デューン 砂漠の救世主

デューン 砂漠の救世主
DUNE MESSIAH
フランク・ハーバート
1969
「デューン」シリーズの初期3部作第2作目である。前作を読んでいない人には申し訳ないが、前作の結末を最初に書くことになる。とはいえ、本シリーズは結末が分かっているからと言って魅力が損なわれるものではない。その点は、「伝記小説」に似たところがある。豊臣秀吉が天下を取り、やがて徳川家康が長い徳川時代を迎えることを知っていても、人は豊臣秀吉の物語を読む。
 もちろん、デューンは空想小説であり、すべての人が結論を知るわけではない。知らずにいる方がより楽しいだろう。そういう人は、ここから先を読まないで欲しい。
 まあ、想像はつくだろうが。
 前作より12年が過ぎた。ムアドディブは皇帝として惑星アラキスから既知宇宙を統治していた。その過酷な統治は、フレーメンを世界中に送り込み、暴力と信仰と、そして既知宇宙に欠かせない長寿薬である香料メランジの供給によって行われていた。ムアドディブはアトレイデ家の正義と公正を失ったのか? そして、ベネ・ゲゼリットから「忌まわしき者」と呼ばれれる妹のエイリアは何を考えているのか? ポウルを助けるために死んだはずのダンカン・アイダホのクローン(ゴーラ)が登場し、フレーメンのスティルガーは実態としての首相となる。変わりゆく役割、変わりゆく世界、変わりゆく人たち。陰謀の中の陰謀。ポウルは自らが見つめ、動かし始めた「未来」に縛られ、その細い道に揺らぎ続ける。未来の希望を、彼は誰にゆだねるのか…。
 前作「砂の惑星」で、主人公のポウル・アトレイデは、砂漠の民フレーメンの信仰と希望を自らが引き受けた。父の公爵レトを殺し、アトレイデ家を失墜させたハルコンネン家とコリノ家をフレーメンとともに打ち砕き、自らを皇帝の地位につけ、フレーメンの未来を約束した。
 皇帝という地位は、あらゆるものを引きつける。野望、欲望、策略、謀略、嫉妬、倦怠、妥協…。ポウルはすべてを知り、そして道だけをみつめた。人類が続くための唯一の道。しかし、それはポウルには苦痛であり、抱えるにはつらい道でもあった。
 大人になったポウル。大人になるというのは大変なことなのだなあ。
 予知がなくても、皇帝でなくても、大人になるというのは大変なことなのだ。
 生きていくことは大変なことなのだ。
 でも、そこには現在でしかあり得ない喜びがある。それが生きていくことだったりする。
 たとえ、めしいても、裏切られても、今には必ず喜びがある。
 それにしても、よくよく読むと、フランク・ハーバートが描くデューンの世界に登場する人たちはすごく変である。服装が奇抜、態度が変。どこかおどろおどろしさがつきまとう。前作では、ハルコンネン男爵という暴力に満ちた変態男色サディストが際立っていたから感じなかったのだが、本作ではそういう意味での「敵」がいないだけに、全員の変さ加減が気になってくる。一番態度や行動が普通なのは、ポウルの妻のチャニではなかろうか。ということは、チャニを基点として本作「砂漠の救世主」を読めばいいのかな。ポウルが救世主であるとしたら、ポウルの救世主はチャニだということだ。
 ポウルの喜びは、ひとえにチャニだったのだろう。
 そういう物語だと思えば、救いがある。
 そして、物語はいよいよ「砂丘の子供たち」へ続くことになる。
(2009.8.2)