太陽系帝国の危機
DOUBLE STAR
ロバート・A・ハインライン
1956
創元推理文庫SF 1964年初版、1980年25版、定価280円。
つくづく、今の文庫って高いなあ。当時よりもたくさんの作品が出る分だけ、1冊ごとの発行部数も少なくなっていて、物価の上昇もあって高くなったのだろうか。
ところで、本書は井上勇氏の訳となるものだが、1994年に同じ創元より森下弓子氏の訳で原題の「ダブルスター」のまま再刊されている。「レンズマン」シリーズなどいくつかの作品が創元で新訳として出されているが、本書もまた、新訳として出されるくらいSF誌に残る名作のひとつなのだろう。
はたしてこれがSFか、SFでなければならなかったのかどうかは疑問の残るところであるが、50年代までのハインラインしか書けない作品であることは疑う余地もない。
火星人、ロケットなどが出てくるものの、内容は高名な政治家の代役を行うこととなったひとりの役者の話であり、物語の原型のひとつを忠実にたどった作品である。火星人をある異民族や外国と置き換えてもいいし、ロケットも必ずしも必要はない。本書をSFでない設定で同様に語ることもできるだろう。しかし、50年代SFパルプマガジンの忠実な設定の上で、ハインラインの思想を物語の原型にのせて語りきり、それを、娯楽として息もつかせず、一気に、2時間ほどあれば十分読み終えることができるよう仕立て上げるのがハインラインの力量である。
ストーリーは、月に皇帝をいだく太陽系の中で、火星では異星人である火星人と地球人の共生が模索されていた。火星人と地球人が同等の権限を持ちつつ、人類は外へ、星の世界へと拡張していくべきという思想をもった党の党首が誘拐され、その代役としてアメリカ人の役者が騒動に巻き込まれる。彼は火星人に異種嫌悪を持ち、政治的な関心を持たない金に困っただけの役者である。しかし、その党首になりきることで、彼はしだいに変わりはじめる。といった、「影武者」ものである。社会のリーダーとその影武者、そして、火星人との儀式、皇帝の役割、誘拐した敵の存在、内からの裏切りと支援、主人公の悩みと成長など、わかりやすい物語である。そして、ハインラインはこのわかりやすさを駆使して、自らの思想を人々に伝える。
私は彼の思想に共感するものではないけれど、そのエネルギーには驚嘆してしまう。
なお、本書を現代において読み解くには、ハインラインの思想もさることながら、その時代背景も加味しておく必要がある。第二次世界大戦が終わり、朝鮮戦争が停戦したものの、アメリカでは反共産勢力の嵐が吹き荒れ、冷戦下において「自由」や「国家と個人」が鋭く問われていた時代であり、この頃のハインラインは、社会への義務を持つ徹底した個人主義・自由主義を確固として求めていた。第二次世界大戦という「自由」と「解放」の戦いに勝利したアメリカで、女性やマイノリティが求めた「自由」や「解放」の意志に対し、社会は反発的な差別意識をあらわにした時代でもある。
その点で、一方で火星人という「日本人」よりも理解できない存在との相互理解と共存を表現するハインラインの徹底の美しさと、個人的行動ではマイノリティの表現にいびつさをみせてしまう時代的表現にとまどうこともあるだろう。
私はハインラインの「身分は義務を伴う」という言葉に秘められている個人主義の中の選民的思想などには気持ち悪さを感じるが、それでも、ハインラインは娯楽を通して自らを表現できる希有な作家であることは間違いない。
彼がもし2005年の現在に生きていたら、「身分に義務が伴うこと」を忘れ、欲と身勝手に満ちた権力のありようを見て、どんな娯楽大作を我々に提示しただろうか。
ああ、そうそう日本にも「わかりやすさ」を表現するに長けた者がいるが、残念ながら彼はSF作家ではなく、政治家であった。この国と国民にとって大変不幸な職業のはき違えであろう。
(ヒューゴー賞受賞)
(2005.9.8)