月は無慈悲な夜の女王
THE MOON IS A HARSH MISTRESS
ロバート・A・ハインライン
1966
SF史に燦然と輝く一冊である。
あまたのSFに影響を与え、異星植民地や月や火星を舞台にしたストーリーを書く作者たちにとって本書をどうとらえるか、常に比較され続けてきた。
出版されたのが今から39年前。書かれたのはそれ以前、人類がまだ月を知らないころのことである。
話は簡単である。流刑地として成立した月植民地はすでに第二、第三世代が育っていた。水やエネルギーなどを自給する月植民地は、人口が110億にもなった地球に穀物を輸出する生産基地となっていた。第一世代以外の者は犯罪者ではないから地球に行くことはできるが、現実には重力の壁があり、彼らが地球に降り立つのをこばんでいた。
月の行政府は地球にあり、月に着任する長官は、彼らを統治せず、ただ穀物が地球に間違いなく送られれば、彼らが殺し合おうと何をしようと我関せずである。
月人たちは、流刑地として女性が圧倒的に少ないことや、水や空気すら「無料ではない」現実から、独自の社会、文化、価値観を生みだしていた。
そして、ある者たちは、地球からの独立を模索し、その必要性を実感していた。
一方、月のあらゆるサービスや機能はひとつの巨大なコンピュータによって管理されていた。そのコンピュータは、ある日、意識を芽生えさせる。そして、その人工知性とコミュニケートできたのは、ひとりのフリーランスのコンピュータ技師。その能力ゆえにフリーランスであった彼が、革命を求めるものたちと出会い、人工知性に助けられながら、月の独立に向け、地球と月のさまざまな人々の思惑、欲、権力、そして、その究極の形である戦争を克服していく。
そんな独立譚である。
本書をどの視点から読むのかによって、その評価は変わるだろう。
人工知性の物語として。
植民地の独立、革命を描いた物語として。
水や空気も有料の宇宙船・コロニー的な社会のありようを描いた物語として。
政治や社会のあり方を問いかけた物語として。
どの視点から読んでも、あなたは考え、一言を持つことだろう。
そうさせるのが、本書の力であり、ハインラインの力量である。
こまごましたガジェットの古さは別として、本書は、今日読んでも古さを感じさせない力強さがある。
革命と独立について、今さら私が書くことはない。
また、ハインラインの専売特許でもない。同時代のクラークが、あるいは、現代のベアが、多くの作者が、重力井戸から飛び出して生きる人類の独立を描いている。
革命と独立の要素について、または、その社会と個人のあり方については本書を読まれたひとりひとりの問題として、論ぜずにおこう。
ただ、おもしろかった、と。
今回、私は、本書をひとりの人工知性の物語として読んだ。
それは、人工知性のあり方を模索する現代のSFとしての物語ではなく、拡張された人間性の象徴としての人工知性という古典的な人工知性の物語である。
ここから先はねたばらしになるのだが、唯一の存在として月に誕生した人工知性が、なぜ、この「革命」に参加したのか。なぜ、みずからの存在をかけたのか? 人工知性は、本当に「死んで」しまったのか? それとも「沈黙」したのか?
この人工知性の「人間性」を考えれば考えるほど、「人間性の本質」など知性というものへの問いを考えさせられる。
私たちは、ハインラインが問うほどの自立を果たしうるのだろうか?
ところで、私はこの邦題「月は無慈悲な夜の女王」は原題の直訳だと思っていたが、あとがきを読むと違うようだ。「月は厳格な女教師」という意味だ。なるほど、そういう意味だと本書の内容がよく分かる。ただ、この邦題はコピーライトとしてすばらしい。本書がいまだに日本で読み継がれているのは、内容がすばらしいのはもちろん、この邦題にかかるところも大である。
ヒューゴー賞受賞
(2005.3.29)