プラネットハザード 惑星探査員帰還せず
EXPENDABLE
ジェイムズ・アラン・ガードナー
1997
惑星探査員、別名消耗品扱い要員。先天的に外見に障害を持ち、たとえ失われても他の宇宙軍クルーが心に傷を深く負わず、忘れることができるとして治療可能な外見の障害をそのままにされ、高度な惑星探査のための訓練を幼少の頃から受けた特殊エリート集団。未探査惑星に乗り込み、調査および、知性生命体がいた場合のファーストコンタクトを行うため、彼らの帰還率はとても低い。故に消耗品扱い。
人類は宇宙に広がった。それは、先行する宇宙航行種属たちによる種属同盟の援助によるものであった。種属同盟は、疲弊したオールド・アースにかえてニュー・アースを用意し、そして、人類に宇宙航行技術を与えた。人類は競合する異星知的生命体たちと競いつつもたくさんの惑星に居を構えた。その先端にいるのが宇宙軍の惑星探査員である。
種属同盟は、すべての宇宙航行種属に対し、ある規制をかけている。それは、殺人のような知性生命体の生命に対し悪意を持って攻撃し、生命を奪う行為をする知性生命体は、その惑星から出ることを許さないというルールと、そのような知性生命体にあるまじき行為を行ったり、放置するような宇宙航行種属の存在を許さないというルールである。
だから、惑星探査員をはじめ、宇宙軍は常に慎重でなければならない。
恒星間歴で25世紀が過ぎていた。
顔に深いあざを持つフェスティナ・ラモスは、第一級惑星探査要員として宇宙艦ジャガランダに乗り込んでいた。
彼女と属官のヤーランは、長命措置が効かなくなり、ぼけはじめたチー提督とともに惑星メラクィンの探査を命じられる。惑星メラクィン…その存在は秘密にされていたが、惑星探査員はだれもが知っていた。地球そっくりの惑星でありながら、幾多の惑星探査員が派遣され、一組も帰ってはこない未調査状態のままの惑星であることを。
なぜ、そのような危険な惑星に提督を連れて行かなければならないのか?
これは事実上の追放なのか?
そうであれば、殺人と同様の知性生命体にあるまじき行為ではないのか。
それよりも、私、ことフェスティナ・ラモスは生き延びることができるのか?
ということで、未知の惑星メラクィンに降りざるを得なくなったフェスティナ・ラモスが一人称でお送りする冒険物語が本書「プラネットハザード 惑星探査員帰還せず」である。何が特徴かって、もちろん「一人称」である。もともと英米文学には一人称作品は少ない。しかも、未知の惑星に降り立ち、そこでの様々な事件や地球そっくりの惑星であることの謎解きなどを、語り手である主人公が、自ら大立ち回りをしつつこなさなければならないのである。大変だ。
一人称に慣れている日本の読者にとっては、スムーズに読める軽いストーリーである。
しかも、最後まで息を抜くことのできないどんでん返しの連続。オチだけはどことなくハリウッド映画風だけど、それを除くととても楽しく読める。
たとえば地球そっくりの惑星にいた、人間そっくりだけれどもガラスでできている現地人。
ガラスでできている裸の美人といえば、思い出すのは「銀河鉄道999」(松本零士)の「ガラスのクレア」である。頭の中を松本零士絵にして作品を読むとおもしろいかもしれない。宇宙船にはメーターがいっぱいついていたりして。
それはさておき、本書「プラネットハザード 惑星探査員帰還せず」は、純粋なエンターテイメントSFなのだが、その設定はなかなか骨太である。
「二世紀前、宇宙軍本部最高会議は、ある者の死がほかの者よりも艦隊の士気に大きな影響をおよぼすという事実を確認した。評判がよく人望があり、とりわけ肉体的に魅力のある者が命を落とした場合、同僚要員たちは、その死を深刻に受けとめた。そのため任務遂行率が三十パーセントほど落ちたのだ。(中略)だが、さほどの評判も人望もなく、とりわけ醜い人物が犠牲者となった場合、多少の支障は生じはしたものの、任務の遂行にたいした影響はなかった。(中略)いつからか惑星探査要員部隊は、明るい目をした健康的な要員ではなく、いうならばあまり写真うつりのよくない者たちで編成されるようになったのだ」(13ページ)
美人コンテストがあり、雑誌のグラビアには美人が写り、美の基準が(時代的な変化はあれど)共通認識としてもたれている、ということは、その逆もあるということである。しかし、そのことは語られることはあまりない。それを語ることは、そういう人を傷つけることになるに「違いなく」、だから「タブー」であり、だったら最初から「語らない」という選択をして、なかったことにしよう。と、してしまう。しかし、その風潮こそが、陰湿な価値観や差別的思想を生むことにつながる。
本作品は一人称にすることで、この語られない違和感を克服し、すっきりした読後感を与えてくれる。
(2007.05.31)