アークエンジェル・プロトコル
ARCHANGEL PROTOCOL
ライダ・モアハウス
2001
アメリカ私立探偵作家クラブ賞受賞! バーン。ハヤカワSF文庫! ドーン。「大戦後の荒廃したニューヨーク。電脳空間に突如現れた天使たち。彼らの目的は!? もと敏腕刑事の美貌の女私立探偵がその謎を追う!」帯の釣り文句で、ガーン。
ということで、女性のハードボイルド・サスペンスSFを期待し、電脳空間と宗教とハードボイルドといえば、「重力が衰えるとき」(ジョージ・アレック・エフィンジャー)があったなあ、とか、女性の探偵でハードボイルドSFといえば、「ナイトサイド・シティ」(ローレンス・ワット=エヴァンズ)があったなあ、なんて思ってページをめくった。
お定まりの大戦後のアメリカ。お約束の人格移転するリンクでの存在と、それを絶たれた電脳空間の捜査官。しかも、この世界は、宗教世界と化していて、なんらかの一神教に属していなければ人並みの生活が保障されない状況で、自然科学は放逐され、テクノロジーのみが存在を許されている不思議な状況にあった。2076年、アメリカ大統領選は、グレイ律法博士(ラビ)上院議員と、ルトゥノー尊師(レヴァランド)上院議員との間で争われていた。ルトゥノー上院議員は、リンク上に現れたネット天使の支持を受けた第二のキリストであるとして大いなる支持を集め、リンク世界中心のアメリカ宗教国家への道を指し示す。前年に起きたローマ教皇訪米の際に起きた警官による教皇暗殺事件の影響も受けている。教皇を暗殺した警官とパートナーだったのが、主人公ディードリ。修道士を兄に持ち、女性のテロリスト指導者を幼なじみにする、今や家賃の支払いにも困る私立探偵である。リンクから物理的に遮断され、ロマンス小説を読みながら来るはずのない顧客を待つ女。リンク界ではファンサイトもたくさんある、ヴァチカンに破門された女。その女の前に、ひとりのハンサムな男が訪ねてきて、仕事を依頼する。「リンク天使が偽物であることをあばいて欲しい」と。なぜならば、彼こそが本物の天使なのだから。
そして、物語がはじまり、ディードリが望むまもなく、彼女の回りで世界が動き始めた。
最後まで読んで、気がついた。
しまった。
最初から、気がついて読めば別の読み方があったのに。
あとがきを読んでから、読めばよかったのか?
もっと素直に読めばよかったのか?
アメリカ私立探偵作家クラブ賞なんてついているから、結末のどんでん返しを想像して、うがった読み方をしてしまったではないか。
そりゃあね。「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(J・K・ローリング)が2001年のヒューゴー賞をとっているわけで、ファンタジーとSFの垣根が低くなっていることは気がついていたさ。サイバーパンク的なファンタジーがあってもおかしくないさ。
ただ、「アメリカ私立探偵作家クラブ賞」に、私が勝手にだまされていただけで、この「アークエンジェル・プロトコル」は、まさしくファンタジーなのであった。
アークエンジェル=大天使は、まさしく大天使であり、ネット天使が偽物であることをあばけと迫るのは当然、本物なのか偽物なのかはともかく天使的存在なのである。
まあ、ここでSF的であり、ハードボイルド小説的であるのだから、当然「天使」とはなんぞやみたいな迫り方もあるわけで、だからといって、やはり人間でないものが登場し、それが、「異星人」ではない「人間のようなもの」であれば、P・K・ディックの作品ようなシミュラクラでないとすれば、「天使」であってもおかしくはない。だいたい、ディックの名前を出したついでに書いておけば、ディックだって、「ヴァリス」三部作は、読み方によってはファンタジーである。宗教書としても読めるが。しかし、カテゴリーとしてはSFの扱いになっている。それに比べれば、っと、比べる必要はないが、本書は、れっきとしたファンタジーであり、SF的要素も、ハードボイルド小説的要素もたっぷりと仕込まれている。
最初から、SF&ハードボイルド小説要素たっぷりのファンタジーとして読めば、大正解である。
それを、「ファンタジーであるわけがない」という頭で読むから、最後の最後まで、「この天使のような存在は何者だろう?」と、非キリスト教、非一神教である私は、頭をひねりながら、そして途中からは「まさか、まさかね」と思いながら読む羽目になったのである。
ファンタジーならば、ファンタジーらしい楽しみ方はある。
ファンタジーといっても、たとえば、「ハリー・ポッター」シリーズを読めば分かるとおり、最近のファンタジーは、現代社会とは切り離された「おとぎ話」ではない。本書「アークエンジェル・プロトコル」も、現代社会のありようと密接に結びつき、ファンタジーの形で、その社会のいびつさと、そこで生きる人間のありようを描いている。本書のまじめな方のテーマは、「宗教」と現代社会である。遊んでいる方のテーマも、「宗教」と現代社会である。
今の宗教の形、関係性、人と人との関わりってこれでいいの? っていう空気が、本書を、非宗教の私でも読めるものにしている。ただ、これを、キリスト教が政治、経済社会の中心を占めているアメリカの人たちが読んだとき、どう思うかは、分からない。なぜなら、私が、その中心的宗教観を理解していないから。だから、本当のおもしろさは分からないのかも知れない。直接的に、「天使」や「神」や「預言者」や「悪魔」や「聖書」が出てくるから、その言葉の力を受け止めきれないのだ。
しかし、それを置いても、ファンタジーとしての本書は、異色であり、おもしろさがある。なんといっても、2075年という想像可能な近未来が設定されており、しかも、最終兵器による破壊された社会であり、電脳社会であり、その未来像は、サイバーパンク運動を読者として通過してきたものにとってはあたりまえのものだからだ。映画「マトリックス」同様のなじみ深くなってしまった未来像だからだ。
だからこそ、私は、「天使なんて」という罠にはまったのだが、最初から、ファンタジーだとの理解で、本書の設定を読めば、とてもおもしろい。
そんななじみ深い近未来像でのファンタジーである。魔法使いは出てこないが、その代わり、電脳の魔法使いはしっかりと出てくる。そして、魔法使い以上の存在である「天使」たちの魅力的なこと。「ハリー・ポッター」や、それ以前からのファンタジーで魔法使いも人間同様の存在に過ぎない位置までひきずりおろされたが、本書では天使を我々と近しい存在にしている。それでも、やはり天使は天使なのだが。
読み終わって、あとがきを読んで、本書が911以前に書かれ、発表されていたことを知る。そして、本書には、シリーズ作がその後書かれていることも。あとがきでも書かれていたが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という同じ神の系譜を持つ宗教が、911以降それまで以上に、具体的な人間の争いの源となっているなかで、本書のような宗教を平たく見る作品が書かれ、発表され、一定以上の評価が与えられていることに、アメリカ社会に含まれている健全さを見る思いもする。
いろんな読み方ができる「ファンタジー」である。
SFのカテゴリーに入れるのはどうかと思うが、SFとして読んでしまった以上、ここに掲載しておきたい。
余談だが、ハリー・ポッターシリーズは、これまでの全作を日本語と英語で読んでいる。「炎のゴブレット」がヒューゴー賞をとっていることで、いずれは少なくとも「炎のゴブレット」ぐらいは、ここで取り上げようかと思っていたので、本書「アークエンジェル・プロトコル」はいいさきがけになってくれたようだ。
(2006.10.27)