高い城の男(再)

高い城の男
THE MAN IN THE HIGH CASTLE
フィリップ・K・ディック
1962
 2007年に再読して、詳細なあらすじや感想を書いていた。
http://www.inawara.com/SF/H291.html
 読み直した理由はたったひとつ。「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス 2016)を読んだから。21世紀の「高い城の男」と評され、日本とドイツの枢軸国側がアメリカなど連合国側に勝利した、「日本の占領下にあるアメリカ」を描いた作品である。「高い城の男」の舞台は1962年。一方の「USJ」は1988年。それだけでも、ずいぶんと違う。「高い城の男」の世界は、戦後の成長が起きなかったアメリカであり、「USJ」の世界はものすごく経済と科学技術の成長があり、そして退廃的だ。
「USJ」はどちらかといえば、「ブレードランナー」に親和性がある。
 しかし、「高い城の男」を再読して思った。たしかに、同じところがある。主題は同じなのかも知れない。
「高い城の男」をその設定やディックならではの世界の真実性と虚構性の混在をはぎとってみれば、そこには「人の救済」が描かれている。誰かが誰かのために救済するのではなく、誰かのちょっとした意図しない善意がそれを受ける人にまったく伝わることなく誰かを救済しているのだ。それは「高い城の男」で描かれ、「USJ」でも描かれている。ディックの作品ではよく描かれている。この「意図しない善意」を分かりやすく「本意ではないが意図をもって行った行為が善意であり救済になる」形で描いたのが「ブレードランナー」という作品であった。
 ディックは「救済」についてずっと考えていたのだと思う。誰かを救おうとして行った行為ではなく、「救済」はどこにでもころがっていて、それは、誰かのなんとなくの「善意」であったり「行為」であったりするのだ。
「高い城の男」では、終わりの方でいくつかの殺人が起きる。そして、殺人をきっかけとした「救済」が起きる。殺した人は罪の意識をもったりもたなかったりするが、殺人がきっかけとなって、一見無関係な人が救済される。ディックらしい書きぶりである。
 2007年に感想を書いたとき、いまよりももしかすると賢かった私は、こう書いている。
—幾人かの登場人物がそれぞれの価値観から、「徳を積む」としかいいようのない行為をしていることに注目したい。人種でもなく、身分でもなく、地位でもなく、ただ人間としてできうる自分のためだけでない行為をするのだ。それがまがいものの世界に住んでいることを自覚していたディックが終生持ち続けた希望である—
 今回読み直していて、この「徳を積む」行為は、意図的でなかったのかもと思えてきた。意図的でなくても、徳を積むことはできるのだ。そして、それは「よく生きたい」という思いがあればこそなのだ。なんとむつかしいことだろう。でもディックはあきらめるな、と言う。
(2019.10)