ひとりっ子(再)

ひとりっ子(再)
SINGLETON AND OTHER STORIS

グレッグ・イーガン
2006

 日本オリジナル短編集第3集。主なテーマは、「魂」だ。宗教的な意味ではなく、人間が自らを自らと認識する核のようなもの。アニメ「攻殻機動隊」でいうところの「ゴースト」。魂は存在するのか、魂はコピーできるのか、魂は肉体を離れられるのか?この短編集に集められた作品の多くが、そのことを模索する。
 ただ、ひとつの作品だけは異質であり、しかし、とても大切な作品。とりわけ、「シルトの梯子」を読んで、頭をうんうんうならせ、「おもしろいし傑作だけど、なんかよくわかんなかった」という私のような者には最高のプレゼントとなったのが「ルミナス」。「シルトの梯子」とは状況も時代も設定もストーリー展開も違い、近未来の地球で、ちょっとサスペンス的な展開だが、基本的なアイディアは同じ(だと思う)。短編でストーリー重視なだけに、とても分かりやすい。これを読んでから「シルトの梯子」を読むと、まごつきが減るだろう。いや、実際私は、本書「ひとりっ子」を読んでから数年経って「シルトの梯子」を読んだのだが、「ルミナス」の内容はまったく忘却の彼方にあったのだ。今回、イーガンを読み直してよかったと思えた作品でもある。

 では、それ以外の作品。

 愛する人を殺した犯人が刑期を終えて釈放された。復讐をとげるため男が選んだのはインプラントによる行動変容。迷うことなく殺すために必要な頭の回路を生み出すためのインプラント、すなわち「行動原理」。

 愛し合っている二人、でもときどき、相手の言葉にその愛を疑う瞬間がよぎる。再婚同士で、もしかしたら、この愛は永遠ではないのかも知れない。でも、間違いなく、いま、この瞬間はお互い愛しているはず。であれば、この愛を永遠にしても良いのではないか? ふたりは同じナノマシンで自らの脳をロックすることに決めた「真心」。

 強盗して手に入れたアイパッチはブラックマーケットに出回る高性能なバイオフィード装置。その装置の目的や意図は分からないまでも、その装置の魅力にとりつかれる。頭の中で、言葉が、音が、映像が、意味が、意志が再構成されていく。私が決めたから私は読書評を書く。手を動かす、キーボードを打つ、意味のないキーボードの音がする、画面には文字が文章となって形成されていく。その文字も文章も手から記録されていく。頭の中で文字を、文章を、書けとささやく。その私こそが私の「決断者」。

 ここにもまた別の愛し合う二人。ふたりはすでに「宝石」に移行していた。イーガンの作品によく出てくる宝石。生まれたときから脳と結束され、やがて宝石が完全に脳と一致したシステムをくみ上げたところで、自分の(脳の)意志によって宝石への脳機能のスイッチが行なわれる。そうして不死の存在となる。肉体はそのままでも、自らのクローン体でも構わない。ふたりは同じものを見、同じものを食べ、共有し、共感し、互いに互いを深く知り合っていく。より深く理解しあうため、ふたりはそれぞれのクローン肉体に、互い違いに宝石を入れて順応させる。男は女に、女は男に。やがてそれに飽き足らず、男の肉体を2つ用意して、どちらも彼として過ごす。同様に、どちらも彼女として過ごす。
 そして、最後には究極の同一のふたりをためす「ふたりの距離」。

 イーガンにしてはめずらしいタイムトリップもの。ゲーデル、ポランニー、それから、あの人やあの人も登場するのだけど、テーマの中には、量子論と多元宇宙論が含まれていて、それは次の「ひとりっ子」で深く語られる。科学史の素養があったほうが楽しめるのだろうけれど、ちょっと雑に読んでしまった「オラクル」。

 そして表題作「ひとりっ子」。
 愛し合う二人。しかし、子どもは流産してしまう。治療をして新たに子をもうけるか、養子をとるか、それとも。多元宇宙論に確信を持つと、すべての選択は存在していることになる。どの選択もどこかの宇宙で選ばれ、選ばれない。世界は選択のたびに分岐していく。それはとても悲しいことだと男は思った。では、選択を明示させず、選択そのものは世界と関わりを持たせないシステムはできないか?ただひとつの計算結果が世界の分岐をもたらせない量子論にもとづく計算装置、選択装置。「クァスプ」。それを人工知能アンドロイドに組み込むことができれば、それ/彼/彼女/彼人は分岐した多元世界でも分岐をもたらさないたったひとつの存在になるだろう。そうして、クァスプをもったアンドロイドの子を迎える選択をしたふたり。その行く末には。
 実はこの「ひとりっ子」や「オラクル」でもまた、「ゴースト」と「決断」と「分岐」が語られ、知的活動、感情、行動と世界が語られる。

 イーガンの作品を通して、私は自分が見て、聞いて、感じて、体験して、考えているものごとと、自分と、自分が思っている世界と、本当は「触れられない」世界のありよう、世界と自分の関わり、その間にあるものについて様々な階層で考えることになる。
 この感情は、外部からの情報によってもたらされたものなのか、私という肉体の中の電気的、化学的、あるいはそれ以外の作用なのか。この思考や決断はどのようにして起きたのか、知識はどこから。どのように。それは自分が何かを決断するための道具になるのか?
 私はイーガンのように数学という体系を内に持っていないので、とてもあいまいなまに生きている。そんな茫漠とした肉体と精神を持つ私でも、イーガンの作品を通して、そこにある自分の内側から時空の果てまでの様々な階層、レイヤーを感じ取ることができる。それが、難しくても、分からないところがあっても、イーガンを読んでいる理由かも知れない。

(2021.08.28)