宇宙からの訪問者(再)


THE VISITORS
クリフォード・D・シマック
1980

 50歳代も終わりに近づき、短期記憶の能力低下は著しく感じていたが、長期記憶も実にあやしくなっていくのを実感した。
 先頃、シマックの本が古書店に並んでいるのをみかけ、おそらく読んでいないと思うものを数冊入手。まずは「超越の儀式」を読んで80年代の「ニューシマック」を初体験したつもりになっていた。
 そして、本書「宇宙からの訪問者」を2022年12月から1月頭まで、数章ずつ読みついでようやく読み終わり、オチに感心して本を閉じたのだった。なるほどシマックらしいきれいな終わり方であったし、なんともいえない不思議な読後感を得て、さて、シマックの本、どれくらい持っていたかと自分の本棚を眺めてみると、おやおや「宇宙からの訪問者」が並んでいるではないか。そうか、読書ブログをはじめる前に読んでいたんだなと得心し、ではシマックのどの本を読書歴に残しているかと調べてみたら、おやおやおや、「宇宙からの訪問者」を読んで、書いているではないか。記録によれば2005年3月に読書録を書いている。
 ここだ。宇宙からの訪問者

 まったく記憶にございません。

 驚くべきことである。新年早々、自分自身に大笑いし、家族や周りの人間にも、笑えるエピソードとしてさっそく自虐ネタにして披露した次第である。人生はおもしろい。

 ところで本書の内容だが、宇宙からの「訪問者」の物語である。この訪問者、真っ黒いすごく大きな立方体である。少し宙に浮いているから重力の制御ができる。木を食ってセルロースのふわふわ塊を排出する。途中からはちょっとだけど自動車まで食べる。最初に降りてきたとき、かっとなって銃を撃った男は一瞬にして死んでしまったが、それ以外、基本的に攻撃はしていない。近くにいた人間一人と動物数種類を一度中に取り込んだが、しばらくして全部外に出してしまう。取り込まれた人間は樹木専門の植物学の若い研究者で、その「訪問者」の思念のようなものを感じ取ったが決して双方向のコミュニケーションが取れたわけではないらしい。主要な登場人物は、この青年、その彼女の新聞記者と、新聞社の同僚や上司、それとは別フェーズで大統領と首席報道官とその彼女と彼女の父親の大統領とは敵対する上院議員。それらに関わる人々。
「訪問者」は小さな立方体の「子」を生み、育ち、広がる。また、他の仲間の「訪問者」も次々と地球に降りていくが、木を食べることと、少々の自動車を食べたほかは、特に何もしない。最初に起きたパニックはやがて収まり、「訪問者」のいる世界に慣れるしかないかなあという感じになっていく。
 ドンパチなし。しかも「訪問者」はなぜだかアメリカのみに降りてくるので、ソ連をはじめ対立国も同盟国も様子見、国連が国際管理にしようと提案するが、アメリカとしては「訪問者」からの科学技術軍事的おこぼれを期待してやっぱり様子見。
 深刻な国際対立は起きそうで起きなかったりする。
 深刻な国内対立も起きそうで起きなかったりする。
 経済は大混乱、政治家は困惑。新聞記者はスクープ求めてはいるが、一方で「侵略」とか「秘密」とか、人々のパニックを起こさせるような、あるいは売るために煽るようなことは行なわず、冷静に、自制的に、倫理的に立ち入る振る舞う。報道者の鑑である。
 一番迷惑なのは宗教家とそれに集まる人々という書き方だが、これもシマックらしい。
 解説に書かれていたが、シマックは長く新聞記者や新聞社での仕事を続けていたから、その時の経験が生きているのだろう。
 シマックの人や生命に対する目線は暖かい。でも、それだけでもない。

 古い作品だが、今読んでも実におもしろい。
 もし、今、現実に同じことが起きたら政府は、軍は、報道者は、そして、人々はどう振る舞うだろう。
 そして、20年ぶりに読み直して、本筋とは直接関係ないが、一番心に残ったのは35章の最後の一文である。
 それは報道官と大統領の会話で、エネルギー危機について脱石油し太陽エネルギーとロスのない貯蔵、分配システムへの投資に理解が得られないことに対し、大統領が、「議員の半分は大エネルギー企業のいいなりだし、あとの半分は、国会議事堂を出たあと、よくぞ家までたどりつけるもんだといいたいほどのあほうども」とくさし、続けて、「そのうちにな、そのうちとはいつなのか、教えようかね。ガソリンが一ガロン五ドルにもなり、配給切符で買えるだけの三ガロンを手に入れるために、並んで何時間も待たなきゃならなくなる時だよ。冬のさなかに暖かくしておくだけの天然ガスが使えないため、寒い思いをするようになる時だよ。電気代をきりつめるために、二十五ワットの電球を使うようになる時だよ…」
 ちなみに解説すると、1980年代から2000年代頃、アメリカのガソリン価格はだいたい1ガロン1ドル前後。そして、2000年代に入ると全般には上昇局面に入る。2009年のリーマンショック直前には1ガロン4ドルあたりまで上昇したがその後2~4ドルで推移。2022年にはロシアのウクライナ侵攻の影響もあり一時、本書で書かれている1ガロン5ドルを地域によっては上回る瞬間があった。もちろん、まだ配給切符はないし、白熱電球は廃れ、25ワットもあればすごく明るいLEDライトが輝く未来に生きているが、シマックの指摘通り、目の前にあるエネルギー危機、気候変動危機については、本当にどうしようもなくなるまで政治も、国際社会も、そして、人々も大きく動かないだろう。でも、それではどうしようもないのだから、変わる、変えるしかないのだけれど。
 20年前は読み飛ばしてきたこの一文のところにひっかかるのは、それだけ自分の中でも事態の深刻さが身に沁みてきたからだろう。

超越の儀式


SPECIAL DELIVERRANCE

クリフォード・D・シマック
1982

 40年ぶりにシマックを読んでいる(気がする)。王道文学的SFの大作家である。当時読んでいたのは「都市」(1952)「中継ステーション」(1963)「子鬼の居留地」(1968)と、私が生まれる前後のSF黄金期の作品群である。だいたい高校時代に読んでいたのだが、その後1970年代終わりから1890年代の作品については大学時代、読みそびれていた。
 80年代は、50、60年代に活躍したベテランSF作家が新たな装いで作品を発表しており、シマックも「ニュー・シマック」となって再注目を集めたのだ。
 本書「超越の儀式」は80年代らしい味付けで、それでいてシマックらしい文学的、幻想小説的作品となっている。
 主人公は中年の大学教授エドワード・ランシング。あるとき学生の一人のレポートが妙に上出来であるのに引用されている論文等が存在しない不思議なできごとが起きた。その学生に問いただすと、ある部屋の中にあるスロットマシンが願いを叶えてくれるのだという。半信半疑ながら、ランシングがそのスロットマシンを回すと、マシンはランシングにある場所を訪問するように促す。そして、気がついたときランシングは別の世界に放り込まれていた。そこに別の世界線を持つ世界から来た将軍、牧師、技師、詩人、ロボットがランシングを待ち受けており、この6人(5人とロボット)のパーティで、放り込まれた世界を冒険することになったのだ。
 あとがきにあるが、当時(1970年代終わりから80年代)、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)がはやり始めていた。まだ家庭用ゲームマシンやパソコンでのRPGが始まる前、「ゲームブック」と呼ばれる複数選択可能な小説がはやり始めていた。RPGはコンピュータゲームとして花開く訳だが、その直前に、紙の本ではやっていたことは実に興味深い話である。
 本作はゲームブックではないが、のちのコンピュータゲーム型のRPGに似て、それぞれの特徴を持つ人たちがチームとなって冒険していく。すでに老境の域にあったシマックが最先端の動向にも敏感であったことに驚く。
 ストーリーとしては、6人の思考や行動が、その出自の世界の世界観によって左右されていること、そして、異世界においては簡単に世界観を裏切られることを、美しくも残酷に描き出す。パーティの出立にはひとつの宿屋があり、宿の主人がいて、そこで食料や道具を調達できる。そして旅する場所で人間をみかけることはない。遺跡のような構造物やかつて賑わっていたであろう都市の残骸、そして、同じように旅したであろうパーティの痕跡があるだけなのだ。そのなかで、世界の謎、自分達がこの世界に送られた謎、求められているタスクを探していく。そんな乾いた風が吹きつけるような灰色の世界をシマックはみごとに書き上げる。
 そのなかでシマックは問いかける。人はどう生きるべきか。
 なんだか先日見た映画「君たちはどう生きるか(The Boy and the Heron)」で宮崎駿監督が言いたかったこととおんなじではないかと感じてしまった。

映画 PERFECT DAYS

PERFECT DAYS

2023

 ヴィム・ヴェンダース監督作品、役所広司主演。カンヌ最優秀男優賞受賞作品。ヴィム・ヴェンダースが撮った日本映画である。「パリ・テキサス」「ベルリン・天使の詩」のヴェンダースである。若い頃憧れた監督の一人である。ちょっと見に行きたくなるよ。
 映画好きの友人もヴェンダースらしい映画だったというので見るべしと思って年末の映画館にいったら満席で私よりも先輩らしいお姉様方が多数いらしていた。「カンヌ」「役所広司」の強さを思い知ったよ。
 いい映画であった。と同時に、ちょっと複雑な感想も持った。
 まず、映画について触れたい。
 ストーリーは平山という渋谷区のトイレを清掃する清掃会社の無口で真面目なベテランスタッフの日常、その一言につきる。浅草近くの安いアパートに一人で暮らし、朝、缶コーヒーを買って、掃除のために必要な様々な道具を積んだ軽ワゴンに乗り込み、スカイツリーが見えたら、70年代頃から集めてきた音楽カセットをかけて首都高で渋谷へ。ていねいに掃除をしては、次へ。昼は近所の神社などで牛乳とサンドイッチ。フィルム式のコンパクトカメラを取り出して、美しい木漏れ日の風景をパチリ。仕事が終わったら銭湯、駅の地下の一杯飲み屋で軽く飲んでごはんを食べて、部屋に戻って古本屋で買った文庫本を読書をしながら寝る。休みの日は本とラジカセ、現像した写真の整理、公園や神社でみつけた自生の木の苗の世話、部屋の掃除と溜まった洗濯と行きつけのスナック。くり返される日常。その日常のなかに起きるささやかなできごと。人とのふれあい、過去との邂逅。「いつかはいつか。いまはいま」。それが彼の生き方。ささやかな笑顔。ささやかな涙。ささやかな怒り。ささやかな日々。
 日本版の映画ポスターには「こんなふうに生きていけたなら」とある。
 人はこんなふうに生きたいのだろうか。

 いい映画である。ヴェンダースらしく音楽を効果的に使っている。ヴェンダースらしく都市の風景も公園もまるでファンタジーのような美しさがある。現実感の感じられない渋谷の姿がそこにある。静かで美しい日本。そうありたい世界。
 そこにいる役所広司は、「ベルリン・天使の詩」の天使役ピーター・フォークそのものだ。もちろん役所広司の「平山」は天使ではない清掃作業員である。きっとこういう人はいるのだろう。役所広司だからかっこよく見えるが日常の中汗水垂らし、ひとりで生き、なんらかの趣味や楽しみを日常の中にみつけて生きる人はいるのだろう。
 無口な平山を演じる役所広司は、わずかな仕草、顔の表情などでその内側の小さな感情のゆらぎを映画を見る者に転写してくる。演じる役所広司と演じさせたヴェンダースのみごとな映像であった。
 最高。

 ここまでが映画の感想。でも、この映画には複雑な心境がつきまとってしまう。
 それは、この映画そのものの成り立ちにも関わってくる。映画では、渋谷区にできた先進的な公共トイレがいくつもでてくる。これは、THE TOKYO TOILET というプロジェクトで整備されたトイレである。日本財団が企画し、渋谷区とともに2020年から2023年にかけて17カ所のトイレを整備。「性別、年齢、障がいを問わず、誰もが快適に使用できる」コンセプトでユニバーサルデザインでのトイレが設置された。このプロジェクトはファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井康治が主導し、電通出身のクリエイター高崎卓馬が関わっており、映画は高崎によってしかけられたと言っても過言ではない。実際、製作は柳井、脚本はヴェンダースと高崎がになっている(製作総指揮は役所)。
 ここで日本財団やユニクロについて論ずるつもりはない。
 ユニバーサルデザインで誰でも使える清潔で安心な公共トイレが設置されることには異論はない。このプロジェクトのトイレについてはいろんな意見があったようだが、性別を問わず安心して使えること、その「性別」には、男性、女性という区分だけではなくLGBTQの性的な多様性も含まれることであれば、そのコンセプトには賛成である。
 ただ、映画を見ていて複雑な気持ちになったのは、現実の渋谷区、いや現実の東京都、日本政府には、そんな優しさが欠けているという気持ちになったからである。
 話を大きくしないように渋谷区に限っていえば、のんびりした宮下公園は「公園」と名の付いたショッピングモールに変わり、ホームレスがかろうじて生活し、炊き出しなども行なわれていた美竹公園や神宮通公園では区が強制排除を進めた経緯がある。ホームレスを排除し、「清潔」なまちづくりでいくら多様性を強調しても、そこにはうわべだけの美化された非人間的、非人道的な「公園」しか残されなくなる。
 日本中あちこちにある「寝っ転がれないベンチ」は、まさにその象徴である。
 美しいけれど醜い現実がここにある
 この美しいプロジェクトで撮られた美しい映画には汚いトイレも、汚いホームレスも出てこない。唯一公園で暮らすホームレスは公園の木に抱きつき大地と交感しながらゆるやかに踊る田中泯なのだ。
 映画では、清掃作業員の平山が泣いていた子供の手を取って公園に出たところで子を探していた母親が平山から子をひったくり、手をウエットティッシュで拭き、礼をも言わずに去って行くシーンがある。そういうあからさまな差別も描かれてはいるが、それさえも平山の「美しさ」を引き立てるだけになっている。

 だから映画を見て思うのだ、この映画の中の世界は、現実にはない、と。
 この映画の中の美しい世界だけを美しいと思う気持ちにだけはなるまい、と。
 美しい映画だけれど、美しさに溺れてはいけない。

映画 オデッセイ

The Martian

2015

 アンディ・ウィアーのSF「火星の人」を原作としてヒットしたリドリー・スコット監督作品である。
 なんども書いているが、私は火星ものに目がない。古くはウェルズの「宇宙戦争」にはじまり、ジョン・カーターの火星を経て、現代に近くなればなるほど火星は身近で現実感あふれる場所になっていっている。嬉しい、楽しい。
 特に1980年代以降、火星はリアルな風景となっていく。
 映画「オデッセイ」は、その原作「火星の人」をみごとに映像化した作品である。もちろん、映画だからご都合主義や突っ込みどころはある。ありますとも。マット・デイモンが演じる火星にたったひとり取り残されたマーク・ワトニー宇宙飛行士は、思いつくだけで4回か5回は死んでいるし、救出時はちょっとどころでなく臭いはずだ。まあ、それを言ったらおしまいよ。万に一つの幸運を積み重ねて生き残る。それがこの映画の醍醐味だから。「火星にたった一人」。
 ちょっと先の未来。それほど先ではない未来。NASAの有人火星探査ミッション「アレス3」は到着早々に想定外に巨大化した砂嵐に巻き込まれミッション中断を決断する。母船への帰還船に戻る途中で主人公のマーク・ワトニーは飛んできた通信アンテナにぶつかり飛ばされてしまう。指揮官は救出を考えるが時間的に無理で死亡と判断しワトニーを残して帰還船で母船に帰り、地球へと向かい始める。
 ところが、ワトニーは大けがを負ったものの生きていた。
 地球に戻るすべはないが、アレス3ミッションの基地は無事であり、残された資材、クルーの私物、食料などをもとに次のミッション到着の4年後までのサバイバルをめざす。
 母船はもちろん、地球との交信手段もなく、ただ単独で生き残るしかない。
 幸いなことにワトニーは植物学者であり、さらに幸運なことに感謝祭用に非加熱ジャガイモが真空パックで残されていた。そして、クルーの排泄物はシュリンクパックされ非加熱で残されていた。植物、腸内細菌、そして植物に必要な栄養素。基礎でありミネラルである土はある。だって惑星だもん。水と酸素は作り出せる。二酸化炭素は十分。残された食料だけでは4年間は生きられない。ワトニーは火星で初の農業をはじめることにした。ジャガイモ栽培である。
 この映画は火星映画であるとともにジャガイモ映画なのだ。
 食料、水、酸素、与圧、エネルギー、そして通信手段、移動手段。ワトニーの孤独な火星生活がはじまった。
 映画にはいろんな楽しみがある。私たちがよく知っているマーズ・パスファインダーが良い仕事をしてくれる。
 重力が地球よりやや小さく、太陽の光も少ないが人工灯火が使えるハウス環境でジャガイモはどう育つか。茎や葉は地球よりもひょろりと垂直に育つと映画では表現されている。これもまたおもしろい。
 小説でも細かくいろんなことがていねいに書かれているが、火星の風景とジャガイモの育て方については映像表現がとても楽しい。
 小説を読んで映画を見るのがおすすめだけど、映画をみておもしろいなあと思ったら、ぜひ小説も読んで欲しい。

 どうして赤い星は私をこんなに引きつけ、饒舌にさせるのだろう。

タイム・マシン


THE TIME MACHINE

H・G・ウェルズ
1895

 近代SFの祖といえば、ジュール・ヴェルヌとH・G・ウェルズ。古典SFとも言われるが、サイエンス・フィクション、空想科学小説を小説ジャンルとして確立、位置づけたのがこのふたりであることは間違いない。
 先般、スティーヴン・バクスターの「タイム・シップ」を読んだ。「タイム・マシン」の続編として書かれた作品だが、この「タイム・シップ」を読む上で前提として「タイム・マシン」を読んだのだが、このウェルズの作品は短編集に収められており、短編集として紹介したいなあという野望を描いたのである。
 ところで、わが家には、「タイム・マシン」が収録されている文庫本が3冊あった。
 創元推理文庫の「ウェルズSF傑作集1」(阿部知二訳、1965年)
 角川文庫の「タイム・マシン」(石川年訳、1966年)
 旺文社文庫の「タイム・マシン」(橋本槇矩訳、1978年)
 である。収録されている作品はそれぞれの短編集で異なるし、訳にもそれぞれ特徴がある。この3冊に収録されている作品は
 創元「堀についたドア」「奇跡をおこせる男」「ダイヤモンド製造家」「イーピヨルニスの島」「水晶の卵」「タイム・マシン」
 角川「タイム・マシン」「盗まれた細菌」「深海潜航」「新神経促進剤」「みにくい原始人」「奇跡を起こせた男」「くぐり戸」
 旺文社「タイム・マシン」「水晶の卵」「深海にて」「新加速剤」「円錐蓋」「奇跡を起した男」「ザ・スター」
 このほかにも手元には創元の「傑作集2」、サンリオSF文庫の「ザ・ベスト・オブ・H・G・ウエルズ」があって、まとめて整理して読めるのか、自分でも自信がない。

 とりあえずこの3冊とウエブ上にあるプロジェクト杉田玄白の「タイム・マシン」(山形浩生、2003年)を読んで感想を書こうと思う。
 なんで同じ作品を4種類も読んだのか、それは翻訳が違うと作品の印象が違うからである。訳としては新しい山形訳が用語の使い方などで問題ないのだが、80万2000年が2800年と単純ミスがあったりするので注意が必要だ。文庫版の方は、差別表現があるので、その書かれた時代背景、訳された時代背景を把握した上で読んで欲しい。
 オリジナルが書かれたのは19世紀末のイギリスであり、ウェルズもまた19世紀末の人間である。また、文庫版翻訳の3訳者が半世紀前に翻訳したものでもある。それ故、いまならば使わない表現、差別的表現や用語が含まれるのだ。近年はインターネットとSNSの普及により情報の集約、拡散も早く、このような過去の社会状況や作品が現代の価値の俎上では当然批判対象になる。それは必要なことであるが、同時に作品がもつ様々な価値の否定につながらないようにしなければ、とも思う。その点で新訳が出されることは大変ありがたいことだ。
 もちろん新訳を出す上で、原著の現在では禁忌となる単語や文章表現をいたずらに改編していいわけではなく、それが作品上必要であれば注釈をつけて残しておくことも必要である。
 映像作品や漫画などでは一部で行なわれているが、過去作品を原著のまま再公開・再刊するに際し、例えば差別的表現が残っていることについてあらかじめ注釈と警告を入れておくという方法は有効だと思う。

 さて、作品の話。130年前に書かれた、タイムトラベルの最初の作品である
 舞台は現代(1895年当時)のイギリス。主人公は筆者が仮に「時間旅行者/時間旅行家・タイムトラヴェラー」と名付けた発明家の男。彼は時間と空間の秘密を解き明かし、タイムマシンを完成させた。そして、自ら未来に向けて旅立った。彼は戻ってきて、驚くべき話を皆の前に披露しはじめた。彼は80万2000年後の未来に辿り着き、そこで人類が知的能力をほぼ失ったふたつの種族に分かれていることを知る。おそらく支配階級の末裔であろう地上に住み、ただ美しく享楽の暮らしをするエロイ族と、おそらく労働者階級の末裔であろう地下に住み、灯りを嫌い、本能的に機械を整備する能力を持つモーロック族である。エロイ族とともに過ごしウィーナと名付けたエロイ族の女性と暮らした日々は長く続かず、モーロック族との争いの末にウィーナを失った彼は混乱のままに80万2000年後の世界を離れ、さらなる未来を突き進んだ。やがて地球から人類のような種族は消え、太陽もまた姿を変えていった。そして彼は時間を戻りはじめ、研究室に戻り、そしてすべてのいきさつを皆の前で話をしていたのである。証拠は奇妙な白い花がふたつ。
 そして彼はふたたび旅立ち、3年間待ち続けたがいまだに戻ってはきていない。

 作品は当時の科学技術の急速な発展を背景にした進取の気風にあふれていると同時に、資本主義の本質を解き明かしたマルクスの「資本論」を背景にした未来図を描いている。
 19世紀の終わり、それはまだ電気の時代でもエンジンの時代でもない。蒸気機関が実用化され主流を占めていた時代。そして電気とガソリンの時代が幕を開けようとしていた時代である。移動手段は蒸気機関車はあるが主流は馬車であり、灯りはランプが主流の時代である。科学と技術と社会と生き方の変化がまさに激しく起こっていた時代に「タイム・マシン」は書かれたのだ。

 ウェルズは、時間旅行という概念をおとぎ話から実現可能性を感じさせる空想科学に昇格させた、ある意味で「発明」したのである。この衝撃的な発明は、その後のSFに花開き、あまたの作品を生み出すことになる。それに伴い、思考も深まり、タイムパラドックスや多元宇宙論、量子論など、現実における科学の進展と相互作用しながらより高度な作品群が生まれ続けている。
 21世紀の現在、この作品を読めば、突っ込みどころは山ほどあるが、そういう時代背景を知り、学び、文学における知の集積と時代という制約を考える上で、この作品は決して捨て去ることのできない古典中の古典であると思う。

 他のウェルズの著作についても、あるいはその背景にあるウェルズの思想や思考についても語ることは山ほどある(だろう)が、今の私としてはここまでとしたい。

 それにしても、タイムマシン100周年記念として1995年に発表されたスティーヴン・バクスターの「タイム・シップ」はやはり名作であろう。こちらも必読としてお勧めしたい。