無限記憶
AXIS
ロバート・チャールズ・ウィルスン
2007
「時間封鎖」の続編である「無限記憶」。前作から30年が過ぎた…。幼い頃、「新世界」でともに暮らした研究者の父が失踪した。少女は母に連れられ「旧世界」に戻っていたが、やがて結婚して「新世界」へ戻る。夫とのすれちがい、そして、父の失踪の真実を知りたいという願い。彼女の行動は、ひとりの男との出会いを生む。混沌とした「新世界」でフリーランスのパイロットをしている男。女と男は、ちょっとしたアクシデントで恋に落ち、やがて事件に巻き込まれていく。そして、ふたりは世界の真実を探す旅に出る。
人類が発見した、いや、人類に与えられた「新世界」は、変化の時を迎えていた。突然の砂嵐の細かな砂は、まるで微少機械の部品のような様々な形をしていた。砂の中から一時的に表れる異形の「花」や「虫」は何を意味するのか?
「新世界」で生まれた一人の少年は、どこかで、誰かが呼ぶ声に悩まされていた。それは砂嵐以降に彼をますます頻繁に呼ぶ。その少年の周りに子どもはおらず、いるのは大人の研究者ばかり。そして、彼らは少年の一挙手一投足に神経を尖らせる。そこに、ひとりの女が訪ねてきた。彼女は「火星」で生まれ育った老女である。彼女と少年こそ、世界の真実を解き明かす鍵であった。
彼らと、彼らをとりまく人たちに、探求への喜びはない。
生命が生命であることを大切にしたいだけだから。
うーん、おもしろい。
第1作の「時間封鎖」ほどではないが、いろんなSFのオマージュが込められている。
そして、21世紀的な作品である。
世界にとって何が大切なことなのか? 思考と記憶と行動のどれが大切なのか?
宇宙にとっての生命とは、見るとは、知るとは、記憶する、とは。
自己とは、他者とは。
いずれも、古典的な哲学、宗教が問い続けてきた命題であり、同時に科学が追究してきた課題である。科学の追究の先に収斂してきた課題といってもいい。
本書「無限記憶」を読みながら、アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(TV版)を思い出していた。グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」のアイディアをふくらませ、少年の記憶と行動の、自己と他者の物語として描いた作品だが、本「無限記憶」は、とても良く似ている。どこが…と聞かれると、ネタバレになるので書きにくいのだが、以下にネタバレを承知で書く。申し訳ない。未読の方は、まず「時間封鎖」「無限記憶」を読んでからにして欲しい。また、「交響詩篇エウレカセブン」のネタバレも含むので、未見の方は、こちらもご容赦願いたい。
アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(以下、エウレカセブン)と、本書「無限記憶」は、いずれも人知を超えた「存在」と人類の関係性を描く。「存在」は人類にとっての世界であり、「存在」に人類の生存やあり方が規定されている。「存在」には認識能力や記憶能力があると見られるが、人類にとって理解可能なコミュニケーションはとれていない。故に人類は「存在」を、「敵」と見なし、あるいは「神のような存在」と見なす。「善悪」を憶測し、人類の理解可能な領域に入れようとする。しかし、人類には理解不能である。
「存在」は高い能力を示し、世界に様々な姿を顕在化させる。それが、「存在」そのものなのか、ただの「道具」や「表現」なのかは分からないが、人類にとって認識可能だが理解不能な「生きもの」や「物体」などとして現れる。
人類の一部は、「存在」とコミュニケーションを図ろうとする。また、「存在」も時に人類と関わりを持とうとしているのではないかと考えられる行動を行う。
エウレカセブンでは、少女エウレカを存在が送り出した「メッセンジャー」として語り、エウレカが心に(記憶として)書き込む感情を含む情報を求める。
本書「無限記憶」では、このエウレカと逆の役割、すなわち、存在へ人類が送り出す「メッセンジャー」が生み出される。エウレカの場合と同様に、メッセンジャーは、メッセンジャーと知的生命体として心を通わせる者と親しくなり、情報を密に交わす。それが物語となり、物語をつくる。
私たちの行為は、思惟は、世界に書き込まれ、世界の記憶となる。しかし、すべてが記憶されるわけではないのか? 記憶は、記録する者がいてはじめて記憶となるのか?
私は、あなたは、過去、現在、未来を通じて記憶されているのだろうか?
誰の、何の記憶になるのだろうか?
かつて、それは神の役割であった。
神は死んだのだろうか?
21世紀の神は、機械の神、または、異形の神なのであろうか?
うーん、私の頭ではぐるぐるするだけだ。
一流のエンターテイメントであることだけは間違いない。必読。
(2009.08.20)