フィルムマラソンの記憶

 広島市タカノ橋商店街にあった、夢売劇場サロンシネマ。1980年代当時、同所にはサロンシネマとタカノ橋日劇のふたつの映画館があり、私が広島を離れた後、1994年にタカノ橋日劇がサロンシネマ2と名称を変えたらしい。2014年には市の繁華街中心部の八丁堀に移転したという。
 だからここからはタカノ橋サロンシネマ1のことを「サロンシネマ」として話を進めることにする。

 映画館がひとつだけしかなかった町から出て、広島に来たとき、まっさきに頭に浮かんだのは「映画見放題」という言葉だった。とにかくたくさん映画を見よう、そう心に決めた。すでに「レンタルビデオ(VHS)」という商売ははじまっていたが、当然のことながら大学1年の頃はテレビもなく、2年以降もテレビはあったもののビデオデッキを持っていたのはごく少数の友人たちだけであった。そんな時代のことだ。
 大学と下宿の間にあって最も近い映画館、それがサロンシネマとその下のフロアのタカノ橋日劇である。先に話をしておくと、タカノ橋日劇は、かなりの頻度で日活ロマンポルノを上映する映画館である。樹木希林が若い頃に出ていた作品とかを流したり、マニアックな「日劇」であった。
 さて、サロンシネマという映画館は独立系で大手のロードショーはほとんどかからず、広島を素通りした作品や過去の名作を、監督や女優、あるいはその時々のテーマ設定に合わせてフィルムを仕入れて上映する「名画座系」映画館である。時には「迷画」も恐れずに上映するとてもよい映画館で、ここで過去の名作・迷作をたくさん見ることができたのはどんな学業よりもいい学びになった。
 よせばいいのにアンドレイ・タルコフスキー特集なんかもやっていて、「ストーカー」と「ノスタルジア」の豪華二本立ては最高によく眠れた。入れ替えがないのでこの2本を2回転、ほぼずーっと一日中サロンシネマにいたってこともあった。
 サロンシネマは、すべての座席がいまのシネコンのプレミアムシートよりもずっと広い革張りでカウンターテーブル付きという超豪華な映画館だったのだ。ビルは古いし、映画館としても正直少しくたびれてはいたが、支配人の映画への愛情に満ちていたのだ。

 そんなサロンシネマの一番のお楽しみが、定期的に開かれる FILM MARATHON(フィルムマラソン/フィルマラ) である。土曜日の夜遅く、21時半の開演を前にわらわらと少しゆるめの過ごしやすい格好をした若者やおじさんが灯りのほとんど消えたタカノ橋商店街に集まってくる。100席のサロンシネマには、時には当日券を求めてやってきて満席と聞き、がっくりとした人に、立ち見でよければいいよ、とささやく声も聞こえたりする(時効だからね)。立ち見と言っても通路に座布団を敷いてくれるので安心だったり。
 そして夜を徹して4本ぐらいの映画を見続けるのである。明け方にはもうろうとなり、現実と非現実の境目が分からなくなったりして…。

 学生時代の4年間を中心にかなりの回数を行ったのだが、何回行ったのかは覚えていない。ただ、先日、実家の片付けをしていたら、当時のパンフレットがいくつか出てきた。
 そう。フィルムマラソンにはパンフレットがついてきたのだ。手書きの、色上質紙に謄写版刷りの同人誌的パンフレットである。最高!
 手元にあるのは1983年の #32から、#33、#36、#37、#42、#43、#51、#54、そして1987年の#64まで9回分である。次回予告なども含まれているのでこの頃、どんなフィルムマラソンがあったのか、それからその当時どんな映画をサロンシネマが上映していたのか紹介しておきたい。個人的な備忘録でもあるのだが。

#32 1983年「SF&ホラー怪作特集」
最後の猿の惑星(1973年、J・リー・トンプスン監督)
ホラーワールド(1979年、リチャード・シッケル監督)
ロッキー・ホラー・ショー(1975年、ジム・シャーマン監督)
大好評予告編大会
?ムービー
ヘビーメタル(1981年、ジェラルド・ポタートン監督)
終了6:30

 はじめてロッキー・ホラー・ショーの洗礼を受けた記念すべき日。早くから来た常連はクラッカーをもらっていて、くだんのシーンでパパパパパン!と。映画は劇場でみんなで見るものだ。?ムービーは、…たぶん フレッシュ・ゴードン(1974年、マイケル・ベンベニステ監督)。「フラッシュ・ゴードン」のパロディポルノ映画。どの作品も最高にくだらない。

#33 1984年1月21日、28日(土)「ヒロイン特集(PART3)」
テス(1979年、ロマン・ポランスキー監督)
グッバイ・ガール(1977年、ハーバート・ロス監督)
インターミッション&好評予告編大会
夢追い(1979年、クロード・ルルーシュ監督)
ローマの休日(1953年、ウイリアム・ワイラー監督)
終了7:30

 ナスターシャ・キンスキー最高!長い長い映画です。オードリィ・ヘップパーン最高!朝5:30からオードリィの洗礼を受けると、最後には涙腺が崩壊します。

#34 1984年3月10日、17日(土)「アカデミー作品賞特集」
アラビアのロレンス(1964年、デビット・リーン監督)
炎のランナー(1981年、ヒュー・ハドソン監督)
わが命つきるとも(1967年、フレッド・ジンネマン監督)
クレイマー・クレイマー(1979年、ロバート・ベントン監督)

 この回は行っていないと思う。ちなみに全席指定券1400円だと。

#36 1984年「ヨーロッパ傑作特集PART2」
1900年(1982年、ベルナルド・ベルトリッチ監督)
インターミッション
Z(1970年、コスタ・ゴブラス監督)
大好評!予告編大会
女の都(1981年、フェデリコ・フェリーニ)
終了7:40

 ロバート・デニーロ、イブ・モンタン、マルチェロ・マストロヤンニの3連発。濃い男たちの濃い映画3本。とくに最初の「1900年」は2部構成5時間の大河ドラマ。
 ちなみに解説を読むと、「PART1」は1983年6月に「天井桟敷の人々」「恋」「ルシアンの青春」「フェリーニのアマルコルド」でやったらしい。

#37 1984年6月2日、9日(土)「ルキノ・ヴスコンティ監督特集」
郵便配達は二度ベルを鳴らす(1941年)
山猫(1963年)
インターミッション
ルードウィヒ―神々の黄昏―(1972年)
毎度おなじみ予告編大会よ!
イノセント(1976年)
終了8:40

 見たんだよなあ、たぶん。記憶にない回だがパンフレットはある。ただ同時期に日中のフェアで「ベニスに死す」「地獄に墜ちた勇者ども」もやっていて、こちらは見た記憶があるので見たのだろう。美しいけど映像がくどいのよ。

#38 1984年7月14日、21日(土)「SF傑作特集」
ダーク・クリスタル(1982年、ジム・ヘンソン監督)
博士の異常な愛情(1963年、スタンリー・キューブリック監督)
ニューヨーク1997(1981年、ジョン・カーペンター監督)
バンデットQ(1981年、テリー・ギリアム監督)
ブレード・ランナー(1982年、リドリー・スコット監督)

 パンフレットはないが、この回は見ている。記憶がはっきりある。やはりSF作品が好きなのだ。ダーク・クリスタルの人形の微妙さ加減にはじまり、暗い気持ちになる2作を経て、楽しい気持ちい切り替え、最後はじっくりとハリソン・フォードとルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングの演技に入り込んだのであった。ブレード・ランナーは公開時に映画館では見ていないので、たぶんこの時が初回。その後何回も何回も見たけれど。

#39 1984年8月18日、25日(土)
ジャスト・ア・ジゴロ
地球に落ちてきた男
ロッキー・ホラー・ショー
冒険者たち(予定)
ミッド・ナイト・エクスプレス(予定)

 こちらは#37のパンフレットに書かれていた予定。見ていないが、日中にデビット・ボウイの2作(ジャスト・ア・ジゴロ、地球に落ちてきた男)は見ている。格好良いよ、ボウイ。

#42 1984年たぶん10月「ベトナム後遺症映画特集」
地獄の黙示録(1980年、フランシス・コッポラ監督)
ランボー(1982年、テッド・コッチェロ監督)
インターミッション・クイズ
ブルーサンダー(1983年、ジョン・バダム監督)
予告編大会
タクシー・ドライバー(1976年、マーチン・スコシージ監督)
終了6:30

 とても印象深い回。正直なところ「ブルーサンダー」の印象が残っていないのだけれど、それだけ他の3作の衝撃が大きかったのだ。監督もすごいが、マーロン・ブランド、シルベスター・スタローン、ロバート・デニーロである。3人が3人ともちょっと狂気のある主人公を演じる。明け方のデニーロは怖いよ。

#43 1984年11月10日、17日(土)「西ドイツ映画傑作特集」
フィツカラルド(1983年、ウェルナー・ヘルツォーク)
ブリキの太鼓(1981年、フォルカー・シュレンドルフ)
インターミッション
マリア・ブラウンの結婚(1980年、ライナー・ファスビンタ監督)
予告編大会だよ!
Uボート(1982年、ウルフガング・ベーターゼン監督)
終了7:50

 まだドイツが統一される前のこと。ドイツは西ドイツと東ドイツに分断されていて、東西冷戦米ソ冷戦の最前線になっていた。ナチスドイツから民主化された西ドイツには深い戦争の傷跡があり、それが新しい文化を生んでいく。2~4作目はすべて戦争映画である。そして冒頭の「フィツカラルド」の衝撃! 映画の内容も衝撃的だが、なんといってもドイツの名優、主演のクラウス・キンスキーの狂気。よくよく見れば、ナスターシャ・キンスキーにはクラウスのおもかげがある。父ちゃんだ。という衝撃。

#44 1984年12月15日、22日(土)「日本映画青春傑作特集」
さらば愛しき大地(柳町光男監督)
パンツの穴(鈴木則文監督)
家族ゲーム(森田芳光監督)
すかんぴんウォーク(大森一樹監督)
竜二(川嶋透監督)

 #43のパンフレットから。洋画館だけどこういうのも遠慮なくやるのがサロンシネマの良いところ。「家族ゲーム」と「竜二」は日中に見た記憶がある。森田監督の松田優作はすごかった。

#45 1985年1月19日、26日(土)「ヒロイン特集PART5」
テス(1980年、ロマン・ポランスキー監督)
アリスの恋(1975年、マーチン・スコシージ監督)
グッバイ・ガール(1978年、ハーバート・ロス監督)
愛と哀しみのボレロ(1981年、クロード・ルルーシュ監督)

 こちらも#43のパンフレットから。「愛と哀しみのボレロ」はとても長い映画だけど、いまでも本気で見る価値のある映画。音の良い環境で見たい。

#51 1985年7月13日、20日(土)「たまらなく好きなのヨ 映画特集」
ナチュラル(1984年、バリー・レヴィンソン監督)
ロマンシング・ストーン秘宝の谷(1984年、ロバート・ゼメキス監督)
インターミッション クイズも好きになってネ!
ハノーバー・ストリート哀愁の街かど(1979年、ピーター・ハイアムズ監督)
予告編大会
追憶(1974年、シドニー・ポラック監督)
終了6:20

 ロバート・レッドフォード作品にはさまれたマイケル・ダグラスと、ハリソン・フォード。この回、結果的には全部バーブラ・ストライサンドが持っていったと思う。

#52 1985年8月16日(金)、17日(土)「東宝アイドル映画特集」
すかんぴんウォーク(大森一樹監督)
みゆき(井筒和幸監督)
夏服のイヴ(西村潔監督)
エル・オー・ヴィ愛NG(升田利雄監督)

 #51パンフレットから。夏休みだねえ。

#53 1985年9月14日、21日(土)「ヒロイン特集PART6(女優賞編)
トッツィ
プレイス・イン・ザ・ハート
(以下から2、3本)
ジュリア/結婚しない女/9時から5時まで/ひまわり
    /愛と喝采の日々/ローズ・グロリアほか

 #51パンフレットから。

#54 1985年12月14日、21日(土)「ホラー!見てごらんPART4SFXファンタジー編」
ヴィデオ・ドローム(1982年、デヴィッド・クローネンバーグ監督)
イレイザー・ヘッド(1977年、デヴィッド・リンチ監督)
インターミッション クイズ
スキャナーズ(1981年、デヴィッド・クローネンバーグ監督)
ファンタスティック・プラネット(1973年、ルネ・ラルー監督)
予告編大会
未知との遭遇特別編(1980年、スティーヴン・スピルバーグ監督)
終了6:45

 私はホラーが苦手だ。SFは好きだが。リンチのイレイザー・ヘッドで出てくるビルのつくりつけスチームヒーター(デロンギの電気のような形状のやつ)のシューシューいう音が耳について、いやあ怖かった。ほかの印象を払拭するぐらい怖かった。ちなみに、私は後にフィレンツェでモデルとなった「赤ん坊」のオリジナルの彫刻をみることになる。

#55 1986年1月11日、18日(土)「ごちそうさま!のフルコース 映画特集」
時計仕掛けのオレンジ(スタンリー・キューブリック監督)
スプラッシュ(ロン・ハワード監督)
愛と哀しみのボレロ(クロード・ルルーシュ監督)
アウトサイダー(フランシス・コッポラ監督)

 #54のパンフレットからだけれど、この回見てる。

#56 1986年2月15日、22日(土、予定)「ヒロイン特集PART8 ナスターシャ・キンスキー特集」
テス(ロマン・ポランスキー監督)
殺したいほど愛されて(ハワード・ジーフ監督)
今のままでいて(アルベルト・ラットゥアーダ監督)
パリ、テキサス(ヴィム・ヴェンダース監督)

 #54のパンフレットから。見てないな。でも、「パリ、テキサス」はよかった。

#64 1987年1月31日、2月7日(土)「青春映画特集」
ファンダンゴ(1984年、ケヴィン・レイノルズ監督)
ストレンジャー・ザン・パラダイス(1984年、ジム・ジャームッシュ監督)
インターミッション クイズで息抜き
?ムービー
予告編大会
ホテル・ニューハンプシャー(1984年、トニー・リチャードソン監督)

 良かった!たぶん大学生最後の頃、見るべき映画を見たという感じ。この回はほぼロードムービー特集だったと思う。ファンダンゴはいまでも定期的に見たくなるし、ジム・ジャームッシュ監督を知ったのも嬉しい。スタイリッシュで良かった。でも?ムービーはなんだったっけ。

#65 「ウディ・アレン・フィルム・フェスティバルPART2」プラス1
サマーナイト
カイロの紫のバラ
ブレードウェイのダニー・ローズ
?ムービー
カメレオンマン

 #64のパンフレットから。

ここからは、この期間にサロンシネマで上映されていた映画のうち、手元にあるパンフレットに載っている作品のリスト。
フランス・シネマ・フェア
気狂いピエロ
彼女について私が知ってる二・三の事柄
ゲームの規則
抵抗
去年マリエンバードで
24時間の情事
ヴィスコンティ・フェア
山猫
熊座の淡き星影
ルードウィヒ
夏の嵐
ベニスに死す
地獄に墜ちた勇者ども
広島初公開
ガープの世界
時計じかけのオレンジ
新作予定
ディーバ
パッション
8 1/2
ノスタルジア
カルメンという名の女
サン・スーシーの女
大魔神広島リバイバル公開
大魔神
大魔神怒る
大魔神の逆襲
広大生協主催広島初公開
サンロレンツォの夜
暗殺のオペラ
ジェームズ・ディーン特集
エデンの東
理由なき反抗

マイ・フェア・レディ
パリの恋人
ローマの休日

 こうやってみると私の映画鑑賞人生の大きな要素を占めている。タルコフスキーに浸れたのもここのおかげ。いまだに「ノスタルジア」は見てしまう。
「ファンダンゴ」「ディーバ」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は私のオールタイムベストに入っている。戦争映画では「サンロレンツォの夜」「ブリキの太鼓」ここには出ていないが「ミツバチのささやき」。「ロッキー・ホラー・ショー」も衝撃だった。「1900年」や「テス」「愛と哀しみのボレロ」のような長編のおもしろさも映画館ならではである。
 もちろん他の映画館で80年代の多くの映画も見ている。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「ベルリン天使の詩」「ブラック・レイン」。長じてなかなか映画館には行かなくなったが、やはり映画は映画館で見たい。
 近年見たIMAXでの「AKIRA」や「2001年宇宙の旅」は実に良かった。
 余談ついでに下高井戸に住んでいた頃、下高井戸シネマにもたまに行っていた。こちらも名画座。よい作品を教えてくれる。いま住んでいる湘南だと、藤沢にシネコヤという小さな映画館がある。シネコヤが固定館になる前に2本ほどいい映画を見た。なかなかタイミングが合わずに行けないでいるが、作品ラインナップは注目している。ネット配信時代、こういう映画館は大切にしたい。

宇宙からの訪問者(再)


THE VISITORS
クリフォード・D・シマック
1980

 50歳代も終わりに近づき、短期記憶の能力低下は著しく感じていたが、長期記憶も実にあやしくなっていくのを実感した。
 先頃、シマックの本が古書店に並んでいるのをみかけ、おそらく読んでいないと思うものを数冊入手。まずは「超越の儀式」を読んで80年代の「ニューシマック」を初体験したつもりになっていた。
 そして、本書「宇宙からの訪問者」を2022年12月から1月頭まで、数章ずつ読みついでようやく読み終わり、オチに感心して本を閉じたのだった。なるほどシマックらしいきれいな終わり方であったし、なんともいえない不思議な読後感を得て、さて、シマックの本、どれくらい持っていたかと自分の本棚を眺めてみると、おやおや「宇宙からの訪問者」が並んでいるではないか。そうか、読書ブログをはじめる前に読んでいたんだなと得心し、ではシマックのどの本を読書歴に残しているかと調べてみたら、おやおやおや、「宇宙からの訪問者」を読んで、書いているではないか。記録によれば2005年3月に読書録を書いている。
 ここだ。宇宙からの訪問者

 まったく記憶にございません。

 驚くべきことである。新年早々、自分自身に大笑いし、家族や周りの人間にも、笑えるエピソードとしてさっそく自虐ネタにして披露した次第である。人生はおもしろい。

 ところで本書の内容だが、宇宙からの「訪問者」の物語である。この訪問者、真っ黒いすごく大きな立方体である。少し宙に浮いているから重力の制御ができる。木を食ってセルロースのふわふわ塊を排出する。途中からはちょっとだけど自動車まで食べる。最初に降りてきたとき、かっとなって銃を撃った男は一瞬にして死んでしまったが、それ以外、基本的に攻撃はしていない。近くにいた人間一人と動物数種類を一度中に取り込んだが、しばらくして全部外に出してしまう。取り込まれた人間は樹木専門の植物学の若い研究者で、その「訪問者」の思念のようなものを感じ取ったが決して双方向のコミュニケーションが取れたわけではないらしい。主要な登場人物は、この青年、その彼女の新聞記者と、新聞社の同僚や上司、それとは別フェーズで大統領と首席報道官とその彼女と彼女の父親の大統領とは敵対する上院議員。それらに関わる人々。
「訪問者」は小さな立方体の「子」を生み、育ち、広がる。また、他の仲間の「訪問者」も次々と地球に降りていくが、木を食べることと、少々の自動車を食べたほかは、特に何もしない。最初に起きたパニックはやがて収まり、「訪問者」のいる世界に慣れるしかないかなあという感じになっていく。
 ドンパチなし。しかも「訪問者」はなぜだかアメリカのみに降りてくるので、ソ連をはじめ対立国も同盟国も様子見、国連が国際管理にしようと提案するが、アメリカとしては「訪問者」からの科学技術軍事的おこぼれを期待してやっぱり様子見。
 深刻な国際対立は起きそうで起きなかったりする。
 深刻な国内対立も起きそうで起きなかったりする。
 経済は大混乱、政治家は困惑。新聞記者はスクープ求めてはいるが、一方で「侵略」とか「秘密」とか、人々のパニックを起こさせるような、あるいは売るために煽るようなことは行なわず、冷静に、自制的に、倫理的に立ち入る振る舞う。報道者の鑑である。
 一番迷惑なのは宗教家とそれに集まる人々という書き方だが、これもシマックらしい。
 解説に書かれていたが、シマックは長く新聞記者や新聞社での仕事を続けていたから、その時の経験が生きているのだろう。
 シマックの人や生命に対する目線は暖かい。でも、それだけでもない。

 古い作品だが、今読んでも実におもしろい。
 もし、今、現実に同じことが起きたら政府は、軍は、報道者は、そして、人々はどう振る舞うだろう。
 そして、20年ぶりに読み直して、本筋とは直接関係ないが、一番心に残ったのは35章の最後の一文である。
 それは報道官と大統領の会話で、エネルギー危機について脱石油し太陽エネルギーとロスのない貯蔵、分配システムへの投資に理解が得られないことに対し、大統領が、「議員の半分は大エネルギー企業のいいなりだし、あとの半分は、国会議事堂を出たあと、よくぞ家までたどりつけるもんだといいたいほどのあほうども」とくさし、続けて、「そのうちにな、そのうちとはいつなのか、教えようかね。ガソリンが一ガロン五ドルにもなり、配給切符で買えるだけの三ガロンを手に入れるために、並んで何時間も待たなきゃならなくなる時だよ。冬のさなかに暖かくしておくだけの天然ガスが使えないため、寒い思いをするようになる時だよ。電気代をきりつめるために、二十五ワットの電球を使うようになる時だよ…」
 ちなみに解説すると、1980年代から2000年代頃、アメリカのガソリン価格はだいたい1ガロン1ドル前後。そして、2000年代に入ると全般には上昇局面に入る。2009年のリーマンショック直前には1ガロン4ドルあたりまで上昇したがその後2~4ドルで推移。2022年にはロシアのウクライナ侵攻の影響もあり一時、本書で書かれている1ガロン5ドルを地域によっては上回る瞬間があった。もちろん、まだ配給切符はないし、白熱電球は廃れ、25ワットもあればすごく明るいLEDライトが輝く未来に生きているが、シマックの指摘通り、目の前にあるエネルギー危機、気候変動危機については、本当にどうしようもなくなるまで政治も、国際社会も、そして、人々も大きく動かないだろう。でも、それではどうしようもないのだから、変わる、変えるしかないのだけれど。
 20年前は読み飛ばしてきたこの一文のところにひっかかるのは、それだけ自分の中でも事態の深刻さが身に沁みてきたからだろう。

超越の儀式


SPECIAL DELIVERRANCE

クリフォード・D・シマック
1982

 40年ぶりにシマックを読んでいる(気がする)。王道文学的SFの大作家である。当時読んでいたのは「都市」(1952)「中継ステーション」(1963)「子鬼の居留地」(1968)と、私が生まれる前後のSF黄金期の作品群である。だいたい高校時代に読んでいたのだが、その後1970年代終わりから1890年代の作品については大学時代、読みそびれていた。
 80年代は、50、60年代に活躍したベテランSF作家が新たな装いで作品を発表しており、シマックも「ニュー・シマック」となって再注目を集めたのだ。
 本書「超越の儀式」は80年代らしい味付けで、それでいてシマックらしい文学的、幻想小説的作品となっている。
 主人公は中年の大学教授エドワード・ランシング。あるとき学生の一人のレポートが妙に上出来であるのに引用されている論文等が存在しない不思議なできごとが起きた。その学生に問いただすと、ある部屋の中にあるスロットマシンが願いを叶えてくれるのだという。半信半疑ながら、ランシングがそのスロットマシンを回すと、マシンはランシングにある場所を訪問するように促す。そして、気がついたときランシングは別の世界に放り込まれていた。そこに別の世界線を持つ世界から来た将軍、牧師、技師、詩人、ロボットがランシングを待ち受けており、この6人(5人とロボット)のパーティで、放り込まれた世界を冒険することになったのだ。
 あとがきにあるが、当時(1970年代終わりから80年代)、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)がはやり始めていた。まだ家庭用ゲームマシンやパソコンでのRPGが始まる前、「ゲームブック」と呼ばれる複数選択可能な小説がはやり始めていた。RPGはコンピュータゲームとして花開く訳だが、その直前に、紙の本ではやっていたことは実に興味深い話である。
 本作はゲームブックではないが、のちのコンピュータゲーム型のRPGに似て、それぞれの特徴を持つ人たちがチームとなって冒険していく。すでに老境の域にあったシマックが最先端の動向にも敏感であったことに驚く。
 ストーリーとしては、6人の思考や行動が、その出自の世界の世界観によって左右されていること、そして、異世界においては簡単に世界観を裏切られることを、美しくも残酷に描き出す。パーティの出立にはひとつの宿屋があり、宿の主人がいて、そこで食料や道具を調達できる。そして旅する場所で人間をみかけることはない。遺跡のような構造物やかつて賑わっていたであろう都市の残骸、そして、同じように旅したであろうパーティの痕跡があるだけなのだ。そのなかで、世界の謎、自分達がこの世界に送られた謎、求められているタスクを探していく。そんな乾いた風が吹きつけるような灰色の世界をシマックはみごとに書き上げる。
 そのなかでシマックは問いかける。人はどう生きるべきか。
 なんだか先日見た映画「君たちはどう生きるか(The Boy and the Heron)」で宮崎駿監督が言いたかったこととおんなじではないかと感じてしまった。

映画 PERFECT DAYS

PERFECT DAYS

2023

 ヴィム・ヴェンダース監督作品、役所広司主演。カンヌ最優秀男優賞受賞作品。ヴィム・ヴェンダースが撮った日本映画である。「パリ・テキサス」「ベルリン・天使の詩」のヴェンダースである。若い頃憧れた監督の一人である。ちょっと見に行きたくなるよ。
 映画好きの友人もヴェンダースらしい映画だったというので見るべしと思って年末の映画館にいったら満席で私よりも先輩らしいお姉様方が多数いらしていた。「カンヌ」「役所広司」の強さを思い知ったよ。
 いい映画であった。と同時に、ちょっと複雑な感想も持った。
 まず、映画について触れたい。
 ストーリーは平山という渋谷区のトイレを清掃する清掃会社の無口で真面目なベテランスタッフの日常、その一言につきる。浅草近くの安いアパートに一人で暮らし、朝、缶コーヒーを買って、掃除のために必要な様々な道具を積んだ軽ワゴンに乗り込み、スカイツリーが見えたら、70年代頃から集めてきた音楽カセットをかけて首都高で渋谷へ。ていねいに掃除をしては、次へ。昼は近所の神社などで牛乳とサンドイッチ。フィルム式のコンパクトカメラを取り出して、美しい木漏れ日の風景をパチリ。仕事が終わったら銭湯、駅の地下の一杯飲み屋で軽く飲んでごはんを食べて、部屋に戻って古本屋で買った文庫本を読書をしながら寝る。休みの日は本とラジカセ、現像した写真の整理、公園や神社でみつけた自生の木の苗の世話、部屋の掃除と溜まった洗濯と行きつけのスナック。くり返される日常。その日常のなかに起きるささやかなできごと。人とのふれあい、過去との邂逅。「いつかはいつか。いまはいま」。それが彼の生き方。ささやかな笑顔。ささやかな涙。ささやかな怒り。ささやかな日々。
 日本版の映画ポスターには「こんなふうに生きていけたなら」とある。
 人はこんなふうに生きたいのだろうか。

 いい映画である。ヴェンダースらしく音楽を効果的に使っている。ヴェンダースらしく都市の風景も公園もまるでファンタジーのような美しさがある。現実感の感じられない渋谷の姿がそこにある。静かで美しい日本。そうありたい世界。
 そこにいる役所広司は、「ベルリン・天使の詩」の天使役ピーター・フォークそのものだ。もちろん役所広司の「平山」は天使ではない清掃作業員である。きっとこういう人はいるのだろう。役所広司だからかっこよく見えるが日常の中汗水垂らし、ひとりで生き、なんらかの趣味や楽しみを日常の中にみつけて生きる人はいるのだろう。
 無口な平山を演じる役所広司は、わずかな仕草、顔の表情などでその内側の小さな感情のゆらぎを映画を見る者に転写してくる。演じる役所広司と演じさせたヴェンダースのみごとな映像であった。
 最高。

 ここまでが映画の感想。でも、この映画には複雑な心境がつきまとってしまう。
 それは、この映画そのものの成り立ちにも関わってくる。映画では、渋谷区にできた先進的な公共トイレがいくつもでてくる。これは、THE TOKYO TOILET というプロジェクトで整備されたトイレである。日本財団が企画し、渋谷区とともに2020年から2023年にかけて17カ所のトイレを整備。「性別、年齢、障がいを問わず、誰もが快適に使用できる」コンセプトでユニバーサルデザインでのトイレが設置された。このプロジェクトはファーストリテイリング(ユニクロ)の柳井康治が主導し、電通出身のクリエイター高崎卓馬が関わっており、映画は高崎によってしかけられたと言っても過言ではない。実際、製作は柳井、脚本はヴェンダースと高崎がになっている(製作総指揮は役所)。
 ここで日本財団やユニクロについて論ずるつもりはない。
 ユニバーサルデザインで誰でも使える清潔で安心な公共トイレが設置されることには異論はない。このプロジェクトのトイレについてはいろんな意見があったようだが、性別を問わず安心して使えること、その「性別」には、男性、女性という区分だけではなくLGBTQの性的な多様性も含まれることであれば、そのコンセプトには賛成である。
 ただ、映画を見ていて複雑な気持ちになったのは、現実の渋谷区、いや現実の東京都、日本政府には、そんな優しさが欠けているという気持ちになったからである。
 話を大きくしないように渋谷区に限っていえば、のんびりした宮下公園は「公園」と名の付いたショッピングモールに変わり、ホームレスがかろうじて生活し、炊き出しなども行なわれていた美竹公園や神宮通公園では区が強制排除を進めた経緯がある。ホームレスを排除し、「清潔」なまちづくりでいくら多様性を強調しても、そこにはうわべだけの美化された非人間的、非人道的な「公園」しか残されなくなる。
 日本中あちこちにある「寝っ転がれないベンチ」は、まさにその象徴である。
 美しいけれど醜い現実がここにある
 この美しいプロジェクトで撮られた美しい映画には汚いトイレも、汚いホームレスも出てこない。唯一公園で暮らすホームレスは公園の木に抱きつき大地と交感しながらゆるやかに踊る田中泯なのだ。
 映画では、清掃作業員の平山が泣いていた子供の手を取って公園に出たところで子を探していた母親が平山から子をひったくり、手をウエットティッシュで拭き、礼をも言わずに去って行くシーンがある。そういうあからさまな差別も描かれてはいるが、それさえも平山の「美しさ」を引き立てるだけになっている。

 だから映画を見て思うのだ、この映画の中の世界は、現実にはない、と。
 この映画の中の美しい世界だけを美しいと思う気持ちにだけはなるまい、と。
 美しい映画だけれど、美しさに溺れてはいけない。

映画 オデッセイ

The Martian

2015

 アンディ・ウィアーのSF「火星の人」を原作としてヒットしたリドリー・スコット監督作品である。
 なんども書いているが、私は火星ものに目がない。古くはウェルズの「宇宙戦争」にはじまり、ジョン・カーターの火星を経て、現代に近くなればなるほど火星は身近で現実感あふれる場所になっていっている。嬉しい、楽しい。
 特に1980年代以降、火星はリアルな風景となっていく。
 映画「オデッセイ」は、その原作「火星の人」をみごとに映像化した作品である。もちろん、映画だからご都合主義や突っ込みどころはある。ありますとも。マット・デイモンが演じる火星にたったひとり取り残されたマーク・ワトニー宇宙飛行士は、思いつくだけで4回か5回は死んでいるし、救出時はちょっとどころでなく臭いはずだ。まあ、それを言ったらおしまいよ。万に一つの幸運を積み重ねて生き残る。それがこの映画の醍醐味だから。「火星にたった一人」。
 ちょっと先の未来。それほど先ではない未来。NASAの有人火星探査ミッション「アレス3」は到着早々に想定外に巨大化した砂嵐に巻き込まれミッション中断を決断する。母船への帰還船に戻る途中で主人公のマーク・ワトニーは飛んできた通信アンテナにぶつかり飛ばされてしまう。指揮官は救出を考えるが時間的に無理で死亡と判断しワトニーを残して帰還船で母船に帰り、地球へと向かい始める。
 ところが、ワトニーは大けがを負ったものの生きていた。
 地球に戻るすべはないが、アレス3ミッションの基地は無事であり、残された資材、クルーの私物、食料などをもとに次のミッション到着の4年後までのサバイバルをめざす。
 母船はもちろん、地球との交信手段もなく、ただ単独で生き残るしかない。
 幸いなことにワトニーは植物学者であり、さらに幸運なことに感謝祭用に非加熱ジャガイモが真空パックで残されていた。そして、クルーの排泄物はシュリンクパックされ非加熱で残されていた。植物、腸内細菌、そして植物に必要な栄養素。基礎でありミネラルである土はある。だって惑星だもん。水と酸素は作り出せる。二酸化炭素は十分。残された食料だけでは4年間は生きられない。ワトニーは火星で初の農業をはじめることにした。ジャガイモ栽培である。
 この映画は火星映画であるとともにジャガイモ映画なのだ。
 食料、水、酸素、与圧、エネルギー、そして通信手段、移動手段。ワトニーの孤独な火星生活がはじまった。
 映画にはいろんな楽しみがある。私たちがよく知っているマーズ・パスファインダーが良い仕事をしてくれる。
 重力が地球よりやや小さく、太陽の光も少ないが人工灯火が使えるハウス環境でジャガイモはどう育つか。茎や葉は地球よりもひょろりと垂直に育つと映画では表現されている。これもまたおもしろい。
 小説でも細かくいろんなことがていねいに書かれているが、火星の風景とジャガイモの育て方については映像表現がとても楽しい。
 小説を読んで映画を見るのがおすすめだけど、映画をみておもしろいなあと思ったら、ぜひ小説も読んで欲しい。

 どうして赤い星は私をこんなに引きつけ、饒舌にさせるのだろう。