宇宙の戦士

宇宙の戦士
STARSHIP TROOPERS
ロバート・A・ハインライン
1959
 強化防護服パワード・スーツを装着した機動歩兵がポッドで射出され、惑星に降下し、クモ型の異星人と果てしない戦争を行う。学校を卒業し、市民権を得るためには2年間の志願兵になるほかはない。市民権を得なくても、人は問題なく生きていくことができる。市民権とは参政権であり、実際の行政は軍により行われる。軍人には参政権はない。
 小さなきっかけで入隊したジュリアン・ジョニー・リコは、機動歩兵に配属され、軍人として教育され、戦い、そして、自らが寄って立つ位置を得ていく。
 戦争SFとして、日本やアメリカで人気を博し、同時に議論を生んだ作品である。日本では、1966年に翻訳出版されて以来、ベトナム戦争・日米安保闘争という時代状況もあって、本書をめぐって訳者、SF評論家、読者らが議論をし、それがさらに文庫版のあとがきで再構成されるほどの問題作でもある。
 また、パワード・スーツの概念は、その後、大きなロボットを乗りこなすアニメーションを経て、身体と同様に動かすモビルスーツという概念を導入した「機動戦士ガンダム」などにも影響を与えたと言われている。
 アメリカのSFでも、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦争」、オースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」は、「宇宙の戦士」の状況を色濃く反映した作品となっている。この3作品は「敵」の性質が似通っている。「終わりなき戦争」のトーランは、すべてがクローンであり個人という概念を持たない。「エンダーのゲーム」のバガーは、シロアリやハチ、アリのような社会昆虫型であり、唯一女王が意志を持ち、他の個体は、我々の細胞と同様のものに過ぎない。女王が死ねば、すべて生存できないのである。「宇宙の戦士」のクモは、頭脳グモ、女王グモ、戦闘グモなどの機能分化した社会昆虫型である。いずれも、昆虫型であり、どの戦争も、コミュニケーションが成立しないことで起こっている。
 詳細な戦いと訓練のシーン。軍というシステムの描き方。後続の「終わりなき戦争」「エンダーのゲーム」が、本書に影響を受けていることは明らかである。
 だからといって、ホールドマンやカードがハインラインの同様の哲学を持っているというわけでもない。
 日本で本書を語るとき、作品の内容のみならず、作者の立場や哲学を探るということになってしまう。
 反戦の意志が強かった70年代はもとより、自衛隊をイラン戦争に出兵させ、軍という「正しい」呼称に変え、憲法を変えるという議論が違和感なく繰り広げられる現在においても、本書は、単なるフィクションを超えた迫り方をしてくるのだ。
 それゆえ、作品それ自体ではなく、作者についても考えてしまうのであろう。
 ハインラインは、筋金入りの自由主義者であるとされる。政府も、国家も、なにもかも、個人の意志と身の律し方、道徳や宗教に依拠し、そこから帰属や自由を考える。同時に、現実主義者、たぐいまれなエンターテイナーでもある。
 アメリカ人が理想とするアメリカ人を体現しようとする作者である。
 それゆえに評価され、人気を博し、同時に唾棄される。
 強い意志をもったハリウッド映画のようなものである。
 だから、本書を単に楽しむのもよいし、戦争と平和、個人と国家、社会、自由と規制について考えるのもよい。  その点では、村上龍の「5分後の未来」も同様の作品であろう。
 本書が書かれてから半世紀、いま、アメリカは覇権国家となり、「テロとの戦い」という不明瞭な戦争の中で、国内、国外に威圧を与えている。個人と国家の関係はゆらぎ、再構成を迫られつつある。
 他者との関わりにおいて、戦争=組織化された暴力というコミュニケーション方法しか知らないというのは、不幸である。
 ところで、私が持っている版(1976年の14刷、ハヤカワSF文庫)では、スタジオぬえが表紙やイラストを描いている。このパワード・スーツ・イラストの影響力は大きかった。SFアニメ興隆期だねえ。
ヒューゴー賞受賞
(2004.5.31)