマを体現している。「エウレカセブン」がそうであるように、宗教と科学の対話、仏教の考え方、キリスト教の視点なども丁寧に描かれている。「エウレカセブン」の元ネタのひとつと言っても過言ではないだろう。
「ハイペリオン」シリーズは四部作といっても、それぞれが文庫で2分冊になっていて、合計8冊、しかもその1冊ずつが普通の文庫の2~3作分ぐらいある大作である。20世紀末までのすべてのSFの集大成と言っても過言ではない作品で、数多くのSFのテーマや小道具、設定などが縦横無尽に使われ、しかも、そのひとつずつをシモンズ流に解釈し、提示している。小説としてのSFだけでなく、「スター・ウォーズ」のような映画の領域にも踏み込んでおり、それでいてそれらの作品をまったく読んでいなくても楽しめる作品になっている。
「エウレカセブン」が終わって1年余、もう一度、あの心地よさを体験したい方は、この四部作を手に取ってみてはいかがだろう。
(2006.4.30 改稿 2006.6.3 追補2 2007.7.31)

たったひとつの冴えたやりかた

たったひとつの冴えたやりかた
THE STARRY RIFT
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
1986
 本書「たったひとつの冴えたやりかた」は、邦題の表題作をふくむ3つの独立した中編をまとめた本であり、作者の遺作となった作品である。
 原題は、THE STARRY RIFT。銀河系の人類を含む連邦宇宙領域で便宜的な北の境界となる星の少ない未踏の領域「リフト」を意味する。このリフトの向こうにどんな星々があり、どんな知的生命体がいるのか、人類がまだ知らなかった頃の物語がみっつ納められている。そのうちふたつはファースト・コンタクトの物語。そして、この物語を紹介し、読むのはリフトの向こう側にいるコメノ族の学生カップル。彼らは異種である人類の事実を含むみっつの物語を読む。そして、共感する。理解する。それこそが、知的生命体の証だから。
 多くを言うことはないだろう。SF史に残る宝石である。
 SFは時として珠玉の作品を生む。その作品に共通する特徴こそが、「The Only Neat Thing To Do = たったひとつの冴えたやりかた」の一言に凝縮されていると言っても過言ではない。人は弱いと同時に弱くない。人はおろかだ。同時に人は思わぬ時に思わぬ強さを発揮する。そのおろかさと強さの同居に、人は感動を覚え、涙する。
 そうありたい。そうあれるだろうか。
 その行為を、理解し、共感する。
 この3編のうちの表題作となる「たったひとつの冴えたやりかた」こそ、トム・ゴドウィンの「冷たい方程式」を凌駕する美しく切ない物語である。
 この物語の特徴を文学的に、あるいは、心理的に分析することは容易に可能である。
 難しい構成をしているわけではない。
 必ず泣けるようにできている。
 しかし、そんな分析は意味をなさない。
 本書には「たったひとつの冴えたやりかた」の次に「グッドナイト、スイートハーツ」、そして「衝突」がおさめられている。「グッドナイト、スイートハーツ」は、ひとりの記憶を失った男の物語である。「衝突」は、リフトの先の知的種族と人類のもうひとつのファースト・コンタクトの物語である。こちらもせつなく悲しい物語であるが、残念なことに「たったひとつの冴えたやりかた」の影にかすんでいる感がある。この物語のテーマは「信じる」という言葉である。コミュニケーションとはつまるところ、理解と共感であり、それは「信じる」という言葉に集約することもできる。
 そして、この「衝突」は、現代史を肌で見つめ続けてきた作者が残した人類への率直なメッセージである。
(2006.4.30)

ファウンデーションの勝利

ファウンデーションの勝利
FOUNDATIN’S TRIUMPH
デイヴィッド・ブリン
1999
グレゴリイ・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンの3人による公式の銀河帝国興亡史新3部作を締めくくるのが、本書「ファウンデーションの勝利」である。
 前2作品で、アイザック・アシモフによる正統ファウンデーション・シリーズのミッシングリングを違和感なく埋め、物語は大きな円環を描いた。それは、半世紀におよぶひとつのSF史の完結でもあった。そして、未来への予兆を描き出したのが、「ファンデーションの勝利」である。
 もっとも、銀河帝国史の中では、ハリ・セルダンの最晩年を描いたものであり、ターミナスに銀河百科事典編集を目的とした科学者達が移住を行っていた時期である。ほぼすべての役割を終えたハリ・セルダンは、ごく少数の人たちからの世話を受けながら、自らの死期を待っていた。そこに、荒唐無稽な統計を持った無名人が登場する。土壌の専門家という彼は、帝国の星々の土壌の中に、別の進化を遂げていた生物の化石が見つかるなど、奇異な事実があるというのである。それらの惑星には、ハリ・セルダンを悩ませ続けた「混沌」世界の誕生がみられ、土壌の特徴と有意な関連があった。この事実を知ったハリ・セルダンは、軟禁状態の惑星トランターを抜け出し、混沌の原因を探るべく調査に出る。
 そこには、2万年にわたる人類とロボットの歴史の闇が潜んでいた。
 果たして、心理歴史学とファウンデーションは、R・ダニール・オリヴォーが画策する未来の人類像であるガイアやガラクシアのためのつなぎにしか過ぎないのか? それとも、第三の道があるのか? 「ファウンデーションの彼方に」以降の人類の方向性について、新たな視点で未来を語るのが本書である。
 そして、なぜアシモフの宇宙に人類以外の知性体がほとんど見られないのかも明らかにされる。
 本書もまた他の2作品同様、アシモフ世界の忠実な物語であると同様に、デイヴィッド・ブリンの作品でもある。ただ、先のふたりと異なるのは、デイヴィッド・ブリンは、自らの作品世界を確立している一方で、様々な作家と共作あるいは、作家の意志を受けての作品を書いている実績を持っている。そのためよりアシモフ的である。それこそが、三部作の最後に選ばれた理由でもあるのだろう。
 と同時に、ブリンの代表的シリーズである「知性化」シリーズを彷彿とさせるようなくだりもある。まったく違う世界でありながら、接点が生まれるところに、シェアワールドもののおもしろさがある。
 本書に限って言えば、せめていくつかのアシモフ作品、あるいは、ファウンデーションシリーズをある程度読んでいなければ真のおもしろさはない。数々のアシモフ作品がぎっしりと詰め込まれた、楽屋落ち的な作品だからだ。
 逆に本書を読むと、ファウンデーションシリーズ以外のアシモフ作品が読みたくなる。
 そんな気持ちにさせてくれるあたりが、デイヴィッド・ブリンの力量なのだろう。
(2006.4.30)