消えたサンフランシスコ

PRISONERS OF ARIONN

ブライアン・ハーバート
1987

 海外SFを読んでいると、ごくたまに、「これはSFなのか?」とか、「どういう気持ちで読めばいいんだろうか」と読み進めながら頭にクエスチョンマークが次々と出てくる作品がある。たいていがシリアスなドラマ展開なのだが、たとえば前提となっている宗教観の違いとかそれに伴う知識の違いが背景にあって、突然天使が出てきたり、亡霊が出てきたりすると、笑ってよいのか、比喩なのか、「天使」や「亡霊」がなんらかの科学(疑似科学)的な背景を持っていてシリアスなドラマに組み込まれていくのか、分からなかったりするからだ。
 これがP・K・ディックの作品ならば、ドラマの整合性に破綻があっても展開が変でも、それ自体がディック的世界を表現してしまい、その「目に見える現象」と「真の世界の実相」との間で揺れ動く登場人物を受け入れることができるのだが、これはひとえにディックという「作者への信用=ブランド」があってのことなのだ。ディックは生涯をかけてこの世界を書き続けてきたのだからよいのだ。
 でも、ごく普通の思考を持つ作家が真面目にディック的な世界を書き上げようとすると、「目に見える現象」の異様さだけが表に出てきてしまい、いったい作者は何を書きたかったのかさえも分からなくなってしまう。

 さて、前置きはともかく、本書「消えたサンフランシスコ」はブライアン・ハーバートの著作の中でもっとも早く翻訳された作品である。原題は「アリオンの囚人たち」ということで、ストーリーは科学的に発達したアリオン星系の大学生グループが地球のサンフランシスコを含むあるエリアをそっくりそのまま球形に地球からえぐり出し、ドームにしてアリオン星系へ連れ出してしまうところからはじまる。このパターン、すなわち知的生命体の住む惑星の一部をドーム型の宇宙船にして移動するというやつは1950年代からのSFにはなんども出てくる設定であり、宇宙人に生活空間そのままとらわれて連れ去られるというのもよくあるパターンである。
 一夜にして地球から離れてしまったサンフランシスコの人たち、域外には出ることも通信することもできず、アリオン人による「通常通りの生活ができるから、通常通りの生活をするように」という声明のみで、不安はあっても通常通りに暮らすしかない状況に置かれてしまう。
 そうなると非常事態の政治体制の確立や残された軍組織等によるアリオン人との対決や地球に戻る方法の模索など様々な事態の展開が考えられる。またアリオン人側も、学生グループが許可を得て行なった行為ではないためいくつかの問題を抱えており、そういう展開も考えられる。
 しかし、ブライアン・ハーバートは違うね。主人公は苦労の多い家族の中でなんとか家族をまとめたいと奮闘する少女、元軍人で配達員を掛け持ちしながら家計を守る父、精神を病んだ詩人の母、母を嫌うぐうたらな兄、手のかかる下の弟と妹。騒動が起きたその日に父を訪ねてきた異母兄。さらに別に暮らす父の祖父母も主要登場人物で、祖父は主人公の少女に優しく、祖母は厳格な市議であり後の代理市長、彼女が母を精神的に追い詰めたひとりでもある。そんな家族の日々の惨憺たる物語が延々と繰り広げられる。その背景に地球を離れアリオン星系へと向かうドーム型のサンフランシスコ周辺という状況が存在するのだ。もちろん、無関係ではあり得ない。だいいち祖母はこの混乱の中で代理市長の座を務め、対策の中心人物になるのである。しかものちにぐうたらな兄も重要な役割を占める。
 さらにはこの家族が生み出してきたクローゼットに住む南北戦争の南軍の将軍でいまは巨大な蚤の姿をした亡霊の存在もある。
 なんだろう。家族の物語であることは間違いないのだけれど。

 訳者は関口幸男氏。関口氏が翻訳を希望したのか、ハヤカワ書房が作品に目をつけたのか。もしかしたら父のフランク・ハーバートが「デューン」シリーズの完結をみずに1986年に亡くなってしまい、その翌年に発表された息子のブライアンの作品をいち早く出すことでちょっとした売上を目指したのか、それとも、すごい名作だと誰かが思ったのか。

 私にとって長年の課題図書でもあった本書、最後まで読み通して、大森望さんの解説を読んでほのぼのとした。解説というお仕事は大変なのだなあ。なんといっても、「売れる」ように作品を紹介しなければならない。もちろん、どんな作品にも良い点もあれば悪い点もあるだろう。だからといって悪いところばかり書き連ねては「売れる」解説にはならない。だから買って読んでみようという気持ちにさせなければならない。
 すこしだけ解説を引用しよう。
「本書は前代未聞のサイエンス・フィクションである。あなたが海千山千のSFマニアであればあるほど、この本に対する驚きは大きくなるだろう。中途半端なマニアであれば、驚愕のあまり本を燃えるゴミの日に出してしまうかもしれない。このショックを減殺するような真似はなるべくならしたくないが、疑り深い読者もいるだろうし、中身にいっさい触れないわけにもいかないから、この解説の後半部では、本書の革命的価値について言及することとなる」
 言い得て妙である。

 いまはブライアン・ハーバートといえば、父の名作シリーズ「デューン」を終わらせるべく、前日譚、後日譚を共著で書き記している(惜しむらくは後日譚は翻訳の予定すらなさそうであるが)。しかも、ドゥニ・ビルヌーブ監督作品の映画「デューン」では製作総指揮にも名前を連ねており、SF界には欠かせないひとりでもある。
 だから年を取ってから読んで良かった。もし若い頃だったら私も…。

タイム・シップ

THE TIME SHIPS

スティーヴン・バクスター
1995

 H・G・ウェルズが1895年に発表した「タイム・マシン」の続編である。「タイム・マシン」は日本でも古くから翻訳されており、たくさんの訳者がそれぞれの言葉を紡いでこの物語を伝えている。時間旅行SFの古典中の古典であり、元祖といってもよい。すでにパブリックドメインになっているので青空文庫などでも読める。まず、オリジナルを読んでから、本書「タイム・シップ」を読もうかのう。
 19世紀の小説である「タイム・マシン」では主人公は80万年後の世界を訪れ、そこで人類の末裔の姿を知り、一時的に暮らした後、さらなる未来の地球と人類の姿を確認してから元いた19世紀末のイギリスに戻り、そしてふたたび旅立つ。そこまでの物語である。

 その後の時間旅行者(タイムトラベラー)はどうなったのであろうか。

 20世紀、ウェルズが明確に存在させたタイムマシンは時代の進歩、科学の進歩、文学の進歩とともに花開き、様々な小説、映画、コミックなどとして、子供向けから大人向け、玄人向けまで無数の作品を生み出してきた。時間、空間の概念や理論が深まるにつれ、時間旅行におけるパラドクスがテーマとなり、パラドクス回避のための架空理論から、多元宇宙、並行宇宙論まで議論は深まり、登場する作品も様々な展開を見せるようになる。
 また、時間旅行というシステムを廃し、そもそもから歴史を改編する、「もうひとつの歴史」というジャンルも生まれておりこれもまた「タイム・マシン」の甥や姪といったところかも知れない。

「タイム・マシン」刊行から100年後、それら1世紀にわたる蓄積を経て、本書「タイム・シップ」では、時間旅行者がふたたび旅立つそのシーンから物語が再開するのだ。
 作者はスティーヴン・バクスター。イギリスの正統なハードSF作家であり、緻密に話を膨らませるのが大の得意とする、続編執筆にうってつけの人物である。
 おもしろくならない訳がない。

 バクスターは、タイム・パラドクスをもっとも分かりやすく多世界解釈で整理した。つまりある時点での選択は別の世界の分岐点となるというあれである。そしてタイム・マシンは世界の分岐を生み出す装置として解釈した。
 主人公の時間旅行者は、ふたたび未来をめざすが、そこに前回行ったはずの80万年後の未来は存在していない。すでに分岐は行なわれたのだ。その新たな未来で旅の連れとなった未来種族のネボジプフェルとともに、過去、19世紀という現在、遠い過去、遠い未来、はるかな世界に旅をすることになる。ひとたびタイム・マシンを動かすごとに世界はさらなる分岐をするのだからストーリーは複雑さを増していくのだが、希代のストーリーテーラーでもあるバクスターに破綻の心配はない。ぐいぐいと読ませていく。
 しかも、主人公は19世紀の人間である。まだ第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、あたりまえだが核兵器もない時代の人間である。飛行機だってまだだ。医療技術も、生物学から物理学まで、その理解もまだだ。そんな19世紀の価値観、知識が前提の主人公である。ネボジプフェルがそれを補う未来の知識を持っているのだが、人類とは遠く離れてしまった人類の末裔でもあり、相互の精神的理解はなかなか果たされることはない。価値観が違いすぎるのである。
 この19世紀の価値観と、バクスターが生み出した未来人の価値観、それぞれの科学的、あるいは、SF的理解こそが、本書をおもしろくしてくれる。
 なにせ主人公は明かりが必要になればマッチを擦ることぐらいしか思いつかない存在なのである。そこに、多元宇宙論とか量子論とか言われても、だ。
 しかも、ここだけはネタばらしになってしまうが、途中から、別の時間線のドイツと果てしない戦争をしていてタイム・マシンを開発しているイギリス軍の軍人というのが登場してきて話がさらにややこしくなる。
 最後は、バクスターならではの究極の世界改変である。すごいよ。ほんとすごいよ。
 最後まで、主人公の19世紀人時間旅行者は、19世紀人のままであるのだけれど、だからこそその目から見る世界の変化は実におもしろいよ。
 日本で翻訳されているバクスターといえば「ジーリー・シリーズ」だが宇宙の究極の姿が描かれていてわくわくする。本作はそのバクスターが人類を基軸にした変奏曲といってもよいと思う。もっと早く読めばよかったよ。
 もちろん、原作「タイム・マシン」の伏線回収もちゃんと用意されている。
 原作者H・G・ウェルズへの敬意あふれる一作。
 
 そうそう、原題は THE TIME SHIPS で複数形となっている。ここが肝心。

銀河帝国を継ぐ者

A CONFUSION OF PRINCES

ガース・ニクス
2012

「選ばれた少年」が軍隊や政治機構の中で様々なミッションや事件の中で人々と出会い、昇進し、人間的にも成長する。ひとつの物語のパターンであり、ミリタリーSFなどでもよく見る光景である。
 原題は「プリンスたちの混乱」、邦題は「銀河帝国を継ぐ者」。タイトルからしても主人公がどんな目に合うのかなんとなく想像つくので、ある意味安心して読み進められる。
 ほっとするきれいな作品であった。

 遙かな未来、人類は銀河系に広がった。1700万の星系、何千万もの植民星に何兆という人類と非人類の知的生命体が銀河帝国の支配下にあった。銀河帝国は3つの技術の上に成り立っている。メカ技術、バイオ技術、そして、サイコ技術である。帝国には敵もいる。帝国に与しない人類・人類派生種族、異星生命体のサッド・アイやデッダーたちである。絶えず危機にさらされながら帝国の版図を守り、広げていく。そのために、皇帝の下に帝国頭脳中枢があり、1千万人の「プリンス」たちがこの帝国頭脳中枢と常につながりながら、実質的な統治をしていた。そして、プリンスを支えるのが様々な特殊技能を持つ奉仕者(プリースト)たちである。とりわけ暗殺のマスターはプリンスの生命を救う上で重要な存在である。
 プリンスは、サイコ能力などを帝国から見いだされ幼い頃に臣民から選抜されていく。選抜された時点で実の親との関係は完全に途絶する。
 プリンスは、元々の能力の強化に加え、帝国頭脳中枢との常時接続をはじめ様々な人体改造を受けたハイブリッドの支配者として育てられ、教育を受ける。そして16歳になるとプリンス候補から正式なプリンスとして統治の道を歩み始める。あるものは宇宙軍に、あるものは植民星の統治機構に…。
 主人公のケムリは、16歳の誕生日の今日、正式なプリンスになった。その直後から他のプリンスたちに暗殺されかける。プリンスたちは派閥を作り、邪魔なプリンスを殺そうとするのだ。もっとも、プリンスは正統な理由がある限り、帝国頭脳中枢によって再生される。実質的な不死でもあるのだ。しかし、皇帝は20年に1度退位し、別のプリンスたちが皇帝候補となって皇帝に変わる。その時期が迫っていた。
 ケムリは、プリンスになり、銀河帝国の虚実を目の当たりにしていく。秘密の試練を与えられ、戸惑いながらもプリンスとして「上」をめざすために帝国の義務につくしていく。
 しかし、やがて、ケムリは「知的存在」として「人間」として様々なことに気がついていく。プリンスという精神的、身体的、社会的特権が犠牲にすることに気がついていく。

 この作品の背景に流れているのは、社会機構の中での人間性の問題である。学校を卒業し、社会に出た途端、多くの人々は自分が社会機構のひとつの役割を果たすことを求められていることに気がつく。ある者はその機構の中でうまく立ち回ろうとするし、ある者はほどほどに自分の落とし所を考える。ある者は機構の中で支配的立場を目指し、ある者は機構の中でたとえば経済的自由を得ることで機構から自由になったと思い込もうとする、ある者は機構の中に組み込まれていることを考えないように生きる。しかし、社会機構の中で生きている限り、そこには個人としての人間性との矛盾が常に発生する。
 超特権階級であるプリンス・ケムリが成長する過程でそのことに気がつき、それぞれの場面で「選択」する物語である。
 どんな選択をするのか、あなただったらどうするだろう、私だったらどうするだろう。
 とはいえ教訓的、教条的な作品ではない。純粋なエンターテイメントライトノベルでもある。だから若い人に読んで欲しい作品だ。

転位宇宙


THE ATLANTIS WORLD

A・G・リドル
2014

「第二進化」「人類再生戦線」に続く第3部、完結編である。タイトルがいいね。「転位宇宙」原題は「アトランティスの世界」である。
 パンデミックで世界が崩壊しつつあるなか、プエルトリコのアレシポ天文台では残って研究を続けていた天文学者が人工的な信号をキャッチしていた。明らかに異星のの知性体からの信号である。
 ところで、地球はアトランティス人が調査対象にした時点でアトランティス人の技術によって地球内部からも外宇宙からも相互にあらゆる信号が出入りしないように管理されていたのである。なぜどんなに調べても地球外の文明の信号が受信できなかったのか、それはアトランティス人が地球を封鎖していたからなのだ。
 実はすでにアトランティス人の母星は「敵」の攻撃によって破壊されていた。銀河の先史文明であるアトランティス人たちもかなわない「敵」。「敵」はアトランティス人に関わるすべての知的種族を滅ぼしに来る。やがては地球にも。そして「信号」は罠に違いなかった…。
 さて、ケイトとデヴィッドの地球人は地球人として生きていこうチームと地球人を制圧して闘う存在に仕立て上げたいイマリグループ・ドリアンの戦いは泥仕合の様相を呈していた。再生したアトランティス人の軍人、ケイトの中の過去の記憶、実は生きていて人類のひとりとしてケイトたちの近くにいたアトランティス人の研究者、それぞれの思惑が人類の危機を前に錯綜する。
 さあ、地球を離れ、飛び出し、アトランティス人と地球人の危機をなんとか救おうじゃないか。ここまで大変だった地球人、そろそろ物語も大団円を迎えて良いじゃないか。ここまで読んできたのだから。
 やっと冒険SFらしくなってきやがったぜ。主人公は変わらないけれど、なんだかずいぶん立場や考え方が変わったような気もするが、それが人生というもんだ。

人類再生戦線


THE ATLANTIS PLAGUE

A・G・リドル
2013

「第二進化」に続く3部作の第2部。原題は、ん?「アトランティスのペスト(疫病)」。まあぶっちゃけるが「第二進化」でストーリーの後半の中心であった敵の「人類にパンデミックばらまいておおむね殺しちゃえ、でもって生き残ったやつは進化するぜ」作戦はみごとに発動してしまうのだった。すまん、ネタバレだ。まあだいたいのところ分かっているから気にすんな。
 あともうひとつ。アトランティス人とは人間とそっくりだけど人類ではなくて高度な文明を持つ異星人だった。アトランティス人が7万年前に人類を滅亡から救い人類の進化を結果的に助けてしまったのだ。
 さて、人類は侵略の危機にあるからそれに対抗するためには人類を強制進化させなければいけないと考え、そのために多くの人を急速に死を招く疫病をまきちらしたイマリとリーダーのドリアン。パンデミックによる混乱に乗じて世界征服にも乗り出した。
 一方、なんとか疫病を食い止めたいと研究を続けるケイトと、ケイトのために命を張るデヴィッドの主人公チーム。情勢は刻々と悪化するなかでケイトは自らの秘密を知り、デヴィッドは死んだり生き返ったりしながら、徐々に真相に近づいていく。
 ケイトは自らの記憶の中に数万年前のアトランティス人の記憶が存在しており、それが徐々にケイトを蝕んでいくことを自覚していたが、その記憶の中に疫病を治療し、人類の生存の道があるのではないかと記憶の中に入っていくのだった。ケイト命のデヴィッドはそんなケイトをなんとか助けたいと思うのだが…。
 世界を着実に征服下に置きはじめたイマリと、イマリの思うとおりにはさせまいとする人たちの戦い、アトランティス人と人類の間の真実、数万年に渡って存在してきたアトランティス人の探査船の中の様々な装置…。
 果たしてアトランティス人は人類の支配者なのか、殺戮者なのか、救世主なのか、それとも…。
 まったくの続編である。というより大長編の第2部なので、ここだけ読んでもあんまりな感じがする。間違って本書を手に取ったら、ページを開かず第1部の「第二進化」を読むべし。本書までくるとちょっとアクションが派手になっていく。ちょっと人間離れしてくると言ってもいい。でも舞台は地球だ。いいか、みんな、舞台は「まだ」地球なのだ。
 刮目して第3部を読むべし。