消えたサンフランシスコ

PRISONERS OF ARIONN

ブライアン・ハーバート
1987

 海外SFを読んでいると、ごくたまに、「これはSFなのか?」とか、「どういう気持ちで読めばいいんだろうか」と読み進めながら頭にクエスチョンマークが次々と出てくる作品がある。たいていがシリアスなドラマ展開なのだが、たとえば前提となっている宗教観の違いとかそれに伴う知識の違いが背景にあって、突然天使が出てきたり、亡霊が出てきたりすると、笑ってよいのか、比喩なのか、「天使」や「亡霊」がなんらかの科学(疑似科学)的な背景を持っていてシリアスなドラマに組み込まれていくのか、分からなかったりするからだ。
 これがP・K・ディックの作品ならば、ドラマの整合性に破綻があっても展開が変でも、それ自体がディック的世界を表現してしまい、その「目に見える現象」と「真の世界の実相」との間で揺れ動く登場人物を受け入れることができるのだが、これはひとえにディックという「作者への信用=ブランド」があってのことなのだ。ディックは生涯をかけてこの世界を書き続けてきたのだからよいのだ。
 でも、ごく普通の思考を持つ作家が真面目にディック的な世界を書き上げようとすると、「目に見える現象」の異様さだけが表に出てきてしまい、いったい作者は何を書きたかったのかさえも分からなくなってしまう。

 さて、前置きはともかく、本書「消えたサンフランシスコ」はブライアン・ハーバートの著作の中でもっとも早く翻訳された作品である。原題は「アリオンの囚人たち」ということで、ストーリーは科学的に発達したアリオン星系の大学生グループが地球のサンフランシスコを含むあるエリアをそっくりそのまま球形に地球からえぐり出し、ドームにしてアリオン星系へ連れ出してしまうところからはじまる。このパターン、すなわち知的生命体の住む惑星の一部をドーム型の宇宙船にして移動するというやつは1950年代からのSFにはなんども出てくる設定であり、宇宙人に生活空間そのままとらわれて連れ去られるというのもよくあるパターンである。
 一夜にして地球から離れてしまったサンフランシスコの人たち、域外には出ることも通信することもできず、アリオン人による「通常通りの生活ができるから、通常通りの生活をするように」という声明のみで、不安はあっても通常通りに暮らすしかない状況に置かれてしまう。
 そうなると非常事態の政治体制の確立や残された軍組織等によるアリオン人との対決や地球に戻る方法の模索など様々な事態の展開が考えられる。またアリオン人側も、学生グループが許可を得て行なった行為ではないためいくつかの問題を抱えており、そういう展開も考えられる。
 しかし、ブライアン・ハーバートは違うね。主人公は苦労の多い家族の中でなんとか家族をまとめたいと奮闘する少女、元軍人で配達員を掛け持ちしながら家計を守る父、精神を病んだ詩人の母、母を嫌うぐうたらな兄、手のかかる下の弟と妹。騒動が起きたその日に父を訪ねてきた異母兄。さらに別に暮らす父の祖父母も主要登場人物で、祖父は主人公の少女に優しく、祖母は厳格な市議であり後の代理市長、彼女が母を精神的に追い詰めたひとりでもある。そんな家族の日々の惨憺たる物語が延々と繰り広げられる。その背景に地球を離れアリオン星系へと向かうドーム型のサンフランシスコ周辺という状況が存在するのだ。もちろん、無関係ではあり得ない。だいいち祖母はこの混乱の中で代理市長の座を務め、対策の中心人物になるのである。しかものちにぐうたらな兄も重要な役割を占める。
 さらにはこの家族が生み出してきたクローゼットに住む南北戦争の南軍の将軍でいまは巨大な蚤の姿をした亡霊の存在もある。
 なんだろう。家族の物語であることは間違いないのだけれど。

 訳者は関口幸男氏。関口氏が翻訳を希望したのか、ハヤカワ書房が作品に目をつけたのか。もしかしたら父のフランク・ハーバートが「デューン」シリーズの完結をみずに1986年に亡くなってしまい、その翌年に発表された息子のブライアンの作品をいち早く出すことでちょっとした売上を目指したのか、それとも、すごい名作だと誰かが思ったのか。

 私にとって長年の課題図書でもあった本書、最後まで読み通して、大森望さんの解説を読んでほのぼのとした。解説というお仕事は大変なのだなあ。なんといっても、「売れる」ように作品を紹介しなければならない。もちろん、どんな作品にも良い点もあれば悪い点もあるだろう。だからといって悪いところばかり書き連ねては「売れる」解説にはならない。だから買って読んでみようという気持ちにさせなければならない。
 すこしだけ解説を引用しよう。
「本書は前代未聞のサイエンス・フィクションである。あなたが海千山千のSFマニアであればあるほど、この本に対する驚きは大きくなるだろう。中途半端なマニアであれば、驚愕のあまり本を燃えるゴミの日に出してしまうかもしれない。このショックを減殺するような真似はなるべくならしたくないが、疑り深い読者もいるだろうし、中身にいっさい触れないわけにもいかないから、この解説の後半部では、本書の革命的価値について言及することとなる」
 言い得て妙である。

 いまはブライアン・ハーバートといえば、父の名作シリーズ「デューン」を終わらせるべく、前日譚、後日譚を共著で書き記している(惜しむらくは後日譚は翻訳の予定すらなさそうであるが)。しかも、ドゥニ・ビルヌーブ監督作品の映画「デューン」では製作総指揮にも名前を連ねており、SF界には欠かせないひとりでもある。
 だから年を取ってから読んで良かった。もし若い頃だったら私も…。

タイム・シップ

THE TIME SHIPS

スティーヴン・バクスター
1995

 H・G・ウェルズが1895年に発表した「タイム・マシン」の続編である。「タイム・マシン」は日本でも古くから翻訳されており、たくさんの訳者がそれぞれの言葉を紡いでこの物語を伝えている。時間旅行SFの古典中の古典であり、元祖といってもよい。すでにパブリックドメインになっているので青空文庫などでも読める。まず、オリジナルを読んでから、本書「タイム・シップ」を読もうかのう。
 19世紀の小説である「タイム・マシン」では主人公は80万年後の世界を訪れ、そこで人類の末裔の姿を知り、一時的に暮らした後、さらなる未来の地球と人類の姿を確認してから元いた19世紀末のイギリスに戻り、そしてふたたび旅立つ。そこまでの物語である。

 その後の時間旅行者(タイムトラベラー)はどうなったのであろうか。

 20世紀、ウェルズが明確に存在させたタイムマシンは時代の進歩、科学の進歩、文学の進歩とともに花開き、様々な小説、映画、コミックなどとして、子供向けから大人向け、玄人向けまで無数の作品を生み出してきた。時間、空間の概念や理論が深まるにつれ、時間旅行におけるパラドクスがテーマとなり、パラドクス回避のための架空理論から、多元宇宙、並行宇宙論まで議論は深まり、登場する作品も様々な展開を見せるようになる。
 また、時間旅行というシステムを廃し、そもそもから歴史を改編する、「もうひとつの歴史」というジャンルも生まれておりこれもまた「タイム・マシン」の甥や姪といったところかも知れない。

「タイム・マシン」刊行から100年後、それら1世紀にわたる蓄積を経て、本書「タイム・シップ」では、時間旅行者がふたたび旅立つそのシーンから物語が再開するのだ。
 作者はスティーヴン・バクスター。イギリスの正統なハードSF作家であり、緻密に話を膨らませるのが大の得意とする、続編執筆にうってつけの人物である。
 おもしろくならない訳がない。

 バクスターは、タイム・パラドクスをもっとも分かりやすく多世界解釈で整理した。つまりある時点での選択は別の世界の分岐点となるというあれである。そしてタイム・マシンは世界の分岐を生み出す装置として解釈した。
 主人公の時間旅行者は、ふたたび未来をめざすが、そこに前回行ったはずの80万年後の未来は存在していない。すでに分岐は行なわれたのだ。その新たな未来で旅の連れとなった未来種族のネボジプフェルとともに、過去、19世紀という現在、遠い過去、遠い未来、はるかな世界に旅をすることになる。ひとたびタイム・マシンを動かすごとに世界はさらなる分岐をするのだからストーリーは複雑さを増していくのだが、希代のストーリーテーラーでもあるバクスターに破綻の心配はない。ぐいぐいと読ませていく。
 しかも、主人公は19世紀の人間である。まだ第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、あたりまえだが核兵器もない時代の人間である。飛行機だってまだだ。医療技術も、生物学から物理学まで、その理解もまだだ。そんな19世紀の価値観、知識が前提の主人公である。ネボジプフェルがそれを補う未来の知識を持っているのだが、人類とは遠く離れてしまった人類の末裔でもあり、相互の精神的理解はなかなか果たされることはない。価値観が違いすぎるのである。
 この19世紀の価値観と、バクスターが生み出した未来人の価値観、それぞれの科学的、あるいは、SF的理解こそが、本書をおもしろくしてくれる。
 なにせ主人公は明かりが必要になればマッチを擦ることぐらいしか思いつかない存在なのである。そこに、多元宇宙論とか量子論とか言われても、だ。
 しかも、ここだけはネタばらしになってしまうが、途中から、別の時間線のドイツと果てしない戦争をしていてタイム・マシンを開発しているイギリス軍の軍人というのが登場してきて話がさらにややこしくなる。
 最後は、バクスターならではの究極の世界改変である。すごいよ。ほんとすごいよ。
 最後まで、主人公の19世紀人時間旅行者は、19世紀人のままであるのだけれど、だからこそその目から見る世界の変化は実におもしろいよ。
 日本で翻訳されているバクスターといえば「ジーリー・シリーズ」だが宇宙の究極の姿が描かれていてわくわくする。本作はそのバクスターが人類を基軸にした変奏曲といってもよいと思う。もっと早く読めばよかったよ。
 もちろん、原作「タイム・マシン」の伏線回収もちゃんと用意されている。
 原作者H・G・ウェルズへの敬意あふれる一作。
 
 そうそう、原題は THE TIME SHIPS で複数形となっている。ここが肝心。

銀河帝国を継ぐ者

A CONFUSION OF PRINCES

ガース・ニクス
2012

「選ばれた少年」が軍隊や政治機構の中で様々なミッションや事件の中で人々と出会い、昇進し、人間的にも成長する。ひとつの物語のパターンであり、ミリタリーSFなどでもよく見る光景である。
 原題は「プリンスたちの混乱」、邦題は「銀河帝国を継ぐ者」。タイトルからしても主人公がどんな目に合うのかなんとなく想像つくので、ある意味安心して読み進められる。
 ほっとするきれいな作品であった。

 遙かな未来、人類は銀河系に広がった。1700万の星系、何千万もの植民星に何兆という人類と非人類の知的生命体が銀河帝国の支配下にあった。銀河帝国は3つの技術の上に成り立っている。メカ技術、バイオ技術、そして、サイコ技術である。帝国には敵もいる。帝国に与しない人類・人類派生種族、異星生命体のサッド・アイやデッダーたちである。絶えず危機にさらされながら帝国の版図を守り、広げていく。そのために、皇帝の下に帝国頭脳中枢があり、1千万人の「プリンス」たちがこの帝国頭脳中枢と常につながりながら、実質的な統治をしていた。そして、プリンスを支えるのが様々な特殊技能を持つ奉仕者(プリースト)たちである。とりわけ暗殺のマスターはプリンスの生命を救う上で重要な存在である。
 プリンスは、サイコ能力などを帝国から見いだされ幼い頃に臣民から選抜されていく。選抜された時点で実の親との関係は完全に途絶する。
 プリンスは、元々の能力の強化に加え、帝国頭脳中枢との常時接続をはじめ様々な人体改造を受けたハイブリッドの支配者として育てられ、教育を受ける。そして16歳になるとプリンス候補から正式なプリンスとして統治の道を歩み始める。あるものは宇宙軍に、あるものは植民星の統治機構に…。
 主人公のケムリは、16歳の誕生日の今日、正式なプリンスになった。その直後から他のプリンスたちに暗殺されかける。プリンスたちは派閥を作り、邪魔なプリンスを殺そうとするのだ。もっとも、プリンスは正統な理由がある限り、帝国頭脳中枢によって再生される。実質的な不死でもあるのだ。しかし、皇帝は20年に1度退位し、別のプリンスたちが皇帝候補となって皇帝に変わる。その時期が迫っていた。
 ケムリは、プリンスになり、銀河帝国の虚実を目の当たりにしていく。秘密の試練を与えられ、戸惑いながらもプリンスとして「上」をめざすために帝国の義務につくしていく。
 しかし、やがて、ケムリは「知的存在」として「人間」として様々なことに気がついていく。プリンスという精神的、身体的、社会的特権が犠牲にすることに気がついていく。

 この作品の背景に流れているのは、社会機構の中での人間性の問題である。学校を卒業し、社会に出た途端、多くの人々は自分が社会機構のひとつの役割を果たすことを求められていることに気がつく。ある者はその機構の中でうまく立ち回ろうとするし、ある者はほどほどに自分の落とし所を考える。ある者は機構の中で支配的立場を目指し、ある者は機構の中でたとえば経済的自由を得ることで機構から自由になったと思い込もうとする、ある者は機構の中に組み込まれていることを考えないように生きる。しかし、社会機構の中で生きている限り、そこには個人としての人間性との矛盾が常に発生する。
 超特権階級であるプリンス・ケムリが成長する過程でそのことに気がつき、それぞれの場面で「選択」する物語である。
 どんな選択をするのか、あなただったらどうするだろう、私だったらどうするだろう。
 とはいえ教訓的、教条的な作品ではない。純粋なエンターテイメントライトノベルでもある。だから若い人に読んで欲しい作品だ。

転位宇宙


THE ATLANTIS WORLD

A・G・リドル
2014

「第二進化」「人類再生戦線」に続く第3部、完結編である。タイトルがいいね。「転位宇宙」原題は「アトランティスの世界」である。
 パンデミックで世界が崩壊しつつあるなか、プエルトリコのアレシポ天文台では残って研究を続けていた天文学者が人工的な信号をキャッチしていた。明らかに異星のの知性体からの信号である。
 ところで、地球はアトランティス人が調査対象にした時点でアトランティス人の技術によって地球内部からも外宇宙からも相互にあらゆる信号が出入りしないように管理されていたのである。なぜどんなに調べても地球外の文明の信号が受信できなかったのか、それはアトランティス人が地球を封鎖していたからなのだ。
 実はすでにアトランティス人の母星は「敵」の攻撃によって破壊されていた。銀河の先史文明であるアトランティス人たちもかなわない「敵」。「敵」はアトランティス人に関わるすべての知的種族を滅ぼしに来る。やがては地球にも。そして「信号」は罠に違いなかった…。
 さて、ケイトとデヴィッドの地球人は地球人として生きていこうチームと地球人を制圧して闘う存在に仕立て上げたいイマリグループ・ドリアンの戦いは泥仕合の様相を呈していた。再生したアトランティス人の軍人、ケイトの中の過去の記憶、実は生きていて人類のひとりとしてケイトたちの近くにいたアトランティス人の研究者、それぞれの思惑が人類の危機を前に錯綜する。
 さあ、地球を離れ、飛び出し、アトランティス人と地球人の危機をなんとか救おうじゃないか。ここまで大変だった地球人、そろそろ物語も大団円を迎えて良いじゃないか。ここまで読んできたのだから。
 やっと冒険SFらしくなってきやがったぜ。主人公は変わらないけれど、なんだかずいぶん立場や考え方が変わったような気もするが、それが人生というもんだ。

人類再生戦線


THE ATLANTIS PLAGUE

A・G・リドル
2013

「第二進化」に続く3部作の第2部。原題は、ん?「アトランティスのペスト(疫病)」。まあぶっちゃけるが「第二進化」でストーリーの後半の中心であった敵の「人類にパンデミックばらまいておおむね殺しちゃえ、でもって生き残ったやつは進化するぜ」作戦はみごとに発動してしまうのだった。すまん、ネタバレだ。まあだいたいのところ分かっているから気にすんな。
 あともうひとつ。アトランティス人とは人間とそっくりだけど人類ではなくて高度な文明を持つ異星人だった。アトランティス人が7万年前に人類を滅亡から救い人類の進化を結果的に助けてしまったのだ。
 さて、人類は侵略の危機にあるからそれに対抗するためには人類を強制進化させなければいけないと考え、そのために多くの人を急速に死を招く疫病をまきちらしたイマリとリーダーのドリアン。パンデミックによる混乱に乗じて世界征服にも乗り出した。
 一方、なんとか疫病を食い止めたいと研究を続けるケイトと、ケイトのために命を張るデヴィッドの主人公チーム。情勢は刻々と悪化するなかでケイトは自らの秘密を知り、デヴィッドは死んだり生き返ったりしながら、徐々に真相に近づいていく。
 ケイトは自らの記憶の中に数万年前のアトランティス人の記憶が存在しており、それが徐々にケイトを蝕んでいくことを自覚していたが、その記憶の中に疫病を治療し、人類の生存の道があるのではないかと記憶の中に入っていくのだった。ケイト命のデヴィッドはそんなケイトをなんとか助けたいと思うのだが…。
 世界を着実に征服下に置きはじめたイマリと、イマリの思うとおりにはさせまいとする人たちの戦い、アトランティス人と人類の間の真実、数万年に渡って存在してきたアトランティス人の探査船の中の様々な装置…。
 果たしてアトランティス人は人類の支配者なのか、殺戮者なのか、救世主なのか、それとも…。
 まったくの続編である。というより大長編の第2部なので、ここだけ読んでもあんまりな感じがする。間違って本書を手に取ったら、ページを開かず第1部の「第二進化」を読むべし。本書までくるとちょっとアクションが派手になっていく。ちょっと人間離れしてくると言ってもいい。でも舞台は地球だ。いいか、みんな、舞台は「まだ」地球なのだ。
 刮目して第3部を読むべし。

第二進化


THE ATLANTIS GENE

A・G・リドル
2013

 原題「アトランティス遺伝子」の名の通り、プラトンが記述した「アトランティス」をモチーフにした作品である。アトランティス(アトランティス大陸、アトランティス島)は、ジューヌ・ヴェルヌをはじめ多くの小説、言説、オカルト、疑似科学などで取り上げられている。楽しく遊んでいる範囲ではいいのだが、「ほんとうの歴史」「隠された真実」のような反知性主義の象徴的存在にもなっているので、アトランティスをモチーフにしている作品にはどうしても警戒感がある。とはいえ3部作まで翻訳されているのだし、ハヤカワさんが文庫SFに並べるのだからそこは信頼して読むことにした。釣り書きには「全米100万部突破」とあるが、日本での100万部とアメリカでの100万部ではずいぶん意味が違ってくるよなあ、と、読む前から眉につばをつけてしまいそうになる。

 さて内容だが、多発する多国籍テロリズムに対抗するため、世界規模での対テロリズム組織が秘密裏に構築されていた。各国の限られた要人などにしか知られていないその組織の名はクロックタワー。デヴィッド・ヴェイルはそのインドネシア・ジャカルタの支局長である。いま、クロックタワーは謎の組織から攻撃を受けていた。しかも、クロックタワーのメンバーに謎の組織は浸透しており、クロックタワーの組織そのものが謎の組織に乗っ取られようとしている。ヴェイルは早々にその危険を察知したが、敵の動きは速く、ただ逃げるしかなかった。
 一方、ケイト・ワーナーはインドネシアで自閉症研究センターの主任研究員として症状を持つ子供たちを被験者とした研究を続けていたが、謎の組織に被験者のふたりの子供をさらわれ、逆に警察に嫌疑をかけられてしまう。
 やがてデヴィッドによってケイトは救出されるが、それがふたりの長い果てしない物語のはじまりであった。
 南極ではナチス時代に一度発見された巨大な構造物が再発見され、突入がもくろまれていた。
 チベットではケイトの元から誘拐された子供たちを含め、多くの人たちがベルと呼ばれる装置にかけられ命を削っていた。生き残ったのはふたりの子供たち。それは「アトランティス遺伝子」が活性化したせいではないかと謎の組織は考えた。いったいキャサリンはどんな治療を行なったのか?
 クロックタワーを襲った組織、子供たちを誘拐し、南極での構造物調査を行なっていた組織、それこそが世界規模での民間警備(軍事)会社を経営し、様々な多国籍事業を行なっているイマリグループであった。その代表のドリアン・スローンがすべての中心にいたのである。
 そして、ドリアンは今まさに「人類を救うため」という名目で感染症による人類の大量虐殺をもくろんでいるのだった。それは生き残った者の「アトランティス遺伝子」を活性化させ、人類をもう一段進化させるとドリアンは考えていた。

 デヴィッドとケイトは様々な危機に遭遇しながら少しずつその謎に近づいていく。果たしてドリアンの陰謀は止められるのか。
 南極にある構造物とはなにか? 人類の隠された真実の歴史とは。
 アトランティスとはいったいなんだったのか? さらに約7万年前に起きたとされる大規模噴火による気候変動(寒冷化)と人類絶滅の危機、いわゆるトバ事変をどうやって人類は乗り越えたのか、いまその秘密が明らかになる!
 ということで、アクションと謎解きの第一部である。
 2013年の物語を軸に、数万年前、1万年前、1917年、1938年、1985年と過去と現在が錯綜しながら人類とアトランティス遺伝子の秘密が明らかになっていく。

 SFではある。パンデミック、人類の進化の秘密、歴史の背景にある秘密組織の存在…。サスペンス要素たっぷりだが、疑似歴史や疑似科学、陰謀説、陰謀論など、ネット時代に表面化した「それを真実と思い込む人たちと、そういう人たちを利用する人たち」とは一線を画そうという抑制的努力は感じる。それでぎりぎり読める作品に仕上がっている。そういう危なっかしさは感じるのだが、そのあたりが作品の魅力でもあるのだろう。
 少なくともデヴィッドとケイトはそれぞれに特殊能力的なものは持っているが、ある意味でごく普通の人として描かれており、主人公に権力志向がないことも、この作品のバランスの良さだと思う。
 すでに3部作は完結しているので、話はここまで。
 第2部、第3部は主人公は変わらないもののおもいっきりぶっとんでいくので、第1部を読んだならこの先まで読むことを強くお勧めしたい。

最終人類


THE LAST HUMAN

ザック・ジョーダン
2020

 読み始めて真っ先に思ったのは、シュライクに育てられている人類の娘、というもの。シュライクは「ハイペリオン」(ダン・シモンズ、1989)に登場する時を超越する殺戮者。真っ黒い外骨格を持つカマキリのような異星生命である。主人公のサーヤは、異星種族のウィドウ類のシェンヤによって育てられている人類の娘。ウィドウ類はシュライクにそっくりなのだ。もちろん、殺戮者ではなく、ネットワークを形成する知的種族のひとつであるが、その闘争本能は強力である。このウィドウ類のシェンヤが人類であることを隠すため希少なスパール類として登録し、守り育っているのがサーヤである。

 読み進めるうちに感じたのは「百億の昼と千億の夜」。光瀬龍が1965年~1966年に雑誌連載し1967年に単行本化されたSF小説である。そして萩尾望都が光瀬作品を原作に1977年~1978年に雑誌連載した同名の漫画作品である。
 本作「最終人類」には「神」は出てこないが、その世界観や雰囲気は萩尾版ときわめて似ていると感じたのだ。生命の躍動と空しさ、仏教用語的には色即是空空即是色のようなことだ。

 読み終わってよくよく思い返してみると、後半に出てくる主人公サーヤの「仲間たち」の構成が「オズの魔法使い」(ライアン・フランク・ボーム、1900)の主人公ドロシーの仲間たちとそっくりだということに気づく。すなわち、ブリキの木こり、臆病なライオン、案山子である。気がついてちょっとほのぼのする。サーヤもドロシーがそうであったように魔法使いではないが高次の存在にだまされたり、裏切られたりしながら選択するしかなかったのだ。

 さて、印象はともかく、作品についてまとめていこう。本作「最終人類」はザック・ジョーダンのデビュー作であり、最終刊行まで4年半、執筆数250万語を経て約13万語の作品として発表されるに至った。
 物語の世界は銀河系のネットワーク世界。10億以上の星系、140万以上の知的種族のほとんどすべてが参加している巨大な社会である。第二階層以上の知性があれば法的人格権が認められ、それ以下であれば法定外の人格となる。それは自然生物、人工物に関わらず、知的レベルのみで判断される。運搬ドローンにも衛生施設にも知性はあるが法定外、というわけだ。そして、この世界で人類はネットワーク世界の許されざる敵であり、遠い昔に絶滅した種族である。
 しかし、人類にも生き残りがいて、主人公のサーヤは自分が人類であることを知っていた。人類だと知られた途端に狩られる存在になることも。そのために、ネットワーク社会の基本であるネットワークに全感覚で入るためのインプラントも入れられず、間接的なコミュニケーションツールでの限定的ネットワーク利用しかできずにいた。知的にも法定人格は認められても最底辺の仕事しか与えられない、そんな未来がすぐそこにあった。仲間を探したい、自由にネットワークにアクセスしたい、人類と名乗りたい、サーヤの思いは募る。
 母であるシェンヤはサーヤを娘として認識し、そのすべてをかけて守ることを本能的に誓っていた。
 やがて事件は起こる。そして人類としてのサーヤが発見され、彼女は生きるための戦いに巻き込まれるが、それは大きな大きな大きな壮大な陰謀の幕開けでもあったのだ。
 このネットワーク社会は、階層社会である。サーヤを含む第二階層の知的存在には第三階層の思考の早さ、深さは想像も付かず、ネットワークでの「みえる」「できる」レベルも格段に異なっている。ましてその上の第四階層、ネットワークそのものは時空への操作も含めてその能力や行動の意味は第二階層にとって想像することさえ難しい。外で走り回る蟻は気にならないが、家の中でうろうろしてきたら殺すか外に出してしまう。その蟻にとっては人間のそういう気まぐれは理解も想像もできないだろう。そういうことだ。
 そして、サーヤはネットワーク宇宙のひとつの役割を負わせられる。報酬は「人類」。

 ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」にも似ているかな。
 好きです、こういう話。でてくる集合知性オブザーバ類にはちょっと閉口するけれど、どこかで似たようなやつ(ら)を見たり読んだりした記憶があるのだけれど、オリジナルがどれか分からないので、これは実際に読んだ人への宿題ということで。

漫画 星の時計のLiddell

漫画 星の時計のLiddell (あるいは遅くなったラブレター)

内田善美
1986

 内田善美の作品と出会ってからもうまもなく40年になる。「星の時計のLiddell」は大学生時代の後半に出会い、その知性と感性に衝撃を受けた。社会に出て右往左往、好き勝手と言えば好き勝手、風まかせと言えば風まかせ、親には「何をしている人と言えばいいのか?」と問われることしばし、それでもそれなりに生きてきたが、辛いとき、判断に迷うとき、喪ったとき、支えてくれたのがこの作品である。
 数年ぶりにページをゆっくりとめくり、そこに1980年代の未来への希望と絶望のないまぜになった世界のありようと「予感」をあらためて見つけ、いまの自分の立ち位置と、ここからの未来と過去の光円錐を思い描くことができた。
 歳を重ねてよいことは、老眼も進み、ゆっくり、じっくり絵を見つめ、ページをめくるようになったことだ。若い頃は絵は全体で把握し、言葉を流し、読みながら、その世界に入り込みつつも自分の頭の中の思考を転がすのに忙しかった気がする。性格的なものだろう。一枚一枚の絵に描かれた風景、情景、表情、動き。絵と絵の間の動き、言葉の間、そういうものを気にするようになった。そうすることで物語にさらなる深みが増し、心に満ちていく気がする。そして気がつく。まだまだこの作品を読めていない、と。

 さて、絶盤になり、再版の見通しもない作品故、ネットではあらすじが紹介され、おおまかなことは書かれている。一言で言えば、幽霊になった男と、幽霊になった友が幽霊になるまでを見つめる、心に穴の空いた男の話である。舞台は1980年代初頭。レーガンが暗殺されかけ、スペースシャトルが2回目のフライトを行なうそんな時代。風と湖の町シカゴにユーリ・ウラジーミルが2年ぶりに帰ってくる。親友のヒューと再会し、ヒューが時折睡眠中に呼吸も心臓も動いていないことに気がつく。ヒューは夢を見ているだけだという。古いヴィクトリアンハウスとそこにいる少女、金木犀、バラ園。ヒューの「夢」が気がかりになり調べ始めるユーリ。シカゴで少し変わった知的なグループと出会い、彼らとの会話をくり返す。人間のありよう、世界のありよう、この先の未来と人類のありよう。人口増加、戦争、自然破壊、人間の欲望と適応能力、不安と悲しみ。それはユーリの探している答えの方向ではなかったが、にいくつもの示唆を与えてくれる。やがてヒューは「夢」の「家」を探して全米を旅することを決める。ユーリは黙ってそれに同行する。ふたりの旅がはじまる。そして「家」が見つかり…。
 帝政ロシアの時代にロシアを離れた旧ロシア貴族の孫であるユーリは、心の中に「存在しないロシアという故郷」をはじめから喪っていた。喪失感だけをかかえて生きていた。人と深く関わらず、心の赴くまま、知的好奇心のままに世界を旅して生きてきたユーリが、はじめて深く人と関わり、友としたヒュー。ユーリにはヒューの心の動き、ありようはずっと分からずにいた。それ故にユーリはヒューに惹かれたのだろうか。ヒューが見ていた先、それは時空のはるか遠くにあったのだ。

 21世紀、人口まもなく80億人のいまとなって読めば、いくつかの内容的な粗も出てくる。たとえば日本語ネイティブの脳と非日本語ネイティブの脳では音の捉え方が違うとかいう記述はあるが、確かに80年代にはそういう学者がいたし、ブームがあった。作者がそれを採用したとしても何も問題はないだろう。
 一方で、後半に向かって示唆される人類と地球の行き詰まり感についての登場人物の議論は形而上的ではあるが今日においても必要な議論だと思う。当時から言われたことだが、40年経って、この作者の問いかけはますます重要だ。
 もちろん、本作はファンタジーである。なにより登場人物が幽霊になるのだから。それでも時代を反映し、先読みし、希望と絶望を内に秘めながらも、一枚一枚の絵に込められた思いと願いの美しさは深く心を打つ。

 物語の最後の方で、この「家」ヴィクトリアンハウスに暮らしていた老婦人が初対面のユーリ対し「この世のものの美しさをみんな愛することができた私どものために…、私どもはこの世のものでないものさえも愛することができました。あなたは父の幸福な生涯を真に幸福なものにしてくださいましたわ。父はあなたにお会いできたのですもの」と語る。
 家が見せてくれた美しい夢=幽霊と、その幽霊が待ち望んでいたウラジーミルの訪問。こうして夢は結実する。
 私は、この老婦人の台詞を内田善美に対して言いたい。もちろん、この作品だけがすべてではないが、この作品があったからこそ、私は私の内側の醜さを自覚し、世界を美しく見るための目を養い、これまで心折れずに生きてこれたのだと。自分が幸福であるための鍵のようなものがこの作品の中に込められていたのだと。

 40年近く遅くなったけれども、内田善美氏と、内田善美作品を教えてくれた友人には感謝しても感謝しきれない。ありがとう。私が死ぬまでずっと感謝しています。

カテゴリー:

量子魔術師

THE QUANTUM MAGICIAN

デレク・クンスケン
2018

 超未来を舞台にした「ミッション・インポシブル」だ!
 ワームホールで拡がった人類世界。人類よりはるか以前に宇宙にワームホールネットワークを築いた先駆者たちがいた。人類世界はこのワームホールを利用し、版図を広げていた。ワームホールを持つ政治体制をパトロン(国家)、それを利用するだけの政治体制をクライアント(国家)と呼び、その力関係は絶対的である。
 出自たる地球の政治体制、経済体制の延長上に世界は組み上がり、拡がっていた。
 そんな世界で、新人類ホモ・クアントゥスのベリサリウス・アルホーナは、サブ=サハラ同盟のアイェン・エカンジカ少佐を通じて仕事の依頼を受けることになった。それは絶対に不可能な仕事であり、政体を相手にした軍事的詐欺行為である。ベリサリウスは、この仕事を成功させるために人類とその親族ともいえる複数の改変された新人類種族のプロを集めて「しかけ」にかかるのだ。

 ことのおこりはこうだ。40年前、パトロン国家の金星コングリゲートがクライアント国家のサブ=サハラ同盟に対し、中華王国領への武装偵察ミッションを指示した。その生還は想定されておらず、言ってしまえば大国間のちょっかいのかけあいでしかなかった。
 そのサブ=サハラ同盟の第六次遠征隊は作戦中に新たな宇宙航行機構技術を見いだし、深宇宙に隠れて新ドライブ機構を設計、戦闘船団に搭載した。このドライブ機構があればコングリゲートから独立することが可能になる。そこで第六次遠征隊はサブ=サハラ同盟に秘密裏に戻るため、パペット神政国家連盟のパペット・ワームホールを通過しようとしたが、パペット神政国家連盟側は、その戦闘船団の半分を通過費用として要求したため、第六次遠征隊は詐欺師のベリサリウスにそれなりの報酬をみせてうまく通過させるための詐欺的仕事を依頼したのである。
 この難題を引き受けたベリサリウスは自身とエカンジカ少佐を含め9人のチームを組むことにした。
 彼らを紹介しよう。
 まず、登場する新人類は3種族。

 ホモ・クアントゥスは、アングロ=スパニッシュ金権国にある銀行の計画により生み出された新人類。超天才的な数学能力をもち、一時的に自己を量子知性体に変容させる量子フーガと呼ぶ能力を持つ。

 ホモ・エリダヌスは、自らをモングレル(雑種)族と称し、水圧の高い深海でしか生きられない新人類。その特殊能力からコングリゲート航宙軍の準傭兵パイロットとして高度な反射運動能力を発揮する。

 ホモ・ブーバは、通常パペット族と呼ばれる。創造主であるヌーメンを崇拝するように生化学的につくられた奴隷種族であり、ヌーメンによる人類の最悪の犯罪の結果である。ヌーメンは奴隷種族を恐れ、ミニチュアサイズの新人類としてパペットを設計した。パペット属はヌーメンなしには生きられないが、反乱を起こし、ヌーメンを支配下に置き、パペット神政国家連盟となった。なお、ヌーメン自体はパペット族が感応するフェロモンを出すほかはオリジナルの人類と変わらない。

ベリサリウス・アルホーナ 新人類ホモ・クアントゥス、詐欺師。量子フーガ状態を持続できずクアントゥスとしては能力が不安定。他の同属よりも社会性を持つ故に故郷を離れ、ひとり暮らしていた。

カサンドラ・メヒア ホモ・クアントゥス。ベリサリウスの幼なじみ。他の同属と同じく計画の拠点である小惑星ギャレットから離れずに暮らしていた。

ウィリアム・ガンダー 人類。65歳ぐらいの詐欺師。ベリサリウスの師匠である。現在犯罪で収監中。治療不能の病気で余命わずか。娘の将来のためにベリサリウスの依頼を引き受ける。

マンフレッド・ゲイツ=15 ホモ・ブーバ。生理的にヌーメンの神格性を認識できないがゆえにパペット世界から追放されて生活しているホモ・ブーバ。

セント・マシュー アレフ級と呼ばれる超一級のAIのひとり(ひとつ)。自律行動可能なロボット態。アングロ=スパニッシュ金権国の銀行が開発したが自らを転生した聖マタイだと考え、業務に使えないため幽閉されていた。ベリサリウスを雇って自らを解放させた過去があり、現在はキリスト教会を運営している。

アントニオ・デル・カサル 違法天才遺伝学者。ギャンブルと金に目のないマッド・サイエンティスト。

ヴィンセント・スティルス ホモ・エリダヌスのトップパイロット。トップの深海ダイヴァーとして他者に勝ち続けている。

マリー・フォーカス コングリゲートの元航宙軍下士官、現在収監中の爆発物のプロ。かつてベリサリウスとともに仕事をした。

 それぞれの能力を発揮し、ミッション・インポシブルを成功に導けるのか、信頼、反目、裏切り、そして、彼らを追うコングリゲートの秘密組織…。二重三重のだまし合い。最後に笑うのは? そして、泣くのは?

 物語の書き出しはこうだ。
「おそらく、ベリサリウス・アルホーナは詐欺の計画と量子世界に類似性を認めたこの世でただ一人の詐欺師だろう」

 ハードSF、サスペンスSF、アクションSF、ミリタリーSF…。ザッツエンターテイメント。取っつき悪そうだけど、おもしろい作品だ。

漫画「プリニウス」

PLINIVS

ヤマザキマリ&とり・みき

 10年全12巻にわたり連載されていた「プリニウス」が完結した。
 プリニウスとは、後のキリスト歴(西暦)79年のヴェスヴィオ火山噴火によるポンペイ壊滅で亡くなったことが知られている古代ローマの博物学者、軍人、政治家であり「博物誌」を記したことで知られるガイウス・プリニウス・セクンドゥスのことである。
 世界史などでその名は知っていたし、澁澤龍彦の「私のプリニウス」など80年代後半にちょっとしたブームにもなっていたが、自然科学と伝承や伝奇がまざった博学の人といった程度の知識しかなかった。
 そこに登場したのが、古代ローマを舞台にあるときはコミカルに、あるときは人間の欲や真理にするどく切り込む漫画家ヤマザキマリと、基本はギャグ漫画家でありつつも時に「はずかしい」作品を発表、希代の映像収集家であり、吹き替え研究家であり、伝奇物語も得意とする異能の漫画家とり・みきの共作による漫画「プリニウス」である。
「博物誌」を編纂するために世界の万物事象を収集するプリニウスと同時代の「暴君」ネロを中心に、さまざまな人物が登場する。プリニウスの周辺にはプリニウスが「博物誌」に再録している摩訶不思議な動物、植物、異種族の姿もある。
 本作の「プリニウス」が旅する世界は、「博物誌」の世界であり、ネロを中心とした歴史物語の世界でもある。そのどちらにも虚実がまざりあい、世界の奥深さ、人間の業の深さが描かれる。
 本作はヤマザキマリがとり・みきに声をかけてはじまったそうだが、人物はヤマザキマリ、背景はとり・みきを基本にしつつ、ストーリー、台詞、コマ割りなど時に役割を変わりながらまさしく「合作」として融合した作品となっている。たしかに、細かく見ていけば、ここはとり・みき、ここはヤマザキマリと明らかにタッチが異なったり、得意不得意が出てくる場面はあるが、そもそもとり・みきは若い頃に「○○先生風」漫画を書くなど器用なところがあるのでほんとうのところは分からない。むしろ、「ヤマザキマリ&とり・みき」という複雑な精神を持った作家がいると思って読んだ方が良いかも知れない。

 さて、物語であるが、第1巻の冒頭で79年のクライマックス直前、大噴火が起き地震活動が活発に起きている場面にはじまる。そして一旦暴君ネロの治世に戻り、ポンペイからローマ、アフリカ、中東と旅するプリニウスが描かれる。並行して時の世界の支配者である古代ローマ帝国の若き帝王ネロとローマの姿が対比的に描かれる。ローマから見た世界の周辺でプリニウスと、その筆記者であるエウクレス、護衛のフェリクスの3人の一行はあたかもテレビドラマの水戸黄門一行のような珍道中を続け、半魚人、象、大蛸、古代遺跡、頭部がなく胴に顔のある人種などに出会ったり、出会わなかったりすう。ときにプリニウスはネロに呼びつけられ、空気が悪く自然の少ない大都会ローマに帰っては、持病のぜんそくを悪化させ、ローマの政治、人間関係の業と欲に辟易としてローマを脱出するのである。すべては79年のクライマックスに向かって。物語は、ネロの死をもって一段落し、一度プリニウスの子ども時代、青年期を描いた上で、最後のシーンへと向かう。
 なんということだろう。この物語ははじまったときから最後が決まっていたとも言えるのだ。そう、プリニウスの死に向かってすすむ物語だったのである。
 しかし、その終わり方はいかようにも描ける。
 なんといっても2000年ほど前の歴史なのだから。

 各巻にはふたりの作者の対談が載せられている。ちょっとした種明かしでもあるし、楽屋話でもある。最終巻では、最後のシーンに向かって、ヤマザキマリの中にいるプリニウスととり・みきの中にいるプリニウスの姿がずいぶん違ったことを明らかにしている。そこでも述べられているが、それこそがまさしくプリニウスの多面的な姿の表れでもあったのだろう。フィールドを歩く研究者であり、軍人であり、政治家でもあるのだ。そう聞くと三國志の「曹操」を思い出すが、曹操がまず政治家であり軍人であったのに対し、プリニウスはなにより研究者であり、古代ローマの市民の義務として政治家、軍人であったに過ぎない。ただ万能であっただけである。
 著者らも述べているが、日本で19世紀から20世紀にかけてフィールドを駆け回り、万物を収集せんとした南方熊楠がもっともイメージ的には近いのだろう。ただ、熊楠よりもコミュニケーション能力は高かったようであるが。

 物語に印象的なシーン、台詞はたくさんあるが、最終巻に掲載されているなかでは「17年かけて元通りにしてきたのに」という水道技師の一言のコマが心に残った。
 これはプリニウス一行がこの物語での旅の最初の頃にポンペイの大地震に遭遇するのだが、その地震のあと水道設備を修理するためにローマから派遣された技師の台詞である。
 この一言で、プリニウス一行の旅、すなわちこの物語が17年の長さであったことをあらためて読者に感じさせるとともに、技師として17年かけてようやく完全復興を遂げた新たな水道施設が、最後の大噴火で壊滅を避けられないと悟ったときの絶望の一言でもある。
 本作は啓蒙的な作品ではないが、人間が時の欲のままに自然を破壊し、未知を既知として自然のありさまを蹂躙することについてときおり描いている。同時に、時間の流れが、人間がくみ上げたものをいとも簡単に無に帰すことも描いている。
 そんな人間の相克のようなものを人間サイドに立って語ったのが上記の水道技師の一言である。この台詞に魂が籠もるためには、その間のネロの治世の時代があり、プリニウスの旅の時間が必要だったのである。なんとまあよくできた作品である。

 とり・みきは、いまや幻となったデビュー作以来のファンとして、ほぼすべての単行本を所有し、ときに繰り返し読んでいるが、80年代以降の作品の多様さはもっと注目を集めてもいいと思う。本書にも通じる「石神伝説」は未完であり、どこかの出版社にはあらためて執筆を求めてくれないものだろうか。
 

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