惑星アイリータ調査隊


DINOSAUR PLANET

アン・マキャフリイ
1978

 書かれていない作品を最初から三部作と位置づけてしまったことで書かれなかった第三部を待っているうちに作者が亡くなってしまい、決して書かれなくなることはよくあることだ。作者が亡くなったのだから、あきらめはつく。それよりももっと多いのは、書かれたのに日本語には翻訳されなかったシリーズの後編というやつである。これは泣くに泣けない。最近は、紙の本の出版が減ったこと、海外SFの需要が減ってきたのかもしれないが、第一部だけが翻訳されてそのままということもある。寂しい限りである。どうしても読みたければ原書を調達して読み解くしかない。がんばれ、私。

 さて、本書「恐竜惑星1 惑星アイリータ調査隊」は1978年に発表され、日本では1986年12月に翻訳出版されている。続編の「恐竜惑星2 アイリータの生存者」は1984年に書かれ、1989年に翻訳出版された。創元社から出されているのだが、当時、創元社からは「歌う船」だけが出されていて「パーンの竜騎士」シリーズなどはハヤカワからであった。「歌う船」シリーズは、1969年に初出だが、シリーズ化されたのは1990年代以降である。ということで、SFブームの1980年代後半、創元社が手にしたマキャフリイの作品として期待されたのだ。当初三部作が予定されていたため最初から釣り書きにも「三部作」と明記してある。しかし残念ながらこのシリーズは次巻第二部を持ってその後が書かれることはなかった。マキャフリイは惑星アイリータを第一部、第二部で描ききることでちょっと満足してしまったのかも知れない。

 では、惑星アイリータと知的惑星連合の調査隊について。
 人類および人類の変化種である高重力人、いくつかの異星人種からなる「知的惑星連合」というものが存在する遠い未来の世界の話。どの知的種族にも必要とする希少元素を探索するため「探検評価隊」が組まれていた。そのひとつ探査船ARCT-10は恒星アルータンの3つの惑星の調査を開始する。それぞれの惑星条件に合わせて探査隊は組織、派遣されるため、惑星アイリータには人類種族のみの調査隊が入ることになった。共同指揮官のカイはARCT-10育ちの男性であり、もうひとりの指揮官ヴェアリアンは惑星育ちの女性で異星生物学者である。ふたりとも初の指揮官であり、惑星アイリータの探査隊は比較的経験の浅いメンバーと、ARCT-10の4人の子供たちから構成されていた。また、メンバーの中にはその身体機能の必要から力の強い高重力人も加わっているのであった。
 調査開始からまもなく、母艦であるARCT-10との連絡がとれなくなってしまう。彼らの中には、彼らが「調査隊」としてではなく「植民者」として置き去りにされたのではないかと懸念する者も出てくる。
 さらに、惑星アイリータにははるか大昔に現在の知的惑星連合と同じ装置を用いて地質調査をした痕跡が残っていた。未踏の惑星のはずなのに。
 さらに、さらに、惑星アイリータにはふたつの起源をもつ生態系が存在しており、そのひとつは人類と同じように赤い血を持つ動物群を頂点にしていた。その姿は人類の母星地球でかつて栄えた動物たちにあまりに似ていたのである。
 この不思議な惑星アイリータで、いま、調査隊の中に反乱の危機が迫る

 という物語である。惑星アイリータとは何か?なぜ知的惑星連合の星図では未踏のはずなのに、同じ技術の痕跡があるのか?地質学的時間が推移しているがその時間経過は?誰が?なぜ? この動物たちは? そして、自分達は本当に強制的植民者として置き去りにされたのか?いくつもの謎の中で、若いふたりの共同指揮官が活躍するのである。

 もちろん、マキャフリイであるから、若き女性指揮官ヴェアリアンの活躍がメインとなる。なんといっても本職が異星生物学者、タイトルにあるとおり「恐竜惑星」の謎を解明するのに彼女ほどうってつけの存在はいない。そして、出自文化の異なる共同指揮官カイとの関係。マキャフリイ節炸裂である。
 とはいえ、マキャフリイが書きたかったのはこの惑星アイリータと、その生態系そのものだったように思う。馬を愛し、竜を愛するマキャフリイが、「竜」だけでは描ききれない生態系そのものを描き出すことを楽しんだ、そんな作品なのだろう。

無常の月

ALL THE MYRIAD WAYS

ラリイ・ニーヴン
1971

 中学生の頃、限られたお小遣いを持って、田舎の本屋に並べられた文庫本の中から値段と内容とを吟味し、悩んで買った1冊。表紙もかっこいいし、「スーパーマンの子孫存続に関する考察」とか「タイム・トラベルの理論と実際」とか目次のタイトルにも、中学生にはたまらないものがあったのだ。
 読んでみると、頭の中には???が並んだりもした。だいたい当時は「レンズマン」とか「キャプテン・フューチャー」とか「火星の大元帥カーター」とかを読んでいたので、それからするとちょっと大人すぎな内容の作品が多かったのだ。
 それでも、とても心に残る短編が多いのも本当。よかったよ、中学生の時に読めて。

 短編集として初期の様々な作品が並べられており、ノウンスペースシリーズの中に位置づけられる「待ちぼうけ」「ジグソー・マン」「地獄で立ち往生」も収録されている。
 また、多元宇宙を扱った「時は分かれて果てもなく」「霧ふかい夜のために」や、高次の存在を扱った「路傍の神」などはウイットの効いた作品でテレビなどで人気の「怪奇現象ドラマ」の原作といっても良い感じである。というより、こういうのに触発されてそういうドラマができるんだろうな。ちょっと毒のあるブラッドベリかも。
 こういった作品は分かりやすくてなじみが良い。

 異色の作品と言えば「マンホールのふたに塗られたチョコレートについてきみには何が言えるのか?」である。マンホールの蓋に塗られたチョコレートについて、あなたは何か言えますか? 私はそれが清潔でおいしかったら食べますね。
 物語は正統なSF作品である。あるパーティでひとりの男が言った「やあ、すべてのアダムとイヴ伝説は、すべて本当のことだと思うかい?」この一言からSFを紡ぎ出してみてください。

 日本語版のタイトルとなった「無常の月」はニーヴン版「地球最後の日」。夜、気がつくと突然月がものすごく明るくなっている。その原因は?主人公は原因に思い立ち、寝ている恋人のところに電話をかける。天体マニアの彼女は、月の明かりを見て…。
 短編はアイディア勝負だから、これ以上は説明しないけれど、どうです、月が突然明るくなる原因分かりますか?

 という質問を投げかけたところで、この短編集の要の作品を紹介。ニーヴンがいかにSFを愛していて、オタクで、SFファンを愛しているか、という作品である。
 そして、中学生の私には「スーパーマン」の下ネタを除いてさっぱりわからなかった作品でもある。

「スーパーマンの子孫存続に関する考察」は、タイトル通り。例の青い服を着て、胸にSマークをつけている人間そっくりの宇宙人は果たして子孫を残せるのか?という深遠なテーマを深掘りしてみると。なにせ母星はなくなり、同族はほぼいないなかで、ふだんは地球人として生き、地球人の恋人がいるのである。そこには難題に次ぐ難題が。

「脳細胞の体操-テレポーテーションの理論と実際-」こちらは、実際の講演をもとにして書き上げられたもの。表題通りで、テレポーテーションの定義、歴史、類別(超能力式、機械式)、その理論と実際。とりわけ機械式の場合の方法を仮定し、その可能性を検証するもの。過去のSF作品などを引用しながら新たな可能性にも迫るのである。

「タイム・トラベルの理論と実際」こちらも同様であるが、ニーヴンはタイムトラベルについては厳しい態度をとっている。親切に過去へのタイムトラベル、未来へのトラベル、パラドックスなどを解きほぐし、その小説としての歴史も辿った上で、なぜタイムトラベルの作品が書き続けられるのかという大問題にも迫る。これを読む限り、ニーヴンはタイムトラベルをSF作品として書くことはあり得ないはずだ。

 最後に、エラリー・クイーンの超短い推理小説をしのぐニーヴンの超短いSFをふたつ。それが「未完成短編 一番」と「未完成短編 二番」である。大人になって老齢にさしかかってようやくこの作品のおもしろさが分かってきた。遅いか。

中性子星(再読)

中性子星(再読)
NEUTRON STAR
ラリイ・ニーヴン
1968

「地球からの贈り物」に続き、2004年に読んだノウンスペースシリーズの短編集である。2004年のときの感想はこちら。
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2004/11/17/neutron-star/
 簡潔にまとめていた。
 約20年経つと、見方も変わる。そもそも1968年、45年前の作品である。人間の価値観や社会観は急速に変化している。おおよそは良い方向だが、一方で揺り戻しもあり、多様性を認めない古い価値観が亡霊のように湧き上がる。
 文学、小説は、古い作品は古い価値観が反映する。未来を書いたSFであっても同じである。しかし、SFに限らず、古い作品であっても当時の価値観に抗して人類のめざすべき方向、新たな価値観をもって書き上げられている作品もある。そういう作品が提示する価値観や思想こそが新たな世界を作ってきたとも言える。
 ニーヴンは、良い意味でも悪い意味でも大衆的なSF作家である。SFがとても大好きで、同時代のみんなを驚かせたくて、そして万人に受け入れられたいという素直な気持ちで独自の世界を描いている。だから、ニーブンの作品を21世紀に読み継ぐ上では、そのセンス・オブ・ワンダーに思考を広げるとともに、人類の負の一面を考えていく必要もあるだろう。

中性子星
ベーオウルフ・シェイファーが主人公の作品のひとつ。27世紀初頭、元ナカムラ宙航パイロットのシェイファーは、ウィ・メイド・イット星の片隅で非人類のパペッティア人ゼネラル・プロダクト社支社長から高報酬の仕事を誘われた。パペッティア人はゼネラル・プロダクト社製の宇宙船船殻を製造販売している。宇宙船の95%はこの船殻を使う。強固でどんな力も通さない船殻だからだ。しかし、中性子星に近づいたとき中の調査員が死んでしまった。その原因を調査するために行って欲しいというのだ。金欠のシェイファーは死も覚悟してこの仕事を請け負うしかなかった。そこでみつけたものが、パペッティア人の秘密と大きく関わるのだった。

帝国の遺物
鯨座ミラTの惑星でウンダーランド星出身のリチャード・ハーヴェイ・シュルツ=マン博士は15億年前に滅んだスレイヴァー帝国の「遺物」である生物を調査していた。そこにジンクス人の海賊キャプテン・キッドが降り立つ。ウンダーランドもジンクスも人類の植民星であり、それぞれの環境に順応した人類たちである。キッドは非人類であるパペッティア人が完全に秘匿してきたパペッティア星系を発見したのだという。その発見がキッドを海賊にし、そしていま人類の警察から追われている。捉えられたマン博士には、しかし、キッドを出し抜くすべを知っていた。それは「帝国の遺物」である…。

銀河の<核>へ
金を使い果たした頃、べーオルフ・シェイファーのもとにパペッティア人が現れる。ここはジンクス星。ウィ・メイド・イット星とはかけ離れた場所だ。ジンクス星のゼネラル・プロダクト社支社長は、シェイファーに対して超光速の宇宙船を提示し、その性能の誇示のために銀河の中心まで行って撮影してきて欲しいと高額の謝礼をもって提示してきた。銀河核には何があるのか、どうなっているのか。ノウンスペースの種族の誰もが知り得ない現象を初めて確認するのである。その結果は、パペッティア人を驚愕させ、彼らをして驚くべき行動を取らせるのであった。

ソフト・ウェポン
ジェイスン・パパンドローは宇宙船カート・ジェスター号の船長。いま、彼の妻アン=マリーと、臆病と慎重さが特徴の草食非人類種族パペッティア人としては異質な躁鬱気質のネサスとともにジンクス星への帰路の途中にあった。ネサスが異星種族アウトサイダー人との交渉のために船を借り切っていたのだ。しかも、途中でノウンスペースにおける過去のお宝箱ともいえる「停滞ボックス」を発見し、足取りも軽かった。そこでパパンドローはハイパースペースから通常空間に降りて琴座ベータ星周辺宙域を訪ねることにした。かつて異星種族クジン人と人類の戦争のさなかにみた美しい星の光景をマリーに見せたかったのだ。そこでクジン人の秘密工作船に拿捕され、停滞ボックスを強奪されてしまう。そこから出てきたのはかつて見つけられたことのない特殊な武器であった。これがクジン人の手に渡れば再度クジン人が人類に戦争をしかけてくることは間違いない。なんとかして、この窮地を逃れなければ。

フラットランダー
ウィ・メイド・イット人のベーオウルフ・シェイファーはジンクス星から地球への航路にあった。宇宙船レンズマン号でのアバンチュールに敗れ、船内のバーで知り合ったのは地球人のエレファント。地球ではぜひ連絡して欲しいとナンバーを渡されたが、シェイファーは地球を満喫するつもりだった。しかし、人口過剰の地球に到着する早々掏摸の洗礼を受け、エレファントを頼ることになった。彼はとてつもない資産家で、これまでにない体験を求めていた。シェイファーは提案する。アウトサイダー人に会いに行って、(対価を払って)聞けばよい、と。そして、エレファントとシェイファーたちはアウトサイダー人から究極の体験ができる場所の情報を手に入れる。しかし、アウトサイダー人はシェイファーらがゼネラル・プロダクト社製の船殻で装甲しているにも関わらず、慎重な言い回しでリスクを匂わせる。あたかも死に場所を求めるかのように突っ込むエレファントと、アウトサイダー人のふるまいに慎重さを捨てきれないシェイファー。彼らが遭遇したものとは。宇宙にはまだまだ秘密がある。

狂気の倫理
精神障害とその治療や社会的な対応、価値観については常に変化を続けている。人間にはさまざまな精神的な成長や発達の違いがあり、それが属性として「犯罪性向」を持つわけではない。起きた犯罪の原因を精神障害に起因するものとするかどうかは、今日においてきわめて慎重に検討されている。だから、1960年代のざっくりとした書きぶりはともすると差別的な表現や視点とも読める。そういう点は留意して読まないといけないのだが、作品全体のプロットや柱となるセンス・オブ・ワンダーはさすがである。
主人公のダグラス・フッカーは「偏執病」の遺伝的傾向(注:今日において遺伝関与の指摘もあるが明らかではない)があり、自動医療器による自動的・定期的な体内の化学反応調整によってその傾向は抑えられていた(注:現在のところ薬物療法についても定見はない)。
地球で生まれ育ったフッカーは、地球で宇宙船開発の企業を経営していた。しかし、あるときから自動医療器の故障により彼の薬物投与が行なわれなくなってしまう。その結果、彼は妄執に駆られ、地球で犯罪を犯し、マウント・ルッキッドザット星でも犯罪を犯したが治療を受け病から脱することができた。そしていま、フッカーは犯罪被害者の家族であるダグラス・レフラーに再開する恐怖から、ウンダーランド星に逃れようと自らが開発したラムスクープ船にのって脱出をはかるのであった。
そして…事態は時を超えて動き出す。

恵まれざる者
ここで書かれる「恵まれざる者」とは、知性を持っているのにそれに見合う身体機能をもっていない生物というものである。ノウンスペースシリーズではイルカは知性を持つ存在として認識されており、必要に応じて「義肢」を装着し道具を操作することができる。ここで登場するのはグロッグ。成長するにつれ岩に定着し動かなくなるのに大きな脳髄を持つダウン星の現住生物である。彼らに必要な道具を開発し売りつけるためにやってきた地球人のガーヴェイは、はたしてグロッグの知性と必要を見つけることができるのか?

グレンデル
舞台はダウン星からガミジイ星に向かう客船アルゴス号。乗っていた異星人クダトリノ人のルルービーが誘拐される。同じ船に乗っていたのは例のベーオウルフ・シェイファー。そしてルルービーをめぐり、ベーオウルフ・シェイファーの最後?の闘いがはじまる。そして、シェイファーと「ルイス・ウー」の関係が語られるのであった。

 27世紀のパイロットべーオルフ・シェイファーを中心に、ノウンスペースの中心、周辺、辺境、外側での様々な出来事が語られる一冊。中性子星、銀河の核、不思議な惑星、スターシードやグロッグ、アウトサイダー人、パペッティア人…。ノウンスペースの魅力がたっぷりとつまった作品群である。再度書くが、1960年代の作品であり表現には今日的には問題があったり違和感があったりする。だから時代背景は踏まえておいた方がいい。それでも、宇宙に憧れ、人類の拡散を夢見るニーヴンが描く宇宙は人間くさくて、そして、人類を超越していてそのバランスが実によい。

 ところで、2004年の際には「リングワールド」に直接関係のない「狂気の倫理」「恵まれざる者」をお勧めしていた。ところが、今回読むと、この2作品がもっとも違和感を感じた作品になった。時代や経験、考え方が変わるとこうも変わるものらしい。読み返しは大事だ。

地球からの贈り物(再)

A GIFT FROM EARTH

ラリイ・ニーヴン
1968

 2004年に記録がある。再読であるが、20年近く前のことだから忘れている。
地球からの贈り物 2004感想
 ノウンスペースシリーズの長編である。人類の初期の植民星のひとつ、鯨座タウ星系のマウント・ルッキッザット(Mt.Look It That)に入植がはじまり300年後のお話し
 極端な惑星で、生存可能圏は惑星に1カ所、極端に高い山の山頂平原(プラトー)のみ。崖の下は地獄。恒星間ラムスクープロボット探査船がみつけた「生存可能」な惑星の正体。
 第一陣と第二陣の植民船は、その実態も知らずに入植する。
 土地も資源も限られた世界で、人々は死に物狂いで働き、子を育て、人口を増やしていった。そして極端な惑星に極端な階級社会が誕生した。ふたつの植民船は核融合によるエネルギー源、それをつなぐ形で建設された「病院」は長命を保証する臓器移植の要であり、すなわち「臓器」の元となる人体を解体する場所であり、すなわち死刑宣告をする場であり、そこは「統治府」と呼ばれていた。統治府は、植民星乗組員の血筋からなるエリートが警察機構ともども管理していた。乗員は最上階級であり、その子孫は純血階級として病院と同じ最上部の「アルファ」で優雅な生活を送っていた。そして、その下の「ベータ」以降の地では、睡眠状態で運ばれた移民の子孫たちが生きるのもやっとの生活を続けていた。もし、少しでも小さな犯罪をおかせば、彼らは「臓器」となる。いや、「臓器」が不足すれば、彼らは実質的に狩られるのだ。しかし、ほとんどの移民たちは、その暮らしに異議を唱えることもなく、日々の暮らしを続けていた。この状況を変えたいと、秘密結社「地球の子ら」は非公然活動を計画し、統治府に狙われていた。
 そこに地球からラムロボットによる「贈り物」が届けられる
 落下した贈り物を最初に見つけたのは「地球の子ら」のひとりであった。

 主人公のマシュー(マット)・ケラーはごくふつうの目立たない青年。子どもの頃からいじめられることもなく、恋人もできないまま、鉱物を採取するための特殊なミミズを管理する仕事に就いていた。ある日、学校時代の友人からパーティに誘われる。それは「地球の子ら」が集会の隠れ蓑にするために開くパーティーであった。そして、統治府は、このパーティーをかぎつけていた。
 物語は、マシュー・ケラーが特殊能力を自覚なく発揮するところからはじまる。
 彼の能力は「幸運」、実際には相手の目を見ることで、相手の瞳孔を収縮させ、彼を見えなくするとともに一時的に前後の記憶を失わせるというもの。
 よくわからないけど、姿を消せる能力はすごいね。
 この能力が「地球の子ら」を助け、「統治府」を混乱の渦に巻き込み、「贈り物」をめぐっての大きな社会変革につながるのであった。

 そういう物語。冒険譚でもある。

 初期のニーヴンの設定に臓器移植が健康と長命にとって欠かせない技術となった社会というのがある。誰もが臓器移植を望み、健康と長命を望む。そのためには「臓器」が必要で、「臓器」のためには犯罪者を死刑にするのが手っ取り早い。殺人などの重罪だけではとうてい臓器は足りないから、地球では軽微な交通違反でも「死刑」となるようになった。そして、人々はそれを支持した。
 この前提が崩れるのは、人工臓器や臓器再生など移植によらない健康と長命の医療技術である。では、そういう新しい医療技術が開発され、社会に導入されるとなったら、果たして「死刑」や「犯罪」の扱いはどうなるだろうか?
 すなわち社会はどう変わるのか。
 ひとつの科学技術の導入が、社会を一気に変えることがある。
 荒唐無稽な設定の中に、ニーヴンは仮説をくり返す。

 人間は柔軟だけど、でもさあ、「自分が簡単に犯罪者=死刑になるかもしれない」って相当なストレスだと思うんだよ。とてもいやな社会だと思う。

映画 原爆下のアメリカ

1952

Invasion U.S.A

字幕なしの全編。

 アルフレッド・E・グリーン監督、製作アメリカン・ピクチャーズ、配給コロンビア・ピクチャーズ。アメリカ公開1952年12月10日、日本での公開は1953年4月23日。

 微妙な時期のアメリカにおける国威発揚映画である。
 第二次世界大戦後、映画が公開された1952年より少し未来の好景気に沸くニューヨークのとあるバー。牧場主は政府の規制が厳しく税金が高いと文句を言い、トラクター製造会社の社長は米軍が戦車の修理をやれと言うが儲からないので断ったと自慢、上院議員は軍備縮小のモンロー主義者、テレビ記者は戦争の脅威をネタとして使い、若い女性客はファッションにしか興味がない。
 そこに、アラスカに未確認の共産主義勢力による戦闘機爆撃がはじまったとの報道が入る。やがてそれは核攻撃となり、アメリカは敵の攻撃にさらされていく。
 ついにはニューヨークにも原爆が投下される。
 もし、市民や事業者が務めを果たし、戦争の脅威、共産主義の脅威に耳を傾け、税を納め、軍事費を惜しまず、戦車を修理し、備えていたならば…。
 
 というお話し。
 ドラマ部分はともかく、戦闘部分や原爆映像は、主に第二次世界大戦時の記録映像をリミックスして使われている。詳しい人が見れば矛盾だらけだが、その映像に描かれている戦闘とその映像からは直接見ることのできない「死」は本物である。
 どうしてこういう映画がつくられ、日本でも公開されたのか。
 ちょっと歴史を振り返っておこう。

 2023年の今日に至るまでアメリカ合衆国はその建国・独立以降他国に本土を攻撃されたことはない。1940年にハワイ島を攻撃した大日本帝国軍(パールハーバー)がもっとも直接的な軍事攻撃である。アメリカ本土への直接攻撃でもっとも大きかったのは2001年9月11日の同時多発テロ事件であろう。
 また、本土攻撃の可能性にもっとも近かったのは、1962年のキューバ危機であろう。これは、核戦争、第三次世界大戦にもっとも近かった出来事でもあった。
 しかし、くり返すが、アメリカは本土攻撃を受けたことがない
 そして、1945年の第二次世界大戦終結、勝利後、一時的に経済成長は止まったがヨーロッパの復興需要などもあり好景気となる。 

 映画は主に1952年に製作されたものであろう。
 その7年前、第二次世界大戦は1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏したことで終結した。しかしその頃には、第二次世界大戦後の世界の覇権をめぐってアメリカとソ連(ソヴィエト連邦)との間で「冷戦」がはじまっていた。アメリカおよび西側諸国はソ連を中心とした社会主義国家による共産化を恐れた。
 アメリカはすでに核兵器を開発し、1945年8月に日本で実戦使用していた。広島と長崎に対する原爆投下である。その被害の大きさと放射線の影響についてはアメリカにおいても報道が規制され、また、広島と長崎ではアメリカによる調査が長く続いていた。
 一方、ソ連も1949年9月には原爆実験を成功。ここより世界は核開発競争と核戦争への脅威にさらされることになった。アメリカも核開発を急ぎ、ネバダに核実験場を建設、1952年には水爆も完成された。
 冷戦というが、代理戦争ははじめられている。
 ソ連と同じく社会主義国となった中国の後ろ盾を受けて北朝鮮が韓国を攻撃、韓国及び連合国との間で朝鮮戦争が勃発した。1950年6月のことである。
 当時、日本は実質的にアメリカの占領化にあり、朝鮮戦争の後方基地の役割を担っていた。日本は再独立に向けて憲法をはじめ政治体制、社会体制の再構築をはじめていたが、アメリカ側は日本の軍事的無力化と長期的な占領も考慮していたと思われる。しかし、朝鮮戦争をはじめ、冷戦が進行することで、日本を再独立させ西側諸国に組み入れることが優先される。1950年にはGHQにより準軍事組織として警察予備隊が設置された。
 そうしてサンフランシスコ平和条約が1952年4月28日発効。形の上で再独立を果たした。
 アメリカにおいてマッカーシズム(共産党およびシンパの排除)がはじまったのは1948年頃からで、1954年頃までハリウッドでもその嵐は吹き荒れた。
 多くの監督や俳優、関係者が共産主義者として指弾され、追放された。
 その頃の映画である。
 監督のグリーンは1889年生まれ、1952年には63歳ぐらい。1916年には映画監督としてデビューしており本作は映画監督としては晩年の作品となる。20世紀前半を映画監督として生き、名作もB級映画も合わせて60本以上を世に出している。わりとコメディタッチが多いようで、大戦中には戦争物もあるが、これほどまでに直接的な戦争映画はなさそうである。どんな気持ちで、どんなオファーでこの映画を撮ったのだろう。

 ちなみに、最後はジョージ・ワシントンの言葉
 To be prepared for war is one of the most effectual means of preserving peace.
 で締められる。
 平和を守る最も有効な手段は戦争への備えである。

 アメリカらしい考え方だ。

帝国という名の記憶

帝国という名の記憶
A MEMORY CALLED EMPIRE

アーカディ・マーティーン
2019

 遠き未来、辺境の地ルスエル・ステーションは偉大なるテイクスカラアン帝国版図の域外にあり、鉱石採掘惑星のためのコロニー国家として存在していた。同時にルスエル・ステーションは外世界へのジャンプゲートを持つ重要なエリアでもあった。
 いま、ルスエル・ステーションは帝国に取り込まれる可能性と、外世界のコミュニケーション不能な非人類種族の侵略可能性のはざまにあった。そこに帝国の艦隊が突如立ち寄り、「新たな大使」を早急に派遣するよう要求してきたのである。
 詩をはじめ、帝国の高度に洗練された文化にあこがれ、帝国への派遣を願っていた若きマヒート・ドズマーレは、その新任大使に選ばれ、本来ならできたはずの準備もそぞろに、帝国の艦艇で帝国の中心に運ばれることになったのである。

 きらびやかな帝国のシティでは、スリー・シーグラスというやはり若き二級貴族がマヒートの文化案内役として待っていた。スリー・シーグラスなしに、マヒートは必要なドアさえ開けられないのである。「野蛮人」として辺境の大使に着任したマヒートは、すぐに帝国にうずまく様々な陰謀、謀略、奸計に巻き込まれる。
 まずは、前任者であるイスカンダー・アガーヴン大使の死体と対面することになった。果たして事故死なのか、殺人なのか。長きにわたってルスエル・ステーションの大使としてルスエルのために働いていたはずのイスカンダーは、しかし、帝国内で皇帝をはじめ多くの有力者と交流を持ち、帝国内でも大きな力を持っていたらしい。
 いま、帝国では高齢となった皇帝の後継者をめぐって一触即発の危機が起きていた。
 そのため、マヒートには大きな期待と何か分からないが「役割」が求められる。
 帝国をめぐる壮大な宮廷劇が幕を開ける

 本作で登場するSFガジェットはつきつめればひとつ。ルスエル・ステーションが開発したイマゴである。過去の記憶と人格を持ったユニットを脳と結線することでホストと統合を果たし、包括した新たな人格として過去の記憶と経験を持つ存在になるという技術である。イマゴのホストとユニット内の最終人格との統合には相性があり、慎重に組み合わせた上で、心理的適合が行なわれるまでの期間、心理的なサポートが必要とされている。
 主人公のマヒートは、前任者のイスカンダーがほとんど帰国してこなかったために15年前のイスカンダーのイマゴを導入された。統合期間をほとんどとれないままに着任のため帝国の艦船に乗ることとなり、心理的にも不安定な状況に置かれていた。しかも、イスカンダーが死んでいることは着任まで知らなかったのである。

 この「過去の記憶と人格を導入する」というのは、SFの分野でも、クローンやAIによる仮想人格を利用して扱われることがある。しかし古くはファンタジーの分野でたとえば魔法使いが師匠の記憶と人格を取り込んだり、あるいは乗っ取られたりというのもよくある話である。
 それに加えて、AIでコントロールされた都市、装着デバイスでのコミュニケーション、コロニーならではの政治体制など未来要素もしっかり加わっている。

 帝国、侵略をおびえる辺境国の大使、帝国の後継争いと陰謀、帝国外の脅威、きらびやかな帝国文化、貴族、上流階級の生活と下層階級の不満、軍人と商人。こんなキーワードを並べ、そこに「魔法使い」要素を取り入れれば、壮大な宮廷の物語となる。ローマ、トルコ、インド、中国、アステカ…。帝国の興亡はまさしく華々しい物語となる。
 宇宙の帝国の物語といえばアシモフの「ファウンデーション」、ハーバートの「デューン」など古典作品も壮大である。最近なら(本書でも解説で語られているが)アン・レッキーの「ラドチ」も捨てがたい。
 本書もまた、宇宙戦闘ではない帝国・宮廷もののスペース・オペラとして歴史に残りそうな作品である。

 作品の魅力は、若き主人公マヒート・ドズマーレとスリー・シーグラスのふたりの正反対のバディの人間関係につきる。マヒートにとってみればあこがれの帝国文化であり本来なら帝国に大使として着任したことに浮かれたいところだが、大使という職責、イスカンダーの死の背景と取り組んでいたことの調査、イマゴというルスエル・ステーションの最大の秘密の存在が守られているのかという疑問、さらには本来統合されるはずだった15年前のイスカンダーの不調というトラブルも抱えている。頼れるのはスリー・シーグラスのみ。スリー・シーグラスは、聡明であるが文化的背景の違う存在、異質な存在に惹かれる傾向をもつ真面目な諜報員といったところ。それゆえ文化案内人として、大使マヒートと帝国の間を大使側に立って仕えるというの職責は願ってもなく、「野蛮人」マヒートのふるまいに驚きながらも、その異質な人間性と同質性に信頼を深めていく。マヒートもまた、スリー・シーグラスの視点や行動にとまどいつつも公正であろうとするシーグラスの人間性に信頼を深めていく。
 宮廷にうごめく陰謀に翻弄されながらも、異質なふたりだからこそ、困難を克服し、帝国最大の危機に立ち向かう姿が物語のおもしろさだ。
 つまり、皇帝や中心的貴族、軍人といったそもそも権力を持つ者たちが主人公なのでなく、辺境の若き大使とその案内役(お目付役)が主人公なところにこの物語の鍵がある。能力や経験があればより高い地位となりうるが、若さと未経験故に「わからない」ことが多すぎる。その「わからなさ」の強調がテイクスカラアン帝国とルスエル・ステーションというふたつの政体の姿を読者に時間を追いながら紹介していくことになる。そういう世界の真の姿が徐々に明らかになるという物語の組み立ては、おもしろい。個人的には大好きな構成だ。

 現代の小説らしく、ジェンダーや社会的公正についていまの世界が求めている価値観が当たり前に描かれている。その辺も読みどころだ。
 続編の翻訳が楽しみだ。

アイヴォリー


IVORY

マイク・レズニック
1988

 邦題として「ある象牙の物語」と副題がつけられている「象牙」の物語である。その象牙とは1898年にタンザニアのザンジバルで競売にかけられ英国自然史博物館の地下倉庫に収められた「キリマンジャロ・エレファント」のことである。この世界に現存している世界最大のアフリカ象の象牙である。
 銀河歴6303年、民間の調査会社ウィルフォード・ブラクストンの調査員ダンカン・ロハスのもとに「最後のマサイ族」ブコバ・マンダカが高額の報酬で私的調査を依頼する。3千年前を最後に手がかりを失ったキリマンジャロ・エレファントの象牙を探し出して欲しいというのだ。「最後のマサイ族」として義務を果たすためにどうしても必要なのだという。
 ダンカンは、対話型コンピュータの検索能力をフルに活かしながら象牙の行方と、その物語を探していく。それは西暦1885年から今日まで続く地球の、銀河系の、人類の、銀河系種族の歴史であり、孤高の象をめぐる旅となった。

 マイク・レズニックはケニアのキクユ族を中心に据えた連作SF「キリンヤガ」を1998年に発表している。「キリンヤガ」では22世紀の地球からテラフォーミングされた小惑星キリンヤガでの物語であった。それより10年前に書かれた本書「アイヴォリー」はダンカンが調査し、コンピュータが探し出した物語として19世紀から銀河歴6300年(銀河歴は30世紀に制定)の7000年に渡る物語である。
 象牙は巨大な孤高の象の力の象徴であり、あるものにとっては権威、あるものにとっては政争の材料、あるものにとっては芸術の鍵、あるものにとっては盗むべきお宝、あるものにとっては戦争の口実、あるものにとっては苦しみの根源となる。

 さらに本書を読むにあたってはふたつの要素が見逃せない。
 ひとつは「象牙」である。「象牙」は主に東アジアにとっては権威の象徴であり、日本では印鑑の材料として使われている。象牙の取引が原則禁止されているが「持続可能な合法的取引」はいまだ認められている。
 そして、アフリカ象の密猟は止んでいない。
 アフリカ象に限らず、人類は種の保存を言いながらも、大量絶滅を招き続けている。そうして、絶滅が避けられなくなると「保護」を言い出す。
 本書「アイヴォリー」で、人類の故郷である地球に脊椎動物はほぼいない。陸上で見られる大きさの動物といえば昆虫ぐらいである。人類が絶滅を招いたのだ。
 そして、他の惑星でも現住の生物たちは滅ぼされていく。

 もうひとつは「マサイ族」である。今日では「マーサイ族」と表現されるアフリカの民族であり、遊牧民として知られる。
 作者のマイク・レズニックはアフリカの歴史や文化に造詣が深く、それをモチーフにした作品をいくつも出している。本書もそのひとつであるし、そこに差別的要素はない。マサイ族は現在も国境を持たず定住を求めぬ伝統的な生き方をしている人たちも多いと聞く。一方で都市型の生き方を選択した人たちもいるようである。
 伝統的な生き方の中には、現代の人類社会の価値観とは相容れないものもある。そういった相克はいまも、これからも起きるであろう。それは個人と生まれ育った社会との間の問題であり、可能性の問題でもある。
 本書「アイヴォリー」のなかでも、この問題は物語全体の基層となって流れており、それが結末まで続く。
 ひとことで答えを出せる問題ではない。

 本書の物語は壮大であり、他のいくつかの作品と未来史(宇宙史)を共有するものとなっている。第一にエンターテイメント作品であり、そのところどころに考える材料が転がっている、そう思うことにしている。

 2023年、最初に読んだSFであり本であった。「新しい戦前」なんていう言葉が世に放たれた年でもある。新型コロナウイルス感染症パンデミックは勢いを収めていない。大国ロシアは旧ソヴィエト連邦のひとつウクライナへの侵攻を続けており、それが第三次世界大戦の口火とならないことを祈るだけである。
 21世紀、まだ宇宙世紀ではない。

レイヴンの奸計

RAVEN STRATAGEM

ユーン・ハ・リー
2017

ナイン・フォックスの覚醒」の続編である。原題を直訳すると「カラスの戦略」とか「カラスの奸計」といった感じにもなる。
 この世界は「暦法」によって数理、物理法則が決まる。この「暦法」こそが世界秩序の源泉となっている。小さな民族は違う暦法を使っていても大きな世界に影響を与えないが、世界は星間専制国家六連合によって支配されており、その暦法こそが主流である。しかし、六連合の世界に接する異世界では異なる暦法が使われており、それは六連合にとっては「異端」である。異端の暦法が拡がれば世界のあり方は変わる。世界の争いは、自らの暦法を守る闘いでもある。
 グレッグ・イーガンの「シルトの梯子」みたいなものだが、イーガンはハードSFとして描き、リーはスペースオペラとして描いている。作者のユーン・ハ・リーもイーガンと同様数学を大学で専攻した人であるが、イーガンとは異なるファンタジックな世界をうまく描いている。前作「ナイン・フォックスの覚醒」はその世界を説明するのに難解さがどうしてもつきまとい、またスペースオペラというよりはミリタリーSFであったが、本作では「スペースオペラ」といえるようなスケール感を醸し出している。

 ところで、原題がどういう意味かつかみかねていたので、「カラス 数学」で検索してみると「ヘンペルのカラス」なるものが出てきた。「カラスのパラドックス」とも呼ばれる「帰納法の問題」のことであるという。
 「すべて」のカラスは黒い
 という命題の証明にかかわり、命題「AならばBである」の対偶「BでないものはAでない」の真偽と同値であるから、
「すべて」の黒くないものはカラスでない
 を証明すればよい。しかし…、
 ということで、調べてください。

 さて、本作にはカラスは出てこない。しかし、華々しい宇宙ドラマの背景につきまとう帰納法的な疑問。前作の主人公アジュエン・チェリスと、チェリスを錨体としてチェリスに人格を憑依させ、その後チェリスの人格を完全に乗っ取ったシュオス・ジェダオが物語の中心にいる。チェリスの肉体をもったジェダオの精神である。
 ジェダオに指揮権を乗っ取られた宇宙戦闘軍団の司令官キルエヴ、その参謀であったがジェダオの指揮権に従えなかった故に逃げ出したブレザン、それに六連合のリーダーと補佐官たち。物語を展開するのは彼らであり、実は主人公たるジェダオ=チェリスの意図は最後になるまで見えてこない。みなひたすらジェダオの意図を図りかね、その周囲で動くしかないのである。
 ジェダオならば敵である。ジェダオならば大量殺戮する。ジェダオならば…。
 誰も真実を見極めることはできない。

 物語としては、前作よりファンタジー&魔法感が薄れ、人間関係が権力、親族、恋愛など複雑にからみあっていく。また、戦闘もより分かりやすくなっており、前作を読み通してさえいれば読みやすい。
 読後感は、爽快とはいかないが、とても21世紀的だ。
 とくに死生観、ジェンダーの多様性の表現などは、単なるエンターテイメント作品とはいえない深みがある。
 第三部、どうなるのか? 翻訳されるのか? それから読み直してみたい。
 それにしても、SFが高度になってきているのを感じる。
 巻末の大森望さんの解説がとてもよい。読み終えて良かったという気持ちにさせてくれる。すぐれた解説者、万歳!である。

TVアニメ まんが日本史

 1983年~84年にかけて日本テレビ系で放映された全52話のテレビアニメ。日本の旧石器時代からはじまり明治時代の入口までを紹介するアニメーションである。アニメとしては声優は豪華だが絵作りや効果音などは低予算が否めない。各時代ごとのエピソードを主に時の権力者に焦点をあて、ときどき文化や民衆の暮らしなども織り交ぜながら日本の歴史を駆け足で描いた作品である。
 エンディングには現代に戻って裕子おねえさんが男の子と女の子の兄妹にちょっとした解説や兄妹からの質問に答える形でまとめをしている。その後、同時代の世界史から主に中国、ヨーロッパ、中東から南アジアのエピソードを2つぐらい紹介する構成となっている。
 wikiなどによると、2014年にHDリマスターされ、その際に、一部の史実的な補足、修正をナレーションや画面で行なっているという。しかし、ほとんどは制作当時のままとみられる。
 日本史の勉強としてはざっくりしたものだし、デフォルメもされているので、そのままを受け止めることはできないけれど、歴史の復習や日本史のおおまかな流れを把握するにはよい学習漫画であった。
 なにより楽しかったのは裕子おねえさん無双である。教科書的な本筋の日本史は権力者が権力につき、やがて別の権力者に代わることを描くわけだが、まあみごとなほどに「権力を握るものは権力にとりつかれる」ことについて時の権力者が登場し、なにかことを起こすたびに、それを一言で切りまくり、結局、農民をはじめとする「民(たみ)」が苦しむということを、アニメの無表情な絵柄で他人事のように語るのである。
 その一言が聞きたくて最後まで見てしまった。

 このアニメは日本テレビ系で地上波放送されたようだが、当時はバブル経済初期、第一次中曽根政権のころである。それまでの日本の総理大臣と違って、「大統領的」な総理大臣と言われ、行政改革、民間活力、アメリカとの軍事関係などに力を振るっていた時代である。ジャパンアズナンバーワンの時代である。そのような中で、このアニメでは、繰り返し「権力を持ったものは、最初はどんなに善い動機であっても、それに固執し、腐敗し、人々を苦しめる」ことを表現するのである。
 果たしていま同じように日本史をアニメーションでやったらどうなるだろうか?
 長引く不況と政治経済の面で国際的な地位の低下が起きている中で、メディアには「日本はすごい」論調があふれ、ナショナリズムが高まっているいま、同じように日本史を語ることができるだろうか。
 そういう感慨にかられてしまうほどに裕子おねえさん無双は強烈だった。
 ちなみに裕子おねえさんの声は、杉山佳寿子さんである。

ロボット・イン・ザ・ガーデン

A ROBOT IN THE GARDEN

デボラ・インストール
2015

「庭にロボットがいる」妻が言った。
 この一文からはじまるのが本書「ロボット・イン・ザ・ガーデン」である。直訳である。
 その通り、ある日若い夫婦の家の庭にロボットが座っていた。
 よくいる家庭用のアンドロイドではない「ロボット」だ。アンドロイドとロボットの定義を議論し始めたらきりはないが、この世界では家庭用ならば掃除、食事、子供の送迎までできたりする人型ロボットを「アンドロイド」と呼び、とても人型と言えないロボットを「ロボット」と呼ぶ。そして、庭にいるのはおんぼろのロボットだった。
 ロボットを最初に見つけた「妻」はエイミー・チェンバーズ、法廷弁護士である。そして、この家の所有者であり現在無職の夫が主人公のベン・チェンバーズである。両親を事故でなくし、姉で妻と同じく弁護士のブライオニーと遺産を分け合い、家もあり、財産もそこそこあるので働かなくても暮らすことはできるし、仕事も慌てることはないとちょっと引きこもり状態の男である。
 エイミーが言外に言ったのは「庭の(薄汚い)ロボットをなんとかしろ」である。エイミーはちょっと見栄っ張りなのだ。しかたなくベンはロボットに話しかける。
 それが物語の始まり。

 知能は備わっているらしい。そして所有者の痕跡もある。さらに胸部には黄色い液体の入った瓶がついていて、ひびが入っている。どうやってここに来たのか、そして、修理はできるのか、片言の会話を続けるうちにベンはロボットが気になるようになる。もしかするとこの液体がなくなるとロボットは死んでしまうのかも知れない。心配になる。
 一方のエイミーはそれも含めてベンにほとほと愛想が尽き、家を出てしまう。
 ベンはロボット、自称アグリッド・タングを連れて、製造元や元の所有者を探して旅に出ることにした。

 という物語。大人のジュブナイルである。
 SFであるがファンタジーでもある。
 ヤングアダルトの成長譚といってもいい。
 なんなら迷子で記憶喪失の少年を連れたロードムービー的なストーリーと言ってもいい。

 読みながら、ずっと子供の頃に読んでいた絵本「ぽんこつロボット」(古田足日絵・田畑精一文)を思い出していた。こちらはガラクタロボットを少年がつくる話だが、やはり旅をするのだ。
 青少年と壊れかけのロボットには旅をさせるとよいのだ。
 そういえばまだ見ていないけれど、映画「ロン 僕のぽんこつ・ボット Ron’s Gone Wrong」(2011)というのもあるな。こちらはどうなのだろう。

 そして、旅というのは生きて帰りし物語というのが筋が良いとされている。
 ぽんこつロボット・タングの運命は。そして、ベンは大人として成長することができるのか? 刮目して見よ。

 続編も翻訳されているらしい。