竜の卵

竜の卵
DRAGON’S EGG
ロバート・L・フォワード
1980
 SFにくくられる作品群の中には、分かりにくい科学的な知識や発見、理論を物語に変えることで分かりやすく伝えるという分類ができる作品がある。
 本書「竜の卵」は、まさしく、科学的な理論を読者にできるかぎり分かりやすく、感覚的につかみやすくするために考え出された作品である。
 重力理論の科学者として、中性子星上に生命ができる環境を設定し、その進化と挙動を通じて、重力、時間、物質のふるまいのおもしろさを理解させてくれる。もちろん、小説だけでなく、著者による科学的解説「専門的補遺」も巻末に添えられており、単なる科学解説だけでなくお遊びを入れながら科学的な知識を得させようとしている。この中には、「ノーベル賞、ピューリッツァ賞、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、メビウス賞を同一年内(2053年)に獲得した唯一の書物」についての言及もある。そいつはすごい。
 もちろん、本書「竜の卵」がただの科学解説物語と違うのは、作者ロバート・L・フォワードが、科学者であると同時にアメリカSF界を支えてきた積極的ファンであったということだ。作品冒頭の感謝分の中には、ラリー・ニーヴンの名前があり、「彼らに何をさせるかを考えた」とある。そう、ニーブンらしい異星知性生命体が登場する。
 紀元前50万年前、50光年先の連星が超新星となった。その影響で直径20kmの中性子星が太陽系方向にはじきとばされた。そして、50年後、地球に超新星の光が届き、地球の気候も変動し、人類の進化がはじまった。中性子星は、50万年かけて太陽系に近づきつつあった。西暦2000年には、670億G、自転速度毎秒5回の中性子星は、太陽の0.1光年まで近づき、まもなく通り過ぎようとしていた。そして、その星の表面では、液体中性子の中心核の上に中性子に富む原子核の結晶格子地殻ができ、鉄の蒸気の大気の中で原子核化合物による生命が誕生し、知的生命体へと進化をはじめていた。彼らは、人類と比べ100万倍の相対的時間で生き、進化し続けていた。
 そこに人類の探査船が近づき、人類は中性子星の上の知的生命体チーラに接触し、大いなる変化が始まった。
 本書は2020年4月23日にはじまり、2050年6月21日に終わる異星知性生命体との接近遭遇物語である。実際の接触は2050年6月14日に、チーラが天界の変化に気がつき宗教的変化を起こし、6月20日の人類によるレーザー探査がチーラの宗教に新たな変化をもたらし、それにより人類が中性子星上の変異に気がつき、パターン信号を送り、それにチーラが答えたことで人類とチーラとの接触がはじまる。それは、人類にとってはわずか24時間の接触だが、人類より100万倍の時間的早さで生きるチーラにとっては数千年、数万年に相当する期間であり、まばたきする間に、チーラは進化し、進化し、進化するのだ。人類から送信された人類の科学、歴史、文化の情報を飲み込みながら、彼らは、中性子星人としての存在と視点から進化する。そして、人類よりも遠くへと進んでいく。
 その人類との接触による進化の動きは読むものに軽い時間的めまいを与え、それが感動につながる。
 悪い言い方をすれば、きわめて人類的な知的生命体であったり、ちょうど人類と接触する頃に、科学的進化の時期をチーラが迎えるなどご都合主義の鏡のような作品である。
 異星生命とのコミュニケーションのありようについて真剣に考え、作品化したスタニスワフ・レム(「ソラリスの陽のもとに」など)が読んだら、「まったくアメリカ人ってやつは」と言いそうなステレオタイプ異星人である。  しかし、まあ、だからこそ大衆文化としてのSFであり、大衆文化が生んだ中性子星人チーラは他にはない魅力ある存在なのだ。
(2006.1.27)

フェアリイ・ランド

フェアリイ・ランド
FAIRYLAND
ポール・J・マコーリイ
1995
 680ページにおよぶ豪華絢爛のSFであり、SFファン向けのファンタジーである。長すぎないか? ちょっと疲れた。
 本書「フェアリイ・ランド」は、1999年に早川書房の単行本として出版され、2006年に文庫化された。文庫版として私は初読である。
 90年代のキーワードをみごとに散りばめた作品は、舞台が21世紀前半のイギリス、ヨーロッパ。異常気象や大震災で混乱し、復興し、貧富の差が激しくなる世界が華々しいストーリーの舞台となっている。主人公は、デブで衣装センスのない遺伝子ハッカー・アレックス。登場時はまだ若くて血気盛んなのだが、だんだん年をとって丸くなり、狡猾にもなるのがなんともよい味を出している。
 登場するのは、ドール。どうやらヒヒから遺伝子改造してつくった人工生命。その脳にチップを入れて人間の命令を理解し、行動するようにできている。性はない。韓国のバイオテクノ企業が独占的に開発、供給している。
 中国系マフィアが、ドールに違法に性を与え、改造し、繁殖力をつけて、闘争用、性産業用などに使おうとする。その遺伝子ハックのために主人公のアレックスが使われる。性分化をすすめる人工ホルモンを開発させられるのだ。
 アレックスはかつて精神活性ウイルスを製造するチームにいて逮捕歴がある。彼はウェブに入り浸り、視覚系を混乱させ実在しないゴーストを見えるようにする精神活性RNAウイルスを開発して、ウェブや裏世界では名の知れた存在だった。まあ、今風にいうと「神」といったところだ。
 そこに登場するのは、ある企業が人工的に知性を向上させるプログラムで誕生し、唯一成功したミレーナという美少女。金属添加の超伝導球状炭素分子(バッキーボール)でナノロボット(フェムボット)をつくり、人工の細菌、ファージなどとして世界に放っている。そのあるものは精神活性ウイルスのように人に現実のような幻覚を見せ、そして、会社はそれらを駆逐するユニバーサル・ファージを売って利益を得ている。ユニバーサル・ファージが買えないものたちは、次第にさまざまなフェムボットに感染し、無理矢理に広告を、宗教を、思想を感染させられる。
 ミレーナの願いは、ドールの「解放」と、新たな存在の確立。人間を超えた知性体の世界だという。ミレーナは、ドールのチップを取り外し、人工ホルモンを与え、ドール用のフェムボットに感染させ、手術して「解放」する。それはフェアリイと呼ばれた。
 ミレーナはアレックスの前から姿を消し、アレックスはミレーナに何かを感染させられ、ミレーナを追い続ける。何年も、何十年も。その時の流れで世界は変わり、金を持った人々は完全環境計画都市群に暮らすようになり、都市とそれ以外の世界になりつつあった。
 そして、人類は有人火星探査船を送り、120億人の人類とそれ以外のものたちからなる世界は新たな予感を感じていた。
 世界は、ドールと、フェアリイたちが住むフェアリイランドと、完全環境計画都市群に住み、ウェブに依存する人類と、それ以外の人類、そして、さまざまなミームに感染した生命で成り立っていた。フェムボットや精神活性ウイルスにより宗教観や行動を植え付けられたものたちである。
 やがて、フェアリイランドからは新たなフェムが次々に生まれ、さらに異質な生命達が生まれ、ウェブは拡張し、大きな戦いと変化を迎えようとする。
 本書「フェアリイ・ランド」には、1990年代に予感されたあらゆる危険が詰め込まれている。遺伝子汚染、ミーム汚染、核燃料再処理施設事故、クロイツフェルト・ヤコブ病(狂牛病の人版)、大天変とよばれる異常気象により地中海地方に雨の降り続いた3年、アルバニアなどの大震災、環境難民、経済格差、スラム、飢餓…。
 その中で、主人公は変わった形であれ「愛」を追い求め、人と地球の生命のあり方は変わろうとする。
 それは、まるでトールキンの「指輪物語」の続編である。
「指輪物語」では、エルフやホビット、オークやトロール、狼男や鳥人が消え、人間の時代のはじまる「第三紀」の終わりを書いている。その最後にすべての種族による大きな悪との戦いがあった。
 本書「フェアリイ・ランド」では、人間の時代の終わりを予感させ、多くの存在の登場と、新たな種族の時代の始まりを予感させる。それは「第四紀」の終わりの物語といってもいいかも知れない。そして、「指輪物語」と同様に、大いなる戦いをもって本書は終わる。
 そう読むと、本書の主人公デブで服装のセンスのないアレックスは、「指輪物語」におけるホビットのフロドの役割を担っているのかも知れない。
 本書「フェアリイ・ランド」については、テクノゴシックの大作として位置づけられ、火星探査と月探査の位置づけなどから60年代後半の世界との対比をされているようだが、イギリスのファンタジーの系譜からも注目してみてはいかがだろうか。
 もちろん、本作のタイトルが「フェアリイ・ランド」で「指輪物語」との関連があると思われるからと言っても、ファンタジーファンでSF嫌いの方に本作品はお薦めできない。
 なにぶんにも、生命科学技術、極微分子技術、情報科学技術に加え、近未来の気象学、社会学、地政学、経済学などの背景があって書かれている作品である。一筋縄ではいかないし、読み飛ばすには重すぎる、分厚すぎる。
 心して読んで欲しい。おもしろいけれど、ああ疲れた。
 ところで、主人公が汎用している「クールZ」って、ディックの「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」に登場する「チューZ」「キャンD」を思わせる。そういうSF的お遊びにもあふれている。
(2006.1.22)

ソラリスの陽のもとに

ソラリスの陽のもとに
SOLARIS
スタニスワフ・レム
1961
 スタニスワフ・レムの異質知的生命遭遇三部作「エデン」「ソラリス」「砂漠の惑星」のなかでももっとも知られ、読み続けられているのが本書「ソラリスの陽のもとに」である。ロシア人の映画監督アンドレイ・タルコスフスキーを西洋世界に広く知らしめたのも、本書を下敷きにしたSF映画「惑星ソラリス」(1972)であった。
 レムはポーランドの作家であり、ポーランドは過去数百年にわたって国家を喪失し、分裂し、支配され、奪われ、争い、弾圧され、現在にいたる国である。ヨーロッパと世界の歴史に翻弄され続けた国であり、レムが活躍し、本書「ソラリスの陽のもとに」が書かれた時期はソヴィエトの指導下にあった東欧諸国のひとつである。
 まず、はじめに、映画「惑星ソラリス」とタルコフスキーについて触れておきたい。
 本書「ソラリスの陽のもとに」は、ロシア語に訳され、おそらくそれがロシアに住むロシア人のアンドレイ・タルコスフスキーの目にとまったのであろう。1972年に「惑星ソラリス」を公開し、世界的なヒット作となった。その後、タルコフスキーは「鏡」を経て、A&B・ストルガツキーのSF「ストーカー」を題材に「ストーカー」をつくり、「ノスタルジア」でソ連、イタリア、フランスの合作、その後亡命し「サクリファイス」を作成、そして死去した。タルコフスキーは、ソヴィエトのロシア人でありながら、その内にいたときから常に「疎外」「喪失」をテーマにし続けていた。
 この映画と原作であるレムの小説との間に、深い関連はない。なぜならば、タルコフスキーは独自の解釈としてこの映画をつくったのであり、それはレムが思う「ソラリス」ではなく、SFと言えるものでもなかった。また、タルコフスキー自身がこの映画を失敗作とみなしているようである。
 それでも、この映画の映像は美しく、また、ソラリスを幻想的に見せ、映画中で使われているバッハのBWV639「我汝に呼ばわる、主キリストよ」とあいまって深い印象を与えている。
 タルコフスキー自身の解釈や解説がいかなるものであれ、タルコフスキー自身の生涯とその後の映画作品を見れば、「惑星ソラリス」の中にも、「失われたもの」「伝わらないこと」への時空を超えた思いを感じとることができる。
 次に、冷戦時の小咄をひとつ。アメリカとソヴィエトの冷戦時、月のあとに宇宙開発をするならばアメリカは火星を目指し、ソヴィエトは金星を目指すだろうと言われた。その理由に、ロシア人には内側へ内側へと向かう指向性があり、そもそも移民社会のアメリカ人には外へ外へと向かう指向性があるからだとされた。また、ソヴィエトは北極から地球儀をみると「敵」に国の周辺すべてをとりまかれているが、アメリカは開かれている。さらには、ソヴィエトでは精神科学が発展し、アメリカでは物質科学が発展しているとも言われた。
 地政学や科学の発展の歴史をみるとそうかなと思うところもあるが、ステレオタイプな分類による小咄だと受け取っておこう。しかし、そういう小咄がまことしやかに語られるのが冷戦時代だったのだ。
 現在は西側諸国に位置づけられるポーランドであるが、冒頭述べたように、その歴史は蹂躙と弾圧と反発の歴史であった。そして、冷戦下、ソヴィエトの事実上の支配下にあり、国家そのものが鬱屈していた頃に三部作は書かれている。  レムは、SFに政治的意図はないとするし、事実、それを離れたところで、本書や他の作品はSFとして高く評価されるべきだ。
 しかし、それでも、たとえば、本書「ソラリスの陽のもとに」の訳者あとがきで翻訳者の飯田規和氏が、本書のロシア語訳にはめずらしくレム自身が内容の解説とも言える「前書き」をつけていると、その全文を紹介しており、「ロシア語」版の「前書き」に説明を加えるあたりにSFを超えた「意図」を感じざるを得ない。
 その一部を引用しよう。
“その「未知のもの」との出会いは、人間に対して、一連の認識的、哲学的、心理的、倫理的性格の問題を提起するに違いない。その問題を、暴力によって、たとえば、未知の惑星を爆破するというような方法によって解決しようとすることは無意味である。それは単位現象の破壊であって、その「未知のもの」を理解しようとする努力の集中ではない。「未知のもの」に遭遇した人間は、かならずや、それを理解することに全力を傾けるであろう。場合によっては、そのことにはすぐには成功しないかも知れないし、さらに、場合によっては、多くの辛苦、犠牲、誤解、ことによって、敗北さえも必要とするかも知れない。しかし、それはすでに別の問題である。”
 としている。さて、本書「ソラリスの陽のもとに」ではどうだったのだろうか。
 本書「ソラリスの陽のもとに」は、惑星ソラリスが発見されて百数十年後のソラリス・ステーションを舞台にする。惑星ソラリスは、二重太陽を回る惑星で、発見当初は注目されなかったが、その後、惑星が自立的に軌道を安定させていることが発見され、それを何が行っているのかに注目が集まった。惑星ソラリスは海がほとんどをしめており、その性質を調べるうちに惑星ソラリスの海こそが軌道を安定させている存在であり、おそらく知的生命体であり、人間以上の高度な知性を有していることが仮説として挙げられた。惑星ソラリスは、様々な「形」を海に生み出し、それは単なる物理現象とは言えないからだ。しかし、ソラリスの海との意思の疎通はまったくできず、仮説もつきはて、惑星ソラリスの海に反重力的に浮かぶソラリス・ステーションには3人のスタッフが常住して研究を続けるのみだった。いま、心理学専門のクリス・ケルビン博士が新規スタッフとして、ソラリス・ステーションに到着した。しかし、出てくるはずの他のスタッフの姿はなく、補助をするアンドロイドの姿もない。所長は自殺し、ひとりはまったく部屋から出てこず、唯一なんとか正気に近いと思われるスナウト博士の様子もおかしい。そして、3人しかいないはずのソラリス・ステーションには、黒人の女の影や子どもの影がある。スナウトはケルビンに「やがて君にも分かる」と言う。
 そして、分かるときがやってきた。かつてクリス・ケルビンが冷たくして自殺してしまった恋人のハリーが、そのときの姿のままに実体をもってあらわれたのだ。
 それは、ソラリスの海がケルビンの脳を読み取って生みだした存在だった。ハリーは決してクリス・ケルビンから離れない。かつての罪の意識と、目の前のハリーの存在に動揺し、恐怖し、渇望し、混乱するケルビン。やがて、ハリーは自意識さえも持ちはじめた…。
 本書の中で、レムはコミュニケーションと認識について語る。そして、それは、「疎外」と「喪失」の裏返しでもある。コミュニケーションが成立しなければ、それが対象のせいであれ、主体(わたし)のせいであれ、どちらのせいでなかろうと、主体であるわたしにとっては「疎外」となる。そして、「喪失」は「疎外」そのものであり、「喪失」を認識することで主体は「疎外」される。
 もっとも深い心の傷が「疎外」を生み出すのだ。ソラリスの海を介して、ケルビンがハリーを得るように。
 現代において「疎外」は深刻な問題となっている。多くの人が、コミュニケーションする機会をもちながらもコミュニケーションができず、失っていない「喪失」を認識し、たえず「疎外」された主体だと感じている。それは、主体(わたし)が覚える勝手な「疎外」であるが、「疎外」に真実も仮想もない。
 不幸な時代である。私は、異質な私たちに取り囲まれ、「疎外」されているのだ。
 それは、レムがもっとも恐れていたできごとではなかろうか。
 そして、タルコフスキーが未来に感じていたことではなかろうか。
 ゆえに、レムとタルコフスキーが表裏一体のテーマを解釈していたと私は理解している。
 もちろん、そう深読みする必要はないのかも知れない。
 この作品は、他の2作品と同様に、真に異質なものとの関係性について語られたSFとして読めばいいのかも知れない。しかし、深読みしたいような気持ちになるのが、レムの、そして、タルコフスキーの作品群なのだ。
おまけ
 漫画家で、現在は作品の再版さえ断り続けている内田善美が「星の時計のリドル」の物語の終盤で、主人公のロシア帝国時代の貴族の孫である流浪のロシア系アメリカ人に「内なるロシアの発見」を美しく描いている。彼女もまた、作品の中で、コミュニケーションと認識、そして、疎外と喪失を追求し続ける作家である。すでに稀少な本であるが、機会があればぜひ手にして欲しい作品である。
おまけ2
 スティーヴン・ソダーバーグ版映画「ソラリス」(2002)はまだみていない。それから、 国書刊行会から2004年11月に「ソラリス」として、ポーランド語版(オリジナル)からの翻訳が出されている。これは読んでみたい。
(2006.1.22)

最後から二番目の真実

最後から二番目の真実
THE PENULTIMATE TRUTH
フィリップ・K・ディック
1964
 私は、フィリップ・K・ディックほど、首尾一貫した作家を知らない。彼は、ほぼすべての作品で同じテーマを扱い、同じことを主張しつづけた。
 世界はすぐに虚構となり、嘘の本当を語る者が権力者・支配者となる。その虚構は恐怖であり、私たちは虚構の中であえぎながら生きている。同時にそれを切り抜け、生き抜いてもきた。その力も持っている。
 パソコンが普及し、映画「マトリックス」のようなバーチャルリアリティを、エンターテイメントとしてあたりまえに受け入れることができるようになった21世紀初頭。ようやくディックが味わい続けてきた恐怖を私たちは理解することができるようになった。
 ディックは、1928年から1982年までの生涯を通じて、現実の虚構を身体で味わい、理解し、見続け、人々に伝えようとし続けてきた。それこそが彼の生きるための現実であったのかも知れない。
 本書「最後から二番目の真実」は1964年に出版され、日本ではサンリオSF文庫より1984年に翻訳発行されている。サンリオSFでの11冊目となる。2005年現在、他の出版社より復刊されていない作品であり、入手は極めて困難となっている。
 私は、この作品が大好きである。はじめて読んだのが大学生のときで、その後少なくとも1度以上読み返し、今回久しぶりに読み返してみた。
「最後から二番目の真実」の舞台は2025年。今から約20年後、執筆時から42年後の世界。
 第三次世界大戦は終わることを知らず、2010年から多くの人々が地下の耐細菌性地下共同生活タンクで暮らし、地上の政府の指令に基づき、レディと呼ばれる人型人工知性体兵器を生産し、送り出していた。地上は、核兵器による放射能と生物兵器の細菌に覆われ、敵・味方を問わず、レディが生命体を発見したら殺戮を繰り広げていた。今、地上からの報道によると防衛戦が突破され、デトロイトが壊滅してしまった。
 戦争は、西部民主圏と太平洋人民圏で行われ、地上では死を覚悟した軍人とヤンスマンと呼ばれる政府高官たちが統治していた。各タンクにはヤンスマンが派遣され、タンクの自治体と地上の政府を結んでいた。
 しかし、地下の多くのタンクに住む数百万人の人々はだまされていたのだ。
 戦争は、火星で1年、地球では2年で終了していた。西部民主圏と太平洋人民圏のそれぞれのレディは、高度な知性を発揮し、戦争の終了をもたらした。地上の多くは核兵器による残留放射線で汚染されていたが、地上は緑を取り戻していた。両政治圏のヤンスマン達は、それぞれが広い土地を占有し、レディ達を管理者として数の限られた豊かな生活を送っていた。
 そして、地下のタンクに対しては、精神的政治的軍事的指導者タルボット・ヤンシーというカリスマを創造し、彼が語りかけることで戦争の遂行、レディの生産を求めるのであった。そのヤンシーさえも、シュミラクラに過ぎず、ヤンスマンの広報担当者がシナリオを書き、それをヴァックと呼ばれるコンピュータが処理してシュミラクラに話をさせているに過ぎない。地上のヤンスマン達の最大の仕事は、西部民主圏と太平洋人民圏のそれぞれのタンカー(地下の人々)をだますための映像、音声、架空の歴史を作り続けることである。
 人々への歴史のねつ造は、第三次世界大戦がはじまる前、1982年にはじまっていた。国連を解体させ西側諸国の中心になりつつあったドイツは西部民主圏を構成していく中で、第二次世界大戦の歴史を改変していく。同時に、太平洋人民圏を構成したソヴィエトもまた、第二次世界大戦の歴史を改変していった。映像のねつ造の正規の中で、第二次世界大戦の真実は変えられ、それがのちの第三次世界大戦へとつながっていったのだった。
 あるタンクで必要に迫られてひとりの代表者が地上にと出る。彼はそこで真実に出会う。
 一方、情報のねつ造担当者であったひとりのヤンスマンが権力を追われつつあった。
 という設定である。ディックの「目」がわかりやすく描かれている。1964年という冷戦下の世界と、その後の欺瞞に満ちた世界の予感が書かれている。
 私たち、今、現実に生きているはずの私たちは、最後から二番目の真実が明らかにされようとも、その欺瞞の中にいることをよしとする。
 なぜだ。
 その答えを、ディックは未来を見通して書いている。
 私は、その答えに恐怖する。そしてあたりをきょろきょろと見回すのだ。
(2006.1.18)

テラの秘密調査官

テラの秘密調査官
SEACRET AGENT OF TERRA
ジョン・ブラナー
1962
 1978年にハヤカワ文庫SFで出ている「テラの秘密調査官」は、私が持っている唯一のジョン・ブラナー作品である。おそらく中学生の頃に買ったもので、一度読んだっきりになっていた。当時は、あまりおもしろいとは思わなかったのだが、不思議なものである、以来25年以上経って読み返してみると、意外とおもしろかった。
 ストーリーはこうである。750年前、人類の移民星のひとつツァラトゥストラの太陽がノヴァ化した。植民者達はあわてて近隣の星系に避難したが、生き残ったのは1星系に逃れた避難民だけと考えられていた。しかし、120年ほど前、人類文明の守護者である銀河連盟軍団はいくつもの惑星にツァラトゥストラからの避難民が生きのびていることを発見した。人類文明は、文化的・文明的に変わり果て、独自の発展をしようとしているこれらの避難星に干渉せず、その発展を見守ることとした。それは、彼らのためではなく、人類文明とは違う発展のしかたから、新たな発見ができるのではないかと期待したからである。しかし、なかには、これら非文明人たちを高度な軍事力で征服し、奴隷として利用しようとする犯罪者もいる。そこで銀河連盟軍団は、秘密調査員をそれらの惑星に潜入させていた。そんなツァラトゥストラ避難民惑星第十四号(ZRP14)では、惑星に住む翼竜を王とする王政がしかれていた。毎年一度、選ばれた氏族の勇者が王殺しに挑み、王が殺されれば、殺した氏族が王の代理人として首都を統べる。もし、王が生き続ければ、その氏族は支配者で居続けることができるのだ。それぞれの氏族はトーテムをもち、この18年は翼竜パラダイルをトーテムとする氏族が栄華を誇っていた。その年も、新たな「王殺し」の季節がやってきたが、南国から来たひとりの男が「王殺し」参加の権利を申し立てる。それは認められ、その男は稲妻のような魔法を使って王たる翼竜を殺し、支配者の座についてしまう。それは、不幸のはじまりであった。
 もちろん、その新支配者は異星人であり、秘密調査官は彼らの陰謀をあばき、その惑星の人々に気づかれないように彼らを排除し、現状に復旧しようとする。しかし、それ以前に秘密調査官のひとりは殺されており、かわりに、軍団に入って2年目で、問題児の美貌の女性が捨て駒として送られることになったのだ。
 といった具合である。
 本書「テラの秘密調査官」が私にとって「意外と」おもしろかった理由は、ZRP14の社会が、文化人類学の教科書のような設定をしてあったことである。「王殺し」「氏族とトーテム」などが、短い作品の中で書き込まれていて、学生時代にちょっくら文化人類学をかじった人間にとっては心地よい設定だったのだ。これに、「銀河連盟軍団」などというレンズマンのような集団が登場し、それほど能力のない秘密調査官が出て、いつの間にか事件は解決されるのだが、初期設定に対して、展開があまりにもあっけなく、そのあたりがちょっとものたりない。ただ、この作品が出された当時の状況を考えると、現在のような1冊1000ページを超す作品はなかなか受け入れられず、200~300ページがせいぜいだったのだからやむを得ないのかも知れない。もし、これが破綻のない大長編だったらもっと楽しめたのでは、とも思う。ただ、このくらいの長さの作品だと、起こったであろう「間の出来事」を想像して補完することができる。それはそれで楽しいものだ。
 本書「テラの秘密調査官」は、設定が設定だけに、今読んでもそれほど古さを感じさせない作品である。入手困難な作品であるが、中世的設定が好きな方は読んでみてはいかが。
(2006.1.7)

百万年後の世界

百万年後の世界
ACROSS TIME
デヴィッド・グリンネル
1957
 100万年後、人類はどうなっているだろうか。100万年後、地球はどうなっているだろうか。その途方もない未来にSF作家たちは想像の限りをつくす。
 本書「百万年後の世界」は1957年に書かれた未来世界のSFである。主人公は、20世紀中葉のアメリカ人。100万年後の未来に放り込まれ、同時に未来に投げ込まれた兄と兄の妻でかつては自分の恋人だった女を救い出すべく行動を開始する。
 その100万年後の未来。人類は宇宙に広がり、ふたつの勢力が存在していた。いずれの存在も、ほとんど物質に依存しない存在だが、ひとつの大きな勢力は個々の自由を尊重し、その後に生まれた生命体や他の星の生命体には干渉しない道を選んだ。もうひとつの勢力は、個々の頭脳をエネルギー的に連結したひとつの大きな存在になるべく、勢力範囲の星系にいる肉体を持つ人類の末裔などを従えていた。
 主人公は、個々の自由を尊重する主勢力の影響下にある100万年後の地球に降り立つ。そこは、かつての類人猿が進化した文明社会であった。その文明は、ちょうど20世紀の中葉とほぼ同じであるが、以前の人類文明のなごりはまったく存在しなかった。ただ、石油などの地下資源の不在が、かつての文明の存在をうかがわせるだけであった。地下資源のない社会で、次の人類は、蒸気機関の文明をつくりだし、ちょうど、原子力の活用に目覚め、核戦争の恐怖を感じ始めた時代、すなわち、20世紀中葉の冷戦の時代と類似していた。
 主人公は、この勢力下に保護され、やがて本当の人類の末裔であるエネルギー体生命と出会う。そして、兄夫婦が別の勢力の支配下に置かれていることを知り、彼らを救い出すべく、博物惑星にあった地球年237,109年建造の最後の物質的戦艦宇宙船を与えられ、大宇宙に乗り出す。
 21世紀の今に読めば、スチームパンクな文明社会であったり、自立型人工知能ロボットが登場する宇宙船であったりと、なかなか楽しいガジェットが登場する。また、その人類史も興味深い。
 もっともストーリーの柱となっている兄弟の確執と、ひとりの女性をめぐる行動については、おいしくないデザートみたいなもので、三文芝居と思って気にしないことである。
 SFとしてのガジェットにあふれている本書「百万年後の世界」であるが、その背景を考えると、発表された1957年頃といえば、米ソ冷戦から第三次世界大戦への発展が現実のものとして恐れられており、核戦争が真の恐怖だった時代である。未来のエネルギー体となった人類の2大勢力についても、ひとつが個人主義、自由主義社会を反映し、ひとつが、当時のソ連を思わせる社会主義的、一極集中的社会を反映している。さらに、次の人類である100万年後の地球社会は、そのまま当時の社会状況であり、戦争の恐怖と人間の愚かしさを描いている。そのような社会的背景の上に本書「百万年後の世界」が成立しており、その文脈から本書が逃れることはできない。ある種のSFの役割であり、宿命でもある。
 さて、100万年後の人類といえば、ドゥーガル・ディクソンの「マンアフターマン」(1990)が1993年に日本で発行されている。イラストで、200年後~500万年後の人類史を描いている。水中に適応したもの、砂漠に適応したもの、宇宙に出て行ったものなど様々なものたちが、自然に、あるいは、遺伝子改変により、さらには遺伝子改変の後の進化によって変化していく様を描いている。
 ああ、人類よ。地球よ。どうなっていくのだろうか。
 私に知るよしもないが、幸多からんことを。
(2006.1.2)

二重太陽系死の呼び声

二重太陽系死の呼び声
THE PLANET OF THE DOUBLE SUN
ニール・R・ジョーンズ
1931
 ジェイムスン教授シリーズ第一弾として昭和47年(1972年)に野田昌宏氏の訳でハヤカワSF文庫に登場したのが、本書「二重太陽系死の呼び声」である。手元にあるのが昭和53年(1978年)の第6刷、私が中学か高校のころに買い求めたもの。イラストは藤子不二雄氏によるもので、後に野田昌宏氏は、このイラストを絶賛している。
 ジェイムスン教授シリーズを読み返そうと思ったわけは、テレビアニメの「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」を見ていたところ「ジェイムスンタイプ」の会社社長が登場したためである。そういえば、箱形の機械に脳みそを詰めたジェイムスン教授が活躍するスペースオペラがあったなあと思い出し、ひっぱりだした次第。この箱形金属殻の中に、脳みそを詰めてサイボーグとして行動するというパターンは、それ自体がひとつの驚きと楽しさであり、行動と形状のギャップが楽しさを生む。たいていは、かっこいいヒーローの名脇役といった役どころなのであるが、このジェイムスン教授シリーズは、この箱形金属殻サイボーグこそが主人公という点が他の作品とは大きく違うところだ。
 簡単にジェイムスン教授が箱形金属殻になるまでを振り返っておくと、ジェイムスン教授は、1958年に死ぬと、その遺志に従ってロケット棺桶で地球の周回軌道に送られた。その後、人類は滅び、次の生命体が栄えては滅び、4千万年の時が過ぎる。地球は自転を止め、生命の姿は消えた。そして、地球から数百万光年! のかなた惑星ゾルより、不死となったゾル人が太陽系を訪れ、ジェイムスン教授の死体が乗ったロケット棺桶を見つけた。ゾル人は、ジェイムスン教授の死体を見つけ、その脳細胞をふたたび活動させて、ゾル人と同じ身体を与え、ジェイムスン教授をゾル人21MM-392として迎え入れたのだ。その姿こそ、「金属でつくられた直方体の胴体をもち、それぞれジョイントをもった四本の脚部がそれを支えている。そしてその四角い胴の上部からは、やはり金属でつくられたらしい六本の触手がつき出ているのだ。そしてその四角い胴の頂部には円錐形をした頭とおぼしきものがついていて、その周囲にぐるりと眼玉が並んでいるのである」(18ページ)、箱形金属殻サイボーグであった。ということで、ジェイムスン教授は、はるか時を超え、人類の最後の生き残りとしてゾル人の仲間に加わるのであった。そして、その驚くべき知恵と勇気でもって、宇宙の様々な驚異に出会い、八面六臂の活躍を行うのだ。
 とにかく、時間も、空間も、死をも超越したジェイムスン教授が恐れるのはただひとつ、金属殻に包まれた脳みそをつぶされることだけ。しかも、一度死んでいる教授だから恐れるものはそれほどないのだ。史上最強の主人公かも知れない。
 このシリーズは、短編が3作品ずつまとめられていて、4冊出ている。第一冊目の本書「二重太陽系死の呼び声」は、ジェイムスン教授が誕生するまでが第一部「機械人21MM-392誕生! ジェイムスン衛星顛末記」、二重太陽系にゾル人達と冒険に行き、第一惑星ですべてのゾル人の仲間を失い、しまいには破壊されたゾルの宇宙船ごと二重太陽系の公転軌道にのって永遠のとりこになるまでが第二部「奇怪! 二重太陽系死の呼び声」、約600年後、第二惑星に宇宙技術が栄えてジェイムスン教授が第二惑星の三脚人に助けられ、第一惑星でゾル人の一部とも再会し、失った仲間の仇を討つまでが第三部「仇討ち! 怪鳥征伐団出撃す」として、一連の物語になっている。
 なんといっても1931年というSF初期の作品であり、いまだ人類は月も原子力爆弾も知らない時代の物語である。その自由な荒唐無稽さは、今日には書くことができないうらやましさがある。
 歴史的な作品であり、コンピュータグラフィックスによってどんなに荒唐無稽な世界でも自由にビジュアル化することができる現代では小説として読むのはつらいかも知れないが、映像化する脚本としてみれば、なかなかに楽しいので、もし古本屋や図書館で見つけたら、一度読んでみてはいかがだろう。
(2005.11.27)

双子惑星恐怖の遠心宇宙船

双子惑星恐怖の遠心宇宙船
TWIN WORLDS
ON THE PLANET FRAGMENT
THE MUSIC MONSTERS
ニール・R・ジョーンズ
1937,1938
 ジェイムスン教授シリーズも第四弾で邦訳最後である。「双子惑星恐怖の遠心宇宙船」は第一部。第二部「箱形惑星光球生物の怪の巻」、第三部「音楽怪人はギャンブルが大好きの巻」である。第三巻の「惑星ゾルの王女」での一連の冒険が終わり、再び大宇宙の冒険に乗り出した、ジェイムスン教授こと21MM-392の機械人。今ならば、機械化甲殻体とでも呼ぼうか。しかも、機械化とともにテレパシーまで使えるようになっているところが本シリーズの味噌である。
 さて、邦訳が最後ということもあるのか、巻末には翻訳家野田昌宏氏ではなく竹川公訓氏による「機械化人人別帳」がつけられている。登場人物が機械化人で基本的に数字と英文字の記号なのでよく分からなくなるのだ。だから、第一巻から4巻までの登場人物と、その履歴をたんねんにまとめたものである。今ならば、翻訳の元のテキストデータをベースにして、検索をかけていけば難しいことではないだろう。翻訳書が出版されのは昭和52年4月。1977年のことである。残念ながら、翻訳は手書き。さすがに活版ではなく、写植によるものだが、検索まではできない。大変な作業であったと思われる。しかも、1930年代の作者、ニール・R・ジョーンズでさえ、かなりいいかげんで、登場人物の名前が変わっていたり、属性が違っていたり、死んだはずの機械人がよみがえっていたりと、うんざりする作業だったろう。その苦労に頭が下がる。
 それで、本体の方だが、最初の「双子惑星恐怖の遠心宇宙船」は、その名の通り双子の惑星で、大きい方に文明が発達し、小さい方の惑星にコロニーをつくっている。その行き来に利用するのが、相互の潮汐力を利用し、地上の大きな観覧車のような輪っかを高速回転させ、その遠心力で飛ばすというもので、それが「恐怖」なのだ。  で、第二部の「箱形惑星光球生物の怪」と「音楽怪人はギャンブルが大好き」は、箱形の不思議な形をした惑星で、その面ごとに重力が変わるため、それぞれの面に住んでいる生物が異なり、いくつかの知的生命体が暮らしており、それぞれに危機があるというもの。「光球生物」の方は、車輪型知的生命体を襲う生き物で、このほかにも低重力地帯から来る巨人が襲ってくる。「音楽怪人」は敵ではなく、炎にも耐えられる巨人を倒す知的生命体で、車輪型よりは知能が劣るタイプ。惑星の別の面では、肉食植物である程度育つと動物部分が別に出てくる。機械人だから、重力が変わっても行動に問題はない。
 まあ、物理学が苦手な私でもいろいろ突っ込みたくなるところはあるが、突っ込まずに素直に楽しむのが、この手の古典スペオペの楽しみ方である。
 25年ぶりぐらいに、本シリーズを読み返してみたが、四半世紀を過ぎていると、こういうスペースオペラってなくなったなあと思わずにいられない。第一、勧善懲悪である。見るからに敵は敵として位置づけられ、困った人(異星人・知的生命体)はいい人で、いじめる人は悪い人である。時代劇である。もはや過ぎ去りし大衆芸能の世界である。SFの世界ではみなくなった。主人公が苦悩する時代である。逃げ出す時代である。複雑なのである。そうでなければ、物語に奥行きがないなどと言われるのだ。
 ほかのスペースオペラと違うところは、ジェイムスン教授が、他のクルー(機械化人)と比べて、それほど突飛ではないという点であろう。なにせ、身体は付け替え自由の互換パーツでできている。ただし、ジェイムスン教授だけは1本の腕に熱線銃を仕込んでいるのと、唯一の地球人でユーモアを解するところが違いである。突っ込んではいけないのだが、熱線銃を仕込んだ腕がなんらかの理由ではずれて、予備パーツをつけても、やはり熱線銃は仕込まれている。ならば、他の機械化人もそうすればいいのだが、誰もそうはしない。そのあたりが、主人公たるところだろう。でなければ、誰が主人公でも変わらないような見た目だし。
 ジェイムスン型アンドロイドの原型を藤子不二雄のイラストと、古典スペオペのテイストで味わいたければ、この4作品をどこかで探して読んで欲しい。ただし、「物語に奥行きがない」「リアリティがない」と言って責めないように。
(2005.12.24)

天界の殺戮

天界の殺戮
ANVIL OF STARS
グレッグ・ベア
1992
 1987年に出版された「天空の劫火」の続編である。前作「天空の劫火」は、地球最後の日ストーリーで、ほとんどの人類がほろび、地球は内部から破壊され生態系は壊滅してしまう。地球の破壊を起こしたのは、自動機械知性。送り出したのは、どこかの知的生命体。前著では、地球が破壊されるとき、別の知的生命体群が送り出した自動機械知性によってわずかな地球人が救い出され、そのなかの子どもたちの一部が宇宙の「法」の定めに従って「敵」を探し、滅ぼすための旅に出るところがエピローグとしてわずかに触れられていた。
 本書「天界の殺戮」は復讐の旅に出た子どもたちの物語である。それは、「エンダーのゲーム」を彷彿とさせる、宇宙船内での子どもたちの社会の物語であり、その訓練の物語であり、「滅ぼす側」に回った者たちの苦悩の物語である。
 地球の生命体や他の星の生命体を滅ぼした「敵」であることをどうやって突き止めるのか? 果たして「敵」は今も、他の知的生命体を滅ぼそうという存在なのだろうか、それとも、そのことを悔い、変異した生命体なのだろうか。たとえ、それを悔いていても「法」に従って、彼らを滅ぼすべきなのだろうか。「敵」が他の知性体に紛れていたり、他の何も知らない知的生命体を生みだし、その生命の盾に守られていたとしても、その無実で無辜の生命体を含めて滅ぼすことができるのだろうか。
 もし間違ったら、どうすればいいのか。
 高度な宇宙文明の自動機械知性の宇宙船に乗った人類の生き残りである子どもたちは、意志のある武器となり、自らの存在理由に悩みながら旅と、探索と、訓練を続ける。
 そして、「敵」と思わしきものとの邂逅。戦い。敗戦。多くの死、別れ、新たな苦悩が彼らを待ち受ける。彼ら人類の子達を導く宇宙船の自動機械知性は、近くにいる別の「復讐者」との合流をすすめる。ふたつの宇宙船はひとつにまとまり、ふたつの滅ぼされた知的生命体が同じ船で同じ目的を共有し、生理、生態、思考、文化、価値の差の中から新たな苦悩と希望を見いだす。
 ふたたびの「敵」の発見。はたして、彼らは、彼らの目的を果たすことができるのか? それをすべきなのか?
 なんといっても「天界の殺戮」である。殺戮の幅が半端ではない。前著では、50億の人類とすべての生命が殺害されたが、それでも惑星ひとつである。ところが、「敵」と思しき存在は、そんな破壊のための自動機械知性を宇宙の全方位に向けて発射するだけの力を持つ存在であり、自らの出自の惑星だけでなく、多くの太陽系とその惑星や恒星を改変し、自らの目的に合うよう作りかえるだけの力を持つ存在である。「敵」を滅ぼすとなると、いったいどれくらい「天界の殺戮」を行わなければならないのだろうか。
 それほどの「殺戮」を行える存在は、それ自体が「脅威」ではないのだろうか?
 そんな地球人の子どもたちは、自らを「パン」(ピーターパン)、「ウエンディ」と呼ぶ存在である。
 そこで思い出すのが、80年代後半を彩った「ピーターパン・シンドローム」だ。
 本書「天界の殺戮」は、閉鎖環境、子どもたちの社会、復讐という単一目的という状況の中での「ピーターパン症候群」を書き下した作品なのではないか? そして、80年代、90年代、ひょっとすると現在に続くまでの社会心理を描こうとしたく作品ではなかろうか? そのように読むと、なかなか興味深い作品である。
 80年代かあ…(遠い目になる)…。うれしはずかし10代後半から20代前半だもんなあ。「ピーターパン症候群」「逃走論」「ゲーデル・エッシャー・バッハ」「ホーキング、宇宙を語る」の時代だ。軽い知的好奇心の時代だものなあ。
 それを受けて、こういう作品が出てくるんだ。読み方によっては人物の会話ばかりでうっとうしいけれど、そんな時代だったのだ。重たい知的好奇心を軽く語り、内面に苦悩を隠すのだ。
 いずれにしても、本書「天界の殺戮」は、前著「天空の劫火」の直接の後編であり、壮大なSFドラマなのであるが、前著と本書は、絶滅させられるもの/絶滅するものの関係という位置づけを除いて、物語としては独立したものである。もちろん、前著「天空の劫火」で細かく語られる「地球の破壊」の余韻を受けて本書「天界の殺戮」を読めば、主人公の子どもたちの「苦悩」はより理解できるが、読んでいなくても構わないだろう。ちなみに、本書「天界の殺戮」の主人公は、「天空の劫火」の主人公の息子であり、父の視点から息子の話は時折語られている。そういう意味では、前著を読んでいた方がおもしろいかも知れないが、子どもはすぐに成長するからねえ。
(2005.12.23)

天空の劫火

天空の劫火
THE FORGE OF GOD
グレッグ・ベア
1987
 グレッグ・ベアの「地球最後の日」である。本書「天空の劫火」が出版されたのは1987年。物語はその10年後の1996年にはじまる。
 その年、木星の衛星エウロパが消えた。なんの痕跡もなく、突然に地球から観測できなくなった。
 そして、その直後、アメリカ、オーストラリア、そして、おそらくモンゴルなどに異星から来たと思われる不思議な構造物が砂漠などに現れる。構造物は、小さな火山のような見た目をしていて、地質学者や地図屋でもなければ気づかないようなものだが、それでも明らかに異質であった。アメリカでは、その「火山」のすぐそばで、死にかけながらも英語をはっきりと話す異星人がみつかり、発見者ともども軍によって確保された。その異星人は、地球がある機械知性勢力によって破壊されることを告げ、彼らはすでに滅ぼされた惑星種族の一員であると告げて死んでいった。一方、オーストラリアでは3体のロボットが姿を見せ、彼らは地球人に友好の目的で訪問したのだと告げた。
 モンゴルなどは、ソビエトを中心とする東側体制のもと、西側には情報が伝わってこない。
 そう、物語は1986年に書かれ、すでに、ゴルバチョフ体制下でペレストロイカ、グラスノスチがはじまっていたものの、誰も、東側=社会主義体制とソビエト連邦が崩壊するなどとは、夢にも思っていなかったのだ。
 それはともかく、本書「天空の劫火」の1996年では、オーストラリアが早々に事態を公表。しかし、地球の終わりを告げられたアメリカは、その事実をひた隠しにした。ときのアメリカ大統領は、その事実の恐ろしさに「黙示録」の世界にはまりこみ、座して神の審判を待つとの判断を下す。そして、翌年、真実を隠したまま大統領選挙に当選した大統領は、当選演説の際に、アメリカ国民と世界に対し、真実を語り、静かに地球の破壊を待つように告げるのであった。
 果たして、本当に地球は破壊されるのか? そして、それはなぜ? 宇宙は、宇宙の知的生命体はどのようなことになっているのか? もし、本当に地球が破壊されるのならば、それはどうやって? そして、地球人にはなすすべもないのか? 救いはないのか?
 本書「天空の劫火」は、1年で地球は破壊されることを知った人類の物語である。その、破壊は決定的であり、生きのびる余地はない。それは、人類だけでなく、地球のあらゆる生命、生命系、生態系、いや、大気圏、地表のすべてを破壊するものであり、地球という惑星が、生命に満ちた星から、ただの太陽の周りを回るだけの冷たい星になることを意味した。絶望である。そこに、真の救いはない。
 そんな時に、私はどうするのだろうか? ふだん通りに生き続けることができるだろうか?
 そういえば、新井素子の「ひとめあなたに…」は1985年に出版されている。こちらは、小惑星が地球に衝突し、人類が破滅することが明らかになった最後の1週間の物語である。
 そういう時代だったんだな。
 それにしても、グレッグ・ベアは容赦がない。そして、その容赦のなさは、いっそ美しい。「ブラッド・ミュージック」とは異なる、極めて圧倒的な存在感のある力を前にしたとき、それは滅びの美という世界になるのかも知れない。なんと人間の感性とは恐ろしいものだろうか。
 ここからはネタバレになるのだが…
 それでも、人類という種には、最後の希望と救いが示される。地球を滅ぼした「敵」の「敵」が人類のごく一部を「法」にのっとって救い出すのだ。それは、本書でも書かれるラブロックの「ガイア仮説」を引き立てるための結末である。
 本書では、ガイア仮説の拡大解釈が死にかけた主人公の友人によってなされる。
 数ページに渡って、ガイア仮説(改)をベアが語る。
「ガイアとは地球全体である。彼女は生命を得て以来、もう二十億年以上もひとつの有機的総体として、単一の生物として、存在してきた。しかし、ガイアと人類または犬、猫、鳥などが完全に似ていると見ることはできない。なぜなら、最近までわれわれは現実の独立した有機体を決して研究したことがなかったからである」(下巻113ページ)「われわれは両生類の足に匹敵する重要な器官--高度に発展した脳--を獲得した。突然、ガイアは自意識を持ちはじめ、外部に目を向けはじめた。彼女ははるか彼方の宇宙を見ることができる目を発達させ、自分が征服すべき環境を理解しはじめた。彼女は思春期に達した。まもなく再生をはじめるだろう。(中略)人類は、生殖腺以上のものだから。われわれは胞子や種子の作り手であり、ガイアのなんたるかを理解するものであり、そしてまもなく、われわれはほかの世界に命を吹き込む方法を知るようになるだろう。われわれは宇宙船に乗ってガイアの生物学的情報を宇宙に運び出すだろう」(下巻115-116ページ)
 そして、本書「天空の劫火」では、地球が破壊される=まもなく宇宙に子を出すはずのガイアが不慮の死を迎える=ゆえに、作者であるベアは救いを残した。そして、この救いが、続編「天界の殺戮」につながるのであろうが、はたして、ベアは、本書「天空の劫火」を書く際に、続編のことまで考えていたのだろうか?
(2005.12.15)