断絶への航海

断絶への航海
VOYAGE FROM YESTERYEAR
ジェイムズ・P・ホーガン
1982
 1980年代テイストたっぷりの「播種船もの」である。本書「断絶への航海」は、いかにもホーガンといった感のある理想主義的科学技術信仰に満ちた作品で、そのあたりが今となっては読者を選んでしまう。最初から、辛口の表現をしてしまったが、どうやら高校生の時の私は、この作品にどっぷりのめり込んでいたようで、ところどころに赤鉛筆で線が引いてある。なにやら恥ずかしいところにばっかり赤線があって、読み直しながら赤面してしまった。
“人間の心は無限の資源で、本当に必要なのはそれだけなんです”とか、
“彼らがやっているのは、こっちも気づいていない頭の中の思考を引き出すことなんだな””子供の教育は、それだけで充分なのよ”とか。
 どうした、高校生の私。何があったんだ。
 それはさておき、本書「断絶の航海」の話である。
 1992年に米ソの局所的戦術核衝突が起こり、2015年には第三次世界大戦前夜の状況下にあった。しかし、核融合によるエネルギー問題解決と、経済成長がその圧力を押しとどめていた。2020年、北米宇宙開発機構と中国、日本を中心とする東亜共栄圏の同機構は共同で宇宙の避難所計画として、人間の遺伝子情報と人工知能ロボットをのせた無人船を発進させ、適当な惑星が発見されたら人間を創造し、人工知能ロボットが養育するプログラムを実施した。
 2021年には、北米、ヨーロッパが荒廃、ソヴィエト帝国が終焉する大殺戮が起こり、飢餓時代となる。アジアは、中国、インド、日本の東亜共栄圏が勢力を伸ばしていた。
 2040年、播種船から連絡が入り、アルファ・ケンタウリの惑星ケイロンに播種を開始したことが伝わる。そして、2050年代にかけて、新アメリカ、大ヨーロッパ、東亜連邦の3大超大国となり、それぞれが、ケイロンの支配権を主張し、宇宙開発に乗り出した。そして、新アメリカ、東亜連邦、大ヨーロッパの順に、恒星船をケイロンに向けてスタートさせたのである。
 2060年、新アメリカは、正規軍、特殊部隊をふくむ到着時3万人ともなる恒星移民船メイフラワー2世号を発進させた。そして、20年、9光年の旅を経て、2080年12月31日、惑星ケイロン軌道上に到着した。
 そのとき、ケイロン人は、ロボットに育てられた第一世代が30代後半から40歳ぐらい。約1万人、第二世代の10代後半以上で約3万人ともなっている。彼らは、メイフラワー2世号の指導部がいくら問いかけても、責任者も、指導者も、その社会体制も明らかにはされなかった。しかし、ケイロン人は彼ら地球人を快く受け入れるという。
 新アメリカは、後続の東亜連邦、大ヨーロッパの恒星船が来る前に、ケイロン人を制圧し、惑星を支配下に置くべく、硬軟両構えで、民間人の一部と軍の一部を惑星ケイロンに降ろした。
 しかし、ケイロン人の社会は、規律に満ちた新アメリカ人とはまるで違った社会となっていた。
 ここに、ケイロン人社会と、地球人社会の未来をかけた静かな戦いが開始された。
 いろいろ書いてあるけれども、「理想的共産主義社会」とでもいうようなのがケイロン社会である。通貨はない。エネルギーも、土地も、製品も無尽蔵に存在し、ロボットなどが労働の下支えをしている。人々は、指導体制や政治体制がないままに、自らの資質と興味に応じて、複数の仕事、芸術、文化、生活的行為を行う。「規制」という概念はなく、「他者の尊敬」のみが、ケイロン社会の価値観であり、規範である。ゆえに、そもそも他者の尊敬が得られないものは社会から消えるしかない。他者の尊厳を奪うものは殺されてもしかたがない、他者の尊敬という規範から逸脱した者は、他者とのコミュニケーションから離れ、引きこもるか、野生に出るしかない。でなければ、殺されるだけだ。しかし、その「他者の尊敬」という規範に応じて暮らす者は、自律、自主の豊かで文化的な生活を過ごしている。おべっかも、裏表も、本音と建て前も、命令も、服従も、義務や権利もない。純粋に、なすべきことを探し、なせばいいのである。
 これに、くらりと来て、「自立的」な要素を持つ者から、地球人はケイロン人に移っていく。
 翻訳者があとがきで書いていたが、「そんな社会が成立するわけがない」のである。
 それを、科学技術による社会的経済的制約条件の解決により成り立つ、あるいは、それに近い方向に行くはずだ、というのがホーガンの主張であり、理想であり、理念であり、本書「断絶への航海」は、それを素直に表現したものだ。
 もちろん、ホーガンはまったくの自由主義経済に生きる作家であり、その作品群を読む限り、社会主義や共産主義とは相反する思想信条を持っている。本書「断絶への航海」でも、ケイロン人社会を共産主義とは言っていないし、そういうものではないつもりで書いているようだ。しかし、素直に読み下せば、仮説的共産主義なんだと読めるが、どうなのだろう。
 ホーガンは、”嫉妬、不信、疑念など、人類史上その宿痾ともいうべき感情”(ハヤカワ文庫SF 11ページ)と、人間関係や因習に縛られた結果起こる人々の争い、社会の争いが引き起こす暗い現実に対して、科学技術の進歩によるあっけらかんとした明るい未来観を提示する。そのわくわく感はホーガン特有のおもしろさなのであろう。同時に、そのあっけらかんとした未来観には、20世紀前半の狂った時代に生まれた芸術運動の「未来派」に似たちょっと気持ちの悪い清潔さを感じてしまう。
(2006.2.25)

スカイラーク対デュケーヌ

スカイラーク対デュケーヌ
SKYLARK DUQUESNE
E・E・スミス
1965
 スカイラークシリーズの後、第二次世界大戦前、戦時中、戦後にかけて不朽の名シリーズ「レンズマン」を書き上げたドク・スミスは、その最後の仕事に、スカイラークシリーズ第4巻を選んだ。すでに、1960年代になり、スカイラークの設定は古くさくなっていた。もっとも、レンズマンでさえ、その設定は古くさいのだが、そういうのを黙らせてしまうのが、E・E・スミスとスペースオペラファンの力である。ドク・スミスは、最後に、スカイラークシリーズを書き、それまでの主人公シートンに対するヒーロー的愛を、デュケーヌに振り向ける。
 本書で、シートンとデュケーヌは、宇宙に広がる人類型知性の真の危機に対して一時的に手を結ぶが、そのたびにデュケーヌはシートンを裏切り続ける。
 それでも、デュケーヌを「悪」としては描かず、冷静に自らの利益を考え、その演繹として人類の危機に対処し、シートンとも手を結ぶことのある理解できる超人として描く。
 最後の最後に、デュケーヌは人類型知性を守るためにシートンに手を貸し、彼を救い、そして、銀河系をひとつ手に入れる。美しき知的なパートナーを得て、皇帝マーク1世の誕生を予感させて、本書は終わる。
 そこには、シートンやクラインの「かよわき」妻の姿はなく、冷徹なデュケーヌと対等に立つ女帝の姿がある。
 デュケーヌ、かっこいいじゃないの。
 そこに30年の「読者」の変化があるのだろう。そして、「読者」を忘れないドク・スミスの答えがあるのだろう。
 本書では、過去3巻に登場したあらゆる敵やキャラクターが登場する。また、レンズマンシリーズの後半に見られた「現在の科学では解明できない人間の精神的能力」が魔法のように登場し、物語を盛り上げる。
 本書を発表し、19世紀の1890年に生まれた稀代のSF作家、スペースオペラの大家は、75年の生涯を終え、「エーテル」と、相対論を無視した時間軸の時代は幕を降ろすのである。
(2006.2.19)

ヴァレロンのスカイラーク

ヴァレロンのスカイラーク
SKYLARK OF VALERON
E・E・スミス
1935
 スカイラークシリーズ第三弾は、ヒトラーが台頭し、スターリンが台頭するなかで発表された。アメリカは、ルーズヴェルト大統領のニュー・ディール政策の時代である。
 さて、前作ではすっかり影をひそめていたデュケーヌ博士が帰ってきた。スカイラーク3号がフェナクローン人を絶滅させる間に、彼は、フェナクローンの宇宙戦艦を奪い、その後、ノラルミン人をだまして、スカイラーク3号と同型の宇宙船をせしめる。その船を使って地球に帰り、地球で無血革命を起こし、地球の領主となった。
 一方、スカイラーク3号は、フェナクローン人最後の宇宙戦艦を破壊し、地球を含む第一銀河系から遙か遠くの銀河間宇宙空間を旅していた。そこで、シートンはかつて純粋知性体に遭遇したことを思い出し、第六次光線の可能性から彼らの危険性を知る。純粋知性体はスカイラーク3号に攻撃をしかけ、その結果、スカイラーク3号は破壊され、シートン達は中につまれていたスカイラーク2号をスピンさせて四次元世界にはいることで命からがら逃げ出す。
 四次元空間で、四次元人達とのコミュニケーションに失敗し、なんとか通常宇宙に戻ったスカイラーク2号とシートン達だが、宇宙で迷子になる。
 そこで、シートンは、手近な惑星系でスカイラーク3号の再建を考えるが、出会った人類の居住する惑星ヴァレロンは、塩素系のアメーバ異星人クローラ人に支配されていた。シートンは、その多くの惑星の人類型知性体の頭脳が統合された精神力と物理的な純粋力によってクローラ人を圧倒し、ヴァレロン人を解放する。そして、ヴァレロンのもともと優れた科学力を活用し、人工知能ともいうべき「頭脳」をそなえた、スカイラーク3号よりも大きくひとつの小惑星ほどの新しいスカイラーク号「ヴァレロンのスカイラーク」を完成させる。
 緑色太陽系人達は、シートンの宿敵デュケーヌ博士に力を与え、地球圏が彼の支配となったことに怒り、シートン不在の中でデュケーヌ征伐に乗り出すが、デュケーヌの鉄壁の守りにより敗北してしまう。
 そこに、「大宇宙空間のすべての宇宙の、すべての銀河の、すべての太陽の物質を崩壊させることによって解放される動力を用いて駆動されている」ヴァレロンのスカイラークと頭脳が帰ってくる。
 ヴァレロンのスカイラークと頭脳は、潜在的に脅威となる純粋知性体を捕捉し、ついでに、地球のデュケーヌも捕捉、彼を非物質化して純粋知性体に変え、時間を静止させて遠い宇宙の果て、「超宇宙の、大宇宙すべてをこめての、究極的に無限の言語に絶した広大無辺の彼方」へ送り込んだのであった。
 地球に平和が訪れ、シートン夫妻は安心して二世づくりに励むのであった。めでたしめでたし。
 これほどまでに、大宇宙の、超がついて、無限大の、言葉にはできない、荘厳な、形容詞の多い、作品はないのであろうか。シートンの活躍を大宇宙規模にみせるための言葉の羅列が、ちょっと、今となっては、つらいなあ。
 これにて、スカイラークシリーズは終わり、レンズマンシリーズがE・E・スミスの中心、スペースオペラの中心に移っていくのである。
(2006.2.19)

スカイラーク3号

スカイラーク3号
SKYLARK THREE
E・E・スミス
1930
1930年にアメリカで発表されたスカイラークシリーズ第2弾。アメリカは世界恐慌の引き金となる大暴落を前年に招いていた。そして、現実の世界は第二次世界大戦に向かってゆっくり、ゆっくり進んでいた。科学界は、アインシュタインの相対性理論、ハイゼンベルグの量子力学、シュレディンガーの波動理論など、その後の世界をゆるがす発見や理論が発表されていた。
 アメリカは、いや、世界はいまだ男尊女卑であり、正義は力であり、平和であった。
 前作で完成したスカイラーク2号を使って再び緑色太陽系に向かうシートン夫婦、クライン夫婦の一行。途中、宇宙制覇を狙う人類型異星人のフェナクローン人と遭遇。その恐るべき企みと兵器を知り、シートンは、彼を大君主と仰ぐオスノーム人とウルヴァニア人との間の惑星間戦争を調停し、海惑星のダゾール人、知的な老成種族のノラルミン人を巻き込み、それまでのエーテル中を伝播する第四次光線ではなく、エーテルに依存しない第五次光線の操作装置を開発。さらに、彼らの手を借り、超巨大なスカイラーク3号を完成させた。そして、緑色惑星の政治指導者達とシートンとの「平和会議」で、宇宙平和軍を組織した。フェナクローン帝国への宣戦布告が行われ、そして一方的な惑星系壊滅戦がはじまった。
 フェナクローンの惑星は完全に破壊され、フェナクローンの「延期党」と呼ばれる、宇宙征服の準備を慎重にすべきだという勢力の宇宙船だけが逃げ出した。シートン一行とスカイラーク3号は、彼らを宇宙の果てまで追いかける。そして、20万光年先の手地と星間戦争を行い、ついにはフェナクローン人を絶滅に追いやった。
 宇宙征服の陰謀は潰え、宇宙平和軍により宇宙の平和は保たれたのだ。
 悪はひとりも残すべからず、である。
 さて、この巻では、シートンの宿敵デュケーヌ博士はあまり華々しくなく、シートンの自動尾行から逃げ出し、オスノームの宇宙船を盗み、フェナクローン人を捕虜にして姿を消してしまう。
 たったひとりの悪役よりも、宇宙の平和なのであった…。
(2006.2.19)

宇宙のスカイラーク

宇宙のスカイラーク
THE SKYLARK OF SPACE
E・E・スミス
1928
 人類がついに太陽系を越えた記念すべき作品が、E・E・スミスの処女作「宇宙のスカイラーク」である。物理化学者リチャード・シートンがプラチナの精製廃溶液から発見した未知の金属Xは、世界の物理学とすべての産業や世界のあり方を変えるものであった。
特殊な機械の場の影響を受けた状態の銅と未知の金属Xが接触すると、Xを触媒として銅が100%エネルギーに転換するのである。熱なし。放射能なし。残留物なし。クリーンで史上最強のエネルギー源である。
 リチャード・シートンは親友の大金持ちでロケット研究家、技術者のレイノルズ・クレインの発案で会社を設立、宇宙船を建造する。シートンの婚約者ドロシーは、この宇宙船にスカイラークと命名。建造は順調に進んだ。
 しかし、シートンの元同僚でぬけめのない冷徹な研究者マーク・デュケーヌが、シートンの発見を察知、かねてからつるんでいた悪徳鉄鋼企業の支店長らと共謀してシートンを殺害し、金属Xと研究ノート類を奪おうとする。
 シートン殺害は失敗したものの、金属Xの一部と研究ノート類を奪い取ったデュケーヌは、スカイラーク号と同じ宇宙船を建造し、ドロシーらを誘拐したのだった。
 愛する婚約者を奪われ、デュケーヌの乗った宇宙船を追いかけようとするシートン。しかし、スカイラーク号の完成は遅れた。一方、デュケーヌやドロシーらが乗った宇宙船もまた、事故を起こし、光速をはるかに超える加速度で太陽系を超えて暴走し、死んだ太陽の重力の井戸に落ち込んでしまう。
 スカイラーク号は、その危機を乗り越え、ドロシーと、もうひとりのとらわれの美女マーガレットを救出し、デュケーヌをとらえる。
 しかし地球に帰るための銅はつきてしまった。銅を求めて宇宙をさまよい、降り立った惑星で、スカイラーク号一行は人類型異星人同士の争いに巻き込まれてしまう。
 スカイラーク号は、それまでの鉄鋼からこの惑星で作られる鉄よりも強度の高いアレナックに装甲を付け替え、この争いに加わったのだった。
 そんな話である。もちろん、みな地球に戻り、ドロシーとシートンは結ばれ、クレインは美女マーガレットと恋に落ちる。そして、デュケーヌは地球で逃亡する。次への予感を残して。
 解説によると、本書「宇宙のスカイラーク」は1920年にはほぼ完成し、8年後にようやくアメージング誌に売れ、掲載と同時に爆発的ヒットとなったようだ。本シリーズは、E・E・スミスの処女作であり、4作品が書かれている。そして、第4作は遺作でもある。
 レンズマンシリーズと並んで、スペースオペラ不朽の名作といえよう。
 もちろん、今読めば、いや、約30年前に初めて読んだときであっても、「それはないよなあ」というシーンはいくらでもある。40Gがかかっているのに死なないとか、塩がまれな呼吸可能な惑星で人類型異星人がいるとか…。でも、30年ほど前、はじめて本書「宇宙のスカイラーク」に接した私は、12歳ということもあったがそんなことにはちっとも気づかなかった。ただわくわくと大宇宙を旅していたのだった。
 奥付を見ると、1967年が初版で、私は1977年1月の第23版を買っている。当時260円。親に頼んで、田舎の本屋に4冊揃ってとりよせてもらったのだ。本屋さんが、ほかの本と一緒にこのシリーズをわざわざ家まで届けてくれた日のことは忘れない。
 まだ、「すかいらーく」という名のファミリーレストランの存在すら知らなかったころ、スカイラークといえば、雲雀(ひばり)という時代のことである…。
ところで、本書を歴史的にみれば、すでにサイクロトロンへの言及がある。しかし、まだ現実には着想段階だったのだ。今読めば荒唐無稽な話ばかりだが、1928年以前の着想であることを忘れるわけにはいくまい。
(2006.02.07)

ロシュワールド

ロシュワールド
THE FLIGHT OF THE DRAGONFLY
ロバート・L・フォワード
1984
 6光年先のバーナード星系で二重惑星が発見された。無人探査機が1998年に出され、2022年には報告が戻ってきた。2026年、16人の科学者、パイロットらがレーザーによる恒星船プロメテウス号で40年の航海に出る。それは片道切符であり、成功すれば2076年の大アメリカ300年祭には調査報告が届くことだろう。
 プロメテウス号は、それ自身が半知性をもつ人工知能が搭載され、クリスマスブッシュという分離稼働可能なロボット、および、各搭乗者にひとつずつ割り当てられた通信/補助ロボット・インプ、無人探査船、その他が連携し、自律しながら探査を支援していた。
 無事、バーナード星系に到着したプロメテウス号は、いくつかの惑星を調査し、本命のひとつ二重惑星ロシュワールドにおもむく。そこは、ロシュの限界ぎりぎりのところで相互に影響を与えながら公転する二重惑星である。ここに有人の探査船ドラゴンフライ号が着陸し、調査をはじめる。そこには、単細胞の巨大な知的生命体が、人類とは異なる世界観を持ち、数学的哲学的考証と、ロシュワールドの過激な海でのサーフィンを楽しんでいた。彼らとの接触、交流が今はじまった。
 本書「ロシュワールド」は、内容だけ抜き出すと、人類とは大きく異なる異星知的生命体との接触の物語である。異星知的生命体は、まったく人類とは世界観を異なっているのにかかわらず、人類とコミュニケーションできた。それは、もちろん、人類の手になる人工知性体のおかげである。もうひとつ、本書のテーマは、異星に行く、である。太陽系を超え、片道切符だが、実現可能な方法で6光年を旅し、研究する、夢を果たす。
 それだけならば、短編や中編でも十分な気がするが、作者ロバート・L・フォワードにとっては違う。彼は、どうやって恒星を旅するのか、ロシュワールドが存在した場合、その惑星はどうなるのかを描きたかったのだ。ハードSFの申し子であり、科学者であるフォワードにとって、SFは無限の空想の世界ではなく、ひとつの科学仮説を前提にした物語なのだ。そして、フォワードは物語よりも世界を書きたいのだ。
 だから、16人の片道切符となった登場人物が、なんのトラブルも起こさずに40年間過ごすのをおだやかな気持ちで見ておこう。だから、地球圏の政治経済状況に変化が起こり、一時は、プロメテウス号に関心をなくしたためその推進機関である太陽光を集積してレーザーとして送る装置の拡張が予定通り進まず、プロメテウス号が宇宙の迷い子になりかねない危機を描いているのに、それほど緊迫感がないのも、おだやかな気持ちで読み進めよう。不定型な異星生命体のコミュニケーションのありようについてもあまり深く突っ込まないでおこう。
 宇宙海兵隊の訓練の場で、隊員をののしる言葉として「BASICプログラムの申し子」というのも、1984年という時代が語らせているのであろう。
 ま、いいや。
 本書「ロシュワールド」は出版された翌年の1985年夏には邦訳されている。私がはじめて読んだのはおそらく1986年のことで、チャレンジャー号爆発、チェルノブイリ原発事故に象徴される年である。日本ではパソコンといえばPC-9801の時代で、MS-DOSの「DOSってなんだ??」ってな時代である。メディアにテープや5インチフロッピーを使っていたのだ。ようやく3.5インチフロッピーが普及しはじめた頃である。新聞には、人工知能やシステム工学の文字が躍り、ソフト会社が次々に生まれ、大学卒をシステムエンジニアとして大量雇用していた時代である。時代感覚には合っていた作品なのだろう。
 さて、2006年、約20年ぶりに読み返したのだが、何を感じたかと言えば、昨年から放映しているテレビアニメ「交響詩編エウレカセブン」で、不定形の知的生命体が登場しているなあとか、大気中の波であるトラパー波でサーフィンしているなあとか、そういうぼんやりとした思い出しであった。いや別に「エウレカセブン」と類似点があるというわけではなく、波乗りを通して、世界と共感し、つながり、かつ、数学的哲学的思考を得るというのは素敵なことだなあと思った次第である。
(2006.02.07)

重力の使命

重力の使命
MISSION OF GRAVITY
ハル・クレメント
1954
 人類が宇宙に出てはるか先、知的生命体とも接触し、チームを組んで様々な星を探検・調査していた。今、惑星メスクリンで調査隊は窮地に陥っていた。極地付近に着陸した無人探査船が行方不明になり、貴重な機材とデータが得られないのだ。そこで、調査隊は、惑星メスクリンに住む未開の知的生命体と接触した。メスクリン人の貿易船ブリー号の船長バーレナンは商売半分、好奇心半分からこの契約を受け入れ、冒険がはじまった。
 惑星メスクリン、それは、メタンの海、水素とメタンの大気をもち、公転周期1800日、自転周期17分と4分の3、赤道付近の重力は3G、極地付近ともなると700G、表面気温-50度~-180度の超重力の世界である。メスクリン人は、体長15インチ(約40センチ)、ムカデのような生物である。
 人類は、この惑星で自由な行動はできず、特別なとき以外は、人類がバーレナンに託したビジョン・セットと呼ばれるテレビ無線機でメスクリン人と情報を交換し、指示するだけである。
 早々に英語を覚え、人類らの科学や知識、道具の秘密を知りたくてたまらないのに、そんなそぶりをみじんも見せず、人類の友だちとしてふるまうユーモアたっぷりの商売人バーレナン船長と、船長よりも頭がよく、知的で無骨な一等航海士ドンドラグマーが、貿易船ブリー号とクルーを率い、彼らが行ったこともない赤道から極地までの長い旅に出る。
 人類が次々に繰り出す「科学」の魔法、そして、バーレナン達でさえ見たことも聞いたこともない生物、気象、別のメスクリン人たちとの出会いと冒険の末、彼らは700Gの世界にたどりつくのだった。
 本書「重力の使命」は、ハル・クレメントが、アイザック・アジモフ(アシモフ)と議論をして生みだした超重力惑星とその生命体の物語であり、ハードSFの傑作として今も評価が高い。メタンと水素に関わるエピソードも多いが、やはり特異な生物を通して、特異な惑星と重力の影響について一般の読者にもおもしろく読ませるあたりが評価される所以だろう。
 中性子星上の生命を描いたハードSF「竜の卵」(1980 ロバート・L・フォワード)は、「重力の使命」の中性子星版として評されたが、この例が示すようにSFのスタンダードとして今も本書「重力の使命」はSF界に燦然と輝いているのだ。
 ハル・クレメントは、「二十億の針」の寄生生命体とものと合わせてふたつの名作をものにしている。寡作であり、日本でもあまり翻訳されていないが、本書もまた必読の古典SFとして挙げておきたい作品だ。
(2006.1.31)

竜の卵

竜の卵
DRAGON’S EGG
ロバート・L・フォワード
1980
 SFにくくられる作品群の中には、分かりにくい科学的な知識や発見、理論を物語に変えることで分かりやすく伝えるという分類ができる作品がある。
 本書「竜の卵」は、まさしく、科学的な理論を読者にできるかぎり分かりやすく、感覚的につかみやすくするために考え出された作品である。
 重力理論の科学者として、中性子星上に生命ができる環境を設定し、その進化と挙動を通じて、重力、時間、物質のふるまいのおもしろさを理解させてくれる。もちろん、小説だけでなく、著者による科学的解説「専門的補遺」も巻末に添えられており、単なる科学解説だけでなくお遊びを入れながら科学的な知識を得させようとしている。この中には、「ノーベル賞、ピューリッツァ賞、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、メビウス賞を同一年内(2053年)に獲得した唯一の書物」についての言及もある。そいつはすごい。
 もちろん、本書「竜の卵」がただの科学解説物語と違うのは、作者ロバート・L・フォワードが、科学者であると同時にアメリカSF界を支えてきた積極的ファンであったということだ。作品冒頭の感謝分の中には、ラリー・ニーヴンの名前があり、「彼らに何をさせるかを考えた」とある。そう、ニーブンらしい異星知性生命体が登場する。
 紀元前50万年前、50光年先の連星が超新星となった。その影響で直径20kmの中性子星が太陽系方向にはじきとばされた。そして、50年後、地球に超新星の光が届き、地球の気候も変動し、人類の進化がはじまった。中性子星は、50万年かけて太陽系に近づきつつあった。西暦2000年には、670億G、自転速度毎秒5回の中性子星は、太陽の0.1光年まで近づき、まもなく通り過ぎようとしていた。そして、その星の表面では、液体中性子の中心核の上に中性子に富む原子核の結晶格子地殻ができ、鉄の蒸気の大気の中で原子核化合物による生命が誕生し、知的生命体へと進化をはじめていた。彼らは、人類と比べ100万倍の相対的時間で生き、進化し続けていた。
 そこに人類の探査船が近づき、人類は中性子星の上の知的生命体チーラに接触し、大いなる変化が始まった。
 本書は2020年4月23日にはじまり、2050年6月21日に終わる異星知性生命体との接近遭遇物語である。実際の接触は2050年6月14日に、チーラが天界の変化に気がつき宗教的変化を起こし、6月20日の人類によるレーザー探査がチーラの宗教に新たな変化をもたらし、それにより人類が中性子星上の変異に気がつき、パターン信号を送り、それにチーラが答えたことで人類とチーラとの接触がはじまる。それは、人類にとってはわずか24時間の接触だが、人類より100万倍の時間的早さで生きるチーラにとっては数千年、数万年に相当する期間であり、まばたきする間に、チーラは進化し、進化し、進化するのだ。人類から送信された人類の科学、歴史、文化の情報を飲み込みながら、彼らは、中性子星人としての存在と視点から進化する。そして、人類よりも遠くへと進んでいく。
 その人類との接触による進化の動きは読むものに軽い時間的めまいを与え、それが感動につながる。
 悪い言い方をすれば、きわめて人類的な知的生命体であったり、ちょうど人類と接触する頃に、科学的進化の時期をチーラが迎えるなどご都合主義の鏡のような作品である。
 異星生命とのコミュニケーションのありようについて真剣に考え、作品化したスタニスワフ・レム(「ソラリスの陽のもとに」など)が読んだら、「まったくアメリカ人ってやつは」と言いそうなステレオタイプ異星人である。  しかし、まあ、だからこそ大衆文化としてのSFであり、大衆文化が生んだ中性子星人チーラは他にはない魅力ある存在なのだ。
(2006.1.27)

フェアリイ・ランド

フェアリイ・ランド
FAIRYLAND
ポール・J・マコーリイ
1995
 680ページにおよぶ豪華絢爛のSFであり、SFファン向けのファンタジーである。長すぎないか? ちょっと疲れた。
 本書「フェアリイ・ランド」は、1999年に早川書房の単行本として出版され、2006年に文庫化された。文庫版として私は初読である。
 90年代のキーワードをみごとに散りばめた作品は、舞台が21世紀前半のイギリス、ヨーロッパ。異常気象や大震災で混乱し、復興し、貧富の差が激しくなる世界が華々しいストーリーの舞台となっている。主人公は、デブで衣装センスのない遺伝子ハッカー・アレックス。登場時はまだ若くて血気盛んなのだが、だんだん年をとって丸くなり、狡猾にもなるのがなんともよい味を出している。
 登場するのは、ドール。どうやらヒヒから遺伝子改造してつくった人工生命。その脳にチップを入れて人間の命令を理解し、行動するようにできている。性はない。韓国のバイオテクノ企業が独占的に開発、供給している。
 中国系マフィアが、ドールに違法に性を与え、改造し、繁殖力をつけて、闘争用、性産業用などに使おうとする。その遺伝子ハックのために主人公のアレックスが使われる。性分化をすすめる人工ホルモンを開発させられるのだ。
 アレックスはかつて精神活性ウイルスを製造するチームにいて逮捕歴がある。彼はウェブに入り浸り、視覚系を混乱させ実在しないゴーストを見えるようにする精神活性RNAウイルスを開発して、ウェブや裏世界では名の知れた存在だった。まあ、今風にいうと「神」といったところだ。
 そこに登場するのは、ある企業が人工的に知性を向上させるプログラムで誕生し、唯一成功したミレーナという美少女。金属添加の超伝導球状炭素分子(バッキーボール)でナノロボット(フェムボット)をつくり、人工の細菌、ファージなどとして世界に放っている。そのあるものは精神活性ウイルスのように人に現実のような幻覚を見せ、そして、会社はそれらを駆逐するユニバーサル・ファージを売って利益を得ている。ユニバーサル・ファージが買えないものたちは、次第にさまざまなフェムボットに感染し、無理矢理に広告を、宗教を、思想を感染させられる。
 ミレーナの願いは、ドールの「解放」と、新たな存在の確立。人間を超えた知性体の世界だという。ミレーナは、ドールのチップを取り外し、人工ホルモンを与え、ドール用のフェムボットに感染させ、手術して「解放」する。それはフェアリイと呼ばれた。
 ミレーナはアレックスの前から姿を消し、アレックスはミレーナに何かを感染させられ、ミレーナを追い続ける。何年も、何十年も。その時の流れで世界は変わり、金を持った人々は完全環境計画都市群に暮らすようになり、都市とそれ以外の世界になりつつあった。
 そして、人類は有人火星探査船を送り、120億人の人類とそれ以外のものたちからなる世界は新たな予感を感じていた。
 世界は、ドールと、フェアリイたちが住むフェアリイランドと、完全環境計画都市群に住み、ウェブに依存する人類と、それ以外の人類、そして、さまざまなミームに感染した生命で成り立っていた。フェムボットや精神活性ウイルスにより宗教観や行動を植え付けられたものたちである。
 やがて、フェアリイランドからは新たなフェムが次々に生まれ、さらに異質な生命達が生まれ、ウェブは拡張し、大きな戦いと変化を迎えようとする。
 本書「フェアリイ・ランド」には、1990年代に予感されたあらゆる危険が詰め込まれている。遺伝子汚染、ミーム汚染、核燃料再処理施設事故、クロイツフェルト・ヤコブ病(狂牛病の人版)、大天変とよばれる異常気象により地中海地方に雨の降り続いた3年、アルバニアなどの大震災、環境難民、経済格差、スラム、飢餓…。
 その中で、主人公は変わった形であれ「愛」を追い求め、人と地球の生命のあり方は変わろうとする。
 それは、まるでトールキンの「指輪物語」の続編である。
「指輪物語」では、エルフやホビット、オークやトロール、狼男や鳥人が消え、人間の時代のはじまる「第三紀」の終わりを書いている。その最後にすべての種族による大きな悪との戦いがあった。
 本書「フェアリイ・ランド」では、人間の時代の終わりを予感させ、多くの存在の登場と、新たな種族の時代の始まりを予感させる。それは「第四紀」の終わりの物語といってもいいかも知れない。そして、「指輪物語」と同様に、大いなる戦いをもって本書は終わる。
 そう読むと、本書の主人公デブで服装のセンスのないアレックスは、「指輪物語」におけるホビットのフロドの役割を担っているのかも知れない。
 本書「フェアリイ・ランド」については、テクノゴシックの大作として位置づけられ、火星探査と月探査の位置づけなどから60年代後半の世界との対比をされているようだが、イギリスのファンタジーの系譜からも注目してみてはいかがだろうか。
 もちろん、本作のタイトルが「フェアリイ・ランド」で「指輪物語」との関連があると思われるからと言っても、ファンタジーファンでSF嫌いの方に本作品はお薦めできない。
 なにぶんにも、生命科学技術、極微分子技術、情報科学技術に加え、近未来の気象学、社会学、地政学、経済学などの背景があって書かれている作品である。一筋縄ではいかないし、読み飛ばすには重すぎる、分厚すぎる。
 心して読んで欲しい。おもしろいけれど、ああ疲れた。
 ところで、主人公が汎用している「クールZ」って、ディックの「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」に登場する「チューZ」「キャンD」を思わせる。そういうSF的お遊びにもあふれている。
(2006.1.22)

ソラリスの陽のもとに

ソラリスの陽のもとに
SOLARIS
スタニスワフ・レム
1961
 スタニスワフ・レムの異質知的生命遭遇三部作「エデン」「ソラリス」「砂漠の惑星」のなかでももっとも知られ、読み続けられているのが本書「ソラリスの陽のもとに」である。ロシア人の映画監督アンドレイ・タルコスフスキーを西洋世界に広く知らしめたのも、本書を下敷きにしたSF映画「惑星ソラリス」(1972)であった。
 レムはポーランドの作家であり、ポーランドは過去数百年にわたって国家を喪失し、分裂し、支配され、奪われ、争い、弾圧され、現在にいたる国である。ヨーロッパと世界の歴史に翻弄され続けた国であり、レムが活躍し、本書「ソラリスの陽のもとに」が書かれた時期はソヴィエトの指導下にあった東欧諸国のひとつである。
 まず、はじめに、映画「惑星ソラリス」とタルコフスキーについて触れておきたい。
 本書「ソラリスの陽のもとに」は、ロシア語に訳され、おそらくそれがロシアに住むロシア人のアンドレイ・タルコスフスキーの目にとまったのであろう。1972年に「惑星ソラリス」を公開し、世界的なヒット作となった。その後、タルコフスキーは「鏡」を経て、A&B・ストルガツキーのSF「ストーカー」を題材に「ストーカー」をつくり、「ノスタルジア」でソ連、イタリア、フランスの合作、その後亡命し「サクリファイス」を作成、そして死去した。タルコフスキーは、ソヴィエトのロシア人でありながら、その内にいたときから常に「疎外」「喪失」をテーマにし続けていた。
 この映画と原作であるレムの小説との間に、深い関連はない。なぜならば、タルコフスキーは独自の解釈としてこの映画をつくったのであり、それはレムが思う「ソラリス」ではなく、SFと言えるものでもなかった。また、タルコフスキー自身がこの映画を失敗作とみなしているようである。
 それでも、この映画の映像は美しく、また、ソラリスを幻想的に見せ、映画中で使われているバッハのBWV639「我汝に呼ばわる、主キリストよ」とあいまって深い印象を与えている。
 タルコフスキー自身の解釈や解説がいかなるものであれ、タルコフスキー自身の生涯とその後の映画作品を見れば、「惑星ソラリス」の中にも、「失われたもの」「伝わらないこと」への時空を超えた思いを感じとることができる。
 次に、冷戦時の小咄をひとつ。アメリカとソヴィエトの冷戦時、月のあとに宇宙開発をするならばアメリカは火星を目指し、ソヴィエトは金星を目指すだろうと言われた。その理由に、ロシア人には内側へ内側へと向かう指向性があり、そもそも移民社会のアメリカ人には外へ外へと向かう指向性があるからだとされた。また、ソヴィエトは北極から地球儀をみると「敵」に国の周辺すべてをとりまかれているが、アメリカは開かれている。さらには、ソヴィエトでは精神科学が発展し、アメリカでは物質科学が発展しているとも言われた。
 地政学や科学の発展の歴史をみるとそうかなと思うところもあるが、ステレオタイプな分類による小咄だと受け取っておこう。しかし、そういう小咄がまことしやかに語られるのが冷戦時代だったのだ。
 現在は西側諸国に位置づけられるポーランドであるが、冒頭述べたように、その歴史は蹂躙と弾圧と反発の歴史であった。そして、冷戦下、ソヴィエトの事実上の支配下にあり、国家そのものが鬱屈していた頃に三部作は書かれている。  レムは、SFに政治的意図はないとするし、事実、それを離れたところで、本書や他の作品はSFとして高く評価されるべきだ。
 しかし、それでも、たとえば、本書「ソラリスの陽のもとに」の訳者あとがきで翻訳者の飯田規和氏が、本書のロシア語訳にはめずらしくレム自身が内容の解説とも言える「前書き」をつけていると、その全文を紹介しており、「ロシア語」版の「前書き」に説明を加えるあたりにSFを超えた「意図」を感じざるを得ない。
 その一部を引用しよう。
“その「未知のもの」との出会いは、人間に対して、一連の認識的、哲学的、心理的、倫理的性格の問題を提起するに違いない。その問題を、暴力によって、たとえば、未知の惑星を爆破するというような方法によって解決しようとすることは無意味である。それは単位現象の破壊であって、その「未知のもの」を理解しようとする努力の集中ではない。「未知のもの」に遭遇した人間は、かならずや、それを理解することに全力を傾けるであろう。場合によっては、そのことにはすぐには成功しないかも知れないし、さらに、場合によっては、多くの辛苦、犠牲、誤解、ことによって、敗北さえも必要とするかも知れない。しかし、それはすでに別の問題である。”
 としている。さて、本書「ソラリスの陽のもとに」ではどうだったのだろうか。
 本書「ソラリスの陽のもとに」は、惑星ソラリスが発見されて百数十年後のソラリス・ステーションを舞台にする。惑星ソラリスは、二重太陽を回る惑星で、発見当初は注目されなかったが、その後、惑星が自立的に軌道を安定させていることが発見され、それを何が行っているのかに注目が集まった。惑星ソラリスは海がほとんどをしめており、その性質を調べるうちに惑星ソラリスの海こそが軌道を安定させている存在であり、おそらく知的生命体であり、人間以上の高度な知性を有していることが仮説として挙げられた。惑星ソラリスは、様々な「形」を海に生み出し、それは単なる物理現象とは言えないからだ。しかし、ソラリスの海との意思の疎通はまったくできず、仮説もつきはて、惑星ソラリスの海に反重力的に浮かぶソラリス・ステーションには3人のスタッフが常住して研究を続けるのみだった。いま、心理学専門のクリス・ケルビン博士が新規スタッフとして、ソラリス・ステーションに到着した。しかし、出てくるはずの他のスタッフの姿はなく、補助をするアンドロイドの姿もない。所長は自殺し、ひとりはまったく部屋から出てこず、唯一なんとか正気に近いと思われるスナウト博士の様子もおかしい。そして、3人しかいないはずのソラリス・ステーションには、黒人の女の影や子どもの影がある。スナウトはケルビンに「やがて君にも分かる」と言う。
 そして、分かるときがやってきた。かつてクリス・ケルビンが冷たくして自殺してしまった恋人のハリーが、そのときの姿のままに実体をもってあらわれたのだ。
 それは、ソラリスの海がケルビンの脳を読み取って生みだした存在だった。ハリーは決してクリス・ケルビンから離れない。かつての罪の意識と、目の前のハリーの存在に動揺し、恐怖し、渇望し、混乱するケルビン。やがて、ハリーは自意識さえも持ちはじめた…。
 本書の中で、レムはコミュニケーションと認識について語る。そして、それは、「疎外」と「喪失」の裏返しでもある。コミュニケーションが成立しなければ、それが対象のせいであれ、主体(わたし)のせいであれ、どちらのせいでなかろうと、主体であるわたしにとっては「疎外」となる。そして、「喪失」は「疎外」そのものであり、「喪失」を認識することで主体は「疎外」される。
 もっとも深い心の傷が「疎外」を生み出すのだ。ソラリスの海を介して、ケルビンがハリーを得るように。
 現代において「疎外」は深刻な問題となっている。多くの人が、コミュニケーションする機会をもちながらもコミュニケーションができず、失っていない「喪失」を認識し、たえず「疎外」された主体だと感じている。それは、主体(わたし)が覚える勝手な「疎外」であるが、「疎外」に真実も仮想もない。
 不幸な時代である。私は、異質な私たちに取り囲まれ、「疎外」されているのだ。
 それは、レムがもっとも恐れていたできごとではなかろうか。
 そして、タルコフスキーが未来に感じていたことではなかろうか。
 ゆえに、レムとタルコフスキーが表裏一体のテーマを解釈していたと私は理解している。
 もちろん、そう深読みする必要はないのかも知れない。
 この作品は、他の2作品と同様に、真に異質なものとの関係性について語られたSFとして読めばいいのかも知れない。しかし、深読みしたいような気持ちになるのが、レムの、そして、タルコフスキーの作品群なのだ。
おまけ
 漫画家で、現在は作品の再版さえ断り続けている内田善美が「星の時計のリドル」の物語の終盤で、主人公のロシア帝国時代の貴族の孫である流浪のロシア系アメリカ人に「内なるロシアの発見」を美しく描いている。彼女もまた、作品の中で、コミュニケーションと認識、そして、疎外と喪失を追求し続ける作家である。すでに稀少な本であるが、機会があればぜひ手にして欲しい作品である。
おまけ2
 スティーヴン・ソダーバーグ版映画「ソラリス」(2002)はまだみていない。それから、 国書刊行会から2004年11月に「ソラリス」として、ポーランド語版(オリジナル)からの翻訳が出されている。これは読んでみたい。
(2006.1.22)