双子惑星恐怖の遠心宇宙船

双子惑星恐怖の遠心宇宙船
TWIN WORLDS
ON THE PLANET FRAGMENT
THE MUSIC MONSTERS
ニール・R・ジョーンズ
1937,1938
 ジェイムスン教授シリーズも第四弾で邦訳最後である。「双子惑星恐怖の遠心宇宙船」は第一部。第二部「箱形惑星光球生物の怪の巻」、第三部「音楽怪人はギャンブルが大好きの巻」である。第三巻の「惑星ゾルの王女」での一連の冒険が終わり、再び大宇宙の冒険に乗り出した、ジェイムスン教授こと21MM-392の機械人。今ならば、機械化甲殻体とでも呼ぼうか。しかも、機械化とともにテレパシーまで使えるようになっているところが本シリーズの味噌である。
 さて、邦訳が最後ということもあるのか、巻末には翻訳家野田昌宏氏ではなく竹川公訓氏による「機械化人人別帳」がつけられている。登場人物が機械化人で基本的に数字と英文字の記号なのでよく分からなくなるのだ。だから、第一巻から4巻までの登場人物と、その履歴をたんねんにまとめたものである。今ならば、翻訳の元のテキストデータをベースにして、検索をかけていけば難しいことではないだろう。翻訳書が出版されのは昭和52年4月。1977年のことである。残念ながら、翻訳は手書き。さすがに活版ではなく、写植によるものだが、検索まではできない。大変な作業であったと思われる。しかも、1930年代の作者、ニール・R・ジョーンズでさえ、かなりいいかげんで、登場人物の名前が変わっていたり、属性が違っていたり、死んだはずの機械人がよみがえっていたりと、うんざりする作業だったろう。その苦労に頭が下がる。
 それで、本体の方だが、最初の「双子惑星恐怖の遠心宇宙船」は、その名の通り双子の惑星で、大きい方に文明が発達し、小さい方の惑星にコロニーをつくっている。その行き来に利用するのが、相互の潮汐力を利用し、地上の大きな観覧車のような輪っかを高速回転させ、その遠心力で飛ばすというもので、それが「恐怖」なのだ。  で、第二部の「箱形惑星光球生物の怪」と「音楽怪人はギャンブルが大好き」は、箱形の不思議な形をした惑星で、その面ごとに重力が変わるため、それぞれの面に住んでいる生物が異なり、いくつかの知的生命体が暮らしており、それぞれに危機があるというもの。「光球生物」の方は、車輪型知的生命体を襲う生き物で、このほかにも低重力地帯から来る巨人が襲ってくる。「音楽怪人」は敵ではなく、炎にも耐えられる巨人を倒す知的生命体で、車輪型よりは知能が劣るタイプ。惑星の別の面では、肉食植物である程度育つと動物部分が別に出てくる。機械人だから、重力が変わっても行動に問題はない。
 まあ、物理学が苦手な私でもいろいろ突っ込みたくなるところはあるが、突っ込まずに素直に楽しむのが、この手の古典スペオペの楽しみ方である。
 25年ぶりぐらいに、本シリーズを読み返してみたが、四半世紀を過ぎていると、こういうスペースオペラってなくなったなあと思わずにいられない。第一、勧善懲悪である。見るからに敵は敵として位置づけられ、困った人(異星人・知的生命体)はいい人で、いじめる人は悪い人である。時代劇である。もはや過ぎ去りし大衆芸能の世界である。SFの世界ではみなくなった。主人公が苦悩する時代である。逃げ出す時代である。複雑なのである。そうでなければ、物語に奥行きがないなどと言われるのだ。
 ほかのスペースオペラと違うところは、ジェイムスン教授が、他のクルー(機械化人)と比べて、それほど突飛ではないという点であろう。なにせ、身体は付け替え自由の互換パーツでできている。ただし、ジェイムスン教授だけは1本の腕に熱線銃を仕込んでいるのと、唯一の地球人でユーモアを解するところが違いである。突っ込んではいけないのだが、熱線銃を仕込んだ腕がなんらかの理由ではずれて、予備パーツをつけても、やはり熱線銃は仕込まれている。ならば、他の機械化人もそうすればいいのだが、誰もそうはしない。そのあたりが、主人公たるところだろう。でなければ、誰が主人公でも変わらないような見た目だし。
 ジェイムスン型アンドロイドの原型を藤子不二雄のイラストと、古典スペオペのテイストで味わいたければ、この4作品をどこかで探して読んで欲しい。ただし、「物語に奥行きがない」「リアリティがない」と言って責めないように。
(2005.12.24)

天界の殺戮

天界の殺戮
ANVIL OF STARS
グレッグ・ベア
1992
 1987年に出版された「天空の劫火」の続編である。前作「天空の劫火」は、地球最後の日ストーリーで、ほとんどの人類がほろび、地球は内部から破壊され生態系は壊滅してしまう。地球の破壊を起こしたのは、自動機械知性。送り出したのは、どこかの知的生命体。前著では、地球が破壊されるとき、別の知的生命体群が送り出した自動機械知性によってわずかな地球人が救い出され、そのなかの子どもたちの一部が宇宙の「法」の定めに従って「敵」を探し、滅ぼすための旅に出るところがエピローグとしてわずかに触れられていた。
 本書「天界の殺戮」は復讐の旅に出た子どもたちの物語である。それは、「エンダーのゲーム」を彷彿とさせる、宇宙船内での子どもたちの社会の物語であり、その訓練の物語であり、「滅ぼす側」に回った者たちの苦悩の物語である。
 地球の生命体や他の星の生命体を滅ぼした「敵」であることをどうやって突き止めるのか? 果たして「敵」は今も、他の知的生命体を滅ぼそうという存在なのだろうか、それとも、そのことを悔い、変異した生命体なのだろうか。たとえ、それを悔いていても「法」に従って、彼らを滅ぼすべきなのだろうか。「敵」が他の知性体に紛れていたり、他の何も知らない知的生命体を生みだし、その生命の盾に守られていたとしても、その無実で無辜の生命体を含めて滅ぼすことができるのだろうか。
 もし間違ったら、どうすればいいのか。
 高度な宇宙文明の自動機械知性の宇宙船に乗った人類の生き残りである子どもたちは、意志のある武器となり、自らの存在理由に悩みながら旅と、探索と、訓練を続ける。
 そして、「敵」と思わしきものとの邂逅。戦い。敗戦。多くの死、別れ、新たな苦悩が彼らを待ち受ける。彼ら人類の子達を導く宇宙船の自動機械知性は、近くにいる別の「復讐者」との合流をすすめる。ふたつの宇宙船はひとつにまとまり、ふたつの滅ぼされた知的生命体が同じ船で同じ目的を共有し、生理、生態、思考、文化、価値の差の中から新たな苦悩と希望を見いだす。
 ふたたびの「敵」の発見。はたして、彼らは、彼らの目的を果たすことができるのか? それをすべきなのか?
 なんといっても「天界の殺戮」である。殺戮の幅が半端ではない。前著では、50億の人類とすべての生命が殺害されたが、それでも惑星ひとつである。ところが、「敵」と思しき存在は、そんな破壊のための自動機械知性を宇宙の全方位に向けて発射するだけの力を持つ存在であり、自らの出自の惑星だけでなく、多くの太陽系とその惑星や恒星を改変し、自らの目的に合うよう作りかえるだけの力を持つ存在である。「敵」を滅ぼすとなると、いったいどれくらい「天界の殺戮」を行わなければならないのだろうか。
 それほどの「殺戮」を行える存在は、それ自体が「脅威」ではないのだろうか?
 そんな地球人の子どもたちは、自らを「パン」(ピーターパン)、「ウエンディ」と呼ぶ存在である。
 そこで思い出すのが、80年代後半を彩った「ピーターパン・シンドローム」だ。
 本書「天界の殺戮」は、閉鎖環境、子どもたちの社会、復讐という単一目的という状況の中での「ピーターパン症候群」を書き下した作品なのではないか? そして、80年代、90年代、ひょっとすると現在に続くまでの社会心理を描こうとしたく作品ではなかろうか? そのように読むと、なかなか興味深い作品である。
 80年代かあ…(遠い目になる)…。うれしはずかし10代後半から20代前半だもんなあ。「ピーターパン症候群」「逃走論」「ゲーデル・エッシャー・バッハ」「ホーキング、宇宙を語る」の時代だ。軽い知的好奇心の時代だものなあ。
 それを受けて、こういう作品が出てくるんだ。読み方によっては人物の会話ばかりでうっとうしいけれど、そんな時代だったのだ。重たい知的好奇心を軽く語り、内面に苦悩を隠すのだ。
 いずれにしても、本書「天界の殺戮」は、前著「天空の劫火」の直接の後編であり、壮大なSFドラマなのであるが、前著と本書は、絶滅させられるもの/絶滅するものの関係という位置づけを除いて、物語としては独立したものである。もちろん、前著「天空の劫火」で細かく語られる「地球の破壊」の余韻を受けて本書「天界の殺戮」を読めば、主人公の子どもたちの「苦悩」はより理解できるが、読んでいなくても構わないだろう。ちなみに、本書「天界の殺戮」の主人公は、「天空の劫火」の主人公の息子であり、父の視点から息子の話は時折語られている。そういう意味では、前著を読んでいた方がおもしろいかも知れないが、子どもはすぐに成長するからねえ。
(2005.12.23)

天空の劫火

天空の劫火
THE FORGE OF GOD
グレッグ・ベア
1987
 グレッグ・ベアの「地球最後の日」である。本書「天空の劫火」が出版されたのは1987年。物語はその10年後の1996年にはじまる。
 その年、木星の衛星エウロパが消えた。なんの痕跡もなく、突然に地球から観測できなくなった。
 そして、その直後、アメリカ、オーストラリア、そして、おそらくモンゴルなどに異星から来たと思われる不思議な構造物が砂漠などに現れる。構造物は、小さな火山のような見た目をしていて、地質学者や地図屋でもなければ気づかないようなものだが、それでも明らかに異質であった。アメリカでは、その「火山」のすぐそばで、死にかけながらも英語をはっきりと話す異星人がみつかり、発見者ともども軍によって確保された。その異星人は、地球がある機械知性勢力によって破壊されることを告げ、彼らはすでに滅ぼされた惑星種族の一員であると告げて死んでいった。一方、オーストラリアでは3体のロボットが姿を見せ、彼らは地球人に友好の目的で訪問したのだと告げた。
 モンゴルなどは、ソビエトを中心とする東側体制のもと、西側には情報が伝わってこない。
 そう、物語は1986年に書かれ、すでに、ゴルバチョフ体制下でペレストロイカ、グラスノスチがはじまっていたものの、誰も、東側=社会主義体制とソビエト連邦が崩壊するなどとは、夢にも思っていなかったのだ。
 それはともかく、本書「天空の劫火」の1996年では、オーストラリアが早々に事態を公表。しかし、地球の終わりを告げられたアメリカは、その事実をひた隠しにした。ときのアメリカ大統領は、その事実の恐ろしさに「黙示録」の世界にはまりこみ、座して神の審判を待つとの判断を下す。そして、翌年、真実を隠したまま大統領選挙に当選した大統領は、当選演説の際に、アメリカ国民と世界に対し、真実を語り、静かに地球の破壊を待つように告げるのであった。
 果たして、本当に地球は破壊されるのか? そして、それはなぜ? 宇宙は、宇宙の知的生命体はどのようなことになっているのか? もし、本当に地球が破壊されるのならば、それはどうやって? そして、地球人にはなすすべもないのか? 救いはないのか?
 本書「天空の劫火」は、1年で地球は破壊されることを知った人類の物語である。その、破壊は決定的であり、生きのびる余地はない。それは、人類だけでなく、地球のあらゆる生命、生命系、生態系、いや、大気圏、地表のすべてを破壊するものであり、地球という惑星が、生命に満ちた星から、ただの太陽の周りを回るだけの冷たい星になることを意味した。絶望である。そこに、真の救いはない。
 そんな時に、私はどうするのだろうか? ふだん通りに生き続けることができるだろうか?
 そういえば、新井素子の「ひとめあなたに…」は1985年に出版されている。こちらは、小惑星が地球に衝突し、人類が破滅することが明らかになった最後の1週間の物語である。
 そういう時代だったんだな。
 それにしても、グレッグ・ベアは容赦がない。そして、その容赦のなさは、いっそ美しい。「ブラッド・ミュージック」とは異なる、極めて圧倒的な存在感のある力を前にしたとき、それは滅びの美という世界になるのかも知れない。なんと人間の感性とは恐ろしいものだろうか。
 ここからはネタバレになるのだが…
 それでも、人類という種には、最後の希望と救いが示される。地球を滅ぼした「敵」の「敵」が人類のごく一部を「法」にのっとって救い出すのだ。それは、本書でも書かれるラブロックの「ガイア仮説」を引き立てるための結末である。
 本書では、ガイア仮説の拡大解釈が死にかけた主人公の友人によってなされる。
 数ページに渡って、ガイア仮説(改)をベアが語る。
「ガイアとは地球全体である。彼女は生命を得て以来、もう二十億年以上もひとつの有機的総体として、単一の生物として、存在してきた。しかし、ガイアと人類または犬、猫、鳥などが完全に似ていると見ることはできない。なぜなら、最近までわれわれは現実の独立した有機体を決して研究したことがなかったからである」(下巻113ページ)「われわれは両生類の足に匹敵する重要な器官--高度に発展した脳--を獲得した。突然、ガイアは自意識を持ちはじめ、外部に目を向けはじめた。彼女ははるか彼方の宇宙を見ることができる目を発達させ、自分が征服すべき環境を理解しはじめた。彼女は思春期に達した。まもなく再生をはじめるだろう。(中略)人類は、生殖腺以上のものだから。われわれは胞子や種子の作り手であり、ガイアのなんたるかを理解するものであり、そしてまもなく、われわれはほかの世界に命を吹き込む方法を知るようになるだろう。われわれは宇宙船に乗ってガイアの生物学的情報を宇宙に運び出すだろう」(下巻115-116ページ)
 そして、本書「天空の劫火」では、地球が破壊される=まもなく宇宙に子を出すはずのガイアが不慮の死を迎える=ゆえに、作者であるベアは救いを残した。そして、この救いが、続編「天界の殺戮」につながるのであろうが、はたして、ベアは、本書「天空の劫火」を書く際に、続編のことまで考えていたのだろうか?
(2005.12.15)

放浪惑星

放浪惑星
THE WANDERER
フリッツ・ライバー
1964
 アメリカとソヴィエトが月に数名の基地をつくり、月の調査を行うようになったちょっとした未来に、突如、太陽系外から超空間を通じてひとつの惑星が月の軌道そばにあらわれる。月は破壊され、地球もその影響を受けて、地震や津波、火山活動に見舞われる。人類始まって以来の危機は、地球外知的生命体の暴挙によって生まれた。
 月基地にいた男、月探査の広報を行う男、月基地にいる男の恋人、その猫、奔放な自主演劇の女優、ベトナムへの密輸と難破船の宝漁りを続けるマレー人、ひとり乗りの船で旅をする冒険家、大統領を狙う飛行機テロに向かう男、シージャックされた原子力客船の船長、酒飲みの詩人、UFOマニアのグループ…。地球上にいる様々な人たちが、驚き、翻弄され、そして、死に、あるいは生きのびていく。
 宇宙への競争で遅れをとったアメリカにとって、月への一番乗りは悲願であったが、それは1969年まで待たなければならなかった。そんな宇宙開発時代の古き良きSFである。
 今読むと、その科学的な知識は古くさい。おそらく、当時でも、「それは違うんじゃないか」といった指摘があったのではなかろうか。もっとも、本書では、E.E.スミスのレンズマンや、エドガー・ライス・バロウズの火星シリーズなどが直接言及されるなど、1964年当時での「過去のSFのオマージュ」であったのだから、そういうことはあまり気にならなかったのだろう。
 本書「放浪惑星」と同じように、地球に惑星が接近するSFと言えば、「地球最後の日」(フィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマー)をすぐに思い出すが、こちらは1932年の作品で、巨大な2つの惑星が地球に接近し、地球が壊れ、代わりにひとつの惑星が地球軌道におさまって、人類はわずかに救われるというものであった。本書でも、2つの惑星が登場するものの、そのふたつの惑星は、地球のすぐそばで惑星間宇宙戦争をはじめてしまい、地球はただの傍観者である。そして、彼らは地球がそばにあることなど気にならなかったように消えていってしまう。そこにはただ、荒れ果てた地球と、生き残って呆然としている地球人と、粉々になった月があるだけだ。本書では、人類は右往左往するだけで、まったく何もなすすべがなかった。ただ、翻弄され、いきさつを見守り、生き残れるものなら、生きのびるための努力をするだけである。
 背景を考えれば、ベトナム戦争当時の「無力感」があるのではなかろうか。そんなことをふと感じてしまう。
 ちなみに、今手元にある本書「放浪惑星」は、創元SF文庫で、1976年の第5版である。初版は1973年。1976年といえば、私は小学生だが、本書を購入したのはそれからずっと後で、おそらく高校か大学に入ってからだろう。すでにカバーもなく、初めて読んだときの記憶さえない。もしかしたら、積ん読だったのかも知れない。内容にほとんど記憶がない。本書「放浪惑星」が世に出てすでに40年。繰り返される「地球破壊」テーマSFの歴史の中の1冊として、記憶と記録に残り続ける作品なのだろう。
 そうだ、本書の中には、いくつかマレー語もしくはインドネシア語と思われる単語が出てくる。とてもわかりやすい単語で、私でも分かってしまった。これを最初に手に取ったときの私では分からなかったことだ。年をとるのも悪いことではない。
ヒューゴー賞受賞
(2005.12.15)  

惑星ゾルの王女

惑星ゾルの王女
ZORA OF THE ZOROMES
SPACE WAR
LABYRINTH
ニール・R・ジョーンズ
1935
 ジェイムスン教授シリーズ第3弾は、「悲恋! 惑星ゾルの王女の巻」「弔合戦 惑星ミュムへの出撃! の巻」「教授危うし! 金属喰い怪物あらわる!」の3編が掲載されている。
 いよいよ機械人たちの母星ゾルに到着し、その生身の王女ゾラと面会した機械化人で人類最後の生き残りであるジェイムスン教授は、その4千万年におよぶ生と冒険をゾラに話すのだった。惑星ゾルには、機械化されていないゾル人が生きている。それは、人口を減らさないための最低限の生身であり、王女もまた生身であることが義務づけられていた。
 宇宙の冒険者ゾル人たちは、はて万能かと思われたが、そのすぐ近くの惑星系で、ゾル人が機械化することを教えたミュム人たちが、ゾル人をたおして宇宙の覇者になろうと野望をたくらみ、戦争状態がはじまっていた。王女の生身の恋人も、この戦いに巻き込まれていく。果敢に立ち上がる王女と、その生身の身体をおもいやる教授。今、惑星系間の宇宙戦争がはじまった! というのが、最初の2作品。
 3作目は、戦争も終わり、ふたたび冒険隊を結成して旅に出た教授とゾル人達。ところが、たどりついたおもしろくもない惑星で、教授と機械化したゾル人たちは、これまでに出会ったこともない危機に襲われる。なんと金属を喰う生命体が登場したのだ。絶体絶命の教授。はたして、生還する道はあるのか!
 てなもんで、表紙とイラストは、藤子不二雄氏。物語は翻訳者野田昌弘氏の例の絶好調口調ですすむ。はたして原文はどんな文章だろうと思わずにいられない「野田昌弘」節で、ジェイムスン教授も思わず口調がなめらかに「なってしまうんだなァ」。
 本書のあとがきによると、邦訳されている4冊12編はアメージング・ストーリーズに掲載されたもので、最後の作品が1938年である。その後、アストニッシングに4編が発表され、これは、1940年から42年。そして、スーパー・サイエンスに5編、1949年から51年にかけて掲載され、合計21編があるという。
 ちなみに、本書「惑星ゾルの王女」は1974年にハヤカワSF文庫から出されている。手元にあるのは、同年6月の第2版。1冊280円の時代であった。古きよき時代であった。
(2005.12.15)

復讐への航路

復讐への航路
MARQUE ANS REPRISAL
エリザベス・ムーン
2004
 21世紀のスペースオペラである。前作「栄光の飛翔」では、宇宙運送会社一族の令嬢カイ・ヴァッタが、惑星宇宙軍士官候補生としての夢を追われ、失意の元で老朽船の片道運送船長として乗り込み、ひょんなことから次々と事件に巻き込まれる中で成長していく姿を描いている。
 本作「復讐への航路」は、前作にほとんど時間差なく幕を開ける。
 彼女と一族を狙ったテロ、無時間差通信のアンシブルシステムを狙った破壊工作が大規模にはじまる。ヴァッタ一族は、主要な血族をほぼ失い、一族としても、宇宙運送会社としても存亡の危機に立たされる。しかも、ヴァッタ航宙と良好な関係にあった惑星スロッター・キーの政府も、ヴァッタ航宙を見放してしまう。
 惑星ベリンタに足止めを食らったカイ・ヴァッタは暗殺や運送船の破壊工作に次々と襲われる。家族の安否を気遣いながらも、生きのび、敵を探し、叩き、ヴァッタ航宙を再建するために立ち上がるカイ。
 そして、そのカイのもとへ、元スロッター・キー宇宙軍の軍曹、ヴァッタ一族の女スパイや天才エンジニアの少年、さらには、過去にいわくありげな中年スパイ、はたまた前作でカイの天才的な対処能力に舌を巻いたマッケンジー傭兵社までが集まりはじめる。
 軽妙な会話、ステーションでの派手な個人アクション、そして、息詰まる宇宙空間での艦隊戦、白兵戦…。
 日本のSFアニメや「マトリックス」のようなSF映画を見ている人なら何の違和感もなく物語に入り込めるだろう。
 本作「復讐への航路」は2004年に原著発表され、2005年に訳出されている。ほぼリアルタイムで翻訳されているので、次回作も出版され次第、翻訳に取りかかられると思われる。
 世界観に特別なものはないが、いつでも若者の成長譚というのはおもしろいものだ。
 なお、作者も自認している通り、本書はミリタリー(軍事)SFであり、(正しい態度の)軍および軍人に対して尊敬の念をもって書かれている。ある意味でとてもアメリカ的な作品である。
 自立意識の高い主人公が、軍とそれに象徴される正当な政府への帰属という考え方に常に理解を示しているあたり、矛盾があるのではないかと思うのだが、なんのくったくもなく両立させている。
 そもそも軍というシステムが嫌いな人には、そのあたりが苦手かも知れない。
 このあたりの矛盾を物語として昇華しているのは、ロイス・マクマスター・ビジョルドの「マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンシリーズ」の方であろう。こちらは、主人公の出自を軍人帰属社会で惑星政府を保持、代表する立場の存在として位置づけ、その上で、自立意識の結果としてデンダリィ傭兵隊という元は架空の部隊を作り、その将軍になるという形に見せている。また、そのクローンの登場や父の若い頃の行動との対比などで、常に、個人と政府、社会、義務と身分といったことへの対比を読者に提示する。
 そういう葛藤が本シリーズでは今後出てくるのだろうか。
 本作「復讐への航路」の中にも、カイに対して、スロッター・キー政府への帰属と、ヴァッタ航宙の再興、さらには、復讐の完遂といった目標に対して、それぞれが矛盾するかも知れないとの指摘が登場人物からなされている。その点は今後の楽しみとしたい。
(2005.11.30)

放浪惑星骸骨の洞窟

放浪惑星骸骨の洞窟
INTO HYDROSPHERE
TIME’S MAUSOLEUM
THE SUNLESS WORLD
ニール・R・ジョーンズ
1933
 金属の箱に入ったサイボーグ・ジェイムスン教授シリーズの第二弾は「水球惑星義勇軍出撃の巻」「教授なつかしの四千万年昔へ戻るの巻」「放浪惑星骸骨の洞窟の怪の巻」の3短編である。脳みそを金属缶の中に入れられ、取り替え可能な4本の足と6本の手、そして360度の視界を持つ目を持つジェイムスン教授が宇宙の時空を超えた大冒険である。
 それぞれに、「ジェイムスン」らしさがでる、古典的スペースオペラであるが、なかでも必見はタイムマシンで過去の地球の歴史をたどる「教授なつかしの四千万年昔へ戻るの巻」であろう。1930年代にはわくわくしたであろう太陽系創生の秘密、人類の誕生などが書かれていて楽しい。
 ちょっとネタバレになるが、太陽系の惑星ははふたつの太陽がすれ違って生まれ、そもそも地球は第四惑星であったのだ。
 人類は紀元前20万年前には群居生活で、家族の形成をはじめていた。
 その頃、すでに火星では知的生命の文明が興り、地球にも宇宙船を飛ばしていたのだった。
 そして、地球にも文明が興り、アトランティス大陸は沈み、その後は歴史に書かれている通りである。
 地球は、20世紀終わりか21世紀になって、宇宙塵の厚い雲に覆われ太陽を見失う。人類は地下に都市を築き、そして100年後、危機が去り再び地上に都市を再建する。23世紀には宇宙に進出し、数百年後には火星、金星などへの植民を行った。人類は太陽系全体に版図を広げ、数百万年に渡って後退と進歩を続けた。しかし、その後、太陽系外からの異種生物侵入により人類は絶滅の危機にさらされる。ようやく侵入者を追い出したが、太陽系文明は崩壊した。そして、数十万年後には、人類の姿が大きく変わりはじめる。平均寿命は1万年近くとなり、衰退する太陽系を脱出し、シリウス星系に移住する計画をすすめていた。そして、太陽系から生命の姿が消えた。1950年代から500万年のできごとである。それからさらに3500万年の間、ジェイムスン教授の遺骸は地球の周りを回り続けたのだ。ゾル人達に発見されるまで。
 どうだろう。なかなか派手な人類の興亡ではないか。
 物理学的、生物学的、あるいは、歴史的不具合は気にするな。
 気持ちを1930年代に戻して、未来を夢見ようではないか!
(2005.11.30)

銀河ヒッチハイク・ガイド

銀河ヒッチハイク・ガイド
THE HITCHHIKER’S GUIDE TO THE GALAXY
ダグラス・アダムス
1979
 2005年公開の映画「銀河ヒッチハイクガイド」の原作。映画が出たため、河出文庫から新訳にて出版されたのを購入した。まず、まだ映画を見ていない。できれば見たいと思っている。同居人が「見たい! 読め!」と言ったので読んだ。そもそも、ラジオドラマの原作者によるノベライズという作品なので触手がのびなかったのだ。そういえば新潮文庫に「銀河ヒッチハイク・ガイド」という作品があったのは覚えている。残念ながら読んでいない。
 あまりSF人間ではない同居人がなぜ本書を読めと迫ったかといえば、同居人が本書「銀河ヒッチハイク・ガイド」ではある哺乳動物が出てくると聞きおよんだからである。同居人はその哺乳動物がことのほかお気に入りで、わが家ではその一族の一種が同居人とともに生息している。
 これを明かすとネタバレというか落ちバレになってしまうので、これ以上は書かない。
 いわゆるコメディSFにあたるもので、イギリスではかような作品といえば、テレビシリーズの「宇宙船レッド・ドワーフ」が思い当たる。NHKで吹き替え放送され、その後DVDとしても販売され、わが家でも購入したが、とにかく笑うための作品であり、英語で見ればより楽しめる作品となっている。残念ながら私はそれほど英語能力が高くないのだが、それでも英語版がおもしろい。もっとも、「レッド・ドワーフ」では、日本語吹き替え版もなかなかうまくできていて、どちらもしっかりと楽しめる。
 海外では、このように古典SFや先端科学、あるいは、時事や歴史的な事象をパロディ化したSFドラマがいくつか見受けられる。日本では、こういうSFドラマが少ない。かつてはNHK少年ドラマシリーズのようなSFドラマがあったが、パロディものは思いつかない。科学やSFが身近なものになっていない証拠だろう。一方で、アニメや漫画では宇宙やロボットあるいはバーチャルリアリティなどが頻繁に登場しており、決して素養がないわけではない。またアニメや漫画にはパロディSFもある。いずれ、こういう作品群が登場して欲しいものだ。
「銀河ヒッチハイク・ガイド」も、英語が分かったり、その文化的・社会的背景が分かっているとより楽しめる作品であり、この作品の魅力を日本語で訳するのはとても難しいことだったろう。今回の映画、それからテレビ版のDVDあたりはちょっと楽しみにしている。なぜなら映像的あるいはラジオドラマ的作品だからだ。
 さて、内容だが、話は簡単。地球は宇宙の道路工事の都合で壊され、たまたま地球に銀河ヒッチハイク・ガイドの現地調査に来ていた実は宇宙人の友人フォード・プリーフェクトによって助けられた地球人唯一の生き残りアーサー・デントのふたりが、次から次に訪れるめちゃくちゃな危機にパニくりながらもなんとか元気に走り回る物語である。なんのこっちゃと言われそうだが、銀河系の大統領や鬱の人工知性ロボットなど登場人物もめちゃくちゃなのでご安心。まずは映画を見て、楽しかったら本書を読もう!
(2005.11.29)

啓示空間

啓示空間
REVELATION SPACE
アレステア・レナルズ
2000
 本文1032ページの文庫本。辞書か弁当箱か…。ハリー・ポッターの5巻(英語版)も弁当箱だったが、文庫でこのサイズとは恐れ入った。重量500g。いつも使っている文庫カバーをまくことができなかった。いつも本屋ではカバーをしてもらわないので、この本もカバーなしで購入したが、本屋さんはこの本をどうやって巻いているのだろうか。いや、巻けるのか?
 10億年前、宇宙では黎明期戦争と呼ばれる戦争があった。そして、この銀河宇宙に知的生命体の痕跡が消え、そして、いくつかの知的生命体が生まれては、消えていった。人類は、宇宙でそんな文明の痕跡を見つけながら、宇宙の謎、知的生命体に出会えない謎を追い求めた。本書「啓示空間」はそんな26世紀の物語である。
 宇宙考古学者のダン・シルベステは、イエローストーン星の有力家の出身。リサーガム星の文明が99万年前に滅んだ理由を探ろうと調査移民をひきつれてやってきたが、その後、妻に調査船ごと奪われてリサーガム星に足止めをくらい、そして、統治をめぐってクーデターが起こり、失脚する。ダン・シルベステの父、カルビンは、人格として認められないベータレベル・シミュレーションとして存在し、ときおりダンの相談相手となっている。
 はるかイエローストーン星では、シルベステ暗殺の計画がはじまっていた。
 いっぽう、近光速で移動することができる巨大な宇宙船ノスタルジア・フォー・インフィニティ号は、機械と生体が混ざり合う融合疫におかされたサイボーグ船長を治療するためにシルベステ親子を捜していた。
 失脚しても、とりつかれたようにリサーガム星の文明崩壊の秘密を探ろうとするシルベステ、そのシルベステの過去を知ろうとする若き女性のパスカル、そして、シルベステを殺そうとするアナ・クーリと、近光速船のイリア・ボリョーワの出会いが、2566年のドラマに向けて動き出す。
 近光速による時間の相対性があるために、主観時間は2460年から2567年に渡っての物語であるが、登場人物はそれぞれの主観時間で動いているので、登場人物が顔を揃える2566年を基点に考えれば、せいぜい15年ほどの物語である。
 スタニスワフ・レムの「ソラリスの海」のような惑星が登場したり、レンズマンシリーズを彷彿とさせる「黎明期戦争」が語られたり、惑星破壊級の自動起動兵器が登場したり、シミュレーション人格、長命技術、機械と生体の融合体、バーチャルリアリティなど、さまざまなSFガジェットが散りばめられている。
 本書「啓示空間」は、スペースオペラであり、ハードSFであり、ミリタリーSFであるかも知れないが、シルベステという主観時間200歳を超えてなお定まらない人生を背負った主人公のドラマでもある。
 おもしろいか、おもしろくないか? とりあえず1000ページを超える作品を一気に読ませるだけのものではある。だが、読み終わって、すっきりするかといえば、そうでもない。
 本書「啓示空間」は、1冊でいろんなSFをしっかりと楽しめる点では傑作なのだろう。
 歯切れが悪い? それは結末のネタばらしができないからだ。ほぼ1000ページ近くにならないと、その結末は見えてこない。だから、すっきりしたい人は、本書「啓示空間」を読んで欲しい。
 なお、個人的な趣味で、主観時間には混乱があるが記述された年号をある程度揃えて並べておく。
23世紀頃?最初のユーロパン無政府民主主義国家
2390年 シルベステ研究所が軌道上にデータを転送する
2427年 軌道上のデータ移動する
2439年頃 レイビッチ家シルベステ研究所のデータコアを破壊、シルベステ、シュラウドから生還
2460年 シルベステ、近光速船で船長を治療
2524年 イエローストーン星アナ・クーリ殺人引き受け
2543年 近光速船でイリア・ボリョーワ、ナゴヌルイを殺す
2546年 イエローストーン星にボリョーワ降り、アナ・クーリをリクルート
2551年 リサーガム星でシルベステ発掘作業
2561年 リサーガム星でシルベステ軟禁
2563年 リサーガム星でシルベステ伝記の取材を受ける
2566年 リサーガム星でシルベステ3度目の結婚、近光速船リサーガム星軌道へ、シルベステ、近光速船乗船
2567年 シルベステ、ケルベロス星内部へ
(2005.11.28) 追記 読者より主人公の名前が間違っていると指摘をいただいたので修正した。 正しくは、ご覧の通り ダン・シルベステであるが、私は「シスベルテ」と18カ所すべて誤記していた。スとルの位置が違っている。とほほ。

黙示録3174年

黙示録3174年
A CANTICLE FOR LEIBOWITZ
ウォルター・ミラー
1959
 1980年代に広島市に住んでいた。2005年の今はどうかわからないが、当時、NHKテレビやラジオをつけていて、広島ローカルの時間になると、「被爆当時、○○町に住んでいた○○○○さんのことを確認できる方を探しています」といった内容の放送がなされていた。被爆者健康手帳申請などのためであるが、1945年から40年経っても原子爆弾による放射線障害をはじめとする傷跡は、原爆ドーム以上の現実として存在していた。8月6日からの数日、広島の町を散策すれば、何も標識のない道ばたや路地にしゃがみこんで祈っている人の姿があった。
 私が広島市を離れてからも15年が経っている。今年は、1945年から60年となる。その年に生まれた人も60歳である。被爆二世も60歳となる。
 冷戦終結後、全面核戦争の脅威は去ったかのように、人々は安心しているが、世界にはいまだに全人類を殺してもあまりある核兵器が配備されている。陸に、海に。そして、ないはずの日本にさえ。
 今や超大国となった某国は、「正義」の鉄槌に、「劣化ウラン弾」というさも通常兵器のようなふりをした、核分裂反応による脅威はなくても、確実に長期的に人々に癌などをもたらす放射性物質をふりまいている。私を含めた人々は、その「正義」の正しさの前に、人々が人により殺されているのをただテレビの前で傍観している。
 どうも、私は「核兵器」のこととなると感情的になるきらいがある。それは、ただ人を殺すだけでなく、人と生命系に崩壊と混乱をもたらすからである。
 さて、本書「黙示録3174年」は、冷戦のさなか、第三次世界大戦や全面核戦争の脅威が現実のものとして感じられた1950年代に発表された、核戦争の後の世界を描く作品のひとつである。同様のテーマの作品としては、「渚にて」(1957 ネビル・シュート)が有名である。「渚にて」では、核戦争直後の世界を描いているが、本書は、大戦後6世紀、12世紀、18世紀後の世界を描いている壮大な物語である。
 本書「黙示録3174年」は、1971年に創元SF文庫として邦訳されている。私は、1979年の第10版を手元に持っている。おそらく、80年か81年頃に購入していて、その頃は熊本県の山の中に住む高校生だった。本書「黙示録3174年」は、光瀬龍の本のタイトルのように年号を後ろにつけたタイトルであり、そのかっこうよさと、核戦争後の世界という釣り書きに惹かれて読んだのだが、内容がキリスト教の話にしか読めなかったため、一度通読はしたものの、流し読み程度で放置していた。今回がはじめての精読である。購入してからはや25年が経っている。
 本書「黙示録3174年」は3部構成になっていて、全面核戦争は、1970年代に起こったことになっている。第一部「人アレ」がそれから6世紀後の2570年頃で、第二部「光アレ」がさらに6世紀後の3174年頃、第三部の「汝ガ意志ノママニ」がそれから6世紀後の3781年頃である。原題は、「リーボウィッツへの詠唱」といったところで、リーボウィッツ修道会の歴史を通じて語られる未来史である。リーボウィッツは、全面核戦争時の科学者で、全面核戦争後、わずかに残った人類の間に焚書運動が起きる中で、知識の保存(文書の保存)のために、キリスト教の一修道会に帰依し、尽力した人の名前である。
 第一部では、リーボウィッツ上人が聖人になる過程、全面核戦争後6世紀を過ぎて、過去の知をすべてなくし、日々を生きる中で、その意味すら分からないままにもリーボウィッツの意志を守る修道会の姿が描かれる。
 第二部では、全面核戦争から12世紀を経て、力を持つ国による世界の統合への試みがはじまり、同時に、知の再発見と科学技術の萌芽がみられた時代を描く。リーボウィッツ修道会に守られている文書が真のものであり、科学の発展に寄与することが、その時代の科学者によって明らかにされる。
 そして、第三部、全面核戦争から18世紀を経て、ふたたび人類は、全面核戦争の時代を迎える。超大国同士が宇宙時代を迎え、互いに覇権を競って究極の我慢比べをはじめ、ついに、同じ結末を迎える。より徹底的に。そして、一握りの宇宙に出て行った人たちが、人類の唯一の希望となり、キリスト教にとっての希望ともなった。
 本書は、宗教または哲学と、科学または権力との対話の物語であり、今も失われつつある人類へのレクイエムでもある。キリスト教の思想や宗教観が分かっていると、この作品のおもしろさ、ユーモア、ブラックユーモアがよりよく理解できるだろうが、残念ながら、そのあたりは想像するしかない。ただ、それが分からなくても、おもしろく、かつ、いろいろと考えさせられる作品であり、今日的な作品価値はまったく減じていない。むしろ、国が大国化し、超大国化していくところ、科学技術が、自らの志向性を持ち、「人のため」「便利さのため」という部分的志向性によって人の存在を破壊していく傾向を持つことなどを、宗教的な対話によって喝破しているあたりは、911以降の今こそ読んでほしい作品である。といっても、別に説教くさくはないからご安心を。
 本書では、SFとしての新しい技術や道具といったものは登場しない。なんといっても物語のはじまりが全面核戦争で文明が崩壊して6世紀後の混乱した社会であるのだから。それでも、未来を積み重ねていく手法は、伝統的なSFそのものである。「渚にて」よりもSF的色彩は強い。「ポストマン」(デヴィッド・ブリン)もいいけれど、本書「黙示録3174年」もぜひ読んで欲しい。
ヒューゴー賞受賞
(2005.11.19)