ファウンデーションの彼方へ

ファウンデーションの彼方へ
FOUNDATION’S EDGE
アイザック・アシモフ
1982
 銀河帝国の興亡・ファウンデーションシリーズは3部作で終わり、アシモフのロボットものと並んでふたつの大きなジャンルを構成していたはずだった。アシモフも、SFへの興味を失ったのか、科学エッセイなどの執筆が多くなっていた。しかし、1980年代は巨星の復活の時代であった。3巨頭ハインライン、クラーク、そしてアシモフが、過去の自らの作品と現実の80年代の科学、社会、SF界に触発されて再び力作を発表しはじめる。そのなかでも、アシモフのファウンデーションシリーズ続編はSF界に驚きと喜びをもって迎えられた。さらに、読んだ者から「ロボットが銀河帝国に登場した!」と、ふたつの世界が統合されそうだと、伝え聞くにつれ、読者はその方向性に期待と、そして、一抹の不安を持っていた。
 その不安は、本書「ファウンデーションの彼方へ」の直後に発表された「夜明けのロボット」でイライジャ・ベイリとR・ダニール・オリヴォーのコンビがみごとに復活したことで払拭された。「夜明けのロボット」では「鋼鉄都市」「はだかの太陽」と同様に、ロボット三原則を軸にした殺人事件の解決が行われ、安心して読むことができた。そして、「夜明けのロボット」の中から、遠い将来の銀河帝国と心理歴史学、それにロボットの関わりの予感を受けることができ、心の準備は整った。
 本書「ファウンデーションの彼方へ」は、第三部から1世紀以上を経てファウンデーション歴ほぼ500年を迎えて幕を開ける。ターミナスのファウンデーションは、ますます科学を発展させ、軍事力、経済力、科学力を持って旧帝国にならびかねない全銀河の3分の1ほどの支配力を有していた。
 その支配力の頂点にはターミナスの「市長」がおり、議会もまた力を盛り返していた。
 今ここに、ひとりの若いターミナス議員が登場する。名前はゴラン・トレヴィズ。彼は、滅ぼしたはずの第二ファウンデーションがいまだに存在すると確信していた。  そしてもうひとり。初老の考古学者ジャノヴ・ペロラットが登場する。彼は、今では誰も気にしなくなった人類の起源問題を追い求め、伝説の「地球」あるいは「ガイア」と呼ばれる惑星を探すため、旧帝国の首都トランターにある帝国図書館への訪問を熱望していた。
 そして、第三部で明かされた真の第二ファウンデーションでもまた、新たな「発言者」が登場し、その野望を胸に抱いていた。
 第三部に続き、今度はトレヴィズとペロラットによる「第二ファウンデーション」「地球」「ガイア」探しがはじまった。
 その一方で、第二ファウンデーションでは、「第二ファウンデーションを操っているもの」の存在が疑われ、その追求がはじまった。
 はたして、「地球」はどこに存在しているのか、「ガイア」とは単に「地球」の別名なのか? 第一ファウンデーションはふたたび第二ファウンデーションの存在に気がつくのか? そして、第二ファウンデーションは第一ファウンデーションに滅ぼされるのか、それとも、第二ファウンデーションは「謎の操作する存在」によって操られ続けるのか?
 1980年代、ラヴロックによって「ガイア仮説」が唱えられ、SFでは惑星規模の高次生命体や融合生命体の「外挿」が行われるようになり、アシモフは、自らのSF世界に「ガイア」という言葉を導入することで、SFの古典である「銀河帝国・ファウンデーション」シリーズを80年代のSFとして昇華しようとした。
 そこには、人はどのような生き方が望ましいのか、人類はどのようなあり方が望ましいのかを問うアシモフの苦悩が見られる。
 考えてみれば、ファウンデーション三部作の後半では科学技術と物質主義の第一ファウンデーションと、それを裏で操作する精神科学の第二ファウンデーションが超能力者ミュールをはさんで対立的に描かれ、どちらの側もその正当性を表現しながらも、最後は第二ファウンデーションとセルダン計画が勝利した。
 しかし、アシモフは、この終わり方に対して自ら「疑問」を持っていたのかも知れない。彼は、本書「ファウンデーションの彼方へ」で、この疑問を読者にぶつける。そして、第三の道を提示する。しかし、はたしてそれでよいのか、晩年のアシモフの苦悩は本書をもってはじまり、読者は、その苦悩の道を共に歩み、ファウンデーションとロボットの世界のつながりを、人類の行く末を、そして物語の再生と再構築を体験することになる。
 もちろん、読者のひとりとしての私もまた。
 もう、ロボットものだけを読んで楽しんでいた自分や銀河帝国三部作を読んで楽しんでいた自分には戻れないのだ。物語は書き手と読み手によって同じ文章であっても変化することを知らされる。
 しかし、それは必ずしも不幸なことではない。新しい解釈もまた「アシモフ的」であり、おもしろさでもあるのだ。
ヒューゴー賞
(2006.3.22)