バーチャライズド・マン

バーチャライズド・マン
THE SILICON MAN
チャールズ・プラット
1991
 2030年代。先立つ経済混乱ののち、アメリカ合衆国政府がほとんどの企業を支配し、政府の直轄下においた時代。ひとりのFBI捜査官が違法な武器の製造・流通ルートを探っていたところ、ある軍関係の研究会社の研究室に行き当たる。そこでは、人間などの脳をコンピュータ上の人工環境に置き換えて存在させ、人的損失のない軍の兵器の頭脳部分として機能するためのライフスキャン技術の開発研究が続けられていた。このアイディアは、もともと1970年代のラディカルな自由主義、反政府主義思想を持つひとりの天才科学者が生み出したもので、この研究室のスタッフもまた、彼の手の内の者たちであった。
 コンピュータ下の完全なシミュレーション状況の中に、すべての記憶、人格、感情、生理的反応、感覚を再現させ、バーチャルな状況で生きられる状態をつくること。それにより、永遠の生命を手にすること。そして、もうひとつ、その天才科学者には隠された目的があった。
 捜査を続けるうちに、研究者たちに拉致されてしまう捜査官。そして、その後を受けてひとり状況を追い続ける妻。そして研究者と天才科学者の娘。
 ストーリーとしては、単純である。
 映画「マトリックス」の仮想世界の誕生物語のようなものである。世界にはじめて、仮想世界が誕生し、その中で生きることになったら、どんなことが起きるのか? 「マトリックス」とは違い、現実の人間社会が今の延長上にある中で、現実とバーチャルな世界との接点はどうするのか。その時間軸は?
 コンピュータネットワークが出てきたり、電気自動車が出てきたりするものの、古さを感じてしまうのは、1991年と1995年以降の現実に起きたパソコン&インターネット社会の違いであろう。たとえば、本書では光ケーブルネットワークが完成しているが、そこで「ひとりの人間の心を構成するデータをそっくり送っても、たった45分しかかから」ず、2、3ギガバイトの空き容量である程度人格を持つウイルスクローンをインストールできるのである。たしかに、2、3ギガバイトのウイルスといえばものすごいことができるだろう。しかし、今や、2、3ギガバイトという単位は、ああ、DVD1枚に収まるデータだね、というぐらいのものである。当時、ギガといえば途方もなかったのだ。わずか10年ほど前のできごとである。2030年には、2ギガはどの程度の感覚で受け止められるのだろうか。
 そういう古さを感じるところが、この手のSFの難しさだ。
 しかし、バーチャル人格での永遠の生というテーマを追いかけるつもりならば、本書もまた、その一群の作品の中に残されるものである。
 ちなみに、出てくる食べものはもちろん、「人間がいっぱい」(ハリイ・ハリスン 1966)以来の伝統、大豆(ソイ)ステーキである。
(2004.9.16)