デスパーク

FIVE MINDS

ガイ・モーパス
2021

 人口が増えすぎ環境負荷が高まった未来。「人口削減及び環境調和法令」が世界中で運用されていた。17歳になるとその後の人生について4つの方向の選択が迫られるのである。
 現在の身体のままワーカー(労働者)になる。5年の追加教育の後、生涯を通じて労働に従事する。寿命は規定されない。
 現在の身体をアンドロイドと交換する。食事が不要になり環境負荷が最小となるので寿命は80歳まで与えられる。
 現在の身体のままヘドニスト(快楽主義者)になる。今後25年間上質な家と潤沢な手当をもらい、働かずに豊かな生活ができる。つまり42歳が寿命。
 コミューン(共有の体)に加わる。別名分裂者。5人の心を誰かひとりの身体に入れる。ひとりの寿命は25年。25年ごとに新しい身体に移す。その結果、第五の身体の寿命が尽きるのは142歳。1日は6つに分割され、5つの心は4時間ずつ自分の時間を過ごす。残りの4時間は強制休息に当てられる。5人の時間は固定され、ある者は朝だけ、ある者は昼だけ、ある者は陽を見ることはない。身体は共有するが時間は共有されないので、5人のコミュニケーションは音声かテキストのメッセージのみ。お互いに身体を大切に使うこと、入れ替え時間には安心して目ざめ、食事ができる状況にすること、それが条件。
 原題の「FIVE MINDS」はそういう意味。
 いま、アレックス、ケイト、マイク、ベン、シエラの分裂者は、デスパークにいる。ここは実質的な治外法権エリア。寿命すなわち時間をゲームによってやりとりできる場所。ひとつ目の身体が寿命を迎える直前にデスパークで寿命稼ぎをしようと彼らはデスパークにやってきたのである。
 そこで彼らは「事件?」に巻き込まれ、ひとりが「失われる」この不思議な「殺人」はなぜ起きたのか?犯人は外部の人間なのか、それとも残った4人のうちの誰かなのか?
 直接のコミュニケーションができない4人。つのる疑心暗鬼。展開される死のゲーム。
 ゲームは基本的に心を仮想空間のゲームの中に転移して行なわれる。
 そこでは、時間をかけて闘われ、時に敗者は自動的に死ぬことになる。ゲームの中で死ぬと現実でも死ぬのだ。心が失われるのだから。「デスパーク」とはそういうことだ。

「墓標都市」のあとに読んだらこちらもミステリーSFであった。
 こちらはSF的設定勝負。人間の心を転移したアンドロイドもいれば、知能を弱められた使役者としてのアンドロイドもいる。「時間」が最大の交換価値を持つ社会で、デスパークの裏の顔役、マッドサイエンティストなどがうごめく中、性格も性質も趣味も生き方も違うひとつの身体の時間をシェアする5つの心。
 一風変わった、でも、ミステリーとしての王道は忘れない、そんな一冊であった。

墓標都市

THE BURIED LIFE

キャリー・パテル
2014

 ミステリーSF三部作の第一作目。おもしろいじゃないか。
 なにか理由は知らないが、遠い昔に地上で人類は絶滅寸前の最終戦争を起こしたらしい。人々は地下に逃れ、地下に都市を築いて新たな繁栄を模索していた。すでに地上に生きることはできていたのだが、多くの人たちは地下を安住の地と定め、都市国家として他の地域や地上の村などとつながっていた。
 舞台となるのはそんな地下都市リコレッタ市。階級社会であり、市の運営は特権階級の「評議会」によって行なわれていた。評議員をはじめ「持てる」者たちはヴィニヤードと呼ばれる高級住宅エリアで貴族のようにたくさんの召使いを抱え、優雅に特権者ならではの権謀数術の暮らしを楽しんでいた。
 この世界において過去の歴史、文化、技術を調べ、学ぶことは禁忌となっていた。また同じような文明的発展をして最終戦争を起こすことを何より恐れた。それが理由であった。しかし、その禁忌たる情報や異物は評議会の下で「保存理事会」が独占していたとも言える。
 事件が起こる。保存委員会の歴史学者がヴィニヤードの自宅で何者かに殺害されたのだ。ヴィニヤードで犯罪が起きることはまれであり、殺人などかねてなかったことである。
 市警察のリーズル・マローン捜査官は新人捜査官のレイフ・サンダーとともにこの捜査にあたることとなった。しかしそれはすぐに横やりが入る。評議会が独自の捜査を禁じたのである。
 そうこうしているうちに次の殺人事件が発生する。今度は有力な評議員である…。

 さて、もうひとりの主人公はジェーン・リン。洗濯女である。ヴィニヤードに多くの顧客を抱えるフリーの洗濯女。洗濯とつくろいの確かな技術、注意深い観察眼と必要な秘密保持で信頼を得て口コミで顧客を増やしていったのである。そしてジェーンはふたつめの殺人事件に巻き込まれてしまう。潜在的目撃者としてのジェーンと禁じられても捜査を続けるリーズルのふたりは微妙な接点を持ちながら事件に深く関わっていく。
 果たして殺人事件の背景にあるのはなにか。
 それは地下都市全体の未来に関わるできごととつながりがありそうである。
 ふたりの主人公の周りには分かりやすい人、複雑な顔を持つ人、裏の顔が得体の知れない人、個性豊かな登場人物がいて、ミステリーに深みを与えてくれる。

 ミステリー作品だから、本作1作で殺人事件の犯人と謎解きは完結されるが、その背景にある大きなできごとは次の作品以降を待たなければならない。
 はたしてかつて人類に何が起きたのか。この社会の、現在の地球の全体像は。
 現在の地下都市と地上の暮らしは、基本的に産業革命以前のようであるが、どうしてそこまで後退したのか?
 世界の謎は深まるばかり。
 だって第一部だもん。
 ミステリーとしては1冊で完結しているけれど、SFとしてはここからはじまる。

 んだけどね。

 どうやら第二部、第三部が翻訳される気配がない。
「本書だけでは、わたしたちはまだこの世界のとば口に立ったにすぎない。このあとに広がるさらなる驚きの世界を日本の読者諸氏にも旅していただきたいというのが訳者の切なる願いだが、それができるかどうかは本書の売れ行きしだい…」と翻訳者の畑美遥子氏がしたためている。一読者として、本当にそれを望んでいるのだが。

火星へ


THE FATED SKY

メアリ・ロビネット・コワル
2018

「宇宙へ」の続編であり、第二部といったところ。1961年8月16日の月基地から物語は再開する。主人公の宇宙飛行士であり天才数学者のエルマ・ヨークは、月面の小型連絡船操縦士の定期任務についていた。この日、初の無人火星着陸機が火星に降り立つ。この成功は有人火星探査計画の先駆けであった。すでに月には200人の滞在者がいて様々な調査や月面開発に従事していたのだ。人類の生存をかけた星への旅の次の目標は火星に定められた。大気がなく重力も小さな月に比べ火星には薄いとはいえ大気があり、重力もある。人類の生存は火星開発が現実的と考えられていた。
 片道約1年、往復約3年におよぶ第一次火星探査隊は2隻の有人船と1隻の無人バックアップ船の3船による船団で未知の星に向かうことになる。
 物語は火星に旅立つまでの宇宙飛行士候補と周りの人々の様々なできごと、そして、火星探査船の船内での様々なできごとで展開していく。その中心には前作と同様にエルマがいる。そう、エルマは愛しの夫ナサニエルに背中を押されて火星に向かうことになるのだ。しかし、エルマが選ばれた理由はただひとつ彼女が地球の人々にレディ・アストロノートとして知られ、支持されるからである。広報的な理由である。そして、その結果、計算者時代の同僚であり、台湾系アメリカ人のヘレンが探査チームからはずされることになった。すでに訓練は長く続いていて、エルマが入ることで探査チーム内には不和が生じてしまう。当然、それは「割り込んだ」エルマに向かう。四面楚歌のエルマは、それでも火星に向かうのであった。
 前作に続き、1950年代の技術で人類は火星に到達できるのか、その可能性を徹底して追求し描き出した究極のハードSFである。同時に前作と同様に女性差別、黒人差別、マイノリティ差別の問題に正面から向かい合った作品である。著者のあとがきにも書かれているが、本作ではさらにLGBTの位置づけについても間接的ではあるが触れられている。なぜ間接的かというと、1950年代、60年代にLGBTのカミングアウトは同時に軍人としてあるいは宇宙飛行士としての道を断たれることを意味していたからである。同時代の技術、社会背景を損なわずに、その中で生きる人たちの苦悩や人間としての闘い、関わりを描き出すのはとても難しいことである。それに成功した21世紀的な優れた文学作品であると同時に、優れたエンターテイメント作品である。

 私は火星に目がない。
 だから本書を読みたいがために前作から読んだという気持ちもある。だが残念ながらこの物語の主眼は「火星に行くまで」にあるのだ。
 しかし、本書が「火星もの」ではないにしても、とても心に残る傑作小説であることは間違いない。
 私のSF歴の中でも上位に位置づけたい作品である。

 ところで、昨日、将棋の竜王戦第四局が行なわれ、藤井聡太竜王(名人・八冠)が同学年の伊藤七段に勝って防衛を果たした。藤井聡太竜王名人は対局中先を読むのに「2八歩」といった符号の連続のみで思考しているという。他のプロ棋士はたいていが将棋盤を頭に浮かべているが、そういう頭の中の将棋盤はないというそうだ。本書の下巻287ページにエルマの言葉として「ほかのひとたちがわたしと同じ形で数字を把握できないと知ったのは、それなりの年齢に達してからのことである。ふつうの人にとって、数字とは紙に記された抽象的記号であり、どれほど理解力があっても、対象となる物体の物理的な数値を表すものでしかない。ところが、わたしの場合、数字を見れば、対象の形状、質量、質感、色彩までもが、鮮明にわかる。したがって、宇宙船、S-ⅣB、火星、地球の位置関係を頭の中で把握し、無用の要素を取り除けば、そこに残るのは純然たる空間の計算要素だけだ」という文章が書かれている。
 天才たる藤井聡太さんは、このエルマと同じように他のプロ棋士をはじめとする「ほかのひとたち」とは異なる形で将棋の位置と動きを把握しているのではないかと、ときおりそう思うのであった。関係ないけど、本書を読んでいるのと藤井さんの将棋を見ているのがおんなじような気持ちになったのはここだけの話。

宇宙へ


THE CALCULATING STARS

メアリ・ロビネット・コワル
2018

 現代版「月を売った男」、あるいは「地球最後の日」。懐かしくも新しい21世紀ならではの価値観で緻密に構成された本格的ハードSFの登場である。
 ハードSFであると同時に、今日の社会的問題である差別と格差について、主に女性差別、黒人差別、マイノリティ差別に対し正面から描いた作品でもある。
 その意味で文学のサブジャンルとしてのSFというカテゴリーに入れなくてもいいかもしれないが、本筋はハードSFであり、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞をとったのも頷ける。しかし、SFを離れてもっとひろく読まれて欲しい作品でもある。

 SFのジャンルとしては歴史改変になるのだが、初期設定の導入だけで「歴史」がテーマになるわけではない。
 1952年3月3日、巨大隕石が地球に衝突した。この日から、私たちの知る時間軸とは異なる歴史が流れていく。衝突の衝撃によって起きたのは落下地点エリアの破滅、全地球規模での大きな津波…、そして予想される一時的な寒冷化後の急激な温暖化。その予想ではそう遠くない時期に地上で人類が暮らすことはできなくなる。地球を脱出して、宇宙に生存を求めなければならないだろう。
 1952年といえば第二次世界大戦が終わってすぐ、たとえば日本はまだGHQによる占領下にあり、朝鮮戦争があり、米ソ冷戦と核開発競争の時代である。宇宙開発競争はまだ緒についたばかりであり、初めての人工衛星は1957年のソ連によるスプートニク1号を待たなければならなかった。そんな時代である。
 コンピュータでいえばIBMが初の科学技術計算用コンピュータを納入した年が1952年。まだ安定性も信頼性もこれからという時代である。
 そんななかで人類の生き残りをかけて宇宙をめざすのだ。

 主人公はエルマ・ヨーク。ユダヤ系アメリカ人。新婚の女性。天才数学者であり、第二次世界大戦では陸軍航空軍婦人操縦士隊でパイロットを務めていた経験を持つ。夫のナサニエル・ヨークはロケット技術開発の科学者。エルマは夫とともにロケット開発に欠かせない「計算者」として働いていた。

 ここでちょっと背景的に「計算者」を説明しておくと、コンピュータが本格的に実用されるまで弾道計算をはじめ様々な科学技術に欠かせない数学・計算は人の手で行なわれていました。もちろん電卓などはありません。あるのは「計算尺」ぐらいであとは手書きです。ロケットを飛ばすためにはこの「計算者」のチームの能力が問われます。そしてこれを担ったのは女性数学者たちでした。現実の世界では1953年にアメリカ航空諮問委員会(NACA)に黒人で天才数学者のキャサリン・ジョンソンが計算者として参加し、その後の宇宙開発を支えます。
 本書のエルマ・ヨークの数学的天才っぷりはキャサリン・ジョンソンを彷彿とさせます。
 ちなみに、映画「ドリーム」(2016)はキャサリンをはじめとする計算者をテーマにした映画です。

 本書に話を戻すと、NACAに所属していたナサニエルとエルマはたまたま休暇で本部を離れており、九死に一生を得る。NACAが壊滅したためナサニエルは生き残った専任技術者となりその後の宇宙開発の統括責任者として働くこととなった。エルマは計算者として宇宙開発を支えるとともに自らも宇宙飛行士になりたいという夢を内に抱いていた。しかしエルマには大きな問題があった。子どもの頃から数学の天才だった彼女は飛び級で大学に進学し、その過程で激しい女性差別とパワーハラスメントに遭い、パニック症候群を内に秘めていたのだ。それでもエルマは宇宙を目指したかった…。
 物語の本筋は1950年代の技術で宇宙開発がどこまで進められたかをリアルに描き出すことである。これはもう最高にわくわくする話であり、冷戦とは異なる宇宙開発の可能性を感じさせてくれる。
 同時に、ユダヤ系アメリカ人という視点、女性の天才科学者という視点、まわりにいるアフリカ系男性、アフリカ系女性、アジア系女性、あるいは上院議員の妻である女性といった立場をみることで現代にも直結する女性差別、黒人差別、マイノリティ差別の問題が物語をすすめていく。
 エルマは様々な点で宇宙開発に不可欠な存在となるが、「女性がパイロットなど認められない」という女性差別者の上官に個人的にも忌み嫌われる。アフリカ系の人たちと交流を持ち、支えられることもあるが、、時に差別する側にいる者として非難の対象ともなる。あるいは差別者ではなくても「恵まれた者」として非難され、疎まれる。
 それでもエルマはあきらめない。
 ナサニエルとの深い結びつきのなかでひとつずつ障害を乗り越え、人類を生き残らせ、宇宙に旅立つという目標と、自らが宇宙に行きたいという情熱で道を切り開いていく。

 ハードSFとしても21世紀の人間ドラマとしても傑作である。
 21世紀のこんにち、避けては通れない「人権の尊重」という問題をエンターテイメント小説の中にしっかりと取り組み視点を提示すること、それがエンターテイメントとしての質を落とさず、むしろ読者に前向きに考えさせる力を持つこと、それを成し遂げている作品である。

 おりしも、いま、イスラエル政府・軍は、パレスチナのガザ地区において民族浄化(ジェノサイド、虐殺)を行ないつつある。きっかけはパレスチナの軍事組織ハマスによる攻撃であるが、それを理由に大半が若年層の子供を含む民間人、医療関係者、報道関係者、国連関係者をほぼ無差別に殺害し、パレスチナを完全に排除しようとしている。
 イスラエルとパレスチナ・アラブの土地をめぐる問題は第二次世界大戦を経てイギリスの失政により戦乱の火種を広げてしまった。20世紀を通して幾度も戦争が起き、徐々にパレスチナは追い詰められてきたが、今回のイスラエルの動きはパレスチナを地図から消すための行為である。おおくのユダヤ人をはじめ世界中が非難しているがイスラエル政府・軍、それを支持するシオニスト、さらにはアメリカ政府や日本を含む西側の政府は事実上黙認している。人類のもっとも悪辣でみにくい部分が表にでている。
 そんなときにユダヤ人を主人公にした作品を読めて良かったと思っている。
 ユダヤ人が悪いわけではない、しかし、ガザ侵攻は間違っている。ホロコーストを起こしたナチス・ドイツを歴史に持つドイツに限らず、いまのイスラエルに停戦を求めない政府は間違っている。ちゃんと声を上げないと、向き合わないと。時間はない。

消えたサンフランシスコ

PRISONERS OF ARIONN

ブライアン・ハーバート
1987

 海外SFを読んでいると、ごくたまに、「これはSFなのか?」とか、「どういう気持ちで読めばいいんだろうか」と読み進めながら頭にクエスチョンマークが次々と出てくる作品がある。たいていがシリアスなドラマ展開なのだが、たとえば前提となっている宗教観の違いとかそれに伴う知識の違いが背景にあって、突然天使が出てきたり、亡霊が出てきたりすると、笑ってよいのか、比喩なのか、「天使」や「亡霊」がなんらかの科学(疑似科学)的な背景を持っていてシリアスなドラマに組み込まれていくのか、分からなかったりするからだ。
 これがP・K・ディックの作品ならば、ドラマの整合性に破綻があっても展開が変でも、それ自体がディック的世界を表現してしまい、その「目に見える現象」と「真の世界の実相」との間で揺れ動く登場人物を受け入れることができるのだが、これはひとえにディックという「作者への信用=ブランド」があってのことなのだ。ディックは生涯をかけてこの世界を書き続けてきたのだからよいのだ。
 でも、ごく普通の思考を持つ作家が真面目にディック的な世界を書き上げようとすると、「目に見える現象」の異様さだけが表に出てきてしまい、いったい作者は何を書きたかったのかさえも分からなくなってしまう。

 さて、前置きはともかく、本書「消えたサンフランシスコ」はブライアン・ハーバートの著作の中でもっとも早く翻訳された作品である。原題は「アリオンの囚人たち」ということで、ストーリーは科学的に発達したアリオン星系の大学生グループが地球のサンフランシスコを含むあるエリアをそっくりそのまま球形に地球からえぐり出し、ドームにしてアリオン星系へ連れ出してしまうところからはじまる。このパターン、すなわち知的生命体の住む惑星の一部をドーム型の宇宙船にして移動するというやつは1950年代からのSFにはなんども出てくる設定であり、宇宙人に生活空間そのままとらわれて連れ去られるというのもよくあるパターンである。
 一夜にして地球から離れてしまったサンフランシスコの人たち、域外には出ることも通信することもできず、アリオン人による「通常通りの生活ができるから、通常通りの生活をするように」という声明のみで、不安はあっても通常通りに暮らすしかない状況に置かれてしまう。
 そうなると非常事態の政治体制の確立や残された軍組織等によるアリオン人との対決や地球に戻る方法の模索など様々な事態の展開が考えられる。またアリオン人側も、学生グループが許可を得て行なった行為ではないためいくつかの問題を抱えており、そういう展開も考えられる。
 しかし、ブライアン・ハーバートは違うね。主人公は苦労の多い家族の中でなんとか家族をまとめたいと奮闘する少女、元軍人で配達員を掛け持ちしながら家計を守る父、精神を病んだ詩人の母、母を嫌うぐうたらな兄、手のかかる下の弟と妹。騒動が起きたその日に父を訪ねてきた異母兄。さらに別に暮らす父の祖父母も主要登場人物で、祖父は主人公の少女に優しく、祖母は厳格な市議であり後の代理市長、彼女が母を精神的に追い詰めたひとりでもある。そんな家族の日々の惨憺たる物語が延々と繰り広げられる。その背景に地球を離れアリオン星系へと向かうドーム型のサンフランシスコ周辺という状況が存在するのだ。もちろん、無関係ではあり得ない。だいいち祖母はこの混乱の中で代理市長の座を務め、対策の中心人物になるのである。しかものちにぐうたらな兄も重要な役割を占める。
 さらにはこの家族が生み出してきたクローゼットに住む南北戦争の南軍の将軍でいまは巨大な蚤の姿をした亡霊の存在もある。
 なんだろう。家族の物語であることは間違いないのだけれど。

 訳者は関口幸男氏。関口氏が翻訳を希望したのか、ハヤカワ書房が作品に目をつけたのか。もしかしたら父のフランク・ハーバートが「デューン」シリーズの完結をみずに1986年に亡くなってしまい、その翌年に発表された息子のブライアンの作品をいち早く出すことでちょっとした売上を目指したのか、それとも、すごい名作だと誰かが思ったのか。

 私にとって長年の課題図書でもあった本書、最後まで読み通して、大森望さんの解説を読んでほのぼのとした。解説というお仕事は大変なのだなあ。なんといっても、「売れる」ように作品を紹介しなければならない。もちろん、どんな作品にも良い点もあれば悪い点もあるだろう。だからといって悪いところばかり書き連ねては「売れる」解説にはならない。だから買って読んでみようという気持ちにさせなければならない。
 すこしだけ解説を引用しよう。
「本書は前代未聞のサイエンス・フィクションである。あなたが海千山千のSFマニアであればあるほど、この本に対する驚きは大きくなるだろう。中途半端なマニアであれば、驚愕のあまり本を燃えるゴミの日に出してしまうかもしれない。このショックを減殺するような真似はなるべくならしたくないが、疑り深い読者もいるだろうし、中身にいっさい触れないわけにもいかないから、この解説の後半部では、本書の革命的価値について言及することとなる」
 言い得て妙である。

 いまはブライアン・ハーバートといえば、父の名作シリーズ「デューン」を終わらせるべく、前日譚、後日譚を共著で書き記している(惜しむらくは後日譚は翻訳の予定すらなさそうであるが)。しかも、ドゥニ・ビルヌーブ監督作品の映画「デューン」では製作総指揮にも名前を連ねており、SF界には欠かせないひとりでもある。
 だから年を取ってから読んで良かった。もし若い頃だったら私も…。