孤独なる静寂


SILENCE IN SOLITUDE

メリッサ・スコット
1986

「天の十二分の五」に続く、サイレンス・リー三部作の第二作である。邦題は「孤独なる静寂」だが読み方によっては「サイレンスの孤独」とも読める。そう、第二作は主人公サイレンス・リーがたっぷりと孤独感を味わうことになる。とはいえ、「静寂」とはほど遠い波乱にとんだドラマが展開される。
 主人公のサイレンス・リーは人類居住宇宙の覇権を占めるヘゲモニー(覇国)の中では希有な女性の宇宙船パイロットである。この宇宙は天界物質を音によって操作することで宇宙間を航行し、物質を変容させ、いわゆる魔術を使うことができる。パイロットは、星系から星系に渡るための技能を訓練されている。エンジニアはそのためのハーモニーを正確に出すための調律をする。一方、魔術師もいて、宇宙船は飛ばせないが様々な技を振るうことができる。
 前作でサイレンスは海賊結社「神の怒り」の輸送船船長であるデニス・バルサザー、同じ船のエンジニアであるジュリアン・チェイズ・マーゴと出会い、パイロットとして仲間に加わり、事件に巻き込まれるなかでふたりと3人婚姻を行い、家族同然になっていった。

 本作の舞台は3つの惑星。まず、魔術師の世界ソリチュード・ヘルマエ。前作で出会った老魔術師イザンバードがサイレンスの魔術師としての可能性に気がつき、サイレンスはソリチュード・ヘルマエで魔術師の見習いとなる。女性の魔術師は例がないがイザンバードは強く彼女の訓練を推したのだ。
 サイレンスにとっても、イザンバードにとっても、それぞれの動機は異なるが人類の発祥の地であり、秘密となっている地球への航路を見つけ、地球にたどりつくことを願っていたのだ。イザンバードはそのためにサイレンスを魔術師にする必要を感じていた。
 サイレンスのふたりの夫は金と情報のためにサイレンスと離れ新しく得た輸送船で仕事をしていた。サイレンスは孤独を感じながらも魔術師の技を着実に身につけていった。
 故あってソリチュード・ヘルマエを離れた4人は地球への手がかりを求めてイザンバードの旧知であるイナメリの総督アベデン・キッペを訪ねる。そこで地球への手がかりとなる情報提供の代わりに、覇王に政治的人質としてとられている総督の娘アイリを救出するよう求められる。
 ヘゲモニーの中心となる星系のひとつ惑星アステリオンには広大な女宮があった。アイリは覇王の妹が支配する女宮に暮らしており、そこにイナメリの提督の娘と偽装し、アイリの話し相手役として入ることとなった。外部からの侵入がほぼ不可能で限られた女性だけが入ることのできる女宮にあって、女性で魔術師の技を持つサイレンスの存在はイナメリの総督にとっては人質の娘を救い出す千載一遇の好機だったのである。
 サイレンスは貴族としての様々なマナーや知識、提督の娘として知っておくべき情報をイナメリにおいてたたき込まれ、ただひとり困難な任務に向かうのだった。

 ということで、サイレンスが成長するために知識と技能を詰め込まれ、詰め込まれてはそれを最大限発揮して様々な危機に対応するサイレンス孤軍奮闘の第2部である。
 前作で仲間を得て、ちょっと居場所を見つけたサイレンスにとってひとりで頑張らなければいけない日々が続く。その間にほんのわずかであってもバルサザーやチェイズ・マーゴとの交流があり、それこそがサイレンスの心の支えとなる。最愛の祖父を亡くし、親類も信じられずひとりで強く生きようとしてきたサイレンスにとって新たな家族を得たことが彼女の強さを引き出すことになるのである。
 魔法世界のスペース・オペラ。そういうものが成立するのは著者メリッサ・スコットの力量なのだろう。完結編となる第三部が楽しみである。

映画 月のキャットウーマン

Cat-Women of the Moon
1953

 1953年にはロケットはあったけれど人類は宇宙をまだ知らない。初の人工衛星は1957年のスプートニク1号(ソ連)、人間が宇宙飛行をしたのは1961年のボストーク1号、ソ連のユーリ・ガガーリンである。
 だから1953年の月旅行は想像の世界である。技術的にも科学的にも。

 人類発の月探査ロケットは5人のメンバーが乗り込んでいた。そのうちひとりが女性のヘレン。彼女は月着陸エリアを月の裏側にすべきだと判断。裏側はもちろん誰も見たことのない世界である。ヘレンは洞窟を発見したとメンバーに告げ、5人は洞窟を探検する。なんとそこは酸素があり、文明の痕跡があった。宇宙服をはずして調査する5人の前に、美しい女性たちが黒タイツ姿で現れる。女性たちは月世界の文明の生き残りであり、すでに男性は絶滅していたという。地球人をもてなしながらも、宇宙船の秘密を得ようとする。そう、宇宙船を乗っ取って地球を侵略しようと考えていたのだ。

 なぜ「キャットウーマン」かって?「キャットウーマン」は1940年、バットマンで登場した黒ずくめの悪役だ。この映画はバットマンとはまったく関係がないけれど、「キャットウーマン」は「キャットウーマン」なのだ。おお、権利関係の薄いすばらしい時代よ。
 ということで、ハリウッドのキャットウーマンたちが闘ったり、踊ったりします。

 宇宙船、月の描き方については、だから、笑って見て。

 映画「怪物宇宙船」のところでも書いたけれど、「女だけの世界」あるいは「男が滅んでしまった世界」で初めて出会った男性と恋に落ちるというパターン。あるんだね。

 カラーではなくモノクロ映画です。

映画 怪物宇宙船

Ship of Monsters

1960

 メキシコのモノクロ映画。「La nave de los monstruos」。
 コメディ、SF、パニック、お色気映画かな。
 金星では男性が絶滅し、女性の星となっていた。そのため他の星々から男性を連れてくるように女王に命じられ、ガンマとベータのふたりの若い女性が宇宙船で出発する。ベータはガンマとともに育ったのだが金星人ではないらしい。ミッションをこなし、途中で知的生命が滅んだ星に残っていたロボットを救出、ロボットの助けもあり、故障してしまった宇宙船で地球に不時着。宇宙船の中には、ふたりの金星人の女性、ロボットに加え、「怪物」のような火星人などの4人の男性体が捕らえられ、凍らせられていた。
 一方の地球。牧場主で「ほら吹き男爵」的なラウリアーノが登場。ラウリアーノとガンマは恋仲になり、ベータはラウリアーノに片恋する。金星人のガンマとベータは「愛」を知らず、実は自らの感情も理解できていない。ベータの片恋はもちろん果たせず、怒りのあまり人間態から変身して吸血鬼態になり、4人の異星怪物男性を解放して地球侵略に乗り出す。

 女性だけの国から来た若いヒロインがはじめて出会った男性と恋に落ちる、というのは永遠の安直なSF映画パターンなのかな。実はこの映画の後、偶然にも「月のキャットウーマン」(1953)「ワンダーウーマン」(2017)と「女だけの国から」映画を見てしまった。
 もちろん、1950年代、60年代、20世紀の間の女性の描き方と21世紀の女性の描き方はずいぶんと異なってきている。でも、パターンは一緒だ。ついでに言うと、女性の衣装はかなり露出が高い。もちろん、男性ヒーローものでは上半身裸でムキムキというのが定番だから露出が高くていけないことはないのだが、男性向け娯楽映画だなあと思う次第。もっとも、21世紀の「ワンダーウーマン」は必ずしも男性向けとは言えないが。

 おばか映画です。

未踏の蒼穹

ECHOES OF AN ALIEN SKY

ジェイムズ・P・ホーガン
2007

 私はこの読書感想とも評論とも日誌ともつかない文章作成をはじめるにあたって決めたことがひとつだけある。どんな著作も執筆者がいて、編集者がいて、それを商業販売にまでこぎつけさせた経営者やさまざまな人がいる。とくに訳書となると、著作を見いだし、訳したいと願い、一連の出版にかかわるあれこれを二重以上に繰り広げなければならない。だから決してマイナス評価だけにはせず、原則としてプラス評価で書こう、と。
 どうしてもマイナス評価しかできないのならば、書かなければいいだけだから、と。

 ホーガンは好きな作家だった。高校生の頃、「創世記機械」や「星を継ぐもの」が邦訳され、科学の力を信じるまっすぐな作品を繰り返し読んだものである。
 しかし徐々にその熱は薄れ、「量子宇宙干渉機」(1997)を最後に読まなくなっていた。 
 話は変わるが、先日、数年ぶりに渋谷の駅に降りた。パンデミックの規制が3年ぶりに解除され、その間にも再開発が進む渋谷はすっかり様変わりしていて、夕闇の頃の町は若い人たちと大音量の宣伝文句に溢れていた。人と待ち合わせしていたので、時間つぶしに歩き回ろうとしたがその喧噪に耐えかねて、繁華街の入口に残る書店に入り、息をすることにした。小さな書店に置いてある文庫本は限られている。まして、ハヤカワや創元のSFなどは人気のある十数冊が置かれていたが、それさえ奇跡に感じる。その並んでいる作品の中で所持していなくて読めそうな本が本書「未踏の蒼穹」である。2010年に亡くなったホーガンの最晩年の作品である。
 釣り書きには「『星を継ぐもの』の興奮再び! ハードSFの巨匠が放つ傑作」とある。そんなことはないと分かっていたが、何も買わずに店を出るのも申し訳なく、本書を手に取って読むことにした。そういういきさつがある。

 どうしてホーガンを避けるようになったのだろうか。
 読んでみて、そして、解説で「違和感」の正体をあらためて知って、少しだけ悲しくなった。ホーガンはあるひとつの疑似科学の虜になっていたのである。そして、その疑似科学の説を自明のものとして作品を構築していたのだ。
 考えてみて欲しい、SFには様々な種類がある。その中には現在の科学や技術では解明または達成されていないものをその世界に外挿することがある。その外挿した内容により人間や社会がどう変わり、人がどう動くのか、物語が生まれる。それこそSFの醍醐味と言える。読者はその知識レベルに応じて外挿された理論や思想、技術と現実世界の違いを認識し、作品を楽しむ。作品に刺激を受けて新たな理論や仮説、あるいは技術が現実になることもあるが、あくまでも作品はフィクションである。
 SFの中には、ファンタジーと融合したものもある。神様が出てきたり、宗教的世界観に基づいて書かれたものだ。しかしそれも、真実・事実ではなく、モチーフであり、作品のフィクション性は書き手、読み手とも十分に理解している。
 気をつけなければならないのは、世の中にはフィクションあるいは仮説をあたかも事実・真実かのように論を構築し、一定の支持を集める者が後を絶たない。人間は目の前のできごとに惑わされる生きものなのだ。
 だからSFの書き手・読み手はそのような疑似科学からは距離を置きたがる。
 もちろん、疑似科学を基にして組み立てられたSF小説もまた、作品であり、フィクションとして読む限りにおいては問題ないであろう。しかし、疑似科学は現実の人間社会をたぶらかし、混乱させる。非常に悪質なものなのである。
 ホーガンは、その疑似科学に心を寄せ、晩年にはそれを踏まえて数作の作品を残している。本書「未踏の蒼穹」もまたそのひとつにある。
 正直言って気持ち悪い。

 さて、簡単にストーリーを。遠き未来の金星では人類の末裔である金星人が独自の科学を発展させていた。そして、太陽系探査の過程で地球(テラ)に到達し、そこに金星人とそっくりのテラ人がかつて存在し、相互に殺し合ったあげく絶滅していたことを知る。古い遺跡を発掘しながらテラ人の思考、文化、社会、科学技術を調べる金星人たち。同時に、地球が金星よりも住みやすい惑星であることも実感し、基地の拡大も進んでいた。
 その調査チームの中での人間関係と、金星の中で地球の思想に触れる中で拡大してきた「進歩派」と呼ばれる人々の動きをめぐり小さな事件と大きな事件が起きる。そして…。

 ということで、滅ぶ前の我々読者は早いうちに金星人=地球人の末裔であることを前提にするのである。その点では、数万年前の人間を月で発見したその謎を探る「星を継ぐもの」とパターンは似ているが、あちらはSFミステリぐらいの謎解きだったが、こちらはSFミステリとまでは言えない。そういう点でも、釣り書きほどわくわくする物語でもない。

 しかも、疑似科学臭。
 同じサイエンス・フィクションでも、これはいただけない。
 まず最初に巻末の大野万紀氏の解説を読んでから読むかどうか決めていただき、読む際にはあくまでもフィクションであることを忘れずにいたい。

天の十二分の五

FIVE-TWELFTHS OF HEAVEN

メリッサ・スコット
1985

 ファンタジー系スペース・オペラとでも言おうか。釣り書きには「錬金術的スペース・オペラ」と書いてある。主人公の名を取って「サイレンス・リー」三部作とされる第1作目である。
 はるか未来、遠い宇宙。ヘゲモニー(覇国)が多くの星系の人類世界を武力平定していく時代の物語。リー一族経営の貿易船メインパイロットであるサイレンスは窮地に立たされていた。経営者たる祖父ボデュア・リーがヘゲモニーの惑星セカシアで急死。女性の公人としての権利がほとんど認められないヘゲモニーでは、サイレンスがパイロットとして生きていく道はない。リー一族の宝ともいえる宇宙船黒イルカ号も取り上げられたが、星界の航行に欠かせない星図だけは守り抜いた。そして、宇宙船のパイロットを探していた宇宙船サン・トレッダーのオーナー船長デニス・バルサザーの助けを得て、同船のパイロットの口を見つけ、セカシアを脱出する。ほとんどすべてをなくし、己の才覚だけをたよりとするサイレンスの希有な旅がいま始まる。
 サイレンスは願う、いつか黒イルカ号を取りもどすことを。しかし、ヘゲモニーの各星系侵攻に対するゲリラ的な戦いに巻き込まれる中で、サイレンスの運命は二転三転するのであった。

 大筋をみれば、若い女性パイロットが幾多の危機を乗り越えながら成長する物語である。さらに、ヘゲモニーが人類宇宙を飲み込もうとしている中での陰謀と抵抗といういわゆる「帝国もの」のスペース・オペラである。
 しかし、「サイレンス・リー」の本筋はそこではない。これはれっきとしたファンタジーであり、「魔法」世界の物語なのだ。宇宙には「階層」があって天上物質ハルモニウムを用い、「その音と天上音楽の親和性のおかげで、航行が安定する」のである。パイロットは星図から星々の声と天の声を読み取り、天のの煉獄を抜け、階層を上がり、航路を辿って別の星系へと船を誘う仕事をするのである。
 そのような特殊能力はパイロットに限ったことではない。パイロットは星と星を抜けるための専門職のようなもので、人類世界にはより高度な天の声を聴き、技を扱う魔術師(マギ)が存在する。離れた空間を結びつけてメッセージは人を移動させる力さえ持つ超能力者と言える。より深く天界の声を聴く者と呼んでもよかろう。
 そう、ファンタジーなのだ。
 あとがきの中村融氏解説によると、本書は「十七世紀の新プラトン主義に基づくヘルメス学的知」という「異なる世界観」を前提に書かれているそうである。
 そういえば1980年代なかば、日本でもオカルティズムがはやり、このあたりの神秘主義的な著作が数多く出版されていた。「工作舎」などからいろんな本が出ていたものである。何冊か楽しく読んだが、面倒くさがり屋だったのでそういう「体系」を自分の教養の中に取り込むまでにはいたらなかった。
 背景的世界観がある程度理解できているともっと楽しめるのだろうけれど、そういう歴史ある背景がなくても、SFは「ワープ」とか「エスパー」とか手軽な技を開発してきたのであり、そういうものだと頭の中で読み替えれば著者の意図とは異なるだろうが読むのには差し支えない。世界観が異なれば、表現は変わる。別の世界観にどっぷりとはまるのはいかがなものかと思うが、別の世界観を楽しむのにはよい作品である。続巻も翻訳されているので近々読んでみよう。

アストロ・パイロット


ASTOROPILOTS
ローラ・J・ミクスン
1987

 1989年にハヤカワSF文庫から野田昌宏(宇宙軍大元帥)の翻訳にて出版されたヤングアダルロ系のスペース・オペラである。著者のローラ・J・ミクスンについては本書ではほとんど情報がなく、調べてみると、本書「アストロ・パイロット」が第一長編で30歳の頃の作品である。その後も、SF、ファンダムなどでも活躍しているし、本職は別にあるようである。またSF作家のスティーヴン・グールドと結婚し、共作もあるとのこと。
 どういういきさつで本書が翻訳されるに至ったかは不明だが、野田昌宏は1960年代から80年代にかけての「スペオペ」翻訳の大家であり、多くの作品に名を連ねている。独特の訳語で野田節と呼んでもよいくらいの癖もある。本作の場合、スペオペ密度とヤングアダルト密度のどちらが濃いかと言われれば「ヤングアダルト」が濃いので、今読むとちょっと訳語とストーリーが合わないかなと思わないでもない。でも、おそらく野田昌宏しか本作を訳そうという人はいないだろう。若い作家のデビュー作で、さほど評価も付いていない作品だからだ。だから、これは難しい問題だ。野田昌宏には、「キャプテン・フューチャー」「ジェイムスン教授」「銀河辺境」など中高時代に大変お世話になったのだ。

 さて、時は2110年。人類は太陽系の火星、木星、土星、小惑星帯に居住空間を広げ、さらには系外のエリダニⅡ星系などでの植民にまで行なうようになっていた。
 しかし、地球の政府、企業による太陽系の植民地への支配、圧力は激しく、火星植民地との長い戦争も記憶に新しいところであった。現在、火星を中心にした連邦と地球との間には戦争になりかねない緊張が高まっていた。そんな時代。
 舞台は小惑星帯にある唯一の宇宙技術学校・宇宙技術学寮。そこは、地球、連邦、系外のどこからでも学生を受け入れるが、入れるのは極めて高い知能と運動能力を持つ限られた少年少女である。
 アンドレア伊藤は最高学年で最優秀のパイロット候補生として、学寮への入学希望者を選別するテストを任されていた。今回の選別テストには、エリダニⅡ星系から来た16歳のジェイスンという少年が含まれている。大抵は11歳から15歳なのにアンドレアよりも年上なのだ。しかも、ジェイスンはテストを難なくこなした。ジェイスンの能力や態度にとまどうアンドレア。
 もちろん、ジェイスンには秘密がある。大きな秘密は、彼は現学寮長のトラメルデンと深い因縁があったのである。もうひとつの秘密は、彼が連れているエリダニⅡ星系の生物ススレイである。ジェイスンはススレイを絶滅危惧の生物であり、ペットとして連れているというが、ススレイは高度な知性と特殊な能力を持っていたのだった。
 ジェイスンの秘密が気になるアンドレア。いや、むしろジェイスンが気になるアンドレア。
 トラメルデンの野望を止め、復讐を果たすためトラメルデン学寮長の動向が気になるジェイスン。いやむしろアンドレアの方が気になるのか?ジェイスン。
 そんなことを言っていられないぐらい、地球と連邦の開戦の危機は迫る。
 学寮にも不穏な気配が漂う。アンドレアは両親から学寮からの脱出と系外惑星へ両親とともに移住することを進められるが、そうなると彼女の望みである高級パイロットの道は絶たれてしまう。どうするアンドレア、どうなるジェイスン。
 学内でのトラブル、開戦危機の中で広げられる学長の壮大な陰謀、太陽系外から来た青年の秘密、努力型天才少女の悩みと活躍。
 ね、ヤングアダルトでスペオペでしょ。王道です。

 ちょっと2022年公開の「機動戦士ガンダム 水星の魔女」(この時点で前半のみ放映)を思い出してしまった。こちらの学校は思いっきり企業の思惑のドロドロの中にあるのだけれど、紛争の危機とか、その中の学生生活とか、方向は違うけれどヤングアダルトでスペース・オペラだね。悪くない。

アイリータの生存者

THE SURVIVORS

アン・マキャフリイ
1984

恐竜惑星2 アイリータの生存者」である。3部作と言われていたが、結局この第2部で「恐竜惑星」ものは終了となる。マキャフリイの宇宙では「知的惑星連合」ものとして位置付きまとめられるので、その中での「惑星アイリータ」ものと考えればよいし、第2部で終わったからといって尻切れトンボになっているわけではなく、本書をもって大団円を迎えたとも言える。

 前作で惑星アイリータ調査隊は、巨大母艦探査船ARCT-10からの連絡が途絶え、内部に反乱を抱えてしまった。共同指揮官のカイとヴェアリアン、医師のランジーらが指導者として体得していた特殊能力と、ボナード少年の機転によりなんとか反乱者たちから逃れることができた。しかし、ほぼすべての調査資材などを失い、唯一確保したのはシャトルのみ。そこで本隊は反乱者たちから姿を隠すために惑星アイリータである程度の知能を持っている社会的飛行動物ギフの生息地にあってギフが放棄した崖の洞窟に姿を潜め、助けが来るまでの間強制睡眠に入ることを決めたのだった。SOSは知的惑星連合の上位種族といえる長命のセク族に対して発せられていた。そしてその助けが1週間後なのか、数年後なのか、見通しも立たないままに。

 ということで本作は、長命で行動するまでに時間がかかると言われる岩石的種族セク族のトールが共同指揮官カイを目ざめさせるところから始まる。
 目ざめてみたら、43年の歳月が経っていたのだ。
 まあ、セク族が動くまでそれだけの時間が必要だったということだ。

 43年。人類ならば1、2世代を経ることができる時間である。幸い反乱者たちに見つかることはなかったようである。しかし、もし反乱者たちが生きており、自主的な植民者として生きていたら、ある程度の人口になっているだろう。生きていたら。
 気がついたカイやヴェアリアンたちは、ギフたちが彼らの洞窟と洞窟の中のシャトルを大切に守っていたことを知る。その動機は不明だが、シャトルを巨大な卵として見なし、信仰か象徴としていたのかも知れない。そして、外から来る人類=反乱者には敵対してきたようである。おそらく反乱者たちも、その生存の中でギフと対立関係にあったのであろう。
 さて、カイの古い友であるセク族のトールは、決してカイの救出だけを目的に来たのではなかったらしい。いやむしろ救出は他の調査隊などにまかせてしまい、カイに大昔の探査技術の痕跡がどこにあったかをすぐに教えるよう迫った。どうやら長命で古い銀河種族であるセク族と惑星アイリータには深い関係があったようである。
 そう、惑星アイリータの数々の謎は、セク族とのつながりのなかで解かれていくのである。
 物語は、セク族と惑星アイリータの関係を伏線としながら、本筋は反乱者たちと調査隊との接触と、人類とギフたちとの交流を軸に語られる。そのなかでも、反乱者たちの子孫である若きリーダーでマッチョでまっすぐな好青年アイガーと、そんな好青年アイガーに惹かれてしまうヴェアリアンが物語の軸となる。そして、救援要請をもって来訪する艦隊との関わり。全部を一気に片付ける勢いのある第二巻となっている。
 このあたりはストーリーテーラーとしてのマキャフリイの面目躍如といったところ。
 それにしても、最初の段階で惑星アイリータの現住生物に襲われ毒で苦しむことになってしまうカイがちょっとかわいそうでならない。
 そして、セク族。すごいぞセク族。寿命も繁殖方法も明らかにされないが、知的惑星連合にとっては上位種族としかいえない強大な力を有するセク族。ぶっちゃけ人類を含む他の宇宙種族のはるかはるか以前より宇宙航行種族として長い長い歴史を持つセク族。そんなセク族の驚くべき姿や生態、歴史の一端を、本書は明らかにしてくれるのだ。
 おもしれー。セク族。

惑星アイリータ調査隊


DINOSAUR PLANET

アン・マキャフリイ
1978

 書かれていない作品を最初から三部作と位置づけてしまったことで書かれなかった第三部を待っているうちに作者が亡くなってしまい、決して書かれなくなることはよくあることだ。作者が亡くなったのだから、あきらめはつく。それよりももっと多いのは、書かれたのに日本語には翻訳されなかったシリーズの後編というやつである。これは泣くに泣けない。最近は、紙の本の出版が減ったこと、海外SFの需要が減ってきたのかもしれないが、第一部だけが翻訳されてそのままということもある。寂しい限りである。どうしても読みたければ原書を調達して読み解くしかない。がんばれ、私。

 さて、本書「恐竜惑星1 惑星アイリータ調査隊」は1978年に発表され、日本では1986年12月に翻訳出版されている。続編の「恐竜惑星2 アイリータの生存者」は1984年に書かれ、1989年に翻訳出版された。創元社から出されているのだが、当時、創元社からは「歌う船」だけが出されていて「パーンの竜騎士」シリーズなどはハヤカワからであった。「歌う船」シリーズは、1969年に初出だが、シリーズ化されたのは1990年代以降である。ということで、SFブームの1980年代後半、創元社が手にしたマキャフリイの作品として期待されたのだ。当初三部作が予定されていたため最初から釣り書きにも「三部作」と明記してある。しかし残念ながらこのシリーズは次巻第二部を持ってその後が書かれることはなかった。マキャフリイは惑星アイリータを第一部、第二部で描ききることでちょっと満足してしまったのかも知れない。

 では、惑星アイリータと知的惑星連合の調査隊について。
 人類および人類の変化種である高重力人、いくつかの異星人種からなる「知的惑星連合」というものが存在する遠い未来の世界の話。どの知的種族にも必要とする希少元素を探索するため「探検評価隊」が組まれていた。そのひとつ探査船ARCT-10は恒星アルータンの3つの惑星の調査を開始する。それぞれの惑星条件に合わせて探査隊は組織、派遣されるため、惑星アイリータには人類種族のみの調査隊が入ることになった。共同指揮官のカイはARCT-10育ちの男性であり、もうひとりの指揮官ヴェアリアンは惑星育ちの女性で異星生物学者である。ふたりとも初の指揮官であり、惑星アイリータの探査隊は比較的経験の浅いメンバーと、ARCT-10の4人の子供たちから構成されていた。また、メンバーの中にはその身体機能の必要から力の強い高重力人も加わっているのであった。
 調査開始からまもなく、母艦であるARCT-10との連絡がとれなくなってしまう。彼らの中には、彼らが「調査隊」としてではなく「植民者」として置き去りにされたのではないかと懸念する者も出てくる。
 さらに、惑星アイリータにははるか大昔に現在の知的惑星連合と同じ装置を用いて地質調査をした痕跡が残っていた。未踏の惑星のはずなのに。
 さらに、さらに、惑星アイリータにはふたつの起源をもつ生態系が存在しており、そのひとつは人類と同じように赤い血を持つ動物群を頂点にしていた。その姿は人類の母星地球でかつて栄えた動物たちにあまりに似ていたのである。
 この不思議な惑星アイリータで、いま、調査隊の中に反乱の危機が迫る

 という物語である。惑星アイリータとは何か?なぜ知的惑星連合の星図では未踏のはずなのに、同じ技術の痕跡があるのか?地質学的時間が推移しているがその時間経過は?誰が?なぜ? この動物たちは? そして、自分達は本当に強制的植民者として置き去りにされたのか?いくつもの謎の中で、若いふたりの共同指揮官が活躍するのである。

 もちろん、マキャフリイであるから、若き女性指揮官ヴェアリアンの活躍がメインとなる。なんといっても本職が異星生物学者、タイトルにあるとおり「恐竜惑星」の謎を解明するのに彼女ほどうってつけの存在はいない。そして、出自文化の異なる共同指揮官カイとの関係。マキャフリイ節炸裂である。
 とはいえ、マキャフリイが書きたかったのはこの惑星アイリータと、その生態系そのものだったように思う。馬を愛し、竜を愛するマキャフリイが、「竜」だけでは描ききれない生態系そのものを描き出すことを楽しんだ、そんな作品なのだろう。

無常の月

ALL THE MYRIAD WAYS

ラリイ・ニーヴン
1971

 中学生の頃、限られたお小遣いを持って、田舎の本屋に並べられた文庫本の中から値段と内容とを吟味し、悩んで買った1冊。表紙もかっこいいし、「スーパーマンの子孫存続に関する考察」とか「タイム・トラベルの理論と実際」とか目次のタイトルにも、中学生にはたまらないものがあったのだ。
 読んでみると、頭の中には???が並んだりもした。だいたい当時は「レンズマン」とか「キャプテン・フューチャー」とか「火星の大元帥カーター」とかを読んでいたので、それからするとちょっと大人すぎな内容の作品が多かったのだ。
 それでも、とても心に残る短編が多いのも本当。よかったよ、中学生の時に読めて。

 短編集として初期の様々な作品が並べられており、ノウンスペースシリーズの中に位置づけられる「待ちぼうけ」「ジグソー・マン」「地獄で立ち往生」も収録されている。
 また、多元宇宙を扱った「時は分かれて果てもなく」「霧ふかい夜のために」や、高次の存在を扱った「路傍の神」などはウイットの効いた作品でテレビなどで人気の「怪奇現象ドラマ」の原作といっても良い感じである。というより、こういうのに触発されてそういうドラマができるんだろうな。ちょっと毒のあるブラッドベリかも。
 こういった作品は分かりやすくてなじみが良い。

 異色の作品と言えば「マンホールのふたに塗られたチョコレートについてきみには何が言えるのか?」である。マンホールの蓋に塗られたチョコレートについて、あなたは何か言えますか? 私はそれが清潔でおいしかったら食べますね。
 物語は正統なSF作品である。あるパーティでひとりの男が言った「やあ、すべてのアダムとイヴ伝説は、すべて本当のことだと思うかい?」この一言からSFを紡ぎ出してみてください。

 日本語版のタイトルとなった「無常の月」はニーヴン版「地球最後の日」。夜、気がつくと突然月がものすごく明るくなっている。その原因は?主人公は原因に思い立ち、寝ている恋人のところに電話をかける。天体マニアの彼女は、月の明かりを見て…。
 短編はアイディア勝負だから、これ以上は説明しないけれど、どうです、月が突然明るくなる原因分かりますか?

 という質問を投げかけたところで、この短編集の要の作品を紹介。ニーヴンがいかにSFを愛していて、オタクで、SFファンを愛しているか、という作品である。
 そして、中学生の私には「スーパーマン」の下ネタを除いてさっぱりわからなかった作品でもある。

「スーパーマンの子孫存続に関する考察」は、タイトル通り。例の青い服を着て、胸にSマークをつけている人間そっくりの宇宙人は果たして子孫を残せるのか?という深遠なテーマを深掘りしてみると。なにせ母星はなくなり、同族はほぼいないなかで、ふだんは地球人として生き、地球人の恋人がいるのである。そこには難題に次ぐ難題が。

「脳細胞の体操-テレポーテーションの理論と実際-」こちらは、実際の講演をもとにして書き上げられたもの。表題通りで、テレポーテーションの定義、歴史、類別(超能力式、機械式)、その理論と実際。とりわけ機械式の場合の方法を仮定し、その可能性を検証するもの。過去のSF作品などを引用しながら新たな可能性にも迫るのである。

「タイム・トラベルの理論と実際」こちらも同様であるが、ニーヴンはタイムトラベルについては厳しい態度をとっている。親切に過去へのタイムトラベル、未来へのトラベル、パラドックスなどを解きほぐし、その小説としての歴史も辿った上で、なぜタイムトラベルの作品が書き続けられるのかという大問題にも迫る。これを読む限り、ニーヴンはタイムトラベルをSF作品として書くことはあり得ないはずだ。

 最後に、エラリー・クイーンの超短い推理小説をしのぐニーヴンの超短いSFをふたつ。それが「未完成短編 一番」と「未完成短編 二番」である。大人になって老齢にさしかかってようやくこの作品のおもしろさが分かってきた。遅いか。

中性子星(再読)

中性子星(再読)
NEUTRON STAR
ラリイ・ニーヴン
1968

「地球からの贈り物」に続き、2004年に読んだノウンスペースシリーズの短編集である。2004年のときの感想はこちら。
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2004/11/17/neutron-star/
 簡潔にまとめていた。
 約20年経つと、見方も変わる。そもそも1968年、45年前の作品である。人間の価値観や社会観は急速に変化している。おおよそは良い方向だが、一方で揺り戻しもあり、多様性を認めない古い価値観が亡霊のように湧き上がる。
 文学、小説は、古い作品は古い価値観が反映する。未来を書いたSFであっても同じである。しかし、SFに限らず、古い作品であっても当時の価値観に抗して人類のめざすべき方向、新たな価値観をもって書き上げられている作品もある。そういう作品が提示する価値観や思想こそが新たな世界を作ってきたとも言える。
 ニーヴンは、良い意味でも悪い意味でも大衆的なSF作家である。SFがとても大好きで、同時代のみんなを驚かせたくて、そして万人に受け入れられたいという素直な気持ちで独自の世界を描いている。だから、ニーブンの作品を21世紀に読み継ぐ上では、そのセンス・オブ・ワンダーに思考を広げるとともに、人類の負の一面を考えていく必要もあるだろう。

中性子星
ベーオウルフ・シェイファーが主人公の作品のひとつ。27世紀初頭、元ナカムラ宙航パイロットのシェイファーは、ウィ・メイド・イット星の片隅で非人類のパペッティア人ゼネラル・プロダクト社支社長から高報酬の仕事を誘われた。パペッティア人はゼネラル・プロダクト社製の宇宙船船殻を製造販売している。宇宙船の95%はこの船殻を使う。強固でどんな力も通さない船殻だからだ。しかし、中性子星に近づいたとき中の調査員が死んでしまった。その原因を調査するために行って欲しいというのだ。金欠のシェイファーは死も覚悟してこの仕事を請け負うしかなかった。そこでみつけたものが、パペッティア人の秘密と大きく関わるのだった。

帝国の遺物
鯨座ミラTの惑星でウンダーランド星出身のリチャード・ハーヴェイ・シュルツ=マン博士は15億年前に滅んだスレイヴァー帝国の「遺物」である生物を調査していた。そこにジンクス人の海賊キャプテン・キッドが降り立つ。ウンダーランドもジンクスも人類の植民星であり、それぞれの環境に順応した人類たちである。キッドは非人類であるパペッティア人が完全に秘匿してきたパペッティア星系を発見したのだという。その発見がキッドを海賊にし、そしていま人類の警察から追われている。捉えられたマン博士には、しかし、キッドを出し抜くすべを知っていた。それは「帝国の遺物」である…。

銀河の<核>へ
金を使い果たした頃、べーオルフ・シェイファーのもとにパペッティア人が現れる。ここはジンクス星。ウィ・メイド・イット星とはかけ離れた場所だ。ジンクス星のゼネラル・プロダクト社支社長は、シェイファーに対して超光速の宇宙船を提示し、その性能の誇示のために銀河の中心まで行って撮影してきて欲しいと高額の謝礼をもって提示してきた。銀河核には何があるのか、どうなっているのか。ノウンスペースの種族の誰もが知り得ない現象を初めて確認するのである。その結果は、パペッティア人を驚愕させ、彼らをして驚くべき行動を取らせるのであった。

ソフト・ウェポン
ジェイスン・パパンドローは宇宙船カート・ジェスター号の船長。いま、彼の妻アン=マリーと、臆病と慎重さが特徴の草食非人類種族パペッティア人としては異質な躁鬱気質のネサスとともにジンクス星への帰路の途中にあった。ネサスが異星種族アウトサイダー人との交渉のために船を借り切っていたのだ。しかも、途中でノウンスペースにおける過去のお宝箱ともいえる「停滞ボックス」を発見し、足取りも軽かった。そこでパパンドローはハイパースペースから通常空間に降りて琴座ベータ星周辺宙域を訪ねることにした。かつて異星種族クジン人と人類の戦争のさなかにみた美しい星の光景をマリーに見せたかったのだ。そこでクジン人の秘密工作船に拿捕され、停滞ボックスを強奪されてしまう。そこから出てきたのはかつて見つけられたことのない特殊な武器であった。これがクジン人の手に渡れば再度クジン人が人類に戦争をしかけてくることは間違いない。なんとかして、この窮地を逃れなければ。

フラットランダー
ウィ・メイド・イット人のベーオウルフ・シェイファーはジンクス星から地球への航路にあった。宇宙船レンズマン号でのアバンチュールに敗れ、船内のバーで知り合ったのは地球人のエレファント。地球ではぜひ連絡して欲しいとナンバーを渡されたが、シェイファーは地球を満喫するつもりだった。しかし、人口過剰の地球に到着する早々掏摸の洗礼を受け、エレファントを頼ることになった。彼はとてつもない資産家で、これまでにない体験を求めていた。シェイファーは提案する。アウトサイダー人に会いに行って、(対価を払って)聞けばよい、と。そして、エレファントとシェイファーたちはアウトサイダー人から究極の体験ができる場所の情報を手に入れる。しかし、アウトサイダー人はシェイファーらがゼネラル・プロダクト社製の船殻で装甲しているにも関わらず、慎重な言い回しでリスクを匂わせる。あたかも死に場所を求めるかのように突っ込むエレファントと、アウトサイダー人のふるまいに慎重さを捨てきれないシェイファー。彼らが遭遇したものとは。宇宙にはまだまだ秘密がある。

狂気の倫理
精神障害とその治療や社会的な対応、価値観については常に変化を続けている。人間にはさまざまな精神的な成長や発達の違いがあり、それが属性として「犯罪性向」を持つわけではない。起きた犯罪の原因を精神障害に起因するものとするかどうかは、今日においてきわめて慎重に検討されている。だから、1960年代のざっくりとした書きぶりはともすると差別的な表現や視点とも読める。そういう点は留意して読まないといけないのだが、作品全体のプロットや柱となるセンス・オブ・ワンダーはさすがである。
主人公のダグラス・フッカーは「偏執病」の遺伝的傾向(注:今日において遺伝関与の指摘もあるが明らかではない)があり、自動医療器による自動的・定期的な体内の化学反応調整によってその傾向は抑えられていた(注:現在のところ薬物療法についても定見はない)。
地球で生まれ育ったフッカーは、地球で宇宙船開発の企業を経営していた。しかし、あるときから自動医療器の故障により彼の薬物投与が行なわれなくなってしまう。その結果、彼は妄執に駆られ、地球で犯罪を犯し、マウント・ルッキッドザット星でも犯罪を犯したが治療を受け病から脱することができた。そしていま、フッカーは犯罪被害者の家族であるダグラス・レフラーに再開する恐怖から、ウンダーランド星に逃れようと自らが開発したラムスクープ船にのって脱出をはかるのであった。
そして…事態は時を超えて動き出す。

恵まれざる者
ここで書かれる「恵まれざる者」とは、知性を持っているのにそれに見合う身体機能をもっていない生物というものである。ノウンスペースシリーズではイルカは知性を持つ存在として認識されており、必要に応じて「義肢」を装着し道具を操作することができる。ここで登場するのはグロッグ。成長するにつれ岩に定着し動かなくなるのに大きな脳髄を持つダウン星の現住生物である。彼らに必要な道具を開発し売りつけるためにやってきた地球人のガーヴェイは、はたしてグロッグの知性と必要を見つけることができるのか?

グレンデル
舞台はダウン星からガミジイ星に向かう客船アルゴス号。乗っていた異星人クダトリノ人のルルービーが誘拐される。同じ船に乗っていたのは例のベーオウルフ・シェイファー。そしてルルービーをめぐり、ベーオウルフ・シェイファーの最後?の闘いがはじまる。そして、シェイファーと「ルイス・ウー」の関係が語られるのであった。

 27世紀のパイロットべーオルフ・シェイファーを中心に、ノウンスペースの中心、周辺、辺境、外側での様々な出来事が語られる一冊。中性子星、銀河の核、不思議な惑星、スターシードやグロッグ、アウトサイダー人、パペッティア人…。ノウンスペースの魅力がたっぷりとつまった作品群である。再度書くが、1960年代の作品であり表現には今日的には問題があったり違和感があったりする。だから時代背景は踏まえておいた方がいい。それでも、宇宙に憧れ、人類の拡散を夢見るニーヴンが描く宇宙は人間くさくて、そして、人類を超越していてそのバランスが実によい。

 ところで、2004年の際には「リングワールド」に直接関係のない「狂気の倫理」「恵まれざる者」をお勧めしていた。ところが、今回読むと、この2作品がもっとも違和感を感じた作品になった。時代や経験、考え方が変わるとこうも変わるものらしい。読み返しは大事だ。